2026年6月9日火曜日

トピーカ・スクール

トピーカ・スクール/ベン・ラーナー 

 前作『10:04』も読んだベン・ラーナーの最新作。何を読んでいるか、途中までなかなか掴めないにも関わらず、ある地点から急に視界が開け、その世界に没入させられてしまう。そんな特別な読書体験だった。

 主人公アダムを中心に、家族や友人たちの人生が交錯する群像劇。舞台はアメリカ中西部の田舎町で、精神科医の両親を持つアダムがどのように大人になっていくのかが語られる。家族というものは、それぞれの年齢や立場の変化に応じて形を変えていく。本著では時間軸や視点を大胆にシャッフルすることで、その変化の過程を立体的に描き出していた。また、メタ的な視点を含むさまざまな仕掛けも特徴的で、読者を楽しませてくれる。

 登場人物の多さに対して説明描写は最小限で、前半は正直読みにくい。大きな事件が起こるわけでもなく、鮮明な情景描写と何かの気配だけが漂い続ける。しかし、読み進めるにつれてテーマが徐々に浮かび上がり、気づけば夢中にさせられる構成が見事だった。作品全体は安易に要約できないよう設計されており、パズルのピースのように最後に合わさっていくカタルシスが本著の魅力と言える。

 個人的には母ジェーンのパート「男たち」で一気にギアが上がった印象だった。現在から過去を振り返る語りでありながら、かつ二人称なのでインタビューを読んでいるようだった。ここで家族関係や過去の出来事が整理され、舞台背景がクリアになる。この章以降、各描写の意図が理解しやすくなったので、読みづらくて苦労している人は、何はともあれここまで読み進めてみてほしい。

 巻末で白岩英樹氏が熱く、熱く、語り倒しているとおり、本著は現代の言葉、特に「話し言葉」をめぐる物語だ。他者と会話することの意味について、ディベートを通じて考えさせてくれる。ディベートでは相手を論破することを目的とするが、その技術や価値観が、私たちの生活に侵食していることを浮き彫りにしているのだ。たとえば冒頭で、アダムが両親から注意された際にディベートのスタイルで反論するくだりは象徴的だ。それはアメリカや日本の政治的リーダーが、言葉を軽視し、はったり上等で息をするように嘘を吐き出す振る舞いとも重なる。彼らのスタイルがディベートと地続きであることが、小説を通じて浮かび上がってくるのが興味深い。

 また、大量の情報を一方的に投げつけ、反論がなければ同意とみなすようなコミュニケーションも登場する。ウェブ上で規約に同意する場面なんて最たるものだが、これもディベートの技法の一つらしい。本著ではディベートに限らず、今の社会に対する違和感を登場人物や設定を通じて見せていく展開が多く、著者の視点の鋭さに何度も舌を巻いた。

 ヒップホップが大きくフィーチャーされている点も印象的だった。著者はもともと詩人でもあるので、親和性は高いのだろう。なんと「サイファー」という章まであり、ディベートとMCバトルをオーバーラップさせていく語り口は「話し言葉」をテーマにした本著にぴったりだ。2 Pac、Bone Thugs-N-Harmony が印象的なシーンで登場していたり、ディベートにおいて速度と内容の激しさではない韻律の重要性について表現していたり。90年代の米国中西部における白人たちのヒップホップの受け止め方という観点でも興味深い描写が多かった。

 子を持つ身としては終盤の展開にも強く惹かれた。子どもが「よくないこと」をしたとき、大人はどこまで介入すべきなのか。本作は二つの対照的なシチュエーションを通じて、その難しさを描いている。大人が介入して解決すべき問題と、子どもたち自身に委ねるべき問題。その境界線の曖昧さを寓話的に表現する手腕は、まさに小説家ならではだ。

 さらに、ここで鮮やかなのは「介入」というテーマを家族の問題に留めず、重層的にアメリカ社会を描いていることだ。共和党は限りなく小さい政府を掲げ、市場原理を重視する一方、外交や移民政策では必要以上の介入を行っている。「介入」の是非が、社会全体の要請や利益ではなく、各人の立場や利害によって判断されている。そんな社会の硬直性をこんなふうに描くことができるなんて脱帽した。

 現代に関する直接的表現はミニマルであるにも関わらず、ここまで今の問題を鮮やかに描き出す筆力。そして、説教臭く感じさせない物語的ギミックの数々とポエジー。これらが組み合わさり、唯一無二の小説となっていた。次の作品が今から楽しみ。

2026年6月3日水曜日

そして誰もゆとらなくなった

そして誰もゆとらなくなった/朝井リョウ

 著者のエッセイシリーズである「ゆとり三部作」の最終作が文庫になったので読んだ。これまでの二作ともおおいに笑わせてもらったが、本著も間違いない仕上がりで何度も笑った。

 直近の作品であり、過去の作品よりも自分と執筆時の著者の年齢が近く、年をとることに伴う変化について書かれているエッセイが多いので、過去作の中ではもっとも親近感をもって読むことができた。

 とにかく文字で笑わせるスキルがハンパじゃない。SNSのくだらないミームは足元にも及ばない「これぞプロ!」というスキルをこれでもかと見せてくれる。テンポ、ボキャブラリー、文体など、文字で自身が経験した状況と感情を描くスキルは他の追随を許さない。世はエッセイブームであり、箸にも棒にもかからないエッセイが山ほどある中で、こんなに人の心を動かせるエッセイは他にないかもしれない。

 著者の「おもしろい」に対するシンプルな考えが本著であきらかにされており、まさに著者のエッセイの真髄である。「おかしみ」を抽出するスキルが高い。

おもしろいというのは私にとって、様々な邪念が一切入ってこないくらい、素直に、そして真剣に生きているときに滲み出る〝おかしみ〟のことなのだ。そのおかしみは、隙、と表現することもできる。

 「お腹がゆるい」という著者の特性に関するエピソードが今回は特に多く、その内容に勇気づけられる。自分もどちらかといえばゆるい方だが著者ほどではないので、こういった 経験談をてらいもなく開示してくれていると「自分なんてまだマシだ」というポジティブな気持ちになれるので感謝である。「腹と修羅」における「現代のシザーハンズ誕生の瞬間である。」というパンチラインは笑いすぎて死ぬかと思った。

いろんな人に『イン・ザ・メガチャーチ』をおすすめされているので、早く読みたい。

2026年5月26日火曜日

昔の会社員はどうやって仕事をしていたのか vol.1&2

昔の会社員はどうやって仕事をしていたのか vol.1

昔の会社員はどうやって仕事をしていたのか vol.2

 blackbird booksのインスタで見かけてジャンピング購入。AIが本格的に仕事へ導入されつつあり、大きなパラダイムシフトが起こりそうな今、過去の仕事のあり方を見つめ直す試みがとても興味深かった。

 著者は80年代生まれで、自身より上の世代である70年代、80年代に入社した方々へ仕事の進め方をヒアリングし、その内容と現状を比較しながら論考が展開されている。生活史の仕事版のような一冊で、各人がどのようなキャリアを歩んできたか。今でこそ個人のキャリアパスに関する情報はネット上に溢れているが、インターネット以前の「普通のサラリーマン」のキャリアはなかなかアクセスできない情報であり、そういう意味でもZINEという媒体の強みを感じる。

 vol.1では著者の伯父への聞き取りが中心なのだが、PCによって当たり前になった業務が、手作業だった当時の現実の数々に驚くしかなかった。特に製品台帳が大きな模造紙だったという話は衝撃的だった。とはいえ、現在、PC上で行っている作業内容を逆算して考えると、模造紙くらいしかないか…と勝手に頭の中でリバースエンジニアリングしていた。他にもFAXが登場した際に「紙が物理的に飛んで届く」と思っていた女性部下のエピソードなど、時代感覚の違いがオモシロい。

 vol.2では広告業界とメーカー営業の2人に話を聞いている。vol.1でそろばん→電卓→PCという流れを通じて、「計算」が仕事の中心を担っていたことにフォーカスしていたが、vol.2では歴史を深掘りしながら、「仕事は読み書き、そろばん」をキーワードとして、計算機からPCまでの発展を解説してくれていて勉強になった。現在の当たり前が当時は革新的だった技術だと知ると、AIもいずれ社会へ溶け込んでいくのかもしれない。私が働き始めた2010年代には、すでにPCも基本的なソフトも存在しており、ここまで大きな変化の波をリアルタイムで経験するのは初めて。だからこそ柔軟に受け止められる人間でありたいと思う。

 70〜80年代は「モーレツ社員」と呼ばれる働き方が当たり前で、日本の経済成長は過重労働によって支えられていたとも言われる。しかし、当時の仕事における「計算」にかかるコストを知ると「そらそうやろ」という感想しか浮かばなかった。テクノロジーの進歩によってコストを圧縮できるようになった分、他のコストが上乗せされている状況ではあるが、「たくさん働いたら、それだけ成長する」という盲目的な神話を復活させようとする現政権の労働観はやっぱり理解不能だなという思いを新たにした。

2026年5月22日金曜日

脱獄のススメ 弍

脱獄のススメ 弍/NORIKIYO

 昨年秋に第一弾が届けられたNORIKIYOの獄中記の第二弾。第一弾も最高にオモシロかったが、まったく異なる味わいをもった、超一級の刑務所潜入ルポルタージュだった。

 前作のまえがきは獄中で書かれていたが、今回は仮釈放後に綴られている。釈放後にライブに客演参加している姿はSNS等で目にしていたものの、釈放後の本人の言葉に初めて触れると「本当に釈放されんだ…良かった…」という気持ちになった。本著では服役9〜14ヶ月の頃の日記が一日も欠かすことなく綴られている。毎日これだけの分量を手書きで書いていることに改めて驚かされるし、NORIKIYOの眼と耳を通じて知る「今の刑務所」の様子は前作に続いて目から鱗な話の連続だった。

 刑務所ライフは娑婆と完全に乖離しており、当たり前にできることが徹底的に制限される過酷な状況を読めば読むほど、今の生活に対する感謝が湧いてくる。そんな中でもNORIKIYO自身の刑務所内でのランクが上がったおかげで、お菓子が買えるようになり、お菓子描写は前作に比べて大幅に増加。もはや砂糖こそドラッグなのではないかと思えるほどの熱量で書かれており、食べたくても食べれない無念さが文章に昇華されていた。

 刑務所にいながらも、ヒップホップの話題はてんこ盛りだ。閉鎖的な空間の中でも近年の日本語ラップの盛り上がりが届いているのだ。Creepy Nuts、Awich、梅田サイファー、千葉雄喜などがラジオを通じてNORIKIYOに届いており隔世の感があった。マスに届く音楽は、ヒップホップカルチャーにおいて軽視されがちだが、ANARCHYが少年院でZEEBRAに出会ったように、マスだから届く層が間違いなくある。

 ZEEBRAといえば、例のビーフに関して長めに言及されており、これはあの頃の日本語ラップヘッズ全員が読むべき内容だった。当時から現在に至るまでの感情や意図が、愛憎入り混じりながら赤裸々に書かれており、NORIKIYOがどれほどヒップホップを愛しているか伝わってきて胸が熱くなった。ビーフについては他にもYZERR vs 舐達麻を通じたNORIKIYO流ビーフ論もあり、「どちらがどうとかより、両方に感謝しろや!」という視座は新鮮だった。

 NORIKIYOがミュージック・マガジンに掲載された自身の作品レビューについて言及するシーンも印象的だった。NORIKIYOと批評といえば「混ぜるな危険!」なわけだが、今回は比較的大人な対応になっている。『犯行声明』に収録された曲の解釈が異なることについてツッコミを入れているのだが、改めて当該曲を聴くとメタファーのレベルが相当高く「これはしょうがないのでは?」と思った。同時に、深い解釈をもたらすことができるという意味で、NORIKIYOが優れたリリシストだと再確認したし、これまでの作品でリスナーが気づいていない解釈がたくさんあるかもしれない。

 『犯行声明』やこの獄中記の制作背景についての記述も興味深い。前作も本著も自費出版ながら、完成度は商業出版と遜色ない。実際、現役の編集者たちが手伝っているようで、当初は出版社からのリリースを想定していたものの、重版タイミングを自身でコントロールできないことを知り、クリエティブのハンドルを自ら手離さない姿勢はまさにインディペンデントの矜持だ。

 誰かに自分の言葉を預けることに対して敏感なのは、音楽における原盤権と重なるからだろう。書籍は音楽ほどインディペンデントな動きが広がっていない中で、それでも彼が自分の言葉を大切にする姿勢は、自費でZINEを作っている身からすれば勇気づけられた。さらに、自費出版を選択したにも関わらず、編集者たちが手を引かずに協力していることに、獄中記に対する編集者たちの愛を感じたのだった。

 前作と大きく異なるのは、リリックに関する内容が飛躍的に増えたことだ。一つは、NORIKIYOがいかにして塀の中でリリックを書いてきたか。はじめのころはトイレットペーパーに書くという懲罰にもなり得るリスキーな行動を重ねつつも、やがて頭の中で組み立て、居室で書き出すというスタイルへ徐々に進化していく過程がスリリングだった。さらに、NORIKIYOがラッパーであることが発覚してからは、同囚だけではなく看守まで含めた皆が彼のクリエティブを見守っているような状況にグッときた。これだけの濃い人生経験をどのようにラップとして昇華してくれるのか、楽しみでならない。他にも多様性の観点とリリックの兼ね合いについても相当な文字数を割いて書いており、現役のラッパーでここまで自分のリリックについて思慮深く考えているラッパーがどれだけいるのだろうか。

 もう一つは、受刑者たちのリリックである。NORIKIYOのリリックは掲載されていない一方で、周りの受刑者たちのリリックが載っているのだ。比較的長期の刑に服している受刑者が多い工場に配属されており、彼らのリリックは言葉の重さがとんでもない。実際にラップして音楽としてどう響くのかは分からないが、読み物としてのリリックの完成度が高くてグイグイ引き込まれた。しかし、当然ながら、彼らの多くは被害者がいる重罪を犯した犯罪者…このアンビバレントな感情に引き裂かれる。決して彼らの過去の行いを肯定するものではないとNORIKIYOも繰り返し言及しており、その上で救済の音楽としてヒップホップがこれだけ機能していることをダイレクトに見せつけられると、刑務所が用意するガワだけの更生プログラムよりも人を救う可能性があるのではないかと思ってしまう。

 読んでいて思わず泣いてしまったのは、塀の外からの名前を呼ばれる場面だった。居室にいるNORIKIYOへ向けて、刑務所の外から誰かがいたずら半分に名前を叫ぶ。その一連の流れの描写および、それに対して応答する文章の素晴らしさよ…塀の内と外の話は幾度となく登場するが、このシーンほどポエティックなものはなかった。いたずらに名前を呼ばれたことだけで、ここまでのことが書けるのはNORIKIYOがリリシストであることの証明である。

 刑務所論や依存論といった骨太なテーマについて深く掘り下げている点も興味深い。前者では、刑務所が本当に更生施設として機能しているのか、いかに人権軽視な状況が続いているのか、具体例を交えて論じられる。再犯率が約50%という現実を見れば、少なくとも数字上は機能しているとは言い難い。(リピート率50%のテーマパークというアイロニーを炸裂させていた。)こんな状況において、NORIKIYOは清々しいほどに理想を語っていて胸がすく思いだった。SNSでは冷笑的な現実主義者の立ち回りが賞賛され、理想を語る人間が後ろ指をさされがちだ。しかし、それはあくまでネット上での話だ。ネットから強制的に切り離されたNORIKIYOに肩を揺さぶられ現実に引き戻されるような感覚だった。是々非々だけでは社会は前に進まない、自分なりの理想を語り続けなければならないのだと感じた。

 自分自身、若い頃は政治を筆頭に社会に対する怒りや、こうあってほしいという理想を掲げていたが、年を重ねるにつれてどんどん他人事になり、自分の頭で考えなくなっていた。しかし、本著を読むと、それがいかに危ういことで、お上の扱いやすい国民になってはならないという思いを強くした。

 後者の依存論については、前作の「大麻論」から、さらに普遍的な論考へと拡張している。現代社会が依存に満ちていることを踏まえ、ドラッグに限らない依存の構造が論じられている。このきっかけになったのは、仮釈放に向けた教育プログラムが始まったことが影響しているのだろう。始終硬直しているように見えた刑務所の中で、この授業の柔軟さは意外だったわけだが、それでも日本社会のドラッグに対する盲目的なアプローチについては、NORIKIYOの主張が説得力をもって響いた。地動説と天動説を引き合いに出しながら、未来の読者に語りかける様子は本という時間軸の長いフォーマットならではだ。

 清濁あわせ呑んできたNORIKIYOだからこそ辿り着ける視点の数々。こんな獄中記は、今後二度と読めないのではないか?そう言い切りたくなる傑作だった。

2026年5月11日月曜日

トーフビーツの(難聴)ダイアリー2023

トーフビーツの(難聴)ダイアリー2023/tofubeats

  日記熱が高まったので積読していた本著を読んだ。インタビューを含め自己開示がダサいというムードは、ヒップホップのアーティスト周辺で散見されることだが、ここまで筆力をもって自分の状況や感情を書くことができるミュージシャンであれば、むしろ強力な武器になりうることを証明していた。

 2023年の出来事がまるっと1年分収録されている日記ZINE。今回もZINEということもあってか、踏み込んだ内容が多く、ファンとしては嬉しい。2023年当時、まだ社会にはコロナの余波が残っていたことを日記で気付かされるなど、やはり記録しておくことに意味があることを再認識した。東京のシティライフを謳歌する様子と、それに伴うストラグルが並行して描かれており、酸いも甘いもある、人生を象徴するような日記となっていた。

 2023年から現在に至るまで飛ぶ鳥落とす勢いで活躍を続けているが、2023年時点でなお、自身の音楽キャリアや築いてきたレガシーについて疑問を抱いている点に彼らしさを感じた。自分の作品を疑う視線は一見ネガティブに映るかもしれない。しかし、それは裏返せば、まだ自分ができることを模索しているとも言える。だからこそ彼は停滞することなく、常にシーンの中でプレゼンスを発揮し続けているのだろう。

 tofubeatsのレガシーについて友人と話した際に印象に残っているのは「Lonely Nights」だ。もし、tofubeatsがYOUNG JUJU名義だったKEIJUにオートチューンを提案していなければ、今の彼のスタイルや立場はなかったはずである。だから、日本語ラップヘッズたちはもっとtofubeatsに感謝すべきだ、という持論を勝手に抱いている。そんな「Lonely Nights」を収録した『FANTASY CLUB』に関して言及しているラインにくらった。

手前味噌だがこのアルバムは良い悪いは別として何かを突破しようとしていてその気合いみたいなものはそれなりにきっちり込められたとは思う。せっかくHIPHOPに類する音楽を聴いているのだがら簡単に越えられないものを越えようとする気概みたいなものを感じたい。

 もともと難聴をきっかけに日記がスタートしたわけだが、コロナ禍が明け、ライブやDJ活動が本格化していくタイミングで、耳が再度不調をきたしていく様子が描かれる。耳に入ってくる音の総量(ボリューム×時間)で症状が変化する。難聴がここまでデリケートな病であることを初めて知った。ミックスやマスタリング、ライブでのオペレーションなど、音の細部に強いこだわりを持つミュージシャンだからこそ、余計に辛いだろうなと感じた。

 合間合間に挟まれる論考も興味深い。たとえば、HIPHOPライブにおける相互客演問題について言及していた。フェスなどでは、客演曲はゲスト込みでやること当然視されており、実際に本人が出てこないと観客は肩透かしを食らった気分になる。勝手に期待され、勝手に失望される構図は確かに不憫だと思う一方で、リスナーとしては「同日出演ならやってほしい」と思ってしまう気持ちも正直ある。

 他にはアーティストの言動と楽曲の関係性についての話。言動と音楽を切り分けて「関係ない」という態度を決め込む人もいれば、逆に言動と音楽は不可分で適切な対応が取られなければならないという態度もあるだろう。直近ではKanye Westが最たる例だろう。このどちらかを選びきれない感覚について「選ぶこと」が加速度的に要求されている現代の社会状況を踏まえつつ、自身のDJ論も絡めて実直に語られていた。

 SNSではこういった思考の軌跡を追うことは難しい。だからこそ本というスタティックかつ、いい意味で一方的なフォーマットの強度の必要性を感じた。2024年の日記もリリースされることを心待ちにしたい。

2026年5月10日日曜日

N/A

N/A/年森瑛

 美玉ラジオで取り上げられていたので読んだ。現代的な感覚や時代の空気をこういった形で小説へ落とし込む筆致に芥川賞候補になるのも納得のオモシロさだった。

 主人公は高校生のまどかという女の子。彼女の学生生活を軸にしながら、現代社会のムードを描いていく。まどかは、生理になりたくないという理由で食事制限を始めたり、恋人とは異なる「かけがいのない他人」を追い求めて女性と交際を始めたりする。こういった一連の行動は「社会規範」から逸脱する行為に映ってしまい、そんな逸脱した主人公に対して、周囲がどのようなリアクションを取るのか、細やかに描かれている点が興味深い。

 規範から外れた存在に対して、杓子定規に正しく応答することに意味があるのか?当人の気持ちを傷つけない最適なアプローチは、当人のことを本当に考えているのだろうか?「多様性」という言葉だけが先走り、実態を伴わず形骸化している状況が、繊細な年頃のティーンエイジャーの関係性の中で浮かび上がっていた。

 特に、インターネットの普及により、ある種の「正解」の流布で起こったコミュニケーションの均一化が、人間関係を毀損している可能性に気付かされた。周囲のリアクションと自分の意図が乖離していることに戸惑いを感じた経験はあるが、拒食症や同姓愛といったマイノリティのテーマと接続することで、当人の気持ちをいかに置き去りにしているのか鮮明にしている。特に後者の同姓愛に関しては、2人の関係が一番大事であるにも関わらず、社会的正義、貢献という名の元で、まどかの恋人が己の承認欲求を満たす様は最近よく見る光景だ。

 本著全体から伝わってくるのは、自分自身の感情に根ざしたコミュニケーションの重要さと、テクノロジーの進展によって私たちがそれをどれほど疎かにしているのかということである。一番顕著なのは終盤のLINEのやり取りだった。LINEは日本における2010年代後半以降のコミュニケーションを象徴するツールだ。そこでどういった言葉をかわしていくのか、思考過程を含めてこれだけスリリングに描いた小説を読んだのは初めてだった。チャットアプリなので、応答することが前提となっているが、それはアプリに駆動されているだけで、適切な言葉を探す意味がどこにあるのかと思わされる。

 タイトルの「N/A」は、Not Available=データがないことを意味している。エクセルのVLOOK関数などで値を探しにいっても見つからないときに帰ってくるエラーだ。皆が自分の内側ではなく、さながらVLOOK関数のように外側に正解を参照しにいく態度の比喩として秀逸である。ゼロではなく「存在しない」というニュアンスが、正解探しの虚しさを端的に表現している。

 心がひやっとしたのは後半の生徒と先生のやりとり。「先生が元生徒と結婚する」vs「生徒が授業中に内職する」という双方が規範から逸脱した結果として、教師から振るわれる言葉の暴力にゾッとしつつ、そこで連帯するシスターフッドにグッときた。突発的な状況の中では、誰もが検索、参照することなく、思い思いの連帯を示すからだ。ここで初めて本当の意味での多様性が立ち上がる裏腹な構成が見事だった。

 多様性と言われるものの、それは理解できる範囲でのみ許容されるという暗黙の了解の上に成り立っている。朝井リョウや村田沙耶香がここ数年指摘してきた息苦しさとも響き合いながら、本著はさらに軽やかに、なおかつ現代の空気やツールをうまくパッケージした上で提示している素晴らしい小説だった。

2026年5月9日土曜日

すべての原付の光

すべての原付の光/天沢時生

 あまりにも気になりすぎるタイトルかつ早川書房から出てることに惹かれて読んだ。日本のSFを読めていない中で、脳みそがスパークしそうな圧倒的情報量とドライブしまくる物語の構成に魅了されてあっという間に読み終えた。

 タイトル作を含めて合計5作の短編・中編で構成されている。似たような話は一つとしてなく、それぞれ異なる魅力を持っていた。なんといってもタイトル作が「これぞ日本のSF!」という内容で最高だった。暴走族およびヤンキーという絶滅危惧種の日本の伝統を、SFに落とし込んでこんなユニークな小説が書けるだなんて。勝手に原チャで暴走していた中坊を捕まえてタレットから空中に打ち込み異世界に吹き飛ばすという設定がぶっ飛んでるし、原付の光が明滅するシーンにおけるリテラルな表現は斬新だった。全体通してのギミックとしては、ルビ振りが特徴的。漢字に対して英訳ルビが振ってあるので、情報量が増えて世界観の構築に一役買っていた。

 一番好きだったのは「ショッピング・エクスプロージョン」ドン・キホーテをオマージュした量販店が無限に増殖し、地球上を侵食していく。それを食い止めるミステリーバディものという荒唐無稽な話。『フライデー・ブラック』を想起しつつ、ワンピースやドン・キホーテというベタなものをかけあわせてフレッシュな文学に昇華してしまうスキルに脱帽した。主人公2人がジャズメンを模した名前だったり、熊谷が大麻の街だったりと、ハイコンテキストなカルチャーのマダラ模様も読んでいて楽しかった。タランティーノに映画化してほしい。

 一方で「竜頭」は少し不思議系なストーリー展開に地方の鬱屈性が配合された独特の世界観だし、「ラゴス生体都市」は進撃の巨人オマージュな展開だったり。同じSFの中でも、サブジャンルを横断して自分のスタイルに落とし込む様からオールラウンダーであることが伝わってきた。

 いわゆる日本的なサイバーパンクのイメージを率先して具現化している街は、渋谷、新宿といった都市部かもしれないが、そのベタ性から距離を取り、地方を舞台に想像力を爆発させて軽やかに完全オリジナルの世界観を作り上げている点にクリエイティビティを感じた。新作が最近出たばかりのようなので、そちらも読みたい。