2025年4月20日日曜日

死ぬまで生きる日記

死ぬまで生きる日記/土門蘭

 キャッチーなタイトルをいろんなところで見聞きしていて、ずっと気になっていたのだが、ようやく読んだ。どのように希死念慮と折り合いをつけて生きていくか、カウンセリングでストラグルする様がまっすぐ描かれており興味深かった。

 著者は幼い頃から定期的に「死にたい」という衝動に苛まれている中で、オンラインカウンセリングという通常のカウンセリングよりもさらに匿名性の高いサービスを利用して、自分の希死念慮をどう取り扱うかを追ったドキュメンタリーである。タイトルに「日記」とあるが、具体的な日付の記載はなく、著者とカウンセラーとの対話、それを受けた著者の内省が十二章にわたって展開されている。

 本著を読みながら、こないだ読んだ『なぜ人は自分を責めてしまうのか』を思い出した。両者には共通する視座があり、どちらの本にも熊谷晋一郎による「自立とは依存先を増やすこと」という言葉が引用されているのが印象的だった。特に本著において著者が母との関係性に悩む姿は「自責」の感情そのものだ。その様子は『なぜ人は〜』のケーススタディのようにも感じられ、理解を深める助けにもなった。以下のラインはまさに。

あらゆる不満や苦悩を他者のせいにすると。他者が変わってくれることを期待するしかない。 そんなことは私にはできなかった。これまで何度もその期待は裏切られてきたし、その度に傷ついた。期待すること自体が間違っていて、自分が変わるしかないのだと思う方が、よほど建設的だった。

 本著ではカウンセリングの様子が、会話形式で細かく描かれているので、まるで診察の場面に立ち会っているかのような気持ちになる。「どうして死にたいと思うのか?」という哲学的とも言える問いについて言語化していくことで、原因を探っていく過程がスリリングだった。特に地球と火星のアナロジーによる「死にたい」気持ちの細分化は驚きの連続であった。カウンセラーが、著者の提示するアナロジーに乗っかりながら、共に言葉を探っていく過程は、暗闇の中で一筋の光を見出していくような思考の旅だ。そして、その先に待っていたのは生業でもある「書くこと」という結論までの流れは鮮やかだった。こうやって書くと簡単にたどり着いてるように思われるかもしれないが、本著がスペシャルである点は、少しずつ変わっていくプロセスを、すべて開示していることだろう。

 個人的に参考になったのは第七章で議論されている、過去、現在、未来の捉え方だ。ないものを追い求める未来。あるものを捉え直す過去。その両方で成り立つ現在。この三つのバランスの取り方が大事で、未来志向が美徳とされがちな中で、過去への再解釈にも目を向け、現在を丁寧に捉えるという視点は、今をどう生きるかに対するヒントになるように思った。

 終盤、著者にとっては思いも寄らない展開が待ち受けているのだが、著者の切実さが滲み出る、そのドラマティックな描き方は小説のようだった。しかし、その唐突な事態に対して、本著で繰り返されてきたカウンセリングの成果を発揮することで、まさにタイトル通り「死ぬまで生きる」を自らの思考で実現していく過程に多くの読者が勇気づけられるはずだ。なぜなら、著者はカウンセリングを始める前と全く別人であることがわかるから。その変化は、直線的な成長とは異なる。むしろ、少しずつ何かを繰り返しながら「螺旋階段」を登るように、ゆるやかに上昇していく。線型的な成長がもはや現実的でないと痛感する三十代後半の自分にとって「螺旋階段」という例えはかなりしっくりきた。

 歳を取るにつれて死の存在が身近になりつつある今、それでもなお生きていくとはどういうことか、色々と考えさせられる読書体験だった。

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