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独り居の日記/メイ・サートン |
ブックオフで旧版が叩き売りされていたのをサルベージした。もともとメイ・サートンという名前は知っていたし、最近の日記ブームの中で取り上げられる場面が多い一冊。そんな日記文学の古典として興味深かった。日々の生活の中からクリエイティビティを絞り出していく中で、喜怒哀楽がないまぜになりながらストラグルしている様がビシビシと伝わってきた。
この日記は、著者が58歳の一年間を記録したもので、毎日欠かさず書くというよりも、思い立ったときに日々の生活のあれこれや、小説、詩といった創作に関して備忘録的に日記として綴っている。初版は1973年なのだが、半世紀前の文章とは思えないほど、現代に生きる我々の胸に刺さる言葉が詰まっていた。
庭仕事の描写にページが相当割かれており、著者のライフワークと言っても過言ではない。草を抜き、花を植え、室内に持ち帰って飾る。そうした行為が、メンタルのバランスを保つための儀式のように描かれている。著者自身が癇癪や鬱に悩まされていることを自覚しながら、その揺らぎと向き合うために自然との接点を持つ。部屋に花があるだけで気持ちが安定するという話は、現在の「ていねいな暮らし」の流行とは違った、もっと切実でリアルな生活の知恵として響いた。ちょうど自分の子どもが花を好きになったことをきっかけに、植物への関心が高まっていた時期だったので、個人的にも感じ入るものがあった。
都市で働いていると、季節の変化を感じ、味わうことが疎かになりがちだ。天気が悪い、暑い、寒いといった直接的な感覚ではなく、庭の草木や動物の行動を媒介にして感じる間接的な季節の移ろいが、本著には丁寧に描かれている。その季節の変化と自身の心情の変化をシームレスに描いていくその筆致は、日記の魅力そのものと言える。少し方向性は違うが、植本さんの新作にも通じる要素があるように感じた。
日記の中では創作に対する著者の考え方がいくつも披露されており、そこが個人的にはハイライトだった。今の時代にも通用するようなことがたくさん書かれていて、70年代に書かれたとは思えないほど時代を超越している。一部引用。これらの言葉が書かれたのは1970年代だが、SNSや即席のバズが評価とされがちな今こそ強く響くはずだ。
芸術とか、技術のいろはを学ばないうちに喝采を求め才能を認められたがる人のなんと多いことだろう。いやになる。インスタントの成功が今日では当たり前だ。「今すぐほしい!」と。機械のもたらした腐敗の一部。確かに機械は自然のリズムを無視してものごとを迅速にやってのける。(中略)だから、料理とか、編み物とか、庭づくりとか、時間を短縮できないものが、特別な値打ちをもってくる。
不安は、私が知りもせず知るすべもない多くの人々の生活と、アンテナかなにかでつながっているという自分の生活の感覚を失ったときに起こるのだ。それを知らせる信号は、常時行き交っている。
著者が受けた書評での厳しい評価に悩む様子も記されており、それをどう乗り越えるかに腐心する過程も包み隠さず描かれている。大衆受けするようなメジャー志向ではなく、自分の読者に向かって書いていこうとする姿勢に勇気をもらうクリエイターは多いはずだ。この辺りは自分でZINEを作ってみて初めて理解できた感覚であり、各人がディグして見つけてくれて、しかも買ってくれたことに改めて感謝の念が湧いた。ディグして見つけるものを「自分が発見した森に咲く野の花」と例えていて心に沁みた。
本著の鍵となるテーマのひとつが「孤独」であり、それは「創造の時空としての孤独」として、訳者あとがきでも強調されていた。毎日のように手紙が届き、その返信に追われたり(今のメールやチャットと全く同じ…!)、たくさんの友人が訪問してきたりと多忙を極める中でも、あえて独りになる時間を確保し、その中で思考を整理し、創作に集中する。この喧騒と静寂のバランスが、著者の創作活動を支えていたのだろう。現代においても、常時オンラインでつながる生活の中で、自らをネットと切り離す時間の必要性は日に日に増しているように思える。
著者は同性愛を公にしたことで大学を追われたという経歴を持っており、その背景を知ったうえで日記を読むと「孤独」の意味合いがまた異なって見えてくる。自分の恋愛事情を率直に語っているが、社会的な差別や偏見について直接的に訴えることはせず、あくまで関係性そのものに焦点を当てている点に、著者の強さが感じられた。一方で、性別役割への疑問や女性の生きづらさについては何度も言及しており、当時のウーマンリブ運動とも通じているのだろう。
今の日記ブームの中では、どちらかといえば日々の生活の積み重ねに魅力を感じることが多いが、このように著者の思考がふんだんに入っているエッセイ寄りの日記がもっと増えてもいい。
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