2024年4月26日金曜日

本物の読書家

本物の読書家/乗代雄介

 Kindleのセールで買って積んであったのを読んだ。これまで著者の作品を何冊か読んでいるが、その中でも最も読むことが難しい一冊だった。タイトルにあるように「本物の読書家なのか?」と試されているのかもしれない。キャリア2作目ということで、その後のスタイルの萌芽を目撃できるという点では読んでよかった。

 「本物の読書家」「未熟な同感者」の2つの中編が収録されている。タイトル作である前者は読み終わった今となっては後者に比べてかなり読みやすく、そしてエンタメ性があった。叔父に付き添って電車で老人ホームまで向かう電車の道中で起こる文学与太話。隣の席に座る見ず知らずの文学おじさん、叔父、主人公がお互いの腹を探り合う様は探偵ものを読んでいるような感覚だった。特に見ず知らずのおじさんが関西弁で真相を突き詰めようと迫ってくる様は名探偵コナンの服部を彷彿とさせ懐かしい気持ちになった。川端康成のゴーストライターが叔父だったのでは?というのが大きなテーマなのだが、そこに至るまでの良い意味でのまわりくどさは著者の特徴と言える。エンタメとして最適化するときに切り落とされる日常、生活の空気のようなものが拾い救われているのを読むと心がフッと軽くなる。合わせて文学論も語られているのだがナボコフの以下引用がグッときた。

文学は、狼がきた、狼がきたと叫びながら、少年がすぐうしろを一匹の大きな灰色の狼に追われて、ネアンデルタールの谷間から飛び出してきた日に生まれたのではない。文学は、狼がきた、狼がきたと叫びながら、少年が走ってきたが、そのうしろには狼なんかいなかったという、その日に生まれたのである。その哀れな少年が、あまりしばしば噓をつくので、とうとう本物の獣に喰われてしまったというのは、まったくの偶然にすぎない。しかし、ここに大切なことがあるのだ。途轍もなく丈高い草の蔭にいる狼と、途轍もないホラ話に出てくる狼とのあいだには、ちらちらと光ゆらめく仲介者がいるのだ。この仲介者、このプリズムこそ、文学芸術にほかならない。

 後者である「未熟な同感者」は大学の文学論のゼミの講義内容、サリンジャーの小説、そしてゼミに参加するメンバーの様子が入り乱れて描かれる複雑な小説で正直かなり読みにくかった。読み進めることはできるものの目が滑りまくって何を読んでいるのか分からなくなる瞬間が何度もあった。現実パートも著者のフェティッシュを感じさせる内容に今のスタイルと共通する点を見出しつつも荒削りのように感じた。こんな風に感じる私は未熟な同感者なのだろう。本物の読書家への道のりは険しいのであった…

2024年4月23日火曜日

音楽と生命

音楽と生命/坂本龍一、福岡伸一

 先日NHKで放送された坂本龍一のドキュメンタリーが信じられないほど心に刺さってしまい今更ながら著書を追いかけようということで読んだ。対談相手の福岡伸一の受け身のうまさもあいまって極上の対談となっていて興味深かった。

 2017年に放送された番組での対談内容に加えてコロナ禍真っ只中である2020年の対談が追加された構成となっている。対談の文字起こしなのでラジオを脳内再生しているように読めるのが特徴的で難しい話も入ってきやすい。まず驚いたのは坂本龍一が学者である福岡伸一とこれだけ会話をスイングできること。彼が単なる一音楽家にとどまらないことは晩年の社会にコミットする活動などから知ってはいたが、その背景に膨大な知識と思慮深さがあることが本著から伺い知れる。当然それを引き出しているのは福岡伸一だとも言えて2人の相性が本当に素晴らしく会話がずっとスイングしているので、いくらでも読みたかった。特に生物学と音楽の対比、アナロジーの展開が見事。ひたすら点と点が線で繋がっていくオモシロさが多分にあった。しかし続編はもう叶わぬ夢となってしまったことが悲しい。坂本龍一が死について直接言及しているラインはドキュメンタリーで壮絶な最後を見たばかりなので沁みた。生命は利他的であるべきであるが、利己的な生きることへの執着も捨てがたい。結局は諸行無常でしかないことを痛感させられた。

 対談の一番大枠を捉えればロゴス(論理)とピュシス(自然)になるだろう。シンセサイザーを使って音楽をロゴスで捉えた音楽家とDNA解析という論理で名を挙げた学者。この2人が自然回帰の重要性を説いている点が興味深い。ロゴスの山の頂に登ったからこそ見える景色があるというのは本当のプロだけが言える言葉であり、その辺のロハス風情が説く印象論レベルのSDGs与太話とは納得度が雲泥の差であった。AIの台頭もあいまってさらに世界はロゴスにより加速度的に支配されつつあり、そこから逸脱したものを忌避する傾向さえある。そんな状況下ではロゴスからはみ出すことに魅力があり、さらにピュシスと真摯に向き合えればなおよしだと受け取った。

 本著を読んで坂本龍一のカタログをよく聞くようになったのだけど、なかでも対談当時にリリースされた『async』の解像度がかなり上がった。このアルバムは坂本龍一の音に対するアプローチが表現されており音だけ聞くよりもその背景、思想を踏まえて聞くと全く違う風に聞こえる。音楽は奥深い。また坂本龍一がヒップホップに対してサンプリング許可を寛大に与えていたのはヒップホップの非論理性に惹かれていたからなのかと夢想した。次は最後の日々が綴られているという『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』を読む。

2024年4月18日木曜日

TRIP TRAP

TRIP TRAP/金原ひとみ

 最後の音楽:|| ヒップホップ対話篇という本で菊地成孔氏が紹介していて気になったので読んだ。著者の小説は昔は熱心に読んでいたが久しぶりに読むと自分が歳をとったこともあり理解できる感情が多く楽しめた。

 短編が6作収録されており主人公はいずれも女性かつ一人称。タイトルどおり国内外問わず旅行に行ったときの感情の機微が丁寧に描写されている。こないだエッセイを読んだ際にも感じたが日常における小さな違和感を見つける観察力とそれに対してぶわーっと感情が溢れだしていく文章の連なりがユニーク。引き算して行間で魅せるというより足し算でゴリ押しスタイルなので活字中毒者には心地よくグイグイ読んだ。

 菊地氏が紹介していた「沼津」や「女の過程」といった短編はヤンキーの生息する社会が文学という形で表現されている稀有な例であった。氏が言う通り濃厚なヒップホップの匂いがそこにある。著者自身の出自もあいまって「中卒の言葉にやられちまいな」というAnarchyのラインを引用したくなる。

 1つ目の短編から家出というトリッキーな旅行から始まるあたりに一筋縄ではいかない著者を垣間見た。短編はいずれも直接はつながっていないが、中学生、高校生から妻、母と読み進めるにつれて主人公のライフステージは変化していく。登場人物の名前も一部重複しているので、一つの世界線として読むこともできるだろう。その観点でみると若い頃はとにかく異性に依存していたい気持ちが悪びれることなく全面に表現されているが、子どもを持つ主人公になると破綻してくる。異性に依存する側から子どもから依存される側への移行に伴う心情描写がかなり正直だった。特に男性が育児に関わらないことで女性が育児に「トラップ」され自己犠牲を極端に強いられることに対して懐疑的であり「育児も当然大事だが自分の人生が押し潰されるなんておかしい」という主張が2009年時点で放たれている点がかっこいい。タバコを吸いながら泣いている子どもが乗ったベビーカーを押しているシーンがその際たる例で小説だからこそできる表現だろう。未読の作品がまだまだあるので時間見つけて他の作品も読みたい。

2024年4月17日水曜日

女たちが語る阪神・淡路大震災

女たちが語る阪神・淡路大震災

 1003 という書店で「Women's Reading March 2024」という特集が組まれており、その特典ペーパーを眺めていたときに知って読んだ。自分自身は当時モロに被災して大阪に引っ越したりしたのだが、小学1年生だったため記憶も曖昧、そんなに辛かった記憶もない。(子どもにとっては非日常が一種のエンタメになっていたのかもしれない)そんな断片的な記憶の中で本著を読むと色々と思い出すことがあった。ただそれよりも知らなかった事実に驚くことが多く当時からの課題が今でも解決されていないことに遠い目にもなった。我々はあまりにも忘れやすいのかもしれない。ゆえにこういった証言集がいかに貴重なものかを理解できた。

 ウィメンズネット・こうべという現在はNPO法人の団体が編集した本著は、震災から1年で発行された震災に関する市井の女性たちの体験エッセイ集となっている。ほとんどすべての証言が女性によるもので震災当時の生の声が克明に記録されており、その過酷さを肌で感じることができる。今でこそSNSがあり各人の体験がシェアされやすい環境ではあるが、当時はマスメディアしかなくこういった経験を共有できる機会は少なかったことが読んでいるとわかる。そんな環境においてウィメンズネット・こうべのような団体は連帯を生み出す装置として機能しており今よりもその存在は重要な意味を持っていただろう。そしてこういった数々の証言を書籍として後世に語り継ぐ志の高さに脱帽する。ネットの海に溺れない紙という媒体の強みを感じるし、200ページ強のボリュームで800円というのは利益どうのこうのではない宣言そのものだ。

 後年、家族と震災について話した際に辛かった経験として挙がっていたのは被害の大きさのギャップだった。直下型地震だったため神戸市や長田市の被害は甚大なものだったが、例えば大阪まで出れば、そこまで大きな被害はなく変哲のない日常がそこにはあった。本著でもそのギャップに苦しんでいた話が載っている。移動して忘れたい人もいれば、その場にステイして忘れられない人もいて、そのグラデーションを生の声で知ることができて興味深かった。

 震災時に女性がいかに大変であるか?さらに別のマイノリティ属性も加わることでさらに困窮してしまう事例がたくさん掲載されている。特に高齢の女性が古い文化住宅に住んでいるケースで死者がたくさん発生したという話は辛いものがあった。マイノリティが災害時に直面する課題は今でも未解決なままのものもあるだろう。災害大国にも関わらず知見が横展開されないまま放置されていることは虚しい。自然災害のインパクトの大きさからマイノリティに対する配慮が極端に少なくなってしまい、それを自助という形で家族に内包させて行政がタッチせず問題がないかのように振る舞うのは愚策としかいいようがない。こういったことが罷り通るのは家父長制を念頭にした家族観がベースにある。最近の共同親権の法律然り思想の問題を放置していると結局それは法律にも反映されてしまう。おかしいことにはおかしいと声をあげる勇気を本著からはもらえる。

 サラリーマンとして一番驚いたのは単身赴任している夫が被災地に帰って来ず妻が1人で家を切り盛りしていたケースがあったということ。今では正直想像つかない。猛烈サラリーマンとして会社に奉仕することが95年時点でも一般的だったのかと思うと約30年かけて少しは前には進んでいると言えるだろうか。性別による役割負担の風潮はまだまだ根強い状況ではあるので、こういった本を読むことで自分の認識を改めていきたい。

2024年4月13日土曜日

コーヒーの科学

コーヒーの科学/旦部幸博

 本屋をぶらぶらしていたときに目に入って買った。ブルーバックスの本を読むのは初めてで知的好奇心を読書で満たす、一端の大人になったのだなと思う。それはともかく毎日コーヒーをドリップして飲んでいる立場からすると興味深い話の連続でますますコーヒーのことが好きになれた。

 著者は大学の先生で微生物学、遺伝学を専門にしている方。科学的な視点からコーヒーを捉え直す一冊となっている。科学的というのは文字通りで、物理学、化学、生物学、さらには歴史学まであらゆる観点からコーヒーを考察している。大学の先生とはいえ、この知識の総動員っぷりは総合格闘技でいえば寝てよし、立ってよしのトータルファイターさながらである。私たち消費者がコーヒーを飲むまでの経路に合わせた構成になっている点が分かりやすくて良い。世の中には「どうやったら美味しいコーヒーを飲めるか」というハウツー本はたくさんあるが、コーヒーに関する知識を体系的に獲得する観点でいえば本著に勝るものはないだろう。そのくらい圧倒的な情報量であり、なかでも焙煎する前のコーヒー豆としての生物学的情報が充実している。のちに焙煎のチャプターで豆の形状の話が登場し知識の裏付けが実践に活きることの証左となっている。そこが単純な学術書とは異なっておりブルーバックスシリーズの醍醐味なのだろう。

 日々のコーヒー生活への還元でいうと個人的に一番大きかったのは豆の選定時の情報量が増えたことだ。これまでは産地と焙煎でなんとなく買ってたけど、さらに豆の種類、精製方法が加わりさらにコーヒーを楽しめそう。また毎日ペーパードリップで抽出しているのだけども、それはカラムによる成分抽出と同等であるという論点は化学専攻の身としてグッとくるものがあった。一定の味にするためルーティン化しがちな作業だが今回知った理論を念頭におきつつ色んなスタイルを試してみたい。

 コーヒーのおいしさを科学的なアプローチで解析していくあたりが個人的にはハイライトだった。コーヒーに含まれる物質解析から有機化学のアプローチで香りを含めて解析するアプローチは想像がついたものの、口の中でのコーヒーの液体としての物理化学的な動態、分子の挙動が味に対してインパクトを持っていることは目から鱗だった。その同じようなアプローチで焙煎、抽出も再考されておりハウツー本でバリスタなどが提案している手法の裏付けをガンガン取っていくところに知的好奇心が大きく満たされた。

 コーヒーという飲み物の複雑さと人間の生物学的な複雑さがかけ合わさっいるので未解明なことはまだまだたくさんある。それは特に健康面での影響が顕著である。コーヒーは良い方向にも悪い方向にも喧伝されるが本著ではそこも慎重かつ冷静に科学的なアプローチで解説してくれており信頼できる。コーヒー道は奥が深いので、本著で得た知識を念頭におきつつ精進していきたい。

Go-AheadZ Day 2 雑感

 コロナ明け以降、韓国ヒップホップのアーティストのライブを見れる機会が増えて、ついにフェスが開催されると聞いて足を運んだ。日本と韓国のヒップホップのトップどころのアーティストを一度に召喚するスタイルで両方ともガチで追っている身からすると最高のフェスだった。ただ需要はあるのかという一抹の不安が…ストリーミング世代の若い人は垣根なく聞いているとはいえ、これでどれだけお客さんが集まるのか。市場はどんなもんだい?というスケベ心を携えつつ会場に向かった。

 朝から参加できる体力もないので、午後から参加。幕張メッセのフェスでの客入りがどの程度が適正か預かり知らないが正直かんばしくない感じだったかなと思う。見る側としてはめちゃ快適だったけども演者側は苦労したかもしれない。ヤンキーの男性がたくさん、あとはKポップ勢の女性がいてとにかく皆若い。自分の加齢をひしひしと感じつつJay Park御大のWONSOJUのソーダ割りをひたすら飲みまくっていた。

 日韓のアーティストを交互に組むタイムテーブルで人の好みが細分化した時代に未知なものを楽しめる人がどれだけいるのかと勘繰っていていた。しかしそれは杞憂であり若い人たちは柔軟で客層はそこまで入れ替わることなく盛り上がっていた。韓国勢はボーカルの被せなしのストロングスタイルが基本でお客さんを盛り上げるライブ力、エンタメ力がかなり高い。Changmoは圧倒的なラップと歌の力でひたすら歌い続ける力強いパフォーマンスだったし、Lee Young-jiはSMTMで優勝した理由がよく理解できた。音源とライブの乖離のなさに加えてステージングが相当完成されていた。そしてDynamic Duoはベテランの立ち振る舞いでぶち上げまくり。DJをフィーチャーしたオールドスクールなスタイルかつラップは超タイトだった。特にGaekoはラップがクソ上手いの知ってたけど歌も死ぬほど上手くて完全にGOAT。pH-1もSprayを連れて先輩のスタイルを継承するかのようでアツかった。最新アルバムの曲多めなのも個人的には嬉しかったところ。

 日本勢だとralphのライブは異次元で古参うるさ型日本語ラップクソオタクリスナー全員をkillするクオリティだった。あとはKaneeeの華。ヒップホップの枠とか関係なくスターになる人だと見た瞬間に思うレベル。こういう才能がヒップホップに集っていることが今のシーンの豊かさに繋がっているのことを痛感した。舐達麻のライブを見れたことも大きなトピックだった。Beef以降ライブを結構キャンセルしてる中で見れたのは貴重な機会であった。彼らの曲は比較的内省的であり文学のような曲なので、デカい会場で皆で聴くのにはあんまり向いていないのかもしれない。一番人が集まっていたけど、皆がカメラを構えて何か起こるのを待つみたいな空気だった。例の曲はやらなかったので、もうBeefも終焉だろうか。¥Bは時間の都合で見れず無念…

 ざっくばらんだけど、韓国ヒップホップ好きとしてはかなり楽しめたし合間で現行の日本のヒップホップ最前線も見れたしでお買い得ではあった。もし今度やるなら、もっとアーティスト同士の交流が進み有機的なコラボが実現するケースが増えてから開催して欲しい。(この点についてPop Yoursはかなり意識的に取り組んでいる)この日も会場でDJ CHARIが”GOKU VIBES”を流していたが、あの曲は日韓コラボの一つのメルマークとして機能するはずが、あまりにヒットしたがゆえにそういった語られ方が無くなってしまった。Elle以降のバースはないものになっている場面を多く見る。またコラボという観点では日本のヒップホップの外交官であるJP THE WAVYを呼んでSik-K、Kid Milliを呼ぶという選択肢もあったはず。

 直近あったデカ案件でいえば、ASHISLANDとちゃんみな、IOとGRAYなどがあるが、ビジネス案件に見えてしまってそこまで乗れない。ちょうどいい塩梅を模索していけば、もしかすると1曲で何かゲームチェンジが起こるかもしれない。実際オーバーグラウンドではBIMがGRAY、Coogieとのセッションを公言していたり、socodomoの次のアルバムにLEXが参加している模様だし。アンダーグラウンドではTade Dustがドリル勢と交流しているし、NSW YOONがなぜか和歌山勢と急接近していたり。だから何かが起こる予感はある。その前夜のフェスとしては悪くなかったはず。日韓のヒップホップの未来は暗くない。

2024年4月8日月曜日

波打ちぎわの物を探しに

波打ちぎわの物を探しに/ 三科輝起

 鋭すぎるかつ超絶新鮮な視点で雑貨をとらえた『すべての雑貨』『雑貨の終わり』を書いた著者による新作ということで読んだ。あいかわらず鋭い視点のオンパレードで読む手が止まらなかった。過去二作に比べると皮肉成分が減少している印象で比較的優しい物言いが多かった。日々なんとなくやり過ごしている、見過ごしていることの言語化が本当に見事すぎて読む前後で世界の見え方が変わる最高な読書体験だった。

 雑誌の連載と書き下ろしで構成されており雑貨を起点として色々な事象について考察したエッセイが収載されている。冒頭から模倣とプレイというテーマで始まり、最近モヤモヤしていたことがスパッと表現されており膝を打った。模倣自体に嫌悪は感じないが、その模倣の先で「プレイ」や「〇〇ごっこ」となってしまった途端にチープに見えてしまう。こういった塩梅の難しいラインの話がたくさん載っているからたまらない。キーワードとしては断片化がある。テクノロジーの進歩により、あらゆるものが断片化された状況において文脈は存在せず、そして必要もされなくなってくる。断片化されたものは「雑貨」「クリエイター」などといった一つの言葉に集約されていく。その状況を憂うというよりも冷静に見つめている。全体に抑制されたトーンである点が特徴的だった。

 メルカリがもたらした所有の感覚の変化もめちゃくちゃよく分かる内容だった。自分の周りのものを売れるかどうかでジャッジしたり買うときにメルカリのことを想起する。つまり「メルカリで買えば安く買えるか?」もしくは「ここで買ってメルカリでリセールできるか?」といったことが無意識に頭をよぎっている。持っているようで持っていないという所有のアンビバレンスを指摘されたことで意識するようになった。あとメディア論もあり、ピンチョンの豊かな想像力と陰謀論者の荒唐無稽な主張をダブらせる語り口はとても興味深かった。

 過去作品に比べて著者本人に関する語りが増えており全体に柔らかい印象を抱かせている。Instagramと格闘している話はチャーミングだし終盤のお客さんとの占いにまつわる話は小説的な展開含めてThat’s lifeな内容で胸に沁みた。優れたブックガイドとしても機能しており各章で紹介される本がどれも読みたくなるものばかり。そして本を読むことに関する話もあり、これまた切り口が新鮮かつエッセイを超えた論考レベルになっており興味深かった。特に以前から気になっているアリ・スミスの紹介はかなり惹かれたので早々に読みたい。

2024年4月5日金曜日

2024/03 IN MY LIFE Mixtape

 今月は本当に新譜を追うのが大変だった…マジで無限に毎週リリースが続いて1枚聞いては次を聞くという感じであんまり深掘りできていない。それでも取りこぼしが発生しているので来月分でカバーしていきたい。あと旧譜もそこまで入れられてないのも反省点。新譜だけならレコメンドシステムの仕事であり、そこに旧譜をどう混ぜるかが醍醐味なのでセレンディピティを大切にしたい。

 SpotifyのレーダーとApple musicの新譜レコメンドの組み合わせでフォローできる新譜の範囲がかなり広がったことも影響している。新しいものを貪欲に聞くこと、好きなものを繰り返し聞くことの違いについて考えることも多かった。本でいえば再読にあたる行為であり、最近そういうマインドが起こりつつある。これは加齢に伴うキャパの縮小化、保守モードへの突入の予兆かもしれないので新年度になったことだし積極的に新しい刺激を取り入れていきたい。

 リリースタイミングというより毎月自分が聞いた曲をベースにプレイリストを作っており、あくまで自分基準なので無理がないのはヘルシーである。プレイリストを聞いていると音楽日記を読んでいるようでそれも今のところは楽しい。ジャケは手作りしたワッフル。異常にQOLアガるので皆におすすめしたい。

🍎Apple Music🍎


🥝Spotify🥝

2024年4月4日木曜日

飛ぶ男

飛ぶ男/安部公房

 安部公房の銀色の文庫は古本屋、ブックオフで見かけたら買うようにしているのだが本屋で新作を見かけたので買った。ジャケが毎回マジでかっこいい。死後にフロッピーディスクから発掘された原稿らしい。アウトテイクのリリースは賛否あると思うが、本著は補完せずに未完成のままリリースされており潔さがあった。

 空を飛ぶ男とそれを目撃するアパートの住人男女2人という設定。会話がかなり多く演劇を見ているような気分になる。人智を超えている設定としては「空を飛ぶ」ということだけで、こんなに不穏な物語を構築できる点に安部公房らしさを感じた。その大きな要因としては、空を飛ぶ能力を持つ男よりも目撃者である2人の方が只者ではないからだ。大量のガラクタをコレクションする男、銃で空飛ぶ男を狙撃する女。一度関わったらタダではすまない底なし沼のようなキャラクターたちの魅力が溢れている。それらを起点にして物語がこれからスイングしようとしているところで終わってしまっている点がもったいない。実際、終盤は文章が一部抜けており完全に未完成の状態となっていた。エンタメ性を担保しつつ深い示唆を読者に与える点が彼の魅力だと考えているので片手落ちな感じは否めなかった。初期短編集もこないだ出たらしいので、そちらを読んでみたい。

2024年4月3日水曜日

パリの砂漠、東京の蜃気楼

パリの砂漠、東京の蜃気楼/金原ひとみ

 十年くらい前に熱心に読んでいた著者のエッセイということで読んだ。全く好きな言葉ではないが「メンヘラ」という言葉で片付けてしまいそうな感情を取りこぼさないように言語化しているエッセイだった。ここまでの厭世観を持ち合わせてはいないが、天邪鬼気質ではあるので著者の主張にうなずく場面が多かった。

 前半はパリでの移民としての生活、後半は東京に帰国後の生活という構成となっている。著者がパリに移住しているなんて全く知らず驚きつつ、長いパリ生活におけるカルチャーギャップと自分について考察されている点が興味深い。特に海外で暮らすことのメンタル面でのハードモードっぷりが描かれている点が特徴的。実際に起こっていなくても「日常がテロで大きく侵食されるかもしれない」可能性を頭に置きながら生活することの苦労は日本にいると分からない。また色んな物事が前に全然進んでいかない様を読んでいると、日本のシステマチックかつタイトな対応はありがたいことなのかもしれないと感謝の念を抱いた。

 女性の社会における立場に関する内容もたくさん書かれている。二児の母、一人の女性、一家の稼ぎ手、それぞれの立場を行ったり来たりしながら、感情や生活の揺らぎが鮮明に描かれている。著者の友人の話もふんだんに書かれており、そこから相対的に自分のことを考えているケースが多く彼女の思考回路を覗いているような感覚だった。

 小説家なので当たり前だけど文章の比喩表現が自然かつ巧みでめちゃくちゃかっこいい。厭世感もただ書き連ねているだけであればネットの戯言で変わらないわけで、そこに作家としての矜持をみた。たとえばこの辺り。

過酷な異国生活の中でも、私にとって家庭はアイデンティティになり得なかった。家庭とは、成り立たせ回さなければならないものだった。自分は家庭が倒れないように回り続ける歯車でしかない、その思いが鉋のように、硬くなった皮膚を鋭くリズミカルに削り続けているようだった。

 子どもたちがカブトムシを持って帰ってきて家で飼い始めた際の壮大な生命論にリーチしているエッセイがあり、虫が苦手ということを起点にしたスケールの広げ方に笑った。次はウェッサイ性があると聞いた『TRIP TRAP』を読む。

2024年4月2日火曜日

2023 JAPANESE HIPHOP BEST 100

 韓国のヒップホップで作ったので日本のヒップホップでもBEST 100のプレイリストを作ってみた。選んでいるときに思ったのはスタイルの細分化が本当に進んでいるなということ。各ラッパーがいろんなかっこよさを提示していて、それぞれにファンダムが形成されていることにカルチャーとしての豊かさを感じる。100曲選ぶとなると本当に100人100通りのパターンが出てくると思う。なのでシーン全体を見てどうのこうの議論するのも難しい。

 アルバム単位で基本的に聞いており、その史観でいえばこの辺が好きだった。なかでもJJJのアルバムは2020年代を象徴する一枚だった。

  • Makutub by JJJ
  • Nobori by JUMADIBA
  • 東京時代 by TOCCHI
  • WHO IS VLOT by VLOT
  • Golden Virginia by Sadajyo & Jeff Loik
  • HOLLOW by (sic)boy
  • THE UNION by Awich
  • 東京人 by Jinmenusagi
  • four/IO
  • 犯行予告 by NORIKIYO

 プレイリストの構成としては前半はメロウ、中盤からトラップ、終盤はドリル、ダンス系みたいな感じで曲順含めて選ぶのが楽しかった。ドリル元年とでもいうべきか、ジャージー含めてアンダーグラウンドでもオーバーグラウンドでも席巻していたのが印象的。2024年はBAD HOPの東京ドームとそれに伴うメディアジャック、そしてBAD HOPに対抗するようなチーム友達ムーブメントと、これからどうなっていくのか今年も楽しみである。ちなみにSpotifyは1曲足りてないけど、それは察してください。



2024年3月30日土曜日

ピン芸人、高崎犬彦



 同じ著者が漫才コンビを描いたおもろい以外いらんねんがオモシロかったので読んだ。R-1が芸歴制限を解除したことで再び注目が集まっているピン芸人。その鬱屈した感情や環境が丁寧に描写されており楽しく読んだ。

 タイトルどおりピン芸人の高崎犬彦が主人公で彼が脱サラして芸人デビュー、そこから売れっ子になるまでを三人称視点で描写している。器用さを持ち合わせない彼が笑われる側から笑わす側へとなんとか移行しようと悪戦苦闘する姿は自己実現を果たそうとする人間として映るので仕事論とも言える。自分が好きなこと、やりたいことが評価される訳ではない。

 脱サラという設定も示唆的だった。アウトサイダーとして憧れた芸人が社会におけるパブリックな存在になってしまったことで品行方正を要求される。またバラエティに出たとしても場の調和を大切にするサラリーマン的な振る舞いを要求されるのであれば一体なぜ芸人になったのか悩むのは当然だ。言われてみればその通りなのだが、この逆説的なアプローチが新鮮だった。

 芸人は芸を肥やしに生きる仕事のはずが、その場の空気に合わせた道化のような振る舞いが評価される。ネタ原理主義と売れっ子になることのギャップをどう考えるか?というテーマは前作の『おもろい以外いらんねん』でも取り上げられていたが本作でも向き合っている。ピン芸人の場合はコンビやトリオと違って1人なので、さらに煮詰まっており各芸人の小宇宙同士のぶつかり合いが繰り返し起こる。そこでぶつけ合う主義主張には著者のお笑いに対する批評性を感じる。なかでも「お笑い芸人に象徴させすぎ/背負わせすぎ問題」に意識的だった。芸人はニュース、バラエティ、CMなど、今やエンタメ/非エンタメ問わずそこかしこに入り込んでいる。ポップカルチャーゆえの責任を背負うかどうかの過渡期の今、本著が一種のタイムスタンプとして機能することになるかもしれない。

 小説では文字でネタを書いて表現しなければならないので主要人物のネタ形式は漫談となっていた。文字で読んでもオモシロくならないという可能性については、主人公がどちらかといえばスベり芸というポジションとすることで回避していた。あと「ネタは別の世界なんで…」というエクスキューズとして文字の大きさを変えるという見た目のギミックを使い、ネタと小説を区別するのは効果的だった。

 以下のラインは日本のピン芸とUSのスタンダップの比較から今の状況を婉曲的に批評しており新たな視点だと感じた。考えないで笑うことに慣れきっているが頭のどこかに留めておきたい。

反射で笑わへんってことは、裏を返せば反射で中傷せえへんってことやろ?きちんとした境い目があったら、演者を守ることになると思うねん。芸人って図太いし、お客さんと一体になって生まれる笑いがめちゃくちゃ気持ちいいのはわかってるけど、それだけじゃない仕組みが必要なんちゃうかな。

2024年3月29日金曜日

最後の音楽:|| ヒップホップ対話篇

最後の音楽:|| ヒップホップ対話篇/荘子it, 吉田雅史

 久しぶりにヒップホップ批評的な本が出るということで楽しみに読んだ。2人のそれぞれの見立てのユニークさとゲストも含めスイングしていく対話がめちゃくちゃオモシロかった。

 「ヒップホップと〇〇」という形で章立てされている構成で複雑化しているヒップホップのカルチャーとしてのあり方を解きほぐしていく。各自によるコラムも一部あるが、ベースとなっているのは著者2人による対談でそれを再構成している。ゆえに難しい哲学的なアプローチの議論もかなり理解しやすかった。同じ内容を書き言葉で堅めに表現するよりもこの形式のほうが門外漢に対して間口が広くて良い。

 今や世界的なポップカルチャーとなり、ここ数年は日本でも加速度的に人気が高まっているヒップホップ。表面だけみればパーティーカルチャーに見えるが、その奥には縦にも横にも斜めにも広がるかっこよさの多様さがある。それは「Dope」や「 ill」 という言葉で表象されており、こういったかっこよさについて論考していく内容となっている。自分自身がヒップホップを好きになったのは本著で主張されている「ズレ」が大きな理由の一つであり、彼らの議論によって具体的に言語化されることで気づくことがたくさんあった。今の時代、なんでも正しく綺麗なものがもてはやされる一方で間違っていて汚ないものは価値がないと判断されてしまう。しかし、そこで価値転換を起こすことができる点にヒップホップの素晴らしさがある。本著内で繰り返し言及されるようにすべてがシミュレートされてしまうポストモダン社会における大きな役割をヒップホップが担っていると言っても過言ではないだろう。

 ゲスト陣も鉄壁で菊地成孔、Illcit Tsuboiのチャプターが出色だった。菊地成孔とはヒップホップの文学性を議論しており、リリックの内容やライミングのありかたといった定性的なものから、リリック内のボキャブラリーの数といった定量的分析まで全方位に話が転がっており興味深かった。ラストの金原ひとみウェッサイ論は飛距離がハンパなかったのですぐに読みたい。そしてIllcit Tsuboiのチャプターは目から鱗な話の連続だ。氏のTwitterでは音響的観点でレコードや新譜のヒップホップについてツイートされているが、そのベースにある考えを知ることができて大変参考になった。「ヒップホップはマスタリングの音楽である」とはJAZZ DOMMUNISTERSの”One for Coyne”におけるN/Kの言葉だが、そのくらい他の音楽に比べて音の質が議論になる。もともとサンプリングベースの音楽だったことも影響していて、ダーティーさ、ラウドさといったノイズの要素をどのくらい入れるかが一つの主張にもなる。荘子itはそこにキャラクターさえ投影しようとしていて興味深かった。長く信頼されているエンジニアだからこそのエピソードも多く、ECD『失点・イン・ザ・パーク』やBuddha Brandの『人間発電所』の製作秘話など知らないことだらけ。特に前者は読後に聞くと圧倒的に解像度が上がりめちゃくちゃかっこよく聞こえてびっくりした。これもキャラや記名性に通じていて純粋な音楽だけの魅力だけではなくコンテクスト重視の音楽だからこそなのかもしれない。

 あと驚いたのは日本のヒップホップに対する批評的眼差しだ。Creepy Nutsや舐達麻といった今の人気どころをズバッと言語化してしまう荘子itの鋭さにドキッとさせられる。Dos Monosは意識的にいわゆる日本の「ヒップホップシーン」と距離を置いているがゆえに言えることが多分にあり、ライターたちの大半が御用聞きのインサイダーと化した今、批評的な眼差しのあり方は貴重だ。本著全体から見ればわずかな量だが、こういう目線の日本のヒップホップの本がもっと読みたい。

 こんな駄文の連なりでは到底語りきれないくらいに議論は発散しているのだが、それを支えているのは吉田雅文氏のヒップホップに対する博覧強記っぷりであることは間違いない。吉田氏のヒップホップに対する広く深い理解と愛があり、なおかつ本人および荘子itがプレイヤーだからこその対話となっている場面が多い。たとえばサンプリングの切断をモチーフとした議論はビートメイカーかつ批評もできる2人にしかできないものだった。今や調べれば何もわかる時代ではあるが、こうやって対話の中で自分の知識をコンテクストに応じて出していくのは簡単なようで難しい。この粒度でヒップホップを語ることができる人はいないので、いつの日か新たな切断面から再び反復して最後(latest) を更新して欲しい。

2024年3月27日水曜日

韓国文学の中心にあるもの

韓国文学の中心にあるもの/斎藤真理子

 以前に友人から薦めてもらってやっと読んだ。パク・ミンギュの『カステラ』が翻訳大賞を取ったあたりから急速に日本で読める作品が増えた印象のある韓国文学の水先案内人として素晴らしい内容だった。とにかく読みたくなる本が増えまくって嬉しい悩みである。単なるブックガイドにとどまらず文学を読むことは歴史や社会と向き合うことなのだと言わんばりに韓国の歴史に関する話が多く大変勉強になった。

 年代を遡っていく形で韓国の小説を丁寧に紹介してくれている。著者は翻訳者で近年の韓国文学の人気の立役者。翻訳されていることもあり各書籍に対する読み込みの精度が非常に高い。ゆえに読んだことのある作品でも知らなかった背景や著者が込めた意図などが知れて興味深かった。そして作品を魅力的に語るのが本当にうまい。紹介、批評、感想のちょうどいいバランスは見習いたい。

 韓国文学のいい意味での身近さを感じて夢中になって読むことが多いのだが、それについて『82年生まれ、キム・ジヨン』を通じてズバリ言語化されていた。

自分につながる女性たちの歴史を振り返るためのツールとして、韓国の小説はまことにちょうどいい弾力を持っていたのだと思う。その壁に「思い」をぶつけてみると、手ごたえのある「考え」がはね返ってくる。それはあらかじめ想像がついてしまう日本の物語にも、文化的背景が大きく異なる欧米諸国や南米、アフリカ大陸などの物語にもできないことだ。似ていて違う韓国の文化だからこそ、それが可能になったのではないだろうか。

こういった身近さ感じる一方で歴史的背景が全く違う国であることを読み進める中で痛感させられる。著者も言及していたが、日本国内の韓国に対するカルチャーを中心とした現状の消費状況は沖縄に近いものがある。表面的なものを享受し辛い歴史や背景は見て見ぬ振りをする。「日韓」のモヤモヤと大学生のわたしを読んだ際にも感じたが、ただの隣国ではなく加害と被害の関係があることを忘れてはならない。

 今回読んで特に感じたのは死に対する距離感の違いだ。朝鮮戦争時における南北の同民族間での報復合戦や凄惨な歴史的事件、近年の事故などで失われた命とその失われ方を通じて培われた死との近い距離。それに正面から向き合い小説へと昇華していく作家たちのかっこよさがよくわかる。また韓国映画における救いのなさと結びつけられることで大いに納得した。

 今では民主主義国家としての韓国がそこにあるが、第二次世界大戦以降この状況を勝ち取るまでに経た険しい道のりは想像をはるかに超えた困難なものだった。もともと歴史に明るくないが、距離の近さに反比例するかのように知らないことが多過ぎる。彼らの民主主義に対する高い意識、本著の言い方を拝借すれば「重い足腰」を知ると日本における「民主主義」はお飾りにしか見えなくなってしまった。様々な場面で選択を要求されてきた歴史が長いからであり、その選択の責任を担ってきたからこその強さがある。そんな足腰を駆使した文学だからこそ人の心を大きく動かすことができるのだろう。

 終盤、日本の文学から当時の朝鮮戦争に対してアプローチしていた『されど われらが日々──』を取り上げた考察があり興味深かった。当時の大ベストセラーらしいのだが名前も聞いたことがなく世代の断絶を感じつつ著者自身の考えを含め逆サイドからの視点を踏まえた内容が興味深かった。これに限らず本当に読みたくなる本だらけだったので色々と読んでいきたい。

2024年3月23日土曜日

続きと始まり

続きと始まり/ 柴崎友香

 既刊を少しずつ大切に読んでいる柴崎友香氏の新刊がリリースされ、Sessionのゲスト回も興味深かったので読んだ。何も起こっていないように見えて、その実すべては変化している社会に対するステイトメントのような小説でめちゃくちゃオモシロかった。そして何度も身につまされる気持ちになった。普段置いてきぼりにしている気持ちや考えがこうやって立体的に小説で立ち上がってくると同じテーマのエッセイなどを読むよりも心に刺さる。見た目は限りなくノンフィクションだが、フィクションの醍醐味が詰まっていた。

 3人の主人公が用意されており、2020年以降の各年月に主人公たちがどのような生活を送っていたのか一冊の詩集を軸にして描かれている。立場、年齢、性別、仕事いずれもバラバラながらもコロナ禍や地震といった共通の災禍を通じて各自の感情のあり方をあぶり出していく。今この瞬間は何かの前で何かの後である。言われてみれば当たり前なのだが、この「何か」に対して「災禍」を当てはめて物語を構築している点がエポックメイキングだ。災害大国である日本ではここ十数年のあいだ、地震、津波、洪水など災害が後をたたない。また特定の場所に依存せず猛威を振るったコロナウイルスもあった。我々は常に「何か」の犠牲者になる可能性があるにも関わらず、自分に関係がないと傍観者になってしまうことが多い。それに伴う自責の念のようなものがたくさん描かれている。生活していれば誰もが他人事ではないと頭では分かっていても行動には移せない歯がゆさの数々は多くの人が理解する感情のはずだ。

 そのとき自分が何をしていたのか、どのような影響を受けたのか。メディアでは大きなトピックが扱われることが多いが、実際には軽微なことを含め皆なんらかの影響を受けており、その距離感について考えさせられる。自分自身は阪神大震災でモロに被災して人生が大きく変化したし東日本大震災のときは直接に被害はなかったものの就活真っ最中だった。こうやって過去の災禍と自分の距離を改めて見つめる作業は「何か」の前を生きる今、必要なことかもしれない。(能登半島地震が起こった後であり、海外では戦争真っ只中なので「前」とは言い切れないのですが、今の自分の肌感としては「前」ということです。)

 ここ数十年で起こった価値観の変化についてもかなり意識的な描写が多い。女性が抑圧される場面の描写があるものの、泣き寝入りせず毅然と対峙していく。また抑圧に対して「相対的にみればマシだ」という一種の処世術に対しても疑問符を投げかけるシーンが多い。本著のフレーズで言えば「恵まれている」と自己暗示のように言い聞かせて現状を飲み込んでいく、その対処療法の繰り返しで我々は結果的に貧しくなってしまったのではないかと言われているようだった。

 辛いことやおかしなことがたくさん起こっているにも関わらず現実はそのまま放置されている無力感をここ数十年味わってきたし、その状況に慣れてしまっている。この無力感を街で生きる市井の人たちの生活の視点から描いていく、その真摯さは正直身に応えた。日々忙しい中だと自分のことで手一杯になることも多いが、外に目を向けて声をあげて具体的な行動をしないと社会は変わっていかない。そして、その責任は大人にあることを自覚する必要がある。そういった意味で婉曲的にWokeな小説とも言える。誰かがやってくれると思っていても社会は好転しない。

 また日常でよく見る場面に対する違和感の表明が各人物から放たれる場面が多く、その塩梅の絶妙さも読者の心をざわつかせる。言い切りの強い言葉による主張や否定はある程度距離を置くことができる。しかし著者は本当にいると読者が感じるような柔らかい物腰の人物像を丁寧に描き読者の心の隙間へスッと入り込んできて心を揺らしてくる。ゆえに短いラインでガツンとくるものも多かった。夫から仕事を休むことを前提に話された妻の以下のラインなど。

「現実やとしても最初から決まってるわけじゃない」

 同世代で育児に比較的積極的に参加している料理人が主人公のエピソードは、属性として重なる部分が多いゆえにグサっとくるものがたくさんあった。ラインとして一番刺さったのはこれ。

貴美子が若い子たちの置かれている状況や子供や弱い立場の人を考えもしない「おじさんたち」を非難するのを聞き、まあまあ、そこまで言わなくても、などと言いつつも頷きたかった。それで、自分もガールズバーに通う男たちや家事や子育てをしない男たちとは違うのだと感じられる。何かを考えた気になって、正しくなりたかった。それで楽をしたかった。

「相対的にみれば大丈夫」と自分をポジショニングして安心感を得ようとしてしまう虚しさ、浅ましさに身に覚えがないといえば嘘になる。「絶対的」な感情の在り方をもっと大切にしないといけない。最近文庫で『百年と一日』がリリースされていたので次はそれを読みたい。

2024年3月20日水曜日

2023 KOREAN HIPHOP BEST 100

 pH-1の新曲を聞いて去年の好きな曲を100曲選んだ。今のシーンに対するフラストレーションを感じたからだ。自分自身は韓国のヒップホップの楽曲がとにかく好きでひたすら新譜を聞いているのだが、彼からするとかつてのヒップホップの在り方からかけ離れてしまっている、つまり音楽以外の要素で注目されることを憂いている。こういった発言はOGに多い傾向があるが、第一線にいる彼から発せられるのは重い話だ。(サムネイルが松屋と吉野家と牛角で全部牛系なんだけどBeef を意図している??)

 去年はShow Me The Money(SMTM)が開催されないという異例の事態が発生した。毎年お祭りのように開催され、メンターのラッパー、プロデューサーたちが期待の若手をフックアップし、その年のトレンドが浮かび上がる。賛否があるにせよシーンを総括する役割を担っていたのは間違いない。それが無くなったことで何となく1年が経過したのは確かに否めなかった。そしてお祭りがない中でpH-1からするとネガティブな出来事が目に付いたのかも知れない。

 ただ2023年は本当に素晴らしい楽曲が多かったと個人的には感じている。特にSMTMがないから今がチャンスと見た数年単位でリリースのなかったベテランたちのリリースがHIPHOP、R&Bともに充実していた。当然若手も有望なラッパーが雨後の筍のごとく沢山でてきているのだが、アルバムやビデオのリリースだけではどうしても頭ひとつ抜けるのは難しい状況でありオーディション番組の効果を思い知る結果となった。今年は何らかSMTMの代替番組が登場してほしいところ。

 こういった背景の中でも100曲選ぶのは本当に楽しかったし難しかった。シングルはなるべく選んでいなくて、アルバムもしくはEPからお気に入りの曲を選んだ。なので各曲をきっかけに好きなアーティストを見つけられるはず。あと曲順もDJ的に選んでいて前半はトラップ、中盤はメロウな感じで、後半はダンサブルな感じ。どの曲もビートのクオリティとフロウの豊かさがとにかく最高でUSのトレースではあるのだけど、どのアーティストも絶妙にそこにオリジナリティを加えている。その点が韓国ヒップホップの好きなところであり、日本でもっと盛り上がるポテンシャルがあるので、このプレイリストが誰かの入口になればと祈る。

2024年3月16日土曜日

ハーレム・シャッフル

ハーレム・シャッフル/コルソン・ホワイトヘッド

 地下鉄道、ニッケル・ボーイズと、これまで翻訳された作品はどれもオモシロかったコルソン氏なら間違いないっしょってことで読んだ。過去二作とかなり味づけが違っておりハードボイルドなクライムサスペンスでオモシロかった。訳者あとがきを読む限り既訳二作品はアフリカ系アメリカンの歴史とその苦境に相当フォーカスしており彼のキャリアの中で特別なものだと思う。なお本作でもプロットだけ追えば何てことないクライムサスペンスなのだが、アフリカ系アメリカンの苦境に思いを馳せつつNYの情景描写の巧みさに心を奪われた。

 犯罪に手を染める父を持つ家具屋の店主が主人公。表向きは家族持ちの変哲もない父親だが裏の顔は盗品の横流しを生業とするハスラー。従兄弟が巻き起こすトラブルに巻き込まれたり、父親譲りの復讐心から悪事に手を染めてしまったりとNYのハーレムを舞台にして駆け引きが繰り広げられる。基本トラブル巻き込まれ型の話なので読者も入り込みやすくなっている。家具屋かつ建物好きという設定もあり、とにかく街の描写が最高だった。歴史を含めどういう建物か相当細かく描いているので読んでいるあいだ1960年代のNYを歩いているような気持ちになる。また終盤に不動産王との戦いに入っていく中ではNYの高層化した街の圧迫感と心情描写を重ね合わせていく点がかっこよかった。

 物語が進むにつれて裏の顔が深くなっていく。親ゆずりのプライドゆえの復讐から始まり最後は銃撃に巻き込まれる大立ち回りに至る。従兄弟の破天荒な振る舞いの影響が大いにあるのだが、本人も「やれやれ」と言いながら、そのトラブルを乗りこなすことを楽しんでいるように見える。2 faceから見た世界の在り方として以下のラインが沁みた。

真人間対悪党。真人間はよりよいものをつかもうとする。ーーーよりよいものはあるかもしれないし、ないかもしれないーーーその一方で、悪党たちは、現在の仕組みをどう操作しようかと策謀をめぐらせる。こうなりうるという世界と、こうであるという世界。だが、それは白黒をはっきりさせすぎているいるかもしれない。真人間でもある悪党は山ほどいるのだし、法をねじ曲げる真人間も山ほどいる。

 アフリカ系アメリカンと白人の権力勾配についてクライムな展開の中でもかなり意識的に描かれている。白人警官にアフリカ系アメリカンの子どもが殺されてしまったことで起こる暴動が物語中盤の軸として存在し、登場人物たちがさまざまな形で巻き込まれていく点が象徴的だった。当時は人種差別が蔓延っていた時代であり、その中でサヴァイヴするためには相当なコストを支払う必要があったことがよくわかる。またこういった差別に対して怒りを抱いた結果の暴動や略奪などが無秩序、暴力の象徴として語られるが、イスタブリッシュメント側の暴力的な再開発はどうなんだ?という問いかけは鋭い。つまり破壊という意味では同じだろうと。この論点は今の世界各国の都市にも言えることであり、金持ちがさらに金を産むためにスクラップ&ビルドするケースが多すぎる現状に対する著者の苦言に思えた。日本は耐震性という課題があるので致し方ないにせよ近年の東京なんて最たるものだ。そんな都市論にまでリーチしてしまうほど物語の本筋ではない部分でも細かく描き込んでいく。これが著者の書き手としての腕力であり並の作家と異なるところだ。次の翻訳作品も楽しみ。

2024年3月10日日曜日

ACE COOL『群青ノ痕』


 ACE COOLのワンマンライブ”群青ノ痕”@渋谷WWWを見てきた。『GUNJO』 は1年に1回は必ず聞き返すアルバムであり、個人的には現在のシーンで最もunderratedなラッパーだと思う。RED BULLの64barsや各種客演曲などで知名度が飛躍的に向上したこともあってか会場のWWWは階段までパンパン。本人もライブ中に言っていたが、こんなに人気あるのかという驚きもありつつ、とはいえ彼の実力からすればまだまだ序章と言っていいはずだ。

 ライブはキャリアを総括すると共に新曲も盛り沢山、未来に向かう内容で本当に素晴らしかった。ラップ筋力が尋常ではなく基本的にボーカルなしのインストの上でアンコール含む約1時間半ひたすらスピットしつづけていた。あれだけ複雑なフローなのに音源との乖離がなく聞き取りやすさもある。リリックはウィット、叙情性もあり、さらに固有名詞もユニークなチョイスが多い。ビートもオーセンティックなものからトラップ、トレンドのジャージーまで、どんなものでも彼は自分のスタイルを崩さずACE COOLの曲として聞かせてしまう。こういった多面的な魅力があるがゆえ密度の高いラップの塊のようなショウが成立していた。

 またインハウスのプロデューサーであり、そしてこの日バックDJを務めていたAtsu Otakiもライブで大きな役割を果たしていた。ACE COOLのボーカルにディレイをかける演出がユニークでライブに展開、緩急を生み出していた。またビートの大きさ、鳴りのコントロールも素晴らしかった。WWWでヒップホップのライブを見るとき、大した音質でもないオケの音がバカでかくてボーカルが聞こえないことが多々あるのだけども、この日は鳴りもバッチリな上に彼のラップがちゃんと映えるようになっておりDJイング、ひいてはエンジニアリングの巧みさが光っていた。

 Featは2023年の彼を象徴するような客演曲であるCampanellaとの”YAMAMOTO”とOZworldとの”Gear 5”がかなり盛り上がっていた。ACE COOLのスキルに呼応してシーンきってのラップ功者であるCampanellaとOZworldから声がかかるのも納得だし2人との曲をワンマンで聞けたことはありがたい。そして盟友MOMENT JOON、Jinmenusagiの2人もかっこよかった。MOMENT JOONは”IGUCHIDOU”という彼の持ち曲から”BOTTOM”へという大胆な展開。ACE COOLのMOMENT JOONをリスペクトする姿勢が伝わってきた。そしてJinmenusagiとはスキルメーターが完全に振り切れてる”Kiwotzukenah”から昨年リリースされた”SAKURABA”のREMIXとして新たにACE COOLが参加したバージョンがエクスクルーシブとして披露。この2人は最近KREVAに曲を作ってみたいラッパーとして名指しされていた。それは置いておいても2人でEP作ったら確実にハネると思わされるほどライブでの相性はバッチリだった。この盟友2人が今のACE COOLのスタイルを形成していると言っても過言ではなくスキルはJinmenusagi、リリシズムはMOMENT JOONに触発されているのは間違いないはず。だからこそアンコールの最後で2人が飛び出てきたのは非常に象徴的だった。それは「俺たちのACE COOLが!」という観客の気持ちを代弁していたとも言えるだろう。

 Jinmenusagiがステージ上でシャウトアウトしていたようにACE COOLは日本のヒップホップの中でも誰も登ってこなかった山に挑戦している。それは前述のとおりスキルとリリシズムを含むストーリーテリングの両立だ。長いキャリアの中で彼は両方を追い求め続けた結果、唯一無二のポジションを獲得している。この日のライブでも顕著で”RAKURAI”、”EYDAY”といった圧倒的なフロウでバースをかまし、盛り上がりやすいフックでクラウドを扇動するような楽曲もあれば、”AM2:00”、”SOCCER”のような情景を鮮明に焼き付けるように聞かせる曲もある。*”派手なバックグラウンド、ボースティングないんだ特に”*というリリックにあるように、彼は分かりやすいヒップホップクリシェを使わずにヒップホップという頂へ挑戦している。つまり表面的ではない、借り物ではない自分の胸の内にある言葉でラップをビルドアップしている。あれだけたくさんの観客がいる中、ラップが終わって完全な静寂が訪れ、観客それぞれが過ぎた時間を噛み締めるといった場面はヒップホップのライブで体験したことがなく本当に新鮮だった。

 今はYouTubeやストリーミングがあり地元にいたまま十分活動できる環境が整っているし自分がいかにすぐに正解にたどり着き人気があるかを誇示する時代となっている。しかし、彼がラップを始めた頃は音源を他人に聞いてもらうまでのハードルが今では想像できないくらい高かった。日の目を見るまでの長いあいだの鬱屈した感情や下積みといった彼のバックグラウンドをリリックで可視化、共有しているからこそ、この日のライブは特に感動が大きかった。ヒップホップのインスタントな部分も大いに愛しているのだが、結局自分が好きなラッパーは楽曲やアルバムでナラティブを愚直に綴っていきライブへ還元していくスタイルなのだと再認識した。次のワンマンライブは新しいアルバムがリリースされるときだろうか、もっと大きいステージで見れることを願ってやまない。”戸愚呂兄弟”やJJJのビートを含む新曲など漏れるものが多いが当日のプレイリスト。リリースされれば補完していきたい。

2024年3月8日金曜日

2024/02 IN MY LIFE Mixtape

 ついに2024年がスタートしたという感じで膨大な量の新譜を聞く毎日が始まった。と同時に今年は旧譜との出会いも大切にしているので毎日聞く音楽に事欠かない。

 前職の先輩方と数年ぶりに飲みに行って人力レコメンドの偉大さも知ったし、SpotifyのRelease Radarを久しぶりに見てるけど、その精度はApple musicのそれとは雲泥の差でとても便利。ただApple Musicはアルバム単位のレコメンドが結構優れていてR&BやJazzはそれで知った去年リリースの作品で「こんなんあったん?」みたいな出会いが多かった。

 変わり種でいうとフジコ・ヘミング。最近NHK+をめっちゃ見ていて、そこで出会ったドキュメンタリー「漁師と妻とピアノ」で知った。50過ぎまで漁師を生業として休日はパチンコしまくりだった人がある日突然ピアノに目覚めて超絶難易度の高い”La Campanella” を弾けるようになるまで練習しまくった結果、全国で講演するようなピアニストになった。そのピアノに目覚めるきっかけになったのが、フジコ・ヘミングによる”La Campanella”ということで選んだ。

 なおジャケは雪の日の保育園の送り帰りに撮った小学校の風景。久しぶりに雪を見た。

🍎Apple music🍎

🥝Spotify🥝

2024年3月3日日曜日

ペイン・キラー アメリカ全土を中毒の渦に突き落とす、悪魔の処方薬

ペイン・キラー アメリカ全土を中毒の渦に突き落とす、悪魔の処方薬/バリー・マイヤー

 Amazonのレコメンドで流れてきて読んだ。ドラッグの話は完全に自分の知らない世界でありながら、他人が異様に執着する様に儚さがあり魅力的に感じる。ゆえにドラマや映画でドラッグが題材になっているものを見ることは多い。そんな不純な動機も含めて読んだ本著は社会の外側ではなく内側に中毒性の高いドラッグが忍び込み爆発的に拡大したケースの話であった。日本でも眠剤などの市販薬や処方箋ドラッグの乱用はトー横界隈を中心に問題化しているので全く他人事ではないので怖かった。

オキシコンチンという疼痛用の薬が主役のドキュメンタリー。疼痛とは医学用語の痛みのことであり、オキシコンチンはそれを緩和する痛み止めだ。単純な痛み止めではなく麻薬系鎮痛剤と呼ばれるもので、アメリカのある製薬会社がその強力な中毒性を伏せたまま、簡易な痛み止めとして売りまくった結果、全米中に中毒者が急増してしまったというのが話の大筋となっている。

疼痛に対する処方薬という点がオキシコンチンが市場に蔓延してしまった大きな理由だった。医療行為の中で痛みの緩和は他の治療に比べて尺度がなく患者から伝えられる情報がすべて。「痛い」と言われれば、それを和らげる薬を提供することになる。本来であればいきなり麻薬系ではない鎮痛剤を使うべきだが、そこへオキシコンチンが入り込んでしまったのが悪夢の始まりであった。

語り口がうまくて、まずは具体例としてチアリーダーの女子高校生がオキシコンチン中毒になってしまう身近な話から始まる。その後、このドラッグが市場に登場、席巻するプロセスについてバックにいるアメリカの大富豪の話を絡めつつスケールの大きな物語として描いていく。処方箋の薬が蔓延して中毒者が急増したと聞くと「規制当局は何をしていたのか?」とシンプルに思うが、販売者側の用意したデータで攪乱されたり、圧倒的な資金力を駆使したロビー活動が影響して規制が遅れてしまっていた。また処方する側/される側に対する徹底的なマーケティングによる一種の洗脳に近い形でオキシコンチンを消費させ続ける仕組みを構築していた。規制を少なくして市場に任せていく新自由主義の到来と処方箋ドラッグの蔓延は無縁ではない。小さな政府志向は結構なことだが人間の生死に関わるところまで侵食してくると目も当てられない。終盤にかけて製薬会社の幹部をDEAや検察の捜査でかなり追い込んでいくものの重役たちを逮捕するまでは至らず金銭による和解で終結となり無念だった。本著を読んでいるとお金を稼げれば人がどうなろうが関係ないと考える詭弁の天才たちが起こした人災にしか思えない。

このオキシコンチンやパーコセットといったオピオイド系鎮痛薬はヒップホップとも縁が深くUSのヒップホップ経由で最初に知った。本著の主題であるオキシコンチンはScHoolboy Qのアルバムタイトル曲”Prescription/Oxymoron”、PercocetはFutureの”Mask Off”で有名だしJuice WRLDの死因とも言われていたりする。特に前者はドラッグユーザーとしての自分とドラッグディーラーである自分の二部構成になっており本著との相性はぴったり。読んだ後にリリックを見ながら聞くと胸にくるものがあった。一方、FutureのようなUSのメインストリームの音楽におけるドラッグ表現に対して日本からは対岸の火事のごとく楽しんでしまっている側面がある。使ったこともない人間が「パーコセット!」とか無邪気に叫んでいる場合ではない。USのティーンたちはヒップホップの曲の中で引用されまくるドラッグの誘惑と戦わないといけないのかと思うと複雑な感情にもなった。違法とはいえ大麻で留まっている日本はまだマシなのかもと思えた。

2024年2月29日木曜日

赤と青のガウン オックスフォード留学記

赤と青のガウン オックスフォード留学記/彬子女王

 BRUTUSの本棚特集で漫画家のほしよりこ氏が選書しており赤と青のマントの表紙絵が印象的だったので何となく読んでみた。皇族の彬子女王がオックスフォード大学で博士取得するまでを綴ったエッセイでとてもオモシロかった。皇族へのプレッシャーは近年増すばかりだが「人間」としての尊厳をひしひしと感じた。

 皇族が自ら内情を事細かに説明している文章に初めて出会ったので、この時点で本著のオモシロさは保証済みといっても過言ではない。最近は現天皇である徳仁親王による留学記も復刊リリースされているが本著は00〜10年代の話なのでリアリティーがある。たとえば博士号授与式が2011年で震災から二ヶ月しか経ってない中でお祝いのために海外渡航するのはいかがなものか?という意見があった話など。現状の皇族に対する厳しい視線を予期させる内容だった。ただ著者はエッセイストとしての才覚がめちゃくちゃある。硬くシリアスになりがちな皇族の状況についてジョークを交えつつウィットのある文体で書いてくれているので楽しく読むことができた。やはり国外で皇族ではない立場を経験することで視野が広がることは大いにあるのだろう。宇多田ヒカルが活動休止した際「人間活動に専念する」と言っていた意味が本著を読むとよく分かる。何をするにせよ誰かが周りにいて、先回りして全てが用意されていても良いとは限らない。自分でコントロールできる領域の尊さに気づくことができた。

 著者には皇族という特殊な属性があるものの、あくまで本著の主題は5年かけてオックスフォード大学で博士号を取得したことである。海外で博士号を取得する際の苦労話がたくさん書かれていて非常に興味深い。日本だとプリンセスとして扱われるが学位取得の過程において忖度はなく担当教授から厳しく指導されたり、その真面目さゆえに胃の具合を悪くしたり多くの苦労が語られている。その先にある栄光に向かって一生懸命に研究、論文に取り組み、最後に得られるカタルシスを追体験するような気持ちになった。だからこそ最後の最後で皇族ゆえに自分の力でコントロールできない要素で振り回されてしまうあたりは辛いものがあった。彼らは一般の国民とは異なり、多くの特権を持つ代償として犠牲になっていることがたくさんある。歪な環境の中でも自分の信念を貫く姿勢は見習いたいと思った。

2024年2月26日月曜日

一私小説書きの日乗 新起の章

一私小説書きの日乗 新起の章/西村賢太

 ついに6冊目に到着。ここまで長く人の日記を読むのは初めてでかなり感情移入している。そして読めば読むほど著者が亡くなっていることが悲しくなる。ここ数冊の中では展開が多く一気に読めた。

 大きな変化としては新潮社との蜜月が終わりを告げ文藝春秋との関係が新たに始まっている点が挙げられる。あれだけ長いあいだ苦楽を共にした中でも連載あり/なしで関係がスパッと終わってしまうのは一抹の寂しさを感じる。一方で新しい文學界の担当編集者の服装が奇抜らしいのだが、その描写が毎回オモシロい。著者が周りの人を魅力的に描ける能力はこれまでの日記からもよく分かるし、これが私小説の魅力に繋がっているのだろう。

 藤澤清造の墓参りを含めて旅行に頻繁に出かけているのもこれまでになかった傾向だった。特に墓参りは月命日に毎月行く念の入りようで彼の心境の変化が伺える。お墓は七尾市にあるようで年始に起こった能登半島地震の際に被害を受けたらしい。さらに著者が清造の横に作った生前墓も倒壊したらしく悲しい話だった…

 スランプに陥ってしまい編集者をひたすらに呼びつけるシーンがあるのだけど、そこに作家の孤独を垣間見た。実際にこういった言動は過去にもあったのだろうけれど日記上で書かれているのは初めて。著者の粗暴な振る舞いがあったとしても、編集者たちは呼ばれば馳せ参じている場面にプロフェッショナル魂を感じた。そして著者自身も一晩明ければ自分の至らなさを反省しており、それをわざわざ日記として世間にリリースしているあたりに皆憎めない気持ちを抱いているのかもしれない。その証左として終盤の怒涛の原稿締め切り、ゲラチェックの嵐に巻き込まれる姿は売れっ子作家そのものだった。残すところあと1巻だと思うと寂しい。

2024年2月23日金曜日

デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場

デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場/河野啓

 奇奇怪怪で激賞されていたので読んでみた。栗城氏は情熱大陸の出演が印象的で、エベレストの登頂を手持ちカメラで撮った映像で魅了された記憶がある。そんな彼がどういった登山家でどのようにして命を失うまでに至ったかを丁寧な取材とともに記述した一級品のドキュメンタリーでとても興味深かった。

 登山家と聞くと寡黙に山に挑むようなイメージを勝手に抱いてしまうが、彼はそれとは真逆のスタイルだ。いかにマス受けするか考えて山を登ることを「夢の共有」と呼び、彼のファンダムを形成、スポンサーを獲得していくスタイルで人気を獲得していく。マーケティング戦略としては何も間違ったことはしてないのだけども、その大前提としては山登りに対して真摯な姿勢でいなければならないのに、その点を浅く見積もったことで彼は後年苦しむことになってしまった。見た目だけ繕って中身ボロボロといったことは政治を含め、ここ数年あらゆる場面で見られる事象であり、本当に気をつけてないと自分も当事者になってしまう恐怖を感じた。

 そして普遍的なテーマとして承認欲求をめぐる話といえる。登山家として認められたい、その動機自体は自然なことではある。しかし、彼の場合は目先の派手なことばかり追いかけてしまい、承認欲求をかっこよく、インスタントに満たそうとしたことにより無理が出たことがよく理解できた。なかでも強烈なのは指と酸素の話だろう。表面上は「夢をあきらめるな、必ず叶う」みたいな美辞麗句を並べておいて、裏では全くそれに見合わないダーティーワークを重ねているのだから目も当てられない。本著では「その姿勢をいかがなものか?」と糾弾するだけではないところが興味深かった。彼自身だけの責任ではなく、自らを含めたマスコミやそれを支持した大衆の責任についても考えさせてくる。SNS駆動である今の社会に生きる身に深く沁み入った。

 さらに本著の興味深いところは栗城氏側だけではなく著者の取材者としての承認欲求についても自戒的な点だ。著者が彼についてブログを書き始めてビュー数がどんどん伸びていき、インターネットに魅了されかかるシーンは生々しい。また取材者としてドキュメンタリーを作る際に自戒するきっかけとなったのがヤンキー先生こと義家氏だというのは驚いた。著者が取材したときのアツい思いを持った先生とは真逆になってしまった話はよくできた寓話そのもの。

 自戒的な姿勢が多く見られること、丁寧な取材を重ねていることで、死人に口なしで一方的に書いた結構エグめの内容(婚姻関係など)も下世話な印象を最小限に抑えることができていた。結果的に著者がブログを削除、ちゃんと取材をして本著を書き上げたことは今となってはとても重要なことかもしれない。それはネットに漂う文章ではなくフィックスされた文章の意味が過去とは大きく異なる時代だからこそ。Rawなものは即時性が高く魅力的に映るが、山を登るように一歩一歩地道に作り上げたものには勝てないと信じている。本著を読んで山登りに興味が湧いたので他の作品も色々読んでみたい。(自分では登れなさそうなので)

2024年2月21日水曜日

さびしさについて

さびしさについて/植本一子、滝口悠生

 ZINEとして出版された往復書簡 ひとりになること 花をおくるよが新たな内容を追加、文庫化されたので読んだ。再読しても本著の輝きは特別だったし想像以上に追加された内容が多く、さらにどんな本でも読めないような内容になっていた。

既刊の内容は過去記事を参照してもらうとして、ここでは追加された部分について書いていく。本著内で言及されているとおり最初の一冊を出版してから2人の関係がより近くなったことでギアがさらに踏み込まれた印象を受けた。最初の発信は植本さんでパートナーと関係を解消した話から始まる。その事実を知っている「一子ウォッチャー」も多いはずだが、改めて滝口さんへの書簡という形で語り直されることで新たな視点が加わっていて新鮮だった。同じ事実があったとしても照明の当て方次第で色んな見方、考え方ができる。今回の植本さんの文章はその当て方のバリエーションの豊かさに驚いた。情報過多の今、これくらい自分のことについて考える時間を設けることは意外に難しい。時間をかけて手紙を書き特定の誰かに伝える、この客体化の作業で自己と向き合う。これはすべてが加速化する社会において一つのサバイブ術だと思う。

 そして追加分の滝口さんの文章は正直めちゃくちゃくらった…言語化できていない感情の数々がズバズバ言語化されていくし文章の精度、芯の食い方がその辺に転がっているエッセイと雲泥の差がある。最初の返信では、植本さんの著書『愛は時間がかかる』を通じた時間の捉えた方に関する考察が書かれているのだけども本著のオモシロさを象徴していた。単なる書評ではなく生活と文がそこに同居しているように書かれている。私たちが日常で何気なくやり過ごしているものに言葉を与えていくとでも言えばいいのか。たとえばこれとか。

子どもは生きづらいんだろうか、そうでもないんだろうか、とかときどき考えてしまいますが、生きづらいというのは昨日と今日と明日が続いている時間のなかで求められる不可逆性とか一貫性とかのもとにあって、娘はそういう時間のなかをまだ生きていないのだと思います

 育児に関する深い考察も本著の一つの特徴である。それぞれの子どもの世代が異なっているため抱えている悩みや背景は異なっているものの、いずれも真っ直ぐな思いの吐露に胸を打たれまくった。植本さんは自身の過去と今の娘さんの状況を対比して、ここでも1人とは何かについて考察されているし、滝口さんは小さな娘さんとの対話を試みている。特に後者は私自身が似たような年齢の子どもがいるため身につまされることばかりだった。政治の話ではないけれど、本質的な政治の話という矛盾した何かがそこにあった。具体的な議論の前にミクロな違和感を放置せずに抗っていかないと社会は何も変わらない、そんな思いを新たにした。

 今となっては、お2人とそれぞれPodcastでお話しさせていただいたことが信じられないのですが、もしまだ聞いていない方がいればエピローグとして各エピソードをお楽しみください。

86:The correspondence like dodgeball

89:Thank you my daughter

98:Real dad club

104:The man who knew too much

2024年2月19日月曜日

証言 落合博満 オレ流を貫いた「孤高の監督」の真実

証言 落合博満 オレ流を貫いた「孤高の監督」の真実

 嫌われた監督が超絶オモシロかったので読んでみた。選手、コーチといった周辺人物の証言により落合像がさらにくっきりと明らかになる素晴らしいサブテキストだった。マスコミやファンの視点とは密度が高いインサイダーの話は一次資料として貴重なもの。そして既存の監督像や野球のセオリーを裏切り続けて強いのだから多くの野球ファンを魅了して当然だよなと改めて認識した。

 冒頭、落合政権時の成績を振り返るのだが、その圧倒的な強さを改めて認識するとともに今リリースされたことで現監督の立浪史観が含まれていて興味深い。ここ数年の成績不審、謎の采配やトレード、果ては米騒動まで。立浪への懐疑的な視点は多くの野球ファンが共有しているところだが、改めて選手としての圧倒的な成績を見せつけられるとミスタードラゴンズの名は伊達じゃないと思わせられる。今年は頑張って結果出して欲しい。

 インタビューに収録されているのは当時の主力である川上憲伸や岩瀬、山本昌など投手が中心。落合政権の象徴であるアライバ、森野といった野手サイドのインタビューはFAで移籍してきた和田のみ。野手関連はほとんどコーチでカバーされている。若干残念な気持ちありつつコーチサイドの視点で地獄のキャンプ内容の実情が語られており興味深かった。時代の趨勢としてオーバーワークは敬遠されがちだが、当時の選手達は当たり前だったようだし選手寿命が延びたと和田は言っていて練習量が多いことも悪いことばかりではないのかもしれない。

 勝利至上主義で選手の自立を促す。プレイしている選手たちのやる気を引き出すことにフォーカスしているので、実際のプレイヤーたちは思った以上に戸惑いがなかったという点が共通している。特に伝説となっている完全試合直前での山井の交代は納得している人が多いのも印象的だった。また川上憲伸がのちにメジャーに行った際に既視感があったのはすべて落合の言葉だったというのも新たな視点で興味深かった。つまり既存の日本の野球のスタイルから逸脱していたが、選手を第一に考えたアプローチを取っていたとも言える。

 CBCの番記者の特別寄稿も興味深い。選手時代に番記者されていた方の寄稿で、落合が使っていたバットを科学的に分析していき、彼がどれだけ正確にバットの芯でボールを捉え続けていたか明らかにするくだりは理系的アプローチでかなりオモシロかった。そんな彼のラインが落合を象徴しているように思えたので引用。

落合博満に対する人物評はさまざまである。褒め言葉もあれば、逆に厳しい意見もある。私はそれを”地層”なのだと思う。幾重にも重なる落合博満という名の地層。どの深さの、どんな土に触れるかによって感じ方は違う。でも、地層自体はまったく揺るぎない。

2024年2月18日日曜日

みどりいせき

みどりいせき/大田ステファニー歓人

 すばる賞授賞式における圧倒的にラップなスピーチに心惹かれて読んだ。スピーチで魅せた言語感覚が小説にそのまま持ち込まれており読んでいるあいだずっとワクワク、フワフワしていた。そして概念としてのヒップホップが小説の中にきっちり取り込まれており最近のブームと呼応するようで嬉しかった。そしてこの装丁よ…!人生トップレベルで好きです。

 主人公は高校生。うだつの上がらない毎日に退屈する中、大麻のプッシャーをやっている幼馴染に巻き込まれる形で大麻稼業に巻き込まれて…というあらすじ。非行に走る若者達というプロット自体は特別新しくはないが本著は文体と視点のユニークさがとにかく際立っている。文体については口語スタイル、具体的には若者言葉やギャル語が大量に使われており小説でこういった言葉に触れる新鮮な体験に驚いた。「キャパる」とか本著を読まないと一生知らなかっただろうし、こういった分かりやすい単語に限らず、ひらがなの多用、ら抜き言葉などカジュアルな崩しも多い。一時が万事、正しい方向へと矯正されていく世界に抗うかのように、イリーガルに戯れる高校生たちが瑞々しくユルく崩れた日本語で描写されている。一番分かりやすいのは皆でLSD摂取したシーン。文字だからこそできるゲシュタルト崩壊のようなトリップ表現がユニークだった。

 視点については冒頭のバタフライエフェクトスタイルで度肝を抜かれた。卑近になってしまいがちな青春小説のスケールを一気に大きく見せて本著の世界がどこまでも広がっていくようなイメージを抱かせる。それは後のドラッグ描写へと繋がっていき文を通じて世界のダイナミズムを目一杯いや肺一杯に吸い込むことができる。また主人公の幼馴染である春という人物の性別を限りなくファジーにしている点も示唆的で男女を区別する世間の記号を入れつつも裏切ってくる。他者が性別を明確にする必要はなく春は春なんだという意志を感じた。

 大麻が題材になっており売買や吸引時の様子など含めてかなり細かく描写されていた。ウィードカルチャーとヒップホップは不可分だ。具体的な固有名詞の引用があったりステルスで仕込まれたりしている。(個人的にブチアガったのは「どんてす。」これはNORIKIYOもしくはブッダブランドか。)こういった具体的な引用以外にも前述した文体を含めて小説の中に大量のコードがあり、そこに概念としてのヒップホップを感じたのであった。またプロットやカルチャーの引用など含めて波木銅の『万事快調』を想起する人も多いはず。しかし明確に棲み分けがあり波木氏が直木賞、大田氏が芥川賞をとる。そんな未来がきたとき文学においてもヒップホップが日本で根付いたといえるのかもしれない。

2024年2月15日木曜日

人生が整うマウンティング大全

人生が整うマウンティング大全/マウンティングポリス

 友人から勧められて、そのタイトルと目次に惹かれて読んだ。自分自身が露悪的で厭世感が強い自覚はあるが本著を読むと自分なんて甘ちゃんだなと思わされた。SNSの登場により他人の発言をジャッジするように見る機会は増える中で、ここまで掘り返していく胆力は芸としか言いようがない。1周して振り切ったオモシロさがある。

 前半は具体的なマウンティング事例をタイプ別に仕分けして列挙している。Twitterのおすすめ欄で見かけそうな有象無象のゴミツイートのようなものが紹介されていて、どういったマウンティングなのかを丁寧に解説している。(実際に存在するのか、創作かは不明)著者の生息圏もしくは観察圏がエリート層だからか、お金持ちだったり、高学歴だったり、社会的ステータスの高い人たちに向かってしつこく石を投げ続けていた。日本人は舶来物に弱く島国根性ゆえのマウンティングの跋扈という話は本著に通底しているテーマであり自分自身にも見覚えがある。ゆえに何度もニヤニヤしたし、声をあげて笑ったし恥ずかしくもなった。個人的に好きだったものを引用。

「ジョン・ F・ケネディ国際空港でいつもお世話になっているレストランがなくなっていて途方にくれています」

「10年以上前にニューヨークに住んでいた頃に『上原ひろみのジャズピアノライブに行かない?』と誘われたことが何度かありました」

 こんなハイカロリーな内容で半分くらい走ったあとにネガティブに捉えられがちなマウンティングを活用する方法が紹介されたり、マウンティングにより自らを特別だと思わせる体験(本著ではマウンティングエクスペリエンスと呼ぶ)を通じて既存の企業を分析している。前者については、マウントするのではなく相手にマウントを取らせて仕事を円滑に進めるという話に大いに納得した。実際、本著で紹介されているフレーズのうち、謙遜スタイルのいくつかは仕事で使っている。これらを使うと相手にへりくだることになるのでイライラすることもあるものの、まるでクレベルのように下から三角絞めを決めて最後には勝つ=仕事を前に進めると意識するようにしている。後者については企業よりも京都のマウンティングに大阪出身者として首がもげるほど頷いた。この話をするたびに大阪サイドの思い込み扱いされるが、京都特有のマウンティングバイブスを言語化してくれていて納得した。

 他者との比較をやめる大切さはここ数年で浸透してきていると思うし、それにともなうセルフケアの大切さも重々承知している。しかし現実問題として人間は他人と比較して幸福感を感じてしまう生き物なんだから、その欲求と素直に向き合おうぜ?という論は今の時代を生き易くするもう一つの解なのかもしれない。ただこの結論に至るまでに浴びる毒性の高い例文および解説の数々が致死量を超える人も多いと思うので用量用法を守って正しくお読みください。

2024年2月14日水曜日

一私小説書きの日乗 不屈の章

一私小説書きの日乗 不屈の章/西村賢太

 懲りずに五冊目を読み終えた。淡々とした日常の描写は日記の醍醐味であり本著でも変わらず発揮されている。五冊目にもなると彼の生活が自分にとっても日常になるような不思議な感覚さえある。

 自炊している割合が前巻よりもさらに上がっており、その様子を読んでいると妥協なき食への探究心にひれ伏すしかない。毎回の食事が最後の晩餐かと思っているかのごとく自分の満足度を100%追求している。なので、読んでいると自分の食事にもフィードバックがあり「本当に俺は今これが食べたいのか?」と自問自答する機会が増えた。また晩酌しながら読むと彼の飲酒量の勢いに飲まれるがごとく、ついたくさん飲んでしまう。まさか自分がお酒を飲みながら読書するなんて昔は思っていなかったけど、今は常態化しておりアフター5の楽しみになっている。本著が角川時代最後の連載で次巻からは本の雑誌社での連載となるが何か変化するのか、それとも変わらない日常が続くのか楽しみ。

2024年2月10日土曜日

記憶する体

記憶する体/伊藤亜紗

 とてもオモシロかったサイボーグになるという本の中で繰り返し引用されていた本著を読んだ。完全に読む順番を間違えており本著を先に読んだほうが『サイボーグになる』はより解像度が上がったと思う。そのくらい健常者が勝手に抱いている障害者のイメージと現実との乖離を一から丁寧に解説してくれており目から鱗な話の連発で興味深かった。こんだけ優しい語り口かつ理路整然としている文体がかなり好きだった。

 著者が障害を持つ方にインタビューした内容を踏まえて当事者の障害について解説、論考する構成で11個のエピソードが収録されている。具体例からブレイクダウンしてくれるので話が理解しやすい構成だった。

 タイトルにある「記憶」を軸に健常者側の偏見を裏切るような人選(たとえば全盲だけどメモを取る人、義手の必要性を感じていない人など)がなされており興味深かった。記憶の観点でいうと先天的もしくは後天的に障害を持つかで状況は大きく変わる。なぜなら最初から無かったパターンと元からあったものを失うパターンに分かれるから。状態は同じでもプロセスが違うこと、つまり記憶のある/なしで障害の認知が変化するということに改めて気付かされた。

 また人間の体の仕組みがいかに複雑なのかもよく分かる。見ているものがすべてではなく、認知と現実のギャップが存在し、それを補填したり、もしくは間違えたりする要因の一つが記憶であり、それとどのように付き合うか。幻肢が痛む話はその最たる例で本著内で大きくフォーカスされている。そこにない足が痛むという事態をなかなか想像しづらいが本著の具体事例の数々でイメージが少し湧くようになった。

 障害者の方たちが日々自分の体と向き合って、どうすれば最適化できるのかを考えている。分かりやすかったのは健常者の場合はすべての動作が基本的にオートマティックだが、障害者の方は各動作がマニュアルであるがゆえに大変ということ。しかし、そこには工夫の余地が残されており、ゆえにテクノロジーが介入している現状となっている。3Dプリンターの活用にはかなり未来を感じた。『サイボーグになる』で議論されていたように当事者の意見が反映された補填具が開発されていって欲しい。

 健常者だからといって障害を他人事と思えないのは最後に収録されている若年性アルツハイマーのエピソードがあるから。当然、事故で視力や聴力、手や足を失う可能性はゼロではないもののアルツハイマーは自分ごとになるかもしれないリアリティがあった。このエピソードは他と毛色が異なる内容でかなり興味深かった。端的にいうとアルツハイマーで忘れてしまうことを逆手に取ったクリエイティビティの発揮だろうか。日記と小説の狭間にある記憶と忘却みたいな深いテーマがゴロッと放り込まれてた。『どもる体』も早々に読みたい。

2024年2月9日金曜日

2024/01 IN MY LIFE Mixtape

 去年は新譜のレビューをひたすらポストするという労力をかけていたが、結構しんどかったので今年はプレイリストを作っている。これが一周回ってめっちゃ楽しい。新譜縛りではなく、その月の出来事、たとえばレコード買ったり、惜しくも亡くなってしまったアーティスト、ラジオで聞いた曲など、偶然出会った音楽と新譜を混ぜて1つの流れを作っていく。この作業がDJするのと同じで楽しく音楽の記録としても結構分かりやすくて良かった。新譜は「新しい」というトリガーで聞けるのだけど、旧譜との出会いは意外に少ないがゆえにセレンディピティを大事にしたいし記録に残っていけばよい。

 あと単純に自分の好きな曲を集めて、それを聴く快楽が想像以上にあったことに驚いた。これは皆アルバム単位で聞かずに自分の好きなものだけ繰り返し聞くようになるよなと納得した。

 今月分はこれ。車を角にぶつけたので自戒のジャケ。こういうジャケ作りも昔から好きなので楽しい。

🍎Apple music🍎


🥝Spotify🥝

EASY FIGHT

EASY FIGHT/堀口恭司

 堀口恭司の自伝ということで読んでみた。戦極、DREAMの低迷期に見ることを止めてしまった総合格闘技を再び好きにさせてくれたのは彼のRIZIN参戦の影響が大きい。ゆえに楽しみにしていたが思っていた内容と違う感じが否めず、そこまで楽しめなかった。本著のターゲットは格闘技ファンというより、もっとライト層向け、さらにはカルチャーから何か自己啓発的なものを抽出したい衆向けなんだろう。幻冬舎からの発行で編集に箕輪厚介という時点で察する部分はあったにせよ悲しかった。

 本人が直接書いたのではなくインタビューを書き起こしたものと思われる。Q&A式ではなく彼の一人称で自分の生い立ちや試合、最近の格闘技業界について書かれている。RIZIN参戦前の経歴は知らないことが多くオモシロかったし、さらに試合時の心境などはRIZIN Confessionsを見ているようで興味深い内容が多かった。ただ読んで気づいたこととして、自伝より評伝の方が好きだなということ。主観である自伝の醍醐味として外部から見えない当人氏から知らない情報や感情などがあるが、本著ではその主観を使って彼の精神論が繰り返し登場する内容に辟易した。

 格闘技と新自由主義の相性は抜群であり「やるやつこそが正義」というテーゼを掲げた上で彼の口から格闘技に対する精神的なアプローチを繰り返し引き出していた。当然彼の本心だとは思うものの、それは見せ方次第で良い風にも悪い風にも捉えられる。あくまで主観だが「ごちゃごちゃ考えずにjust do it」的な物言いが正直苦手だった。

 彼は泰然自若であり本著内でも感情をコントロールすることによるパフォーマンスの向上の話が何度も出てくる。普段の試合前の煽りは少なくリング上で「最強」を誇示してくれるからこそ好きな格闘家だ。しかし本著内では後半にかけて他者、特に朝倉兄弟、那須川天心への言及が結構多くてガッカリした。先述のとおり彼は聞かれてるから答えているのだろうと推測できるものの、一人称の文体なので、まるで彼が自分から現状の格闘技について小言を言っているように見えてしまうのが本当にもったいない。そういったくだらない争いに巻き込まれたくないから自分でガチの実力派団体を旗揚げしているわけで、彼が最近の格闘技界隈の不良優遇や過剰なSNS煽りについて踏み込んで、こうやって残る活字でコメントする必要もなかったはず。読み手を煽りたい気持ちも理解できるけど、堀口恭司のキャラクターと一致していないから残念だった。とはいえ彼のことは引退までずっと応援していきたい。この本を読むよりも以下の動画を見る方が100倍は彼のことを知れると思う。


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2024年2月7日水曜日

わかりやすさの罪

わかりやすさの罪/武田砂鉄

 文庫化されていることを知りサクッと読んだ。もはやおなじみと化した砂鉄節がこれでもかと炸裂していて楽しかったが、それだけで済まないズシンとくるものがあった。

 世間の言葉使いやその風潮について逐一理詰めでツッコミを入れており、今回の大きなテーマは「わかりやすさ」。普段何気なくスルーしていることを今一度立ち止まって論考を深める作業は必要だと理解しつつ、大量の情報に溺れる日々ではいちいち気に留めていない。しかし、そうやってかまけていると権力や企業はその間隙をこれでもかと突いてくる。このように社会的に「わかりやすさ」が跋扈しやすい状況では流れに身を任せていない人間は偏屈、天邪鬼などと言われてしまう。しかし著者はそんな他者のことなんてつゆ知らず、ひたすらに思考し続けていることに勇気をもらえた。

 本著はここ5年くらいの社会のムードを分析しているので、最近の小説を読んでいるときに「まさしくこの話!」と思う場面がたくさんあった。最初は偶然の一致かと思っていたが、それよりも物書きの人が抱く現在の社会に対する違和感が一致しているということなんだろう。

 奇奇怪怪のTaitan氏が解説でも書いていたが本著の恐ろしいところは「何でも分かりやすくするの良くないよね!複雑なものはそのまま受け取ろうよ」といった短絡的な結論に向かえないところ。特にこうやって読んだ本の感想をつらつら綴っているのは「わかりやすい」要約を作る作業と変わらない。また個人的にグサッときたのは以下のライン。身に覚えがありすぎてコーヒー吹いた。

「さっきの話はとても重要で」ではなく、「さっきの話はとても重要だと思っていて」とする言い方。自分が話していることなのに、自分が話していることではないみたいだ。自分をどう見せるかに卓越しているかどうかが問われすぎているからこうなった、と結論付けるのも早計だが、あまりの頻度に驚いてしまった。感情を吐き出すのではなく、その感情を吐き出す理由、つまり「なぜなら」を必須にしているように思える。

 ここで書いているのは本の感想なので「思った」の文末は致し方ない部分があると自分を甘やかしつつも断定を避けて保身に走っていると言われればそれまでだ。あと特定のラインを引用して本を象徴するような書き方もしているので心に鈍い痛みが…

本を通読し、ココがポイントであろうと加工する行為は、その本の「真」を摑むための行為ではない。加工では「真の情報」は摑めない。本は、そして文章は、すぐには摑めないからこそ、連なる意味があるのだ。簡略化される前の、膨大なものを舐めてはいけない。

 何かをわからないまま置いておく、もしくは議論し続けるだけの忍耐力が社会から失われつつあるのは間違いなく近年は加速している。安易な二択の奥に潜む有象無象に思いを巡らせたい。戒めとして引用。

わかりにくいものをわかりやすくすることは難しいことではない。切り刻んで、口にしやすいサイズにすることはおおよそ達成することができる。でも、それを繰り返していると、私たちの目の前には絞り出された選択肢ばかりが提示される。選択肢が削り取られる前の状態を知らされなくてもそのことに慣れてしまう。「便利」と「わかる」が一体化している

2024年2月6日火曜日

おもろい以外いらんねん

おもろい以外いらんねん/大前粟生

 最近、奇奇怪怪というポッドキャストを聞き始めてそこで紹介されていたので読んだ。発売当時も気になっていたのだけど、お笑い、漫才に関する小説といえば『火花』という圧倒的傑作が脳裏をよぎってしまい躊躇していた。しかし実際読んでみると著者はそこも承知の上で小説を通じて今のお笑いを批評する形になっておりとてもオモシロかった。

 高校時代の同級生2人がコンビを結成してプロのお笑い芸人として売れることを目指す。このど直球のプロットに対して主人公を2人の友人である第三者としている時点でお笑いについて距離を置いて描こうとする姿勢が分かる。お笑いを始めた人、始めなかった人のそれぞれの人生が交錯していくのだが、特徴はコロナ禍真っ只中の話だという点。今となっては完全に過去の出来事で一体どうやって過ごしていたかも記憶の彼方になりつつある中で改めて創作物で読むのは非常に新鮮だった。特にお笑いは密が一つの売りの商売がゆえに距離を取ることによる価値観の転換(コンビ間の思想も含め)が如実に表現されていて興味深かった。

 2人のお笑いコンビの片方がバラエティで重宝されて、ネタ原理主義者であるその相方はテレビに出られない。そして前者をカラッポと表現している点から昔のハライチを想起して読んだ。お笑い芸人としてどんな形で笑いを取っていくか、その形にこだわる人間とこだわらない人間のギャップについての考察が物語を通じて行われる。後者のこだわらない人間による容姿いじりや女性へのセクハラが近年は問題視されるようになりつつあり、その過渡期の物語としてこれほど自覚的なエンタメは読んだことがなかった。

 特に最近は松本人志の騒動についてどうしても考えざるを得ない。彼を経典とするお笑いを長年見てきた身からすると、どういう気持ちになればいいのか本当に難しい。彼の及んだ行為を嫌悪する気持ちはあるし、それに由来するであろうホモソーシャルなノリ、近年のニュースバラエティでの権力側への擦り寄りなどは結構しんどくてここ数年は敬遠していた。しかし、彼が構築してきたお笑いの価値観で育った身だし、過去に死ぬほど笑わせてもらったのも間違いなく、すべてを否定するのも苦しい。その狭間で揺れる気持ちが正直ある。

 本著はそんな揺れる気持ちに対して「おもろい以外いらんねん」と優しく諭してくる。物語の力を駆使して全力で「傷つかないお笑い」を肯定しようと思えばできるはずのところを敢えて結論を迂回させつつ終盤にタイトルをダブルミーニングで使った展開となる点が白眉だった。現状維持ではなく変わりゆく社会に順応していくのもお笑いでありカルチャーだよなと思わされる。ネタ原理主義者の彼が放つ以下のラインが今一番グッとくる言葉。

笑いが傷つかない漫才がしたい。

東京都同情塔

東京都同情塔/九段理江

 前作のSchoolgirlが好きだったので芥川賞を受賞した新刊を読んだ。生成AIを小説に導入していることで大きな話題になったが、それはあくまでパーツであり現在の日本社会のムードを背景に言語論、都市論などにリーチする興味深い作品。色んな考察をしたくなる材料が大量においてあり作品内で解決しないことが多いのでページ数の割にかなり読み応えがあった。

 国立競技場を建て替える際にザハ案が採用された東京が舞台になっている。遠くない、あり得たかもしれない未来の中でソフトSFな展開が起こりつつ主人公である建築家の女性が自身の言語感覚について論考する様が興味深かった。彼女の頭の中を覗いてるよう。合間に生成AIとやりとりしつつ言葉が彼女の心の内と外を行き来する。言葉を発するまでの思慮というのは大量にあるわけだが、AIとの対比によって人間の冗長さが際立っていた。それを無駄と捉えるかどうか?何でも最短距離で辿り着くことが合理的とされつつある社会で、今のテキストベースのコミニュケーションの中でも比較的婉曲な小説で表現していく姿勢がかっこいい。

 言葉が外に出ていく前に心の内で自己検閲するくだりが何度か出てくる。ソーシャルジャスティス全盛の時代、失言しないためには必要な能力ではあるが、無難を選び続けた結果、個性は死んでいきAIと変わらない言葉を発する人間になるのでは?という疑問を呈しているように感じた。終盤に登場するアメリカ人のライターの言葉遣いが対照的で”fucking(クソ)”を多用する。AIは自重する言葉で自ら発することはないだろう。しかし、こういった言葉がいい意味でも悪い意味でも人間を人間たらしめているのだと感じた。同じような論点でいえば漂白された社会についても意識的で、その象徴が主人公のパートナーのような男性と塔の存在だった。

 前者は洗練されているといえば聞こえはいいのだけど色がなさすぎて実体を掴みにくかった。希薄な欲望、足るを知るが極まっているような印象があり、十把一絡げに言えないことは重々承知の上で個人的には最近の若者像を結んだ。

 後者は東京都同情塔という名前で実質刑務所なんだけども自由度の高い環境で管理する近未来型のものとして描かれている。刑務所内をジェントリフィケーションしてしまって素晴らしい環境を受刑者に提供し社会にインクルージョンしていこうね、という話。この塔が諸外国に比べて相対的に貧しくなりつつある日本を暗喩しているかのようだ。それと同時に先に紹介したライターの視点(外圧)が加わることにより、エゲツない勾留状況で海外からの難民を排除している現状の入管に対する皮肉にも受け取れた。その他にも女性が受ける性暴力の問題、死刑を含めた厳罰問題の是非、外圧でしか変わらない内向き姿勢など社会に横たわっている課題がさりげなく配置されており、直接物語の推進力に寄与しないが明確に問題視している絶妙な塩梅が見事だった。

 また新宿御苑付近に超高層タワーとして建築される同情塔とザハの建築が対をなす描写が個人的に好きだった。近未来の東京、品のあるサイバーパンクとでもいえる艶やかさ。そして終盤に主人公および塔の内外の境目が曖昧になり一体化していく様は圧巻だった。御苑を舞台にしているのも課金制という内外の壁がある中で登場人物たちが壁を乗り越えて無効化していくのも示唆的に感じた。邪推も含めて楽しめる要素満載の芥川賞受賞も納得の快作!

2024年2月1日木曜日

一私小説書きの日乗 遥道の章

一私小説書きの日乗 遥道の章/西村賢太

 4冊目の日記集。前作の流れのまま同じフレーズを多用した日常の生活記録だったが、引き続きずっとオモシロいのだから著者の読ませる力が相当あるのだと思う。個人的に残念だったのは表紙絵。今回は手書き原稿が表紙になっているが、過去作の味わい深い黒と色のコントラストの絵であってほしかった。

 前作からの違いといえば頻繁に自炊しているところ。カレーをかなりの頻度で作っていた。あと行きつけの信濃屋では、お店で締めの丼や麺を食べていたのに、そこを我慢して「仕上げ」と称してわざわざ1人で別のラーメン屋で締めるようになっている。もともとtoo muchな食事はますます加速、もはや畏怖の念を抱くレベルだった。この食生活だと54歳で亡くなったのは納得せざるを得ない。

 テレビ出演の頻度は下がり作家業として締切に追われる生活が克明に描かれている。不規則な中でもクリエイティビティを発揮しようとストラグルする姿勢がカッコよかった。特に書けないときのもどかしさを食事、飲酒、買淫というストレートな欲求で紛らわせている点が正直でオモシロい。なお「買淫」という言葉は風俗へ行ったことを明示しており、その感想(あたり/はずれ)を最初の日記から毎回書いている。こういった内容に嫌悪を抱く気持ちは出版当時よりも加速している社会において「ほんとのこと」を書く彼の作家としての矜持を感じた。読んだ皆が感じるであろう「喜多方ラーメン大盛り」とのコンビネーションが生むグルーヴ、これはまさに人間の業だと思う。こんなに端的に人間の欲を表明している表現もそうそうない。

 基本的に繰り返しの日常の中でも人への悪口を書く場面があり、そこでの筆が踊るかのような文体がたまらなかった。極めて露悪的だと思うものの、ここまでの表現になると完全に芸だと思えた。流行りの論破とかそういうレベルではない。特にネット記事の記者に対するネチネチした罵詈雑言の精度がめちゃくちゃエグかった。残り三作も楽しみたい。

2024年1月29日月曜日

サイボーグになる

サイボーグになる/キム・チョヨプ ・キム・ウォニョン

 キム・チョヨプの新作が出たと聞いてググっているときに本著の存在を知って読んだ。知らない領域のめちゃくちゃ興味深い内容で読書アドレナリン出まくりだった。障害を持つ当人たちの言葉は重く深いものであった。

 チョヨプ氏が聴覚障害、ウォニョン氏が足に障害を持つ当事者であり、そんな彼らが障害と社会、テクノロジーなどについて考察した論考が交互に登場、最後に2人が対談する構成となっている。チョヨプ氏は膨大な量の学術論文を引用しており比較的堅め文章であるのに対して、ウォニョン氏は具体例多め、エッセイのニュアンスも多分に含まれた柔らかめの文章になっており、それらが交互に登場することでいいバランスになっていた。障害に関する社会の受け止め方の現状を事実と情緒の両方から見ているとも言える。

 タイトルの「サイボーグ」は補聴器や車椅子といった補綴器をつけた人間のことを指しており基本的な論点は人間と補綴器の関係のバランスに関するものが多い。それは使用者からの捉え方や社会側の受け止め方まで角度はさまざま。一番わかりやすかったのはホーキング博士に対する視点。彼はALSを患っていて電動車椅子を使用していたけど「車椅子を使用する人」を超越するアイデンティティを持つため、車椅子は脇役でしかないと。一方でそういった強いアイデンティティを持たない障害者の場合、社会の受け止め方として障害が最初のラベリングになってしまう。こういった普段は考えないような微妙なグラデーションの差を一冊通して考察、深堀している。

 科学の進歩、テクノロジーの発展により障害が治療可能になったり以前よりも快適な状況を提供可能となった時代。しかし、それだけで障害に関する問題がすべて解決するという考え方に対して2人とも批判的である。本著を読むまではボトルネックになっているのは具体的な障害のみで、そこが解決すればクリアになると思っていたし、最近は義手、義足などもスタイリッシュとなり、それこそポストヒューマン的な語り口と共にかっこよさを滲ませる文脈さえある。そういった考えがいかに浅はかなのか痛感させられた。チョヨプ氏は本著内で「正常化の規範」と呼んでいたが、社会において凹んでいる部分が障害で、それを埋めれば良いという考えを批判している。その埋め方や埋めた後のことを考えている人が少ない。つまり現在の障害者にまつわる諸々は圧倒的に当事者性が低いという主張だった。そういった声を聞かずに挙句の果てには感動ポルノの材料にしてしまう場面もある中、いかに障害者自身の意見や考えを世の中に浸透させていく必要があるか、もしくはデザインや開発に直接携わる必要があるかを解説してくれている。なんとなくの認識のふわっとした議論ではなくリアリズムを見つめ愚直にひとつひとつ論考していく足腰の強さを文章の端々から感じた。

 社会が障害をスティグマとして取り扱ってしまうことで彼らの権利を暗黙の了解で侵食してしまっていることにも気づかされた。スティグマだからこそ隠したくなってしまう、卵が先か鶏が先かの議論ではなく明確に社会の認識から変わっていかなければならない。関係ないと思っていたとしても、人間誰しも突然の事故であったり老いや病気など、死ぬまでに「正常化の規範」から外れるときが必ず訪れる。他人ごとの人間はいない。そのためにできることの一つとして以下の一文が力強い。本著内で相当な頻度で引用されている伊藤亜紗の本を次は読んでみたい。

自分たちは未来に介入できるのだという認識から、そして迫りくる未来をただ受け入れるのではなく自分たちが未来の方向を変えることもできるのだという感覚からスタートしてみたい。

2024年1月24日水曜日

私の文学史: なぜ俺はこんな人間になったのか?

私の文学史: なぜ俺はこんな人間になったのか?/町田康

 ギケイキシリーズを読んで新たに盛り上がってきた個人的な町田康に対する熱。著者の背景を知れそうな1冊があったので読んでみた。自身を振り返りながら、手の内こんだけ明かすの?と読者が心配になるくらいに創作の秘話を語っており、めちゃくちゃ興味深かった。ブログ等で駄文を綴る私のような人間、ひいては文字で何か伝える人全員に刺さる内容だと思う。

 小説家の中ではかなりマルチな仕事が特徴的であり、そのスタイルに至るまでの流れを幼少期に読んだ本から影響を受けた作家など様々な要素を踏まえて語っている。対談やインタビュー形式ではないことで自分語りをせざるを得ないがゆえの情報量がふんだんに詰まっていた。また講義を書籍化しているのでかなり読みやすいし、著者の書き言葉ではない語り口を味わえてよかった。(本著内にもあるとおり話し言葉を文学へ積極的に取り込んだ1人ではあるが、それとはまた別のtalkという意味で)

 文章を書くことに対する著者の態度、考えが個人的には一番興味深かった。どちらかといえば破天荒な小説が多いので直感的かと思いきや想像以上に理詰めで何がオモシロいのか?に関する考えが解像度高く明らかにされている。それは長いキャリアを振り返って見出した解かもしれないが、それにせよこれだけ自己分析して語ることのできる作家はどれだけいるだろう。小説においては文体論がめちゃくちゃオモシロかった。音楽のミキシングをアナロジーとして文を書くときにどんな要素をどれだけ入れ込むかが大事だという話はかなり勉強になった。以下引用。

時折、ある一つのトーンで埋め尽くされて、本人は「カッコいいな」と思ってんやろうなという文章ってありますね。「恥ずっ!」みたいな。それは仕事でもあると思うんですけど、カッコよさだけで塗り固めていると、やっぱり、響きがない。

 随筆の書き方の話も納得することばかりで著者曰く、おもしろいことは「本当のこと」だと著者は主張していた。何気なく文章を書いていると、自意識に絡め取られたり、社会などを想定してどうしても少なからず建前の要素が入り込んでしまう。そこに引っ張られずにシンプルに本当に感じた気持ちを書くのが一番オモシロいと。著者は西村賢太をそこで引用しており、まさに!と思ったしベクトルは別だけども植本一子さんの日記がオモシロいのも同じ理由だろうなと感じた。

 作品語りもめちゃくちゃオモシロくて特に井伏鱒二の『掛持ち』という小説の紹介内容は完全な門外漢でも思わず読みたくなる内容だった。また終盤の古典論も興味深く流行りものに対する熱狂の嘘くささから身を置くために古典があるという話や、そうやって今の時代と距離を取ることで人間の本質を見つめることができる古典の良さなど、まさしくギケイキシリーズを読んで感じたことが言語化されていた。

 そしてラストにある「魂の形を自らの言葉で塗る」という章がマジでとんでもない。「文学の言葉の中で生きたい」というテーマで自分の魂と言葉の関係性を語っているんだけど、全文引用したくなるレベルでかっこよかった。大衆、社会の影響を受けて思考停止で使ってしまう言語をオートマチック言語と名付け、それに対して文学で抗っていく姿勢の表明が本当に痺れた。一番好きなところだけ引用。まだまだ読めていない作品だらけなので、ゆっくり楽しんでいきたい。

自分しかわからん魂を持っていることが、人間はたまらなく寂しいんです、孤独なんです。だから、この、自分しかわからん魂を一人一人が持っているということに対して形を与えたいんです。(中略)魂って形がないですから、言葉によって塗り固められるから、言葉がしょうもなかったら、魂がしょうもないということとイコールになってまうんです、文学化したときに。その魂に形を与えて、外側に出して、自分も他人も見るというふうにした場合、それが、しょうもない言葉で、一色の自動的な言葉で塗られたというのは、それはしょうもない話なんです。

2024年1月22日月曜日

第四間氷期

第四間氷期/安部公房

 ブックオフとか古本屋で安部公房の新潮文庫で銀の装丁のやつがあると買うようにしている。本著も以前に買って積んでいたので読んだ。どの作品もめっちゃ好きだけど、この作品も例に漏れず好きだった。これが1950年代に書かれていたことには驚くしかなかった。

 今流行りの人工知能がテーマ。マザーコンピュータ的な人工知能が未来を予測することに成功し、その未来に対して人類がどのように考え、アプローチするかというのが大筋。前半は推理小説仕立てになっていて、とにかく謎が膨らみまくるし、アクションシーンも多くシンプルにエンタメとしてオモシロかった。また会話劇が中心になっている点も意表を突かれる構成で堅めの内容の割に読みやすくはあった。

 未来をどう評価するかがテーマとなっており、著者自身のあとがき、文庫の解説でもかなり踏み込んで考察されている。現在を犠牲にして未来を優先するのか?といった、現在から未来を評価する意味を問うており、SFというジャンルに対して批評的であった。SFでは物語を通じて未来のことを肯定したり否定したりするけど、それって結局現在の価値観を尺度にしているよねという指摘。ゆえに堕胎であったり、その胎児を水棲動物にするといったように現在の価値観からするとエグめの設定を用意しているのが秀逸だった。挿絵として各シーンの版画が掲載されているのだけど、絵の内容もあいまって正直面食らった。未来の話をする上で子どもは最たる象徴であり、そこを躊躇なしに異形のものとして描いているのはかっこいいと思う。シンギュラリティの結果として第二の自分が発生し、それに自らの運命を翻弄される点も興味深かった。繰り返しになるが、このように未来的な描写のどれもが1950年代と思えないし著者の先見の明にただただ驚くばかり。(もしくは我々の未来に対するイメージが更新されていないだけかもしれないが)

 現在を大切にして未来の課題を先送りにしようとする主人公の姿勢が終盤には裁判のようなアプローチで断罪されるのだけど「これだから年寄りは」という一種の諦念じみた目線を部下から送られるシーンがたくさんある。これも今読むと胸が苦しくなる。どっちも間違っていないものの未来を大切にするエレガンスに対して現状維持する保守ってどうやっても今の時代は勝つの難しいよな〜と個人的には感じた。こういった古典を読む時間も今年は大切にしていきたい。

2024年1月19日金曜日

黄金比の縁

黄金比の縁/石田夏穂

 SNSでプロットをたまたま見かけたのだけど、それだけであまりにもオモシロそう過ぎて読んだ。そして期待を裏切らない完成度で最高の読書体験だった。じゃあそのプロットってなんやねん?という話だけども、こんな感じ。

「会社の不利益になる人間を採る」 不当な辞令に憤る人事部採用チームの小野は、会社への密かな復讐を始める――。 (株)Kエンジニアリングの人事部で働く小野は、不当な辞令への恨みから、会社の不利益になる人間の採用を心に誓う。彼女が導き出した選考方法は、顔の縦と横の黄金比を満たす者を選ぶというものだった。自身が辿り着いた評価軸をもとに業務に邁進していくが、黄金比の「縁」が手繰り寄せたのは、会社の思わぬ真実だった……。

 就活ものクラシックとして朝井リョウ『何者』があるが、本著は雇う側の視点で描いた新たな就活ものクラシックと呼んで差し支えないだろう。人事側の視点を描くだけで新鮮なのに、さらにもう一捻りして「会社の不利益」になる人間を選んでいくという最高の舞台が整っている。さらにその舞台の上で日本における就活の批評を進めていく構成が本当に見事だと思う。本著では取材の成果なのか、人を選ぶことに対する圧倒的なリアリティと胡散くささがパンパンに詰まっていた。たとえば「ここが変だよ日本の就活」という新書が仮にあったとしても、それは単なる「あるある」の塊に過ぎず、ここまでの共感を得ることは難しいと思う。また自分自身が似たような環境の会社に在籍しており小説で描かれる欺瞞性は日々感じている。それが相当な精度で言語化されていることに驚いた。最近の状況を端的にワンラインで表してるなと感じたのはこのライン。

とっとと辞める秀才とずるずる勤続年数を重ねる凡人。前者と後者なら、どちらがより会社に有害なのか。

 主人公が女性、かつ女性が圧倒的マイノリティにあるJTC(Japanese Traditional Company)という設定もあり言及できる要素が多い。一般的な正論を表向きは掲げざるを得ない人事業務だとしても、そんな正論だけでやっていけない現状のオンパレードなんですよという一種のネタバレのような展開が多いのも特徴的だった。就活において人事が社会的な正しさ(SDGs!)を主張したり、逆に就活の独特の風習を論破するといった光景はよく見るかもしれない。しかし本著がそれらと一線を画すのは正論と現実の狭間を描いているから。正論、社会的な正義を疑ってかかる姿勢は朝井リョウ『正欲』に類する姿勢であり、今の時代におけるフィクションの役目を果たしていると思う。

 タイトルにある「黄金比」は顔の物理的な尺度であり人の中身ではない。社会において見た目で判断してはいけないという割には『人は見た目が9割』という本が人気だったり、ことさら誰にどう見られるかを意識しないといけない場面が多い社会についてアイロニーを交えて描いている。そんな見た目の話で刺さったのはこのライン。

人を見た目で判断するのがダメなら、なぜ私たちはこうも表情にうるさいのか。人を表情で判断することは大いに推奨されている。私はこう言う。表情も同じ見た目だと。

学歴とか選考とか笑顔とか挨拶とか喋り方とか身なりとか、結局のところ自己申告でしかない。「ガクチカ」には過剰反応する癖に、何より如実に提示される顔の寸法には、なぜ皆サンこうも無関心なのだろう。

 さらにタイトルにある「縁」という言葉。就活において落とす際に使われる常套句「ご縁がありませんでした」の違和感をこれでもかと追い込んでいくラインもなかなかシビれた。よく考えてみると、仕事の中で何かを断ったり辞めたりする際に「縁」という言葉を使うことなんてありえないのだから著者の指摘は至極真っ当だと感じた。

「縁」と口にすることにより、誤魔化される生臭さがある。「縁」により蓋をされ、丸め込まれる罪深さがある。だってそれは「縁」などではないのだ。他でもない採用担当、お前自身が、ジャッジしているんじゃないか。

 読了後にインタビューを読むとさらに理解が深まって良かった。芥川賞候補になった『我が友、スミス』もオモシロそうなので読んでみようと思う。

『黄金比の縁』刊行記念インタビュー 石田夏穂「人間が人間を選ぶことの胡散臭さ」

2024年1月17日水曜日

一私小説書きの日乗 野性の章

一私小説書きの日乗 野性の章/西村賢太

 エッセイに続いて日記本の3冊目を読了。本業の小説を読んでないことに気が引けるが、とりあえず日記を全部読んでみようと思う。内容としては通常運転。日常のありがたみを感じた。

 2013年段階ではまだまだ芥川賞バブルが続いており作家業だけではなくタレントとしても活発に活動している。当時TOKYO MXの番組は少し見たりしてたので、その頃をレミニスした。あとは浅草キッドの2人との関係性が深まったのもこの頃で特に玉袋筋太郎氏との悪友録的な展開の数々はオモシロかった。仲良すぎて殴り合いの喧嘩した挙句、お互いお菓子持参で手打ちしてるのは笑った。また新潮社の面々との関係はあいかわらず特別で愛憎入り乱れる感じがとても好きだった。

 今の時代、手書きの作家がどれだけいるのか分からないけど、一旦ノートにあらすじを書いて、それを手書きで原稿に清書するという超ローテクの作家は今後生まれないだろうから貴重な存在だったのかもしれない。終盤、身体を痛めるシーンがあり、そこで手書きの弊害がモロに出ていた。ただ本人が師匠と崇めている藤澤清造然り、往年の作家たちの手書き原稿が高値で取引されている背景を踏まえると彼の原稿もこれから他の著名な作家と同じく取り扱われるだろうと思うと本人は天国で感慨深く思っているだろうか。

 食べ過ぎの日々は相変わらず続いており、痛風をコントロールするためにビールを飲んでいるところに酒飲みの執念を感じた。この日記を読むと暴飲暴食モード高まるので自戒しつつ彼に見習ってアグレッシブな飲酒ライフも楽しみたい。