2024年3月30日土曜日

ピン芸人、高崎犬彦



 同じ著者が漫才コンビを描いたおもろい以外いらんねんがオモシロかったので読んだ。R-1が芸歴制限を解除したことで再び注目が集まっているピン芸人。その鬱屈した感情や環境が丁寧に描写されており楽しく読んだ。

 タイトルどおりピン芸人の高崎犬彦が主人公で彼が脱サラして芸人デビュー、そこから売れっ子になるまでを三人称視点で描写している。器用さを持ち合わせない彼が笑われる側から笑わす側へとなんとか移行しようと悪戦苦闘する姿は自己実現を果たそうとする人間として映るので仕事論とも言える。自分が好きなこと、やりたいことが評価される訳ではない。

 脱サラという設定も示唆的だった。アウトサイダーとして憧れた芸人が社会におけるパブリックな存在になってしまったことで品行方正を要求される。またバラエティに出たとしても場の調和を大切にするサラリーマン的な振る舞いを要求されるのであれば一体なぜ芸人になったのか悩むのは当然だ。言われてみればその通りなのだが、この逆説的なアプローチが新鮮だった。

 芸人は芸を肥やしに生きる仕事のはずが、その場の空気に合わせた道化のような振る舞いが評価される。ネタ原理主義と売れっ子になることのギャップをどう考えるか?というテーマは前作の『おもろい以外いらんねん』でも取り上げられていたが本作でも向き合っている。ピン芸人の場合はコンビやトリオと違って1人なので、さらに煮詰まっており各芸人の小宇宙同士のぶつかり合いが繰り返し起こる。そこでぶつけ合う主義主張には著者のお笑いに対する批評性を感じる。なかでも「お笑い芸人に象徴させすぎ/背負わせすぎ問題」に意識的だった。芸人はニュース、バラエティ、CMなど、今やエンタメ/非エンタメ問わずそこかしこに入り込んでいる。ポップカルチャーゆえの責任を背負うかどうかの過渡期の今、本著が一種のタイムスタンプとして機能することになるかもしれない。

 小説では文字でネタを書いて表現しなければならないので主要人物のネタ形式は漫談となっていた。文字で読んでもオモシロくならないという可能性については、主人公がどちらかといえばスベり芸というポジションとすることで回避していた。あと「ネタは別の世界なんで…」というエクスキューズとして文字の大きさを変えるという見た目のギミックを使い、ネタと小説を区別するのは効果的だった。

 以下のラインは日本のピン芸とUSのスタンダップの比較から今の状況を婉曲的に批評しており新たな視点だと感じた。考えないで笑うことに慣れきっているが頭のどこかに留めておきたい。

反射で笑わへんってことは、裏を返せば反射で中傷せえへんってことやろ?きちんとした境い目があったら、演者を守ることになると思うねん。芸人って図太いし、お客さんと一体になって生まれる笑いがめちゃくちゃ気持ちいいのはわかってるけど、それだけじゃない仕組みが必要なんちゃうかな。

2024年3月29日金曜日

最後の音楽:|| ヒップホップ対話篇

最後の音楽:|| ヒップホップ対話篇/荘子it, 吉田雅史

 久しぶりにヒップホップ批評的な本が出るということで楽しみに読んだ。2人のそれぞれの見立てのユニークさとゲストも含めスイングしていく対話がめちゃくちゃオモシロかった。

 「ヒップホップと〇〇」という形で章立てされている構成で複雑化しているヒップホップのカルチャーとしてのあり方を解きほぐしていく。各自によるコラムも一部あるが、ベースとなっているのは著者2人による対談でそれを再構成している。ゆえに難しい哲学的なアプローチの議論もかなり理解しやすかった。同じ内容を書き言葉で堅めに表現するよりもこの形式のほうが門外漢に対して間口が広くて良い。

 今や世界的なポップカルチャーとなり、ここ数年は日本でも加速度的に人気が高まっているヒップホップ。表面だけみればパーティーカルチャーに見えるが、その奥には縦にも横にも斜めにも広がるかっこよさの多様さがある。それは「Dope」や「 ill」 という言葉で表象されており、こういったかっこよさについて論考していく内容となっている。自分自身がヒップホップを好きになったのは本著で主張されている「ズレ」が大きな理由の一つであり、彼らの議論によって具体的に言語化されることで気づくことがたくさんあった。今の時代、なんでも正しく綺麗なものがもてはやされる一方で間違っていて汚ないものは価値がないと判断されてしまう。しかし、そこで価値転換を起こすことができる点にヒップホップの素晴らしさがある。本著内で繰り返し言及されるようにすべてがシミュレートされてしまうポストモダン社会における大きな役割をヒップホップが担っていると言っても過言ではないだろう。

 ゲスト陣も鉄壁で菊地成孔、Illcit Tsuboiのチャプターが出色だった。菊地成孔とはヒップホップの文学性を議論しており、リリックの内容やライミングのありかたといった定性的なものから、リリック内のボキャブラリーの数といった定量的分析まで全方位に話が転がっており興味深かった。ラストの金原ひとみウェッサイ論は飛距離がハンパなかったのですぐに読みたい。そしてIllcit Tsuboiのチャプターは目から鱗な話の連続だ。氏のTwitterでは音響的観点でレコードや新譜のヒップホップについてツイートされているが、そのベースにある考えを知ることができて大変参考になった。「ヒップホップはマスタリングの音楽である」とはJAZZ DOMMUNISTERSの”One for Coyne”におけるN/Kの言葉だが、そのくらい他の音楽に比べて音の質が議論になる。もともとサンプリングベースの音楽だったことも影響していて、ダーティーさ、ラウドさといったノイズの要素をどのくらい入れるかが一つの主張にもなる。荘子itはそこにキャラクターさえ投影しようとしていて興味深かった。長く信頼されているエンジニアだからこそのエピソードも多く、ECD『失点・イン・ザ・パーク』やBuddha Brandの『人間発電所』の製作秘話など知らないことだらけ。特に前者は読後に聞くと圧倒的に解像度が上がりめちゃくちゃかっこよく聞こえてびっくりした。これもキャラや記名性に通じていて純粋な音楽だけの魅力だけではなくコンテクスト重視の音楽だからこそなのかもしれない。

 あと驚いたのは日本のヒップホップに対する批評的眼差しだ。Creepy Nutsや舐達麻といった今の人気どころをズバッと言語化してしまう荘子itの鋭さにドキッとさせられる。Dos Monosは意識的にいわゆる日本の「ヒップホップシーン」と距離を置いているがゆえに言えることが多分にあり、ライターたちの大半が御用聞きのインサイダーと化した今、批評的な眼差しのあり方は貴重だ。本著全体から見ればわずかな量だが、こういう目線の日本のヒップホップの本がもっと読みたい。

 こんな駄文の連なりでは到底語りきれないくらいに議論は発散しているのだが、それを支えているのは吉田雅文氏のヒップホップに対する博覧強記っぷりであることは間違いない。吉田氏のヒップホップに対する広く深い理解と愛があり、なおかつ本人および荘子itがプレイヤーだからこその対話となっている場面が多い。たとえばサンプリングの切断をモチーフとした議論はビートメイカーかつ批評もできる2人にしかできないものだった。今や調べれば何もわかる時代ではあるが、こうやって対話の中で自分の知識をコンテクストに応じて出していくのは簡単なようで難しい。この粒度でヒップホップを語ることができる人はいないので、いつの日か新たな切断面から再び反復して最後(latest) を更新して欲しい。

2024年3月27日水曜日

韓国文学の中心にあるもの

韓国文学の中心にあるもの/斎藤真理子

 以前に友人から薦めてもらってやっと読んだ。パク・ミンギュの『カステラ』が翻訳大賞を取ったあたりから急速に日本で読める作品が増えた印象のある韓国文学の水先案内人として素晴らしい内容だった。とにかく読みたくなる本が増えまくって嬉しい悩みである。単なるブックガイドにとどまらず文学を読むことは歴史や社会と向き合うことなのだと言わんばりに韓国の歴史に関する話が多く大変勉強になった。

 年代を遡っていく形で韓国の小説を丁寧に紹介してくれている。著者は翻訳者で近年の韓国文学の人気の立役者。翻訳されていることもあり各書籍に対する読み込みの精度が非常に高い。ゆえに読んだことのある作品でも知らなかった背景や著者が込めた意図などが知れて興味深かった。そして作品を魅力的に語るのが本当にうまい。紹介、批評、感想のちょうどいいバランスは見習いたい。

 韓国文学のいい意味での身近さを感じて夢中になって読むことが多いのだが、それについて『82年生まれ、キム・ジヨン』を通じてズバリ言語化されていた。

自分につながる女性たちの歴史を振り返るためのツールとして、韓国の小説はまことにちょうどいい弾力を持っていたのだと思う。その壁に「思い」をぶつけてみると、手ごたえのある「考え」がはね返ってくる。それはあらかじめ想像がついてしまう日本の物語にも、文化的背景が大きく異なる欧米諸国や南米、アフリカ大陸などの物語にもできないことだ。似ていて違う韓国の文化だからこそ、それが可能になったのではないだろうか。

こういった身近さ感じる一方で歴史的背景が全く違う国であることを読み進める中で痛感させられる。著者も言及していたが、日本国内の韓国に対するカルチャーを中心とした現状の消費状況は沖縄に近いものがある。表面的なものを享受し辛い歴史や背景は見て見ぬ振りをする。「日韓」のモヤモヤと大学生のわたしを読んだ際にも感じたが、ただの隣国ではなく加害と被害の関係があることを忘れてはならない。

 今回読んで特に感じたのは死に対する距離感の違いだ。朝鮮戦争時における南北の同民族間での報復合戦や凄惨な歴史的事件、近年の事故などで失われた命とその失われ方を通じて培われた死との近い距離。それに正面から向き合い小説へと昇華していく作家たちのかっこよさがよくわかる。また韓国映画における救いのなさと結びつけられることで大いに納得した。

 今では民主主義国家としての韓国がそこにあるが、第二次世界大戦以降この状況を勝ち取るまでに経た険しい道のりは想像をはるかに超えた困難なものだった。もともと歴史に明るくないが、距離の近さに反比例するかのように知らないことが多過ぎる。彼らの民主主義に対する高い意識、本著の言い方を拝借すれば「重い足腰」を知ると日本における「民主主義」はお飾りにしか見えなくなってしまった。様々な場面で選択を要求されてきた歴史が長いからであり、その選択の責任を担ってきたからこその強さがある。そんな足腰を駆使した文学だからこそ人の心を大きく動かすことができるのだろう。

 終盤、日本の文学から当時の朝鮮戦争に対してアプローチしていた『されど われらが日々──』を取り上げた考察があり興味深かった。当時の大ベストセラーらしいのだが名前も聞いたことがなく世代の断絶を感じつつ著者自身の考えを含め逆サイドからの視点を踏まえた内容が興味深かった。これに限らず本当に読みたくなる本だらけだったので色々と読んでいきたい。

2024年3月23日土曜日

続きと始まり

続きと始まり/ 柴崎友香

 既刊を少しずつ大切に読んでいる柴崎友香氏の新刊がリリースされ、Sessionのゲスト回も興味深かったので読んだ。何も起こっていないように見えて、その実すべては変化している社会に対するステイトメントのような小説でめちゃくちゃオモシロかった。そして何度も身につまされる気持ちになった。普段置いてきぼりにしている気持ちや考えがこうやって立体的に小説で立ち上がってくると同じテーマのエッセイなどを読むよりも心に刺さる。見た目は限りなくノンフィクションだが、フィクションの醍醐味が詰まっていた。

 3人の主人公が用意されており、2020年以降の各年月に主人公たちがどのような生活を送っていたのか一冊の詩集を軸にして描かれている。立場、年齢、性別、仕事いずれもバラバラながらもコロナ禍や地震といった共通の災禍を通じて各自の感情のあり方をあぶり出していく。今この瞬間は何かの前で何かの後である。言われてみれば当たり前なのだが、この「何か」に対して「災禍」を当てはめて物語を構築している点がエポックメイキングだ。災害大国である日本ではここ十数年のあいだ、地震、津波、洪水など災害が後をたたない。また特定の場所に依存せず猛威を振るったコロナウイルスもあった。我々は常に「何か」の犠牲者になる可能性があるにも関わらず、自分に関係がないと傍観者になってしまうことが多い。それに伴う自責の念のようなものがたくさん描かれている。生活していれば誰もが他人事ではないと頭では分かっていても行動には移せない歯がゆさの数々は多くの人が理解する感情のはずだ。

 そのとき自分が何をしていたのか、どのような影響を受けたのか。メディアでは大きなトピックが扱われることが多いが、実際には軽微なことを含め皆なんらかの影響を受けており、その距離感について考えさせられる。自分自身は阪神大震災でモロに被災して人生が大きく変化したし東日本大震災のときは直接に被害はなかったものの就活真っ最中だった。こうやって過去の災禍と自分の距離を改めて見つめる作業は「何か」の前を生きる今、必要なことかもしれない。(能登半島地震が起こった後であり、海外では戦争真っ只中なので「前」とは言い切れないのですが、今の自分の肌感としては「前」ということです。)

 ここ数十年で起こった価値観の変化についてもかなり意識的な描写が多い。女性が抑圧される場面の描写があるものの、泣き寝入りせず毅然と対峙していく。また抑圧に対して「相対的にみればマシだ」という一種の処世術に対しても疑問符を投げかけるシーンが多い。本著のフレーズで言えば「恵まれている」と自己暗示のように言い聞かせて現状を飲み込んでいく、その対処療法の繰り返しで我々は結果的に貧しくなってしまったのではないかと言われているようだった。

 辛いことやおかしなことがたくさん起こっているにも関わらず現実はそのまま放置されている無力感をここ数十年味わってきたし、その状況に慣れてしまっている。この無力感を街で生きる市井の人たちの生活の視点から描いていく、その真摯さは正直身に応えた。日々忙しい中だと自分のことで手一杯になることも多いが、外に目を向けて声をあげて具体的な行動をしないと社会は変わっていかない。そして、その責任は大人にあることを自覚する必要がある。そういった意味で婉曲的にWokeな小説とも言える。誰かがやってくれると思っていても社会は好転しない。

 また日常でよく見る場面に対する違和感の表明が各人物から放たれる場面が多く、その塩梅の絶妙さも読者の心をざわつかせる。言い切りの強い言葉による主張や否定はある程度距離を置くことができる。しかし著者は本当にいると読者が感じるような柔らかい物腰の人物像を丁寧に描き読者の心の隙間へスッと入り込んできて心を揺らしてくる。ゆえに短いラインでガツンとくるものも多かった。夫から仕事を休むことを前提に話された妻の以下のラインなど。

「現実やとしても最初から決まってるわけじゃない」

 同世代で育児に比較的積極的に参加している料理人が主人公のエピソードは、属性として重なる部分が多いゆえにグサっとくるものがたくさんあった。ラインとして一番刺さったのはこれ。

貴美子が若い子たちの置かれている状況や子供や弱い立場の人を考えもしない「おじさんたち」を非難するのを聞き、まあまあ、そこまで言わなくても、などと言いつつも頷きたかった。それで、自分もガールズバーに通う男たちや家事や子育てをしない男たちとは違うのだと感じられる。何かを考えた気になって、正しくなりたかった。それで楽をしたかった。

「相対的にみれば大丈夫」と自分をポジショニングして安心感を得ようとしてしまう虚しさ、浅ましさに身に覚えがないといえば嘘になる。「絶対的」な感情の在り方をもっと大切にしないといけない。最近文庫で『百年と一日』がリリースされていたので次はそれを読みたい。

2024年3月20日水曜日

2023 KOREAN HIPHOP BEST 100

 pH-1の新曲を聞いて去年の好きな曲を100曲選んだ。今のシーンに対するフラストレーションを感じたからだ。自分自身は韓国のヒップホップの楽曲がとにかく好きでひたすら新譜を聞いているのだが、彼からするとかつてのヒップホップの在り方からかけ離れてしまっている、つまり音楽以外の要素で注目されることを憂いている。こういった発言はOGに多い傾向があるが、第一線にいる彼から発せられるのは重い話だ。(サムネイルが松屋と吉野家と牛角で全部牛系なんだけどBeef を意図している??)

 去年はShow Me The Money(SMTM)が開催されないという異例の事態が発生した。毎年お祭りのように開催され、メンターのラッパー、プロデューサーたちが期待の若手をフックアップし、その年のトレンドが浮かび上がる。賛否があるにせよシーンを総括する役割を担っていたのは間違いない。それが無くなったことで何となく1年が経過したのは確かに否めなかった。そしてお祭りがない中でpH-1からするとネガティブな出来事が目に付いたのかも知れない。

 ただ2023年は本当に素晴らしい楽曲が多かったと個人的には感じている。特にSMTMがないから今がチャンスと見た数年単位でリリースのなかったベテランたちのリリースがHIPHOP、R&Bともに充実していた。当然若手も有望なラッパーが雨後の筍のごとく沢山でてきているのだが、アルバムやビデオのリリースだけではどうしても頭ひとつ抜けるのは難しい状況でありオーディション番組の効果を思い知る結果となった。今年は何らかSMTMの代替番組が登場してほしいところ。

 こういった背景の中でも100曲選ぶのは本当に楽しかったし難しかった。シングルはなるべく選んでいなくて、アルバムもしくはEPからお気に入りの曲を選んだ。なので各曲をきっかけに好きなアーティストを見つけられるはず。あと曲順もDJ的に選んでいて前半はトラップ、中盤はメロウな感じで、後半はダンサブルな感じ。どの曲もビートのクオリティとフロウの豊かさがとにかく最高でUSのトレースではあるのだけど、どのアーティストも絶妙にそこにオリジナリティを加えている。その点が韓国ヒップホップの好きなところであり、日本でもっと盛り上がるポテンシャルがあるので、このプレイリストが誰かの入口になればと祈る。

2024年3月16日土曜日

ハーレム・シャッフル

ハーレム・シャッフル/コルソン・ホワイトヘッド

 地下鉄道、ニッケル・ボーイズと、これまで翻訳された作品はどれもオモシロかったコルソン氏なら間違いないっしょってことで読んだ。過去二作とかなり味づけが違っておりハードボイルドなクライムサスペンスでオモシロかった。訳者あとがきを読む限り既訳二作品はアフリカ系アメリカンの歴史とその苦境に相当フォーカスしており彼のキャリアの中で特別なものだと思う。なお本作でもプロットだけ追えば何てことないクライムサスペンスなのだが、アフリカ系アメリカンの苦境に思いを馳せつつNYの情景描写の巧みさに心を奪われた。

 犯罪に手を染める父を持つ家具屋の店主が主人公。表向きは家族持ちの変哲もない父親だが裏の顔は盗品の横流しを生業とするハスラー。従兄弟が巻き起こすトラブルに巻き込まれたり、父親譲りの復讐心から悪事に手を染めてしまったりとNYのハーレムを舞台にして駆け引きが繰り広げられる。基本トラブル巻き込まれ型の話なので読者も入り込みやすくなっている。家具屋かつ建物好きという設定もあり、とにかく街の描写が最高だった。歴史を含めどういう建物か相当細かく描いているので読んでいるあいだ1960年代のNYを歩いているような気持ちになる。また終盤に不動産王との戦いに入っていく中ではNYの高層化した街の圧迫感と心情描写を重ね合わせていく点がかっこよかった。

 物語が進むにつれて裏の顔が深くなっていく。親ゆずりのプライドゆえの復讐から始まり最後は銃撃に巻き込まれる大立ち回りに至る。従兄弟の破天荒な振る舞いの影響が大いにあるのだが、本人も「やれやれ」と言いながら、そのトラブルを乗りこなすことを楽しんでいるように見える。2 faceから見た世界の在り方として以下のラインが沁みた。

真人間対悪党。真人間はよりよいものをつかもうとする。ーーーよりよいものはあるかもしれないし、ないかもしれないーーーその一方で、悪党たちは、現在の仕組みをどう操作しようかと策謀をめぐらせる。こうなりうるという世界と、こうであるという世界。だが、それは白黒をはっきりさせすぎているいるかもしれない。真人間でもある悪党は山ほどいるのだし、法をねじ曲げる真人間も山ほどいる。

 アフリカ系アメリカンと白人の権力勾配についてクライムな展開の中でもかなり意識的に描かれている。白人警官にアフリカ系アメリカンの子どもが殺されてしまったことで起こる暴動が物語中盤の軸として存在し、登場人物たちがさまざまな形で巻き込まれていく点が象徴的だった。当時は人種差別が蔓延っていた時代であり、その中でサヴァイヴするためには相当なコストを支払う必要があったことがよくわかる。またこういった差別に対して怒りを抱いた結果の暴動や略奪などが無秩序、暴力の象徴として語られるが、イスタブリッシュメント側の暴力的な再開発はどうなんだ?という問いかけは鋭い。つまり破壊という意味では同じだろうと。この論点は今の世界各国の都市にも言えることであり、金持ちがさらに金を産むためにスクラップ&ビルドするケースが多すぎる現状に対する著者の苦言に思えた。日本は耐震性という課題があるので致し方ないにせよ近年の東京なんて最たるものだ。そんな都市論にまでリーチしてしまうほど物語の本筋ではない部分でも細かく描き込んでいく。これが著者の書き手としての腕力であり並の作家と異なるところだ。次の翻訳作品も楽しみ。

2024年3月10日日曜日

ACE COOL『群青ノ痕』


 ACE COOLのワンマンライブ”群青ノ痕”@渋谷WWWを見てきた。『GUNJO』 は1年に1回は必ず聞き返すアルバムであり、個人的には現在のシーンで最もunderratedなラッパーだと思う。RED BULLの64barsや各種客演曲などで知名度が飛躍的に向上したこともあってか会場のWWWは階段までパンパン。本人もライブ中に言っていたが、こんなに人気あるのかという驚きもありつつ、とはいえ彼の実力からすればまだまだ序章と言っていいはずだ。

 ライブはキャリアを総括すると共に新曲も盛り沢山、未来に向かう内容で本当に素晴らしかった。ラップ筋力が尋常ではなく基本的にボーカルなしのインストの上でアンコール含む約1時間半ひたすらスピットしつづけていた。あれだけ複雑なフローなのに音源との乖離がなく聞き取りやすさもある。リリックはウィット、叙情性もあり、さらに固有名詞もユニークなチョイスが多い。ビートもオーセンティックなものからトラップ、トレンドのジャージーまで、どんなものでも彼は自分のスタイルを崩さずACE COOLの曲として聞かせてしまう。こういった多面的な魅力があるがゆえ密度の高いラップの塊のようなショウが成立していた。

 またインハウスのプロデューサーであり、そしてこの日バックDJを務めていたAtsu Otakiもライブで大きな役割を果たしていた。ACE COOLのボーカルにディレイをかける演出がユニークでライブに展開、緩急を生み出していた。またビートの大きさ、鳴りのコントロールも素晴らしかった。WWWでヒップホップのライブを見るとき、大した音質でもないオケの音がバカでかくてボーカルが聞こえないことが多々あるのだけども、この日は鳴りもバッチリな上に彼のラップがちゃんと映えるようになっておりDJイング、ひいてはエンジニアリングの巧みさが光っていた。

 Featは2023年の彼を象徴するような客演曲であるCampanellaとの”YAMAMOTO”とOZworldとの”Gear 5”がかなり盛り上がっていた。ACE COOLのスキルに呼応してシーンきってのラップ功者であるCampanellaとOZworldから声がかかるのも納得だし2人との曲をワンマンで聞けたことはありがたい。そして盟友MOMENT JOON、Jinmenusagiの2人もかっこよかった。MOMENT JOONは”IGUCHIDOU”という彼の持ち曲から”BOTTOM”へという大胆な展開。ACE COOLのMOMENT JOONをリスペクトする姿勢が伝わってきた。そしてJinmenusagiとはスキルメーターが完全に振り切れてる”Kiwotzukenah”から昨年リリースされた”SAKURABA”のREMIXとして新たにACE COOLが参加したバージョンがエクスクルーシブとして披露。この2人は最近KREVAに曲を作ってみたいラッパーとして名指しされていた。それは置いておいても2人でEP作ったら確実にハネると思わされるほどライブでの相性はバッチリだった。この盟友2人が今のACE COOLのスタイルを形成していると言っても過言ではなくスキルはJinmenusagi、リリシズムはMOMENT JOONに触発されているのは間違いないはず。だからこそアンコールの最後で2人が飛び出てきたのは非常に象徴的だった。それは「俺たちのACE COOLが!」という観客の気持ちを代弁していたとも言えるだろう。

 Jinmenusagiがステージ上でシャウトアウトしていたようにACE COOLは日本のヒップホップの中でも誰も登ってこなかった山に挑戦している。それは前述のとおりスキルとリリシズムを含むストーリーテリングの両立だ。長いキャリアの中で彼は両方を追い求め続けた結果、唯一無二のポジションを獲得している。この日のライブでも顕著で”RAKURAI”、”EYDAY”といった圧倒的なフロウでバースをかまし、盛り上がりやすいフックでクラウドを扇動するような楽曲もあれば、”AM2:00”、”SOCCER”のような情景を鮮明に焼き付けるように聞かせる曲もある。*”派手なバックグラウンド、ボースティングないんだ特に”*というリリックにあるように、彼は分かりやすいヒップホップクリシェを使わずにヒップホップという頂へ挑戦している。つまり表面的ではない、借り物ではない自分の胸の内にある言葉でラップをビルドアップしている。あれだけたくさんの観客がいる中、ラップが終わって完全な静寂が訪れ、観客それぞれが過ぎた時間を噛み締めるといった場面はヒップホップのライブで体験したことがなく本当に新鮮だった。

 今はYouTubeやストリーミングがあり地元にいたまま十分活動できる環境が整っているし自分がいかにすぐに正解にたどり着き人気があるかを誇示する時代となっている。しかし、彼がラップを始めた頃は音源を他人に聞いてもらうまでのハードルが今では想像できないくらい高かった。日の目を見るまでの長いあいだの鬱屈した感情や下積みといった彼のバックグラウンドをリリックで可視化、共有しているからこそ、この日のライブは特に感動が大きかった。ヒップホップのインスタントな部分も大いに愛しているのだが、結局自分が好きなラッパーは楽曲やアルバムでナラティブを愚直に綴っていきライブへ還元していくスタイルなのだと再認識した。次のワンマンライブは新しいアルバムがリリースされるときだろうか、もっと大きいステージで見れることを願ってやまない。”戸愚呂兄弟”やJJJのビートを含む新曲など漏れるものが多いが当日のプレイリスト。リリースされれば補完していきたい。

2024年3月8日金曜日

2024/02 IN MY LIFE Mixtape

 ついに2024年がスタートしたという感じで膨大な量の新譜を聞く毎日が始まった。と同時に今年は旧譜との出会いも大切にしているので毎日聞く音楽に事欠かない。

 前職の先輩方と数年ぶりに飲みに行って人力レコメンドの偉大さも知ったし、SpotifyのRelease Radarを久しぶりに見てるけど、その精度はApple musicのそれとは雲泥の差でとても便利。ただApple Musicはアルバム単位のレコメンドが結構優れていてR&BやJazzはそれで知った去年リリースの作品で「こんなんあったん?」みたいな出会いが多かった。

 変わり種でいうとフジコ・ヘミング。最近NHK+をめっちゃ見ていて、そこで出会ったドキュメンタリー「漁師と妻とピアノ」で知った。50過ぎまで漁師を生業として休日はパチンコしまくりだった人がある日突然ピアノに目覚めて超絶難易度の高い”La Campanella” を弾けるようになるまで練習しまくった結果、全国で講演するようなピアニストになった。そのピアノに目覚めるきっかけになったのが、フジコ・ヘミングによる”La Campanella”ということで選んだ。

 なおジャケは雪の日の保育園の送り帰りに撮った小学校の風景。久しぶりに雪を見た。

🍎Apple music🍎

🥝Spotify🥝

2024年3月3日日曜日

ペイン・キラー アメリカ全土を中毒の渦に突き落とす、悪魔の処方薬

ペイン・キラー アメリカ全土を中毒の渦に突き落とす、悪魔の処方薬/バリー・マイヤー

 Amazonのレコメンドで流れてきて読んだ。ドラッグの話は完全に自分の知らない世界でありながら、他人が異様に執着する様に儚さがあり魅力的に感じる。ゆえにドラマや映画でドラッグが題材になっているものを見ることは多い。そんな不純な動機も含めて読んだ本著は社会の外側ではなく内側に中毒性の高いドラッグが忍び込み爆発的に拡大したケースの話であった。日本でも眠剤などの市販薬や処方箋ドラッグの乱用はトー横界隈を中心に問題化しているので全く他人事ではないので怖かった。

オキシコンチンという疼痛用の薬が主役のドキュメンタリー。疼痛とは医学用語の痛みのことであり、オキシコンチンはそれを緩和する痛み止めだ。単純な痛み止めではなく麻薬系鎮痛剤と呼ばれるもので、アメリカのある製薬会社がその強力な中毒性を伏せたまま、簡易な痛み止めとして売りまくった結果、全米中に中毒者が急増してしまったというのが話の大筋となっている。

疼痛に対する処方薬という点がオキシコンチンが市場に蔓延してしまった大きな理由だった。医療行為の中で痛みの緩和は他の治療に比べて尺度がなく患者から伝えられる情報がすべて。「痛い」と言われれば、それを和らげる薬を提供することになる。本来であればいきなり麻薬系ではない鎮痛剤を使うべきだが、そこへオキシコンチンが入り込んでしまったのが悪夢の始まりであった。

語り口がうまくて、まずは具体例としてチアリーダーの女子高校生がオキシコンチン中毒になってしまう身近な話から始まる。その後、このドラッグが市場に登場、席巻するプロセスについてバックにいるアメリカの大富豪の話を絡めつつスケールの大きな物語として描いていく。処方箋の薬が蔓延して中毒者が急増したと聞くと「規制当局は何をしていたのか?」とシンプルに思うが、販売者側の用意したデータで攪乱されたり、圧倒的な資金力を駆使したロビー活動が影響して規制が遅れてしまっていた。また処方する側/される側に対する徹底的なマーケティングによる一種の洗脳に近い形でオキシコンチンを消費させ続ける仕組みを構築していた。規制を少なくして市場に任せていく新自由主義の到来と処方箋ドラッグの蔓延は無縁ではない。小さな政府志向は結構なことだが人間の生死に関わるところまで侵食してくると目も当てられない。終盤にかけて製薬会社の幹部をDEAや検察の捜査でかなり追い込んでいくものの重役たちを逮捕するまでは至らず金銭による和解で終結となり無念だった。本著を読んでいるとお金を稼げれば人がどうなろうが関係ないと考える詭弁の天才たちが起こした人災にしか思えない。

このオキシコンチンやパーコセットといったオピオイド系鎮痛薬はヒップホップとも縁が深くUSのヒップホップ経由で最初に知った。本著の主題であるオキシコンチンはScHoolboy Qのアルバムタイトル曲”Prescription/Oxymoron”、PercocetはFutureの”Mask Off”で有名だしJuice WRLDの死因とも言われていたりする。特に前者はドラッグユーザーとしての自分とドラッグディーラーである自分の二部構成になっており本著との相性はぴったり。読んだ後にリリックを見ながら聞くと胸にくるものがあった。一方、FutureのようなUSのメインストリームの音楽におけるドラッグ表現に対して日本からは対岸の火事のごとく楽しんでしまっている側面がある。使ったこともない人間が「パーコセット!」とか無邪気に叫んでいる場合ではない。USのティーンたちはヒップホップの曲の中で引用されまくるドラッグの誘惑と戦わないといけないのかと思うと複雑な感情にもなった。違法とはいえ大麻で留まっている日本はまだマシなのかもと思えた。