2025年2月27日木曜日

結婚とわたし

結婚とわたし/山内マリコ

 ちくま文庫の棚を徘徊してたときに見かけて読んだ。共働き家庭における家事分担の経年変化という貴重な記録となっており、めちゃくちゃ興味深かった。

 著者が今のパートナーと同棲を始めた際にan・anで開始され、結婚後も続いていた連載が、完全版として再編集されたものである。元の単行本の名称が「皿洗いするの、どっち? 目指せ、家庭内男女平等!」であり、家事分担にまつわる、よもやま話&考察が数多く収録されている。「家事が大変」という散発的な感情の発露はネットを徘徊すれば、すぐにヒットする時代だが、結婚前後かつ一定期間にわたる経過観察という情報は貴重であり、本という媒体だからこそ得られる知見だ。さらに文庫化に伴い、2024年時点の著者の視点も加わることで、ここ十年近くで起きた価値観の変化にも気付かされた。

 日記として連載されていたこともあり、著者の生活の機微がひしひしと伝わってくる点がオモシロい。家庭内でのちょっとしたことも、性別に伴う価値観の違いから改めて考えてみると、思いもよらないことが多い。「フェミニズム」と聞くとアレルギー反応を示す人もいるかもしれないが、本著では生活現場において性差がもたらす不平等のあれこれが、これでもかと詰め込まれているので、自分の日常にフィードバックしやすい。私は男性なので、著者のパートナーの所業の数々に身に覚えがあり、それらに対する著者からの鋭い指摘にぐうの音も出ない。そしてパートナーに対する感謝の気持ちを深めるばかりだった。放置された靴下をめぐる以下の言葉は心に刻んでおきたい。

女性の心にはこの手の日常的な男性の負の習慣が、澱のように、澱のように(二回言った)溜まっているものなのですよ。

 また、本著内でも言及されているとおり、家事分担は男女問題というよりも、社会的な要素が大きく影響することもよくわかる。日本社会においては、これまで男性が外に出て金を稼ぎ、女性が家で家事を行ってきたため、男女問題として捉えられていた。その刷り込みは強烈であり「女性が家事をすべき」という男性側の認識はさることながら、女性側も「家事をしなければ」と自責の念に駆られてしまうほどだ。しかし、コロナ禍を経て男性も在宅勤務が可能なケースが増え、家にいることができるようになった。その結果、家事のバランスが変化しているように思う。本著でもパートナーがフリーランスとなり、食事作りを担い始めると、著者が「家庭内おじさん」と化していく話は笑った。我が家も完全在宅の私と、出社するパートナーという旧来の家族観とは真逆の現状があるので、私が多くの家事を担当している。(育児周りの細々した対応はパートナーが担ってくれており大変感謝しています…)

 こういった姿をいろんな家庭の子どもが見ることで将来的に価値観が少しつず変動していく気はしている。誰かにケアしてもらうことは楽なので、つい寄りかかってしまうが、人生百年時代において誰に何が起こるかはわからない。家族のこともケアできればよいが、最低限自分のことは自分でケアできるようにしておくべきだろう。男女問わず、家事分担に悩む人にとって格好の書籍であり、パートナーと二人で読めば効果てきめんのはず。

2025年2月26日水曜日

風と共にゆとりぬ

風と共にゆとりぬ/朝井リョウ

 先日読んだ時をかけるゆとりの続編エッセイということで読んだ。前作における大学時代の「オモシロエピソード」はおじさんにとって若干辛いものがあったが、本作では専業作家になってからのエピソードが多く、なおかつ著者のエッセイ力が格段に向上しており、思わず声を出して笑ってしまうシーンがいくつもあって相当オモシロかった。

 第一部は「日常」、第二部は日経での連載、第三部は「肛門記」という三部で構成されているエッセイ集となっている。一番笑ったのは第一部だった。著者曰く「小説に込めがちなメッセージや教訓を 「込めず、つくらず、もちこませず」を モットーに綴った」とのことだが、文章で人を笑わせるスキルの高さは業界屈指の腕前といっても過言ではない。お気に入りのエピソードは「対決!レンタル彼氏」と「ファッションセンス外注元年」。前者は、女性の担当編集者がレンタル彼氏のサービスを利用し、著者が編集者の弟として食事をするという奇怪すぎる話。「誰かになりきりたい」という著者の願望が、これ以上ないほど歪んで達成されている様がとにかくオモシロい。後者は、ファッションセンスのない著者がスタイリストに服を見繕ってもらう話。その前段におけるGQでの撮影エピソードがオモシロすぎて腹よじれるほど笑った。ネット上で実際に使われた写真を見ることができる点まで含めて最高の読書体験であった。

 第二部は日経に載っていたこともあり、真面目成分が多めとなっている。オーディション論、友達論、物語論など著者の視点の鋭さが光っていた。特にオーディション論は、十年前に書かれた文章だが、今のオーディション番組ブームの最中に読むとかなり味わい深い。

パッと現れサッと去る受験者たちの後ろ姿を見て、私は、彼らはこの十五分間の前後にも別のオーディションを受けているかもしれない、という当然の事実にやっと気が付いたのだ。私が見たのは、二十五人それぞれのたった十五分に過ぎない。それだけを見て、人の星とか運命とか都合のいい言葉で思考をこねくり回していた自分に辟易した。あの二十五人は、昨日も今日も明日も、手を替え品を替え場所を替え、自分のもとに巡ってくるかもしれない星を摑もうとしているのだ。勝手に創り上げた想像を押し付けて、気持ちよく言語化できた解釈をねじこむのはやめよう、と思った。そんなことばかりしていたら、そんな作品ばかり書いてしまいそうだ。

 そして、ラストは「肛門記」。痔瘻を患う著者が手術に至るまでの過程を描いている。タイトルを見たときに、これはまさかと思ったが、最新刊である生殖記の前段と言えるはずだ。というのも、肛門を擬人化したシーンがあるからである。そのくだらなさったらないのだが、著者が得意とする客観の視点を駆使しつつ、前作の「お腹が弱い」「痔主」というフリをタランティーノばりに回収してくるので、ここもかなり笑った。「つまらないから意味がない」という短絡的過ぎる考え方、読み方を反省し、意味偏重主義から抜け出して、もっと肩の力を抜いて生きたいと思わされた。そんな著者が尊敬するエッセイストは、さくらももこ氏らしく、たまたま家にあるので、少しずつ読んでいきたい。

2025年2月25日火曜日

事件記者、保育士になる

事件記者、保育士になる/ 緒方健二

 本屋で見かけてタイトルに惹かれて読んだ。子どもの送り迎えを担当しているので、必然的に保育園との関係が深くなる中で、保育士の方々の仕事がいかに大変か、肌身で感じる今日この頃。そんな保育士になる過程を知ることができて興味深かった。

 タイトルどおり事件記者が保育士になるために短大に入学、卒業するまでを描いたスクールエッセイ。60歳を超えて、新聞社を辞めて保育の資格を得るために短大に入るバイタリティに驚く。周囲は十代の女性ばかりの中で座学、実習に奮闘する姿は、新しいことに億劫になりがちな中年マインドが大いに刺激された。大学の先生と口論したり、クラスメイトと支え合う姿はまさに第二の青春そのもので眩しく映った。

 児童虐待などを中心に子どものいたたまれないニュースが目に入ることが増えているが、著者は記者なので、そういった情報を山ほど見てきている。そんな状況で、元事件記者から見た今の子どもが生きる環境に対する目線は新鮮だ。「実態を知らずしては何もできない」ということで、保育の世界にいきなり飛び込む姿勢は、記者ならではの現場主義を感じた。

 文体、口調がかなり特徴的で、表紙絵のように菅原文太をイメージしたような「昭和の男」が憑依しているよう。前職が新聞記者とのことなので、淡々と書かれた記録のようなものが正直読みたかったところではある。本人はそのつもりはないかもしれないが、一種のSNS構文とでも言えばいいのか「若い人たちに混じって勉強するおじさん」を演じているように映った。とはいえ、この文体だからこそ惹きつけることができる読者はたくさんいるにちがいない。また、クラスメイトに接する態度について、男女で応対を変えている点も気になった。女性に対して下手に出るのは理解できるが、男性に対してオラつく必要はあるのだろうか。「60歳過ぎの元事件記者」と「保育士を目指す十代学生」いう世代間ギャップでオモシロくしたい気持ちは理解できるが、そこで傾斜をつけなくても、さまざまなギャップが他にもたくさんあるのだから、ことさら強調する必要はないように思う。

 卒業後、現時点では著者は保育園で実際に勤務しているわけではないようだ。保育園で得た情報はプライバシー保護の観点であまり出せないのはわかるが、続編があるとすれば、現場のリアルな様子を、それこそ新聞さながらのレポートとして読んでみたい。

2025年2月20日木曜日

ペンと剣

ペンと剣/エドワード・W・サイード、デーヴィッド・バーサミアン、中野真紀子

 インスタのポストで知って読んだ。(全然別の話だが「モブ・ノリオ懐かしい!」と思ってググったら、このタイミングで芥川賞受賞時の時計をメルカリで出品していた…)ここ一年強のイスラエル、パレスチナ問題は見て見ぬふりをしてきたのが正直なところだ。ウクライナの件も含めて、この手の戦争ニュースやその背景を知るたびに「戦争」という巨大な憎悪の塊に対する自分の無力さに打ちのめされてしまうから。ただ、そうは言いながらも、現実から目を背け続けることに対して、心の中がチクチクすることには気づいており、本著のタイトルに惹かれて、重い腰をあげて読んだ。長過ぎる前置きはさておき、本著はパレスチナという国、パレスチナ人を理解する上での入門編として最適な書籍だと感じた。このタイミングで『文化と帝国主義』がみすず書房から復刊(9000円オーバー!)されるらしく、その際のインタビューがまさに表題作なので、本著も復刊して欲しい。

 デーヴィッド・バーサミアンというラジオプロデューサーが、既存のメディアのカウンターとして「オルタナティブ・ラジオ」という番組を立ち上げ、その番組におけるサイードのインタビューによって本著は構成されている。「ポッドキャストの文字起こし」といえるわけで、今の時代との親和性も高いわけだが、Q&A形式なので、サイードが何を考えているのか、とてもわかりやすかった。マスメディアから額面で受け取る情報がいかに偏ったものであるか、怒りを交えつつ理路整然と語り、彼自身の信念が、かっこいい言葉の数々で展開されていた。そのパッションはエンパワメント性が高く、前述したある種の厭世観も彼の言葉に触れることで霧散していった。

 訳者あとがきにもあるように、当時のパレスチナ情勢に応じた彼の考えの変遷を見れる点が興味深い。前半はイスラエル、パレスチナの関係性構築に対して希望的観測を持っており、80〜90年の段階で多様性を模索、それぞれの文化を尊重する必要性を訴えている点は今の時代にも通用する話だ。西洋諸国を介在させることなく、アラブの国々が主体的に自分たちで当該エリアの和平を達成できればいいという彼の志が、PLO、アラファトの台頭に応じて徐々に影をひそめていく。しかし、その中でも彼はあきらめることはなく、「Writing back(書くことによって反撃)」というスタイルに忠実であり、書いて、話すことで周りを鼓舞し、あきらめないことを必死に促しているように映った。「批評、批判なんて誰でもできる」というフレーズは、今の時代では通説となりつつあるが、批評するにも背景としての知識が必要であり、そして政治は批判という監視の視点がなければ腐っていく。それは時代、場所は関係なく、世の真理として存在することが本著を読むとよくわかる。

 著者の専門は文学研究であり、それが発揮されている場面も読みどころだ。文学という空想の世界に対して、時代背景を含めた現実を持ち込んで解釈を深めていく。たとえば、カミュに対する解釈は今まで考えたこともない視点だったので新鮮だった。彼自身の著書の延長線と思われるので、いつか読みたい。

 また、史実ベースのことでいえば、オスロ合意に対する彼の見立ては、知らないことだらけで勉強になった。特定の人物の欲望を満たすために締結されていたことが、まざまざと伝わってくる話で、結果的に合意が空っぽだったことは歴史が証明しており、彼が慧眼の持ち主であることの証左となっている。パレスチナ側の攻撃によって、今の戦争のトリガーは引かれたわけだが、その断片的な事実だけを取り上げ、パレスチナをテロ国家扱いして、イスラエルが圧倒的暴力で支配しようとすることが許容されるわけがない。点ではなく線、面で捉えないと、世界の実像を捉えることはできず、改めて歴史を知ることの意味を痛感した。彼の言葉は胸にグッとくるものが大変多いのだが、なかでも今の自分の気持ちに一番フィットしたものを最後に引用しておく。サイード氏自身が書いた著書も読みたいし、岡真理氏によるパレスチナ関連書籍も読んでいきたい。

「状況は悪い。だがくよくよしないで前進しよう」とは言えないということです。むしろ、「状況は悪い。ゆえにそれを知的に分析、その分析を踏まえた上で、状況を変えたいという願望や可能性を信じて前向きに新たな動きを構築していこう」と言うのでなければなりません。

2025年2月15日土曜日

0%に向かって

0%に向かって/ソ・イジェ

 宇多丸、大田ステファニー歓人の両名による帯コメントの韓国小説とくれば、読まない理由はないということで読んだ。各話でスタイルが異なり、テーマが音楽、映画ということもあり、一枚のアルバムあるいはオムニバスムービーのように楽しむことができた。そして、自分はもう若くなく、すっかりおじさんだという認識も持った。

 本著はデビュー作で、短編、中編で構成された作品集となっている。一つ目の「迷信」という短編のあまりの不安定っぷりに度肝を抜かれた。本著を最後まで読み終えると、このグラグラする感じは、著者の一つのスタイル、ポリシーであり「世界は動的な偶然で構成されているのだ」という認識に基づいていることがわかるのだが、このトーンで全編続くのか…?と最初は不安に思った。しかし、彼女のもう一つの魅力であるカルチャーを交えた形での若者の群像劇が用意されており、それらが特にオモシロかった。

 あとがきによると、著者自身もラッパーを夢見た時期があるからか、韓国ヒップホップのアーティストや曲名が具体的に登場する。韓国ヒップホップ好きとしては、それだけでテンションが上がるわけで、とくにLEGIT GOONS、 Bassagongという名前が出てきてたときは相当アガった。実際、物語内で登場する「My House」を聞くことで小説が現実世界と接続し、リアリティを増すことができる。こういった固有名詞は多過ぎると食傷気味になるが、本著では最低限に抑えつつ、そこで出すカードのセンスが個人的には抜群だった。

 さらに音楽好きという観点で続けるとすれば「Soundcloud」という中編が好きだった。ストリーミング時代における音楽のあり方について、これだけ鮮やかに切り出した小説は他に類をみないだろう。いつでも何でも聞ける今、何を聞くのか、そしてどんな媒体で聞くのか?60〜70年代のモータウンサウンドを中心に置きつつ、音楽を聞く媒体をオマージュしたフォーマットの中で、音楽と恋が展開していくストーリーはかなりオモシロかった。あと村上春樹のことを「金持ちスワッグをプンプンさせた日本の小説家」と揶揄してて笑った。

 エピソードを断片的に配置して映画のフィルムのように見せたり、前述のとおり音楽媒体をオマージュしたり、登場人物の名前をすべて「X」にして主従関係を不透明にするといった小説の構造としての斬新さがある。また、登場人物のインスタグラムのアカウントのQRが載ってたり、数独が突如登場したりとギミックも盛りだくさんだ。そんな複雑な見た目とは裏腹に、若者たちが語る率直な現状認識、正直な気持ちの数々はときに笑ってしまうし、ときに胸を締めつけられる。韓国の若者実情についてほとんど知らなかったのだが、本著のようにジリ貧の若者たちが懸命に生きていて、自己実現ひいては人生について悩む姿は日本でも同じようなことが起こっているのだろう。こういった若者の苦労を読んでいると、自分が歳をとったことを相対的に感じるのであった。

 ラストのタイトル作は、韓国の映画業界に関する考察のような小説となっており、「独立映画」と呼ばれる、資本及び権力から独立している映画界の境遇を知ることができる。日本でも映画の撮影現場のブラックな労働環境はときに話題に上がり、その対比で韓国の改善された労働環境が言及される場面は多い。しかし、それらはメジャー配給の映画に限ったことであり、独立映画ではまだまだ過酷な状況が続いていることがわかる。また、韓国映画はここ十年、二十年のあいだに世界で大きな人気を獲得しているが、その功罪についても言及されており、人気がすべて解決するわけでもないことが理解できた。ただ、そんなネガティブな側面にフォーカスする中でも、映画を撮りたい気持ち、映画を愛する気持ちを大事にしたくなる着地にホッとした。「壁と線を越えるフロウ」というヒップホップをテーマにした小説があるらしく翻訳版が出ることを切に願っている。

2025年2月12日水曜日

時をかけるゆとり

時をかけるゆとり/朝井リョウ

 小説は読んだことあるものの、エッセイを一度も読んだことがなく、友人の勧めで読んでみた。大学生作家から社会人作家へと移行していくフェーズで書かれた一冊で、ザ・大学生的なエピソードに気恥ずかしさを覚えつつ、文章におけるギャグセンスの高さはさすがだった。

 小説家としての日常ではなく、学生としての日常について書かれたエッセイが多く収録されている。大学生もしくは社会人の早い段階で読めば「あるある」として楽しめたのかもしれないが、三十後半のおじさんからすると、他人の大学生の頃の「オモシロエピソード」ほど聞いていてイタい気持ちになるものはない。そして、読んでいると自分の大学時代を当然のように想起、恥ずかしくなり死にたくなることも多かった。若くして作家になると、このような文章が公に残ることもキツいだろうなと察する。実際、その気恥ずかしさを少しでもマイルドにするために、過去のエッセイに脚注を入れて相対化していたので、著者も同じ気持ちを少なからず抱いているように思う。

 個人的に一番オモシロかったのは、著者の就職活動に関するエピソードだ。『何者』のBehind the scenes にも見えるし、著者の就活エピソードのどれもがユニークでオモシロい。学生が社会と接続していくことについて、これだけ瑞々しく書ける人はそうはいないはずだ。前述のイタさと引き換えにして、若くして解像度高く、ものを書けるようになった著者の魅力が最大限に発揮されているとも言える。また、終盤にある直木賞受賞時のエッセイは他のエッセイと別ベクトルで、著者の小説を彷彿とさせるエモーションに溢れるもので好きだった。本著の続編となる『風と共にゆとりぬ』も積んでいるので読む。

2025年2月8日土曜日

トーフビーツの(難聴)ダイアリー2022

トーフビーツ(難聴)ダイアリー2022/tofubeats

 ポッドキャスト番組のチャッターアイランドの最新回で、著者がゲスト出演していたので、積んであった本著を読んだ。日記というか、もはや業務日報の様相を呈しており一気に読み終えた。

 神戸の書店1003の特典として、前作リリース時に提供された『reprise』の延長戦であり、2022年の日記として再構成された一冊となっている。本作はZINEなので、いわゆる街の書店では取り扱いがないからか、前作以上にアクセル全開で音楽業界での仕事を中心に著者の思うことをズバズバと書いている。ここまで自分のスタンスが明確にあり、それを開陳できるアーティストがどれだけいるのかと前作に続いて感じた。

 それは著者が会社を経営する社長であることが大きいだろう。メジャーレーベルとディールしつつ、一企業の社長としての振る舞いの数々からは、自分で会社を持つことの苦労が垣間見える。とくに終盤に出てくる大トラブルは具体的な言及はないものの、契約周りのトラブルであることが推察され、自分も仕事で似たようなトラブルを今抱えているので、心構えが参考になった。オンオフの切り替えは比較的できるほうなのだけども、大きなトラブルになるとオフのときも喉に小骨が引っかかっているようで気持ちが悪い。だから、エビデンスを集め、色んなシミュレーションを重ねることで、自分の心の平穏を取り戻していく必要があることを再認識した。(しかし、著者が言うところの正常性バイアスにどうしても寄りかかってしまうところもあるのだが…)にしても、DJ QとのコラボEPがリリースに至るまでの艱難辛苦をみるにつけ、音楽という権利ビジネスはリリースするまでにリスナーには見えない苦労がたくさんあることに気付かされたのであった。

 アーティストの日記においては、どのようにクリエイティビティを発揮しているか、その過程を追うことができる点に魅力がある。本著でもそれはいかんなく発揮されており、C.O.S.Aにビート提供を頼まれたけど、しっくりいかなかった話とか、一ヶ月で30曲もサントラとして書き下ろすことができるとか、tofubeatsの音楽家としての側面をたくさん知ることができる。そういった活動の様子と私生活がシームレスに読める点が日記のいいところで、先日のポッドキャストでも愛妻家っぷりを感じていたが、本著でもパートナーとのエピソードが多く収録されている。差し迫った仕事のあいだの閑話休題として紹介されるパートナーとのほっこりエピソードから、犬を含めてパートナーの存在は著者にとって大きいことが伺い知れた。2023もしくは2024もリリースされて欲しい。

2025年2月7日金曜日

パーティーが終わって、中年が始まる

パーティーが終わって、中年が始まる/pha

 2024年リリースの書籍でタイトル選手権をすれば、なぜ働いていると本が読めなくなるのかと並ぶ優勝候補になるであろう、そのタイトルに惹かれて読んだ。著者より一世代下ではあるが、中年の入口に立っている認識を最近持つようになったので、ある種の予習として興味深く読んだ。

 著者が自分の人生を振り返りながら、中年を迎えた現状について考察している。「インターネットの人」という荒い解像度で捉えていた著者の背景を知りつつ、それを踏まえた中年期に対する考察が興味深かった。長いあいだ、シェアハウスで常に他人がいる状況で暮らしてきた著者が「中年の一人暮らし」を営む中で、まるで世の真理を発見していくような、哲学的とも言える人生に対する視点の数々。ブログが出自ゆえの柔らかい文体から繰り出される、達観さえ感じる文章は、著者が歩んできたイレギュラーな人生とギャップがあり新鮮だった。また、時代の移り変わり、とくにテクノロジーによるイノベーションが実社会においてどのように落とし込まれていくか、生き証人として書かれている要素が強く、何十年後かに読まれる際には資料価値も高くなりそうだ。

 私が会社員として生活しながら、このブログを書いたり、ポッドキャストを運営したり、「それがなぜ続けられるのか?」と人に聞かれることがある。特別人気があるわけでもないから、自分自身もどうしてなのかわからないし、深くは考えてこなかったのだが、本著を読むと自分自身の自己実現、承認欲求に対する理解が深まった。つまり「たくさんの人に知ってもらいたい」「お金を稼ぎたい」という欲望がゼロというわけではないが、適量の承認、自分が好きな人やコミュニティに受け入れてもらいたいという欲望が強いということである。量よりも質といえばいいのか、一人の読者、聴者でも同じ志の人と一緒に楽しくやっていきたい、とでもいえばいいのか。会社員としてのパーティーの終わり方が少しずつ見えてくる中で、それとは別のパーティーを細々とでも続けることで人生に意味を見出している節は大いにある。そういう意味で、直接の知り合いでもない方がブログを読んでくれたり、ポッドキャストを聴いてくれたり、ZINEを買ってくれたりしてくれるのは、本当にありがたい話だなと読んで気づかされた。自己分析要素が強いので、このように自分の人生について改めて考えさせてくれるいい機会になった。

 鴨長明『方丈記』の「ゆく河のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず」が引かれているように、本著に通底するムードは諸行無常だ。著者が猫を飼っていることが明らかになるのだが、その愛猫生活から一転、現在は亡くなってしまっている事実があきらかになる。思わず「That’s life」と声に出してしまいそうな、その落差。過ぎた時間は戻ることなく、ただそこに人生があるだけという、これまた達観した視点に、自分の人生の舵をどのように取ればいいのか考えさせられるのであった。次は、蟹ブックスから出てる読書日記を読みたい。

2025年2月5日水曜日

now loading

now loading/阿部大樹

 以前読んだForget it Notの著者による育児日記ということで読んだ。あらゆる点でソフィスティケートされた育児に関する静謐な思考の足跡が興味深かった。

 子どもがはじめて言葉を話した日から、はじめて嘘をついた日まで、と限定された期間の育児日記となっている。日記ではあるものの、日付は限りなく小さく記載されており、日記として時間を区切る意図は少なく基本的にエッセイのように読めた。

 育児日記、育児エッセイといえば、どれだけ大変か、いかに子どものことで頭を悩ませるかといった苦労話がたくさん紹介され、それらが報われるような心温まるエピソードがたまにあり「だから育児って尊いよね」という起承転結の構成をよく見かける。しかし、本著はそんな既存の育児本の文法から外れたところにあり、淡々と起こったこと、考えたことを書いている。いい意味で著者の喜怒哀楽の感情がわかりやすく描かれておらず、例えるなら、化学調味料を使わず、自然の出汁の味を大切にしているような文章だ。

 言葉はさることながら、版組に至るまで、こだわりを感じる構成になっていた。特に改行、段落の分け方などは詩のようにさえ見える。言葉を尽くして自身の育児を説明するというよりも、行間を大切にしているといえるだろう。自分の感情や起こったことを伝えたいとき、どうしても足し算的な思考に陥りがちだが、本著を読むと要点を絞るとしれも、引き算を工夫することで、その人なりのムードが出来上がること、AI時代になっても失われない何かを文体から感じたのであった。完全に余談だが、一番ビビったのは総合格闘家の阿部大治選手の名前が登場したとき。名前もあいまって人生は数奇だなと思わされた。

 著者は精神科医であるからか、患者を見るような客観的な視点が多く、自分の子どもの言葉や言動について「こういうことかも」と冷静に考察している。私は育児の当事者として、主観的視点に陥ってしまい、自分の思う通りに子どもを動かそう、言うことを聞かせようとしてしまうときが多い。しかし、著者のような一歩引いた視点を持つことができれば、もう少し育児しやすくなるかもしれないと感じた。大人の時間や都合ではなく、子どもの時間で生きることの必要性を日々感じている中で、まさに同じようなことがここでも書かれており納得した。タイトルどおり、loadを待つかのように子どもを待ちたい。

そのうち取り囲まれる規範の一々に対して、不合理と思うなら距離をおけるような、そういう意味でliberalな人間になってほしいと思っているので、予行のつもりで、彼が意見をもつならなるべく尊重するようにはしているが、たとえば風呂上りに濡れた体を拭くのを拒否されたりすると、その間は私も冷たくなっていくし、いいから、もう風邪ひいちゃうからこっち来なさい、となってしまうこともあり、これを強者による抑圧(原型)と言われれば、否定はできない気もする。