2024年3月16日土曜日

ハーレム・シャッフル

ハーレム・シャッフル/コルソン・ホワイトヘッド

 地下鉄道、ニッケル・ボーイズと、これまで翻訳された作品はどれもオモシロかったコルソン氏なら間違いないっしょってことで読んだ。過去二作とかなり味づけが違っておりハードボイルドなクライムサスペンスでオモシロかった。訳者あとがきを読む限り既訳二作品はアフリカ系アメリカンの歴史とその苦境に相当フォーカスしており彼のキャリアの中で特別なものだと思う。なお本作でもプロットだけ追えば何てことないクライムサスペンスなのだが、アフリカ系アメリカンの苦境に思いを馳せつつNYの情景描写の巧みさに心を奪われた。

 犯罪に手を染める父を持つ家具屋の店主が主人公。表向きは家族持ちの変哲もない父親だが裏の顔は盗品の横流しを生業とするハスラー。従兄弟が巻き起こすトラブルに巻き込まれたり、父親譲りの復讐心から悪事に手を染めてしまったりとNYのハーレムを舞台にして駆け引きが繰り広げられる。基本トラブル巻き込まれ型の話なので読者も入り込みやすくなっている。家具屋かつ建物好きという設定もあり、とにかく街の描写が最高だった。歴史を含めどういう建物か相当細かく描いているので読んでいるあいだ1960年代のNYを歩いているような気持ちになる。また終盤に不動産王との戦いに入っていく中ではNYの高層化した街の圧迫感と心情描写を重ね合わせていく点がかっこよかった。

 物語が進むにつれて裏の顔が深くなっていく。親ゆずりのプライドゆえの復讐から始まり最後は銃撃に巻き込まれる大立ち回りに至る。従兄弟の破天荒な振る舞いの影響が大いにあるのだが、本人も「やれやれ」と言いながら、そのトラブルを乗りこなすことを楽しんでいるように見える。2 faceから見た世界の在り方として以下のラインが沁みた。

真人間対悪党。真人間はよりよいものをつかもうとする。ーーーよりよいものはあるかもしれないし、ないかもしれないーーーその一方で、悪党たちは、現在の仕組みをどう操作しようかと策謀をめぐらせる。こうなりうるという世界と、こうであるという世界。だが、それは白黒をはっきりさせすぎているいるかもしれない。真人間でもある悪党は山ほどいるのだし、法をねじ曲げる真人間も山ほどいる。

 アフリカ系アメリカンと白人の権力勾配についてクライムな展開の中でもかなり意識的に描かれている。白人警官にアフリカ系アメリカンの子どもが殺されてしまったことで起こる暴動が物語中盤の軸として存在し、登場人物たちがさまざまな形で巻き込まれていく点が象徴的だった。当時は人種差別が蔓延っていた時代であり、その中でサヴァイヴするためには相当なコストを支払う必要があったことがよくわかる。またこういった差別に対して怒りを抱いた結果の暴動や略奪などが無秩序、暴力の象徴として語られるが、イスタブリッシュメント側の暴力的な再開発はどうなんだ?という問いかけは鋭い。つまり破壊という意味では同じだろうと。この論点は今の世界各国の都市にも言えることであり、金持ちがさらに金を産むためにスクラップ&ビルドするケースが多すぎる現状に対する著者の苦言に思えた。日本は耐震性という課題があるので致し方ないにせよ近年の東京なんて最たるものだ。そんな都市論にまでリーチしてしまうほど物語の本筋ではない部分でも細かく描き込んでいく。これが著者の書き手としての腕力であり並の作家と異なるところだ。次の翻訳作品も楽しみ。

2024年3月10日日曜日

ACE COOL『群青ノ痕』


 ACE COOLのワンマンライブ”群青ノ痕”@渋谷WWWを見てきた。『GUNJO』 は1年に1回は必ず聞き返すアルバムであり、個人的には現在のシーンで最もunderratedなラッパーだと思う。RED BULLの64barsや各種客演曲などで知名度が飛躍的に向上したこともあってか会場のWWWは階段までパンパン。本人もライブ中に言っていたが、こんなに人気あるのかという驚きもありつつ、とはいえ彼の実力からすればまだまだ序章と言っていいはずだ。

 ライブはキャリアを総括すると共に新曲も盛り沢山、未来に向かう内容で本当に素晴らしかった。ラップ筋力が尋常ではなく基本的にボーカルなしのインストの上でアンコール含む約1時間半ひたすらスピットしつづけていた。あれだけ複雑なフローなのに音源との乖離がなく聞き取りやすさもある。リリックはウィット、叙情性もあり、さらに固有名詞もユニークなチョイスが多い。ビートもオーセンティックなものからトラップ、トレンドのジャージーまで、どんなものでも彼は自分のスタイルを崩さずACE COOLの曲として聞かせてしまう。こういった多面的な魅力があるがゆえ密度の高いラップの塊のようなショウが成立していた。

 またインハウスのプロデューサーであり、そしてこの日バックDJを務めていたAtsu Otakiもライブで大きな役割を果たしていた。ACE COOLのボーカルにディレイをかける演出がユニークでライブに展開、緩急を生み出していた。またビートの大きさ、鳴りのコントロールも素晴らしかった。WWWでヒップホップのライブを見るとき、大した音質でもないオケの音がバカでかくてボーカルが聞こえないことが多々あるのだけども、この日は鳴りもバッチリな上に彼のラップがちゃんと映えるようになっておりDJイング、ひいてはエンジニアリングの巧みさが光っていた。

 Featは2023年の彼を象徴するような客演曲であるCampanellaとの”YAMAMOTO”とOZworldとの”Gear 5”がかなり盛り上がっていた。ACE COOLのスキルに呼応してシーンきってのラップ功者であるCampanellaとOZworldから声がかかるのも納得だし2人との曲をワンマンで聞けたことはありがたい。そして盟友MOMENT JOON、Jinmenusagiの2人もかっこよかった。MOMENT JOONは”IGUCHIDOU”という彼の持ち曲から”BOTTOM”へという大胆な展開。ACE COOLのMOMENT JOONをリスペクトする姿勢が伝わってきた。そしてJinmenusagiとはスキルメーターが完全に振り切れてる”Kiwotzukenah”から昨年リリースされた”SAKURABA”のREMIXとして新たにACE COOLが参加したバージョンがエクスクルーシブとして披露。この2人は最近KREVAに曲を作ってみたいラッパーとして名指しされていた。それは置いておいても2人でEP作ったら確実にハネると思わされるほどライブでの相性はバッチリだった。この盟友2人が今のACE COOLのスタイルを形成していると言っても過言ではなくスキルはJinmenusagi、リリシズムはMOMENT JOONに触発されているのは間違いないはず。だからこそアンコールの最後で2人が飛び出てきたのは非常に象徴的だった。それは「俺たちのACE COOLが!」という観客の気持ちを代弁していたとも言えるだろう。

 Jinmenusagiがステージ上でシャウトアウトしていたようにACE COOLは日本のヒップホップの中でも誰も登ってこなかった山に挑戦している。それは前述のとおりスキルとリリシズムを含むストーリーテリングの両立だ。長いキャリアの中で彼は両方を追い求め続けた結果、唯一無二のポジションを獲得している。この日のライブでも顕著で”RAKURAI”、”EYDAY”といった圧倒的なフロウでバースをかまし、盛り上がりやすいフックでクラウドを扇動するような楽曲もあれば、”AM2:00”、”SOCCER”のような情景を鮮明に焼き付けるように聞かせる曲もある。*”派手なバックグラウンド、ボースティングないんだ特に”*というリリックにあるように、彼は分かりやすいヒップホップクリシェを使わずにヒップホップという頂へ挑戦している。つまり表面的ではない、借り物ではない自分の胸の内にある言葉でラップをビルドアップしている。あれだけたくさんの観客がいる中、ラップが終わって完全な静寂が訪れ、観客それぞれが過ぎた時間を噛み締めるといった場面はヒップホップのライブで体験したことがなく本当に新鮮だった。

 今はYouTubeやストリーミングがあり地元にいたまま十分活動できる環境が整っているし自分がいかにすぐに正解にたどり着き人気があるかを誇示する時代となっている。しかし、彼がラップを始めた頃は音源を他人に聞いてもらうまでのハードルが今では想像できないくらい高かった。日の目を見るまでの長いあいだの鬱屈した感情や下積みといった彼のバックグラウンドをリリックで可視化、共有しているからこそ、この日のライブは特に感動が大きかった。ヒップホップのインスタントな部分も大いに愛しているのだが、結局自分が好きなラッパーは楽曲やアルバムでナラティブを愚直に綴っていきライブへ還元していくスタイルなのだと再認識した。次のワンマンライブは新しいアルバムがリリースされるときだろうか、もっと大きいステージで見れることを願ってやまない。”戸愚呂兄弟”やJJJのビートを含む新曲など漏れるものが多いが当日のプレイリスト。リリースされれば補完していきたい。

2024年3月8日金曜日

2024/02 IN MY LIFE Mixtape

 ついに2024年がスタートしたという感じで膨大な量の新譜を聞く毎日が始まった。と同時に今年は旧譜との出会いも大切にしているので毎日聞く音楽に事欠かない。

 前職の先輩方と数年ぶりに飲みに行って人力レコメンドの偉大さも知ったし、SpotifyのRelease Radarを久しぶりに見てるけど、その精度はApple musicのそれとは雲泥の差でとても便利。ただApple Musicはアルバム単位のレコメンドが結構優れていてR&BやJazzはそれで知った去年リリースの作品で「こんなんあったん?」みたいな出会いが多かった。

 変わり種でいうとフジコ・ヘミング。最近NHK+をめっちゃ見ていて、そこで出会ったドキュメンタリー「漁師と妻とピアノ」で知った。50過ぎまで漁師を生業として休日はパチンコしまくりだった人がある日突然ピアノに目覚めて超絶難易度の高い”La Campanella” を弾けるようになるまで練習しまくった結果、全国で講演するようなピアニストになった。そのピアノに目覚めるきっかけになったのが、フジコ・ヘミングによる”La Campanella”ということで選んだ。

 なおジャケは雪の日の保育園の送り帰りに撮った小学校の風景。久しぶりに雪を見た。

🍎Apple music🍎

🥝Spotify🥝

2024年3月3日日曜日

ペイン・キラー アメリカ全土を中毒の渦に突き落とす、悪魔の処方薬

ペイン・キラー アメリカ全土を中毒の渦に突き落とす、悪魔の処方薬/バリー・マイヤー

 Amazonのレコメンドで流れてきて読んだ。ドラッグの話は完全に自分の知らない世界でありながら、他人が異様に執着する様に儚さがあり魅力的に感じる。ゆえにドラマや映画でドラッグが題材になっているものを見ることは多い。そんな不純な動機も含めて読んだ本著は社会の外側ではなく内側に中毒性の高いドラッグが忍び込み爆発的に拡大したケースの話であった。日本でも眠剤などの市販薬や処方箋ドラッグの乱用はトー横界隈を中心に問題化しているので全く他人事ではないので怖かった。

オキシコンチンという疼痛用の薬が主役のドキュメンタリー。疼痛とは医学用語の痛みのことであり、オキシコンチンはそれを緩和する痛み止めだ。単純な痛み止めではなく麻薬系鎮痛剤と呼ばれるもので、アメリカのある製薬会社がその強力な中毒性を伏せたまま、簡易な痛み止めとして売りまくった結果、全米中に中毒者が急増してしまったというのが話の大筋となっている。

疼痛に対する処方薬という点がオキシコンチンが市場に蔓延してしまった大きな理由だった。医療行為の中で痛みの緩和は他の治療に比べて尺度がなく患者から伝えられる情報がすべて。「痛い」と言われれば、それを和らげる薬を提供することになる。本来であればいきなり麻薬系ではない鎮痛剤を使うべきだが、そこへオキシコンチンが入り込んでしまったのが悪夢の始まりであった。

語り口がうまくて、まずは具体例としてチアリーダーの女子高校生がオキシコンチン中毒になってしまう身近な話から始まる。その後、このドラッグが市場に登場、席巻するプロセスについてバックにいるアメリカの大富豪の話を絡めつつスケールの大きな物語として描いていく。処方箋の薬が蔓延して中毒者が急増したと聞くと「規制当局は何をしていたのか?」とシンプルに思うが、販売者側の用意したデータで攪乱されたり、圧倒的な資金力を駆使したロビー活動が影響して規制が遅れてしまっていた。また処方する側/される側に対する徹底的なマーケティングによる一種の洗脳に近い形でオキシコンチンを消費させ続ける仕組みを構築していた。規制を少なくして市場に任せていく新自由主義の到来と処方箋ドラッグの蔓延は無縁ではない。小さな政府志向は結構なことだが人間の生死に関わるところまで侵食してくると目も当てられない。終盤にかけて製薬会社の幹部をDEAや検察の捜査でかなり追い込んでいくものの重役たちを逮捕するまでは至らず金銭による和解で終結となり無念だった。本著を読んでいるとお金を稼げれば人がどうなろうが関係ないと考える詭弁の天才たちが起こした人災にしか思えない。

このオキシコンチンやパーコセットといったオピオイド系鎮痛薬はヒップホップとも縁が深くUSのヒップホップ経由で最初に知った。本著の主題であるオキシコンチンはScHoolboy Qのアルバムタイトル曲”Prescription/Oxymoron”、PercocetはFutureの”Mask Off”で有名だしJuice WRLDの死因とも言われていたりする。特に前者はドラッグユーザーとしての自分とドラッグディーラーである自分の二部構成になっており本著との相性はぴったり。読んだ後にリリックを見ながら聞くと胸にくるものがあった。一方、FutureのようなUSのメインストリームの音楽におけるドラッグ表現に対して日本からは対岸の火事のごとく楽しんでしまっている側面がある。使ったこともない人間が「パーコセット!」とか無邪気に叫んでいる場合ではない。USのティーンたちはヒップホップの曲の中で引用されまくるドラッグの誘惑と戦わないといけないのかと思うと複雑な感情にもなった。違法とはいえ大麻で留まっている日本はまだマシなのかもと思えた。

2024年2月29日木曜日

赤と青のガウン オックスフォード留学記

赤と青のガウン オックスフォード留学記/彬子女王

 BRUTUSの本棚特集で漫画家のほしよりこ氏が選書しており赤と青のマントの表紙絵が印象的だったので何となく読んでみた。皇族の彬子女王がオックスフォード大学で博士取得するまでを綴ったエッセイでとてもオモシロかった。皇族へのプレッシャーは近年増すばかりだが「人間」としての尊厳をひしひしと感じた。

 皇族が自ら内情を事細かに説明している文章に初めて出会ったので、この時点で本著のオモシロさは保証済みといっても過言ではない。最近は現天皇である徳仁親王による留学記も復刊リリースされているが本著は00〜10年代の話なのでリアリティーがある。たとえば博士号授与式が2011年で震災から二ヶ月しか経ってない中でお祝いのために海外渡航するのはいかがなものか?という意見があった話など。現状の皇族に対する厳しい視線を予期させる内容だった。ただ著者はエッセイストとしての才覚がめちゃくちゃある。硬くシリアスになりがちな皇族の状況についてジョークを交えつつウィットのある文体で書いてくれているので楽しく読むことができた。やはり国外で皇族ではない立場を経験することで視野が広がることは大いにあるのだろう。宇多田ヒカルが活動休止した際「人間活動に専念する」と言っていた意味が本著を読むとよく分かる。何をするにせよ誰かが周りにいて、先回りして全てが用意されていても良いとは限らない。自分でコントロールできる領域の尊さに気づくことができた。

 著者には皇族という特殊な属性があるものの、あくまで本著の主題は5年かけてオックスフォード大学で博士号を取得したことである。海外で博士号を取得する際の苦労話がたくさん書かれていて非常に興味深い。日本だとプリンセスとして扱われるが学位取得の過程において忖度はなく担当教授から厳しく指導されたり、その真面目さゆえに胃の具合を悪くしたり多くの苦労が語られている。その先にある栄光に向かって一生懸命に研究、論文に取り組み、最後に得られるカタルシスを追体験するような気持ちになった。だからこそ最後の最後で皇族ゆえに自分の力でコントロールできない要素で振り回されてしまうあたりは辛いものがあった。彼らは一般の国民とは異なり、多くの特権を持つ代償として犠牲になっていることがたくさんある。歪な環境の中でも自分の信念を貫く姿勢は見習いたいと思った。

2024年2月26日月曜日

一私小説書きの日乗 新起の章

一私小説書きの日乗 新起の章/西村賢太

 ついに6冊目に到着。ここまで長く人の日記を読むのは初めてでかなり感情移入している。そして読めば読むほど著者が亡くなっていることが悲しくなる。ここ数冊の中では展開が多く一気に読めた。

 大きな変化としては新潮社との蜜月が終わりを告げ文藝春秋との関係が新たに始まっている点が挙げられる。あれだけ長いあいだ苦楽を共にした中でも連載あり/なしで関係がスパッと終わってしまうのは一抹の寂しさを感じる。一方で新しい文學界の担当編集者の服装が奇抜らしいのだが、その描写が毎回オモシロい。著者が周りの人を魅力的に描ける能力はこれまでの日記からもよく分かるし、これが私小説の魅力に繋がっているのだろう。

 藤澤清造の墓参りを含めて旅行に頻繁に出かけているのもこれまでになかった傾向だった。特に墓参りは月命日に毎月行く念の入りようで彼の心境の変化が伺える。お墓は七尾市にあるようで年始に起こった能登半島地震の際に被害を受けたらしい。さらに著者が清造の横に作った生前墓も倒壊したらしく悲しい話だった…

 スランプに陥ってしまい編集者をひたすらに呼びつけるシーンがあるのだけど、そこに作家の孤独を垣間見た。実際にこういった言動は過去にもあったのだろうけれど日記上で書かれているのは初めて。著者の粗暴な振る舞いがあったとしても、編集者たちは呼ばれば馳せ参じている場面にプロフェッショナル魂を感じた。そして著者自身も一晩明ければ自分の至らなさを反省しており、それをわざわざ日記として世間にリリースしているあたりに皆憎めない気持ちを抱いているのかもしれない。その証左として終盤の怒涛の原稿締め切り、ゲラチェックの嵐に巻き込まれる姿は売れっ子作家そのものだった。残すところあと1巻だと思うと寂しい。

2024年2月23日金曜日

デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場

デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場/河野啓

 奇奇怪怪で激賞されていたので読んでみた。栗城氏は情熱大陸の出演が印象的で、エベレストの登頂を手持ちカメラで撮った映像で魅了された記憶がある。そんな彼がどういった登山家でどのようにして命を失うまでに至ったかを丁寧な取材とともに記述した一級品のドキュメンタリーでとても興味深かった。

 登山家と聞くと寡黙に山に挑むようなイメージを勝手に抱いてしまうが、彼はそれとは真逆のスタイルだ。いかにマス受けするか考えて山を登ることを「夢の共有」と呼び、彼のファンダムを形成、スポンサーを獲得していくスタイルで人気を獲得していく。マーケティング戦略としては何も間違ったことはしてないのだけども、その大前提としては山登りに対して真摯な姿勢でいなければならないのに、その点を浅く見積もったことで彼は後年苦しむことになってしまった。見た目だけ繕って中身ボロボロといったことは政治を含め、ここ数年あらゆる場面で見られる事象であり、本当に気をつけてないと自分も当事者になってしまう恐怖を感じた。

 そして普遍的なテーマとして承認欲求をめぐる話といえる。登山家として認められたい、その動機自体は自然なことではある。しかし、彼の場合は目先の派手なことばかり追いかけてしまい、承認欲求をかっこよく、インスタントに満たそうとしたことにより無理が出たことがよく理解できた。なかでも強烈なのは指と酸素の話だろう。表面上は「夢をあきらめるな、必ず叶う」みたいな美辞麗句を並べておいて、裏では全くそれに見合わないダーティーワークを重ねているのだから目も当てられない。本著では「その姿勢をいかがなものか?」と糾弾するだけではないところが興味深かった。彼自身だけの責任ではなく、自らを含めたマスコミやそれを支持した大衆の責任についても考えさせてくる。SNS駆動である今の社会に生きる身に深く沁み入った。

 さらに本著の興味深いところは栗城氏側だけではなく著者の取材者としての承認欲求についても自戒的な点だ。著者が彼についてブログを書き始めてビュー数がどんどん伸びていき、インターネットに魅了されかかるシーンは生々しい。また取材者としてドキュメンタリーを作る際に自戒するきっかけとなったのがヤンキー先生こと義家氏だというのは驚いた。著者が取材したときのアツい思いを持った先生とは真逆になってしまった話はよくできた寓話そのもの。

 自戒的な姿勢が多く見られること、丁寧な取材を重ねていることで、死人に口なしで一方的に書いた結構エグめの内容(婚姻関係など)も下世話な印象を最小限に抑えることができていた。結果的に著者がブログを削除、ちゃんと取材をして本著を書き上げたことは今となってはとても重要なことかもしれない。それはネットに漂う文章ではなくフィックスされた文章の意味が過去とは大きく異なる時代だからこそ。Rawなものは即時性が高く魅力的に映るが、山を登るように一歩一歩地道に作り上げたものには勝てないと信じている。本著を読んで山登りに興味が湧いたので他の作品も色々読んでみたい。(自分では登れなさそうなので)