2026年9月25日金曜日

BUTTER

BUTTER/柚木麻子

 毎週のように雨が降り、子どもの習い事へ車で行ってばかりなのだが、少しでも駐車場代を浮かせるために本屋で本を買うようになった。欲しい本を楽天ブックスや独立系書店で狙って買うケースが多い中、いわゆる「街の本屋」で買うことでセレンディピティが生まれている。本著もそんな感じで買って積んであったのだが、著者が責任編集を務めたエトセトラ vol.2を読んだところで積読から引っ張り出して読んだ。読後、内容と連動した、この文庫版を巡る著者の一貫した姿勢にビガップを送りたい気持ちでいっぱいになった。

 もともと新潮社から文庫でリリースされていたが、著者の意向で版元を河出書房へ移行する処置が取られた。文庫版から出版社が変わるケースはよく見かけるが、もともと販売している文庫をわざわざ版元変更するのは異例のことだ。詳しい経緯は著者のインスタポストやニュースを見て欲しいが、自分自身ではなく「仲間が傷ついたから」という理由も含めて、こんなアクションを取れること自体に著者の真摯さが滲み出ている。

 主人公は週刊誌記者の女性。彼女が追いかける事件を軸に、現在の日本における女性の立場を浮かび上がらせる社会派サスペンスだ。実際に起こった木嶋佳苗死刑囚による首都圏連続不審死事件を下敷きにしており、主人公と木嶋を彷彿とさせる被告との拘置所でのやり取りから事件の核心に迫りながら、主人公自身の人生の悲喜交々も描いていく。

 まず、エンタメとして無類に面白い。主人公が被告へ接見を繰り返し、食事、料理そのものに夢中になっていくプロセスはトリッキーながらも説得力をもって迫ってくる。それを支えているのは、著者による料理の「シズル描写」の精度に他ならない。グルメ小説(?)をそこまで読んだことがないので比較はできないのだが「シズル感をここまで言語化できるのか!」という驚きの連続だった。そして、この圧倒的なシズル描写があるからこそ「食べること」で主体性を取り戻していく過程にも納得感が生まれていた。

 私は一人暮らしの頃から自炊の頻度が他人に比べて高い。それはある程度、時間に余裕のある労働環境という背景もあるが、そもそも自らの手で料理することは、人間としての尊厳を担保する行為だと捉えていたからだ。(名著『人間は料理をする』の影響が大きい。)「出されたものをただ食べるのなら、家畜と大して変わらない」というのは最もラディカルな主張だが、主人公が料理に目覚めていくプロセスが、そのまま主体性の獲得の象徴になっていることに納得した。

 男性被害者たちを中心に、男性が自身を料理する(ひいてはセルフケアする)ことを考えず、女性にケアしてもらう前提の歪さをこんな形で小説で表現していることが画期的だ。「おふくろの味」に代表されるように手料理に対して過剰な意味をもたせる一方で、自分で自分のために作る手料理は虚しいものとして扱われる。このダブルスタンダードに以前から違和感を抱いてきたが、それに対する一つのアンサーにもなっていた。

 本著はベースとなった事件を単純になぞっただけではなく、著者なりの解釈がふんだんに込められている。この事件は当時から好奇の目に晒されていた記憶があるが、そうした表面的な理解にとどまらず、日本社会における男女間の置かれた立場の違いを浮き彫りにするための足がかりとしているのだ。たとえば、被告による女神論は、男女差別の妥当性を経済合理性で納得させようとする姿勢と繋がって見える。つまり、労働賃金をはじめとした男性優位社会を前提として「女性は主体性をもつことなく、労働で疲れ切った男性をケアすればいいじゃない?」と。他にも性加害者との歪な共犯関係をめぐるアクロバティックな論理展開もシビれるものがあった。

 帯にもなっているとおり、被告の発言で最も印象的なのは「どうしても許せないものが、二つだけある。マーガリンとフェミニストです」だ。フェミニストが登場して、女性に対する性差別を糾弾するような単純な構造ではなく、各登場人物のシチュエーションから少しずつ日本社会における性差別をあぶり出し、フェミニズムへと接続していく手腕が鮮やかである。フェミニズムを直接取り扱った本も読むのだが、私は男性なので居心地が悪くなる瞬間は正直たくさんある。しかし、本著は小説かつエンタメとして仕立てているからこそ、スッと心に入ってくる。しかも描かれているのは、日常生活のなかでも遭遇しうる状況だ。だからこそ、自分自身を振り返るためのケーススタディにもなる。

 特に主人公の彼氏の無自覚に発揮するルッキズムは響いた。他人の体重の増減について、ことさら厳しい社会において、こうした言動は日常茶飯事だと容易に想像できる。まt、体重ではない別角度でのルッキズムを無自覚に発揮してしまう可能性は誰しも携えている。この点について自覚していくことは皆が生きやすい社会への第一歩になるはずなので意識していきたい。

 「バター」を駆使したアナロジー的描写の数々も見事。もっとも象徴的なのは「ちびくろさんぼ」だろう。差別的作品だとして一斉に絶版された過去をもつ作品を引っ張り出してきて、作品に対する新たな解釈を与え、現代に甦らせるアプローチがかっこいい。それは他人の見方にただ同調するのではなく、己の目線で捉え直すこと。すなわち、本著の大きなテーマの一つである「主体性の獲得」にも直結している。全体がミステリータッチで進むため、絵本についての考察ながら、まるで「ちびくろサンボ」に隠されたミステリーを解いているように映ってオモシロかった。

 ダラダラと書いてきたが、これでも本著の魅力の10分の1くらいしか伝わっていない。図書館で借りて読むのも、古本で買って読むのももちろんいい。ただ、これほど「買うこと」によって連帯を示せる本も、そう多くはないと思う。最高の装丁も含めて、未読の方はぜひ読んでみてほしい。

2026年9月20日日曜日

エトセトラ vol.2 We❤︎田嶋陽子

エトセトラ vol.2 We❤︎田嶋陽子

 マーガレット・アトウッド作品を読んでいて、フェミニズム系の本を読みたくなって、積んであった本著を読んだ。世間的なイメージとは異なる視座から田嶋陽子を捉え直す切り口はどれも興味深く、読了後には、それまで抱いていた田嶋陽子像がすっかり一変していた。

 表紙にあるとおり、小説家の山内マリコと柚木麻子が責任編集を務めた『エトセトラ』の第2号。現在までに15号が刊行されている、日本のフェミニズムを代表する雑誌である。2019年刊行の第2号で田嶋陽子を取り上げるというアプローチは、今振り返っても新鮮だ。

 座談会、書評、インタビュー、漫画、エッセイなど、雑誌らしくさまざまな角度から田嶋陽子という存在を徹底的に見つめ直している。これもひとえに責任編集の2人の田嶋陽子に対する、並並ならぬ愛ゆえであることは読んでいてビシバシ伝わってきた。

 どれも読み応えはあったのだが、山内マリコ、柚木麻子が『そこまでいって委員会』にわざわざ大阪を訪れ、観覧してたことにジャーナリズム魂と本著にかける思いを感じた。また、雑誌の中に載っている漫画は個人的に苦手なのだけども、本著の田嶋陽子の生涯をダイジェストで振り返る漫画はオモシロかった。知らなかった出来事が次から次へと出てきて、そのどれもが強烈。彼女の遍歴が一気に頭に入ったことで、その後のインタビューやエッセイも読みやすくなっていた。

 大阪で育ったアラフォー世代の自分にとって、田嶋陽子といえば『TVタックル』もさることながら、やはり『そこまで言って委員会』の印象が強い。右曲がりのダンディたちが雁首を揃えるなか、一人の女性として、そしてリベラルな価値観を持つ論客として、懸命に異論を提示し続けていた。

 たかじんが存命だった頃は、まだ田嶋陽子の面白いキャラクターを引き出すことで、ギリギリいじめのような構造を回避していたように思う。ところが、たかじんが不在となった後は、露骨に「一人だけおかしなことを主張している人」というフレーミングが施されるようになった。自分自身、幸いにも右曲がりのダンディたちより田嶋陽子のほうがまともなのではないかと思っていたものの、周囲の空気に流され、彼女の発言を笑ったことがないと言えば嘘になる。

 そこから大人になる過程で、フェミニズムに関する書籍を読み、多少なりとも理解のある状態で本著を読むと、いかに私が田嶋陽子の表面的なところしか見ていなかったのか気付かされる。なかでも本著冒頭で柚木麻子が語る田嶋陽子との出会いに関するエッセイで紹介される言葉は、今こそ皆に知ってほしい。

家の鍵が空いていても、家に入ったら、それは泥棒だ。

 未だに性加害を受けた女性側に非があるような意見が跋扈しているが、このラインのシンプルさには、ぐうの音も出ないはずだ。本著のインタビュー内でも「私のための、私が生きるためのフェミニズムであって、フェミニズムが先ではないからね」という金言まで飛び出していた。

 他にも家父長制を明確に奴隷制度と紐づける視座は初めて遭遇するものだった。

日本はまだ奴隷制の部分が残ってる。女は家庭で、男は社会で、って性的役割分業やってたら、女は絶対に自由になれない。自由っていうのが、その人の顔だから。そして、自由と自分で稼ぐってことは人生に直結してる。 結婚とか子育てとか大事だけど、まずそこがキチンとしてないね。

 田嶋陽子という人を、テレビで見ていた「面白いフェミニスト」というキャラクターから、一人の思想家として捉え直す入口として刺激的な一冊だった。『愛という名の支配』も必ず読んでみたい。

2026年9月19日土曜日

誓願

誓願 /マーガレット アトウッド 

 『侍女の物語』に続編があると知って読んだ。数十年後の続編ということもあってか、社会状況や著者自身のスタイルの変化もあいまって、前作とはまったく異なる味わいのエデュテイメントだった。

 1作目の舞台となったギレアデ王国のその後を、前作でも主要人物だったリディア小母による手記、2人の若い女性によるインタビューの3つの視点から物語は展開していく。ここでポイントになるのが、2人の若い女性だ。1人はギレアデに生まれ、その思想に染まり切っている。一方、もう1人はカナダからレジスタンスの一員としてギレアデに潜入していく。

 1作目では、侍女が閉塞した、どうにもならない状況を淡々と語る形式だったため、読みづらさや中だるみを感じたことは否めない。それに比べると、本著は格段に抜けがあり、物語のテンポもいい。それは複数の視点が入れ替わりながら、さまざまな角度から物語を転がしている構成の影響が多い聞い。また、ラストにかけて、三者の物語がしっかりと交錯していくことで、物語のカタルシスも生まれている。前半は『侍女の物語』の世界を改めて噛み締めていくディストピアSFの側面が強いが、後半にかけては怒涛の展開で、エンタメ小説として抜群の面白さを発揮しており、ページターナーだった。

 手記とインタビューという構成も興味深い。手記だからこそ過去から現在に至るまでのギレアデの全貌を体系的に理解できる。一方、インタビューでは、回答者それぞれのトーンの違いがオモシロい。おしとやか少女とおてんば少女の対比なのだが、終盤にかけて2人の距離が徐々に接近していく仕掛け方が見事だった。

 やはり本著で一番好きなパートはリディア小母の手記である。彼女が小母になるまで払った犠牲や、国家の中で権力を握るために繰り広げる情報戦はスリリングだった。自分が追い込まれたときに、自らを偽ってでも従順になり生き延びていくのか。それとも、死を賭してまで自らの思想を優先するのか。そんな究極の問いを乗り越えた人間だからこそできる、割り切った処世術は見どころ盛りだくさん。この手記自体が人間としての業を精算していくような側面があり、長い時間をかけて積み重ねてきたものを振り返るなかで、結局、人は収まるところに収まるのかもしれないと思わされた。

 本著は2019年に原著がリリースされたようで、欧米ではBREXITやトランプの大統領就任など、政治的に分断が進んだ季節である。現実が厳しい状況だからこそ、物語内では排他的思想を打破していく理想主義が描かれていると感じた。

 なので、終盤の鮮やかな展開は、ギレアデの悪魔の所業を読んだ後だとやや出来過ぎのように感じなくもない。とはいえ、ここまで救いのない物語を読んだ後だからこそ、これくらいのカタルシスが必要だったのだろうとも思う。

 『侍女の物語』を読んでから手に取ったほうが、その世界の奥行きをより味わえる。ディストピアSFでありながら、後半はぐいぐい読ませるエンタメ性をもった素晴らしいファック家父長制小説だった。

2026年9月14日月曜日

Go Aheadz FurureZ


 日本と韓国のヒップホップの融合を志す『Go Aheadz』が、今回はJUSTHISを日本に招聘してくれたので見に行ってきた。私が韓国ヒップホップにのめり込むきっかけはSMTM9が大きいのだが、そこで知ったJUSTHISは最も衝撃を受けたラッパーである。彼のことを知らない人は、まずこのYouTubeを見てもらいたい。

 この圧倒的なラップスキルはアメリカを含めても、ヒップホップという音楽の中でも間違いなくトップ・オブ・トップと言える。画面越しでもライブが素晴らしいことは重々わかっていたが、その桁外れのラップ力は生で見ると感動もひとしお。生涯忘れられないライブの一つになった。

 最新アルバム『LIT』のタイトル曲で登場したJUSTHIS。口から音源そのままのラップが飛び出してくることに心底驚いた。これまで色んなラッパーのライブを見てきたが、段違いのレベルだ。そのラップマスターっぷりを、ステージングからヒシヒシと感じた。ライブは『LIT』、『2 MANY HOMES 4 1 KID』、ヒットソング&客演パートという3つのパートで構成されいた。

 音像的には、最新の彼のスタイルを思う存分堪能できる『LIT』の曲たちがかっこよかった。特に「Gimmie」は彼のオーセンティックなラップのスタイルと、シンギングスタイルの両方を堪能できるアルバム内でもお気に入りの曲。生で聞くことができて嬉しかった。欲をいえば、Hit-Boy作の「Wrap It Up」が聞けなかったことが残念ではあった。
今回の公演の見所としては『2 MANY HOMES 4 1 KID』パートだろう。リリースから10周年を迎え、韓国では生バンドによる記念ライブも予定されているらしい。そんなタイミングもあいまって、「Motherfucker」のイントロが流れた瞬間にぶち上がり。Edie Kendricks「Intimate friends」使いの極メロウなビートの上で歌い、スピットするJUSTHISを見ていると「本当に来て良かった…!」という思いが去来した。他にも同作からは「Motherfucker 2」「Nowon」なども披露された。

 トラップというよりオーセンティックな曲が多く、ライブのスタイルもコール&レスポンス多めのオールドスクールマナーが印象的だった。ウータンのキャップをかぶってフットボールシャツを着たバックDJは「Motherfucker 2」でスクラッチもかましていた。こうしたスタイルでJUSTHISがライブをしていることに、ヒップホップカルチャーへのロイヤリティを感じた。

 驚いたのは曲間のMCがほぼ日本語だったこと。英語が流暢なことは楽曲やYouTubeのドキュメンタリーから理解していたものの、日本語がこんなにしゃべれることに驚愕…ラップというより言語の達人なのかもしれない。そんな彼から見た日本に関するMCの内容も興味深かった。ゼロカフェインのコーラに感動したというミクロな話から、ライブの音響のクリアさに驚いたという話まで、彼ならではのパースペクティブは逐一面白い。「Nowon」を披露する前には、『風の谷のナウシカ』が自分を表現、アーティストの道に導いたというエピソードまで繰り出されて、彼との繋がりを感じて嬉しい気持ちになった日本のファンは私だけではないはず。

 最後は盛り上げパートとして自身のアルバム外からヒット曲やクラシックを投下。YUMDDAとの「John Cena」、直近のSMTM12でのゲスト参加したZene the zillla「Mr.ROCKLEE」で盛り上げにかかり、ラストは「Indigo」「Gone」で大団円。両方とも大好きな曲だが、特に「Indigo」は韓国ヒップホップを好きになってから繰り返し聞いてきた曲だったので感無量だった。これが最後になることなく、もっとカジュアルに来日して定期的にライブを見せて欲しい。

 とここまでJUSTHISのことを熱っぽく語ってきたが、この日は日本のラッパーも出演しており、普段なかなか見ることのできないロングセットのライブを楽しめたのもよかった。

 トップバッターはSonsi。RAPSTAR2025で見つかった原石が、もうこのレベルのステージに立っていることは驚くべきことである。ライブは今年リリースされたアルバム『ニセモノ』とRAPSTARの曲で構成されており、大いに盛り上がっていた。

とはいえキャリア初期でまだライブ慣れしてないステージングだったことは否めない。この百戦錬磨のメンツに並べられること自体、かわいそうではある。ただ驚いたのは、ガイドボーカルなしでラップしていたこと。「BBA Spice」でそのことに気づいたのだが、若いうちから場数をこなし、鍛錬していこうという意思を感じた。


 続いてはBenjazzy。解散後、アクティブにリリースを重ねる彼ならではのラップ圧力満タンのステージングはかっこよかった。「NOFFSEASON」でド派手にかましたあと、まさかの「Cyberpunk」でぶち上がり。2年前に同じZepp HanedaでJJJのみの「Cyberpunk」を聞いたので、個人的には感慨深いものがあった。さらにBAD HOP時代の曲である「Shoot My Shot」も投下されて驚いた。最近若干ドリルは下火になりつつあるが、Benjazyyのドリル曲のライブでの破壊力は並外れたものがある。どこかでまたドリルがリバイバルするはずなので、そのタイミングでドリルに特化した作品は是非聞かせて欲しい。

 Bonberoとの最新コラボアルバムから「R2R」、その大元である「B2B」、「Fashion Week」の2ステップメドレーはDJ MIXのような構成で素晴らしかった。これまでの作品の流れがわかりつつ、やっぱりこの手の曲はストリーミングじゃなくて、ライブで全身で聞くことに意味があることを再認識した。

 ほぼMC無しでひたすらラップしていたので、数少ないMCのシーンはいずれも印象的だった。一つはヤングガンに向けた「夢あきらめんな」という熱いメッセージ、もう一つはJUSTHISを意識した曲振り。後者はこの日の出演者の中で唯一JUSTHISに触れた場面で、「今日は韓国からヤバいラッパーがきてるんで、俺も負けてられないから、3分でわからせます」と言って披露された「3MINITS」がバチバチにキマっていてかっこよかった。Benjazzyは誰もやっていないラップの変態領域(褒め言葉)に音源の中でトライしているからこそ、ライブでは追いついていない場面がたまにあるが、この曲は有言実行していて誇らしかった。

 JUSTHISを挟んでのTiji Jojoはとにかくその人気に驚いた。キャッチーなメロディと一言一句聞き取れるラップ巧者っぷりはステージでも健在。ハイプマンとしてサイドMCをつけていたのは意外で、メロウなTiji Jojoだけだと不足しがちなラウドさをフォローしていて理にはかなっていた。少し涼しくなってきたものの、サマーソングパートのメロウネスはたまらないものがあった。特にSTUTS & ZOT on the WAVEによる「Perfect Blue」が聞けてアガった。

 個人的には今年リリースされた『LONG LIVE LOUD』が好きで「Do It Right Now」「Talk To Me」あたりのアンセム曲は大きな会場に映えしていたし、ロングセットだからこそしっとりめの「Misfit」「Nightmare」も披露されて、ライブで見ることができてよかった。

 が、一番嬉しかったのは「White T-Shirt」を聞けたことだった。この曲も10周年で、時の流れが信じられない。BAD HOPの曲の中でも等身大なリリックがお気に入りで、まさか2026年の今、聞けるとは思いもしなかった。ただ、もうBAD HOPのファンも代替わりしていて、その後に披露されていた「White T-Shirt 2」の方が盛り上がっていて加齢を感じる。そして2曲続けて聞いたことで、同じトラップでも10年かけてハイハットの量など含めてグルーヴの質が大きく変わっていることにも気づかされたのだった。

 今回はJUSTHISを招聘してくれただけで本当にありがたかった。ただ、正直ブッキングの意図を汲み取るのは難しいラインナップであり、実際お客さんもそこまで多く入っていなかった。フェスが乱立する中で、単純に人気のあるラッパーを並べるだけではお客さんも集まりづらい状況になっている。だからこそ、もう少しコンテキストが見えるようなラインナップにしてこそ、本当の意味で日本と韓国のヒップホップが融合していくのではないだろうか。たとえば、Sonsiで集客したい気持ちは理解できるが、この日同じく若手のラッパーで呼ぶとすれば、間違いなくFisongだろう。

 とはいえ、日本で韓国ヒップホップがK-POP的な受け止められ方をするなかで、こうしたイベントがあるからこそ、ヒップホップをカルチャーとして捉えたときの奥行きを伝えることができるはず。日本と韓国、それぞれのヒップホップが持つ文脈を接続しながら、こうした試みが末長く続いていってほしい。

2026年9月11日金曜日

傷のあわい

傷のあわい/宮地尚子

 『傷を愛せるか』がオモシロかったので積んでおいたのだが、『侍女の物語』で物語疲れしたのでリフレッシュしたくなって読んでみた。社会学のエスノグラフィー的な手法で描かれた多様な人生のあり方が興味深かった。

 著者がアメリカへ留学した際、研究の一環でインタビューした在米日本人たちのエピソードと、自身の周辺にいる人々との交友関係をめぐるエピソードの二軸で構成されている。社会学のエスノグラフィーの手法を駆使しつつ、1990年代後半の在米日本人たちの一概にオモシロいとはいえない人生の断片の数々や、著者の周辺にいる人々の人生を読んでいるうちに、さまざまな思いが去来した。

 冒頭で、研究対象となった人々のプライベートを守るため、細部にかなりの変更、脚色を加え、複数の人間像を合成していると宣言されている。これは当然必要な配慮であり、著者の真摯な姿勢の表れとも言えるのだけども、複雑な気持ちになった。著者が抱いた感情はリアルだとは思いながらも、ある主張や感情を描くために用意された登場人物なのではないか、いわば「マッチポンプ」なのではないかという疑念が頭をかすめる瞬間もゼロではない。エッセイ以上小説未満的な、それこそ「あわい」のような創作物なのかもしれない。とはいえ読んでいるあいだは、フィクションというよりエッセイとして受け止めていた。

 「在米日本人」と一言で括っても、自らの意思でアメリカへ渡った人もいれば、周囲の環境の変化によって、望むと望まざるとにかかわらずアメリカで暮らすことになった人もいる。そのグラデーションのなかにある、趣深い人生のエピソードがどれも興味深い。

 特に日本社会に息苦しさを感じ、アメリカという異なる環境に身を置き、自らを変えようとする人々の話は苦しい気持ちになった。それは自分自身、日本の就活で求められる独特のノリに辟易して、ヨーロッパで博士課程を取得することを模索していた経験があるから。今振り返れば、目の前の現実から逃げようとしていただけのように思う。けれど、当時の自分は社会人として生きていく欺瞞に耐えられなかった。結局、ビビって就職したのだけども、逃避するように渡米した若者の話である「二〇歳の人生落伍者」を読むと、そうやって一時的に寄り道する人生も悪くなかったのかもしれないと思ったり。無いものねだりではあるのだが…

 当時はまだインターネットが今ほど身近ではなかったため、アメリカで感じる孤独にまつわるエピソードの数々は時代性を感じるものだった。特にパートナーの都合でアメリカで暮らすことになり、英語もろくに話せない中で孤独を深めていくエピソードは、その閉塞感を想像すると辛い。SNSはインプレッション重視になった結果、その負の側面が語られる場面が増えている。しかし、何かに悩んでいるときに「一人じゃない」という連帯感を得て、救われる可能性を提供している側面もあるはずだと改めて感じた。

 本著を読んだ誰もが強烈な印象を抱くのは、2つの章にわたって描かれる「PTSD」だろう。今ではPTSDという言葉は一般的だが、当時は精神科医による専門用語の域を出なかった。そんな時代にPTSDを発症した患者として描かれるのが、アメリカでショットガンで撃たれた男性である。自己責任論が跋扈する現在にも通じるものがあるが、今ほどではなかったにせよ、撃たれた側の男性が罪の意識に苦しんでいるという話は、読んでいて辛かった。

 また「パレスチナ」の話も印象的だった。差別意識にまつわるエッセイで、これほど優れたものはなかなか読めない。日常生活のなかで起こる些細なエピソードから、自身の意識、さらには実際の現場へと描写を広げながら、いつの間にか読み手自身の差別意識まであぶり出していく。その筆致が見事だった。

 藤本和子の一連の作品と並べて読みと、アメリカで生きる人たちのリアリティがより立体的に浮かび上がってくると思うので、未読の『塩を食う女たち』を読みたくなった。

2026年9月9日水曜日

侍女の物語

侍女の物語/マーガレット・アトウッド

 随分前に早川のセールで積んでおいたのだが、あまりにもクラシックすぎてなかなか読む気が起こらなかった。先日読んだ『未来』のあとがきで、ナオミ・オルダーマンの師匠として名前が挙げられていたので、これは読むしかないと意を決して読んだ。80年代にリリースされた作品ではあるものの、今の時代にも十分通ずる普遍性を持っていて興味深かった。

 本著は、オブフレッドという女性が主人公。出生率が低下した社会で「産む機械」として抑圧されながらも、過去を反芻しながら自分の人生を生きようとするディストピアSF。随分前にHuluでドラマ版をS2くらいまで見ていたこともあり、その記憶を補完しながら読むことができた。

 映像版は比較的整理されていた一方で、原作である本著は過去と現在を何度も行き来するため、読みづらさがある。しかも、それは明確な意図があって構成されているというより、うつろう意識をそのままなぞっているようで、人の頭の中を直接読んでいるような感覚がある。そして、最後まで読むと、この構成そのもにギミックがあることが明らかになり納得した。

 上級国民の家に侍女として仕え、出産することだけを求められる。こう書くだけでも十分グロテスクだが、設定のディテールが細かいぶん、そのエグさはマシマシ。特に性行為と出産における侍女と妻のポジション配置がきつかった…「そういうテイ」という、見た目だけ取り繕って中身は空っぽという状況は、日本社会でもよく見かけるからこそ余計に刺さるものがあった。

「あの頃は良かったな、戻りたいな」と回想するシーンが何度も訪れる。その一方で物語が進むに連れて、彼女や家族の身に何が起こったのか、そしてこのディストピアがどのように形成されたのか明らかになっていく。そうした背景がクリフハンガーとなり、辛い状況が続くにも関わらず、ページをめくる手が止まらないようになっていた。断片的な情報をパズルのように組み合わせて、その世界について想像を巡らせる。そんな小説を読む醍醐味が詰まっている作品だと思う。

 男女の非対称性がこれでもかと描かれているが、オブフレッドの財産が没収されてしまった際の、夫ルークの反応が最も印象的だった。男尊女卑丸出しのディストピアに突入する寸前の出来事なのだが、そこで見せるルークの非当事者的な態度には、身に覚えがないといえば嘘になる。ディストピアの中で男尊女卑がわかりやすく展開されること以上に、味方である夫でさえ妻の気持ちを理解できていない状況の方がはるかに辛いように思えた。

 前半はオブフレッドの回想も比較的多く、体制に対する不満や怒りが多く見られるのだが、後半にかけては徐々に諦念が支配的となり、自暴自棄な態度が目につくようになる。ここにもリアルさがあり、社会運動を続けていても明確なゴールが見えず、いつしか大志を失ってしまう。権力者たちは支配される側に無力感を抱かせたいわけでそれが機能していると言える。そんな葛藤が以下のようなラインに表れていた。

どんな状態でもいいから生きつづけたい。肉体なら気前良く他人に使わせよう。彼らに好きなようにさせていい。わたしは情けない女だ。わたしは初めて彼らの本当の権力を感じる。

わたしは恥知らずな女になりたい。不謹慎な女になりたい。無知になりたい。そうすれば、自分がいかに無知であるかに対しても無知でいられるだろうから。

 2020年にリリースされた「誓願」が続編らしいので、早々に読みたい。

2026年9月4日金曜日

ディラ・タイム あたらしいリズムを創ったヒップホップ・プロデューサー

 

ディラ・タイム あたらしいリズムを創ったヒップホップ・プロデューサー/ダン・チャーナス

 夏はぶっとい本を読む。そんなSummer Readingにとっておきの一冊ということで楽しみにしていたのが本著だった。原著がリリースされた当時、美しい装丁に惹かれて「原著で読むか…?」と思ったことを記憶しているが、このたび翻訳されてリリースされた。本当に訳してくれて感謝!と大声で言いたいほどのオモシロさで、これまで読んだヒップホップ関連書籍の中でも特別な一冊になった。

 デトロイト出身のヒップホッププロデューサーであるJ・ディラについて、彼のサウンドの背景を丹念な取材によって描き出した一冊。タイトルや帯にあるとおり、彼が果たしたリズム面での革新を深掘りしながら、プロデューサーとして歩んできた足跡をほぼすべて記録しているような、J・ディラ本の決定版といって過言ではない。それを可能にしているのが、評伝としての側面と、彼のサウンドの楽理的に解説する側面、この2つを兼ね備えているからである。

 まずは前者だが、これが無類にオモシロい。彼がデトロイトで生まれ育ち、いかにしてヒップホッププロデューサーとして頭角を現していったのか。音楽的背景だけではなく、人間としての成長も含めて描かれているので、評伝としての仕上がりが抜群である。90年代〜00年代のUSヒップホップにおける逸話の数々は、いつ聞いても楽しいものだが、本著はそれらの詰め合わせ。読み進めているあいだ、宝石箱をずっとディグしているような感覚だった。

 それは単純にディスコグラフィーを追いかけるだけでは見えてこない、J・ディラ周辺の交友関係が浮き彫りになっているからだ。スラム・ヴィレッジ、ジ・ウマー、ソウルエクリアンズ、ジェイリブといった彼の所属したユニットの数々に加え、地元デトロイトのプルーフ、エミネムや、近しい存在だったアンプ・フィドラー、カリーム・レギンス、ドゥウェレなども登場する。壮大な大河ドラマを見ているような読書体験は唯一無二だった。本著に登場するほぼすべてのアーティストに夢中だった自分にとって「このタイミングで、この人物と、こんなことがあったのか〜」という展開の連続でとにかく最高だった。

 また、プロデューサーとしてではなく、J・ディラという人間そのものにフォーカスしている点も印象的だ。亡くなったことでスーパープロデューサーとして神格化されてきたが、改めてハードなリリックや実際の奔放な生活について知ると、あの天才的プロダクションの背景には、こんなにも人間臭い出来事が山積みだったのかと驚かされる。彼自身だけではなく、家族についても相当なページ数を割いており、妻とマ・デュークスこと母親の間の冷え切った関係から、彼の遺産をめぐる泥沼ともいえる争いまで書き切っている。美談に仕立て上げることなく描く、ジャーナリスティックな筆致に唸った。

 亡くなったあとにリリースされる作品を聞くたびに「J・ディラはこのリリースを望んでいたのだろうか…」と毎回遠い目になってしまうのだが、本著を読むとその距離感の取り方がわかるようになる。「ディラ・インダストリアル・コンプレクス」とは言い得て妙だ。モヤモヤしている人こそ、実際に何があったのか知ると腹落ちしやすくなるだろう。個人的にはストーンズ・スロウのイーゴンが最も損得勘定なしで動いていて感動した。

 そして、後者のサウンド面に関する解説も、当然興味深い話の連続である。彼が生み出した、クオンタイズされていない、つんのめったようなリズムは、今や日本のポップスにもみられるようなごくごく普遍的なアプローチとなっている。しかし、それがいかに音楽史に残るような大発明だったのかを、体系的に理解できるようになっている。

 特にクオンタイズ機能を使わずに手打ちにしたことでグルーヴを生み出したという誤解はこれだけ広まっているからこそ本著で正されていることには大きな意味がある。彼はミュージシャンでありながら、プログラマーであったということを著者は強調しており、表面的になぞってもわからないサウンドの奥行きや、時間に対す流彼の感覚について独自の図も駆使しながら、楽理的な内容をわかりやすく解説してくれているので、これまで聞いてきた音の解像度が一段上がった。

 著者のアナロジー的描写の数々にもうならされる。特に冒頭でのデトロイトの街の構造や、映画『マトリックス』まで及ぶ「グリッド」に関する描写は見事だし、7インチシングルやドーナツの前振りが終盤で伏線回収していくように、文章の構成も巧み。だからこそ、これだけのページ数にも関わらず、飽きずに読むことができた。評伝と音楽的解説をまだらに配置している点も、彼の来歴とサウンド、機材の進化に焦点を合わせやすい親切設計になっていて助かった。

 J・ディラが残したレガシーが、どのように現在に引き継がれているかについても丁寧に描かれており、単純な懐古にとどまっていない。ロバート・グラスパー、テラス・マーティン、フライング・ロータスなど直系で影響を受けていた面々はもちろんのこと、ハイエイタス・カイヨーテを取り上げている点がフレッシュだった。それはブラックミュージックとしてのレガシーにとどまらず、J・ディラが成し遂げたことが場所も時代も超越していった事実を、彼らの音楽的な背景を紹介することで端的に示しているのだった。

 これだけJ・ディラについての情報をインプットされると、自分とJ・ディラの関係がどうだったか、それを振り返る機会にもなった。私が聞き始めたきっかけは、Rhymesterのラジオ番組『WANTED』のDJ JINのミックスによる影響である。毎週、20分ほどのミックスが披露されていた中で、当時WajeedによるPPPや、Sa-Ra Creative Partnersがヘビロテされており、これらに夢中になったのだった。そして、彼らのサウンドの背景にいるのはJ・ディラだと知るまでそう時間はかからなかった。

 番組放送時期にJ・ディラは亡くなっており、そのタイミングで流れたDJ JINによるトリビュートミックスがデータで残っていた。久しぶりに聞いてみると、当時のDJ JINによるコンテキストを踏まえた選曲にグッときた。プレイリストはこんな感じ。

  1. Welcome 2 Detroit - Jay Dee
  2. Runnin' - The Pharcyde
  3. Let’s Ride - Q Tip
  4. Waltz of a Ghetto Fly - Amp Fiddler
  5. Dollar - Steve Spacek
  6. The Look of Love - Slum Village
  7. Get This Money - Slum Village
  8. Shotgun (Featuring Jay Dee) - PPP
  9. Heat - Common

 Amp Filddlerを入れているあたりにシビれるし、本著でも比較的フォーカスされているSteve Spacek「Dollar」は、この番組で幾度となく流れた、私も大好きなディラワークスの一つである。

 当時は大阪に住んでいて、スーパークロイ、ROOTDOWNという二大ヒップホップパーティーに足繁く通っていた。前者はヒップホップとしてのドープな側面を探求していて、スラム・ヴィレッジの来日公演を開催していた。後者では、DJ JINに通ずるデトロイトにおける音楽のクロスオーバー性にフォーカスしていた。同名のレコードショップは、DJ Dezとレコードもリリースしている。Wajeedがソロで来阪していたこともあり、大阪にこれだけデトロイトの音楽が馴染んでいたことに思いを馳せた。(タイガースの本拠地という共通点!)

 CDやレコードはかなり処分してきたのだが、J・ディラ周りの音楽は自分のベースになっているので、どうしても処分できず、今も手元に残っている。それらをCDやレコードで聞いていると、本著を読んだおかげか、以前とは異なる解像度で音が鳴り響き、とても新鮮なリスニング体験となっている。

 J・ディラの音楽に一度でもやられた人なら、間違いなく楽しめる。評伝としても、音楽書としても、そして一人の人間についての記録としても、これほど濃密な本はなかなかない。まさに一家に一冊の必読本!