2026年10月6日火曜日

あらゆることは今起こる

 

あらゆることは今起こる/柴崎友香

 買って積んだままだったのだが、読書日記に登場して、買ったことを思い出し、ようやく読んだ。日本語ラップでもADHDという言葉を耳にする機会が増える中で、当事者のダイレクトな感覚を知ることができて勉強になった。

 小説家である著者が、ADHDの診断を受けたのちに考えたことを綴ったエッセイ集であり論考集であり、医学書院の「ケアをひらく」シリーズの一冊だ。前半ではADHDと自身の特性や経験を照らし合わせながら、実生活でどういったことが起こってきたか、具体的に描写しつつ、後半にかけてはテーマが発散していき、ADHDに限らない思索へと展開していく。もともと著者の小説が好きなので、どういった人となりなのか、知ることができて興味深かった。

 著者が繰り返し述べているとおり、本著はADHDの専門書ではなく、あくまで一個人の体感を説明したものである。言葉の専門家といえる小説家が言語化を試みてくれたおかげで、ADHDの大まかな輪郭を掴むことができたような気がする。

 ただ、著者は「わかった気になる」危険性について自覚的だ。本著で語られる内容をADHDの代表例として受け取らないでほしいと何度も注意喚起している。そこから、世の中の短絡的思考を憂いている点が印象的だった。複雑なものを複雑なまま、圧縮も簡略化もせずに、受け取ることは今後必要なアティチュードでもあり、技量にもなってくるだろうなと感じた。ADHDの話題に限らない、著者の思考の断片が次々と繰り出され、思考の渦に巻き込まれたような読書体験だった。

 日常で困っていることの列挙、その対処法、過去の失敗談まで、かなり踏み込んで書かれており、ADHDがぐっと身近になった。私はADHDに「多動」のイメージを持っていたが、実際にはさまざまなタイプがあり、著者の場合は頭の中が「多動」状態になって、動けなくなってしまうのだという。外から見れば何の問題もなさそうに見えてしまう辛さも綴られていて、ADHDの現れ方が人によって大きく異なることを思い知らされた。

 身近に感じられたのは、「病との向き合い方」という、きわめてパーソナルなことが書かれているからだろう。動画や音声ではなく、本で読むという体験も、親密さを増す要因だと思う。また、文体が比較的カジュアルで、関西出身の私には、ごく自然に差し込まれる関西弁に親近感を覚えた。

 一方で、ADHDの特性として紹介される事例の数々は、自認非ADHDの自分からしても日常でよくある失敗の延長線にあるように映った。なので、ADHDだから質的に特別に異なる、というよりも、頻度や程度といった量的な違いなのかもしれないと感じた。

 さらに、ADHDについて語ることは、それを取り巻く日本社会の現状への考察にまで波及していく。率直な意見の数々は納得するものが多かった。特に過度な同調圧力の存在は、ADHDを浮き彫りにするための踏絵のようになっているという指摘にハッとした。その象徴として挙げられるのが「迷惑」という言葉だ。「他人に迷惑をかけることは悪」という考えは、自己責任論と共に社会に浸透しているが、「迷惑をかける」と「助けを求める」は紙一重であり、それについて「迷惑」を英訳しようとする試みの中で可視化していた。英訳の観点でいえば、incentiveの語源から始まる脳の報酬系に繋がるアナロジーのくだりは読んでいて笑った。「励ましの歌を歌うコーラス隊」という表現が素敵。

 冒頭で並行世界に関する話が登場するとおり、過去、現在、未来がパラレルに今起こっている感覚について、南米のマジックリアリズムを代表するガブリエル・ガルシア=マルケスの作品を語りながら、著者の小説のスタイルへと接続していく流れが鮮やかだった。ADHDならではの時間感覚が、複数の登場人物たちが交錯する小説のダイナミクスに寄与しているのだろう。

 さらに興味深かったのは「日常」という言葉に対する考察である。著者の小説の多くは大きな事件が起こるわけではなく、何気ない場面の連続と思えるわけだが、このラインからは著者の世界を捉えるレイヤーの違いを感じた。

そうやって日々を生きていて、なんか変でおもしろい、なんやろうこれは、と思っていたことを小説に書いたら、「何気ない日常」「なにも起こらない日常」とよく言われた。何気ないことも。なにも起こらないことも、私にとっては「日常」とはちょっと違う層にあるものなので、そうではないんやけどな、と思っていた。

 そんな「日常」を考察した1冊として『わたしがいなかった街で』が挙げられていたので、次はこれを読んでみようと思う。

2026年10月3日土曜日

ゆとぴや・びぶりおてか 小さな本屋の読書日記2025

ゆとぴや・びぶりおてか 小さな本屋の読書日記2025

 埼玉県にある数少ない個人書店の一つである、ゆとぴやぶっくすの店主による読書日記。前作に引き続き、本著もオモシロかった。

 タイトル通り2025年に読んだ本と、その感想が時系列で並んでいるシンプルな構成。まえがきで読書に関する本質的なことが書かれていて膝を打った。私は本の感想を冗長に書いているので「よくそんな書くことあるね」とか「つまらない本だったらどうしてる?」とたまに言われるのだが、その質問に対するこれ以上ないアンサーだと思う。本は多面的なものであり、何もかもつまらないということはなく、どこかしら必ず感じるものがある。

というか、別につまらない本なんてなくて、どの本も面白かったり読まれるべき理由があるから存在しているのであって…
究極、つまらなくてもいいし、つまらない本でも最後まで読んでいるということは きっと「なにか」はあるんだろうと思います。

 この前提を踏まえながら読む、百人組手さながらの感想の数々はどれも率直でオモシロい。小説、人文書、エッセイなどジャンルを問わず、ひたすら読みまくっている。読書自体は1人で完結する行為だが、こうして日記に書き起こされることで、初めて他人の読書体験に触れることができる。そんな読書日記ならではの醍醐味を存分に味わうことができる。特にミステリーは自分の守備範囲外なので興味深かった。

 読みたくなる知らない本がたくさん登場し、既読の本は「そんなふうに読めるのか」という気づきがある。前者でいえば、岡田育『我は、おばさん』が気になり、実際にお店で購入した。そして、私の周囲でレコメンドが頻発する小川哲はいよいよ読むか…という気持ちになった。あと直前に柚木麻子を初めて読んだところだったので、他の著作の紹介が参考になった。 後者でいえば、津村記久子の冷徹さなんて考えたこともなかったので新鮮だったし、『アルケミスト』の胡散くささに言及する文章に初めて遭遇してアガった。

 そんな博覧強記の読書マスターである店主の方と、俳人の松本てふこさんによるポッドキャスト番組『ほんとのよもやま』にゲストで呼んでいただきましたので、是非聞いてみてください。半分くらい超RIZIN5の話をしていますが、拙ZINE『ikuzine』の店主視点の感想は大変ありがたいものでしたし、お二人のおすすめの本紹介も聞き応えがあります。


そして、『ikuzine』に続き、『日本語ラップ日記 2025』も置いていただいております。埼玉のヘッズへ届け!


2026年9月28日月曜日

子どもかんさつ帖

子どもかんさつ帖/鈴木純

 『ikuzine』きっかけで本屋B&Bの選書企画に呼んでいただいた。先日、滝口悠生さんと前田エマさんのトークイベントに足を運んだ際、その選書企画の一環として置かれていた「誰でも書けるノート」を読むと、そこには、男性として育児をすることについての著者の長文コメントが載っていて興味深く読んだ。それをきっかけに購入したのだった。タイトルどおり「かんさつ」を通じた、子どもへのやさしい眼差しが感じられる一冊だった。

 本著は、著者の子どもが0歳11ヶ月から3歳7ヶ月になるまでの様子を観察した記録と、その記録をもとにしたエッセイで構成されている。観察記録=発育記録となるわけだが、冒頭に発育に関するエクスキューズがちゃんと付いていた。

 「何歳で何ができるのか?」は子どもによって千差万別である。3歳くらいまでは横並びの感覚が強く、他の子ができて我が子にできないことが気にかかっていた。ただ、3歳を過ぎたあたりから、保育園や習い事の同級生の間で明確な個体差があることを感じるようになり「発育速度は個人によって異なる」ということを認識できるようになった。本著で紹介されている内容も、その個体差のバリエーションの一つであり、同じ年齢だった頃の我が子を思い出し、比べながら読んでいた。

 改めて感じたのは、子どもは世界を学んでいる最中だということだ。4歳でもうすぐ5歳になろうとする我が子は、基本的なことは自分でできるし、言葉も達者になった。それゆえ、大人ができる当たり前のことでグズついている様子をみると、ストレスを感じてしまう。しかし、冷静に考えてみると、まだ4年しか生きていのだから、できないことが当然ある。大人はそこを観察し、汲み取りながら成長を見守っていく必要がある。本著を読んで、こういったアプローチが必要なのだと気づかされた。著者が育てながら少しずつ理解を深めていく流れとして記録されているからこそ、追体験として腑に落ちやすかった。

 なかでも一番グッときたのは、「目に見えないものを理解していく」というエッセイ。著者の子どもが愛情を水に例えて、自身の感情の微妙な揺らぎを両親に伝えるエピソードで、子どもとは到底思えないほど、的確で繊細な表現に驚かされた。抽象的な内容を具体物に変化させて、親と子で相互理解していく過程自体が楽しいということは育児でよくあることだ。ただ、こうやって言葉にしてくれるからこそ、日常で流れていく、ささやかな気づきについて振り返る機会をもらえるので、他者が育児する様子は定期的に読んでいきたいなと思う。

 フェアは9月30日で終了なので、私が選書した本を紹介します。このブログでも紹介した『研究者、生活を語る』でした。

 著者とは異なるアプローチで男性による育児についてと滝口悠生さんと対話した1冊、『ikuzine』も好評販売中ですので、詳細含めて以下リンクよりチェックしてみてください。

https://afro108.blogspot.com/2025/10/ikuzine.html

2026年9月26日土曜日

言葉と出来事

言葉と出来事/阿部大樹

 『Forget it not』、『now loading』がオモシロかったので、最新作も読んだ。『now loading』の続編的な位置付けの育児日記としての側面が色濃く出ていて楽しく読んだ。

 2023年〜2025年までの日記に加え、あとがきでは日記論、附録では哲学者の古田徹也との対談が収録されている。日記のスタイルは『nowloading』と同様、タイトルはなく末尾に日付だけ記されてあり、余白をたっぷりとった、改行も含めて見栄えを重視した構成に、著者の美意識が改めて感じられる。基本は見開き2ページだが、たまに1ページのみで片側が完全な空白になっている箇所があり、平板になりがちな日記に構成上の抑揚を生み出していた。文章が冗長になりがちな自分からすると、これほど端的に表現できることが羨ましいし、その切れ味のよさは、著者の泰然自若さを象徴しているとも言える。

 前作から引き続き、育児に対する著者のフレッシュな視点は目から鱗である。ほぼ同年齢の子どもを育てているのでリアルタイム性が高く、自分ごととして読めた。『now loading』では、子どもにフォーカスされていたが、本著ではレンジが広がり、パートナーも含めた家族3人の生活が丁寧に描かれている。日記が進むにつれて情報が少しずつ明らかになり、家族像が立体的に浮かび上がってくる構成もオモシロかった。絵に描いたようなシティライフの中に、育児がロウな形で放り込まれてくるところがリアルだった。言葉についての本でもあり、哲学を中心に難解な内容が引用される一方で、息子がポケモンに熱中していく様がかっこつけることなくそのまま書かれている。このバランス感覚は日記だからこそだろう。

 そんな「言葉」の観点で興味深かったのは、2024/2/13の日記「ありふれた表現について」。もはや言葉は手垢まみれであり、独自性を持ちうるのは組み合わせだけだという指摘は、日常的に日本語ラップを聴いている身として深く頷けるものだった。AとBの組み合わせで新鮮さを模索すると、その過程でA、Bそれぞれの言葉自体が陳腐化していく可能性については考えたことがなく、新鮮な視点だった。そしてこの陳腐化から逃れる術は「中身のある文章を書くこと」だと結ばれていて、ラップのリリックも同じで、結局後世に残るのは中身のあるものなのではないか、と考えさせられた。

 友人からの「保守的になった」という指摘に対する著者の答えも印象的。昔に比べると、自分自身も守りに入っていることは否めないが、著者の言うように「深さ」を追い求めていると思う。

たしかに子供ができて行動半径は狭くなったかもしれないけれど、つまらない言い方をすればその代わりに深い穴を掘るようになったし、でもその深さは見えないのだと言われて、それはそうかもしれないと思った

 附録の対談でピックアップされていたこのラインもまさに!と思わされた。最近、園まではたどり着くのだが、毎日のように下駄箱前で行き渋っている。そうなってくると「そもそもなんで預けているのか?」という考えが頭をよぎり、自分の仕事の価値と子どもの存在を、頭の中で天秤にかけることがしばしばあり、そんな感情がずばり表現されていてハッとした。

私の身体は楽だし仕事も進むので良いのだが、子と親と祖母で遊ぶこと以上に意味のある仕事なんてあるのだろうかという気持ちもある。

 さまざまな人物が登場する点も読みどころだ。翻訳つながりで斎藤真理子、精神科医つながりで宮地尚子など、本で読んだことある人物たちが急に登場して驚かされる。なかでも意外だったのは、ダイアン津田である。その粋な登場はまるでドラマのワンシーンのようだった。前作で登場した総合格闘家の阿部大治然り、意外な人が日記の中に突如登場すると謎か妙にテンションがアガってしまう。

 あとがきでは思いもよらない今後の展開が明かされていて驚いたが、ぜひこれからも著者の日記を読ませてほしい。

2026年9月25日金曜日

BUTTER

BUTTER/柚木麻子

 毎週のように雨が降り、子どもの習い事へ車で行ってばかりなのだが、少しでも駐車場代を浮かせるために本屋で本を買うようになった。欲しい本を楽天ブックスや独立系書店で狙って買うケースが多い中、いわゆる「街の本屋」で買うことでセレンディピティが生まれている。本著もそんな感じで買って積んであったのだが、著者が責任編集を務めたエトセトラ vol.2を読んだところで積読から引っ張り出して読んだ。読後、内容と連動した、この文庫版を巡る著者の一貫した姿勢にビガップを送りたい気持ちでいっぱいになった。

 もともと新潮社から文庫でリリースされていたが、著者の意向で版元を河出書房へ移行する処置が取られた。文庫版から出版社が変わるケースはよく見かけるが、もともと販売している文庫をわざわざ版元変更するのは異例のことだ。詳しい経緯は著者のインスタポストやニュースを見て欲しいが、自分自身ではなく「仲間が傷ついたから」という理由も含めて、こんなアクションを取れること自体に著者の真摯さが滲み出ている。

 主人公は週刊誌記者の女性。彼女が追いかける事件を軸に、現在の日本における女性の立場を浮かび上がらせる社会派サスペンスだ。実際に起こった木嶋佳苗死刑囚による首都圏連続不審死事件を下敷きにしており、主人公と木嶋を彷彿とさせる被告との拘置所でのやり取りから事件の核心に迫りながら、主人公自身の人生の悲喜交々も描いていく。

 まず、エンタメとして無類に面白い。主人公が被告へ接見を繰り返し、食事、料理そのものに夢中になっていくプロセスはトリッキーながらも説得力をもって迫ってくる。それを支えているのは、著者による料理の「シズル描写」の精度に他ならない。グルメ小説(?)をそこまで読んだことがないので比較はできないのだが「シズル感をここまで言語化できるのか!」という驚きの連続だった。そして、この圧倒的なシズル描写があるからこそ「食べること」で主体性を取り戻していく過程にも納得感が生まれていた。

 私は一人暮らしの頃から自炊の頻度が他人に比べて高い。それはある程度、時間に余裕のある労働環境という背景もあるが、そもそも自らの手で料理することは、人間としての尊厳を担保する行為だと捉えていたからだ。(名著『人間は料理をする』の影響が大きい。)「出されたものをただ食べるのなら、家畜と大して変わらない」というのは最もラディカルな主張だが、主人公が料理に目覚めていくプロセスが、そのまま主体性の獲得の象徴になっていることに納得した。

 男性被害者たちを中心に、男性が自身を料理する(ひいてはセルフケアする)ことを考えず、女性にケアしてもらう前提の歪さをこんな形で小説で表現していることが画期的だ。「おふくろの味」に代表されるように手料理に対して過剰な意味をもたせる一方で、自分で自分のために作る手料理は虚しいものとして扱われる。このダブルスタンダードに以前から違和感を抱いてきたが、それに対する一つのアンサーにもなっていた。

 本著はベースとなった事件を単純になぞっただけではなく、著者なりの解釈がふんだんに込められている。この事件は当時から好奇の目に晒されていた記憶があるが、そうした表面的な理解にとどまらず、日本社会における男女間の置かれた立場の違いを浮き彫りにするための足がかりとしているのだ。たとえば、被告による女神論は、男女差別の妥当性を経済合理性で納得させようとする姿勢と繋がって見える。つまり、労働賃金をはじめとした男性優位社会を前提として「女性は主体性をもつことなく、労働で疲れ切った男性をケアすればいいじゃない?」と。他にも性加害者との歪な共犯関係をめぐるアクロバティックな論理展開もシビれるものがあった。

 帯にもなっているとおり、被告の発言で最も印象的なのは「どうしても許せないものが、二つだけある。マーガリンとフェミニストです」だ。フェミニストが登場して、女性に対する性差別を糾弾するような単純な構造ではなく、各登場人物のシチュエーションから少しずつ日本社会における性差別をあぶり出し、フェミニズムへと接続していく手腕が鮮やかである。フェミニズムを直接取り扱った本も読むのだが、私は男性なので居心地が悪くなる瞬間は正直たくさんある。しかし、本著は小説かつエンタメとして仕立てているからこそ、スッと心に入ってくる。しかも描かれているのは、日常生活のなかでも遭遇しうる状況だ。だからこそ、自分自身を振り返るためのケーススタディにもなる。

 特に主人公の彼氏の無自覚に発揮するルッキズムは響いた。他人の体重の増減について、ことさら厳しい社会において、こうした言動は日常茶飯事だと容易に想像できる。まt、体重ではない別角度でのルッキズムを無自覚に発揮してしまう可能性は誰しも携えている。この点について自覚していくことは皆が生きやすい社会への第一歩になるはずなので意識していきたい。

 「バター」を駆使したアナロジー的描写の数々も見事。もっとも象徴的なのは「ちびくろさんぼ」だろう。差別的作品だとして一斉に絶版された過去をもつ作品を引っ張り出してきて、作品に対する新たな解釈を与え、現代に甦らせるアプローチがかっこいい。それは他人の見方にただ同調するのではなく、己の目線で捉え直すこと。すなわち、本著の大きなテーマの一つである「主体性の獲得」にも直結している。全体がミステリータッチで進むため、絵本についての考察ながら、まるで「ちびくろサンボ」に隠されたミステリーを解いているように映ってオモシロかった。

 ダラダラと書いてきたが、これでも本著の魅力の10分の1くらいしか伝わっていない。図書館で借りて読むのも、古本で買って読むのももちろんいい。ただ、これほど「買うこと」によって連帯を示せる本も、そう多くはないと思う。最高の装丁も含めて、未読の方はぜひ読んでみてほしい。

2026年9月20日日曜日

エトセトラ vol.2 We❤︎田嶋陽子

エトセトラ vol.2 We❤︎田嶋陽子

 マーガレット・アトウッド作品を読んでいて、フェミニズム系の本を読みたくなって、積んであった本著を読んだ。世間的なイメージとは異なる視座から田嶋陽子を捉え直す切り口はどれも興味深く、読了後には、それまで抱いていた田嶋陽子像がすっかり一変していた。

 表紙にあるとおり、小説家の山内マリコと柚木麻子が責任編集を務めた『エトセトラ』の第2号。現在までに15号が刊行されている、日本のフェミニズムを代表する雑誌である。2019年刊行の第2号で田嶋陽子を取り上げるというアプローチは、今振り返っても新鮮だ。

 座談会、書評、インタビュー、漫画、エッセイなど、雑誌らしくさまざまな角度から田嶋陽子という存在を徹底的に見つめ直している。これもひとえに責任編集の2人の田嶋陽子に対する、並並ならぬ愛ゆえであることは読んでいてビシバシ伝わってきた。

 どれも読み応えはあったのだが、山内マリコ、柚木麻子が『そこまでいって委員会』にわざわざ大阪を訪れ、観覧してたことにジャーナリズム魂と本著にかける思いを感じた。また、雑誌の中に載っている漫画は個人的に苦手なのだけども、本著の田嶋陽子の生涯をダイジェストで振り返る漫画はオモシロかった。知らなかった出来事が次から次へと出てきて、そのどれもが強烈。彼女の遍歴が一気に頭に入ったことで、その後のインタビューやエッセイも読みやすくなっていた。

 大阪で育ったアラフォー世代の自分にとって、田嶋陽子といえば『TVタックル』もさることながら、やはり『そこまで言って委員会』の印象が強い。右曲がりのダンディたちが雁首を揃えるなか、一人の女性として、そしてリベラルな価値観を持つ論客として、懸命に異論を提示し続けていた。

 たかじんが存命だった頃は、まだ田嶋陽子の面白いキャラクターを引き出すことで、ギリギリいじめのような構造を回避していたように思う。ところが、たかじんが不在となった後は、露骨に「一人だけおかしなことを主張している人」というフレーミングが施されるようになった。自分自身、幸いにも右曲がりのダンディたちより田嶋陽子のほうがまともなのではないかと思っていたものの、周囲の空気に流され、彼女の発言を笑ったことがないと言えば嘘になる。

 そこから大人になる過程で、フェミニズムに関する書籍を読み、多少なりとも理解のある状態で本著を読むと、いかに私が田嶋陽子の表面的なところしか見ていなかったのか気付かされる。なかでも本著冒頭で柚木麻子が語る田嶋陽子との出会いに関するエッセイで紹介される言葉は、今こそ皆に知ってほしい。

家の鍵が空いていても、家に入ったら、それは泥棒だ。

 未だに性加害を受けた女性側に非があるような意見が跋扈しているが、このラインのシンプルさには、ぐうの音も出ないはずだ。本著のインタビュー内でも「私のための、私が生きるためのフェミニズムであって、フェミニズムが先ではないからね」という金言まで飛び出していた。

 他にも家父長制を明確に奴隷制度と紐づける視座は初めて遭遇するものだった。

日本はまだ奴隷制の部分が残ってる。女は家庭で、男は社会で、って性的役割分業やってたら、女は絶対に自由になれない。自由っていうのが、その人の顔だから。そして、自由と自分で稼ぐってことは人生に直結してる。 結婚とか子育てとか大事だけど、まずそこがキチンとしてないね。

 田嶋陽子という人を、テレビで見ていた「面白いフェミニスト」というキャラクターから、一人の思想家として捉え直す入口として刺激的な一冊だった。『愛という名の支配』も必ず読んでみたい。

2026年9月19日土曜日

誓願

誓願 /マーガレット アトウッド 

 『侍女の物語』に続編があると知って読んだ。数十年後の続編ということもあってか、社会状況や著者自身のスタイルの変化もあいまって、前作とはまったく異なる味わいのエデュテイメントだった。

 1作目の舞台となったギレアデ王国のその後を、前作でも主要人物だったリディア小母による手記、2人の若い女性によるインタビューの3つの視点から物語は展開していく。ここでポイントになるのが、2人の若い女性だ。1人はギレアデに生まれ、その思想に染まり切っている。一方、もう1人はカナダからレジスタンスの一員としてギレアデに潜入していく。

 1作目では、侍女が閉塞した、どうにもならない状況を淡々と語る形式だったため、読みづらさや中だるみを感じたことは否めない。それに比べると、本著は格段に抜けがあり、物語のテンポもいい。それは複数の視点が入れ替わりながら、さまざまな角度から物語を転がしている構成の影響が多い聞い。また、ラストにかけて、三者の物語がしっかりと交錯していくことで、物語のカタルシスも生まれている。前半は『侍女の物語』の世界を改めて噛み締めていくディストピアSFの側面が強いが、後半にかけては怒涛の展開で、エンタメ小説として抜群の面白さを発揮しており、ページターナーだった。

 手記とインタビューという構成も興味深い。手記だからこそ過去から現在に至るまでのギレアデの全貌を体系的に理解できる。一方、インタビューでは、回答者それぞれのトーンの違いがオモシロい。おしとやか少女とおてんば少女の対比なのだが、終盤にかけて2人の距離が徐々に接近していく仕掛け方が見事だった。

 やはり本著で一番好きなパートはリディア小母の手記である。彼女が小母になるまで払った犠牲や、国家の中で権力を握るために繰り広げる情報戦はスリリングだった。自分が追い込まれたときに、自らを偽ってでも従順になり生き延びていくのか。それとも、死を賭してまで自らの思想を優先するのか。そんな究極の問いを乗り越えた人間だからこそできる、割り切った処世術は見どころ盛りだくさん。この手記自体が人間としての業を精算していくような側面があり、長い時間をかけて積み重ねてきたものを振り返るなかで、結局、人は収まるところに収まるのかもしれないと思わされた。

 本著は2019年に原著がリリースされたようで、欧米ではBREXITやトランプの大統領就任など、政治的に分断が進んだ季節である。現実が厳しい状況だからこそ、物語内では排他的思想を打破していく理想主義が描かれていると感じた。

 なので、終盤の鮮やかな展開は、ギレアデの悪魔の所業を読んだ後だとやや出来過ぎのように感じなくもない。とはいえ、ここまで救いのない物語を読んだ後だからこそ、これくらいのカタルシスが必要だったのだろうとも思う。

 『侍女の物語』を読んでから手に取ったほうが、その世界の奥行きをより味わえる。ディストピアSFでありながら、後半はぐいぐい読ませるエンタメ性をもった素晴らしいファック家父長制小説だった。