2026年5月10日日曜日

N/A

N/A/年森瑛

 美玉ラジオで取り上げられていたので読んだ。現代的な感覚や時代の空気をこういった形で小説へ落とし込む筆致に芥川賞候補になるのも納得のオモシロさだった。

 主人公は高校生のまどかという女の子。彼女の学生生活を軸にしながら、現代社会のムードを描いていく。まどかは、生理になりたくないという理由で食事制限を始めたり、恋人とは異なる「かけがいのない他人」を追い求めて女性と交際を始めたりする。こういった一連の行動は「社会規範」から逸脱する行為に映ってしまい、そんな逸脱した主人公に対して、周囲がどのようなリアクションを取るのか、細やかに描かれている点が興味深い。

 規範から外れた存在に対して、杓子定規に正しく応答することに意味があるのか?当人の気持ちを傷つけない最適なアプローチは、当人のことを本当に考えているのだろうか?「多様性」という言葉だけが先走り、実態を伴わず形骸化している状況が、繊細な年頃のティーンエイジャーの関係性の中で浮かび上がっていた。

 特に、インターネットの普及により、ある種の「正解」の流布で起こったコミュニケーションの均一化が、人間関係を毀損している可能性に気付かされた。周囲のリアクションと自分の意図が乖離していることに戸惑いを感じた経験はあるが、拒食症や同姓愛といったマイノリティのテーマと接続することで、当人の気持ちをいかに置き去りにしているのか鮮明にしている。特に後者の同姓愛に関しては、2人の関係が一番大事であるにも関わらず、社会的正義、貢献という名の元で、まどかの恋人が己の承認欲求を満たす様は最近よく見る光景だ。

 本著全体から伝わってくるのは、自分自身の感情に根ざしたコミュニケーションの重要さと、テクノロジーの進展によって私たちがそれをどれほど疎かにしているのかということである。一番顕著なのは終盤のLINEのやり取りだった。LINEは日本における2010年代後半以降のコミュニケーションを象徴するツールだ。そこでどういった言葉をかわしていくのか、思考過程を含めてこれだけスリリングに描いた小説を読んだのは初めてだった。チャットアプリなので、応答することが前提となっているが、それはアプリに駆動されているだけで、適切な言葉を探す意味がどこにあるのかと思わされる。

 タイトルの「N/A」は、Not Available=データがないことを意味している。エクセルのVLOOK関数などで値を探しにいっても見つからないときに帰ってくるエラーだ。皆が自分の内側ではなく、さながらVLOOK関数のように外側に正解を参照しにいく態度の比喩として秀逸である。ゼロではなく「存在しない」というニュアンスが、正解探しの虚しさを端的に表現している。

 心がひやっとしたのは後半の生徒と先生のやりとり。「先生が元生徒と結婚する」vs「生徒が授業中に内職する」という双方が規範から逸脱した結果として、教師から振るわれる言葉の暴力にゾッとしつつ、そこで連帯するシスターフッドにグッときた。突発的な状況の中では、誰もが検索、参照することなく、思い思いの連帯を示すからだ。ここで初めて本当の意味での多様性が立ち上がる裏腹な構成が見事だった。

 多様性と言われるものの、それは理解できる範囲でのみ許容されるという暗黙の了解の上に成り立っている。朝井リョウや村田沙耶香がここ数年指摘してきた息苦しさとも響き合いながら、本著はさらに軽やかに、なおかつ現代の空気やツールをうまくパッケージした上で提示している素晴らしい小説だった。

2026年5月9日土曜日

すべての原付の光

すべての原付の光/天沢時生

 あまりにも気になりすぎるタイトルかつ早川書房から出てることに惹かれて読んだ。日本のSFを読めていない中で、脳みそがスパークしそうな圧倒的情報量とドライブしまくる物語の構成に魅了されてあっという間に読み終えた。

 タイトル作を含めて合計5作の短編・中編で構成されている。似たような話は一つとしてなく、それぞれ異なる魅力を持っていた。なんといってもタイトル作が「これぞ日本のSF!」という内容で最高だった。暴走族およびヤンキーという絶滅危惧種の日本の伝統を、SFに落とし込んでこんなユニークな小説が書けるだなんて。勝手に原チャで暴走していた中坊を捕まえてタレットから空中に打ち込み異世界に吹き飛ばすという設定がぶっ飛んでるし、原付の光が明滅するシーンにおけるリテラルな表現は斬新だった。全体通してのギミックとしては、ルビ振りが特徴的。漢字に対して英訳ルビが振ってあるので、情報量が増えて世界観の構築に一役買っていた。

 一番好きだったのは「ショッピング・エクスプロージョン」ドン・キホーテをオマージュした量販店が無限に増殖し、地球上を侵食していく。それを食い止めるミステリーバディものという荒唐無稽な話。『フライデー・ブラック』を想起しつつ、ワンピースやドン・キホーテというベタなものをかけあわせてフレッシュな文学に昇華してしまうスキルに脱帽した。主人公2人がジャズメンを模した名前だったり、熊谷が大麻の街だったりと、ハイコンテキストなカルチャーのマダラ模様も読んでいて楽しかった。タランティーノに映画化してほしい。

 一方で「竜頭」は少し不思議系なストーリー展開に地方の鬱屈性が配合された独特の世界観だし、「ラゴス生体都市」は進撃の巨人オマージュな展開だったり。同じSFの中でも、サブジャンルを横断して自分のスタイルに落とし込む様からオールラウンダーであることが伝わってきた。

 いわゆる日本的なサイバーパンクのイメージを率先して具現化している街は、渋谷、新宿といった都市部かもしれないが、そのベタ性から距離を取り、地方を舞台に想像力を爆発させて軽やかに完全オリジナルの世界観を作り上げている点にクリエイティビティを感じた。新作が最近出たばかりのようなので、そちらも読みたい。

2026年5月8日金曜日

ちょっと踊ったりすぐにかけだす

ちょっと踊ったりすぐにかけだす/古賀及子

 日記ブームと言われて久しい中、その一翼を担う書き手である著者の作品を初めて読んだ。育児日記として面白く読んだ。

 もともとウェブ上で公開されていた2018年から2022年までの日記を抜粋、再構成した一冊。著者と2人の子どもによる他愛もない日常の様子が綴られている。形式としては日記だが、日付や時間の連続性はそこまで前景化していない。むしろ各エピソードにキラーフレーズのようなタイトルが付されていることで、エッセイ的なニュアンスが強まっていた。

 成熟した大人から見ると、子どもの発想や言葉づかいにハッとさせられる瞬間は多い。著者はその瞬間をキャッチするアンテナが鋭く、丁寧に記録しているからこそ面白い。印象的なのは、著者のボキャブラリーや感覚を子どもたちが吸収して育っていることだ。以下に端的に表れている。

「感性がちょろいからすぐ踊っちゃう」と息子に言われた。その「感性がちょろい」って言葉、教えたの私だ。上手に使いこなしてる。

 SNSやYouTubeにおいて、子どもと大人の非対称性から生まれる出来事でインプレッション稼ぎしているコンテンツを見るとギョッとするときがある。しかし「はてなブログ」を筆頭とした、当時のウェブ日記の文体をまとった著者の文章からそういった邪な気持ちは微塵も感じることがなかった。それは、かしこまっていない自然な文体を通じて、著者の人柄や子どもに対する無償の愛が伝わってきたからだ。

 「些細な日常を描く」という惹句は、日記やエッセイで山ほど使われているが、これほどまで文字通りの「些細な日常」を体現した日記はそうそうない。家族3人以外の部外者の話がほとんど登場せず、著者は仕事して、子どもは学校に行く。そんな繰り返しの日々の中でも、考えることやプレシャスな瞬間が溢れている事実に気付かされる。並の人間なら日記にならない日が、著者の手にかかればスペシャルな一日になる。この観察力と文章力が多くの人の心を鷲掴みにするのだろう。なかでも親と子どもの異なる発想の角度が交差して発生するコミュニケーションの数々は読んでいてニヤニヤしたし心が清められた。

 本著の特徴としては、育児におけるネガティブな側面やしんどさがほとんど言及されていない点も挙げられるだろう。子どもと暮らしていると、かわいい、健気だと思う瞬間はたくさんある一方で、親を当惑させ、ときには怒らせるような出来事も当然ある。自分自身も4歳の子どもを育てている中で、つまづくことが山ほどある。これだけポジ出しのエピソードがたくさんあると育児で疲れることがあっても、著者の子どもに対する優しい視点に勇気をもらえた。

 一方で、ここまでキレイにされていると、ジェントリフィケーションに近いニュアンスを感じないと言えば嘘になる。それは子どものディテールの細かさに対して、パートナーに関する記載の薄さも同様の感情を抱いた。そもそも何を書こうが自由だし、わざわざネガティブな瞬間を人に伝える必要はないのかもしれない。また、パートナーや子どもとしても「書かれない権利」があるのだから、時代にあった適切な配慮とも言えるだろう。

 植本さんや西村賢太の日記で育ったので、「日記」というフォーマットに対して「リアル」を過剰に求め過ぎているのかもしれない。同じ「日記」と呼ばれるものでも、著者は現実を食べやすく成形した結果としての「リアル」であることについて自覚的なのだろう。それは前述したとおり、タイトルをつけて日記の要素を薄めていることや、あとがきでも「日記というよりも創作に近いものである」という自身の日記観からも伺える。まだ一冊しか読んでいないので、次は『おくれ毛で風を切れ』を読んでみる。

2026年5月1日金曜日

シスタ・ラップ・バイブル

シスタ・ラップ・バイブル/クローヴァー・ホープ (著), 押野素子 (翻訳)

 最近読んだ『ヒップホップ名盤100』の中で、リル・キムが「早すぎたフェミニスト」と言及されており、積んであった本著を読んだ。ヒップホップはずっと好きで聞いてきたが、女性たちが構築してきたカルチャーについて知らないことばかりで興味深かった。

 ヒップホップ黎明期から現在までシーンに登場した女性ラッパー100人を個別に取り上げた「ラッパー名鑑」的な一冊である。 基本的には時系列で構成されており、それぞれのラッパーの来歴を追いながら読むことで、誰がどのような変化をもたらしてきたのかが、歴史として立体的に浮かび上がる。オールカラーで描かれたポップなイラストも魅力的で、ページをめくるだけでも楽しい。

 女性ラッパーにフォーカスして、ヒップホップ史を捉え直す試みは、男性中心で語られてきた歴史のアナザーサイドである。同じヒップホップでありながら、まるで別のカルチャーのように映るのは、女性の存在がこれまで十分に歴史として語られてこなかったことの証左と言える。

 ヒップホップにおいては、女性が搾取の対象として描かれてきたケースも多い。そうした文脈の中で、女性ラッパーたちが自身の欲望、経験をリリックに落とし込んできた歴史こそが、ヒップホップがもつレベルミュージックとしての側面を体現しているように感じられた。

 なかでも、リル・キムとフォクシー・ブラウンが印象的だった。彼女たちが女性のあけすけな欲望をヒップホップに持ちこんだことは革命だったわけだが、自身のセクシャリティを解放しているだけにも関わらず、下品だと言われてしまったり、男性中心の価値観の中で消費されてもきた。「b*tch」という言葉を筆頭にリリック内で女性を搾取してきたにも関わらず、当人たちが同様に表現すると男性が当惑する。このダブルスタンダードっぷりはどうなんだと思いつつ、自分も日本語ラップにおける女性のダイレクトな性表現を聞いて当惑することもあるので、人のことは言えない。

 一番驚いたのはニッキー・ミナージの捉え方だった。Kanye West「Monster」での客演バースは歴史に残る最強のバースであり、そのラウドな印象に引っ張られがちだ。しかし、彼女は女性のラッパーとしての新たな土壌を2010年代に切り拓いた。セクシュアリティに依存しすぎない表現とメロディックなスタイルも取り入れた幅広い音楽性で、リル・キムやフォクシー・ブラウン以降のラッパー像を塗り替えたゲームチェンジャーだと知った。かつて『Pink Friday』を何気なく聴いていた当時の自分の理解の浅さを思い知った。

 さらに、ローリン・ヒル、ミッシー・エリオットといった性的表現とは異なる軸で革新をもたらしたラッパーたちも取り上げられており、その音楽性だけではなく、キャリア全体を振り返って後進に対する影響の大きさについて丁寧に書かれている。シンギンスタイルの萌芽をローリン・ヒルに見出すのは新たな視座だったし、ミッシーがいかに才覚に優れた人間なのかもよく理解できた。

 本著によれば、かつては女性ラッパー同士が競合構造の中で「一人しか生き残れない」状況に置かれることも多く、それがシーンにおける持続的な定着を妨げてきた要因のひとつとされる。しかし現在では、DEI(ダイバーシティ・エクイティ&インクルージョン)の広がりやヒップホップ自体のさらなる大衆化を背景に、多様なスタイルの女性ラッパーが同時に活躍する状況が生まれている。NETFLIXの『LADIES FIRST』というドキュメンタリーが本著の理解を大きく促進してくれたので、まずはそちらを見てから本著を読むのもいいかもしれない。

 どういったサウンドなのかだけではなく、リリックの中身を知るとラッパーについてイメージしやすくなる。英語に明るくなく、USのヒップホップを聞く際にリリックを蔑ろにしてきたが、AI全盛の今はスラングも含めてわからないところは簡単に翻訳できたり、リリックの技巧的な部分を含めてレビューまで生成してくれたり、理解が深まりやすい環境だからこそ、積極的に情報を取っていきたいと感じた。

2026年4月24日金曜日

RECTRUCK peko × Mummy-D



  『RECTRUCK』というヒップホップ番組が始まっている。『フリースタイルダンジョン』、『日本統一』が放送されていた枠で地上波で放送されており、Abemaではアーカイブ視聴も可能だ。Tade Dust × EASTA、KOWICHI×YELLASOMAの回をYoutubeで流し見する程度だったのだが、今回はなんとマイメンpekoがMummy-Dと共演するということで本腰入れて見たのだった。

 番組の趣旨である車で旅をしながら2人で作った新曲もかっこよかったのだが、その曲を含めたライブが圧巻だった。何年かぶりに自分がRHYMESTERに心酔していた記憶が呼び起こされ、RHYMESTERのかっこよさを再定義するようなライブだった。

#24:peko(梅田サイファー)× Mummy-D(RHYMESTER)【LIVE SHOWCASE】

 直近のRHYMESTERのリリースで心がときめいたかと言われれば、正直それは難しい。現時点の最新作『Opne The Window』は久しぶりのアルバムだったものの、ノベルティ色の強い内容で、自分たちが聞いてきた、そして信じていたRHYMESTER像とは乖離があった。そのリリース当時に落胆した記憶が自分の中では更新されないまま3年が経過しており、同じモヤモヤを抱えている往年の日本語ラップファンも少なくないはずだ。

 そんな半信半疑の状態でライブを見たのだが、pekoが筋金入りのRHYMESTERヘッズであり、DJの視点でもあるからこそ、セットリストは愛とコンテキストに溢れていた。「そうだ!俺はRhymesterが大好きだったんだ!」と思い出させてくれたのである。

 開幕は、2人が最初にコンタクトした『Red Bull 64 Bars』での楽曲をそれぞれ披露するという高負荷な構成から、ライブにかける意気込みを感じた。当然二人ともガイドボーカルは一切なく、ビートの上でひたすらスピットしていく様は現場叩き上げゆえの力量が如実に発揮されていた。特にMummy-DがDJ KRUSHの超変則ビートの上で必死にラップしている姿があまりにも雄弁で、この時点で前述した半信半疑の気持ちは霧散していた。

 続くパートでは、各自の楽曲に別楽曲のバースを乗せていくマッシュアップ的な展開へ。そのチョイスが絶妙で、「マジでハイ」で「スタンバイ・チューン」のバースをキックするという往年のヘッズにはたまらない瞬間である。BPM的に言えば、もっといろんな曲あったと思うけど、我々世代にとっての『グレイゾーン』というアルバムの重要性さを再認識させてくれた。他にもpekoの数少ないソロ曲であるCocolo Blandのコンピに収録された「The Boy Flies In The Mid Night」をここで歌うことに驚いたし、その上で「ちょうどいい」のバースをMummy-Dが歌うなんて誰が想像しただろうか。

 逆にRHYMESTERの楽曲にpekoがバースをキックするパターンもあり、チョイスした曲が「Born To Lose」というのがヘッズすぎる。ベタに「B-BOYイズム」とかいきそうなものだけど、このチョイスにRHYMSTER愛が伝わってきた。今でこそ梅田サイファーとして順風満帆のキャリアを歩んでいるが、そこに至るまでの過程を外巻きながら見てきているので、このバースが骨の髄まで沁みる。RHYMESTER「敗者復活戦」の引用はさることながら、ECD、晋平太といった亡くなってしまったラッパーたちのラインを引用している点もアツかった。特に晋平太の<今日勝つために負け続けた>は曲との相性がバッチリだし、Mummy-Dと肩を並べた日という記念すべき日にぴったりだ。2人とも30代でメジャーデビューし、いわゆる「ストリート」と距離を取るかたちで日本語ラップを探求してきた共通点を持ち、その苦労を重ねた経験を分かち合っているからこそ「Born To Lose」はふさわしいことをバースで証明していた。

 その後、番組の企画で制作された「巡る」を披露。Mummy-Dが心の琴線に触れてくるタイプのしっとりモードの曲でかっこよかった。エモーショナルなhokutoビートの上で、オートチューンを駆使したメロウなpekoのアプローチに対して、Mummy-Dは自声で語りかけるようなラップという対照的な構成が素晴らしかった。この曲については番組内で詳細に解説されていたので、そちらを参照。(ブッダとRIZEのタギングのデカさの話が面白かった。)

 最後にはまさかの「ONCE AGAIN」おそらく人生で最も聞いたであろう日本語ラップの一つだが、久しぶりに聞くとMummy-Dバースでうっかり泣きそうになってしまった。若い頃に聞いていたものとは、まったく別の角度で刺さってきたからだ。これぞ音楽の魔法。pekoはここでもオリジナルバースを書き下ろしており、ツアー中とは思えないハードワークっぷりを見せつけていた。この貴重な機会を存分に活かそうとする鬼のヘッズっぷりに脱帽。さらに、番組司会であるZeebraまで呼び込み、Zeebraが「ONCE AGAIN」のバースをかますというアラフォー全員涙目案件。バースだけではなく、REMIX終盤の掛け合いまで再現されており完全にノックアウトされた。

 ヒップホップは頻繁にスタイルの更新が行われ、常にフレッシュであることが要求される残酷な音楽ジャンルだ。(あのANARCHYでさえ自身が老害である可能性を考えるような音楽なのだ。)RHYMESTERもキャリア終盤に差し掛かり、今から何か新しいことを彼らに要求するのは酷な話である。今回のライブでは、単純に昔の曲をラップしただけではなく、少しの「K.U.F.U」で彼らの膨大なレパートリーがまだまだ輝く可能性が垣間見えた。それこそ「枯れた技術の水平思考」で何か新しいアプローチのRHYMESTER像を再び生み出せるのではないかと感じた。それはさておき、今再びRHYMESTER熱が高まる、かつてのヘッズだったみんなに是非見てほしいライブだった。

2026年4月22日水曜日

理系の読み方:ガチガチの理系出身作家が小説のことを本気で考えてみた

理系の読み方:ガチガチの理系出身作家が小説のことを本気で考えてみた/大滝瓶太

 去年の友人のベスト10に入っていたので読んだ。人生において理系、文系の選択は大きなものであり、結果的に理系を選択して良かったなと思うこともあれば、別の可能性を想像してしまうこともある。本著では、そんな異教同士を接続させ、新たな小説の捉え方を提示している刺激的な1冊だった。

 小説を読むこと・書くことについて、理系視点から講義のように解きほぐしていく構成になっている。一口に理系といっても幅広いが、著者の専攻は「熱力学」「統計力学」。つまり、物理化学的な思考がベースにある。その視点で小説と科学という全く異なるものを重ね合わせて、鮮やかなアナロジーで小説について語っていく。論理的な思考回路で具体的に作品を分析し、そこで得た知見をさらに「読み方」として定式化していく手つきは理系そのものだ。小説と科学を以下のような解釈で接続し、本著の語りの必然性を見出していく点にグッときた。

「わかる」を積み重ねていたはずなのに「わからない」という全体が生成されていて、そういう経験を与えてくれる本に出会うたび、小説と複雑系の自然科学はかなり近い位置にあると思わされます。

 特にオモシロかったのは、ミステリーを理系的に読み解くパート。読書に対してわかりやすい答えを求めていないので、正直進んでは読まないジャンルだが、そのゲーム性の高さゆえに表現方法の進化が言語化できるオモシロさに気付かされた。同じジャンル小説のSFに対する視点も鮮やかで、SFを読んでいて苦労するのも小説体験の一部として機能していることがわかったので、これからは挫けることなく読み切れそう。

SFは「理解できない」という感覚が作品の底力となりえるのです。この感覚を使いたいとき、複雑かつ詳細にわたる説明をあえて改行なしに長く続けたりすると「読みにくさ」が「スケールの大きさ」として表れます。

 一番ハッとさせられたのは、読書習慣がもたらす功罪に関する指摘だった。長い間、本を大量に読む生活を続けている中で知識や思考の幅は広がった一方で、読んだ本の内容が以前ほど記憶に残らないことに薄々気づいていた。著者も同様の状況だと書かれていた。

慣れによって文章のパターンを知っていき、長く読書をする体力がついたのと同時に、簡単に読み流せるようにもなってしまった。効率良くたくさん読むための技術を知らず知らずのうちに身につけてしまっていて、この読み方こそまさに前回に述べた「『ノイズ』を削ぎ落とす」という行為です。

ノイズを得るために本を読んでいると思っていたが、ノイズと感じるセンサーが死んでしまっているのかもしれない。ただ読書していて、頭に残る数少ない本は、どこかしらノイズがあるものだなと逆説的に気付かされた。

 「小説の技巧」をエンターテイメントとして楽しめていないから本が売れていないのでは?という問題意識で本著は書かれている。最後のパートで具体的な作家を取り上げて、その技巧を分析しているのだが、それがなんと滝口悠生!日本の小説家でトップクラスに好きな作家について、理系的なアプローチで読み解かれており興味深かった。

 滝口作品に関して言及する際、誰もが人称について触れることになるが、本著は他の追随を許さない圧倒的解像度を誇っている。小説を読んでいるあいだにボヤッと頭に浮かんだことが逐一言語化されており、さらに作品構造を図示して「私」のあり方を整理していく試みも興味深かった。滝口作品の技術的アプローチについて「メゾスコピックな領域で世界を捉える方法」と位置付けており、これぞ理系的な視点だなと感じた。しかも『長い一日』の一文で締め括られる構成も鮮やかだった。小説の読み方に関する示唆を得たい人には理系、文系問わずおすすめしたい。

2026年4月20日月曜日

オートコレクト

オートコレクト/エトガル・ケレット

 エトガル・ケレットの最新作ということで読んだ。新潮クレストからリリースされた『あの素晴らしき七年』でファンになって以来、翻訳されるたびに読んでいる作家だ。この状況でイスラエル作家の小説を読むことに逡巡があったが、国家と個人を同一視する必要はない、そんな当たり前の事実に気づいた瞬間、戦争が思いのほか自分の心に染み込んでいることが怖くなった。それはともかく、アテンションの持続が難しい今の時代にふさわしい形式の小説集だった。

 SFのショートショートを彷彿とさせる極めて短い話が大量に収録されている短編集。 訳者あとがきによれば「フラッシュフィクション」と呼ばれる形式で、彼の得意なスタイルの一つらしい。SNSでちょっとした小話を読むくらいの分量であり、隙間時間に読むのにぴったり。男女関係、テクノロジー、宗教とテーマは多岐にわたるが、著者のシニカルさは通底している。ウェットではなくドライだからこそサクサク読み進められた。

 話が短い分、比喩表現の鮮やかさにふと心を掴まれる。短いからこそ密度が高いのかもしれない。

人は、本当に起きたことをそのとおりに覚えておくのが、どうも苦手らしい。たとえば記憶っていうのは、洗濯表示を無視して何度も洗った服みたいなものだ。色は褪せるし、サイズも縮む。もともとあった懐かしい匂いも、いつのまにか柔軟剤のランの合成香料にすっかり変わってしまっている。

向こうの部屋では、まだ恐怖というものを知らない好奇心旺盛な男の子が、老人みたいないびきをかいて寝ている。人生の木の幹を、のごぎりで削られているとでもいうような音をたてて。

 最もタイムリーに映る話は「犬には犬を」だ。飼い犬をアラブ人のドライバーに轢き殺されたことをきっかけに、ユダヤ人の子どもたちが復讐を企てる。戦争の原初的な衝動にフォーカスしながら、その緊張感とくだらなさの両方が伝わってきた。戦争と子どもの喧嘩を比較はよくあるモチーフだが、「向こうの犬にガソリンかけて火をつける」という具体的な展開があるからこそ、単なるアナロジーの領域に収まらないリアルネスがあった。どちらかが引き金をひいてしまったとき、落とし所はそれぞれが妥協する以外にない。

 コロナ禍を題材にした「外」も印象的だった。ロックダウンされて外出できなくなった後の世界で、外出許可が出ても人々は戸惑う。孤独になることの功罪と、他者との関係を構築していく中で徐々に心が死んでいくことをミニマルに描き切っていてコロナ禍をテーマにした作品を色々読んだ中でも鋭い切れ味だった。SNSを眺めることに疲れている人にこそオススメしたい小説集。