2024年3月29日金曜日

最後の音楽:|| ヒップホップ対話篇

最後の音楽:|| ヒップホップ対話篇/荘子it, 吉田雅史

 久しぶりにヒップホップ批評的な本が出るということで楽しみに読んだ。2人のそれぞれの見立てのユニークさとゲストも含めスイングしていく対話がめちゃくちゃオモシロかった。

 「ヒップホップと〇〇」という形で章立てされている構成で複雑化しているヒップホップのカルチャーとしてのあり方を解きほぐしていく。各自によるコラムも一部あるが、ベースとなっているのは著者2人による対談でそれを再構成している。ゆえに難しい哲学的なアプローチの議論もかなり理解しやすかった。同じ内容を書き言葉で堅めに表現するよりもこの形式のほうが門外漢に対して間口が広くて良い。

 今や世界的なポップカルチャーとなり、ここ数年は日本でも加速度的に人気が高まっているヒップホップ。表面だけみればパーティーカルチャーに見えるが、その奥には縦にも横にも斜めにも広がるかっこよさの多様さがある。それは「Dope」や「 ill」 という言葉で表象されており、こういったかっこよさについて論考していく内容となっている。自分自身がヒップホップを好きになったのは本著で主張されている「ズレ」が大きな理由の一つであり、彼らの議論によって具体的に言語化されることで気づくことがたくさんあった。今の時代、なんでも正しく綺麗なものがもてはやされる一方で間違っていて汚ないものは価値がないと判断されてしまう。しかし、そこで価値転換を起こすことができる点にヒップホップの素晴らしさがある。本著内で繰り返し言及されるようにすべてがシミュレートされてしまうポストモダン社会における大きな役割をヒップホップが担っていると言っても過言ではないだろう。

 ゲスト陣も鉄壁で菊地成孔、Illcit Tsuboiのチャプターが出色だった。菊地成孔とはヒップホップの文学性を議論しており、リリックの内容やライミングのありかたといった定性的なものから、リリック内のボキャブラリーの数といった定量的分析まで全方位に話が転がっており興味深かった。ラストの金原ひとみウェッサイ論は飛距離がハンパなかったのですぐに読みたい。そしてIllcit Tsuboiのチャプターは目から鱗な話の連続だ。氏のTwitterでは音響的観点でレコードや新譜のヒップホップについてツイートされているが、そのベースにある考えを知ることができて大変参考になった。「ヒップホップはマスタリングの音楽である」とはJAZZ DOMMUNISTERSの”One for Coyne”におけるN/Kの言葉だが、そのくらい他の音楽に比べて音の質が議論になる。もともとサンプリングベースの音楽だったことも影響していて、ダーティーさ、ラウドさといったノイズの要素をどのくらい入れるかが一つの主張にもなる。荘子itはそこにキャラクターさえ投影しようとしていて興味深かった。長く信頼されているエンジニアだからこそのエピソードも多く、ECD『失点・イン・ザ・パーク』やBuddha Brandの『人間発電所』の製作秘話など知らないことだらけ。特に前者は読後に聞くと圧倒的に解像度が上がりめちゃくちゃかっこよく聞こえてびっくりした。これもキャラや記名性に通じていて純粋な音楽だけの魅力だけではなくコンテクスト重視の音楽だからこそなのかもしれない。

 あと驚いたのは日本のヒップホップに対する批評的眼差しだ。Creepy Nutsや舐達麻といった今の人気どころをズバッと言語化してしまう荘子itの鋭さにドキッとさせられる。Dos Monosは意識的にいわゆる日本の「ヒップホップシーン」と距離を置いているがゆえに言えることが多分にあり、ライターたちの大半が御用聞きのインサイダーと化した今、批評的な眼差しのあり方は貴重だ。本著全体から見ればわずかな量だが、こういう目線の日本のヒップホップの本がもっと読みたい。

 こんな駄文の連なりでは到底語りきれないくらいに議論は発散しているのだが、それを支えているのは吉田雅文氏のヒップホップに対する博覧強記っぷりであることは間違いない。吉田氏のヒップホップに対する広く深い理解と愛があり、なおかつ本人および荘子itがプレイヤーだからこその対話となっている場面が多い。たとえばサンプリングの切断をモチーフとした議論はビートメイカーかつ批評もできる2人にしかできないものだった。今や調べれば何もわかる時代ではあるが、こうやって対話の中で自分の知識をコンテクストに応じて出していくのは簡単なようで難しい。この粒度でヒップホップを語ることができる人はいないので、いつの日か新たな切断面から再び反復して最後(latest) を更新して欲しい。

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