2024年3月27日水曜日

韓国文学の中心にあるもの

韓国文学の中心にあるもの/斎藤真理子

 以前に友人から薦めてもらってやっと読んだ。パク・ミンギュの『カステラ』が翻訳大賞を取ったあたりから急速に日本で読める作品が増えた印象のある韓国文学の水先案内人として素晴らしい内容だった。とにかく読みたくなる本が増えまくって嬉しい悩みである。単なるブックガイドにとどまらず文学を読むことは歴史や社会と向き合うことなのだと言わんばりに韓国の歴史に関する話が多く大変勉強になった。

 年代を遡っていく形で韓国の小説を丁寧に紹介してくれている。著者は翻訳者で近年の韓国文学の人気の立役者。翻訳されていることもあり各書籍に対する読み込みの精度が非常に高い。ゆえに読んだことのある作品でも知らなかった背景や著者が込めた意図などが知れて興味深かった。そして作品を魅力的に語るのが本当にうまい。紹介、批評、感想のちょうどいいバランスは見習いたい。

 韓国文学のいい意味での身近さを感じて夢中になって読むことが多いのだが、それについて『82年生まれ、キム・ジヨン』を通じてズバリ言語化されていた。

自分につながる女性たちの歴史を振り返るためのツールとして、韓国の小説はまことにちょうどいい弾力を持っていたのだと思う。その壁に「思い」をぶつけてみると、手ごたえのある「考え」がはね返ってくる。それはあらかじめ想像がついてしまう日本の物語にも、文化的背景が大きく異なる欧米諸国や南米、アフリカ大陸などの物語にもできないことだ。似ていて違う韓国の文化だからこそ、それが可能になったのではないだろうか。

こういった身近さ感じる一方で歴史的背景が全く違う国であることを読み進める中で痛感させられる。著者も言及していたが、日本国内の韓国に対するカルチャーを中心とした現状の消費状況は沖縄に近いものがある。表面的なものを享受し辛い歴史や背景は見て見ぬ振りをする。「日韓」のモヤモヤと大学生のわたしを読んだ際にも感じたが、ただの隣国ではなく加害と被害の関係があることを忘れてはならない。

 今回読んで特に感じたのは死に対する距離感の違いだ。朝鮮戦争時における南北の同民族間での報復合戦や凄惨な歴史的事件、近年の事故などで失われた命とその失われ方を通じて培われた死との近い距離。それに正面から向き合い小説へと昇華していく作家たちのかっこよさがよくわかる。また韓国映画における救いのなさと結びつけられることで大いに納得した。

 今では民主主義国家としての韓国がそこにあるが、第二次世界大戦以降この状況を勝ち取るまでに経た険しい道のりは想像をはるかに超えた困難なものだった。もともと歴史に明るくないが、距離の近さに反比例するかのように知らないことが多過ぎる。彼らの民主主義に対する高い意識、本著の言い方を拝借すれば「重い足腰」を知ると日本における「民主主義」はお飾りにしか見えなくなってしまった。様々な場面で選択を要求されてきた歴史が長いからであり、その選択の責任を担ってきたからこその強さがある。そんな足腰を駆使した文学だからこそ人の心を大きく動かすことができるのだろう。

 終盤、日本の文学から当時の朝鮮戦争に対してアプローチしていた『されど われらが日々──』を取り上げた考察があり興味深かった。当時の大ベストセラーらしいのだが名前も聞いたことがなく世代の断絶を感じつつ著者自身の考えを含め逆サイドからの視点を踏まえた内容が興味深かった。これに限らず本当に読みたくなる本だらけだったので色々と読んでいきたい。

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