2025年4月15日火曜日

1964年のジャイアント馬場

1964年のジャイアント馬場/柳澤健

 1976年のアントニオ猪木(以下、猪木本)がオモシロ過ぎたので、その勢いで読んだ。猪木本では、猪木の天才性が存分に描かれる一方で、ジャイアント馬場に対してはどこか冷酷で、権力に頼って猪木を押さえ込もうとする“いけすかない男”という印象すら抱いていた。しかし、本書を読み進めるうちに、その見方は大きく変わっていった。むしろ、馬場のプロレス観や人柄の良さ、アメリカ修行時代の大活躍ぶりを知ることで、BI砲のもう一人の主役の輪郭が立体的に浮かび上がってきた。

 馬場がアメリカにプロレス留学をしていた1960年代を中心に、ジャイアント馬場というプロレスラーに迫っている。1999年に亡くなっているので、リアルタイムで見たことはなく、晩年の映像やモノマネによる、図体が大きくて動きの鈍いレスラーとしての姿しか知らない。しかし、本著では、アメリカ修行時代のジャイアント馬場の全盛期に大きくフォーカスしており、元プロ野球選手としてのキャリアに裏打ちされた抜群の運動神経と身体能力を武器に、アメリカのマット界で一線級のレスラーとして活躍していた。そんな彼のプロレスラーとしてのキャリアについて、当時のアメリカのマット界の状況を含めて丁寧に取材している。大谷翔平は言い過ぎかもしれないが、アメリカのプロスポーツでこれだけのレベルで活躍した日本人が他にどれだけいるだろう。有象無象がうごめくアメリカのマット界の中で存在感を示した馬場は、紛れもなく“本場を経験した一流”だった。

 馬場と猪木のプロレス観の違いも読みどころのひとつだ。猪木が「闘い」としてのプロレスを追求したのに対し、馬場は一貫して「エンタメ」としてのプロレスを志向していた。アメリカにおける“ロマン派”バディ・ロジャースと、“ガチ派”カール・ゴッチの対立構造がそのまま日本に持ち込まれ、猪木はガチ路線を、馬場はロマン路線を引き継いだともいえる。馬場が多くの外国人レスラーを招聘し続けたのは、プロレスを夢とスケールで観客に届けるという彼なりの信念に基づいたものだった。

「プロレスとはケンカである」という力道山の思想は、極東の島国だけで通用する二流の思想だ。プロレスラーに必要な能力とは、ケンカに強いことではなく、客を呼ぶ能力なのだ。

 馬場のスタイルは往年のアメリカンプロレスだ。強さは二の次であり、とにかくお客さんを楽しませ、興奮させるかを主題に置いていることがよく理解できた。1960年代にプロレスの本場アメリカでメインイベンターを務めるところまで上り詰めた男だからこその視座がある。「プロレスはエンタメである」という強固な思想のもとで、「本場モンの翻訳」に終始する姿勢は、アメリカの属国として数々のカルチャーを輸入して、土着化させてきた戦後日本の姿と重なるとも言える。

 「テレビとプロレス」も大きなテーマだ。力道山の死後、日本プロレスが新日、全日に分派していく中で、テレビ中継もテレ朝(新日)と日テレ(全日)に分かれた構図は、プロレスとメディアの結びつきの始まりだった。猪木はテレビとの親和性を発揮したが、全日はなかなかうまくいかない。そんな状況でも日テレが放映対価として毎年数億単位のお金を全日に供与していたらしく、日本にも豊かな時代があったのだなと遠い目になった。その資金を馬場は惜しみなく、外国人レスラーとの“古き良きプロレス”に投資していく。理想を追い続ける姿勢は美しく見えるが、時代に取り残される頑固な昭和のおじさんの姿とも重なり、切なさを感じさせた。

 そんな馬場が時代に取り残される中で、天龍、長州、ジャンボ鶴田、三沢たちがなんとか全日を盛り上げようとする姿は、会社の若手サラリーマンさながらだ。特に個人的な記憶としては、三沢、川田、小橋、田上による「四天王プロレス」に、子どもながらにめちゃくちゃ興奮した記憶がある。あの死闘とも言える戦いは、旧世代のスタイルを壊し、新たなプロレス像を模索していた証だったと知り、彼らの志にグッときたのであった。

 猪木本は間違いなくクラシックであるが、本著を読むと猪木本にはない景色が広がっていた。馬場と猪木、両方を知って初めて、日本のプロレスの全体像がくっきりと浮かび上がってくるのだ。プロレスというカルチャーの奥行きと幅広さを味わいたいなら、両方読んでこそ、その魅力が何倍にも膨らむ。なので併読マスト!

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