2022年2月23日水曜日

こちらあみ子

 

こちらあみ子/今村夏子

 今村夏子作品を順番に読んでいく中で、映画「花束みたいな恋をした」で印象的に使われていた本著を読んだ。劇中で引用されていた「ピクニック」もオモシロかったのだけど個人的には圧倒的に「こちらあみ子」が好きだった。暖かそうな雰囲気なのにめちゃくちゃドライ、このギャップに終始魅了され続けてあっという間に読み終えた。

 主人公のあみ子がひたすら孤独なところが魅力だと思う。孤独であるにも関わらず、それを特に気にしない純粋さに心を強く揺さぶられる。社会に適合しようとすると、どうしても自分と社会の間にある齟齬に折り合いをつけて生きていくことになるけど彼女は周りの目を気にせず自分の思うがままに行動する。継母の流産をきっかけに家族が瓦解するところからすべてが始まっていき、それに対するあみ子のリアクションは間違っているけど間違っていない。こういった大人が忘れてしまった、あえて忘れた心の柔らかい部分だけを取り出して人間にした、みたいな。そういった存在を著者の絶妙にリアルな子ども描写(自分が子どもだった頃とどうしても重ね合わせてしまう)もあいまって物語にグイグイのめり込んだ。また方言による会話も新鮮で方言ならではのニュアンスやグルーブがあり読んでいて心地よかった。あと辛い場面だとしても方言で何となく緩和される効果もあったと思う。

 関係性の表現としてトランシーバーが登場するのも意味深。ニコイチで機能する道具が1つしかないことで孤立をさらに深める表現になっていると思う。またあみ子が世界に対して素直な疑問を投げかけたとしても誰も応答しない、という遠い隠喩になっているようにも感じた。そして既存の家族観を暗に全部ぶっ壊していく最後の展開も痛快だった。これも間違っているけど間違っていない。

 文庫版のあとがきには町田康、穂村弘の二大御大が顔を揃えて絶賛、特に町田康のあとがきは人生で読んだあとがきの中でもベストオブベストだったので読み終えた後は最高の気分だった。

2022年2月20日日曜日

ウィトゲンシュタインの愛人

 

ウィトゲンシュタインの愛人/デイヴィッド・マークソン

 印象的なカバーが前から気になっていたところ図書館で見かけたので借りて読んだ。完全に新しい感覚…途中何回か心が折れそうになるものの終盤にかけて加速度的にオモシロかった。新進気鋭の作家かと思いきや1988年に発表された、しかも著者のデビュー作品らしく、そこにもびっくりした。世界にはまだまだ知らない本がたくさんある、その豊かさを享受できた。

 あらすじとしては、ある女性が世界最後の1人の人間で終末の世界をサバイブしているというもの。このあらすじであればさまざまな場所へ冒険に行ったりして物語の起承転結を付けていくと思うけど、本著は主人公が日々の生活、彼女の思考をタイプライターでタイピングしたドキュメントを読んでいるという設定。移動する描写は多少あるものの読者は主人公の思考のフローをひたすらトレースしているような感覚になる。しかもそこで展開されるのは中世の美術、哲学、音楽に関する膨大な固有名詞にまつわる論考。マジで一体何を読んでいるんだ…という瞬間が幾度となく訪れるのだけど、何となく読み流していくとそこにグルーブが徐々に生まれていくのが新鮮な体験だった。タイプライターというのがミソで文章が一方通行で修正されないがゆえに、ひたすら垂れ流しになっている。これは完全にTwitterにおけるツイートだ!と気づいてからかなり読みやすくなった。

 あとがきにもあったけど固有名詞について真剣に一個一個調べても物語内では適当言っているケースも多い。それ自体が著者の態度というか世界の不確かさの表現の一つなのかもと思った。世界で最後の1人になったら?という妄想は皆一度はしたことあると思うけど、美術館でめちゃくちゃするという発想はなくて、そのシーンが特に好きだった。あと終盤に第四の壁を破るような展開が用意されていて、それもタイプライターの設定が効いてきて興味深かった。自分のコンフォートゾーンを打破する読書体験!

2022年2月12日土曜日

星の子

 

星の子/今村夏子

 映画公開のタイミングであらすじを知って興味が出てKindleで購入するも積読したままだったので読んだ。こんなに記憶の深いところにタッチしてくる小説は久しぶりでとても好きだった。

 あらすじとしては両親が怪しげな水のマルチ・宗教に取り込まれた娘(次女)が主人公。彼女の視点が絶妙にリアルで惹きつけられた。どんどん宗教に入れ込んでいくことで長女が家出したり家庭が崩壊していくのだけど、過酷な環境で生きる子ども側にとってはそれが当たり前の人生。ゆえに両親のことは嫌いにならないし何なら守ろうとまでする。その健気さが余計に辛い…単純な正論では気持ちを救うことができないのだよなと感じた。

 自分の家という井の中から社会(学校)という大海へ出るとき、ただでさえそこにはギャップがあるけど、上述のようなさらに重いハードルを彼女は背負っている。底抜けに暗くなりそうなのにそうはならない。それは会話描写が多くて別にたわいもないからこそ。物語の肝になることを登場人物のセリフで言わさないのも粋で本当に既視感が凄くて中学生の頃の友人との会話としか思えなかった。その素朴さも相まってめちゃくちゃシュールな笑いになっている場面があった。それはある人物が公園で見かけた夫婦が主人公の親だと知るシーンで思わず笑ってしまった。小説で笑うことはほとんどないからやはり会話描写スキルがハンパないのだと思う。一方で子どもの描写が超リアルなことで大人のえぐみ、残酷さも強烈に感じた。自分たちの都合だけで行動する身勝手な存在という要素がかなり強い。自分がいい意味でも悪い意味でも大人になってしまったのだなと痛感した。

 ラストの描写がタイトルを回収するようなシチュエーションなんだけどめちゃくちゃ不穏。絶対良くないことが起こるだろうムードを演出しまくって、それを最後回収しないところは薄氷の上だとしても家族は家族なのだという最低限の思いやりなのか。他の作品もすぐに読んでみたい。

2022年2月10日木曜日

わたしはラップをやることに決めた フィメールラッパー批評原論

わたしはラップをやることに決めた フィメールラッパー批評原論/ つやちゃん

 最近よくネットの記事で見る著者のフィメールラッパーに関する原論とのことで読んだ。とても刺激的な内容でオモシロかった。

 冒頭で著者による宣言がなされており、フィメールラップを論じる上で起こりそうなハレーションや反論に対して意識的だった。本著はあくまで音楽を論じることに特化、昨今話題になっているヒップホップにおけるミソジニーなどは迂回、とにかく女性によるかっこいいヒップホップがここにあると強く主張している姿勢がかっこいい。またフィメールで区切る必要性について逡巡している点をしっかり言及していく姿勢もまたかっこいい。

 日本のヒップホップに関する書籍は一次資料つまりはラッパー自身の著書もしくはインタビューがほとんどを占めている。その中で本著は一次資料にあたりながら様々な女性ラッパーに関する著者の見解を示す批評になっている。とにかく見立てのオモシロさが際立っていて洋服やコスメと絡めて語っていくのは著者ならではの切り口で興味深かった。合間に挟まれるコラムが個人的にはかなり勉強になって、特に「新世代ラップミュージックから香る死の気配」は「ぴえん」という病で読んだ内容と合わさってアップカミングなスタイルに関する背景の理解が深まった。

 サウンド面ではなく基本リリック重視での批評も日本のヒップホップでは今まであまり進められていない作業だと思う。(これはフィメールに限った話ではない)またラップという歌唱法、ヒップホップという文化はUS由来なのでどうしても語り口としてUSとの比較が多い中で、別のカルチャーを数珠つなぎしていくスタイルがオモシロかったし知らないことも多くあった。最近のファクト至上主義の中、いわゆる印象由来の批評、アナロジーからの読み解きなどはほとんどないので、こういう書き手の人が増えると批評が圧倒的に不足している日本のヒップホップカルチャーも豊かになるはず。

 COMA-CHIに当時に関するインタビューを掲載し「ミチバタ」「RED NAKED」をここまでフィーチャーする書籍はあとにも先にも出ないと思うと、やはり「フィメールラッパー」というくくりで歴史にくさびを打つという意味で日本のヒップホップの歴史上重要な作業だと思う。一方でAwich、NENE、ちゃんみなといった著者がキーパーソンと考えているフィメールラッパーについて、各アルバムのレビューが他と比べてボリューミーにはなっているものの肝心のインタビューがないのが少し残念…(もしかするとDr.ハインリッヒのThe Wに対するマインドセットのようなもので「フィメール」というくくりに抵抗があるのかも知れないが)web媒体で良いので彼女たちへの著者によるインタビューは読んでみたい。

 巻末のディスクレビューは「女性がラップしている」という観点で歴史を総浚いしていて圧巻。特に2010年以降くらいのアルバムで「こんなんあるんすか!」というものが多く、ストリーミング時代の今、ディスクレビューは最高の水先案内人なのでゆっくり聴いていきたいと思う。

 本著のアフタートークとして著者と帯コメントも寄せている渡辺志保氏との対談がWebにアップロードされていて、それがかなりスリリングだったので必読。特に氏がここまで築き上げてきたヒップホップに対する思いを清濁合わせて率直に話されている点に驚いた。カルチャーに対するコミットの手法の違いはあれど共闘できる。分断は何も生まないけどユニティは前進できることを痛感した。色んな書き手が色んな切り口で日本のヒップホップ、ラップについて論じることで加速度的に広まりメインカルチャーになってほしい。

2022年2月8日火曜日

怒りの人類史 ブッダからツイッターまで

怒りの人類史 ブッダからツイッターまで/バーバラ・H.ローゼンワイン

 育休取得中に手続きの関係でPCを開いて、一瞬だけ仕事のメールを見てしまった。そのときにヒドいメールが届いてて怒りに頭が支配されてしまい数日ほどそのことが頭から離れなかった。このままでは復帰後に爆ギレしてしまうと思い、友人から勧めてもらったアンガーコントロールの本を読んだ。そこに書かれていたのは仏教をベースにした怒りの付き合い方で、怒りを相対化することの重要性が書かれていた。ということは怒りについて知ることが重要だなと思い本著を読んでみた。読んだ結果、目論見通り怒りをさらに相対化することに成功。本の内容がアンガーコントロールに寄与してくれて助かった。

 タイトルのとおり、怒りと人類がどのように向き合ってきたのか?を基本的には時系列に沿って哲学、宗教、医学などの角度で検証してくれている。かなり広範な範囲の話をしていて付いていけないところもありながらも驚いたのは1000年単位で怒りについて人類が考察し続けていること。アンガーコントロールの必要性がここ数年喧伝されているなと感じていたけど、怒りという情動(エモーション)は人類が連綿と抱え続ける十字架のようだ。そもそも怒りの作動経路について身体的反応が先か、精神的反応が先なのか、というレベルで科学的にはクリアになっていないそうなので、人類としてはコントロールに苦しむのも当然かと思えた。

 十把一絡げに怒りといっても当然種類、グラデーションが存在する。本著の言い方を借りれば、その怒りは美徳か、悪徳か。無くなった方がいいネガティブな情動に近いものもあれば、社会で抑圧されたり差別されている人たちの怒りは変革を志すポジティブなものである。だから怒るときは怒るし不必要に怒り続けるのは良くない。感情の置き場を自分で意識してコントロールする必要があるなと思えた。すべての事象について同列に怒り続けてきた人生だったと今更ながらに気づいた…辛い人生でした。SNSをはじめとして色んな事象が可視化されて怒りの発火元になりそうな案件が世の中にゴロゴロしている今、自分で当たりに行って「痛いな!」とブチ切れる暇があったら少しでも自分の時間を大事にしていきたい。今後役に立ちそうなくだりを引用しておく。

怒りに身をゆだねることは理性を失うことであり、しかも、人間の性質はもともと理性的なので、怒ることはそのままみずからを失うことを意味する。

理論的な部分が「自分が不当に軽んじられた」と考えると、非理論的な部分が怒りを感じる。これが理論的な部分の評価に影響を与える。

怒りの情動は、じつはもっとも共感しづらい。というのも、我々がとっさに思うのは、怒りの犠牲者に対する共感だからだ。


2022年2月3日木曜日

Schoolgirl

Schoolgirl/九段 理江

 女生徒を予習して万全の状態で読んだ。結果かなり大きな主題になっていた(女生徒はKindleで青空文庫になっているので確実に読んでおいた方がいい)ので読んでおいて良かったし、女性の自意識のいろんな意味での「アップデート」に関する話でかなりオモシロかった。「ぴえん」という病を読んだときも思ったけど自分はもう完全におじさん以外の何者でもないのだと痛感した。自虐はしないけど自戒はしたい。

 芥川賞候補作になった表題作。中学生の娘を持つ母親の視点で物語は進行し、娘がめちゃくちゃ「意識高い系」Youtuber という設定になっている。親子の場合、年上である母親の方が物を知っているという設定が多いと思うけど今の時代はそうはいかない。知の高速道路でスーパーカーを華麗に乗りこなす娘の方がはるかに物を知っていて世界、社会を憂いている。太宰の「女生徒」も同じく大人びた少女の話だったけどギアが違っている。一番スリリングだったのは小説に関する娘の論。メタ的展開は珍しくないとしてもそこで言及されるコストパフォーマンスの話や意味のないものへの無関心っぷりは巷で話題のひろゆきバイブス満点。これが多くの若い子の本音だからひろゆきが人気なのも察し。小説なんて人がついた嘘であり、そんなことで一喜一憂するのではなく現実社会を見て困っている人の少しでも役に立つような生き方をすべきと滔々と諭していくところが圧巻。母親の自意識が語られながら、合間に娘がYoutubeで話す内容をないまぜにしながら終盤でのスリリングな対話(言い合い)になっていく感じとエンディングのキレの良さが最高だった。

 もう1つの作品である「悪い音楽」含めて、社会的に品行方正であるべきとされる母親や先生も1人の人間であり欲望の赴くままに振る舞ってもいいじゃないかという緩やかな肯定が見える。著者が立場に苦しむ大人を憐れみと慈しみの気持ちで見守っているような文体に思えた。次の作品も必ず読む。