2025年4月30日水曜日

死なれちゃったあとで

死なれちゃったあとで/前田隆弘

 積んであったので読んだ。タイトルからして、今読みたかった本だった。JJJ逝去について、安易に言語化できない気持ちがあるのだが、そんな灰色の気持ちを少し和らげてくれる、死への向き合い方を考えさせてくれる稀有な一冊だった。

 編集者・ライターである著者の周りで起こった死にまつわるエッセイ集。もともと文フリで売っていたZINEが商業出版されたもので、最近のZINEブームの先駆けともいえる。死といえば、どうしても「悲しい」「辛い」というイメージばかり浮かびがちだが、実際には喜怒哀楽が存在することに気づかされる。また、死自体にもさまざまな種類が存在し、それに伴って変動する、残された側の感情のあり方について、ここまで具体的に踏み込んで描いているエッセイは読んだことがなかったので興味深かった。特に「父の死、フィーチャリング金」はあまりにもすべてが生々しく綺麗事は一切見当たらない。死とお金は切っても切り離せないことを眼前に叩きつけられたようだった。

 このように死の周りに転がっている現実について、お金、事故、病気とその治療など普段聞くことが少ない数々の事例について知ることができたのは、人生の予習をしているようだった。病気のように近い未来に亡くなる可能性を知っている場合と、自死、事故死のように唐突に死の暴力性が剥き出しになる場合の両方が描かれているので、死を立体的に捉えることができる構成となっている。そんな中でもコロナ禍は特異点といえるが、コロナ禍で亡くなった場合の葬儀がどんなものだったのか、これは歴史に残る重要な記録とも言えるだろう。

 著者の後輩であるD氏は自殺で亡くなっており、彼の死が本著で最もフォーカスされている。数ある死の中でもタイトルの言葉が最も響くのは自死であることは間違いない。自分の意思で急に世の中を去ってしまい、その後に残された側の放り出された感情はいろんな形で存在し、表現される。そこに当然優劣はなく、著者はその感情の置き場について向き合った過程を本著に書き残してくれている。忙しい日常の中で、人の死はどうしても見ないように蓋をしてしまいがちだが、少しでも思い出して、何か具体的に行動することで見える景色を身をもって見せてくれていた。

 友人のラッパーである黒衣の曲「バカとハサミ」にある「ログインしてなきゃ死人扱いか?」というリリックが好きなのだが、それを地でいくエピソードがあり、ネット時代の生死に関する考察が興味深かった。今では死後に家族がログインして代理報告する場面を見かけるが、家族に公開していないアカウントであれば、更新が止まったブログやSNSアカウントの残留思念は、死後そのままインターネットを放流し続ける。それは生きているとも言えるし、死んでいるとも言える。そんな生と死の境界があいまいになる現代だからこそ、葬式が持つ「区切り」としての意味が改めて浮かび上がっていた。

 本著では身近な人の死が数多く取り上げられているが、物理的な距離はあるものの、身近な存在であるアーティストの死との感情の折り合いに困るときがある。とりわけヒップホップというジャンルではアーティストが若くして亡くなるケースがあまりにも多く、そのたびに心が痛む。そのたびに「YOLO(You Only Live Once)」 が毎回頭によぎり、行けるときにライブは行っておいたほうがいいし、やりたいことがあれば、just do it だなと毎回思わされるのであった。

2025年4月26日土曜日

日本語ラップ長電話


 約一年にわたる試行錯誤を経て、日本語ラップに関するZINEをついにリリースすることになりました。
タイトルは 『日本語ラップ長電話』 です。

 日本のヒップホップがここ数年で爆発的に人気を拡大する中で、過去のヒップホップについて、懐古主義の象徴として「日本語ラップ」と形象する場面に遭遇することがあります。ただ、個人的には「日本語ラップ」に込められた言葉の意味として、楽曲内およびアルバム内にラッパーたちがコンテキストを閉じ込めたものを「日本語ラップ」と呼びたい。そういう思いでこのタイトルにしました。

 内容は、私が運営しているポッドキャスト番組「In Our Life」で話した日本のヒップホップに関する内容を再構成したものになります。既出の話ではありますが、活字として再構成することで、新たな魅力に溢れたものとなりました。

 さらに特典として「2025年のKREVAとSEEDA」について話したボーナスエピソードがついてきます。ここでしか聞けない内容なので、いつも聴いてくれている皆さんには是非聞いて欲しいと思います。

 noteでイントロ部分が読めるようになっていますので、試し読みしたい方はこちらからお読みください→『日本語ラップ長電話』Introduction

 メルカリショップで通販販売していますので、遠方の方はそちらでご購入いただけますと幸いです。IN OUR LIFE Web SHOP

 そして、今回は文学フリマ40から販売開始させていただきます。関東近郊の皆様でお時間あれば、是非お越しくださいませ。当日は私とCyderで店番する予定です。


それでは現場でSee Ya!


文学フリマ東京40

2025/05/11(日)12:00〜17:00

東京ビッグサイト(東京都)南1・2ホール

P-53 / IN OUR LIFE

https://c.bunfree.net/c/tokyo40/1F/P/53


2025年4月24日木曜日

この星を離れた種族

この星を離れた種族/パク・ヘウル

 inch magazineという出版レーベルによるポケットシリーズ。第一弾の『生まれつきの時間』もオモシロかったが、今作も同じく短編集としての余韻が素晴らしかった。

 ショートショート「鉄の種族」と表題作の二作で本著は構成されている。どちらも地球に住めなくなる未来の話だ。表題作は、ある惑星をテラフォーミング(地球化)して人間が住めるようにすることを目的として、女性の主人公が派遣される。彼女は、難民として過酷な人生を送りながらも、ゴミ収集車の運転手として働き、自動車整備士の資格を得たことで「テラフォーマー」に選ばれ、単身で惑星の地球化プロジェクトに従事する。孤独と向き合いながら自然と生きている様は、ソローの「森の生活」さながらだ。

 テラフォーミングというと、近未来的で先進的な響きがあるが、本作が描くのはその裏にある破壊の現実だ。新しい生命のために、既存の生態系を殺してしまうことになる。テラフォーミングの過程で、惑星にもともといた生物たちは次々と死に絶えていくわけだが、そこから目をそらさず、淡々と描き出す筆致に物語に対する誠実さが感じられる。一種の「惑星の緩慢な死」とも言えるわけだが、その死のコストを、社会的に弱い立場に置かれた主人公が一手に背負わされているという構図は今の時代にも起こっていることだろう。特にあえて思考停止して業務に従事する姿は読んでいて痛々しく、会社との硬直した関係性など含めて過酷労働小説ともいえるだろう。

 作品の中盤から登場するのが、「山羊頭」と呼ばれる動物である。この不思議な生き物は、仲間が死ぬたびに「葬礼」という儀礼的な行動をとる。気候変動の影響で仲間が大量に死んでいく中、葬礼を行う姿は健気で、人間以上に人間らしい。主人公は家族との通信も断たれ、孤独と虚無の中で次第に「何のために生きているのか」が分からなくなっていく。だが、山羊頭の命を救うことに人生の意味を見出し、惑星を徘徊する浄化車のスイッチを一つずつ手動で切っていく姿は愚直さの体現であり「目の前の現実」にフォーカスする意志の表明でもある。

 作中に登場する「オセロゲーム」という表現は、本著を形容するのにぴったりなフレーズだ。一つの行動が、ある者を救い、ある者を見捨てる。ひっくり返すことで、救われる側と見捨てられる側。このコントラストが物語の構造を象徴している。誰のために、何のために行動するのか。テラフォーミングとそれに伴うバックラッシュのはざまで葛藤する主人公の姿から考えさせられた。

 橋本輝幸氏による「気候変動SF小史」が付録的についているのだが、かなり興味深かった。地球温暖化に端を発するハリケーン、台風、豪雨、山火事などの被害の深刻化は目に見えてひどくなっている中で、少し先の未来を描いていくSFにとって、気候変動はこれから格好の題材になるのだろう。本著はその先頭を切るような一冊だった。

2025年4月23日水曜日

彼女は頭が悪いから

彼女は頭が悪いから/姫野カオルコ

 Kindle Unlimited に入っていたので駆け込みで読んだ。『Black Box』の後に読むと、別のべクトルでの性加害の問題が浮き彫りになっており、暗い気持ちにさせられる一冊だった。本著は性加害を大きなテーマとして取り扱っているのだが、それよりも日本における階級社会をアクセル全開で小説として描いており、社会派作品でありながら、物語としてもオモシロかった。

 本著は、実際に起こった東大生による強制わいせつ事件を基にした小説だ。加害者の東大生たち、被害者の女子大生を中心に展開する群像劇として描いている。登場人物がかなり多く、それぞれのキャラクター設定が丁寧に練られており、言葉を尽くして描かれているため、物語への没入感はかなり高い。当事者である学生たちの高校から大学に至るまでの長さだけではなく、その両親や祖父母にまで取材が及ぶかのような描き込みには驚かされた。これほど深いレベルで人物を掘り下げる小説にはなかなか出会えない。

 そして、その描く角度も独特で、出自や学歴といった「階級」に固有名詞を連発しながら切り込んでいく。それが本著全体に漂う嫌な空気の元凶だろう。自分が普段避けてきた、この手の人々の思考や会話に久しぶりに触れさせられた感覚があり、フィクションとはいえ読んでいてしんどかった。

 「東大という社会的に絶対的な看板のもとでは何をしても許される」という驕りが作品中のそこかしこに登場する。しかし、恐ろしいのは、彼らと読者である自分が完全に別だと言い切れない点である。「東大」がスケープゴートとなっているが、誰しもが権威に寄りかかって、他者に対して無自覚な暴力をふるまってしまう可能性があるわけで、他人の気持ちを幾らかでも想像できることの大切さを痛感させられた。学歴や育ち、仕事に対するジャッジメントの視点に抵抗があるものの、自分にそうした視点がないわけではなく、むしろ狭量であるという自意識がある。そうした自意識もあいまって、自分ごとのように迫ってきたのであった。

 事件に関わった男性の登場人物たちが、女性を一人の人間としてリスペクトしない姿勢を、日常の些細な描写によって浮かび上がらせている点も著者の筆致が光る。一事が万事、女性を対等な関係ではなく「駒」として扱い、常に「女性と一緒にいる自分」にフォーカスしており、身勝手な振る舞いを繰り返す。そして、自分の地位が努力の成果だと信じて疑わない彼らの足元を支えているのは、実は親の高い経済力という現実について皮肉を交えて描いていた。

 作品内で描かれる性加害は、レイプにまでは至らないのだが、陰湿で執拗な暴力が被害者をじわじわと追い詰めていく様子は読んでいて苦しかった。暴力に大小はないことは大前提として、レイプよりも心に深く傷を残すエグさがあった。これだけ胸クソ悪い思いをしたからには、それ相応に罰を受けてほしいという読者の思いは半ば叶い、半ば裏切られる。その分岐点が「東大」であることが象徴的な皮肉であった。

2025年4月21日月曜日

Black Box

Black Box/伊藤詩織

 Kindle Unlimitedにあったので読んだ。ここ数か月、映画をめぐる議論が再燃しているのを見て改めて興味を持ち、読んだわけだが、著者に対する性加害の凄惨さはさることながら、性加害を取り巻く日本社会の現状に衝撃を受けた。

 本著は、著者がTBSワシントン支局長だった山口氏から性的暴行を受けた後、裁判に至るまでの過程を克明に描いたドキュメンタリーである。もはやこの事件を知らない人は少ないだろう。それは被害者である著者が実名を公表し、加害者の逮捕が不当に阻まれた事実を告発したことによる。刑事事件としては不起訴、検察審査会でも不起訴相当となり、最終的に民事裁判で勝訴を勝ち取った。この一連の流れは知っていたが、本著を通して見えてきたのは、そこに至るまでの詳細なプロセスと、著者が抱き続けた思いの数々だった。

 ジャーナリストを志していた著者だからこそできた調査報道のような形で事件に肉薄していく筆致は映画を見ているようだった。性加害の被害者が、自ら事件の真相に迫っていくことは、日本ではほとんど前例がないはずだ。自身の体験を通じて見聞きした日本社会の旧態依然とした制度や意識を描き出すことで、それを痛烈に証明している。取材者と被告者という二重の立場を振り子のようにいったりきたりしながら、言葉を尽くしている様から覚悟がヒシヒシと伝わってきた。特に取材者としての視点は圧巻で、自身の被害を相対的にとらえながら、論点、背景を整理しており、情報を伝達するジャーナリストとしてプロフェッショナルな姿勢を感じた。

 事件の概要を把握していたものの、具体的なディテールは知らなかったわけだが、想像以上に古典的なやり口に驚いた。それは雇用者と被雇用者の権力勾配を利用した手口だったからだ。そこに「デートレイプドラッグ」という新たな手口をかけ合わせており、読んでいて本当に胸クソ悪かった。こうした加害が行われないように、あるいは行われた際に救済されるために法律や制度が存在しているはずだが、そこが機能しない現実が余計に辛い。法律が時代遅れであること、また警察の捜査手法が現代とフィットしてない点は著者が再三指摘しているが、この事件の特異性は、権力の介入で司法や捜査が歪められた可能性が示唆されている点にある。

 著者に対して誹謗中傷を浴びせる人たちは、自分が同じように権力の恣意的な行使の対象になる可能性について想像力を持てないのだろうかと、毎回不思議に思う。また「仕事の口利きしてもらいたくて行ったのだから、しょうがない」といった論調にも違和感がある。本人の同意なく避妊具なしで性交されたとしても、しょうがないことなのだろうか。全くの他人であり、本著を読んだだけにも関わらず、これだけの嫌悪感を抱くのだから著者の心情は察するに余りある。

 また、性加害を受けた際の具体的な対応やアドバイスも記されている点が印象深かった。たとえば、被害を受けたあとは産婦人科ではなく救急へ行くべきこと、日本の法律で加害者を訴える際に必要となる証拠や手続きなど、被害に遭った人が実際に必要とする情報が丁寧に記されている。今のところ自分自身が性加害に遭う可能性は高くないが、娘を育てている立場でもあり、こうした問題は決して他人事ではなくなっている。だからこそ、一刻も早く社会が変わってほしい。

 しかし、本著を含めてこれまで著者が訴えてきたことが、ドキュメンタリー映画製作における作法の不備や、その後の立ち振る舞いによって損なわれてしまいそうな現在の状況にやるせなさを感じる。事件と製作体制を十分に切り分けている論調はあるものの、作品そのものが性加害を主題としている以上、同一視は避けられず、結果として事件が矮小化されてしまう危険もある。現状の懸念点をクリアにし、日本での公開に漕ぎつける以外に、誤解や混乱を乗り越える道はないのではないかと感じる。

 文庫版には武田砂鉄氏による解説の以下ラインが印象深かった。この事件に対して多くの人が取っている姿勢をズバッと書いており、これを読んでハッとした人は読んだ方がいい。

あまりにも理にかなわない言動や判断が繰り返されると、人はなぜか、それを順序立てて振り返る興味を失ってしまう。長期にわたる揉め事を確認すると、これだけ揉めているということは、どっちにも非があるのだろうな、と片付けようとする。どちらが優位か不利かを遠目に眺める。 でも、そういうことではないのだ。バランスではないのだ。起こしたことから逃れようとしている加害者がいて、そうであってはならない、自分のような経験を誰にも味わってもらいたくない、という思いから、その背中を捉えにいった被害者がいる。

2025年4月20日日曜日

死ぬまで生きる日記

死ぬまで生きる日記/土門蘭

 キャッチーなタイトルをいろんなところで見聞きしていて、ずっと気になっていたのだが、ようやく読んだ。どのように希死念慮と折り合いをつけて生きていくか、カウンセリングでストラグルする様がまっすぐ描かれており興味深かった。

 著者は幼い頃から定期的に「死にたい」という衝動に苛まれている中で、オンラインカウンセリングという通常のカウンセリングよりもさらに匿名性の高いサービスを利用して、自分の希死念慮をどう取り扱うかを追ったドキュメンタリーである。タイトルに「日記」とあるが、具体的な日付の記載はなく、著者とカウンセラーとの対話、それを受けた著者の内省が十二章にわたって展開されている。

 本著を読みながら、こないだ読んだ『なぜ人は自分を責めてしまうのか』を思い出した。両者には共通する視座があり、どちらの本にも熊谷晋一郎による「自立とは依存先を増やすこと」という言葉が引用されているのが印象的だった。特に本著において著者が母との関係性に悩む姿は「自責」の感情そのものだ。その様子は『なぜ人は〜』のケーススタディのようにも感じられ、理解を深める助けにもなった。以下のラインはまさに。

あらゆる不満や苦悩を他者のせいにすると。他者が変わってくれることを期待するしかない。 そんなことは私にはできなかった。これまで何度もその期待は裏切られてきたし、その度に傷ついた。期待すること自体が間違っていて、自分が変わるしかないのだと思う方が、よほど建設的だった。

 本著ではカウンセリングの様子が、会話形式で細かく描かれているので、まるで診察の場面に立ち会っているかのような気持ちになる。「どうして死にたいと思うのか?」という哲学的とも言える問いについて言語化していくことで、原因を探っていく過程がスリリングだった。特に地球と火星のアナロジーによる「死にたい」気持ちの細分化は驚きの連続であった。カウンセラーが、著者の提示するアナロジーに乗っかりながら、共に言葉を探っていく過程は、暗闇の中で一筋の光を見出していくような思考の旅だ。そして、その先に待っていたのは生業でもある「書くこと」という結論までの流れは鮮やかだった。こうやって書くと簡単にたどり着いてるように思われるかもしれないが、本著がスペシャルである点は、少しずつ変わっていくプロセスを、すべて開示していることだろう。

 個人的に参考になったのは第七章で議論されている、過去、現在、未来の捉え方だ。ないものを追い求める未来。あるものを捉え直す過去。その両方で成り立つ現在。この三つのバランスの取り方が大事で、未来志向が美徳とされがちな中で、過去への再解釈にも目を向け、現在を丁寧に捉えるという視点は、今をどう生きるかに対するヒントになるように思った。

 終盤、著者にとっては思いも寄らない展開が待ち受けているのだが、著者の切実さが滲み出る、そのドラマティックな描き方は小説のようだった。しかし、その唐突な事態に対して、本著で繰り返されてきたカウンセリングの成果を発揮することで、まさにタイトル通り「死ぬまで生きる」を自らの思考で実現していく過程に多くの読者が勇気づけられるはずだ。なぜなら、著者はカウンセリングを始める前と全く別人であることがわかるから。その変化は、直線的な成長とは異なる。むしろ、少しずつ何かを繰り返しながら「螺旋階段」を登るように、ゆるやかに上昇していく。線型的な成長がもはや現実的でないと痛感する三十代後半の自分にとって「螺旋階段」という例えはかなりしっくりきた。

 歳を取るにつれて死の存在が身近になりつつある今、それでもなお生きていくとはどういうことか、色々と考えさせられる読書体験だった。

2025年4月19日土曜日

LATIN AMERICA DIY CATALOG

LATIN AMERICA DIY CATALOG/筒井伸

 blackbird booksのインスタで知って読んだ。メキシコで行われている地域通貨による脱資本主義の試みが丁寧に解説されていて興味深かった。

 著者がコスタリカに訪問するついでに、メキシコへ寄った際、地域通貨TÚMINの存在を知り、メキシコを横断しながら、ジャーナリストのようにTÚMINがどういう仕組みで運用されているのか迫っていく様子が描かれている。ときに退屈になりがちな経済の話ではあるが、TÚMINの開発者や利用者の具体的なエピソードと、著者による味わい深い絵の数々で退屈することはなく、ページをめくるごとに、DIY経済の手触りが伝わってくるような感覚があった。

 もともとこの本を手に取ったのは、「地域通貨」という言葉に惹かれたからだ。というのも、現在私が住んでいる、さいたま市でも地域通貨の取り組みが行われている。しかし、こちらは大規模な税金を投入して作られた電子通貨でありながら、大手チェーン店でも使えるという仕組みのため、結果的に地域内に還元される構造にはなっていない。トップダウンで進める悪例そのものだ。

 それに対して、TÚMINは地域住民の手によって立ち上げられたボトムアップ型の地域通貨である。その役割は、通貨の代替というよりも、通貨を通じたコミュニティの構築という側面が強い。つまり、TÚMINを持っているということは、ある種の理念に賛同していることの意思表明であり、そこで連帯感を抱くことができる。

 また、TÚMINは通貨ではあるものの、あくまで物々交換のための「道具」として位置付けられており、それによってメキシコ銀行からの追及も逃れている。このあたりはメキシコという国の大らかさを感じる。日本では、ルールや「正しさ」に対して過敏になりがちで、なにかとお上の顔色をうかがう傾向がある。TÚMINのような緩やかながら上手く運用されている様子は新鮮に映った。

 TÚMINの魅力のひとつは、使える人の条件として「プロシューマー(生産消費者)」であることが求められる点にある。ただ受け取るだけでなく、自分自身も何かを提供することによって、地域内で贈与の循環が生まれる。この構造が、TÚMINを通じて形成されるコミュニティに連帯感と持続性をもたらしている。制度の運用においてもガチガチのルールは設けられておらず、あえてフレキシブルにすることで、より多くの人が関われる余地を残しているようだ。そんなTÚMINに対する著者の考察は「地域通貨」という大きなプロジェクトでなくとも、多くの人にとって今必要な思考かもしれない。

新しい経済を作ろう!と言うと難しい話に聞こえがちだが、正しさだけではなく、アイデアや楽しさやユーモア、そしてアマチュアであることを肯定してザクザク色々な人を巻き込んだり、巻き込まれたり、離脱したり、また戻ったり、肩肘はらずにそれぞれが自分の感覚に愚直に動ける空気が伝わってきた。そして、TÚMINの仕組みは、人間が目的に向かって一直線にずっと同じ熱量で動くことはできないという不完全さを最初から許容しているような仕組みだと改めて思った。

 自由貿易の名のもとに進められたグローバル資本主義は、農村部の貧困や搾取を助長してきた。TÚMINは、そうした流れに対する草の根からのカウンターであり、農村が自らの権利と誇りを取り戻すための手段でもある。「安く買えること」が当たり前になった今、その裏にいる生産者の声や生活を見失いがちだ。メキシコの地域通貨が、資本主義、経済の本質に疑問を投げかけ、新たな可能性に気づかさせてくれた。

 遠い国の、遠い町で起きている小さな実践の中に、今この瞬間の私たちにも繋がる大切なヒントが詰まっている。だから、読書はオモシロい。

2025年4月18日金曜日

ハンチバック

ハンチバック/ 市川 沙央

 Kindle Unlimitedの無料期間が終わる直前、偶然見つけて読んだ。芥川賞受賞のタイミングから気になっていたが、想像をはるかに超えて、読者の小説観を大きく更新してくるような内容だった。

 若い頃から背骨が曲がってしまう障害をもった中年女性が主人公。冒頭、村上龍よろしくハプニングバーでの性交の様子が描かれて面食らうのも束の間、それが「コタツ記事」であり、その筆者が主人公自身であることが明かされる。障害と露骨な欲望という、世間では結びつかないとされているものを冒頭から接続することで、ただならぬ小説であることが一発で伝わってきた。

 そこから繰り広げられる主人公の障害者としての生活描写が非常に細やかで印象的だ。著者が障害を持つ当事者だからこそ書けるディテールであることは間違いない。たとえば、落ちたぶどうを拾うシーンといった何気ない描写にこそ、健常者には想像の及ばない現実が浮かび上がる。

 後半は冒頭のコタツ記事を彷彿とさせるような、性的な展開が再び登場するのだが、その描写も衝撃的だった。呼吸器系に問題を抱える主人公が誤飲性肺炎に陥るくだりは、あまりにも生々しく辛い。健常者の「当たり前」を実現するために、妊娠し、中絶するというロジックは荒唐無稽だが、それゆえに胸に迫るものがあった。

 障害者からみた健常者の特権性として、紙の本が取り上げられていることは目から鱗だった。本著は紙の本で読むか、電子書籍で読むかで、読み手のインパクトが大きく異なるだろう。健常者にとっては当たり前の紙の本が、障害者にとってはいかにアクセス困難で、ひいては「特権」であるか。その憎しみを露にされることで、ここでも私たちが無意識に享受している権利について、改めて考えさせられた。

 「多様性」がデフォルトとされる現在において、本著は鉤括弧付きの多様性が包摂しきれない存在を描くことに意欲的である。朝井リョウ『正欲』にも通ずるテーマだが、著者が描こうとしているのは社会の「ハーモニー」である。会話の空気を音楽のコードに喩えたり、常に「場の調和」を意識せざるを得ない主人公の視点が、日本社会の同調圧力を暗示しているように感じた。

 本著を読んで気づかされたことは、自分自身に強く刷り込まれている障害者像である。子どもの頃に観た某テレビ局の24時間チャリティ番組の影響か、障害者=品行方正で努力する存在、というイメージが強く残っていた。それゆえ、本著に描かれる強烈な厭世観や、生死に対する距離感に揺さぶられた。以下のラインに象徴されるように、本著は「生きる」ことの意味を問うてくる。障害とともに生きること、社会と折り合いをつけていくこと、そのすべてに痛みが同居していた。生きるとはどういうことか。死ぬとはどういうことか。そんな問いに真正面から向き合わせられる強烈な一冊だった。

生きれば生きるほど私の身体はいびつに壊れていく。死に向かって壊れるのではない。生きるために壊れる、生き抜いた時間の証として破壊されていく。そこが健常者のかかる重い死病とは決定的に違うし、多少の時間差があるだけで皆で一様に同じ壊れ方をしていく健常者の老化とも違う。

2025年4月17日木曜日

なぜ人は自分を責めてしまうのか

なぜ人は自分を責めてしまうのか/信田さよ子

 植本さんのおすすめで読んだ。心理学の視点から語られる親子関係、なかでも母と娘の関係に関する考察は新鮮だった。

 本著はオンラインセミナーの講義を書き起こしたものとなっている。難しい内容も含まれているが、講義の語り口そのままで書かれているため、非常に読みやすい。一方で、話が展開していくうちに少しずつ焦点がぼやけてしまい「あれ、今何の話だったっけ?」と感じる瞬間もあった。しかし、話の流れを簡潔にラップアップする一言が各ページに挿入されていて、読者がついていきやすいように配慮されていたので助かった。

 多くのページを割いて語られていたトピックが、「アダルトチルドレン(AC)」や「共依存」に関する内容だ。ACという言葉に対しては聞き馴染みがなく、漠然としたイメージしか持っていなかったが、本著では「自分の生きづらさが親との関係にあると認めた人」と定義していた。生きづらさを感じる場面はたくさんあるが、それが親との関係に起因すると考えたことはなかった。親の干渉が強烈だった記憶はないし、自分と親はまったく別の個体だという認識を持っているので、その可能性に気づかなかったのだと思う。ただ、ACの観点で改めて自分の言動を考えると、親との関係の影響も少なからずあるようにも感じた。

私たちはいくら自立した独立した人間だ、私は自分で考えているといったところで、私たちを生み育て、日々膨大な影響を与えつづけた親の影響を点検せずには、本当は生きられないんじゃないか。

 また、ACや共依存という言葉が「当事者が生み出した言葉」であるという点も重要な視点だった。学術的な専門用語ではなく、当事者が自らの経験を表現するために編み出した言葉であるということ。それを尊重する姿勢が著者の語りには貫かれており、専門家が前に出て「正しい答え」を提示するのではなく、当事者との対話を著者は重視している。

 近年頻出する「自己肯定感」に対して、著者は慎重な姿勢をとっていた点も興味深い。自己完結的なセルフケアは危うさをはらんでいると指摘し「他者を介在させ、社会に受け入れられている実感を得ることが大切」と説いていた。他人を頼るのが得意ではなく、自己完結しがちな自分にとって耳が痛かった。このブログはその象徴とも言える。一方で、定期的に友人たちとポッドキャストで話すことが、想像以上に自分の精神の安定に寄与しているのかもしれないと気づかされた。

 「自責が反転することで、他人に正義を無闇に振りかざしてしまう」という見立ても納得感があった。自己責任論が蔓延する現代社会において、自分を責め、その反動で他者に厳しくなるというネガティブなスパイラルが生まれている。なんとも言えない生き苦しさの構造を垣間見たようだった。

 親との関係はさることながら、自分自身が親となった今、子どもとの関係性について思いを巡らせる場面が多かった。まだ三歳とはいえ、自我の萌芽を感じる日々の中、四章にある育児論の数々が、個人的には本著のハイライトであった。育児に正解があるわけではないことは百も承知だが、ズバズバと言い切る語り口が心に刺さった。

親が自分の思うどおりにならない子どもを「反抗」と決めつけるのは、へんですよ。

子どもと親は対等ではないですよ。人権という意味では対等ですけどね。

子どもが何かしたとき、わがことのようにつらいということを裏返すと、子どもには何をしてもいいというのが張り付いている。この二面性をやっぱり知っておかないといけない。

「こんなに一生懸命やってんのに」と言われると、子どもは申し訳ないと思いますよね。こうやって、家族の中で無敵な存在になっていく。こういう支配のことを共依存というふうに言います。

 自分の行動が子どもに与える影響の大きさ、その「思い」が知らず知らずにプレッシャーや支配に転じる可能性を突きつけられ、ドキッとする。だからこそ「自分のことは自分でする」と子どもに伝えつつも、自責が過剰にならないように、適度なバランスを探りながら接していく必要があると感じた。

2025年4月15日火曜日

1964年のジャイアント馬場

1964年のジャイアント馬場/柳澤健

 1976年のアントニオ猪木(以下、猪木本)がオモシロ過ぎたので、その勢いで読んだ。猪木本では、猪木の天才性が存分に描かれる一方で、ジャイアント馬場に対してはどこか冷酷で、権力に頼って猪木を押さえ込もうとする“いけすかない男”という印象すら抱いていた。しかし、本書を読み進めるうちに、その見方は大きく変わっていった。むしろ、馬場のプロレス観や人柄の良さ、アメリカ修行時代の大活躍ぶりを知ることで、BI砲のもう一人の主役の輪郭が立体的に浮かび上がってきた。

 馬場がアメリカにプロレス留学をしていた1960年代を中心に、ジャイアント馬場というプロレスラーに迫っている。1999年に亡くなっているので、リアルタイムで見たことはなく、晩年の映像やモノマネによる、図体が大きくて動きの鈍いレスラーとしての姿しか知らない。しかし、本著では、アメリカ修行時代のジャイアント馬場の全盛期に大きくフォーカスしており、元プロ野球選手としてのキャリアに裏打ちされた抜群の運動神経と身体能力を武器に、アメリカのマット界で一線級のレスラーとして活躍していた。そんな彼のプロレスラーとしてのキャリアについて、当時のアメリカのマット界の状況を含めて丁寧に取材している。大谷翔平は言い過ぎかもしれないが、アメリカのプロスポーツでこれだけのレベルで活躍した日本人が他にどれだけいるだろう。有象無象がうごめくアメリカのマット界の中で存在感を示した馬場は、紛れもなく“本場を経験した一流”だった。

 馬場と猪木のプロレス観の違いも読みどころのひとつだ。猪木が「闘い」としてのプロレスを追求したのに対し、馬場は一貫して「エンタメ」としてのプロレスを志向していた。アメリカにおける“ロマン派”バディ・ロジャースと、“ガチ派”カール・ゴッチの対立構造がそのまま日本に持ち込まれ、猪木はガチ路線を、馬場はロマン路線を引き継いだともいえる。馬場が多くの外国人レスラーを招聘し続けたのは、プロレスを夢とスケールで観客に届けるという彼なりの信念に基づいたものだった。

「プロレスとはケンカである」という力道山の思想は、極東の島国だけで通用する二流の思想だ。プロレスラーに必要な能力とは、ケンカに強いことではなく、客を呼ぶ能力なのだ。

 馬場のスタイルは往年のアメリカンプロレスだ。強さは二の次であり、とにかくお客さんを楽しませ、興奮させるかを主題に置いていることがよく理解できた。1960年代にプロレスの本場アメリカでメインイベンターを務めるところまで上り詰めた男だからこその視座がある。「プロレスはエンタメである」という強固な思想のもとで、「本場モンの翻訳」に終始する姿勢は、アメリカの属国として数々のカルチャーを輸入して、土着化させてきた戦後日本の姿と重なるとも言える。

 「テレビとプロレス」も大きなテーマだ。力道山の死後、日本プロレスが新日、全日に分派していく中で、テレビ中継もテレ朝(新日)と日テレ(全日)に分かれた構図は、プロレスとメディアの結びつきの始まりだった。猪木はテレビとの親和性を発揮したが、全日はなかなかうまくいかない。そんな状況でも日テレが放映対価として毎年数億単位のお金を全日に供与していたらしく、日本にも豊かな時代があったのだなと遠い目になった。その資金を馬場は惜しみなく、外国人レスラーとの“古き良きプロレス”に投資していく。理想を追い続ける姿勢は美しく見えるが、時代に取り残される頑固な昭和のおじさんの姿とも重なり、切なさを感じさせた。

 そんな馬場が時代に取り残される中で、天龍、長州、ジャンボ鶴田、三沢たちがなんとか全日を盛り上げようとする姿は、会社の若手サラリーマンさながらだ。特に個人的な記憶としては、三沢、川田、小橋、田上による「四天王プロレス」に、子どもながらにめちゃくちゃ興奮した記憶がある。あの死闘とも言える戦いは、旧世代のスタイルを壊し、新たなプロレス像を模索していた証だったと知り、彼らの志にグッときたのであった。

 猪木本は間違いなくクラシックであるが、本著を読むと猪木本にはない景色が広がっていた。馬場と猪木、両方を知って初めて、日本のプロレスの全体像がくっきりと浮かび上がってくるのだ。プロレスというカルチャーの奥行きと幅広さを味わいたいなら、両方読んでこそ、その魅力が何倍にも膨らむ。なので併読マスト!

2025年4月9日水曜日

完本 1976年のアントニオ猪木

完本 1976年のアントニオ猪木/柳澤健

 本著をもって「〇〇年の〇〇」というフォーマットを生み出した著者によるアントニオ猪木の評伝。ずっと気になっていた作家で、先日読んだ水道橋博士の書評集『本業2024』で多数の著作が紹介されていたことをきっかけに読んだ。プロレス好きだった幼少期、父が録画していた『ワールドプロレスリング』を放課後に毎週のように見ていた身としては、自分のプロレス観を更新するような、極上の調査ドキュメンタリーだった。

 1976年に猪木は異種格闘技戦として三試合戦っており、そこにフォーカスしながら「アントニオ猪木」という存在を描いている。猪木に対して持つイメージは、プロレスや格闘技に対する見識の有無で大きく変わってくるだろう。何も知らない人からすれば「バラエティでよくモノマネされるプロレスラー」「ダーッといいながらビンタする人」くらいだろうか。しかし、2000年代までのプロレスおよび総合格闘技黎明期における猪木の存在は“神”と呼んでも過言ではないほど絶対的だった。子どもの頃は、VTRで見る昔の猪木、たまに現場に降臨するだけの猪木の凄さが理解できていなかったのだが、本著を読むと、猪木がいかに超規格外の人間であり、泥水をすすりながら這い上がってきた人であるかをようやく理解することができた。

 そもそも、なぜ猪木が「異種格闘技戦」に挑まなければならなかったのか、その背景も驚きの連続だった。そこに立ちはだかっていたのは、ライバル・ジャイアント馬場である。馬場は体格に恵まれていただけでなく、NWAというプロレス団体の権威を巧みに利用するビジネスマンでもあり、猪木をプロレス界から締め出そうとしていた。それに抗う唯一の手段が、本当の強さを証明する「リアルファイト」での勝利という展開は、極めてヒップホップ的だ。私が当時、ノアや全日ではなく、新日本プロレスが一番好きだった理由も「Keep it real」をどこまでも追い求める姿勢に共鳴していたからかもしれない。

 1976年に行われた異種格闘技戦のうち、最も有名な試合はモハメド・アリとの戦いだろう。ボクシングの現役チャンピオンとプロレスラーがショーではなく、ガチで試合をする。今の時代には到底実現できないだろう超弩級のビッグマッチの裏側を精緻に描いている。今でもストライカーちグラップラーの膠着状態は「猪木-アリ状態」と呼ばれており、この試合は現在の総合格闘技までに繋がる重要な試合である。映像で断片的に見たことがあったが、その解像度が十倍くらい高まって相当オモシロかった。特にアリ側の取材が充実しており、彼のトラッシュトークが実はプロレス由来であったこと、また来日してからブックのないリアルファイトだと知らされたが逃げなかったという逸話には胸を打たれた。やはりアリは偉大なファイターなのであった。

 残りの異種格闘技戦についても濃密に描かれている。猪木が韓国でリアルファイトをけしかける横暴な振る舞いをしていたなんて知らなかったし、さまざまな相手に対して、リアルファイトを仕掛けてきた猪木が、逆にパキスタンでハメられてリアルファイトをけしかけられる展開は、まさしく因果応報である。そして、そこで躊躇なく勝ってしまうのも猪木らしいのだが…

 本著を読むまでは猪木に対して一種の幻想を抱いていたのだが、読み進める中で瓦解していった。掴みどころのなさは意図的に作られたもので、合法と不法、リアルとフェイク(インチキ)の境界を極めて曖昧にしてしまう「天性のプロレス能力をもった男」といえば聞こえはいいが、ときとして、その振る舞いは自己中心的でセコくもある。特に後半にかけて新日本プロレスを私物化していく流れは、ちょうど自分が新日本プロレスを見ていた時期に重なるので、子どもの頃には理解できなかった数々の出来事(武藤の全日移籍とか)が色々と腑に落ちたのであった。とはいえ、その傍若無人な振る舞いの数々が、歴史を動かす原動力であることは間違いなく、日本が今なおプロレス、MMAの格闘技大国となっている現状は、猪木なしには考えられない。ゆえに多くの人が神格化するのだろう。

 終盤にはUWFから総合格闘技に繋がる流れまで描かれている。その流れを踏まえて猪木-アリ戦について「双方の技術不足であった」と分析する視点も新鮮だった。また、現在のRIZINまでに繋がる日本の総合格闘技の勃興については『2000年の桜庭和志』『1984年のUWF』でより詳細を知ることができると思うので今から読むのが楽しみだ。

 本著を特別な一冊たらしめているのは、著者の圧倒的な構成力と表現力である。豊富な情報をドラマとして語る構成の妙、そして何より言葉の力がすごい。一番打ち震えたラインを引用しておく。レスト・イン・ピース、アントニオ猪木。

ふたりの動きが止まった。表情は見えない。音も聞こえない。見えるのは猪木のブリッジが作り出す美しいフォルムだけだ。「建築とは凍れる音楽である」と言ったフリードリッヒ・シュレーゲルに倣えば、この時のジャーマン・スープレックス・ホールドは、正に凍れるプロレスであった。

2025年4月6日日曜日

消息

消息/小袋成彬

 今年初めにリリースされたアルバムの革新性に驚いたのも束の間、さいたま市長選への立候補と、著者には立て続けに驚かされている。そんな著者の初めての書籍ということで読んだ。これまでSNS上でたびたび物議をかもす言動が垣間見えていた中で、まとまったエッセイという形で彼の思考に触れたことで、今までと印象は変わった。

 2019〜2024年にQuick Japanで連載していたエッセイをまとめた一冊。コロナ禍前後、ロンドン移住後という背景もあり、内省的な視点と、対外的に見た日本、ワールドワイドな視点の両軸から物事を考えている様がうかがえる。とりわけ後者は「海外移住によるナショナリズムの再発見」というありがちな側面が強いわけだが、著者の場合、本業の音楽で見事に昇華している点が凡百の移住者と異なる。新作『ZATTO』は、近年世界的なトレンドになっている往年の日本のソウルやシティポップをリバースエンジニアリングするかのように、ロンドンのスタジオミュージシャンを起用し、2020年代のサウンドとして生音オンリーで作り上げたものだ。「日本を対外的な視点で捉えて音楽をつくる」という観点で、これだけかっこいいものは今後なかなか出てこないだろう。本著は、その背景にある思想や視点を知る上でも重要な一冊だと感じた。

 収録されたエッセイの中には、noteに掲載され話題を呼んだ「新時代」も含まれており、基本的にこのバイブスが本著を貫いている。この記事について、エイジズムで分断を煽るものとして批判的な気持ちを抱く人もいるかもしれない。しかし、個人的には納得する部分があり、今回のさいたま市長選出馬にあたってのマニフェストは、さいたま市民としては相当フィールする部分があった。現状の政治において、若年層に向けた施策を謳いながらも、シルバー民主主義が根深く、リソースの配分や施策の優先順位に絶望的な気持ちになることが少なくない。それはさいたま市に限らず、日本各地の自治体に共通する課題だろう。ゆえに、今回の市長選がひとつの試金石になることを期待している。

 文体は、まえがき、あとがき以外は「ですます体」で書かれているので、全体的に丁寧でややかしこまった印象を受ける。内容的にもリベラルな視点が貫かれており、過去のSNSでの印象とはギャップを感じる人も多いだろう。その「ですます体」で綺麗に均された文章の息抜きとして、イラスト、写真、本人の手書きのコメントが掲載されている。そのうち各年の主要な出来事について、手書きでコメントが書かれているのだが、その内容と本文のギャップに戸惑った。

 たとえば「イギリス政府のコロナ対応は日本政府に比べて迅速で的確だったと思う。人はたくさん亡くなったけど」と書かれているのだが、「人がたくさん亡くなったのに何が的確なのか?」と疑問を抱かざるを得ない。ウィル・スミスがグラミー賞で平手打ちした件について「俺はかっこいいと思った」と書かれると、繰り返し唱えている非暴力主義と整合性がないように映る。「ハラキリ」というエッセイでは、日本の死刑制度から謝罪カルチャーまでを語っているわけだが、その挿絵として首が飛んだ侍の絵が描かれている。こういった言語化しづらい倫理観の危うさと、ある種の「正しさ」を繰り返し主張する姿、一体どちらが「本当の著者」なのかは正直わからない。そもそもアーティストに対して「正しさ」を要求すること自体、お門違いであり、矛盾を内包しているからこそ惹かれるという側面もある。しかし、今の時代に政治家という公の立場を志すのであれば、言葉の整合性や説明責任は無視できない要素だ。口では博愛主義的なことをいくらでも言えるかもしれないが、少しのほころびにいつか足元をすくわれてしまう可能性があるからだ。

 ここまで批判めいたことを書いたが、あとがきにおける「日本と海外のギャップ」に関する考察は興味深かった。文化的な違いを乗り越え、日本がポジティブな方向にむかってほしい気持ちは同じなので、今回の選挙選を通じて、これまでにない景色を見せてくれることを期待したい。

2025年4月3日木曜日

これはわたしの物語 橙書店の本棚から

これはわたしの物語 橙書店の本棚から/田尻久子

 書評のZINEを自分で作ったわけだが、作るまで書評集をまともに読んだことがなかった。そんな中で、友人からおすすめしてもらったので読んだ。本屋を経営し、文芸誌を自身で発行する著者による書評集で、読みたくなる本にたくさん出会えて良かった。

 二部構成になっており、第一部は読書全般にまつわること、第二部は書評集となっている。第一部では本、読書にまつわる考えが書かれており興味深かった。斜陽産業であることが取り沙汰されてはや幾年という感じの本屋および出版ビジネスだが、インターネットの情報がフロー型かつその信頼性が大きく揺らぐ中で、本が果たす役割が大きくなる気もしている。著者のように本に対して、真摯に向き合っている姿勢を見ると「街の本屋」の存在の大きさを噛み締めるのであった。

 メインは第二部の書評である。小説、エッセイなどジャンルを問わず掲載されていた。前述のとおり、自分で作っておいてアレだが、書評集はあまり読んだことがない。わざわざ書評集で本を探しに行かずとも、読みたい本が常にスタックしている状況が続いているからだ。しかし、本著を読んで気付いたのは、本は世の中に膨大に存在し、自分の情報収集範囲からこぼれてしまう、オモシロそうな本が山ほどあるということだった。AIを含めてレコメンド精度はこれからも高まっていくだろうが、セレンディピティをもたらす書評集の可能性を改めて感じた。「0→1で、ものを生み出す人が一番エラい」という風潮は根強く存在するが、膨大に存在するものをキュレートする意味やオモシロさ、またその作品に対する解釈を深めることの豊かさを味わうことができた。

 紹介されている本の中には、読んだことのある本もあったのだが、自分で書いた感想と著者の書評を見比べることが楽しかった。当たり前だが、本はコンテンツとして長いものなので、その本の中で興味深い(あるいはつまらない)と感じる箇所は千差万別である。その違いを見ることで、本が多角的な存在として浮かび上がってくる。書評集を読むことは、今流行りの読書会を一人で行うような側面もあることに気づいた。次は『橙書店にて』を読みたい。

2025年4月1日火曜日

ボブ・グリーンの父親日記

ボブ・グリーンの父親日記/ボブ・グリーン、西野薫

 パパは神様じゃないのあとがきで本著が取り上げられていたので読んだ。1980年代のアメリカでにおける育児の様子が伝わってきて興味深かった。名コラムニストということもあり、着眼点と文章がいずれもピカイチで、男性による育児エッセイとしてはベスト of ベスト級だった。

 序文で本著を執筆するに至った理由を説明してくれており、以下の課題認識は、約三十年経った今でも変わらないと言えるだろう。育児本は世の中に溢れているが、育児する当事者の有り様や心境変化を描いたものは少ない。自分が探していたものが、1980年代のアメリカの本であるということは意外だった。

今まで二人で暮らしていた夫婦が急に三人家族になった時、何が起こるのかを、当事者の気持ちに焦点を合わせてとりあげた本は、どこにも見当たらなかった。

 著者は新聞のコラムニストとして名を馳せた書き手らしい。脂の乗ったキャリアの中で、子どもが誕生し、彼がいかに育児と向き合ってきたか、誕生から一歳の誕生日まで365日分の日記として描かれている。80年代の作品なので、アメリカでも妻が仕事を辞めて育児に専念している。日本であれば、女性が育児に全コミットすることが当然だったかもしれないが、当時のアメリカは過渡期のようだ。妻が自分一人で育児する辛さをぶちまけるシーンもあるし、著者自身が主体的に育児に関わろうとする意識が日記のそこかしこに表れている。仕事が忙しい中でも、どうにかして子どもと過ごす時間を作り、そこで目撃した子どもの挙動と自分の感情の機微を逃すまいとする姿勢にジャーナリスト魂を垣間見た。

 育児の主体は妻であり、著者は仕事のかたわらサポートする立場ゆえに状況がわかっていないことも多い。妻から幾多の注意を受けている様を、そのまま描いている点が真摯だ。日記というフォーマットゆえ、かっこつけることなく「記録」することに重きを置いているからだろう。男性らしさを感じた点は、これだけ献身的に子どもの生活を夫婦二人で支えているが、子どもが大人になった頃には、そのサポートについて一切覚えていないことを繰り返し心配している点だ。費用対効果的な思考であるが、こと育児においてはインプットに応じたアウトプットが出てこないケースが往々にしてあり、そこに育児の醍醐味と辛さの相反する要素が存在する。育児に携わる中で、著者が徐々にそのことに気づいていき、後半に出てくる以下のラインはグッときた。特に前者はトイトレ真っ最中の自分の心に深く刺さった。

赤ん坊は確実に自分のペースで進歩していく、ということだろう。それより速くもなく、遅くもない。僕たちはせかせるためにここにいるのではなく、耳を傾け、やっと言葉が出た時に認めてやるためにここにいるのだ。

今が始まりなのだ。他の人々に対する態度が形作られる始まりなのだ。白人の子と黒人の子の絵を見ても、アマンダは今は何とも思わないかもしれない。だがやがてこういう絵が意味をもってくるはずだ。そのうちいつか、何かがカチリと彼女の中に入りこむだろう。アマンダは他の人々に対し僕たちの世代が持っていないものを前提にして、人生をスタートするのだ。

 TV番組のジャーナリストとしても活動しており、いろんな場所へ出張するのだが、そこでも子どものことを考えてしまう話が繰り返し登場する。ステレオタイプとしての「娘を溺愛する父親」が苦手なのだが、著者の場合はその愛情表現がさっぱりしているからかヤダ味がない。それはおべんちゃらではなく、日々の生活における実践に基づいて、著者がその理由を紐解いているからなのかもしれない。

 私の子どもは三歳で、すでに乳幼児期を脱したところだが、本著を読んでいると、産まれてからの一年が走馬灯のように頭を駆け巡り、なんでもないシーンで急に涙が込み上げてきた。それはひとえに彼の筆力に他ならない。子どもの状況描写と著者の心情、思考のバランスが見事で、他人の子にも関わらず、子どもが赤ちゃんだった、かけがいのない時間を追体験することができるのだ。楽しいこと、悲しいことが渾然一体となった、生命力に満ち溢れているからこそのアップダウン。戻りたいような、戻りたくないような、そんなアンビバレントな気持ちになった。男性の育児参加が社会的に促されている今こそ復刊してほしい。