2026年7月26日日曜日

世界一おもしろい現代ヒップホップ入門

世界一おもしろい現代ヒップホップ入門/EJ

 日本で出版されるヒップホップ関連本は可能な限り読んでいるので、本著も読んだ。YouTuberが書籍を出版することに時代を感じるし、著者のヒップホップに対する考えも伝わってきて興味深かった。

 著者はYouTuberとして、ヒップホップに関する解説動画を中心に、インタビューなども含めて幅広く活動している。本書はヒップホップ入門書として、アメリカにおけるヒップホップの誕生から現在の流行までを、時系列に沿ってこのカルチャーが発展してきた歴史を解説している。

 世間全体の空気として、YouTuberをナメてかかる風潮があるし、タイトルもボケてきているので、正直なところ内容には不安があったが、それは杞憂だった。想像以上に骨太な内容で、自分の穿った見方を反省した。

 正直ヒップホップの歴史を知るだけなら、インターネット、生成AIなどを駆使していくらでも勉学べる。そんな時代に、本という限られたページ数の媒体でヒップホップについて書く意味があるとすれば、それは切り口に他ならない。ヒップホップの歴史は約50年にわたり、背景まで含めれば膨大な出来事が積み重なっている。著者はそれらを独自の視点で整理しており、これまで読んだヒップホップの歴史本とは一味違うフレッシュな視座を感じた。

 たとえば、ファッションとの接続が挙げられる。ヒップホップとファッションが切っても切れない関係にあることは本書でも繰り返し語られるが、歴史を語る際には意外と見落とされがちな論点でもある。YouTuberという間口の広い仕事だからこそ拾えた視点なのだろう。なかでもFUBUには懐かしさを覚えた。略称の意味を今回初めて知ったし、当時まわりにいた大阪のヤンキーたちがこぞってFUBUを着ていたこともレミニス。インターネット以前から、ファッションを通じてヒップホップがグローバルに影響を与えていたのだと、あらためて考えさせられた。

 また、時間軸だけでなく場所の軸で整理している点も優れている。アメリカのヒップホップを聞くとき、ざっくり東西南といったイメージで捉えてはいるだけだったが、本著では具体的な地名だけでなく、その相対的な位置関係や規模、街の歴史や空気感まで説明されており理解が深まった。ヒップホップの音楽的な側面だけでなく、社会背景まで噛み砕いてくれるので、本を通じてヒップホップを知りたい、という知的好奇心の強い読者にとっては、入門編として十分に機能するはずだ。

 創世記から2020年代までを一気にたどることで、ヒップホップという音楽がいかに豊かな表現形式であるかを、あらためて思い知らされる。既に歴史を知っている古参リスナーにとっても今読むことの醍醐味はここにある。リアルとフェイクをめぐる価値観の変遷や、「何がヒップホップなのか」という定義の揺れも、「歴史」という軸があるからこそ、よりいっそう興味深く映った。

 ヒップホップのオーセンティシティを巡る議論の健全さを主張している点は納得した。常に何がリアルなのかを問い続けることで、その真価が進化してきた歴史を知ることができたし、伝統と革新がせめぎ合い、これほど音楽性と思想性が更新されていく音楽ジャンルは他にない。だからこそ、自分がいまもなおヒップホップに惹かれ続けているのだと気づかされた。

 本著の中で、もっとも読み応えがあったのは、ヒップホップのアンビバレントな側面に関する著者の考え方だった。YouTuberとして活動している以上、いかに間口を広くするかは重要であり、その必要性を著者はよく理解している。一方で、ヒップホップへの深い愛情も伝わってきて、その狭間でストラグルしていることがうかがえる。終盤の日本語ラップの解説や、みのミュージックとの対談は、アメリカ編の情報量や洞察の深さと比べるとやや見劣りするのは否めない。だが、それもより広い層にリーチし、ヒップホップを理解する入口に立ってほしいという思いがあるからこそのアプローチなのだろう。

 若い頃なら「これはセルアウトだ!」と大きな声で言っていたかもしれない。しかし、日本においてヒップホップの人気が実際に広がり、その結果としてメジャーからアングラまで、恩恵を受ける状況がある今、進んで「ゲートドラッグ」になろうとする著者の勇気と姿勢を、素直に応援したい気持ちになった。

 次は2010年代のトラップ以降の細分化されていくアメリカのヒップホップを体系的にまとめた、著者の得意分野かつ専門性の高い内容の本を読んでみたい。(YouTubeチャンネル見ろやって話かもしれないけれども。)

2026年7月21日火曜日

翻訳する私

翻訳する私/ジュンパ・ラヒリ

 新刊が出るたびに必ず買う作家の一人であるジュンパ・ラヒリの最新作。今回はエッセイの枠を超え、翻訳という営みを多角的に掘り下げた、骨太な論考集だった。

 近年の著者はイタリア語の習得をライフワークとし、エッセイや小説をイタリア語で執筆してきた。本著では、そうした経験を踏まえながら英語にも立ち返り、複数の言語の間で生きることを深く考察している。移民二世である著者は、幼い頃からベンガル語で考えたことを英語へ変換するプロセスを自然に経験してきたという。複数の言語を身につけた人だからこそ見える、それぞれの言語でしか表現できないニュアンスについての考察は、どれも刺激的だった。

 『変身物語』におけるナルキッソスとエコーの話と翻訳のアナロジーは著者の翻訳論の肝である。ギリシャ神話を抽象化して、自身の論理を築き上げていく様は学者さながらだ。神話に詳しくない読者にも伝わるよう丁寧に説明され、さらに繰り返し参照されることで、その比喩の説得力が増していた。

 イタリア語への深い愛情が随所から伝わる一方で、イタリア社会ではなお「外様」として見られることへの戸惑いも率直に綴られている。多様なバックグラウンドを持つ人々が英語を共通言語として生きるアメリカとは対照的に、イタリアは画一性が高いからこそ、著者に対して「なぜイタリア語なのか?」と繰り返し問われることに疲れているようだった。

 翻訳は生成AIの普及によって真っ先に代替される仕事として語られがちだ。しかし、実際の翻訳プロセスや思考過程について読んでいると、AIによる翻訳でどこまでフォロー可能なのかと思わされるほど、プロフェッショナルな仕事だった。コンテキストだけではなく、言葉のリズム、語同士の響き合い、一冊全体の構造まで見渡しながら訳文を組み立てていく。その徹底した仕事ぶりには圧倒された。AIが翻訳を大きく変えることは間違いないとしても、仕事のディテールを知らないまま「AIで代替できる」と決めつけることの危うさも感じさせられた。

 また、「翻訳は二次創作であり、創作より下位に位置する」という価値観に著者が強い怒りを示している点も印象深い。「作家としてアイデアが枯渇したから翻訳をしているのだろう」という偏見に対し、創作と翻訳を序列化する発想そのものを問い直していく。具体例を交えながら翻訳の創造性を論じ、「すべては模倣から始まる」というクリエイティブ論へと展開していく流れは、著者の創作哲学そのものを映し出しているようだった。

 著者がイタリア語で執筆を始めたのは45歳の頃らしく、物事に遅いことなんてないなと思えた。他の言語能力を取得するモチベーションはAIの台頭に伴い減退する一方だったが、著者の言語に対するピュアな興味の抱き方を読んでいると、何かを学ぶことの醍醐味を思い出させてくれた。コスパ、タイパで物事を測っていては、人生は少しずつ味気がないものになっていくからこそ、学習意欲は大切にしたいと思えたし、英語をもう1度頑張るか、韓国語を新たに勉強しようかな。

2026年7月17日金曜日

1985年のクラッシュ・ギャルズ

 

1985年のクラッシュ・ギャルズ/柳澤 健

 著者の本をここ1年ほど積極的に読んでおり、レコメンドもあって読んだ。全日本女子プロレスについては世代的に門外漢だが、プロレスというジャンルの業の深さを知るには最適な一冊だった。

 タイトルにある「クラッシュギャルズ」は長与千種、ライオネス飛鳥による女子プロレス界の伝説的タッグ。本著は2人の来歴を評伝としてたどりながら、全日本女子プロレスを中心とした女子プロレス史の栄枯盛衰を描いている。

 今回読んで初めて知ったのは、若手向けタイトル戦では押さえ込みによるガチ決着が行われていたことや年間250試合をこなす過酷な労働環境だった。そんな世界では、フィジカルに優れたライオネス飛鳥が圧倒的な強さを見せ、長与千種は三下に甘んじていた。しかし、長与はフィジカルや技術がなくとも観客の心を掴む能力に長けていたことで徐々に頭角を表していき、最終的に2人がタッグを組んでスターになっていく過程が興味深い。演出家としての長与、それを圧倒的フィジカルで体現する飛鳥のコンビが熱狂的な人気を生み出して国民的スターになっていくのだ。今ではコンテンツの細分化が進み、世代を超えて共有されるスターはほとんど存在しない。だからこそ、女子プロレスラーが国民的スターだった時代があったという事実には隔世の感があった。

 さらに面白かったのは、当初は飛鳥が上だった立場が徐々に逆転し、雑草タイプの長与が飛鳥をまくっていく過程だ。プロレスは勝敗だけを競う競技ではない。観客を巻き込み、その場の熱狂を生み出してこそ価値がある。フィジカルエリートよりも、会場の空気や観客心理を読み切れる人間が頂点へ上り詰めるという構図は、通常のスポーツではなかなか見られない。そこにプロレスならではのドラマやロマンがあり、人を惹きつけてやまない理由なのだと感じた。

 そして、本著最大の特徴は、クラッシュギャルズを追い続けた一人の女性の人生が並行して描かれることだ。学生時代に女子プロレスへ熱狂し、親衛隊を経て、やがて記者となる。彼女の人生とクラッシュギャルズの栄光と衰退が重なり合い、単なる評伝では終わらない奥行きを作品にもたらしている。彼女のパートは一人称ではなくインタビュー形式で構成されているため、自身の人生を客観的に振り返る落ち着いたトーンになっており、クラッシュギャルズの熱量あふれるパートとのコントラストも素晴らしかった。

 クラッシュギャルズの衰退とともに女子プロレス人気も下降し、その中で試合内容がより過激になっていく点も印象に残った。男子のプロレスの方が危険なイメージを持っていたが、著者によれば当時の全日本女子プロレスは「世界で最も危険で陰惨で殺伐としたプロレス」だったという。人気を取り戻そうとする焦りが、より刺激的な表現へとエスカレートしていく構図は、SNS時代特有の現象だと思っていた。しかし、人気商売である以上、その構図自体は昔から変わらないことがよくわかった。

 私にとって女子プロレスラーといえば、バラエティ番組で活躍するタレントという印象が強い。北斗晶やジャガー横田も、リング上で戦う姿よりロケ番組に出演している姿の方が思い浮かぶ。しかし、彼女たちがリングで経験してきた壮絶な日々を知ると、「人に歴史あり」という言葉が自然と浮かぶし、一気にリスペクトが増した。特にジャガー横田の先輩として義理人情を貫く姿勢には胸を打たれた。何事もコストパフォーマンスが優先されがちな時代だからこそ、そうした振る舞いがより熱く感じられた。

 NETFLIX『極悪女王』を見たり、井田真木子『プロレス少女伝説』を読んだりして、この時代の女子プロレスの世界をもう少し深く味わってみようと思う。

2026年7月10日金曜日

イン・ザ・メガ・チャーチ

イン・ザ・メガ・チャーチ/朝井リョウ

 色んな人からおすすめされていて、やっと読んだ。最近読んだ著者のエッセイで、アイドルオーディション番組に初期から関心を持ち、熱心に追いかけてきたことを知り、解像度の高い作品なのだろうと期待していたが、その想像を何倍も上回る怪作だった。

 オーディション番組から誕生したアイドルを軸に、ある父親とその娘、彼らとは無関係な独身女性の三人を主軸に物語は展開していく。得意の群像劇によって、それぞれの立場からアイドルとの関わり方を描きながら、推しカルチャーについて立体的に批評するような小説となっている。

 アイドルオーディションを題材にした作品と聞いていたので、アイドル本人やファンを中心とした物語だと勝手に想像していた。しかし、実際には、オーディションを仕掛ける側である中年男性の視点が大きな比重を占めている。しかも、敏腕アイドルプロデューサーではなく、ミドルエイジクライシスに苦しむ元コンテンツ担当の経理職のおじさんなのだ。この人物設定は、おそらく日経新聞夕刊での連載を前提としていたからこそ生まれたのだろうが、ここに朝井イズムがこれでもかと詰め込まれている。

 著者の群像劇は、登場人物のペルソナの描き込みが作品の深みにダイレクトに寄与してきたわけだが、おじさんパートでは特に筆が乗っている印象だ。「独りで啜るインスタントの味噌汁」というパワーワード一発で、おじさんの孤独を表現している。さらには「脳みそを溶かす」「味噌玉」など、「みそ」を起点に物語のキーとなる展開を描いていくあたりは、さながらラッパーである。

 自分自身がモロに中年男性なので、身に覚えのあるシーンが次々に現れて心苦しかった。意地悪に感じるほどのディテールの細かさは圧倒的だ。数年の社会人経験があるとはいえ、ここまでの解像度で中年サラリーマンの悲哀を書けるだなんて。人生が宙ぶらりんだった主人公が、水を得た魚のように仕事へ没頭し、若者たちと交流する中で失われた時間を取り戻すように主体性を回復していく姿は実に健気だ。そんな健気な気持ちが最後は裏目に出てしまうのだから切ない。その姿を見ていると、自分の将来について考えずにはいられないし、娘と過ごしている時間がいかに尊いものなのか、逆説的に気付かされた。

 やりがいを超えた「生きがい」が本著のテーマの一つである。大量のコンテンツに囲まれて、可処分時間が足りないというエピソードは今や珍しくない。しかし、本著がフォーカスするのは可処分時間が余ってしまうことの恐怖である。その空白を埋めようと、仕事や趣味に生きがいを求める中年男女の姿は読んでいて苦しくなる。とりわけ、アイドルカルチャーで育まれた「信じる力」が陰謀論へと滑らかに接続され、全力でのめり込んでいく女性の描写は、近年の社会状況を思い起こさせるものがあった。

 「メタからベタへ」も本著を貫く大きなテーマであろう。「視野」という言葉が繰り返し登場し、どのような距離感で物事と向き合うのかを問いかけてくる。ズームインして視野を狭めれば、夢中になれる一方で、他人からは痛々しく映ることもある。逆にズームアウトして俯瞰すれば、冷静ではいられるが、そこに熱量は生まれにくい。著者はどちらか一方を肯定するのではなく、両方を丁寧に描くことで、人生はそのバランスの上に成り立つことを示しているように思えた。

 ただ、自分自身は今の社会状況だからこそ、冷笑へと流れがちな俯瞰的な態度よりも、視野を狭めてでも何かに熱中する姿勢を選びたい。「メタ視点を取り続け、考えているだけでは何も積み重ならない」という登場人物の言葉は、この作品の中でも特に胸に刺さった。

 人を夢中にさせるためのマーケティング手法としての「物語」も本著の大きなテーマである。タイトルは、その手法を宗教勧誘に応用するチャーチマーケティングからインスパイアされている。マーケティングを学ぶために留学する同級生と、そのマーケティングの餌食になっている主人公の女子大学生を終盤で対比させる構成は強烈だった。なぜならマーケティングの手法と、その実践を対比させているからだ。しかし、自分が渦中にいるとしてもなお、自分が幸せであればそれでいいという主体性を取り戻した女子学生の姿を見ていると、周囲に流されて生きることと、自ら選んで何かに夢中になることのどちらが人間らしいのかを考えさせられる。その一方で、主体性のないまま別の「物語」に巻き込まれていく中年女性の存在が鮮やかな対比となり、このテーマをより際立たせていた。

 本著がチャーチマーケティングを駆使した推しカルチャーの裏側をメタ的に描いた小説である。それが推しカルチャーサイドに受け止められているからこそ、本屋大賞を受賞し、ヒットしているのだろう。(実際、BMSG推しのパートナーも珍しく読みたいと言っていた。)主人公のように推しカルチャーにどっぷり浸っている人や、それを仕掛ける音楽事務所の人が本著を読んでどんな感想を抱くのか聞いてみたい。

2026年7月7日火曜日

あの風景に会いに行く


 植本一子さんが東京都渋谷公演通りギャラリーで展示をされるとのことで見てきた。会場では植本さんを含めて4名の展示が行われており、しかも無料。場所はパルコの真裏という渋谷の超一等地なので、渋谷に用事のある際には立ち寄りやすい場所だった。
(私はCampanellaのライブ@WWWXの前に伺いました。)

 この展示は『ここは安心安全な場所』でフォーカスしていた遠野の馬の写真と、新しい試みであるドキュメンタリー映像の2本立てとなっている。後者は、10年ぶりの帰省を記録したドキュメンタリーとのことで、長年日記を読んできた自称「一子ウォッチャー」としては、ご実家との関係も頭をよぎり、少し緊張しながら見たところ、それは杞憂で映像には終始穏やかな時間が流れていた。

 実家に帰るのは10年ぶりとのこと。日記で読んだことがある家が実際に映し出され、そこには昔ながらの日本の家があった。帰省の様子に合わせてモノローグが流れる構成なのだが、見始めてすぐに感じたのは料理の豊かさである。

 実家に帰ると親がたくさん料理を作ってくれる、というのはよくある話かもしれない。しかし、この映像から伝わってきたのは、そうした「あるある」を超えた、料理そのものへの熱量だった。そして、その源流がお母様にあることが自然と理解できる。日記やSNSでこれまで何度も手料理を目にし「美味しそうだな〜」と毎度思っていたが、その背景には母から受け継いだものがあったのだと腑に落ちた。これまでは料理以上に様々な出来事が起こり続けていたため、料理そのものに焦点が当たることは少なかったように思う。映像というメディアだからこそ、その豊かさがよりダイレクトに伝わってきた。

 料理だけでなく、この10年間の出来事を1本の線で結び直していくような内容にも驚かされた。当日、会場にご本人がいらしたので、どこまで意図的な構成なのか尋ねたところ、「ノープラン」とのことだった。しかし、お母様がここぞとばかりに明かす新事実が、どれも植本さんの人生に関わるものばかりだ。放射線と甲状腺、苗字の変遷と帰属性など、これまで日記で読んできたテーマに対して、お母様が新たな情報をもたらし、次々と見方が更新されていく。長年の読者ほど受け取るものは多いだろう。作品にするために、お母様が親心で撮れ高を用意してくれたのではないかと邪推したくなるほどだった。

 両親の暮らしぶり、たまにインサートされる猫の映像、孫のために植えた木の話など、終始穏やかな時間が流れ続けている。しかし、この帰省に至るまで10年という歳月があった。「10年会わないというのは、なかなかだよな」と思い、最後に帰省した際の様子が書かれている『家族最後の日』をあらためて読んでみた。そこでは植本さんの筆力もあいまって壮絶な出来事が繰り広げられていて言葉を失った。一度読んでいるはずなのに、自分が親になった今読むと、祖母、母、自分、子どもという4者の関係性が全く違って見える。ここまで胸が締め付けられる出来事はフィクションでもなかなか遭遇しない。この経験を経て10年後に再会し、その時間をドキュメンタリーとして作品に落とし込めるだなんて。ここに植本さんらしい気骨を感じるし、時間が解決してくれることもあるのだなと思えた。

 そして、実家から移動後は戦争の話題へとシフトしていく。戦争との距離感は、以前に読んだウェブのエッセイを読んだ際にも印象に残っていたが、今回の映像でさらに立体的に伝わってきた。広島で育った人だからこそ抱く戦争への切実な忌避感は、社会全体が少しずつ右傾化している今、かえって新鮮に映ってしまう。その自分の感覚の変化が怖かった。

 単なる広島の記憶を振り返る作品ではなく、現在、そして未来に対する視線があるからこそ、このドキュメンタリーは今見る意味がある。今年の衆議院選挙の結果を見て以来、個人的には政治に対する無力感ばかりが募っていた。それでも、「嫌なことは嫌だ」と言い続けることをやめてしまえば、本当に何かが起きるところまで社会は進んでしまうかもしれない。ECDのツイートを基にした「ONE PERSON. ONE POWER.」のパッチムーブメントを思い返しながら、この無力感に抗い続けなければならないと、あらためて感じた。

2026年7月6日月曜日

ミルク・ブラッド・ヒート

ミルク・ブラッド・ヒート/ダンティール・W・モニーズ

 リリース当時に見た表紙が印象的でいつか読もうと思っていたら、気づけば時が経ち、ブックオフで見かけてサルベージした。アメリカで暮らす女性の観点を中心にした短編の数々に魅了された。

 フロリダ出身の作家によるデビュー作の短編集となる。11編を収録しており、それぞれ独立しているので、どこから読んでも楽しめる仕様となっている。

 とにかくストーリーテリングが見事だ。短編ながらも「この先どうなるの?」とグイグイ引き込まれつつ、その背景にあるテーマについても描かれている。エンターテイメント性とメッセージが高いレベルで両立しているので、新世代として期待される理由がよくわかる。

 表題作をはじめ、シスターフッドを扱った短編が印象的だった。ただ連帯を描くのではなく、その中にある複雑な関係性や感情の機微まで余すことなく描いているからこそリアリティがある。その背景には、黒人であり、女性であり、フロリダで育った著者自身の経験が色濃く反映された登場人物の存在があるのだろう。

 個別の話をすれば、表題作では色を通じた語り口が素晴らしかった。冒頭で乳と血に関する強烈な展開があるのだが、単に物語の起伏を作るためのショッキングな演出ではなく、終盤でしっかりと物語に帰結していく構成力の巧みさに唸らされた。

 中年男性として最も刺さったのは「天国を失って」だ。妻の癌が再発し、拠り所を失った男が、バーテンダーの女性や若い男性客との関係を通じて自分の立場を保とうとする。加齢に伴ってメタ認知が鈍っていく様子を、ここまで容赦なく描かれると精神的に堪えた。最近話題の俳優間によるパワハラ問題を彷彿としたし、自分も「おじさん」と呼ばれる年齢なので、その危うさを自覚していかなければならないと感じた。

 「欠かせない体」は妊娠初期に出産を逡巡する女性が主人公。ネット、SNSの発展に伴い、妊娠、出産、育児に関して情報が溢れる時代だからこそ、必要以上の不安に苛まれる姿が現代的だった。情報過多で身動きが取れなくなる状況は出産に限らず、あらゆる場面に通じる普遍性がある。そして、主人公の妹のセリフは何かと重たくなる足取りを軽くしてくれる効果があった。

うん、そうしてみなよ?自分のやってること、みんながみんな、きちんと分かってると思う?

 「骨の暦」では、放浪する母親と専業主婦という対極的存在を配置し、女性の主体性を問う挑戦的な内容だった。子どもを祖母に預け、世界を旅する母親が、専業主婦に対して「家で飼いならされるのは動物だけだよ。動物だって本当は嫌なはず。」と言い放つのは極論すぎる。しかし、その極端さゆえに、バランスが大事であることが伝わってきた。また、周囲と異なることで向けられる視線について、子ども目線の瑞々しい感性で描いており、自分の子どもの頃を思い出した。最後にも乳、血、熱というタイトルに挙がっているワードを回収する語り口が鮮やかだった。

2026年7月1日水曜日

ディス・イズ・アメリカ 「トランプ時代」のポップミュージック

ディス・イズ・アメリカ 「トランプ時代」のポップミュージック/高橋芳朗

 いつもの古本屋でサルベージした。2010年代後半〜2020年初頭という近過去の音楽は最近なかなか接する機会がないので、こうやって書籍を通じて振り返ることができたのは有意義だった。

 副題に「「トランプ時代」のポップミュージック」とあるように、本著は第一次トランプ政権直前〜コロナ禍初期までに登場したアメリカのポップミュージックについて多角的に読み解く1冊となっている。著者がラジオ出演した際に紹介をもとに構成されているので、論点が整理されていて、リーダビリティが高い。アメリカのポップミュージックのメインがヒップホップ、R&Bへ転換していく時代を扱っており、自分の好きなジャンルを深掘りしてくれていてありがたかった。ストリーミングサービスの登場で膨大な量のカタログに簡単にアクセスできるようになった一方で、各作品をじっくり堪能する機会は減ってしまった。しかし、本著のように作品の時代背景を含めて丁寧に紹介してもらえると、改めて聞き直してみたくなるアルバムがいくつもあった。

 その筆頭株がアリアナ・グランデだ。マック・ミラーとのデュエット「The Way」にノックアウトされ、デビューアルバムのCDを買ったことを覚えている。その後は世界的なスターとなり、「ポップシンガー」というイメージを勝手に抱き、新作が出ても何となく流し聞きしているだけだった。しかし、彼女のコンサートで起こったテロ事件や、LGBTQやフェミニズムをめぐる活動など、彼女の背景を知ることで音楽の聞こえ方が大きく変わった。また、彼女のルーツの一つにインディア・アリーがあることを知って、自分が彼女の歌声に惹かれた理由の答え合わせができた気がした。

 もちろん扱われるのはヒップホップやR&Bだけではない。ポップミュージック全体を対象としているからこそ、当時のアメリカ社会を理解する上でも非常に参考になった。なかでも印象的だったのは、テイラー・スウィフトが政治的発言へ踏み込んでいく過程の解説だ。あれほどの国民的アーティストが、自身の政治的スタンスや支持する候補者をSNSで公表するようになった背景には、アメリカ社会の切迫した状況があったことを、本書を読んで初めて実感した。

 日本では少し前に松尾潔のインタビューをめぐり、菊地成孔が怪気炎をあげていたことが記憶に新しい。松尾潔が訴えている内容自体は支持できるものの、まずは自分が関わってきた近しいアーティスト(LDH周りなど)に直接働きかけるところから始めてほしいと感じた。一方でこういった「言わないからダメだ」という踏絵の応酬になってしまうからこそ、インタビューを問題視する菊地成孔の応答も理解できるところがあった。

 第二次トランプ政権はイランとの戦争然り、世界的に大きな悪影響を与えており、対岸の火事ではなくなってしまった。先日見たNetflixのリアリティショー『Queer Eye』のファイナルシーズンもかなりシリアスムードで、今のアメリカのモードが表現されていた。本著を読んでいると、グラミー賞が内紛劇も含めて、時代の空気を表現していることが伝わってきた。今年のBad Bunnyの受賞はトランプ政権の移民政策に対するカウンターだと受け止めることが可能だろう。

 何か問題が起きたとき、沈黙を選ぶことももちろん個人の自由だ。しかし、声を上げた人々の言葉は記録され、記憶され、後の時代へ受け継がれていく。今の社会もまた、そうした先人たちのストラグルの積み重ねの上に成り立っている。本著は、音楽を通してそのことを改めて思い出させてくれたし、自分がおかしいと思ったことには、一市民として声を上げ続けることの大切さを後押ししてくれる1冊だった。