2026年2月13日金曜日

父親が子どもとがっつり遊べる時期はそう何年もない。

父親が子どもとがっつり遊べる時期はそう何年もない。/布施太朗

 大阪帰省の際、blackbird booksで見かけてタイトル買いした一冊。タイトルに掲げられた事実を踏まえ、自分はどう振る舞うべきかを考えさせられる内容だった。

 著者は三児の父。関西出身で神奈川郊外の海辺に住み、都内でサラリーマンとして働いている。そんなペルソナの父親が、育児とどう関わっているかが記録されている。遊ぶ時間が短いとわかっていればこそ、日々の関わりは本来尊いもののはずだが、その瞬間にはなかなか実感できない。その前提を踏まえた著者なりの育児奮闘記であり、ノウハウ本というより「こんなことしてます」という日記的なものなのでグイグイ読めた。

 自分の今の状況とは子どもの人数や就労状況などが異なるので、単純に重ね合わせることはできないけれども、著者が子どもと一緒に何かをすることに重きを置き、それに全力で応える子どもたちの元気いっぱいな姿が目微笑ましい。

 本著で繰り返し唱えていることは、子どもと遊ぶときの「準備」の大切さだ。ただでさえ子どもは色んなことでまごついてしまう。だからこそ、大人サイドの準備不足による時間浪費を最小化して、いかにスムーズに導入し、楽しくできるか。時間があると、つい自分のことに時間を使ってしまいがちだが、子どものいないところで子どもを思って事前に行動しておく必要性を感じた。

 読み応えが最もあったのは、子ども二人を連れての四万十川を川下りするパートだった。新宿から夜行バスで高知へ向かい、河原でキャンプをしながら数日かけて川を下る。その冒険譚はどこか椎名誠的だと思っていたら、実際に本人が帯を書いていて腑に落ちた。著者のような行動力はなく、無類のインドア派で行動に移せないことが多いので見習いたい。

 本著は2016年の刊行であり、この十年で父親の育児参加を取り巻く状況は大きく変化した。育児休業の実質的な義務化もあいまってコミットする男性は確実に増えている。当時はまだ父親の育児参加が珍しかったこともあってか、「父親」であることを強調する構成は今読むと違和感を感じた。(著者が一人称を「オトン」としていることも、違和感を助長している気がした。)つまり、父と子どもの時間が中心で「家庭の育児」という全体像が見えづらいのだ。育児にコミットしていることは伝わるのだが「非日常はオトン、日常はオカン」という性別役割分担に映るのだった。

 当然、男性サイドが育児に参加していなかった状況なので、それを打破するためには男性に育児に対して目を向けさせる必要がある。その認識を基にして、ウェブサイトを作ったり、そこでの連載が本著という形で本になったり、他にも巻末で紹介されているような施策を事業として企画している。そういった草の根の活動があってこそ今があるのは間違いない。

 一方で男性が育児を語ることの難しさは、自分が育児のZINEを作って初めて認識したことだった。「男性」という属性が付与されるだけで、もともと女性が日常的に担ってきたことが特別視されてしまう。ある種、下駄を履かされている状態である。自分では、そのあたりのドヤ感が出ないように配慮したつもりでも、本というスタティックな情報になると、そのニュアンスが出てしまう。「育児本」と一言で圧縮してしまうと、こぼれ落ちてしまう話でバランスを取ったつもりだったが、機能しないこともあるのが現状で、結果的にイクメン文脈に回収されてしまう状況について、本著を読んで改めて考えさせられた。

2026年2月11日水曜日

なぜ書くのか パレスチナ、セネガル、南部を歩く

なぜ書くのか パレスチナ、セネガル、南部を歩く/タナハシ・コーツ

 タナハシ・コーツの新作でこのタイトルとなれば読まざるを得ないと思って読んだ。『世界と僕のあいだに』で好きになって、そのあと小説『ウォーターダンサー』を読んだが、アフリカ系アメリカンの立場からアメリカの過去から現在をリリカルに描き出す書き手だという印象を持っている。本著も紀行文の形式でありながら、彼自身の思考をユニークな表現で提示してくれている一冊だった。

 第1章ではタイトルどおり「書くこと」に関する論考が展開されるが、それ以降はセネガル、パレスチナ、アメリカ南部を訪れ、自身の目で見て、耳で聴いて得た知見を基に、彼ならではのパースペクティブで現状を分析している。インターネットのおかげで、なんでもわかったような気にはなっていても実際に訪問して見える景色は別物だと痛感させられる。上記の訪問場所は、時間的、精神的にもコストを伴うものであり、コーツほどの筆力であれば行かずとも素晴らしい文章を書けるだろうが、きちんと取材して自分の中で腹落ちしたものがアウトプットとして出てきている書きっぷりに彼の真髄を見た。

 邦題は「書くこと」に寄せているが、著者が最初に提示するのは読む必要性である。試合中の不慮の事故で四肢麻痺となったアメフトのワイドレシーバーの話や、シェイクスピアとラキムへの言及を通して、読むことの意味とナラティブの力が語られる。独自の視点でツカミはバッチリだ。

 第二章は初めて訪れるアフリカの地・セネガルの旅行記であり、同時にアフリカ論でもある。ワンドロップルールの不条理さをアフリカの視点で、おもしろおかしく描いているところにウィットを感じる。さらにトニ・モリスン『青い目が欲しい』を引用しながら、外見と人種の問題へと接続していく。アフリカを訪れた経験によって西洋的価値観が相対化され、「西洋の枠組みの外側にもカルチャーがある」という主張は、自分の好きなヒップホップやR&Bの在り方を考えさせるものだった。

私たち自身の人生や文化ー音楽、ダンス、書くことーはすべてこの「文明」の壁の外側という不条理な空間で形作られてきた。これが私たちの団結した力となる。

 ちょうど選挙のタイミングで読んでいたこともあり、サウス・カロライナ州を訪れて教育委員会の会議に参加する第三章が一番グッときた。著作である『世界と僕のあいだに』が禁書になりそうという話を聞きつけて、現場に自ら足を運ぶ。そこでは賛成派、反対派による派手な衝突が起こるわけではないのだが、禁書に反対する市民がその場で意思表示を行い、誤った判断が是正されていく。そんな当たり前とも言える場面が印象に残った。こういった市民活動の成功体験が政治との距離を縮め、市民の連帯が民主主義を支えているのだと感じた。今の日本に必要なことはこうした生身の横の連帯なのではないか。必要以上に個別化が進み、接触頻度の高いSNSの情報に振り回される現状が、本著を読むと空虚に映った。

 そして、もっともページ数を割いているのが、パレスチナ訪問に関する4章である。今に至るまで続く紛争以前のパレスチナの日常や社会の空気といったリアルな実情を手記で読めることが貴重である。外形的な情報はネットや専門書で得ることができるかもしれないが、パーソナルな視点と論考を行き来する構成だからこそ地に足がついている印象を持った。

 著者ならではの視点といえば、アメリカにおけるアフリカ系アメリカンと、イスラエルにおけるパレスチナ人の立場の比較であろう。人種差別の被害者であった歴史を持つユダヤ人が、パレスチナ人に対して加害者として振る舞っている現実に驚いた。真綿で首を締めるようなイスラエルからパレスチナ人に対する迫害の状況に読んでいて苦しい。さらにアメリカとイスラエルの複雑な関係性が、アフリカ系アメリカンである著者がパレスチナを訪れる過程のなかで徐々に立ち現れる。読者は著者に伴走するように未知の過酷な現実を知っていくことになりスリリングだった。

 著者は過去と現在を接続して自分のリアルな手触りを語り下ろしていく手腕が本当に見事だなと今回も感じた。調査能力もありながら、その結果を噛み砕き、さらには自分の経験もスムーズに混ぜ込んでいく、エッセイ以上論文未満のこの塩梅が、個人的にはとても心地よい。このブログや日本語ラップのnoteも著者のようなスタイルでやっていきたい。

書くこと、書き直してゆくことは、たんに真実を伝えるだけでなく、真実がもたらす恍惚をも伝えようとする営みなのだ。私にとっては、読者に私の主張を納得させるだけでは十分ではない。私が一人で感じているあの特別な歓びをともに感じてほしいのだ。世のなかで、誰かがその歓びの一部でも共有したと聞くことは嬉しいものだ。

2026年2月6日金曜日

フェミニズム入門

フェミニズム入門/大越愛子

 ずっと読もうと思っていた中で友人からレコメンドしてもらって、ついに読んだ。今読むと新書とは到底思えないほど専門的内容が詰まっており、フェミニズムの学問的側面を知る上で興味深い一冊だった。

 フェミニズム研究者である著者によるタイトルどおりの入門書。初版は1996年で、ちょうど30年前の本になる。正直、本著を読むまでは「フェミニズム」と聞いても「女性が奪われてきた権利を奪還していくための思想体系」くらいの印象しか持っていなかった。しかし、実際にはフェミニズムと一言にいっても多様な立場が存在する。思想体系という横の広がりと、歴史という縦の深さ、両方をカバーしてくれているので、2000年直前までのフェミニズムの全体像とグラデーションを把握することが可能となっている。

 冒頭、<女性に関することなら何でもフェミニズムであると誤解しているお気楽な輩>とあり、いきなり首根っこを掴まれたような気持ちになった。第一章は当時のフェミニズムの立脚点を宣言するような文章であり、未来への期待も感じさせる。

 本著を読んで最初に驚いたのは、第二章で紹介されているフェミニズムの多様さである。9つもの潮流が紹介されており、これらをすべて一括りに考えてしまうから、理解が進まないのかもしれない。個人的には「精神分析派フェミニズム」における、ナンシー・チョドロウの主張が印象的だった。性的役割分業が従来から変わらず、母親のみが育児を担うという性的役割分業がジェンダー差異を生み、性別意識を再生産するという指摘は、男性の育児参加がフェミニズムと接続していることを示している。男性として育児ZINEまで作った身としては驚いたのだった。

チョドロウは、このようなプロセスで形成される心理的性差は、性別役割分業体制の産物であるから、分業の解体、特に「初期の親業を男女で分かち合う」ことが、男女間の情緒の非対称性を変えていくことになると示唆している。彼女の理論は、性別役割分業の改変が、男女の外的存在形態のみならず、心理的存在形態も変革せしめるという、実践的な問題提起を行っていて、大きな影響力をもっている。

 日本におけるフェミニズムの歴史を深堀りしてくれている点も勉強になった。平塚らいてうなんて、学生の頃の教科書で見た歴史上の人物の一人でしかなかったが、本著を読むと彼女の来歴や思想を具体的に知ることができて興味深かった。母性主義を掲げているがゆえに近代天皇制の家族主義に取り込まれ、フェミニズムが弱体化していく流れは全く知らず、国ごとの社会背景によってフェミニズムの様相が大きく異なることを知った。

 そのあと、戦後のフェミニズムへと流れていくのだが、日本のフェミニズムが他責ではなく自責に向かってしまったという見立ても興味深い。新左翼の影響を受け、自己否定や自己批判を基に、女性自身の内面分析へと向かっていく。外部の制度的抑圧が問題であるにもかかわらず、社会制度を批判するのではなく、自身の内部に解決を求める姿勢は、どこか日本的にも思える。

 日本のフェミニズムといえば上野千鶴子が頭に思い浮かぶが、本著では彼女の功罪を冷静に分析している。フェミニズムを女性の問題から家族の問題へと転換し、性別役割分担という男女関係の問題として提示したことで大衆化に成功した一方、女性の搾取構造そのものが見えにくくなったという指摘は新鮮だった。こうした学問的対立の存在を知れたことも収穫であり、上野自身の議論も読んでみたいと思わされた。このように興味の射程を広げてくれる点で、本著は確かに入門書として機能している。

 最後の章では家父長制、ジェンダー、性暴力といったテーマがフェミニズムの理論的解釈と共に紹介されている。このパートが一番興味深かった。当然、フェミニズムの実践となれば、具体的な行動がなければ現実は変わらない。それゆえ、具体的な事象について取り上げる場面を多く見るが、その事象の背景にどういった学問的理論があるか。それを知っているか、知らないかで解像度は変わるだろう。そういった意味で、本著はフェミニズム的問題を新しい切り口から理解するための視点を与えてくれる。

 ただ、著者はむすびで、理論に傾倒することがフェミニズムではないと述べている。繰り返しになるが、あくまで日常的な実践を伴ってこそ現実は変化していくからだ。

フェミニズムは、人間的現実を突きつけて、何重にも錯綜した欺瞞や仮象の体系を解体しようとする、日常的、理論的実践である。解体の後に何がくるのか、それを発見していくことにこそ、尽きせぬ快楽の泉があるといえるかもしれない。

 女性の首相が誕生したこと自体はジェンダーバランスの上では歓迎すべきことだが、彼女が日本の歪なジェンダーバランスの是正に積極的かといえば、そうとは言えない状況である。これだけではないけども、今回の選挙までの流れふくめて、国民は舐められまくっているわけで、選挙で自分の民意を示していきたい。みんな選挙いこ!(定期)

2026年2月4日水曜日

ふつうの人が小説家として生活していくには

ふつうの人が小説家として生活していくには/津村記久子

 大阪帰省のタイミングで1003に立ち寄った際に友人共々購入した。買ったときは気づいてなかったが、実は感慨深い出来事だった。というのも、著者の熱烈なファンだった、その友人にレコメンドされて著者の小説を読んできたからだ。そんな運命論めいた話はさておき、対談本として無類の面白さだった。一日で読み切れるようなボリュームながらも、人生の土台になるような大事なことが詰まっており、友人全員に読んで欲しいと思う本だった。

 本著は夏葉社からリリースされており、同社代表である島崎潤一郎自らが相手を務める対談本となっている。津村記久子といえば、先述の通り、2010年代の日本文学を代表する作家の一人だ。大仰な物語を振りかざすのではなく、卑近な日常や労働のリアルを淡々と描くタイプの作家だ。特に労働に関する小説群はリアリティが高く、前述のとおり当時好んで読んでいた。

 そんな著者の人生を振り返りながら、タイトルどおり小説家として、どうやって生きてきたのか、ざっくばらんに対談しているのだが、このざっくばらん感がたまらない。かしこまったインタビューではなく、同世代の二人が就職氷河期という時代背景を共有しながら、脱線しつつ「ふつうの会話」を繰り広げ、その中で顔をのぞかせる本質の数々は、人生で大切にしたいと思えることばかりだ。

 一番グッときたことは好きなものを見つけること、ディグ力に関する話だった。最近はレコード文化以外でも「ディグる」という言葉が一般的になっているが、若い頃に好きなものを自力で見つけた経験があるかどうかが大事で、それは知識量とは関係がない。あくまで自分が好きかどうかの琴線を作る姿勢の大切さが説かれていた。

 また、その琴線を作り上げるのにギャンブルが必要という指摘も今の時代だからこそ腑に落ちた。今はレコメンド技術が発達しすぎて、失敗せずに「正解」に辿り着けてしまう。しかし、予定調和ではないもの、自分にとって「好きじゃないもの」に遭遇することには、意味と尊さがある。タイパ重視の若い世代からすれば「うぜーな、おっさん」と一言で瞬殺されるかもしれないが、「無駄な出会い」こそが血肉になる感覚は、世代的に納得感があった。インスタントでポップなものだけを消費するのと、自分の直感を信じて泥臭く好きなものを追いかけるのとでは、二者間のギャップは大きくなるなと大人になればなるほど感じることだ。こういった根源的な部分について、改めて小説家と出版人という職業の方が語っていることに意味がある。

 そして、ディグ力=見つける力こそが、小説家として著者の原動力だという主張も興味深かった。小説家というのは、どちらかと言えば、多くの場合スルーされるような日常の場面でも、鋭い観察眼で新たな側面を拾い出すイメージが強い。それは掬い取る、いわば水平方向の能力だが、垂直方向の能力であるディグを重要視しているのは意外だった。

 小説執筆の具体的な話が本著のハイライトであろう。テーマ設定、アプローチといった抽象的な話にとどまらず「具体的にどの時間にどうやって書いているか」を包み隠さず開陳してくれており、小説執筆に限らない広い意味での仕事におけるプロダクティビティ論になっており読んでいて楽しい。なかでもニュースサイトの「ライフハッカー」を読んでいた話や、独自のポモドーロテクニックへと至る流れが元会社員らしさを感じるエピソードだった。「ライフハッカー」を読んでいた著者らしい表現として、自らを「オープンソースで形成されている」と言っている場面は笑った。それを踏まえて放たれる「コントロールできるのは自分の人生だけ」という言葉には説得力があった。

 著者が『アレグリアとは仕事はできない』という作品で、コピー機のことを書いた経緯が興味深かった。自分にしか書けない身の回りのディテールをアートに昇華させること。これは私の好きなラッパーであるSEEDAによる「けん玉理論」の小説による実践であり、ここがリンクするとは思わず興奮した。また、著者は生来のなにか、才能などに興味はなく「行動」を書きたいという主張から、なぜ著者の仕事小説が面白いのか納得した。未読の作品がまだまだあるので、これをきっかけに色々読んでいきたい。

2026年2月1日日曜日

すべての罪は血を流す

すべての罪は血を流す/S・A・コスビー

 PEPCEE&YOSHIMARLによる新しいアルバム『STONE COLD』に触発されて積んであったクライムノベルを読んだ。著者の作品を読むのは二作目だが、今回もページターナーっぷりは健在で他の追随を許さない圧倒的なレベルだった。

 主人公は保安官のタイタス。アフリカ系アメリカンによる高校での銃撃事件を発端に、次々と発覚していく陰惨な事件を追っていく物語である。舞台がアメリカ南部ということもあり、宗教や人種という現代アメリカの根深い問題をメインテーマに据えつつ、銃、ドラッグ、ペドファイルといった個別の具体的な問題がその上に乗っかってくる。プロットの面白さだけではなく、南部の空気を体感できる点が、本著が並のクライムノベルと異なるところだ。

 警察官を主人公に据えると、勧善懲悪の単純な構図に陥りがちだが、タイタスはFBI勤務時代の暗い過去を引きずっており、清廉潔白な正義漢ではない。グレーなニュアンスがあるからこそ、物語にスムーズに乗ることができた。一方で追いかける犯人の悪っぷりは今まで読んできたクライムノベルの中でも屈指の悪。タイトルどおり血が流れまくりだし、描かれる殺人はいずれも陰惨極まりない。情状酌量できる余地がないほどおぞましいからこそ、誰が犯人なのか、どんな結末を迎えるのかと読む手がドライブさせられた。 アクション描写も圧巻だった。特に犯人とのバトルはいずれも手に汗を握る展開で、終盤まで積み上げられてきた凄惨な犯行描写によって膨れ上がった犯人像が明らかになった挙句のバトルなので読み応えがあった。

 今回は宗教が大きなテーマということもあり、以前に読んだ『黒き荒野の果て』よりも著者の筆が乗っている印象を受けた。聖書やシェイクスピアといったクラシックの引用が物語に厚みを加え、それに呼応するような著者独特の言い回しもかっこいい。たとえば、主人公の母の格言として語られる「真実がズポンを引き上げているあいだに、嘘は地球を半周する」SNS以後のポストトゥルースな状況をこんな短い言葉で的確に表現していて、ラッパーさながらである。

 アフリカ系アメリカンが白人を銃殺したけれども、その白人が実はペドフィリアで…といった具合に、問題がインターセクションしていく構造も印象的だった。安易な二元論に回収されることを拒む、著者なりの工夫であろう。アフリカ系アメリカンが置かれてきた不遇な立場を大前提としながらも、それだけに閉じない人間同士による凄惨な争いが展開するゆえ、業の深さを感じさせられた。

 「宗教もドラッグも依存という観点では変わらない」と考えるタイタスが、登場人物の中で一番と言っていいほど聖書に詳しい人物として描かれている点は皮肉と言える。どれほど神の存在を信じていても、母親は早くに亡くなり、子どもたちは無惨に命を奪われる。こんなひどい状況でも「すべては神の御心」という言葉で腹落ちさせる信仰に、一体どんな意味があるのか。タイタスは深く信仰していたからこそ裏切られた気持ちが強く、それゆえに秩序、忍耐という新たな信仰へと向かわせる。この姿勢は実質的に無宗教な人が多い日本人には刺さりやすいだろう。そして、犯人は別ベクトルで信仰に付随した裏切りを受けた結果の末路であることを考えれば、宗教に振り回された人生という観点で二人は似たもの同士かもしれない。次は『頬に哀しみを刻め』を読みたい。

2026年1月28日水曜日

『Skippin' on Step』 Worldwide Skippa Release Party

 Worldwide Skippaのリリースパーティーに行ってきた。彼の存在を知ったのは、ソングウォーズの第1回目で、当時まさかここまでシーンの中心的な存在になるとは、誰も想像していなかっただろう。1年弱という短期間で、ハードワークを武器にヒット曲を立て続けに生み出し、確固たるポジションをシーンに築いたことをあらためて証明するような、素晴らしいパーティーだった。

 仕事終わりに行ったので、19時過ぎにWWWに到着するとTakaryuというDJの時間だった。深夜帯のパーティーから足が遠のいて久しい身にとって、この時間に爆音でDJを浴びられるありがたさを噛み締める。現場でしか聞けない日本語ラップのマッシュアップもあって到着早々ブチ上がった。(プレイリストを本人が公開してくれていました→リンク)ストリーミングばかりで音楽を聞いていると、こういう瞬間には一生出会えないので、現場に行くことの大切さを実感した。

 続いて登場したのはBBBBBBB。Dos Monosのポッドキャストで名前を聞いて気になっていたのだが、こちらの想像の上の上の上くらいのライブで圧巻だった。Underworld「Born Slippy」が流れる中、長髪の男が一人、さらにもう一人と現れ、彼らがBBBBBBBだとわかる。BPMの早い四つ打ちビートの上でひたすらシャウトし続け、WWW独特の傾斜きつめの客席へ移動していく。もう一人の男は徐々に衣服を脱いでいく。そんな奇想天外で自由なステージングをみると、自分の凝り固まっていた音楽観が気持ちよく破壊されていった。パンクのようなアプローチであるものの、煽りが「3、2、1、Let's go!」という近年のヒップホップライブの定型であり、ヒップホップ好きとしては親近感を抱きやすかった。さらにビートが四つ打ちからグライムっぽいノリになると、彼らの表現したいことが一気に伝わってきて、結果的に「なんか好きかも?」と思わされているから、ライブこそが彼らの最大の魅力なんだろう。

 BBBBBBBの出番で客演した徳利がそのままライブへ。正直に言えば「インターネットのミーム的な存在」という雑な認識しかなかった。しかし、ガイドボーカルに頼らず、汗をかきながらストイックにラップし続ける姿は、予想を裏切られた。キャッチーな曲名やトピックは、ライブにおいて圧倒的な強度を持ち、ワンコールでフロア全体を巻き込む力がある。「ネタラップ」として一括りにされがちだが、観客をロックする力を目の前で見れたことは新たな発見だった。

 その後はグライムかけおことsoakubeatsによるDJ。ここにsoakubeatsを招聘することに、パーティー主催者の感性の豊かさ、コンテキストを大事にしていることが伝わってくる。グライムに留まらない広義のUKダンスミュージックが流れまくり。普段聞かないサウンドばかりでブチ上がった。ストリーミングでいつでも何でも聞けるからこそ、DJというフォーマットの価値が高まっているように感じた。つまり、何をどういう順番でかけるのか?ということ。

 そんなUKミュージックをサンドイッチするかのように、最初と最後の曲は自身がプロデュースした日本語ラップというのがニクい。冒頭は「The Bridge feat. A-THUG」この日初めて聞いたのだが、どんなビートでもA-THUGの曲にしてしまうオリジナリティには毎回驚かされる。ラストは「ラップごっこはこれでおしまい feat. ECD」このパーティーで流れること自体に意味がある一曲だ。素直に見れば、ECDが日本語ラップにもたらしたコンシャスの系譜がECD→MOMENT JOON→Worldwide Skippa と引き継がれる様が刻印されたと言える。しかし、事はそんな簡単な話ではない。後述するMOMENT JOONのライブでも示されたとおり、「コンシャス」な側面はそのラッパーの一側面でしかない。それはSkippaもインタビューで話していたとおりである。内容偏重ではなく、あくまで音楽としてかっこいいかどうか。そして、<将来の夢は犯罪者>と喝破するECDのラップは「コンシャス」というわかりやすいフレーミングに対するカウンターに聞こえてしまうのだからヒップホップは不思議な音楽である。

 そんなECDの曲を聞いたあとのMOMENT JOONのライブ。旧知の仲なので、もう何回も彼のライブを見ているが、ここまで諦念が漂うライブは初めて見たかもしれない。一番顕著だったのは「シャトレーゼやめた」のフロウを引用して披露したアカペラのラップである。「正しいことの代弁者」という他人に背負わされた十字架の重さについて、こんなふうにラップで表現できるのは彼しかいないだろう。「TENO HIRA」という代表曲も披露されたのだが、そこに至るまでの構成から、従来あったエンパワメントのムードがシニカルに反転し、顕在化した強烈な諦念に思わず泣いてしまった。今の彼を支配する気持ちが具体的にどういったものなのか。その辺りは連載中のエッセイなのか、はたまた次のアルバムなのか、是非とも知りたいところである。ただ、そんな諦念を払拭するように五本指の手のひらから中指だけを残し「We Don’t Trsut」に流れていくあたりは流石。彼のビーストモードが開放され、ラップをスピットしていて、ひたすらにかっこよかった。

 そして、大トリを飾るのはもちろんWorldwide Skippa。「まほろば」から始まったわけだが、実質ワンマンとはいえ圧倒的な合唱率で驚く。30分という短い尺の中で「メタナイト」「Tee Shyne Flow」などの人気曲を本人が「出し惜しみなし」と言う通り、立て続けに披露され、フロアの盛り上がりはとんでもないことになっていた。特に「俺が出るライブで痴漢したら殺す」の大合唱は本当に信じられなかった。こういった啓蒙ソングで、ここまで盛り上げることができるのは、先述したコンシャスの文脈でいえば、内容に即してしんみり聞く必要もなく、曲としてかっこよければ、それはそれで盛り上がるということを体現している。まさに彼が日本語ラップをネクストステージに導いた証左と言える場面だった。

 ゲストゾーンが豪華メンツでこちらも出し惜しみなし。同じく名古屋を拠点とするXameleonとは「King’s anthem」を披露。目下最注目のプロデューサーである808 Edi$onのビートを初めてデカい音で聞けたので、私にとって1月27日が<Edi$on記念日>。そして、サプライズゲストとしてShowyの二人。翌日リリースのShowyのシングルにSkippaが客演で参加しており、その曲がこの日歌い下ろし。その名も「Worldwide lit」Showyのステージングはキャリアを感じさせるもので、圧倒的に華があった。そして個人的に一番好きな曲である「Go Taxi」では、Sad Kid Yazを召喚。圧倒的なアンセムっぷりをライブで体感することができた。

 MOMENT JOONを再び呼び込んでの「We Don’t Trust REMIX」はまさかのフルメンバー!Skippaが、2021年に行われたMOMENT JOONのWWWXでのワンマンを見にきていたというエピソードも相まって、エモーショナルな展開だった。REMIXの他の客演参加者であるFisong、SiX FXXT UNDXRを見れたことも貴重な機会だった。二人ともラップのフィジカルが仕上がっており、間違いなく今後注目のラッパーである。今回でいえば、SiX FXXT UNDXRがこの場にいたことの意味は特に大きい。なぜなら彼は、Skippaの楽曲のミックス、マスタリングをほとんど手がけており、Skippaの活躍の陰の立役者だからだ。いわゆるアングララッパーの音源を聞いていると、ミックスやマスタリングの粗雑さが耳につくこともある中で、Skippaの音源はその点がしっかり整理された音像、鳴りになっているのは彼がいてこそだ。これもパーティー主催者のキュレーション力の賜物と言える。

 『Skipping tape vol.1』から「徳利とブラピ」「Trust me」なども聞くことができた。「徳利とブラピ」のアウトロに言及があって、彼自身もここまでのスピード感を想定していなかったのだろうと腑に落ちる。今後はなかなか聞けないかもしれない。終盤は「don’t stop freestyle」「Nagoya rich boy」「Fuck hater 裏」といった最近のリリース中心の構成。最後は「シャトレーゼやめた」で大団円。当日はSkippaの誕生日だったらしく、ステージにHABUSHとケーキが用意されてライブが終演した。

 30分とは思えないほど充実したショーケースでいかに彼がヒット曲を生み出してきたか、よくわかるステージだった。一方で、キャリアの短さゆえにラッパーとしてのフィジカル性はまだ足りていない印象を受けた。そもそも1年で50曲近くリリースして、さらにそれらをライブでしっかり歌えるように仕上げていく、というのは土台無理な話で期待しすぎではある。その不足をシンガロングで補う観客との関係性こそ、新世代のライブスタイルなのだろう。Skipping tapeシリーズではないアルバムを用意しているらしく、2025年の間に出したミクステで、これだけのリスナーを巻き込んだSkippaだからこそ期待は否が応でも高まるわけで楽しみに待ちたい。

2026年1月27日火曜日

鹽津城

鹽津城/飛浩隆

 SFの本を選ぶとき、国内SFが選択肢に入ることが少ない。私はヒップホップが好きなのだが、それに例えればUSのヒップホップばかり聞いて日本のヒップホップを聞いていないことになり「それはちゃうやろ」という気持ちで国内SFを少しずつ読むようになった。本著はマイフェイバリットポッドキャストであり、私にとって数少ない国内SFガイドである『美玉ラジオ』で知ったのだった。これぞ国産SF!というドメスティックな要素、展開の数々を楽しく読んだ。

 本著は基本的には短編集であり、タイトル作が中篇となっている。全体の特徴としてまず挙げたいのは、登場人物や作中内の現象の名称が、見たことない漢字だらけであることだ。これだけ「読んだことがない漢字」に遭遇するのも久しぶりで小説という表現の自由さを味わった。また、複数の時間軸を並行して描き、それらの関係性を構築することに注力していることが伺える。その構築においては、わかりやすさよりも、著者本人にとっての確からしさを重視しているように伝わってきた。さらに、物語に明確なカタルシスを用意していない点も特徴的だ。なにかが始まるかもしれない期待だけが差し出され、読者には想像できる余地が残されているので余韻がある。

 著者の作品を読むのは初めてだし、ポッドキャストでもタイトル作中心に話されていたので、冒頭の「羊の木」の得体の知れなさに面食らった。新海誠『君の名は。』のアダルティ版とも言える、時空を超えた交錯劇。続く「ジュブナイル」もサイエンスフィクションというよりも少し不思議な話であり、こういうトーンなのかと思いきや、「流下の日」でギアが変わって一気にSF色が濃くなっていく。

 「流下の日」は、近未来の功利主義や管理社会を描いた作品で、一番好きな話だ。日本が独自のテクノロジーで唯我独尊で発展を成し遂げてきたように描写しながら、後半にかけて、実態はビッグブラザーだったという裏切り方が巧みだった。また、同性愛を含めて「家族」の範囲を拡張しつつも、家という組織単位をより強固にしていくという設定も興味深い。一見、リベラルなのだが、実のところは保守という構図から、現実ではいまだに「家族」の範囲さえ広がらないディストピアというアイロニーにも映った。

 SFを読むときにもっとも楽しみにしているのは、どのような近未来テクノロジーが導入されているか、という点だ。「流下の日」では生物学的なアプローチで、身体に埋め込まれたバングルによって、あらゆる行動が制御され、また制御されてしまう。政府が個人の思想や活動に干渉する社会の中で、主人公たちはレジスタンスとして、バングルに支配されない世界を心の中に構築する。それを「中庭」と呼ぶネーミングがかっこいい。英語ではなく、漢字二文字でSF的概念を表現していくところに国産SFらしさがあるし、実在する中庭から展開していく仕掛けもオモシロかった。インターネットを通じて、私たちは心の「中庭」を他人にどんどん開放しているが、誰にも入らせない思考の「中庭」を持つことの重要さを教えてもらった気がした。

 もっとも壮大な話がタイトル作の「鹽津城」である。三つの時間軸が並行し、シンクロしながら物語が進行していく。ここでテーマになるのは海と塩である。海水中の塩化ナトリウムが突如結晶化して街を破壊していく現象と、身体の中に塩分濃度の異常に高い、細い線条が形成される病気、二つの謎を中心として物語が描かれる。原発を絡めていることから、東日本大震災をモチーフにしていることはあきらかだが、あの出来事かこれほど跳躍力のある物語を紡げるのは、日本のSF作家ならではの視点だと思う。そこに『ワンピース』的な漫画の要素が合わさってくることで、こういった物語こそが本当の意味での「クールジャパン」なのではないか、と感じた。

 塩化ナトリウムだけが海水から分離、凝固する科学的背景として「マックスウェルの悪魔」が引用されており、ネタ元を明示してくれる点も興味深い。さらに同じ分子挙動の不思議さについて、チューリングによる反応拡散方程式による生物の模様形成にも接続し、思考がどんどん広がっていく。それに呼応した表紙はさすがの川名潤ワークスだし、このように科学的想像力を足場にして物語が展開するSFならではの醍醐味があった。

 マックスウェル、どこかで聞いた覚えがあるなと思ったら、「マクスウェル分布」のことだった。久しぶりにWikipediaでそれを眺めていると大学院入試で勉強した記憶がよみがえった。当時は本当に嫌だったし、今数式を見てもぼんやりとしか思い出せないが、こうやってSFの題材として出てくると「どういう意味なんだろう?」と興味が湧くのだから、エデュテイメントとしてのSFは偉大さである。寡作な作家のようなので、他も読んでみる。