2024年2月29日木曜日

赤と青のガウン オックスフォード留学記

赤と青のガウン オックスフォード留学記/彬子女王

 BRUTUSの本棚特集で漫画家のほしよりこ氏が選書しており赤と青のマントの表紙絵が印象的だったので何となく読んでみた。皇族の彬子女王がオックスフォード大学で博士取得するまでを綴ったエッセイでとてもオモシロかった。皇族へのプレッシャーは近年増すばかりだが「人間」としての尊厳をひしひしと感じた。

 皇族が自ら内情を事細かに説明している文章に初めて出会ったので、この時点で本著のオモシロさは保証済みといっても過言ではない。最近は現天皇である徳仁親王による留学記も復刊リリースされているが本著は00〜10年代の話なのでリアリティーがある。たとえば博士号授与式が2011年で震災から二ヶ月しか経ってない中でお祝いのために海外渡航するのはいかがなものか?という意見があった話など。現状の皇族に対する厳しい視線を予期させる内容だった。ただ著者はエッセイストとしての才覚がめちゃくちゃある。硬くシリアスになりがちな皇族の状況についてジョークを交えつつウィットのある文体で書いてくれているので楽しく読むことができた。やはり国外で皇族ではない立場を経験することで視野が広がることは大いにあるのだろう。宇多田ヒカルが活動休止した際「人間活動に専念する」と言っていた意味が本著を読むとよく分かる。何をするにせよ誰かが周りにいて、先回りして全てが用意されていても良いとは限らない。自分でコントロールできる領域の尊さに気づくことができた。

 著者には皇族という特殊な属性があるものの、あくまで本著の主題は5年かけてオックスフォード大学で博士号を取得したことである。海外で博士号を取得する際の苦労話がたくさん書かれていて非常に興味深い。日本だとプリンセスとして扱われるが学位取得の過程において忖度はなく担当教授から厳しく指導されたり、その真面目さゆえに胃の具合を悪くしたり多くの苦労が語られている。その先にある栄光に向かって一生懸命に研究、論文に取り組み、最後に得られるカタルシスを追体験するような気持ちになった。だからこそ最後の最後で皇族ゆえに自分の力でコントロールできない要素で振り回されてしまうあたりは辛いものがあった。彼らは一般の国民とは異なり、多くの特権を持つ代償として犠牲になっていることがたくさんある。歪な環境の中でも自分の信念を貫く姿勢は見習いたいと思った。

2024年2月26日月曜日

一私小説書きの日乗 新起の章

一私小説書きの日乗 新起の章/西村賢太

 ついに6冊目に到着。ここまで長く人の日記を読むのは初めてでかなり感情移入している。そして読めば読むほど著者が亡くなっていることが悲しくなる。ここ数冊の中では展開が多く一気に読めた。

 大きな変化としては新潮社との蜜月が終わりを告げ文藝春秋との関係が新たに始まっている点が挙げられる。あれだけ長いあいだ苦楽を共にした中でも連載あり/なしで関係がスパッと終わってしまうのは一抹の寂しさを感じる。一方で新しい文學界の担当編集者の服装が奇抜らしいのだが、その描写が毎回オモシロい。著者が周りの人を魅力的に描ける能力はこれまでの日記からもよく分かるし、これが私小説の魅力に繋がっているのだろう。

 藤澤清造の墓参りを含めて旅行に頻繁に出かけているのもこれまでになかった傾向だった。特に墓参りは月命日に毎月行く念の入りようで彼の心境の変化が伺える。お墓は七尾市にあるようで年始に起こった能登半島地震の際に被害を受けたらしい。さらに著者が清造の横に作った生前墓も倒壊したらしく悲しい話だった…

 スランプに陥ってしまい編集者をひたすらに呼びつけるシーンがあるのだけど、そこに作家の孤独を垣間見た。実際にこういった言動は過去にもあったのだろうけれど日記上で書かれているのは初めて。著者の粗暴な振る舞いがあったとしても、編集者たちは呼ばれば馳せ参じている場面にプロフェッショナル魂を感じた。そして著者自身も一晩明ければ自分の至らなさを反省しており、それをわざわざ日記として世間にリリースしているあたりに皆憎めない気持ちを抱いているのかもしれない。その証左として終盤の怒涛の原稿締め切り、ゲラチェックの嵐に巻き込まれる姿は売れっ子作家そのものだった。残すところあと1巻だと思うと寂しい。

2024年2月23日金曜日

デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場

デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場/河野啓

 奇奇怪怪で激賞されていたので読んでみた。栗城氏は情熱大陸の出演が印象的で、エベレストの登頂を手持ちカメラで撮った映像で魅了された記憶がある。そんな彼がどういった登山家でどのようにして命を失うまでに至ったかを丁寧な取材とともに記述した一級品のドキュメンタリーでとても興味深かった。

 登山家と聞くと寡黙に山に挑むようなイメージを勝手に抱いてしまうが、彼はそれとは真逆のスタイルだ。いかにマス受けするか考えて山を登ることを「夢の共有」と呼び、彼のファンダムを形成、スポンサーを獲得していくスタイルで人気を獲得していく。マーケティング戦略としては何も間違ったことはしてないのだけども、その大前提としては山登りに対して真摯な姿勢でいなければならないのに、その点を浅く見積もったことで彼は後年苦しむことになってしまった。見た目だけ繕って中身ボロボロといったことは政治を含め、ここ数年あらゆる場面で見られる事象であり、本当に気をつけてないと自分も当事者になってしまう恐怖を感じた。

 そして普遍的なテーマとして承認欲求をめぐる話といえる。登山家として認められたい、その動機自体は自然なことではある。しかし、彼の場合は目先の派手なことばかり追いかけてしまい、承認欲求をかっこよく、インスタントに満たそうとしたことにより無理が出たことがよく理解できた。なかでも強烈なのは指と酸素の話だろう。表面上は「夢をあきらめるな、必ず叶う」みたいな美辞麗句を並べておいて、裏では全くそれに見合わないダーティーワークを重ねているのだから目も当てられない。本著では「その姿勢をいかがなものか?」と糾弾するだけではないところが興味深かった。彼自身だけの責任ではなく、自らを含めたマスコミやそれを支持した大衆の責任についても考えさせてくる。SNS駆動である今の社会に生きる身に深く沁み入った。

 さらに本著の興味深いところは栗城氏側だけではなく著者の取材者としての承認欲求についても自戒的な点だ。著者が彼についてブログを書き始めてビュー数がどんどん伸びていき、インターネットに魅了されかかるシーンは生々しい。また取材者としてドキュメンタリーを作る際に自戒するきっかけとなったのがヤンキー先生こと義家氏だというのは驚いた。著者が取材したときのアツい思いを持った先生とは真逆になってしまった話はよくできた寓話そのもの。

 自戒的な姿勢が多く見られること、丁寧な取材を重ねていることで、死人に口なしで一方的に書いた結構エグめの内容(婚姻関係など)も下世話な印象を最小限に抑えることができていた。結果的に著者がブログを削除、ちゃんと取材をして本著を書き上げたことは今となってはとても重要なことかもしれない。それはネットに漂う文章ではなくフィックスされた文章の意味が過去とは大きく異なる時代だからこそ。Rawなものは即時性が高く魅力的に映るが、山を登るように一歩一歩地道に作り上げたものには勝てないと信じている。本著を読んで山登りに興味が湧いたので他の作品も色々読んでみたい。(自分では登れなさそうなので)

2024年2月21日水曜日

さびしさについて

さびしさについて/植本一子、滝口悠生

 ZINEとして出版された往復書簡 ひとりになること 花をおくるよが新たな内容を追加、文庫化されたので読んだ。再読しても本著の輝きは特別だったし想像以上に追加された内容が多く、さらにどんな本でも読めないような内容になっていた。

既刊の内容は過去記事を参照してもらうとして、ここでは追加された部分について書いていく。本著内で言及されているとおり最初の一冊を出版してから2人の関係がより近くなったことでギアがさらに踏み込まれた印象を受けた。最初の発信は植本さんでパートナーと関係を解消した話から始まる。その事実を知っている「一子ウォッチャー」も多いはずだが、改めて滝口さんへの書簡という形で語り直されることで新たな視点が加わっていて新鮮だった。同じ事実があったとしても照明の当て方次第で色んな見方、考え方ができる。今回の植本さんの文章はその当て方のバリエーションの豊かさに驚いた。情報過多の今、これくらい自分のことについて考える時間を設けることは意外に難しい。時間をかけて手紙を書き特定の誰かに伝える、この客体化の作業で自己と向き合う。これはすべてが加速化する社会において一つのサバイブ術だと思う。

 そして追加分の滝口さんの文章は正直めちゃくちゃくらった…言語化できていない感情の数々がズバズバ言語化されていくし文章の精度、芯の食い方がその辺に転がっているエッセイと雲泥の差がある。最初の返信では、植本さんの著書『愛は時間がかかる』を通じた時間の捉えた方に関する考察が書かれているのだけども本著のオモシロさを象徴していた。単なる書評ではなく生活と文がそこに同居しているように書かれている。私たちが日常で何気なくやり過ごしているものに言葉を与えていくとでも言えばいいのか。たとえばこれとか。

子どもは生きづらいんだろうか、そうでもないんだろうか、とかときどき考えてしまいますが、生きづらいというのは昨日と今日と明日が続いている時間のなかで求められる不可逆性とか一貫性とかのもとにあって、娘はそういう時間のなかをまだ生きていないのだと思います

 育児に関する深い考察も本著の一つの特徴である。それぞれの子どもの世代が異なっているため抱えている悩みや背景は異なっているものの、いずれも真っ直ぐな思いの吐露に胸を打たれまくった。植本さんは自身の過去と今の娘さんの状況を対比して、ここでも1人とは何かについて考察されているし、滝口さんは小さな娘さんとの対話を試みている。特に後者は私自身が似たような年齢の子どもがいるため身につまされることばかりだった。政治の話ではないけれど、本質的な政治の話という矛盾した何かがそこにあった。具体的な議論の前にミクロな違和感を放置せずに抗っていかないと社会は何も変わらない、そんな思いを新たにした。

 今となっては、お2人とそれぞれPodcastでお話しさせていただいたことが信じられないのですが、もしまだ聞いていない方がいればエピローグとして各エピソードをお楽しみください。

86:The correspondence like dodgeball

89:Thank you my daughter

98:Real dad club

104:The man who knew too much

2024年2月19日月曜日

証言 落合博満 オレ流を貫いた「孤高の監督」の真実

証言 落合博満 オレ流を貫いた「孤高の監督」の真実

 嫌われた監督が超絶オモシロかったので読んでみた。選手、コーチといった周辺人物の証言により落合像がさらにくっきりと明らかになる素晴らしいサブテキストだった。マスコミやファンの視点とは密度が高いインサイダーの話は一次資料として貴重なもの。そして既存の監督像や野球のセオリーを裏切り続けて強いのだから多くの野球ファンを魅了して当然だよなと改めて認識した。

 冒頭、落合政権時の成績を振り返るのだが、その圧倒的な強さを改めて認識するとともに今リリースされたことで現監督の立浪史観が含まれていて興味深い。ここ数年の成績不審、謎の采配やトレード、果ては米騒動まで。立浪への懐疑的な視点は多くの野球ファンが共有しているところだが、改めて選手としての圧倒的な成績を見せつけられるとミスタードラゴンズの名は伊達じゃないと思わせられる。今年は頑張って結果出して欲しい。

 インタビューに収録されているのは当時の主力である川上憲伸や岩瀬、山本昌など投手が中心。落合政権の象徴であるアライバ、森野といった野手サイドのインタビューはFAで移籍してきた和田のみ。野手関連はほとんどコーチでカバーされている。若干残念な気持ちありつつコーチサイドの視点で地獄のキャンプ内容の実情が語られており興味深かった。時代の趨勢としてオーバーワークは敬遠されがちだが、当時の選手達は当たり前だったようだし選手寿命が延びたと和田は言っていて練習量が多いことも悪いことばかりではないのかもしれない。

 勝利至上主義で選手の自立を促す。プレイしている選手たちのやる気を引き出すことにフォーカスしているので、実際のプレイヤーたちは思った以上に戸惑いがなかったという点が共通している。特に伝説となっている完全試合直前での山井の交代は納得している人が多いのも印象的だった。また川上憲伸がのちにメジャーに行った際に既視感があったのはすべて落合の言葉だったというのも新たな視点で興味深かった。つまり既存の日本の野球のスタイルから逸脱していたが、選手を第一に考えたアプローチを取っていたとも言える。

 CBCの番記者の特別寄稿も興味深い。選手時代に番記者されていた方の寄稿で、落合が使っていたバットを科学的に分析していき、彼がどれだけ正確にバットの芯でボールを捉え続けていたか明らかにするくだりは理系的アプローチでかなりオモシロかった。そんな彼のラインが落合を象徴しているように思えたので引用。

落合博満に対する人物評はさまざまである。褒め言葉もあれば、逆に厳しい意見もある。私はそれを”地層”なのだと思う。幾重にも重なる落合博満という名の地層。どの深さの、どんな土に触れるかによって感じ方は違う。でも、地層自体はまったく揺るぎない。

2024年2月18日日曜日

みどりいせき

みどりいせき/大田ステファニー歓人

 すばる賞授賞式における圧倒的にラップなスピーチに心惹かれて読んだ。スピーチで魅せた言語感覚が小説にそのまま持ち込まれており読んでいるあいだずっとワクワク、フワフワしていた。そして概念としてのヒップホップが小説の中にきっちり取り込まれており最近のブームと呼応するようで嬉しかった。そしてこの装丁よ…!人生トップレベルで好きです。

 主人公は高校生。うだつの上がらない毎日に退屈する中、大麻のプッシャーをやっている幼馴染に巻き込まれる形で大麻稼業に巻き込まれて…というあらすじ。非行に走る若者達というプロット自体は特別新しくはないが本著は文体と視点のユニークさがとにかく際立っている。文体については口語スタイル、具体的には若者言葉やギャル語が大量に使われており小説でこういった言葉に触れる新鮮な体験に驚いた。「キャパる」とか本著を読まないと一生知らなかっただろうし、こういった分かりやすい単語に限らず、ひらがなの多用、ら抜き言葉などカジュアルな崩しも多い。一時が万事、正しい方向へと矯正されていく世界に抗うかのように、イリーガルに戯れる高校生たちが瑞々しくユルく崩れた日本語で描写されている。一番分かりやすいのは皆でLSD摂取したシーン。文字だからこそできるゲシュタルト崩壊のようなトリップ表現がユニークだった。

 視点については冒頭のバタフライエフェクトスタイルで度肝を抜かれた。卑近になってしまいがちな青春小説のスケールを一気に大きく見せて本著の世界がどこまでも広がっていくようなイメージを抱かせる。それは後のドラッグ描写へと繋がっていき文を通じて世界のダイナミズムを目一杯いや肺一杯に吸い込むことができる。また主人公の幼馴染である春という人物の性別を限りなくファジーにしている点も示唆的で男女を区別する世間の記号を入れつつも裏切ってくる。他者が性別を明確にする必要はなく春は春なんだという意志を感じた。

 大麻が題材になっており売買や吸引時の様子など含めてかなり細かく描写されていた。ウィードカルチャーとヒップホップは不可分だ。具体的な固有名詞の引用があったりステルスで仕込まれたりしている。(個人的にブチアガったのは「どんてす。」これはNORIKIYOもしくはブッダブランドか。)こういった具体的な引用以外にも前述した文体を含めて小説の中に大量のコードがあり、そこに概念としてのヒップホップを感じたのであった。またプロットやカルチャーの引用など含めて波木銅の『万事快調』を想起する人も多いはず。しかし明確に棲み分けがあり波木氏が直木賞、大田氏が芥川賞をとる。そんな未来がきたとき文学においてもヒップホップが日本で根付いたといえるのかもしれない。

2024年2月15日木曜日

人生が整うマウンティング大全

人生が整うマウンティング大全/マウンティングポリス

 友人から勧められて、そのタイトルと目次に惹かれて読んだ。自分自身が露悪的で厭世感が強い自覚はあるが本著を読むと自分なんて甘ちゃんだなと思わされた。SNSの登場により他人の発言をジャッジするように見る機会は増える中で、ここまで掘り返していく胆力は芸としか言いようがない。1周して振り切ったオモシロさがある。

 前半は具体的なマウンティング事例をタイプ別に仕分けして列挙している。Twitterのおすすめ欄で見かけそうな有象無象のゴミツイートのようなものが紹介されていて、どういったマウンティングなのかを丁寧に解説している。(実際に存在するのか、創作かは不明)著者の生息圏もしくは観察圏がエリート層だからか、お金持ちだったり、高学歴だったり、社会的ステータスの高い人たちに向かってしつこく石を投げ続けていた。日本人は舶来物に弱く島国根性ゆえのマウンティングの跋扈という話は本著に通底しているテーマであり自分自身にも見覚えがある。ゆえに何度もニヤニヤしたし、声をあげて笑ったし恥ずかしくもなった。個人的に好きだったものを引用。

「ジョン・ F・ケネディ国際空港でいつもお世話になっているレストランがなくなっていて途方にくれています」

「10年以上前にニューヨークに住んでいた頃に『上原ひろみのジャズピアノライブに行かない?』と誘われたことが何度かありました」

 こんなハイカロリーな内容で半分くらい走ったあとにネガティブに捉えられがちなマウンティングを活用する方法が紹介されたり、マウンティングにより自らを特別だと思わせる体験(本著ではマウンティングエクスペリエンスと呼ぶ)を通じて既存の企業を分析している。前者については、マウントするのではなく相手にマウントを取らせて仕事を円滑に進めるという話に大いに納得した。実際、本著で紹介されているフレーズのうち、謙遜スタイルのいくつかは仕事で使っている。これらを使うと相手にへりくだることになるのでイライラすることもあるものの、まるでクレベルのように下から三角絞めを決めて最後には勝つ=仕事を前に進めると意識するようにしている。後者については企業よりも京都のマウンティングに大阪出身者として首がもげるほど頷いた。この話をするたびに大阪サイドの思い込み扱いされるが、京都特有のマウンティングバイブスを言語化してくれていて納得した。

 他者との比較をやめる大切さはここ数年で浸透してきていると思うし、それにともなうセルフケアの大切さも重々承知している。しかし現実問題として人間は他人と比較して幸福感を感じてしまう生き物なんだから、その欲求と素直に向き合おうぜ?という論は今の時代を生き易くするもう一つの解なのかもしれない。ただこの結論に至るまでに浴びる毒性の高い例文および解説の数々が致死量を超える人も多いと思うので用量用法を守って正しくお読みください。

2024年2月14日水曜日

一私小説書きの日乗 不屈の章

一私小説書きの日乗 不屈の章/西村賢太

 懲りずに五冊目を読み終えた。淡々とした日常の描写は日記の醍醐味であり本著でも変わらず発揮されている。五冊目にもなると彼の生活が自分にとっても日常になるような不思議な感覚さえある。

 自炊している割合が前巻よりもさらに上がっており、その様子を読んでいると妥協なき食への探究心にひれ伏すしかない。毎回の食事が最後の晩餐かと思っているかのごとく自分の満足度を100%追求している。なので、読んでいると自分の食事にもフィードバックがあり「本当に俺は今これが食べたいのか?」と自問自答する機会が増えた。また晩酌しながら読むと彼の飲酒量の勢いに飲まれるがごとく、ついたくさん飲んでしまう。まさか自分がお酒を飲みながら読書するなんて昔は思っていなかったけど、今は常態化しておりアフター5の楽しみになっている。本著が角川時代最後の連載で次巻からは本の雑誌社での連載となるが何か変化するのか、それとも変わらない日常が続くのか楽しみ。

2024年2月10日土曜日

記憶する体

記憶する体/伊藤亜紗

 とてもオモシロかったサイボーグになるという本の中で繰り返し引用されていた本著を読んだ。完全に読む順番を間違えており本著を先に読んだほうが『サイボーグになる』はより解像度が上がったと思う。そのくらい健常者が勝手に抱いている障害者のイメージと現実との乖離を一から丁寧に解説してくれており目から鱗な話の連発で興味深かった。こんだけ優しい語り口かつ理路整然としている文体がかなり好きだった。

 著者が障害を持つ方にインタビューした内容を踏まえて当事者の障害について解説、論考する構成で11個のエピソードが収録されている。具体例からブレイクダウンしてくれるので話が理解しやすい構成だった。

 タイトルにある「記憶」を軸に健常者側の偏見を裏切るような人選(たとえば全盲だけどメモを取る人、義手の必要性を感じていない人など)がなされており興味深かった。記憶の観点でいうと先天的もしくは後天的に障害を持つかで状況は大きく変わる。なぜなら最初から無かったパターンと元からあったものを失うパターンに分かれるから。状態は同じでもプロセスが違うこと、つまり記憶のある/なしで障害の認知が変化するということに改めて気付かされた。

 また人間の体の仕組みがいかに複雑なのかもよく分かる。見ているものがすべてではなく、認知と現実のギャップが存在し、それを補填したり、もしくは間違えたりする要因の一つが記憶であり、それとどのように付き合うか。幻肢が痛む話はその最たる例で本著内で大きくフォーカスされている。そこにない足が痛むという事態をなかなか想像しづらいが本著の具体事例の数々でイメージが少し湧くようになった。

 障害者の方たちが日々自分の体と向き合って、どうすれば最適化できるのかを考えている。分かりやすかったのは健常者の場合はすべての動作が基本的にオートマティックだが、障害者の方は各動作がマニュアルであるがゆえに大変ということ。しかし、そこには工夫の余地が残されており、ゆえにテクノロジーが介入している現状となっている。3Dプリンターの活用にはかなり未来を感じた。『サイボーグになる』で議論されていたように当事者の意見が反映された補填具が開発されていって欲しい。

 健常者だからといって障害を他人事と思えないのは最後に収録されている若年性アルツハイマーのエピソードがあるから。当然、事故で視力や聴力、手や足を失う可能性はゼロではないもののアルツハイマーは自分ごとになるかもしれないリアリティがあった。このエピソードは他と毛色が異なる内容でかなり興味深かった。端的にいうとアルツハイマーで忘れてしまうことを逆手に取ったクリエイティビティの発揮だろうか。日記と小説の狭間にある記憶と忘却みたいな深いテーマがゴロッと放り込まれてた。『どもる体』も早々に読みたい。

2024年2月9日金曜日

2024/01 IN MY LIFE Mixtape

 去年は新譜のレビューをひたすらポストするという労力をかけていたが、結構しんどかったので今年はプレイリストを作っている。これが一周回ってめっちゃ楽しい。新譜縛りではなく、その月の出来事、たとえばレコード買ったり、惜しくも亡くなってしまったアーティスト、ラジオで聞いた曲など、偶然出会った音楽と新譜を混ぜて1つの流れを作っていく。この作業がDJするのと同じで楽しく音楽の記録としても結構分かりやすくて良かった。新譜は「新しい」というトリガーで聞けるのだけど、旧譜との出会いは意外に少ないがゆえにセレンディピティを大事にしたいし記録に残っていけばよい。

 あと単純に自分の好きな曲を集めて、それを聴く快楽が想像以上にあったことに驚いた。これは皆アルバム単位で聞かずに自分の好きなものだけ繰り返し聞くようになるよなと納得した。

 今月分はこれ。車を角にぶつけたので自戒のジャケ。こういうジャケ作りも昔から好きなので楽しい。

🍎Apple music🍎


🥝Spotify🥝

EASY FIGHT

EASY FIGHT/堀口恭司

 堀口恭司の自伝ということで読んでみた。戦極、DREAMの低迷期に見ることを止めてしまった総合格闘技を再び好きにさせてくれたのは彼のRIZIN参戦の影響が大きい。ゆえに楽しみにしていたが思っていた内容と違う感じが否めず、そこまで楽しめなかった。本著のターゲットは格闘技ファンというより、もっとライト層向け、さらにはカルチャーから何か自己啓発的なものを抽出したい衆向けなんだろう。幻冬舎からの発行で編集に箕輪厚介という時点で察する部分はあったにせよ悲しかった。

 本人が直接書いたのではなくインタビューを書き起こしたものと思われる。Q&A式ではなく彼の一人称で自分の生い立ちや試合、最近の格闘技業界について書かれている。RIZIN参戦前の経歴は知らないことが多くオモシロかったし、さらに試合時の心境などはRIZIN Confessionsを見ているようで興味深い内容が多かった。ただ読んで気づいたこととして、自伝より評伝の方が好きだなということ。主観である自伝の醍醐味として外部から見えない当人氏から知らない情報や感情などがあるが、本著ではその主観を使って彼の精神論が繰り返し登場する内容に辟易した。

 格闘技と新自由主義の相性は抜群であり「やるやつこそが正義」というテーゼを掲げた上で彼の口から格闘技に対する精神的なアプローチを繰り返し引き出していた。当然彼の本心だとは思うものの、それは見せ方次第で良い風にも悪い風にも捉えられる。あくまで主観だが「ごちゃごちゃ考えずにjust do it」的な物言いが正直苦手だった。

 彼は泰然自若であり本著内でも感情をコントロールすることによるパフォーマンスの向上の話が何度も出てくる。普段の試合前の煽りは少なくリング上で「最強」を誇示してくれるからこそ好きな格闘家だ。しかし本著内では後半にかけて他者、特に朝倉兄弟、那須川天心への言及が結構多くてガッカリした。先述のとおり彼は聞かれてるから答えているのだろうと推測できるものの、一人称の文体なので、まるで彼が自分から現状の格闘技について小言を言っているように見えてしまうのが本当にもったいない。そういったくだらない争いに巻き込まれたくないから自分でガチの実力派団体を旗揚げしているわけで、彼が最近の格闘技界隈の不良優遇や過剰なSNS煽りについて踏み込んで、こうやって残る活字でコメントする必要もなかったはず。読み手を煽りたい気持ちも理解できるけど、堀口恭司のキャラクターと一致していないから残念だった。とはいえ彼のことは引退までずっと応援していきたい。この本を読むよりも以下の動画を見る方が100倍は彼のことを知れると思う。


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2024年2月7日水曜日

わかりやすさの罪

わかりやすさの罪/武田砂鉄

 文庫化されていることを知りサクッと読んだ。もはやおなじみと化した砂鉄節がこれでもかと炸裂していて楽しかったが、それだけで済まないズシンとくるものがあった。

 世間の言葉使いやその風潮について逐一理詰めでツッコミを入れており、今回の大きなテーマは「わかりやすさ」。普段何気なくスルーしていることを今一度立ち止まって論考を深める作業は必要だと理解しつつ、大量の情報に溺れる日々ではいちいち気に留めていない。しかし、そうやってかまけていると権力や企業はその間隙をこれでもかと突いてくる。このように社会的に「わかりやすさ」が跋扈しやすい状況では流れに身を任せていない人間は偏屈、天邪鬼などと言われてしまう。しかし著者はそんな他者のことなんてつゆ知らず、ひたすらに思考し続けていることに勇気をもらえた。

 本著はここ5年くらいの社会のムードを分析しているので、最近の小説を読んでいるときに「まさしくこの話!」と思う場面がたくさんあった。最初は偶然の一致かと思っていたが、それよりも物書きの人が抱く現在の社会に対する違和感が一致しているということなんだろう。

 奇奇怪怪のTaitan氏が解説でも書いていたが本著の恐ろしいところは「何でも分かりやすくするの良くないよね!複雑なものはそのまま受け取ろうよ」といった短絡的な結論に向かえないところ。特にこうやって読んだ本の感想をつらつら綴っているのは「わかりやすい」要約を作る作業と変わらない。また個人的にグサッときたのは以下のライン。身に覚えがありすぎてコーヒー吹いた。

「さっきの話はとても重要で」ではなく、「さっきの話はとても重要だと思っていて」とする言い方。自分が話していることなのに、自分が話していることではないみたいだ。自分をどう見せるかに卓越しているかどうかが問われすぎているからこうなった、と結論付けるのも早計だが、あまりの頻度に驚いてしまった。感情を吐き出すのではなく、その感情を吐き出す理由、つまり「なぜなら」を必須にしているように思える。

 ここで書いているのは本の感想なので「思った」の文末は致し方ない部分があると自分を甘やかしつつも断定を避けて保身に走っていると言われればそれまでだ。あと特定のラインを引用して本を象徴するような書き方もしているので心に鈍い痛みが…

本を通読し、ココがポイントであろうと加工する行為は、その本の「真」を摑むための行為ではない。加工では「真の情報」は摑めない。本は、そして文章は、すぐには摑めないからこそ、連なる意味があるのだ。簡略化される前の、膨大なものを舐めてはいけない。

 何かをわからないまま置いておく、もしくは議論し続けるだけの忍耐力が社会から失われつつあるのは間違いなく近年は加速している。安易な二択の奥に潜む有象無象に思いを巡らせたい。戒めとして引用。

わかりにくいものをわかりやすくすることは難しいことではない。切り刻んで、口にしやすいサイズにすることはおおよそ達成することができる。でも、それを繰り返していると、私たちの目の前には絞り出された選択肢ばかりが提示される。選択肢が削り取られる前の状態を知らされなくてもそのことに慣れてしまう。「便利」と「わかる」が一体化している

2024年2月6日火曜日

おもろい以外いらんねん

おもろい以外いらんねん/大前粟生

 最近、奇奇怪怪というポッドキャストを聞き始めてそこで紹介されていたので読んだ。発売当時も気になっていたのだけど、お笑い、漫才に関する小説といえば『火花』という圧倒的傑作が脳裏をよぎってしまい躊躇していた。しかし実際読んでみると著者はそこも承知の上で小説を通じて今のお笑いを批評する形になっておりとてもオモシロかった。

 高校時代の同級生2人がコンビを結成してプロのお笑い芸人として売れることを目指す。このど直球のプロットに対して主人公を2人の友人である第三者としている時点でお笑いについて距離を置いて描こうとする姿勢が分かる。お笑いを始めた人、始めなかった人のそれぞれの人生が交錯していくのだが、特徴はコロナ禍真っ只中の話だという点。今となっては完全に過去の出来事で一体どうやって過ごしていたかも記憶の彼方になりつつある中で改めて創作物で読むのは非常に新鮮だった。特にお笑いは密が一つの売りの商売がゆえに距離を取ることによる価値観の転換(コンビ間の思想も含め)が如実に表現されていて興味深かった。

 2人のお笑いコンビの片方がバラエティで重宝されて、ネタ原理主義者であるその相方はテレビに出られない。そして前者をカラッポと表現している点から昔のハライチを想起して読んだ。お笑い芸人としてどんな形で笑いを取っていくか、その形にこだわる人間とこだわらない人間のギャップについての考察が物語を通じて行われる。後者のこだわらない人間による容姿いじりや女性へのセクハラが近年は問題視されるようになりつつあり、その過渡期の物語としてこれほど自覚的なエンタメは読んだことがなかった。

 特に最近は松本人志の騒動についてどうしても考えざるを得ない。彼を経典とするお笑いを長年見てきた身からすると、どういう気持ちになればいいのか本当に難しい。彼の及んだ行為を嫌悪する気持ちはあるし、それに由来するであろうホモソーシャルなノリ、近年のニュースバラエティでの権力側への擦り寄りなどは結構しんどくてここ数年は敬遠していた。しかし、彼が構築してきたお笑いの価値観で育った身だし、過去に死ぬほど笑わせてもらったのも間違いなく、すべてを否定するのも苦しい。その狭間で揺れる気持ちが正直ある。

 本著はそんな揺れる気持ちに対して「おもろい以外いらんねん」と優しく諭してくる。物語の力を駆使して全力で「傷つかないお笑い」を肯定しようと思えばできるはずのところを敢えて結論を迂回させつつ終盤にタイトルをダブルミーニングで使った展開となる点が白眉だった。現状維持ではなく変わりゆく社会に順応していくのもお笑いでありカルチャーだよなと思わされる。ネタ原理主義者の彼が放つ以下のラインが今一番グッとくる言葉。

笑いが傷つかない漫才がしたい。

東京都同情塔

東京都同情塔/九段理江

 前作のSchoolgirlが好きだったので芥川賞を受賞した新刊を読んだ。生成AIを小説に導入していることで大きな話題になったが、それはあくまでパーツであり現在の日本社会のムードを背景に言語論、都市論などにリーチする興味深い作品。色んな考察をしたくなる材料が大量においてあり作品内で解決しないことが多いのでページ数の割にかなり読み応えがあった。

 国立競技場を建て替える際にザハ案が採用された東京が舞台になっている。遠くない、あり得たかもしれない未来の中でソフトSFな展開が起こりつつ主人公である建築家の女性が自身の言語感覚について論考する様が興味深かった。彼女の頭の中を覗いてるよう。合間に生成AIとやりとりしつつ言葉が彼女の心の内と外を行き来する。言葉を発するまでの思慮というのは大量にあるわけだが、AIとの対比によって人間の冗長さが際立っていた。それを無駄と捉えるかどうか?何でも最短距離で辿り着くことが合理的とされつつある社会で、今のテキストベースのコミニュケーションの中でも比較的婉曲な小説で表現していく姿勢がかっこいい。

 言葉が外に出ていく前に心の内で自己検閲するくだりが何度か出てくる。ソーシャルジャスティス全盛の時代、失言しないためには必要な能力ではあるが、無難を選び続けた結果、個性は死んでいきAIと変わらない言葉を発する人間になるのでは?という疑問を呈しているように感じた。終盤に登場するアメリカ人のライターの言葉遣いが対照的で”fucking(クソ)”を多用する。AIは自重する言葉で自ら発することはないだろう。しかし、こういった言葉がいい意味でも悪い意味でも人間を人間たらしめているのだと感じた。同じような論点でいえば漂白された社会についても意識的で、その象徴が主人公のパートナーのような男性と塔の存在だった。

 前者は洗練されているといえば聞こえはいいのだけど色がなさすぎて実体を掴みにくかった。希薄な欲望、足るを知るが極まっているような印象があり、十把一絡げに言えないことは重々承知の上で個人的には最近の若者像を結んだ。

 後者は東京都同情塔という名前で実質刑務所なんだけども自由度の高い環境で管理する近未来型のものとして描かれている。刑務所内をジェントリフィケーションしてしまって素晴らしい環境を受刑者に提供し社会にインクルージョンしていこうね、という話。この塔が諸外国に比べて相対的に貧しくなりつつある日本を暗喩しているかのようだ。それと同時に先に紹介したライターの視点(外圧)が加わることにより、エゲツない勾留状況で海外からの難民を排除している現状の入管に対する皮肉にも受け取れた。その他にも女性が受ける性暴力の問題、死刑を含めた厳罰問題の是非、外圧でしか変わらない内向き姿勢など社会に横たわっている課題がさりげなく配置されており、直接物語の推進力に寄与しないが明確に問題視している絶妙な塩梅が見事だった。

 また新宿御苑付近に超高層タワーとして建築される同情塔とザハの建築が対をなす描写が個人的に好きだった。近未来の東京、品のあるサイバーパンクとでもいえる艶やかさ。そして終盤に主人公および塔の内外の境目が曖昧になり一体化していく様は圧巻だった。御苑を舞台にしているのも課金制という内外の壁がある中で登場人物たちが壁を乗り越えて無効化していくのも示唆的に感じた。邪推も含めて楽しめる要素満載の芥川賞受賞も納得の快作!

2024年2月1日木曜日

一私小説書きの日乗 遥道の章

一私小説書きの日乗 遥道の章/西村賢太

 4冊目の日記集。前作の流れのまま同じフレーズを多用した日常の生活記録だったが、引き続きずっとオモシロいのだから著者の読ませる力が相当あるのだと思う。個人的に残念だったのは表紙絵。今回は手書き原稿が表紙になっているが、過去作の味わい深い黒と色のコントラストの絵であってほしかった。

 前作からの違いといえば頻繁に自炊しているところ。カレーをかなりの頻度で作っていた。あと行きつけの信濃屋では、お店で締めの丼や麺を食べていたのに、そこを我慢して「仕上げ」と称してわざわざ1人で別のラーメン屋で締めるようになっている。もともとtoo muchな食事はますます加速、もはや畏怖の念を抱くレベルだった。この食生活だと54歳で亡くなったのは納得せざるを得ない。

 テレビ出演の頻度は下がり作家業として締切に追われる生活が克明に描かれている。不規則な中でもクリエイティビティを発揮しようとストラグルする姿勢がカッコよかった。特に書けないときのもどかしさを食事、飲酒、買淫というストレートな欲求で紛らわせている点が正直でオモシロい。なお「買淫」という言葉は風俗へ行ったことを明示しており、その感想(あたり/はずれ)を最初の日記から毎回書いている。こういった内容に嫌悪を抱く気持ちは出版当時よりも加速している社会において「ほんとのこと」を書く彼の作家としての矜持を感じた。読んだ皆が感じるであろう「喜多方ラーメン大盛り」とのコンビネーションが生むグルーヴ、これはまさに人間の業だと思う。こんなに端的に人間の欲を表明している表現もそうそうない。

 基本的に繰り返しの日常の中でも人への悪口を書く場面があり、そこでの筆が踊るかのような文体がたまらなかった。極めて露悪的だと思うものの、ここまでの表現になると完全に芸だと思えた。流行りの論破とかそういうレベルではない。特にネット記事の記者に対するネチネチした罵詈雑言の精度がめちゃくちゃエグかった。残り三作も楽しみたい。