2022年3月31日木曜日

春の庭

春の庭/柴崎友香

  日本の小説家の本を最近読んでいなかったところに今村夏子の衝撃があり、自分が知らない世界がまだまだあることを痛感して以前から気になっていた著者の作品を読もうということで読んだ。こんなに何でもない話なのに小さな機微の1つ1つにグイグイ惹かれる感覚でオモシロかった。

 街・家と人の記憶の関係性というのが大きなテーマとしてあり、縦軸の時間、横軸の場所を変数として登場人物たちの思考が展開していくところがオモシロい。同じアパートの住人同士で交流があるのは非現実的に感じつつも、程よくドライな上で1つの目的に向かって最後収束していく点が好きなポイントだった。

 本著を読むと自分が過去に住んでいた街・家を思い出し、その頃をレミニスする時間が必ず生まれる。しかも自分がすっかり忘れていたような些細なことを。これは小説にしかできないマジックだなと感じた。

 また東京の街の記憶としての話でもある。世田谷区を舞台として貧富の差がある中で共生しているのが徐々に瓦解して再開発で均一化していく、その前段の空気みたいなものがパックされている。表題作が発表された2014年はここまで世界が様々なレイヤーで「分断」するだなんて想像もつかなかった。

 文庫版は堀江敏幸氏による解説がついている。久しぶりに「小説を読む」という行為の奥深さを突きつけられて、ここまで散々書いてきたものの結局何も分かっていないのかもしれないと気持ちを引き締めることになる最強すぎる解説だった。それはともかく他の作品も読んでいきたい。

2022年3月26日土曜日

アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した

 

アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した/ジェームズ・ブラッドワース 

 高橋源一郎の新刊で紹介されていたらしく、その宣伝で見たこのラノベのようなタイトルに惹かれて読んだ。イギリス出身の著者が実際の労働現場に潜入取材して表面上では分からない実態を深堀していてとても興味深かった。

 冒頭にエクスキューズが用意されており、中流階級で実際に貧しい環境にいるわけではない著者が潜入取材する意味が語られている。本来であれば当事者の言葉で語られるべきだが、彼・彼女らにはそんな余裕はない。だからこそ自分が最前線に立ち、格差で分断され見えなくなってしまった社会の現状を伝える必要性を訴えていた。語り手が単純な興味本位で覗いただけ、ちょっとしたバズ狙いなどではないことが説明されていて読者としてモヤる部分は減った。

 タイトルにあるアマゾン、ウーバーは大手のテック企業であり何となく企業倫理もちゃんとしているだろうと思いきやテクノロジーを媒介とした搾取システムがそこにはある。難しいのは多くの人がそのテクノロジーの恩恵を受けて今までより便利な生活を手に入れているため、一概に否定できないところ。また雇用を産んでいることも事実。ただしその雇用の中身があまりにも残酷すぎることを生々しい筆致で本著は読者にレポートしてくれている。アマゾンのピッカーの仕事は映画「ノマド」でも描かれていたが、現実はもっとハードだった。日本でも技能実習生制度で海外からの労働者を酷使しているがイギリスでも同様の状況は存在する。本著内の言い方を借りれば「弱い人の時間を盗む」といったところ。結局資本主義の蔓延による国家間の格差が過酷な状況を生んでいるのだなと思った。社会的弱者(イギリスの場合は移民)の立場を利用して利益を得る。そしてその人たちが団結しないように孤立させておく。こういう環境がシステマティックに用意されていることが怖いなと思う。

 この本の優れているところはテック企業による新しい仕事と介護・コールセンターのような昔からの仕事を対比させている点だと思う。前者ではテクノロジーが支配する過酷さ、人間味のない非情さがある一方で、後者は人間が介在することによる感情労働の辛さがある。テクノロジーは公平だというイメージを持ちがちだが、企業の利益を最大化する前提での「公平」なんだという当たり前の事実を改めて気付かされた。これは2つの対比があるからこそ余計に伝わってきた。無邪気に使っているサービス、製品が搾取で成り立っていることが増える世の中で自分が何をできるのか考えなければならないと心底思う1冊だった。

2022年3月16日水曜日

インターネットは言葉をどう変えたか デジタル時代の<言語>地図

 

インターネットは言葉をどう変えたか/グレッチェン・マカロック

 インターネットと言語学の組み合わせとか絶対おもしろいやんと思って読んだら想像の何倍も上の面白さだった。インターネットのことって授業などで体形的に学ぶというよりも、そこにあるので自分の肌感覚で知る情報が多いと思うけど学術的な観点で解説してくれていて興味深かった。

 8章から構成されており「言語と社会」という形で丁寧な議論から始まる。社会においてどのように言語が根を張っているか調べることは昔だと膨大な労力がかかっていたが今や TwiiterのTweetを中心に解析することで良質なサンプルを簡単に取得できるようになっている。(ジオタグ付きのTweetの解析で方言エリアマップまで作れる!)それが可能となっているのは、今がもっとも言葉を綴ることにコミットしている時代だから。その生活を送っているので当たり前になっているけどチャットツールとSNSだけでめっちゃ文字打ってるなと思う。日々、我々がネット上で放っている言語がどう変遷してきたかをがとにかくオモシロい。

 まずインターネットを使う人を「インターネット人」と呼び、使用開始のタイミングで分類。 それぞれのインターネットに対するアティチュード、前提条件が異なる。(初期から使用している人たちがインターネットを信仰する気持ちがあるがゆえに見知らぬ人との交流を望む一方で、後から参加した人は実社会の関係をインターネットに落とし込んでいくなど)これらが見えない状態でSNSを見ているからこそ、良い意味ではフラットだし、悪い意味ではストレスかかる部分があるのだなと再認識した。個人的には仕事とかで「この人は〇〇インターネット人だな」と心の中で分類すると楽になる部分もありそうに思えた。

 で結局何がオモシロいかといえば、インターネット上におけるタイポグラフィ、絵文字などを通じた書き言葉による感情表現の考察。メール、SNS、チャットツールなどを用いて人に書き言葉で何かを伝える場面が圧倒的に増加する中、表現がどのように変遷してきたか?またその表現が口頭の会話では何に該当するのか?など、言語学者である著者が懇切丁寧に説明してくれている。大文字、小文字、波線 (〜)、三点リーダ、顔文字、絵文字をいかに駆使してニュアンスや感情を伝えるのか?テレワーク下でメール、チャットカルチャーとなった今、一番要求されているスキルだと思う。日々感覚で書いていたものをこうやって言語化してもらえると客観視できるし、年配の方のperiodスタイルから感じる若干の怒気にも理由があると分かって良かった。特に絵文字のくだりが興味深くて感情をダイレクトに表現していると思っていたけど絵文字はジェスチャーだという主張が興味深かった。

 ハッとする例えもいくつかあり、固定電話の導入されたときとチャットツール導入はインターラプトの観点でみれば同じとか。家でもない、職場でもないサードプレイス(カフェやバー)とSNSを重ね合わせて他の客の迷惑になっている人を追い出す妥当性を説いていたり。インターネットとリアルライフが切り分けて語られることに異論を唱えていて、もはやインターネットは実生活の一部なのだという主張も上記内容からして納得できた。

 本著の最後にも書かれている、著者が一貫して言語が権威化すること、つまり辞書に載るものだけが正しいという価値観に疑問を呈している点がかっこいい。言語とインターネットの相性がいいのは言語も常に変化していくものであるからだと主張している。最高に体重が乗った文章があったので長いけど引用。

口調のタイポグラフィへの注目が集まった結果、標準的な句読記号の使い方が廃れるとしても、わたしはもともと独善的でエリート主義的な人々がつくった標準の衰退を喜んで受け入れるだろう。そして、仲間たちがもっと深くつながれるほうを選ぶと思う。第一、赤ペンはわたしを愛し返してくれない。句読記号の打ち方の規則に完璧に従えば、ある種の権力は手にできるかもしれないけれど、愛は手に入らない。愛は、規則のリストから生まれるわけではない。私たちがお互いに注目し合い、相手に及ぼす影響を心から気にかけたとき。規則を習得するのではなく、自分の口調を伝えられるような方法でものを書けるようになったとき。権力のためではなく、愛のためにものを書くことを覚えたとき。そんなとき、どこからともなく、新しい愛が生まれる。

2022年3月6日日曜日

父と私の桜尾通り商店街

父と私の桜尾通り商店街/今村夏子

 個人的に盛り上がりが止まらない今村夏子作品。本著も楽しんで読むことができた。人生の何とも言えない場面を切り出して物語化する才能が溢れているのは健在。過去作品と打って変わってかなりファンタジー寄せな「ひょうたんの精」「せとのママの誕生日」という変化球も収録されておりさながら幕の内弁当だった。

 とはいえ、やはりメインとなるのは子どもの素直さとそれに対する大人の欺瞞。「白いセーター」「モグラハウス」「父と私の桜尾通り商店街」この3作品はどれも後味が「今村夏子〜」と言いたくなるような話でめちゃくちゃオモシロかった。全部微妙にテーマが違うのだけど既視感のある場面できっちりドラマを用意してくれているのが毎度ながら最高。難しい言葉で難しいことを書くことよりも平易な言葉で簡単なことを書くことの方が難しい。これはよく言われることだと思うけど著者の作品を読んでいると特に感じる。表題作は新規軸だった。商店街で村八分にあっているパン屋の娘が主人公で、父が店をたたもうとする中で起こる逆転。既存の価値観は放り投げて新しい価値観へ進み始める表現としてこんな物語が書けるなんて。。。村社会はクソと誰でも言えるが、そのクソとどう共に生きるのか?その未来の一歩手前で終わる物語の切れ味に鳥肌がたった。 

2022年3月5日土曜日

ケアの倫理とエンパワメント

 

ケアの倫理とエンパワメント/小川公代

 「ケア」という言葉を意識したのはブルシットジョブを読んだとき。コロナ禍の今、エッセンシャルワーカーによるケアが話題になっている中で広い意味を含むケアを知りたくて読んでみた。こちらの意図を十分満たす本だったのは当然のこと、優れたブックガイドの側面が強く読んでみたい本が増えた。

 タイトルにある「ケアの倫理」はキャロル・ギリガンというイギリスの社会学者が唱えた言葉で、著者が彼女に影響を受けながらも社会学から文学研究へとシフトしていく話が序章として用意されている。フェミニズムの観点だとケアというより自立した個を目指すべき、という主張が強いと思うけど、その対義の存在となりがちなケアする立場の人について思いを巡らす必要性を説いている。

 知らない言葉がたくさん出てきて、そのどれもが使いたくなる。ネガティブ・ケイパビリティ、クロノス的時間、カイロス的時間、緩衝材に覆われた自己、多孔的な自己など。こういった知らない概念を丁寧に説明してくれながら文学作品を読み解いていくので知的好奇心がとても刺激された。紹介される文学作品の多くは読んだことなかったけど、本著で提供されえう作品の立て付けを前提とすることで「ケア」の概念に関する理解を深めることができるだろう。唯一読んでいた多和田葉子の「献灯使」だけでもその視点の鋭さに唸りまくりだったし、ヴァージニア・ウルフ、三島由紀夫、平野啓一郎など興味あるものの個人的には未読系作家の話がどれも興味深かったのでそれらを読んで本著を再読したい。

 文学を読みながらここまで深くメタファーや社会背景をふまえて理解していく姿勢はすべてが加速していく今の時代に立ち止まって思考することの大事さを教えてもらった。著者が文学に可能性を見出しているラインが好きだったので以下引用。文学によるエンパワメント!

文学は読者のなかに新しい他者性の意識を芽生えさせる驚異的な営為なのだ。

他者の言葉を聴こう、他者の気持ちを理解しようとすることは忍耐力が必要であるという点で、文学の営為にも通じる。物語を創作すること、あるいは読むことは、誰かの経験に裏打ちされた想像世界に向き合い、じっくり考えて耐え抜くプロセスでもある。

2022年3月1日火曜日

あひる


あひる/今村夏子

 最近立て続けに今村夏子を読んでおり、その流れで読んだ。「星の子」「こちらあみ子」と読んできたけど本著も間違いなくオモシロかった。毎回心の奥深くをサクっと刺してくるところが本当にかっこいいと思うし間違いなくテン年代を代表する日本の作家の1人だなと三作読んで感じた。(マジで今更だと思いますが…)

 表題作がとにかくパンチ効いててめちゃくちゃ好きだった。庭にあひるを飼い始めた三人家族の娘の視点で物語が展開、学校帰りの子どもとあひるが楽しく戯れる微笑ましい展開から一転して、あひるの体調が悪くなり、いつのまにか別のあひるになっている。けれど、子どもたちには病院で治療してきたと伝える。このギミック1つでここまで不穏な物語にできるのが著者の筆力としかいいようがなくて圧倒された。大人のちょっとした欺瞞に対して子どもの視点をぶつけて、その矛盾をジリジリ炙り出すことに関して右に出る者がいないと思う。しかも、それをやだみなくカラッとしたエンタメにしてくれているのだからたまらない。このバランス感覚が著者がスペシャルな理由だと思う。

 また3作品読んで「貧困」が大きなメインテーマとして著者の中にあることも分かった。日本における総中流社会は終わりを告げていて格差社会真っ只中の今、貧困下にある子どもの視点で物語を綴ることで時代を反映していると言えるだろう。また大人視点ではなく子ども視点で貧困へのある種の屈託のなさを描いているのも白眉。単純なかわいそうな不幸話に回収するケースが多いと思うけど、貧困はある種当たり前のものとして眼前に存在する視点で語りながら、読者が想像を膨らませることのできる絶妙な余白があることで物語が豊かになっている。まだ読めてない作品があることが嬉しくなる感覚が久しぶりで本当に出会うことができて良かった。