2026年3月27日金曜日

創造性はどこからやってくるか―天然表現の世界

創造性はどこからやってくるか―天然表現の世界/郡司ペギオ幸夫

 著者の名前を知ったのは、OGRE YOU ASS HOLEのリリースタイミングのウェブ記事がきっかけだった。それからずっと読みたいと思っていたところでKindleでセールされていたので読んだ。新書とは思えない情報量とパーソナルな内容に驚きつつ、著者が繰り返し提示する「天然表現」という概念があらゆる領域に転用可能な理論で興味深かった。

 新書というと一般的な概念を体系立てて解説するイメージがあるが、本著では独特の理論とその実践が記録されている一冊となっている。中身としては、最初に著者が構築した理論の解説があり、その理論を適用した作品批評、さらに実践としての創作という構成になっている。

 著者はもともと学者であり、理論を考案することは自身の得意領域だ。前半では存分に、自身の持論を開陳し、その勢いのまま後半はコンフォートゾーンを飛び出し、自らの理論を実践する創作に挑んでいく。その過程がスリリングだった。理論を語るものは創作しないし、理論を語らないものは創作するというイメージを持つが、著者はその壁を乗り越えていく。大谷さながらの二刀流挑戦ドキュメンタリーとして抜群に面白い。

 特に興味深いのは、通常であれば、作品が理論の適用対象となるのに対し、本著では理論が先行し、それを体現する作品を後から創作するという逆転現象が起きている点だ。理論ベースの作品は頭でっかちでクリエイティブに欠けるのではないか?とつい思ってしまう。しかし、著者は自身の作品のエッジの鋭さをもって、そんな通説に対して鮮やかにカウンターを決めている。特に実家でのインスタレーション制作は、写真付きの制作日誌とあいまって、現代アートらしい理論ベースの制作プロセスが伝わってきて、読みごたえがあった。

では、そんな理論とは何か?読み終えた今も明確には捉えきれていないものの、一番端的でわかりやすいと思えた部分を引用する。

創造とは外部を召喚することだ。相反する二つの概念を共に受け入れる肯定的矛盾と、共に脱色し否定する否定的矛盾を共立させ、トラウマ構造を開くとき、そこに二つの概念を想定し、両者をどう関係づけるかと思案していたときには思いもよらなかった、その思考の外部が召喚される。それこそが創造であり、絶えず創造するシステム、生命の構えである。

 「外部が召喚されることが創造」という主張は直感に反するかもしれない。創作においては、作家の主体性がすべてのように考えがちだが、能動的なアプローチだけではなく、受動的に何かが起こるように能動的に手配しておくことも必要だということだろう。これはPUNPEE(ひいてはRHYMESTERも)がたびたび唱えているヒップホップにおける「事故」の重要性と重なる話で個人的には腑に落ちた。閉鎖系の中では要素が少なく何も起こらないが、開放系にして受け入れることで、予期せぬ何かが生まれる。こういった態度は年を重ねるほど難しくなるからこそ、自戒の意味を込めて開放系でいたいと思う。

 最初に理論の話から始まるので取っ付きづらさはあるが、これほど深いアート論が実践と共に語られていることが貴重である。たくさんの金言があったのですが、作家最強論に対するカウンターとして、アナロジー含めて「こんな視点があるのか!」と驚いた。

作品が、作家の描き切ったもので、もはやそれ以上、何もそこに関与する外部がないなら、作品は、どこでも、誰が鑑賞しても、作家が意図した通りのものとなる。ビルに入るための電子入構カードを、誰が使っても同じ機能を果たすように、作品は誰が鑑賞しても同じ理解を立ち上げるものとなる。電子入構カードを誰が作ったのか気にしないように、そのような作品は、誰が制作したかの意味を失う。誰が制作しようがそれを忘れても、作品の理解に影響しない。

 作家が何かを完成まで作り切るのではなく「完全な不完全体」として作品を提供した結果、多義的な解釈が生まれて、作品としての完成が初めて日の目をみる。鑑賞者の役割や視点についてここまで深い論考はなかなか読めないから貴重である。書籍や日本語ラップのレビューを書く中で、つい当事者の意図に寄せたくなることがあるわけだが、そこに寄せるばかりでは何も生まれない。鑑賞者という立場だからこそ感じるものを、改めて追い求めていきたいと思った。

 『天然知能』という別書籍もある著者ならではの科学に対する視座も興味深かった。AIを中心とした科学への過度な信頼に対して疑問を投げかけつつ、安易にアンチ科学となるわけではなく「芸術ベースの科学」を提案していた。つまり試行錯誤と証拠の積み重ねを前提とする現代科学に対し、思いつきを含めてAIが到達できない「外部」へアクセスすることで、人間の当事者性や尊厳を取り戻せるのではないか?という主張が刺激的だった。

 本著を読んで「ペギオ的思考回路」が身についた気がするので、OGRE YOU ASS HOLEも影響を公言している『やってくる』を次に読みたい。興味ある方は、本著のエッセンスが理解できるOGRE YOU ASS HOLEと著者による対談をおすすめしておく。

OGRE YOU ASSHOLE×郡司ペギオ幸夫 人工知能と対極の創造性を司る「天然知能」の話

2026年3月25日水曜日

一私小説書きの日乗 這進の章

一私小説書きの日乗 這進の章/西村賢太

 唯一単行本化されていなかった『這進の章』が過去作の文庫化に伴って収録されたと聞いて読んだ。『這進の章』では、亡くなる1ヶ月前までの日記が掲載されており、生活のあらゆる細部が「死の予兆」なのではないかと勘ぐってしまう自分がいて、何とも言えない読書体験であった。

 『堅忍の章』はコロナ初期だったのに対して、今回はコロナ禍真っ只中で著者がどのよう日々を過ごしていたのかが記録されている。もはや遠い昔のように感じるが、実際は数年前だということが信じられない。人はこうやって生きていくために忘却していくわけだが、そんな自然の摂理に抗うかのごとく細かく記録されている日記を読むと、当時の空気を思い出すのであった。

 日記スタイルにはなんら変わりなく、起床時間、食事の内容、飲酒量、入浴の有無など、定点観測が続いている。その中で原稿仕事、ライフワークである藤澤清造の活動記録の編纂にいかに身を捧げているかがわかる。

 基本的に出不精で、家で原稿を書き、晩酌を重ねる日々。しかし、月に一度、藤澤清造の墓のある石川県七尾市までかけていき法要を取り行っている。コロナ禍で移動制限があった中でも関係なく移動を繰り返しており、あれだけ自粛ムードで皆が抑圧されていた中、著者はその影響を受けていないことに芯の強さを感じた。そして「自粛とはなんだったのか?」と以下のラインで改めて考えさせられた。「感染拡大」という社会全体としての課題はあったわけだが、他人が自分の外出の必要性をジャッジする構図はやっぱりおかしい。

この一連の短き時間が、今の自分の生きる原動力。これが不要不急の要件であるわけがない。

 一応、関係者には配慮しており、飲み屋で食事していることは記録されているものの場所から人の名前まで「某」という形で基本的には伏せてあった。その中で「ソーシャル」という言葉の使い方がオモシロく、著者の皮肉屋としての側面が発揮されていて笑った。

 日記を読む限りでは、眼科や通風での通院はあるものの、死の気配は日記から漂っていないからこそ怖い。会社員だと年一回の健康診断があるので、何か病気があれば見つかりやすいが、フリーランスだとそうもいかないから、自己管理に委ねられる。著者は自分が直接感じない不調については無頓着であり、爆食爆飲道を歩み続けた結果、亡くなってしまった。そんな爆食爆飲がエンタメになっている点が、この日記の醍醐味なので、なんとも言えない気持ちである。(大食い選手権を見ているときと似たような感情を読むたびに抱く。)日記はもう更新されることはないので、残された小説たちをこれから読んでいきたい。

2026年3月23日月曜日

羆嵐

羆嵐/吉村昭

 令和の熊騒動が記憶に新しい中で、かつて人々が熊とどう対峙していたのかを知りたくなり、積んであった本著を読んだ。大正時代、北海道に入植したばかりの村で実際に起きた、熊による最大規模の被害ということでかなりスリリングな内容だった。

 昭和57年初版で手元にあるのは、令和6年59刷…!歴史に名を刻むクラシックだということがよくわかる。文体としてはやや硬派で、慣れるまで若干読みにくさはあるものの、事態が凄惨さを増していくにつれて、リーダビリティを上回る「先を知りたい」という欲求が勝り、いつのまにか読み終わっていた。

 舞台は、農業や漁業で生計を立てる開拓期の北海道。そこに現れる羆が、住民を次々と襲い、捕食していく。「熊が人間を襲い、食べる」という事実の原初的な恐怖は、現代と何ひとつ変わらない。ただし、人間側の装備と環境は大きく異なっている。猟銃は一部の人間しか持っていないし、その銃で定期的に猟活動をしているわけではないので、宝の持ち腐れと化している。さらに電気もないので、ひたすら薪で火を炊いて、闇夜の中で羆を警戒し続けるしかない。そんな脆弱な環境を見透かすように、羆が果敢に襲いかかってくるシーンが怖かった。

 本著の白眉はスプラッター描写であろう。今の時代に同じような被害が起こった場合、どこまで書けるだろうか?と思わされるほど、羆が人間を餌として食べてしまった結果の残忍さが克明に記録されていた。ひとたび襲われれば、人間はもはや「個人」ではなく「餌」へと変化してしまう。結果として、遺体を扱う側の人間もまた、同様の視点を引き受けざるを得ない。その過程で、人間の尊厳が揺らいでいく感覚が生々しく伝わってきた。読み手ですらそう感じるのだから、遺された家族の心情は想像に余りある。

 襲われた村の者たちだけでは到底対処できないので、外部に助けを求めることになるのだが、対照的な助け船が登場する。かたや国家権力である警察を中心とした大量動員で羆を数で制圧するようなアプローチなのだが、いくらたくさんの銃があったとしても、それを扱う胆力や技術がなければ意味がないし、いざ羆と対峙した際の覚悟がなければ烏合の衆にすぎない。巨大な組織では機動力に欠け、フットワークの軽やかな羆の前では無力である。ここには単なる熊被害対応を超えた官僚的システムを否定する眼差しがある。

 ジリ貧の状況で羆に相対するのは、銀四郎という名の1人の猟師である。酒癖は最悪だけども、狩りの腕は一級品という男の登場で事態が大きく進展していく。銀四郎と羆のやり取りの緊張感は相当なもので、ページをめくりながらヒヤヒヤしつつも、どんなエンディングが待っているのか続きが気になってしょうがなかった。

 警察をふくめ集団では熊を退治することはできず、猟師個人と熊によるタイマンでしか退治できない。つまり、100年以上経過した今でも、熊との戦いが「個」の技量に依存している側面は大きく変わっていない。AIやテクノロジーの進化が叫ばれる時代にあっても、自然との関係において人間が依然として従属的な存在であることを容赦なく突きつけてくる話である。まごうことなきクラシック。

2026年3月22日日曜日

PAPER DIARY VOL.01

PAPER DIARY VOL.01

 タラウマラのポストで知って読んだ。(タラウマラでは、すぐに売り切れてしまったよう。1003では買えるようなので、そちらのリンクを貼っておきます。)印象的な表紙はさることながら「ラップコラム」の文字を見て即購入したのだった。どのページも読み応えバッチリで、古本の世界の理解の端緒に立つには格好の一冊である。

 梁山泊、マヤルカ古書店という古書店を経営されている二人の雑談と各自のコラムで構成されている。文字のフォントが何種類も使われていたり、紙の色も複数使っていたりと見た目にも面白い仕掛けがたくさんあり、まさにZINEという作り。肝心の中身は、古本屋当事者による、良い意味で外向けに成形されていない、ざっくばらんな話が貴重である。特に印象に残ったのは、「本屋経営が慈善事業のように見えることへの違和感」という指摘だ。近年の本屋をめぐる言説では、苦境や理想が強調されがちだが、「本を売り、買い取り、それで生活している」という当たり前の事実に立ち返る。斜陽産業とはいえ、たくさんの人が本を読んでいる現実があり、それを買い取って稼いで生活している人がいるのだ!という古書店としてのプライドを感じる数々の議論は読んでいて刺激的だった。また、インターネットで調べれば、なんでもわかる時代にあっても、古本屋ジャーゴンの数々はこういったテキストを読まないと一生遭遇しない日本語なので興味深かった。

 レビューを中心とした承認欲求のくだりは、新しい本を読んではレビューしている身からするとドキッとする内容だった。色んな人間の戯言が世に蔓延る中で、他者の評価を気にしながらやっていかないといけない今の商売の難しさ、というのは言われてみて初めて気づかされた。

 コラムも面白く、マヨルカ古書店の店主の「ペーパーチェイサーは古本屋の夢を見るか?」では、読書遍歴と共に語られる過去への眼差しが印象的だった。昔のことがたくさんレミニスされ、特に漫画の貸し借りが生んでいたコミュニケーションは思い当たることがたくさんあった。

 そして、一番楽しみにしていたのはラップコラムである。梁山泊のソウタさんは大阪時代に何度かお話しさせていただいた近い関係の人だと買ってから気づいたのだった…すごい偶然!当時、ヒップホップの話をした記憶もいくらかよみがえり、20代前半だった私が無礼なことを言っていたかもしれないと読みながら肝を冷やした。なぜなら、ソウタさんがゴールデンエラである90’sヒップホップ愛好者だからだ。自分自身もその時代をルーツの一つとしているが、同時に流行や変化に応じて好みを更新してきた。一方、ソウタさんはブレずに自らの好きな基準を貫いていることがコラムを通じて伝わってきた。今の時代、こういうブレなさを文字できちんと表現している人は少ないので、このコラムは今後も楽しみだ。そして、このブレないマインドはおそらく仕事にも発揮されているのだろうことが雑談パートからも伝わってきたのであった。

 ZINEの中にシリアル番号が付されており、限定100冊のようなので気になっている人はマストチェック。

2026年3月13日金曜日

valknee issue vol.1

valknee issue vol.1


 ラッパー自らが紙でZINEをリリースする時代に突入している。ということで読んだのは、先日アルバム『GEAR』をリリースしたvalkneeによるZINE第一弾。全ページフルカラーとはいえ、若干お高め…と思っていたものの、今の時代に音楽を聞くことの多層性を拡張する、お値段以上の素晴らしい試みだと読み終わってから感じた。

 新しいアルバム『GEAR』について多角的に深堀りした一冊となっている。「今、音楽をアルバム単位で聞いている人はどれだけいるのか?」と、音楽好きな友人たちとよく話す。アルバム単位でどうのこうの言っているのはコアなリスナーだけであり、プラットフォームの構造上もいかに曲単位でヒットを作れるか?という競争が促進されている。毎週のように新譜がリリースされ、リスナーはプレイリストで供給される新譜を聞いて、半年も経てば曲の鮮度は落ちてしまう。

 そんな流行り廃りの早い時代において、アーティストたちはさまざまな方法で、リスナーが聞くきっかけを作ろうとプロモーションを繰り返すわけだが、valkneeが今回提示しているのは紙媒体のZINEというフォーマットである。インタビュー、セルフライナーノーツ、クロスレビュー、エッセイ、ルックなど、さまざまな角度で『GEAR』という作品に迫っている。アーティストとしてのvalkneeをどう表現すればいいか、その試行錯誤の様子が伺える。メタ視点で見たvalkneeと、主観的に譲れないポイントでせめぎ合った結果として作品が生まれており、インディペンデントでやっていく上での矜持が随所から伝わってきた。

 ライターのつやちゃんが企画・監修で併走していることもあり、雑誌としてのクオリティが高い。ビジュアルブックとしての面白さと、読み物としての面白さの両方を抑えており、そのバランスの良さから昔の雑誌を思い出して懐かしい気持ちにもなった。本人が最後のエッセイで触れているとおりショート動画を筆頭にインスタントな消費が繰り返される中で、すべてが真逆のアプローチではあるものの、活字中毒者としてはたまらないものがあった。

 ラジオやさんごっこのエピソードで、このZINEが紹介されていた際、星野源『YELLOW MAGAZINE』がモデルの一つにあるとのことだった。アーティストたちは「言いたいことは曲にすべて込めています」と言って自己開示しないケースも増えているが、本当にそうなのか?と問うているようなZINEである。伝えたいことがない、もしくはあったとしても、ちょうどよく届く媒体がないから、そう言っているだけなのではないか?と思わされるほど、ZINEとアーティストの相性の良さを今回読んで感じた。他のラッパーもこうしたZINEを作ってみて欲しい。

 一番興味深かったのはクロスレビューである。これを読む前に自分でもレビューを書いていたので、掲載されたレビューと読み比べて楽しんだ。参加している書き手の顔ぶれもユニークで、valkneeの音楽との距離感に応じた様々なスタイルのレビューが並んでおり、読んでいると同じ音楽を聞いても感じ方はまるで異なる、という当たり前の事実に気付かされる。SNS時代では影響力の大きい人の短い言葉が「正解」として一人歩きすることも多い中、こうやって各人がアルバムに向き合って長い文章を書くことの尊さよ。雑誌のクロスレビューとは異なり、各人に必然性があるからこそ、23分と短いアルバムながらも、そこにある深さが理解できる仕様となっている。

 なかでも中條千春によるレビューがかっこよく惚れ惚れした。冒頭でGEAR=社会における歯車(ピース)というアナロジーを提示し、終盤にギアとエンジンを対比させながら、ギアの重要性を主張していく鮮やかさに唸った。

 日本語ラップは一人称の音楽であるゆえに、それを解釈し、言語化することが野暮だという意見が根強くある。なぜなら一人称である以上、「本人の意図したことが正解だ」という主張が成立するからだ。果たして、本当にそうなのだろうか?アーティストが作品に残した意味を汲み取り、解釈する行為によって、本当の意味で作品が完成するのではないか?最近そうした主張の本をいくつか読んでいることもあり、valkneeの試みに連帯を示したくなった。

 ラストにある本人のエッセイも気合いを感じる素晴らしいステートメントのようだ。アーティストとして活動することのリアルが詰まっていた。特に自身の環境分析が興味深く、周囲に対してこれだけ客観的な視点を持つことができる、その鋭い眼差しこそがvalkneeをvalknee たらしめている気がした。活字中毒の日本語ラップファンはマストで読むべきZINE。

2026年3月10日火曜日

牛を食べた日

牛を食べた日/千葉貴子

 バックパックブックスで買って積んであったことを思い出して読んだ。「飼っていた牛を食す」という一連の流れがドキュメンタリーのように記録されつつ、私たちの食肉文化について考えさせるリーチも併せ持った興味深い本だった。

 和歌山県の農村が舞台で、著者と同じ村に住む人が飼っていた牛を食べることに決めて、実際に食べるまでの過程と、その背景が書かれている。当たり前のことだが、私たちが普段食べている牛、豚、鶏といった肉は誰かが捌き、それが食べやすいサイズにカットされ、スーパーに陳列されたり、外食で提供されている。普段はそういった流れについて、意識していないが、本著を読むとその一つ一つの工程に思いを巡らさずにはいられない。

 この牛は食肉目的ではなく、牛耕という使役目的で飼われていた。しかし、牛耕がうまくいかず最終的に食べることにしたという。今の日本では特殊な状況が書かれている点が貴重な記録である。(仮に寿命まで飼育したとしても、最終的には産業廃棄物として処理されてしまう現実に驚いた。)

 と畜場へ出荷する一日の様子が克明に記録されているのだが、その道中があまりにもドラマティック。牛を運ぶだけでもこれほど大変なのかと、読んでいてハラハラさせられた。そこで発生する矛盾する感情について否定も肯定もせず、淡々と記録している点が印象的だった。

 著者は現在の牛肉消費のあり方に懐疑的な立場だ。食用として牛を飼うことで地球環境に与えるコストについても具体的に書かれていて勉強になった。もともとあった自然が、食用牛向けの飼料用の穀物畑や飼育場へ置き換わっていくのは確かに本末転倒に思える。

 愛情をもって接していた存在を食べる。この行為に矛盾を感じる人がいるかもしれないが、本著を読むと、矛盾することなく、むしろシームレスに感じる。使役動物から食用動物へ役割が転換するだけで、あくまで生活のために存在しているという認識がある。

動物をまるで家族の一員のように捉える感情移入ではなく、利害の一致で一緒にいる、ということなのかなと思う。最近で言うところの「ビジネスカップル」のような。人と牛のビジネスカップル。

 「同じ地球に暮らす動物」というあまりにも粒度の粗いレイヤーで捉えてしまうと、犬や猫のような愛玩動物と混同され、動物愛護の議論へと発展していくのだろう。昨年から話題となっている熊騒動で「熊がかわいそう」と自治体にクレームを入れる人が一定数いたことからもわかる。動物愛護はポリコレと地続きの文脈にあり、昔よりも「熊を駆除することの正しくなさ」に抵抗を感じる人は増えているかもしれない。しかし、そういったクレームを入れるのであれば、食肉ほど暴力的な行為はない。その点について自覚的な人はどれほどいるのだろうか。

 本著では、生き物と共生することに関して高い解像度で語られており、机上の空論で「正しいっぽい」ことを言うだけなら誰にでもできるが、実際に命をいただく行為と密接に関わる人たちの現場の声を知ることの大切さを強く感じたのであった。

 動物を食べる行為について「かわいい、かわいそう、おいしい」という著者の表現が独特で頭に残っている。本来であれば、生き物をと殺して食べる行為は、これだけ相反する感情が入り混じる行為であるにも関わらず、現代の食肉産業はそこをマスキングしてしまっている現状を端的に表現しているからだ。食肉産業が工業化され、システマチックに市場へ肉が供給されることの利便性を享受するだけではなく、消費者として少しでもカウンターアクションできればなと考えさせられた。とはいえ、結局は家族で焼肉きんぐへ行き、牛タンを何度も頼んでしまう自分の姿が容易に想像できてしまい、生きることの難しさを痛感した。

2026年3月9日月曜日

Make Some Trips! vol.2

Make Some Trips! vol.2/バックパックブックス

 代田橋にある本屋バックパックブックスによるオリジナルZINE。今年で5周年というポストをインスタで見て、積読になっていたことを思い出して読んだ。店主と執筆陣の関係値が、そのままZINEという形で表出しているようでオモシロかった。(vol.1は廃盤だそうです、読みたい…!)

 さまざまな人が旅に関連したエッセイを中心に寄稿している一冊。有名、無名問わず、各人の旅行に関する話はどれも興味深かった。紀行文というほど大袈裟なものではなく、広い意味での旅に関するエッセイだからこそ人を旅に駆り立てる力があり、特に最初と最後が、今行きたいと思っている青森のエッセイで挟まれていることもあいまって、読むうちに旅行に行きたくなった。

 旅のエッセイとはいえ本屋なので、本と旅が紐づいている点が特徴的だ。同じ場所を訪れても本を読んで得た前提知識があると、他の人が見えないレイヤーが見える。結果として旅行体験をさらに豊かにしてくれることがよくわかった。旅先について行く前に調べて、なんでもネタバレしてしまうことには興醒めするのだが、本を読み、頭の中に知識を持って旅行するのは楽しそう。いつも行った後にどういう場所だったのかな?と読むことが多いけれど、予習として先に読んでおくのもいい。

 本著で取り上げられている、駒沢敏器 『語るに足る、ささやかな人生』が復刊されることを先日知ったタイミングで、このZINEを読めたことに運命的なものを感じたし、さらにはその復刊本の巻末コメントを店主の宮里さんが担当されているというミラクルっぷりに驚いた。発売したら代田橋まで足を伸ばして買いに行きたい。5周年おめでとうございます!