なぜ働いていると本が読めなくなるのか/ 三宅香帆 |
各方面で話題になっており内容が気になったので読んだ。超キャッチーなタイトルだけれども中身はかなりカッチリしていた。労働史と読書史をかけ合わせ、定性的かつ定量的なアプローチにより日本における読書の受け止められ方を分析、さらには読書ができる社会環境の提案にまで至る良書だった。
労働、読書の歴史を交互に紹介しつつ著者の考察がその間を繋ぐように展開される構成。一番オモシロい点は映画『花束みたいな恋をした』のシーンが起点かつ通底するテーマとなっているところ。シーンの概要としては、主人公が「本は読めないしパズドラしかやる気がしない」と喝破するといったもの。映画を見た人にとって非常に印象的で語りしろのあるシーンである。タイトルのキャッチーさに比べると史実ベースなので結構重たく感じるものの、随所でこのテーマが差し込まれること、また著者の口語調の軽い文体もあいまって読みやすくなっていた。
まず読んで驚いたのは自己啓発的な概念が最近生まれたものではなく明治の頃からあったということ。しかも自己啓発書を読む人を蔑む視点までセットで存在したなんて信じられない。短期的か長期的はさておき、何か自分にとって役立つ可能性にかけて読書する。そして読書している自分という自意識まで。このあたりの認識が昔から変わっていないことを修養、教養をめぐる一連の歴史や爆売れした円本の話を絡めて分かりやすく解説してくれている。印象論ではなく丁寧に文献にあたっている点に敬意を抱いた。
社会環境に影響を受けて売れる本が変わってくること、特に本著では労働環境にフォーカスして考察しているわけだが、司馬遼太郎を読んでいた時代から自己啓発書の百花繚乱時代まで労働に対する価値観が与えている影響を強く感じた。「教養さえあれば」「行動の方法さえわかれば」といったように手軽に人生を変えたくて読書する層はいつの時代もマスとして存在することが理解できた。
SNSを中心にネットを見ることはできるのにどうして本を読めないのか?という論点ではノイズの有無がキーワードになっていた。読書は未知かつ雑多なノイズを含むのに対して、ネットでは必要な情報が選別されておりノイズが含まれないことが多いから。また本を読むより手軽に情報を得られることも影響が大きいだろう。これらに加えて自分に必要な情報に対する偶然性を期待している点もあると思う。読書におけるセレンディピティをもちろん愛しているが、SNSのガチャ的な要素はギャンブルと同じでどうしても反応してしまう。直接関連するわけではないが、以下は今の社会を象徴するような内容だった。
〈インターネット的情報〉は「自己や社会の複雑さに目を向けることのない」ところが安直であると伊藤は指摘する。逆に言えば〈読書的人文知〉には、自己や社会の複雑さに目を向けつつ、歴史性や文脈性を重んじようとする知的な誠実さが存在している。 しかしむしろ、自己や社会の複雑さを考えず、歴史や文脈を重んじないところ――つまり人々の知りたい情報以外が出てこないところ、そのノイズのなさこそに、〈インターネット的情報〉ひいてはひろゆき的ポピュリズムの強さがある。 従来の人文知や教養の本と比較して、インターネットは、ノイズのない情報を私たちに与えてくれる。
読書を通じて積極的にノイズを摂取することで日常と異なる文脈を取り入れる重要性も説かれており、自分自身はまさにそのために読書しているところがあるのでよく理解できた。
終盤に著者が提案する「半身」の考え方も今の時代にフィットするものだ。若干清貧に近い価値観なので新自由主義者などは納得しづらいだろうけど、社会全体でバッファーをもって生きていく必要性は子育てしているのでよく感じる。全員がパツパツまで追い込まれる必要はなく余裕のある社会になったとき人は本を読めるという主張に大いに納得した。近年では仕事を自らのアイデンティティと捉えてノイズを極力除去し自分のコントーロラブルな範囲でアクションにフォーカス、余暇はあくまで自分の外側にあるものとする価値観が跋扈している。そんな最適化の先に待つ未来において精神的な豊かさは残っているのだろうかとも考えさせられた。これからも読書できる環境を整えていきたい。
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