2026年11月6日金曜日

パトリックと本を読む

パトリックと本を読む:絶望から立ち上がるための読書会/ミシェル・クオ

 『第11回 世界のノンフィクションがおもしろい!!』という特集を、複数の出版社が合同で開催していて、本屋でたまたま遭遇。『語るに足る、ささやかな人生』を読んで、アメリカに関する本をもっと読みたくなって読んだ。アメリカ南部の過去と現在を通じて、読書を軸にした教育実践を記録した本として興味深かった。

 著者は、ハーバード大学を卒業し、ロースクールにも進んだアジア系アメリカ人のエリートである。弁護士への道が約束されていた彼女は、自分の進路に疑問を抱き、ミシシッピ州ヘレナで教師として働き始める。本書は、その教師時代の話と、当時の教え子で、のちに拘置所に収監されたパトリックと取り組んだ勉強会の記録、という二本立てで主に構成されている。

 前半は教師としての日々が中心で、著者の考え方やキャリア形成など、彼女目線で話が展開していく。2000年代後半のミシシッピ州で、貧しいアフリカ系アメリカンに対する教育の現状が具体的に語られている。2年間の期限付きとはいえ、順風満帆なキャリアを投げ打ってでも現場に飛び込み、社会問題を自分ごととして引き受けるアプローチは、誰にでもできることではない。当時の南部では、ごく少数派だったアジア系として学校でも私生活でも苦労を重ね、ワーカホリックになっていく姿にはリアリティがあった。身体がボロボロになりながらも子どもたちに向き合い、どうすれば主体的に学ぶ機会を生み出せるか?試行錯誤した末にたどり着いたのが、読書と自由作文だったいう点が興味深い。

 「本を読むことは他の娯楽と変わらない。高尚でもなんでもない」という意見を目にすることがある。私自身、たくさん本を読んでいる現状を誇る気持ちは特別なかった。しかし、本著を読むと、読書の効果の大きさを否応なく感じさせられた。文字を追い、頭の中で情景を描き、そのとき湧いた感情がないまぜになっていく。さらに、詩に近い自由作文で、自分の考えや感情を言葉にするプロセスの大切さも伝わってきた。言葉のインプットとアウトプットを繰り返すことで、子どもたちの学力が上がっていく様子をみると、国語の授業が何より大切だという話は、きっと間違いではないのだろう。

 後半では、殺人容疑で拘置所に留置されたパトリックとマンツーマンで読書の授業を行うようになる。前半の子どもたちの躍動感とは打って変わって、全体に閉塞感が漂っている。前半で彼のパーソナリティを知っているからこそ、重い罪を背負ってしまった事実は読んでいて辛いものがあった。しかし、そんな状況に陥ってしまった彼に伴走する著者の行動力と忍耐力は、目を見張るものがある。そして、読書の力に大きくフォーカスするのが後半である。さまざまな課題図書が登場し、タイトルどおりパトリックと本を読んでいくことになる。

 著者は元教師だからこそ、パトリックの拘置所での暮らしが少しでも楽になるような本を、彼の読書レベルに応じて選んでいく。しかし、パトリックの受け止め方はこちらの想像を超えていくものだった。たとえば、空想の世界が逃げ場となればと『ナルニア王国物語』を差し出したところ、彼はナルニア王国が実在すると思い込んでしまう。もっとも象徴的なのは、フレデリック・ダグラスの自伝である。奴隷制度から抜け出すために読み書きを学び、自由を手にした元奴隷のダグラスは、パトリックにとってロールモデルになり、読み書きを学ぶモチベーションになるはずと著者は考えていた。しかし、パトリックはダグラスの境遇を知れば知るほど、自分が読み書きを疎かにしてきた過去と向き合わざるを得なくなり、非常に辛い読書体験になってしまう。このように誰が何を読み、どう感じるかは各人の置かれた状況次第だ。読書会のプリミティブな意義が浮かび上がっていたし、このラインが印象的だった。

本を読めば、たとえつかのまだろうと、人は予測を超えた存在になれる。それが読書の力だ。本を読んでいるとき、その人は別のだれかが「こういうタイプ」と決めつけることのできる人間ではなく、あらかじめ規定されていない素のままの人になっている。

 詩や歌も取り上げられており、2人が日本の俳句を一緒に読む場面には驚いた。英語圏での俳句の受け止められ方の事例として興味深いし、ミニマルな構成だからこそパトリックの感性が研ぎ澄まされていた。

 読書会と並走して描かれるのは、パトリックの家族の様子と裁判である。家族については、両親への思いに加え、若くして生まれた自分の子どもへの思いが胸に沁みた。一方で、父親はろくでもない存在で、パトリックがまともになろうとしても、足を引っ張る要素があまりに多い。そんな環境は、本人の理性だけでは制御しきれず、負のスパイラルが続いていくことを思い知らされる。

 裁判については、著者が弁護士である視点もあいまって、解像度の高いルポとして読み応えがあった。長期間拘禁されながら、裁判の順番がなかなか回ってこない現状は、アフリカ系アメリカンの立場の脆さを、制度そのものが象徴しているように感じた。

 大勢の読書体験のひとつではなく、n=1のパトリックの読書だからこそ、胸に刺さるものが間違いなくある。原題に忠実なタイトルはマーケティング的にはNGかもしれないが、作り手の真摯な気持ちが伝わってきた。「人生を変える読書」と言えば大袈裟かもしれないが、本を読むことについて考えたい人にあまねく勧めたい傑作。

2026年11月4日水曜日

師匠はつらいよ 藤井聡太のいる日常

師匠はつらいよ/杉本昌隆

 ゆとぴやブックスのポッドキャストに出演した際に教えてもらって、Kindleでセールしてたので読んだ。(今もポイント半額還元中。)寝る前に読むのにちょうどいい温度感のエッセイ集だった。

 著者はベテラン棋士であり、現在日本で最も有名であろう藤井聡太の師匠でもある。そんな師匠から見た弟子の姿を中心に、将棋を生業とする暮らしの様子が綴られていく。もとは週刊文春の連載をまとめたもので、週刊誌のコラムらしさがバリバリに出た文体が最大の特徴だ。常人には理解しがたい将棋の世界について、平易な言葉で軽やかに書かれていて読みやすくオモシロい。文章を書くとなれば、つい身構えて、どれだけクリティカルなことが書けるか腕まくりしてしまいがちだが、あくまで自然体を貫いていおり、力の抜け方が心地いい。

 素人の解像度では、将棋が話題になるのはタイトル戦くらいのものだ。しかし、それはヒエラルキーの頂点の話にすぎない。トップ棋士ではない棋士が生きていくことの裏側、そこには楽しさ、やりがいがある一方で、徒弟制度や年齢制限といったシビアな現実も転がっている。勝負の世界の苛烈さはオブラートに包まれ、あくまで一側面として描かれながら、日常の些細な出来事を並行して語っているので将棋の世界を身近に感じられた。

 最大の読みどころは師匠から見た藤井聡太という規格外の棋士の姿だろう。とにかく勝ちまくっている中で、長い時間見てきたからこそのパースペクティブによる藤井聡太像はここでしか読めない。このエピソードとかクソ熱い。

後に東京大学に進む弟子の一人が奨励会を退会する直前、最後の研究会で対局相手に指名したのが藤井だった。  規格外の才能を間近で見られる最後の日。一門を去る涙、それを見送る涙、対局中でも止めることなどできない。まだ中学生の藤井奨励会員までもらい泣きしていた。

 将棋はAI時代に突入しており、藤井聡太はその時代の申し子である。そんな弟子から寄贈されたAMDを搭載した超ハイスペックパソコンでこんなに柔らかい文章を書いていることも逆説的でじわじわくる。

 巻末の鈴木忠平による解説が白眉で、これがあるとないとでは読後の印象が大きく変わる。さすが稀代のノンフィクションライター。2も出てるようなので、また読みたい。

2026年10月26日月曜日

語るに足る、ささやかな人生

語るに足る、ささやかな人生/駒沢敏器

 『MAKE SOME TRIPS vol.2』で本著が紹介されており「いつか読みたいな〜」と思っていたタイミングでまさかの復刊。バックパックブックス謹製のZINE『SMALL BOOK TALK』と共に読んだ。エッセイでここまで心の深いところまでタッチされる感覚は久しぶりで豊かな読書体験だった。

 本著は、90年代後半に著者がアメリカの「スモールタウン」を車で巡った旅の記録である。元の本は2000年代初頭にリリースされ、本著はその復刊となる。著者曰く「スモールタウン」とは人口がせいぜい3000人程度のアメリカの本流からは遠く離れた小さな街のこと。観光名所でもない、なんてことのない街を次々に訪れて、見たこと、聞いたことを著者ならではのタッチで描き出しているのだが、それがめっぽうオモシロい。

 ここ5、6年で相当数の本を読んできたが、文章のうまさは間違いなくトップクラスだ。端的で読みやすいながらも「ここしかない!」といったクリティカルショットを連発してくるパンチライナー。なおかつ小説や詩を思わせるポエジーも兼ね備えている。文章力のペンタグラムがあれば、限りなくパーフェクトに近い。

 そんな文章で綴られるのは、変哲もない街で暮らす人々の人生であり、それが本著の最大の魅力である。同じ街を訪れ、同じように取材できたとしても、こんなふうにはまず書けない。たぐいまれなる文章力があってこそ、平々凡々な人生を豊かに切り出し、描き切ることができるのだろう。読んでいると、著者の目を通して、牧歌的で包容力のあるアメリカ像を体験できる。読書はタイムスリップ装置の側面があるが、この臨場感は並々ならないものがある。

 そんな著者だが、旅の物語は書こうと思って書けるものではなく、向こうから物語が寄ってくると言う。この一歩引いた目線だからこそ描けるのだろうし、ドライなシーンもあり、ジャーナリストとしての矜持を感じる場面もあった。

 ウィスコンシンで小説家を目指す女の子、ミシシッピで豪邸に1人で住む男性による青いトマトのフライ、廃墟のようなホテルを営む老婆など、印象的なエピソード、人物を挙げ始めるときりがない。インターネットがある今、何もかもわかった気になりがちだが、足を運んで稼ぐ情報の尊さに勝るものはないことを痛感させられる。

 登場人物たちから放たれる言葉や著者の考えは、30年近く経つにも関わらず、まったく古びて聞こえない。なんなら今の時代にこそ刺さるものがたくさんあって、エバーグリーンな魅力を放っている。そんな箇所をいくつか抜粋。

確かに毎日そのものは単調だ。しかしその単調な生き方を支えるための理由が明確にあり、人と人とのつながりが、単調さを帳消しにするような張り合いを与えていた。テレビや映画やその他数多くの娯楽が人から何かを奪い取り、その後に残された空漠とした虚しさのようなものの方が、よほど単調でしかも底のない不気味なものなのではないかと思った。そしてその底なしの心の穴には、暴力や苛立ちが音もなく入りこんでくるのだ。

日々使うための道具でも、屋根の修理でも何でもいい。自分の手でつくったり直したりしながら、その人は本当は「セルフ」に向き合っている。なぜ生きているのか、なぜ生活をしているのか……モノをつくる理由を遠くまで延長していくと、いずれは必ずそこに突き当たるはずだ。あるいは突き当たるようにできているのがアメリカだ。

ルート66も数々のスモールタウンも、非力ながらその存在が重要なのは、そのような人間的な想像を与えてくれ、その想像がすべての人の心のなかで物語として機能するということだ。それは効率性に対する物語性の対抗と言ってもいい。

 巻末には、バックパックブックス店主の宮里さんの解説がついている。2026年から眺めた本著の位置づけが浮かび上がり、締めくくりにふさわしい。というのも、ダイバーシティが進んだ移民大国である現代のアメリカ像とかけ離れていることは否めないからだ。本著に登場するアメリカ人は、ほとんど白人であり、しかも南部を訪れているにも関わらず、アフリカ系アメリカンのエピソードがないことには正直違和感があった。本著のパースペクティブは、アメリカに入植した白人たちが形成した箱庭の中で構築された人生の真理であるからこそ、ハードな現実はある程度取捨選択されている気がした。それゆえに小説のような感触があるのかもしれない。

 とはいえ、本著に登場する人物たちの人生は間違いなく存在したわけで、著者がいなければ、ついぞ出会えなかった魅力的なエピソードの数々は輝きを失うことはない。バックパックブックスが発行している『SMALL BOOK TALK』では、本著の旅をマップで起こした図があって読む際に非常に有用だった。他にも復刊の経緯や著者の背景、本著にまつわる選書など、さらに深掘りできる内容で興味深かった。しかも、二冊とも装丁がユニークなので、間違いなく手元に置いて併読することを大推奨!

Small Book Talk 〜駒沢敏器『語るに足る、ささやかな人生』〜』


2026年10月20日火曜日

ブラックボックス

ブラックボックス/砂川文次

 自転車を修理して再び乗れるようになり、天候も最高なので、ここ最近は自転車に乗るのが楽しい。自転車絡みの本を読みたくなり、ずっと積んでた本著をついに読んだ。2021年のコロナ禍真っ只中の芥川賞受賞作品なのだが、当時はまったく気にしてなかった。それがもったいなさすぎるほど、現代日本を鮮やかに描いている快作だった。

 バイクメッセンジャーであるサクマが主人公で、仕事と生活を営みながら、その中で考えている思考の断片の数々が綴られていく。冒頭の自転車事故のシーンの粒度の細かさから一気に引き込まれる。高速で走る自転車から投げ出される瞬間が、意識の移り変わりまで含めて描かれていて、事故の経験がある人なら、自分のケースが間違いなくフラッシュバックするはず。

 メッセンジャーという職業柄、街を自転車で駆け巡るシーンが気持ちいい。「ここを渡って、右に曲がって…」といったルート選択や、街に対する視座など、自転車で走行中に考えることも落車と同じく丁寧に描かれており、読んでいるあいだ、自分がペダルを漕いで街を滑走しているような気分になる。「微妙な街の息遣いを誰よりも知っている」というC.O.S.A. × KID FRESINO「Swing at somewhere」を彷彿とさせるラインにもアガった。

 メッセンジャーは、今や社会のインフラになりつつあるウーバーイーツに代表されるギグワーカーの先駆けである。そんな自転車ギグワーカーの生活のリアルと、人生のなんともならなさを合わせ鏡のように描いている。どれだけペダルを漕いで回転(ケイデンス)を上げても、自分の人生が前進するように感じられない。社会の歯車として回っているが、高速で回している間は回すことだけを考えていて、回し方を考えるような引いた視点で捉えることができない。人生が硬直化し、どうにもならない閉塞感が詰まっていて苦しくなるシーンも多い。

 それを象徴するのが、人生におけるゴールとループの話だろう。サクマは自分の人生が同じことの繰り返しで、何かを積み上げてゴールに向かう感覚がないことを不思議に思っている。職を転々としても、結局異なるループに移ってるだけで先に進んでいない。現代社会の不透明さ(つまり、ブラックボックス)、理不尽さと自身が感じる無力感を、自転車を通奏低音にしながら極めてドライな視点で描いている点が本著の読みどころだろう。

 一方で、サクマはドライでありながら、突沸するように怒りを爆発させるタイプでもある。怒りが小説を一気に埋め尽くす瞬間のとてつもないエナジーの虜になった。アンガーコントロールして上手く世渡りしてほしいと思いつつも、胸クソキャラが登場すると、サクマの怒りの矛先にならないかな…と思いながら読んでいた。すると、それを察知するかのように、暴力を短絡的に義憤だと勘違いすることの愚かさを厳しく指摘されてぐうの音も出なかった。

 一度ループから外れた(落車した)場合に、人生を好転させることの難しさもヒリヒリと伝わってくる。それは後半に突如訪れる刑務所パートに顕著である。最近、NORIKIYOの獄中記を読んでいたことで「刑務所」という場所に多少馴染んでいたこともあり、主人公の置かれた状況の厳しさが理解できた。特に懲罰で独房に50日間監禁されているシーンの思考に連なりは、濁流に飲み込まれるように読んだ。

 刑務所のシーンでもう一つ印象的なのは刑務作業である。組み立て、修理といった一見単純な作業の中で、サクマは世界との接点を見出していく。「修理できる=どこへでも行ける」と繋がっていく感覚は、こないだ自転車を自分で修理したときに感じた手応えそのもので納得できた。

 文庫版の表紙絵があまりにもダサすぎるので、圧倒的にかっこいいハードカバー版をオススメしたい。と思って、装丁のクレジットを見ると川名潤で流石すぎる…!と思った。

2026年10月19日月曜日

学歴狂の詩

学歴狂の詩/佐川恭一

 トランスジェンダーの若者たちの抱える重い現実に気持ちがズーンとなったので、気晴らしで読んだ。本屋で一瞬立ち読みしたときもヤバいと思っていたが、実際に読むと、その何倍もヤバく、久しぶりに本を読んで笑い死ぬかと思った。と同時に受験と学歴を真面目に考察するエッセイ、というバランスの良さが光っていた。

 著者は京大文学部卒の小説家。京大合格までの道のりと入学後の日々を含め、自身の勉強人生を振り返るエッセイ集となっている。著者はほぼ同世代で、舞台も関西の中学、高校なので、どこかで聞いたことのあるような話が多いが、著者の筆力で無類にオモシロい学歴駄話へと昇華していた。

 もはや章タイトルだけでニヤニヤしてしまうし、実際に読んでみると、それが何倍にも膨らんだ数々の神童エピソードにくらった。たとえば、「こんなんもう手の運動やん」とつぶやいた<天才>濱慎平…おもろすぎる!

 私が笑いすぎて死ぬかと思ったのは、英語教師、宮坂の章だ。今はどうか分からないが、当時の予備校にはイカれた先生がいくらかいて、今の倫理観では到底許されないことを平気で口にしていた。しかし、そういった先生ほど教え方がうまく、人気もあった。それをずばり言い切っている著者のラインに納得した。

「カリスマ教師」と呼ばれる教師の真の価値は、その授業内容や表現力そのものよりも、強烈な言仰をもたらしてくれるという点にあるとすら言える。

 総合格闘技になぞらえた受験解説も最高。斎藤裕 vs 平本蓮を使って「東大・京大・国公立医学部」と「阪大・神大受験」を対比させるくだりは、筆者の主観だと注意書きがあるものの、似たような現場に立ち会った身からすれば、よくわかる感覚だった。同じくアナロジーの観点だと「学歴高野山」にも笑った。

 高校時代、大学時代の学友のエピソードをおもしろおかしく紹介するのが本著のメインなのだが、その合間に挟まれる受験、学歴に対する真面目な考察の数々が興味深い。ふざけっぱなしかと思いきや、芯のくった人生論が忍ばせてあるから油断ならない。京大卒業後、大企業に就職するも1年で退職し、今は小説家として自立している著者だが、そんな人生の艱難辛苦が文章の端々から滲み出ていた。

 本著を読むと記憶の蓋が色々開いてくる。私が人並み以上に勉強するようになった理由としては、学力にさほど差のなかった友人が中学受験で大学附属の私立中学へ進んだことだった。まるで勝ち逃げされたように感じて「絶対負けない」という気持ちで勉強していた気がする。(本著に登場する内山ほどの熱量はなかったが。)結果的に目標が大きくストレッチされ、身の丈に合わない高校、大学に入ったから大いに苦労したものの、あの頃に頑張った経験が今の自分をいくらか形成していることを読んでいて改めて感じた。

 今の私は受験や学歴と遠いところで生きているものの、子どもがいると、その魔の手が忍び寄ってきているのを感じる。私やパートナーの経験はそれぞれn=1で、足してn=2にすぎない。さらに時代も場所も異なる状況で、子どもに勉強してもらう環境やモチベーションをどう用意するか、その難しさを感じる。

 社会に出て働いていれば、学歴と仕事の出来不出来に明確な相関がないことは自明である。(むしろ、学歴の話をしたがる人ほど仕事ができない気さえする)一方で、社会における記号としての学歴の強さも厳然として存在する。そんなアンビバレントな「学歴」というものを、改めて考えるいいきっかけになった。

2026年10月16日金曜日

トランスジェンダー・ティーンネイジャー

トランスジェンダー・ティーンネイジャー/ニコ・ラング

 印象的な表紙絵をSNSで見かけて読んでみた。トランスジェンダーについては、Netflixの『クイア・アイ』で当事者のエピソードを見たことや、某ヒップホップDJがしきりにヘイトをSNSで発信していることくらいしか知らなかったが、本著を読んで、その実情に触れることができ、大きな学びがあった。

 本著は、主にアメリカの中西部で暮らすトランスジェンダーのティーンネイジャーたちを著者が訪ね、数日間を共に過ごしながら、彼らが直面する現状を描き出すドキュメンタリーとなっている。

 トランスジェンダーを扱った本は色々あると思うが、概念的なことよりもアクチュアルな内容を知りたかったので、そのニーズにはピッタリだった。普段暮らしている中で、当事者の実情に触れる機会はほとんどない。それゆえに、こういった形でまとめてもらえることがありがたい。悩みや苦しみが可視化されて初めて、自分がどう振る舞うべきか理解の端緒に立つことができるからだ。

 アメリカは州ごとに法律が異なるため、住む場所によってはトランスジェンダーにかなり厳しい環境になっている。共和党、特に福音派を中心にLGBTQIA+に対して強い反対意見があることは理解していたが、州によっては、法的にトランスジェンダーに対する医療行為を法的に禁じ、違反すれば処罰される法律まで制定されていると知って驚いた。他人の性自認に対して国家が手を突っ込んでくること、明確に攻撃対象としていることに違和感しかなく、法律に翻弄される状況が読んでいて辛かった。特にトランスジェンダーの若者が、現状の生きづらさについて議会で証言している最中に、議員がスマホをいじったり、天井を眺めていたというシーンが心底胸糞悪かった。

 「そんなに嫌なら引っ越せばいい」と思う人もいるかもしれないが、そうは問屋が卸さない。親の仕事の都合があるのはもちろん、LGBTQIA+に寛容なカリフォルニアやニューヨークは物価が高く、誰もが住めるわけではない。こうしたアメリカの地域間格差は、今回読むまで知らなかった。

 本著は悲嘆に暮れる話だけで終わらせないという志を、冒頭で宣言している。トランスジェンダーを特別視して悲劇の主人公に仕立てるのではなく、喜びや幸せも含めた一人の人間としての実像を丁寧に描いている点が、最大の特徴だと思う。それゆえ原題は『American Teenagers』なのだが、邦題はこの本の姿勢とややズレているように感じた。『アメリカン・ティーンエイジャーズ』では何の本かわからず売りづらい、というマーケティング上の事情は理解できるものの、せめて副題にとどめてほしかった。

 シスジェンダーが当たり前に享受している多くの前提を、トランスジェンダーの人たちは一つ一つ乗り越えていかなければならない。制度的な壁から精神的な負担まで、机上の空論ではなく、目の前の困難に立ち向かう個別の事例があるからこそ胸に響くものがあった。

 自我が形成される年代で、何をするにも「トランスジェンダーの」という枕詞が付いて回る煩わしさは、それぞれ状況が異なる中でも、登場人物たちが一様に抱えていた苦しみだった。

 また、先行きの不透明さも彼らを苦しめている。州単位で比較的カジュアルに法律が制定されてしまうため、いつ迫害の対象になるかわからない不安と隣り合わせで生きることになる。心理的安全性を欠いたこの状況に、ティーンエイジャーたちが置かれていることを思うと、悲しく、やるせない気持ちになった。

 一方で、ステレオタイプではないトランスジェンダーの話が興味深い。その際たる例がイスラム教徒のクリントだ。イスラム教は同性愛に一律に厳しい印象があったが、実際にはグラデーションがあることを初めて知ったし、次の言葉にはハッとさせられた。

「トランスだから自分は悪いムスリムだなんて、考えたこともない」と彼は言う。「クルアーンにはトランスであることについて書かれていないし、それが自分に影響を与えているとも思わない。むしろモスクに通うことが、自分のアイデンティティを肯定するための役に立っているんだ」

 もう一人、異色なのが最終章のカイリーだ。苦しむ他の若者たちとは対照的に、彼女は裕福な家庭に生まれ、カリフォルニア州で、比較的苦労の少ない環境で暮らしている。天真爛漫な様子が伝わってくるが、そんな彼女でさえ「なにもかもにうんざりしきっている」と涙ながらに語る場面が印象に残った。また、心配のあまり過干渉になる母親と、自立を求める本人との間の議論は、私自身が最近子育てのなかで考えていたことと重なり、参考になった。

 私自身はシスジェンダーとして生きてきたが、自身の子どもの性自認が今後どうなるかはわからないし、子どもの友人でトランスジェンダーの子がいる可能性もあり得る。そんな時代に生きる親を含めた大人には、子どもたちが生きやすい環境を整える努力が求められる。そのことに気づかせてくれた読書体験だった。

2026年10月14日水曜日

東京で漕ぐ 東京を想う

東京で漕ぐ 東京を想う/10 years later

 先日、予感(もうすぐ閉店…涙)を訪れた際、common houseの店主であるミツルさんとたまたまお会いした。最近、表紙絵に惹かれてか、娘がしきりにこのzineを棚から取り出していたこともあって読んだ。自転車というパーソナルな乗り物と、エッセイの相性の良さを実感する一冊だった。

 世田谷にある本屋「common house」を営む2人が制作したZINEで、自転車にまつわるエピソードや、自転車を通じて考えたことが率直に綴られている。2人の文章が交互に登場し、その目の付け所がそれぞれ異なるので小気味よく読み進められる。

 自転車は基本的に一人乗りだからこそ、一人称のエッセイと相性がいい。内容は自転車の話に限らないが、自転車と重ねて書かれることで、親密さや書き手らしさが増していた。

 自転車のカウンターカルチャーとしての側面にも改めて気付かされた。身近な「世間」である電車から距離を置く方法としての自転車。そこから見えてくる自転車の持つ自由さ。自転車に乗る人なら誰しも味わったことがある「漕げば、どこまでもいける」という感触がみずみずしく蘇ってくる。

 編集後記トークでも触れられているとおり、このZINEを読むと「私と自転車」の話をしたくなる。というわけで私の話を勝手にすると、このZINEを読んでから、自転車に関する放置していた作業を2つ達成した。

 1つは、電動自転車の前方のチャイルドシートの取り外し。業者でしか外せないと勝手に思いこんでいたが、まったくそんなことはなく10分程度で外すことができた。一気に視界が開けていい感じだし、おむつに代表されるように、何かを減らすことは子どもが成長している証なのだなと思うなど。

 もう1つは、ピストバイクのパンク。前輪がパンクしていたのだが、電動自転車があれば事足りるので放置していた。しかし、このZINEをきっかけに自転車への愛が盛り上がって、意を決して自分でパンク修理した。自分の手で修理すると愛着が増すもので、もう15年オーバーでボロボロだが、まだまだ乗っていきたい気持ちになった。次はハンドルを交換するつもり。

 なかなかお店まで自転車で行くことは距離的に難しいけれど、駅前からシェアサイクルで世田谷の空気を浴びながら、またお店に伺いたい。