2026年3月6日金曜日

書店員の怒りと悲しみと少しの愛

書店員の怒りと悲しみと少しの愛

 ツイッターで印象的な表紙を見かけてオモシロそうだと思っていたら、行きつけの本屋に置いてあったので読んだ。ここ10年ほど比較的熱心に本を読み、書店に通う身としては、読んでいて辛い部分がありつつ、読み手に本が届くまでの実情を知ることができて勉強になった。

 本屋の過去、現在、未来について、現役の書店員や店主、さらには退職した人までが語っている。本屋が社会的インフラだった時代は終わりを告げ、斜陽産業だと言われて久しい。とりわけAmazonの登場以降、本はもっとも割を食っている商材の一つだろう。実質無限に在庫があり、ワンクリックで注文可能、翌日には届く。電子書籍も拡大し、ワンクリックで購入してその場で読める。こういった利便性を持つ競合と実店舗の本屋は戦っていく必要がある。

 実店舗としての本屋を残していくのであれば、書店、流通、取次、出版社といったサプライチェーンが一体となって、Amazonを中心としたネット通販に対抗するための施策を考えなければならない。しかし、そこまで進んでいない現状が詳しく語られている。当然、過去の経緯もあるのでドラスティックに何かを変えることは難しいのだろう。課題のジャンルは異なるものの、複数のプレイヤーがそれぞれの利害をめぐって揉めることは仕事につきものだなと感じた。

 読んでいて辛い気持ちになるのは、単純に「本屋は大変」という批判ではなく、タイトルどおり本屋への「少しの愛」が文章の節々から伝わってくるからだ。むしろ「最悪だ!」と強めにディスってくれたほうが清々しく読めるわけだが、なんともいえない底知れぬ怒りと悲しみが文章からにじみ出ていた。本著に寄稿するくらいなので、筆力がある人が抜擢されているとはいえ、書店員の方々の文章力の高さに驚かされた。

 そもそも論として、社会的に小売業に対するリスペクトが少ないように感じる。「ゼロイチで何かを産み出す人間が偉い」という価値観の過度な浸透とは無関係ではないだろう。正直、私自身もZINEを作り、イベントで自ら販売したり、本屋に卸して販売してもらうまで、モノを売ることの大変さをまったく理解できていなかった。モノは置いておくだけで売れるわけではない。小売業に従事する方たちのきめ細やかな創意工夫の積み重ねの結果だということを痛いほど思い知ったのだった。

 学生時代、某チェーンのレンタルショップでバイトをしていたのだが、その頃のことも鮮明に思い出した。CDやDVDを無料で借りられるとはいえ時給は最低賃金ポップもバイトが家で作っていた。学生だった自分にとって、自分が書いたポップのCDやDVDをお客さんが借りてくれるのは何とも言えない嬉しさがあった。今振り返れば、その承認欲求を店側にうまく利用されていたのだなと気づいた。

 また、BOOKS青いカバの店主である小国氏が言及していた「接客向上」の話にも似た記憶がある。当時の店長が無類のディズニー好きで、チェーン店舗間の接客評価もあったため、「ディズニーランドレベルの接客をこの店で達成する!」と意気込んでいた。丁寧な接客ができない人間はシフトを減らされることになり、「こんな下町のレンタルショップで誰がそんな接客求めんねん」と思って何もしなかった結果、案の定シフトを減らされたのは苦い思い出である。

 ネットショップにない要素として「人間による細やかな接客」は確かに実店舗の強みかもしれない。しかし、そんな短絡的なことで利益率の低さをはじめとする産業構造の歪さを解決できるはずもない。接客がお店づくりにおいてコストになっているという指摘が複数の書店員から出ており、異なる現場から同様の声が上がっていることが一冊の中で確認できる点に本著の価値がある。

 本屋に行く動機として「目的買い」のケースはここ数年ほとんどなくなった。なんとなくお店に行って、自分の琴線に触れる本を探して買うことが多い。その点では、独立系書店、古書店、新刊書店のどれも等価なのだが、ランダム性が高い独立系書店、古書店に足が向きがちでだ。新刊書店も、子どもの習いごとのあいだに立ち寄ることはあるのだが、どんな本が出てるのか眺めるだけで終わることが多い。そうして「遅かれ早かれ買うつもりの本」をその場で買わないことが、結果としてどれだけ書店の売上を減らしているのか。往来堂書店の店主のインタビューを読んで、そのことを痛感した。

 これだけ脊髄反射なエンタメが氾濫する世界では、読書はむしろ知的行為として崇高ささえまとっている。結果として本屋はどこか非日常な場になりつつあるのかもしれない。しかし、実際の商いは泥臭い作業の連続であり、本屋がこれからも悪戦苦闘するであろう実像がわかる本として、これ以上のものはないだろう。

 そして、発行者である長嶺氏の最後の言葉が印象的だった。本屋や書店員に皺寄せがきている、取次、出版社もこの状況を打破するために協力できないのか?といった声が本著にこれだけ集まった中で、こんなことはなかなか言えない。

私は、書店がどんなに苦労しているとしても、同じ業界にいるからといって、出版社がその苦労を分かち合うべきだなどとは思っていません。

 一見すると極めてドライな意見に映るが、泥舟のなかで足を引っ張り合い「しんどいから一緒に苦しもう」というのは解決策ではない。「もっと未来を切り開く可能性を模索しよう」という前向きな態度の現れだと受け取った。読了前後で本屋および書店員に対する解像度が一気に変わるので、本が好きな方にとってはマストで読むべき一冊。

2026年3月3日火曜日

リック・ルービンの創作術

 

リック・ルービンの創作術/リック・ルービン

 Mu-tonのMVで登場したり、ISSUGIがスタジオ紹介で言及していたり、そしてついに曲名(BABYWOODROSE「リックルービン」)やリリック(Campanella「Monarch」)にまで登場しているリック・ルービンによる書籍。タイトルどおり、彼がどのようにクリエティブを発揮して、創作に向き合っているか、それを余すことなく書いてくれている一冊で興味深かった。

 リック・ルービンはヒップホップ創成期の立役者であり、Def Jam Recordingsを立ち上げた一人でもある。個人的には、Jay-ZやKanye Westのクラシックに関わっていることでその名を知った。特にJay-Zのドキュメンタリー『Fade to Black』における「99 Problems」の録音シーンが印象的だ。他にもKanye Westにとってキャリアの分岐点となった『YEEZUS』にも彼の存在が背景にある。そんな彼が音楽業界でいかにトッププロデューサーとしてやってきたか、そのノウハウや思考がたくさん詰め込まれている。

 読み始めて気づくのは、スピリチュアルな語り口が強いということ。宇宙とのコネクション、運命論的な発想は、正直受け入れづらいなと思いつつも、過剰に主張されるわけではなく、むしろ創作において前のめりになりがちな意識を一歩引かせるための装置のようにも映る。能動的な姿勢も大切だが、受動的な姿勢で適切なタイミングを待つことを伝えるための比喩としての「宇宙」と解釈すれば腑に落ちた。

 今回は通読したものの、本著はそれよりも自分がクリエティブなことで煮詰まった際に、リック・ルービンならどのように考えるかを教えてもらう、辞書や事典のような読み方が適切だろう。 本の構成としてもアイデアベースから始まり、アートが完成に至るまでの各工程に応じた、具体的なハウツーから抽象的な考え方まで網羅的に抑えてくれているので、読むというより「使う」に近い。なので、スタジオに置かれている理由もよくわかる。そういった用途を想定したような圧倒的な装丁の美しさは特筆すべきポイントだろう。手に持ったときの重厚感が素晴らしく、本著で語られているクリエティブを体現しているとも言える。こういった理由から必ず紙の本で買うべきと断言しておく。

 自己啓発書で似たようなことを書いている本は探せば、正直見つかるかもしれない。しかし、結局のところは「どの口が何言うかが肝心」であり、リック・ルービン御大の言葉だからこそ響くのだ。彼は冒頭で「生きているだけでアートだ」と喝破する。アートを特別な領域から引き下ろし、間口を極限まで広げる。それは明石家さんまの「生きてるだけで丸儲け」を彷彿とさせるもので、誰もがアートにコミットできるとエンパワメントしてくれているようだ。他にも、アートのために別の仕事をこなすことは、純粋な作品を作ることができるベターな方法だとダブルワークを肯定していた。サラリーマンとして働きながら、ZINE作りを続ける身としては勇気づけられた。

 オール・オア・ナッシングで、何も手につけられないことは、アテンションエコノミー時代には往々にしてあることだ。完璧を目指さなくていいから手を動かして一歩目を踏み出し、6〜8割の出来でも走り切ったときに見えてくる風景を目指せ、というアドバイスが刺さった。なので、次のZINEを作ろうと思って、今は少しずつ手を動かしている。

2026年2月24日火曜日

本と偶然

本と偶然/キム・チョヨプ

 フェイバリットなSF作家であるキム・チョヨプの初エッセイ。去年読んだ『サイボーグになる』が興味深かったので楽しみにしていたが、その期待を上回る素晴らしいSFエッセイだった。SFを読むのも好きなのだが、他人の語るSF論も好きなのでドンズバな内容だった。

 エッセイ集ではあるものの、生活の話というより著者の読書遍歴と作家論が中心となっている。これまでの作品を読んできた読者からすれば、作品や彼女自身の背景を知ることができる最高のビハインド・ザ・ストーリーものである。

 『サイボーグになる』もノンフィクションという点では共通しているが、内容もあいまって文章が硬かった。それに比べて本著は柔らかく読みやすい。自然体で自身のことを語っており、著者の誠実さが文章からヒシヒシと伝わってくるエッセイらしいエッセイだ。

 著者の小説はSFではあるが、いわゆるハードSFではなく、現代社会とどこかしら地続きなものが多い。ゆえに私を含めてコアなSFファンに限らず、広い読者層に届いているのだろう。意図的に柔らかいSFを書いているのかと思いきや、実際には結果としてそうなっているようで、本人は思いのほかSFというジャンルにこだわりを持っている。自分の作品評価や業界での相対的なポジションについて極めて自覚的で、その視点の鋭さに唸った。

 前述のとおり、制作裏話がところどころに挟まれており、ファンにとってはありがたい。なかでも『サイボーグになる』は執筆における苦労に関してかなりの分量で書かれており個人的に嬉しかった。そもそも著者が「SF作家によるエッセイ」を愛読してきており、その系譜を自覚的に引き受けているのだろう。

SF作家のエッセイは作家の日常をのぞき見できるばかりか、当人のジャンルと作法に関する話までたっぷり聞けてしまう、作家仲間としてはまことにありがたい秘蔵の玉手箱なのである。

 興味深いのは、著者が必ずしも熱心なSF読者として作家になったわけではないという点だ。作家になってから、どうやってキャッチアップしていったか、読書遍歴と共に語られる。とにかく科学ノンフィクションの素養がハンパない。玉石混合の割に分量が多く、本屋では取扱いも少なく単価も高い科学ノンフィクション。こういったいくつものハードルがあるにも関わらず、著者のアンテナはバリサン。タイトルだけで読みたくなる本がわんさか登場する。さらに著者の柔和で真摯な語り口も読みたくなる気にさせてくれる。

 著者は、自身の創作を「内面から湧き出る想像力」だけでなく、「外部から集めた素材を積み上げていく営み」に近いと語る。その比喩は料理や建築に例えられていたが、私にはサンプリングから始まったヒップホップの方法論とも重なって見えた。ラッパーのC.O.S.A.、プロデューサーのKMなど、著者の作品が局地的にヒップホップ業界で人気があるのは、こういった背景も影響しているのかもしれない。

 また、大学院で研究に挫折した経験も率直に語られている。著者の言うとおり、科学的なものが好きなことと、実際の科学の現場、特に研究業務には大きなギャップがある。レベル感は違うが、私も高校で理系科目が他より得意だったから大学で専攻したものの、まったく好きになれなかった。結果的に現在の仕事が研究職ではない自分に負い目がある。そんな負い目について著者も繰り返し吐露しており、そんな葛藤を乗り越えて、作家として確固たる地位を確立しているのだからかっこいい。

 書評に関するチャプターは踏み込んでいる印象を受けた。本の評価に対するアンビバレントな感情を結構な分量で書いており、小説家がここまで踏み込んで書いているものを読むのが初めてだった。書評が単純な感想に閉じずに脈絡を構築し、誰かの読書に貢献する可能性についてはまったくもって同意で、その気持ちでこのブログを延々と書いている。(著者が書評集を出そうとして、友人から「黒歴史になるからやめとけ」と止められた話は、個人で書評ZINEを作った身としては耳が痛かった…)

 本を通じた作者と読者のコミュニケーションへの言及が最も興味深かった。そもそも小説を通じてメッセージを伝え、それを読者が受け取るという手段は、効率だけを基準にすれば信じられないほど非効率である。しかも今は、作者の意図から逸脱する読解が許されにくい「考察の時代」でもある。そんな中で、著者がコミュニケーションの失敗にこそ可能性があると言っている点に、安易な逆張りではない本への愛を感じたのだった。

作家が読者に意味を伝えつくすことに失敗し、読者が作家の意図を把握しつくすことに失敗することで、本は本来より拡張した存在となる。(中略)読むことを試み、読むことに失敗し、時に誤読が拡張の可能性へと変貌する個然の瞬間を期待しつつ、誤解と理解のあいだを行きつ戻りつしながら本に無数の意味を盛り重ねていくその作業を、わたしは喜ばしい気持ちで追いかけたい。

 最後に語られている現代社会における科学の立ち位置についての視座も新鮮だった。陰謀論や疑似科学はくだらないものだと科学の合理的な価値観から説明することは可能だが、結局は科学も人間の営みだからこそ、どこまでいっても非合理性からは抜け出せない。そんな悲観的な視点から、正直さ、誠実さ、明確さ、開放性といった「科学的価値」を選び取る姿勢を示しており、今の時代に必要な態度だと感じた。

 巻末には本著で紹介されたブックリストがついていて、日本語への翻訳状況も含めて一覧で見れるのは本好きにとって貴重な資料である。そんな本への愛に溢れた最高の一冊だった。

2026年2月17日火曜日

2011年の棚橋弘至と中邑真輔

2011年の棚橋弘至と中邑真輔/柳澤健

 いくつかKindleで積んでいる柳澤健による『〇〇年の〜』シリーズ。先月、コンビニでプロレス雑誌を見かけたのだが、そこに踊っていたのは「棚橋、引退」の文字だった。それをきっかけに本著を読んだ。著者の作品を読むのは5冊目になるが、これが一番好きだった。なぜなら、自分が子どもの頃にど真ん中で見ていた新日本プロレスの物語だったから。当時は理解できていなかった背景、新日本プロレス再生の道程を知り打ち震えた。

 本著は、棚橋弘至と中邑真輔という二人のレスラーを軸に、2000年代から2010年代の新日本プロレスを描くドキュメンタリーである。当時の新日本は総合格闘技(MMA)隆盛のあおりを受け、その棲み分けの過渡期にあり、厳しい状況が続いていた。そんな中で二人の若者が文字どおり地べたを這いつくばって、自らの愛する団体を再び輝かせるために試行錯誤する。その歩みが、個別の章から徐々に交差し、やがて結実していく構成は見事というほかない。

 黒いショートタイツと黒いリングシューズに象徴されるストロングスタイル。そのストイックに強さを誇示していく姿勢に惹かれ、カール・ゴッチを始祖としたストロングスタイルを継承する西村、柴田、後藤らがマイフェイバリットレスラーだった。ゆえに当時の棚橋はアウトオブ眼中で、彼が新日本の中心に来たころ、ちょうどMMAが隆盛するタイミングでプロレスから離れてしまったが、その後にこんなにアツい展開があったなんて…やはり冬の時代だとしても、自分が好きなら変わらず見続けることが大事だと痛感した。底辺から頂点までかけ上がっていくのを一緒に伴走することは、お金で買えない時間がもたらす最高の醍醐味だからだ。

 太陽と月のような二人だからこそ、プロレス観の陰影がくっきりと浮かび上がり、その対照性に魅了される。そして、その中心にどう転んでも存在するのがアントニオ猪木だ。棚橋は一貫して反猪木でエンタメとしてのプロレスを追求していた。一方、中邑は猪木の掲げる「プロレスラーが最強」という思想を体現する舎弟として登場したものの総合格闘技をマージしたスタイルでは結果を出し切れない。しかし、そこから自分のプロレスラーとしての自我をか獲得していき、最終的にエンタメプロレス最高峰であるWWEまで到達するのだから人生どうなるかわからないものである。しかも、必殺技の名前が「ボマイェ(今はキンシャサ)」という猪木へのオマージュという逆説も素晴らしい。つまり、「King of Strong style」という中邑オリジナルのスタイルで、猪木の象徴であるストロングスタイルを再定義、更新しているのだ。

 棚橋パートで最も興味深かったのは、本人の卓越した言語化能力である。現役レスラーとして連載を持ち、そこで現状のプロレスを高い解像度で自ら分析、言語化していたことには驚いた。本著では、彼の思考を思う存分、堪能できる。ビジネス論であり、アート論でもあり、プロレスをあらゆる角度から検証し、「自分に何ができるか?」を考え続ける姿勢から深いプロレス愛をひしひしと感じた。引退後、新日本プロレスの代表取締役に就任したというのも、レスラーよりも天職かもしれないと思わされた。

様々な第三者の視点も二人の物語を肉付けする重要なファクターだ。不遇の世代である永田や真壁の客観的評価や、観客代表であるユリオカ超特Q、ハチミツ二郎まで取り入れる大胆さ。特に中邑のチャプターへ突入する直前のユリオカ超特Q(と著者)による刃牙オマージュが最高。

 さらにと当人たちのインタビューをふんだんに取り入れていることも、私がこれまで読んできた柳澤作品になかった特徴である。たとえば『1984年のUWF』では当人取材なしのアプローチが議論を呼んだわけだが、本著はプロレスファンの多くが納得するであろう圧巻の情報量と整理力で目から鱗だった。試合描写はもちろんこれまでの作品と同じく素晴らしい。前半は試合描写を抑えめにして、ここぞという場面で細かく描いていくあたりの緩急も抜群で、著者の作品を読んでいると、試合を見ていないにも関わらず、毎回見たような気持ちになるのだから不思議である。

 今回は評伝的要素ももちろんあるが、新日本プロレス史でもある。特に子どもの頃に理解できていなかったプロレスにおける表向き人事の裏でうごめく政治的力学が興味深かった。橋本小川の件、猪木の横暴っぷり、坂口から藤浪への権限移行、武藤と小島の全日移籍など、すべてに意味があり、そこには泥臭い人間ドラマが背景にある。

 大人になった今その背景を知ると会社人事そのものだ。プロレスは「勝ち負け決まっているヤラセでしょ?」と揶揄されるが、会社の人事も一事が万事、「根回し」という名のヤラセが事前に行われた上で決裁される。MMAが等身大の人間ドラマだとすれば、プロレスには「政治」という別ベクトルの人間ドラマがあることに今さらながら気づかされた。

 ラストの西加奈子の解説も素晴らしい。プロレスファンが抱えてきたアンビバレントな感情を見事に言語化している。彼女がかつて同じタイミングでプロレスから離れていたこと、そして再び魅了された理由が、棚橋と中邑の切り拓いた「開かれた世界」にあったこと。プロレスを改めて見てみようかなと、プロレス熱に再びを火を灯してくれる最高にアツい一冊だった。

2026年2月13日金曜日

父親が子どもとがっつり遊べる時期はそう何年もない。

父親が子どもとがっつり遊べる時期はそう何年もない。/布施太朗

 大阪帰省の際、blackbird booksで見かけてタイトル買いした一冊。タイトルに掲げられた事実を踏まえ、自分はどう振る舞うべきかを考えさせられる内容だった。

 著者は三児の父。関西出身で神奈川郊外の海辺に住み、都内でサラリーマンとして働いている。そんなペルソナの父親が、育児とどう関わっているかが記録されている。遊ぶ時間が短いとわかっていればこそ、日々の関わりは本来尊いもののはずだが、その瞬間にはなかなか実感できない。その前提を踏まえた著者なりの育児奮闘記であり、ノウハウ本というより「こんなことしてます」という日記的なものなのでグイグイ読めた。

 自分の今の状況とは子どもの人数や就労状況などが異なるので、単純に重ね合わせることはできないけれども、著者が子どもと一緒に何かをすることに重きを置き、それに全力で応える子どもたちの元気いっぱいな姿が目微笑ましい。

 本著で繰り返し唱えていることは、子どもと遊ぶときの「準備」の大切さだ。ただでさえ子どもは色んなことでまごついてしまう。だからこそ、大人サイドの準備不足による時間浪費を最小化して、いかにスムーズに導入し、楽しくできるか。時間があると、つい自分のことに時間を使ってしまいがちだが、子どものいないところで子どもを思って事前に行動しておく必要性を感じた。

 読み応えが最もあったのは、子ども二人を連れての四万十川を川下りするパートだった。新宿から夜行バスで高知へ向かい、河原でキャンプをしながら数日かけて川を下る。その冒険譚はどこか椎名誠的だと思っていたら、実際に本人が帯を書いていて腑に落ちた。著者のような行動力はなく、無類のインドア派で行動に移せないことが多いので見習いたい。

 本著は2016年の刊行であり、この十年で父親の育児参加を取り巻く状況は大きく変化した。育児休業の実質的な義務化もあいまってコミットする男性は確実に増えている。当時はまだ父親の育児参加が珍しかったこともあってか、「父親」であることを強調する構成は今読むと違和感を感じた。(著者が一人称を「オトン」としていることも、違和感を助長している気がした。)つまり、父と子どもの時間が中心で「家庭の育児」という全体像が見えづらいのだ。育児にコミットしていることは伝わるのだが「非日常はオトン、日常はオカン」という性別役割分担に映るのだった。

 当然、男性サイドが育児に参加していなかった状況なので、それを打破するためには男性に育児に対して目を向けさせる必要がある。その認識を基にして、ウェブサイトを作ったり、そこでの連載が本著という形で本になったり、他にも巻末で紹介されているような施策を事業として企画している。そういった草の根の活動があってこそ今があるのは間違いない。

 一方で男性が育児を語ることの難しさは、自分が育児のZINEを作って初めて認識したことだった。「男性」という属性が付与されるだけで、もともと女性が日常的に担ってきたことが特別視されてしまう。ある種、下駄を履かされている状態である。自分では、そのあたりのドヤ感が出ないように配慮したつもりでも、本というスタティックな情報になると、そのニュアンスが出てしまう。「育児本」と一言で圧縮してしまうと、こぼれ落ちてしまう話でバランスを取ったつもりだったが、機能しないこともあるのが現状で、結果的にイクメン文脈に回収されてしまう状況について、本著を読んで改めて考えさせられた。

2026年2月11日水曜日

なぜ書くのか パレスチナ、セネガル、南部を歩く

なぜ書くのか パレスチナ、セネガル、南部を歩く/タナハシ・コーツ

 タナハシ・コーツの新作でこのタイトルとなれば読まざるを得ないと思って読んだ。『世界と僕のあいだに』で好きになって、そのあと小説『ウォーターダンサー』を読んだが、アフリカ系アメリカンの立場からアメリカの過去から現在をリリカルに描き出す書き手だという印象を持っている。本著も紀行文の形式でありながら、彼自身の思考をユニークな表現で提示してくれている一冊だった。

 第1章ではタイトルどおり「書くこと」に関する論考が展開されるが、それ以降はセネガル、パレスチナ、アメリカ南部を訪れ、自身の目で見て、耳で聴いて得た知見を基に、彼ならではのパースペクティブで現状を分析している。インターネットのおかげで、なんでもわかったような気にはなっていても実際に訪問して見える景色は別物だと痛感させられる。上記の訪問場所は、時間的、精神的にもコストを伴うものであり、コーツほどの筆力であれば行かずとも素晴らしい文章を書けるだろうが、きちんと取材して自分の中で腹落ちしたものがアウトプットとして出てきている書きっぷりに彼の真髄を見た。

 邦題は「書くこと」に寄せているが、著者が最初に提示するのは読む必要性である。試合中の不慮の事故で四肢麻痺となったアメフトのワイドレシーバーの話や、シェイクスピアとラキムへの言及を通して、読むことの意味とナラティブの力が語られる。独自の視点でツカミはバッチリだ。

 第二章は初めて訪れるアフリカの地・セネガルの旅行記であり、同時にアフリカ論でもある。ワンドロップルールの不条理さをアフリカの視点で、おもしろおかしく描いているところにウィットを感じる。さらにトニ・モリスン『青い目が欲しい』を引用しながら、外見と人種の問題へと接続していく。アフリカを訪れた経験によって西洋的価値観が相対化され、「西洋の枠組みの外側にもカルチャーがある」という主張は、自分の好きなヒップホップやR&Bの在り方を考えさせるものだった。

私たち自身の人生や文化ー音楽、ダンス、書くことーはすべてこの「文明」の壁の外側という不条理な空間で形作られてきた。これが私たちの団結した力となる。

 ちょうど選挙のタイミングで読んでいたこともあり、サウス・カロライナ州を訪れて教育委員会の会議に参加する第三章が一番グッときた。著作である『世界と僕のあいだに』が禁書になりそうという話を聞きつけて、現場に自ら足を運ぶ。そこでは賛成派、反対派による派手な衝突が起こるわけではないのだが、禁書に反対する市民がその場で意思表示を行い、誤った判断が是正されていく。そんな当たり前とも言える場面が印象に残った。こういった市民活動の成功体験が政治との距離を縮め、市民の連帯が民主主義を支えているのだと感じた。今の日本に必要なことはこうした生身の横の連帯なのではないか。必要以上に個別化が進み、接触頻度の高いSNSの情報に振り回される現状が、本著を読むと空虚に映った。

 そして、もっともページ数を割いているのが、パレスチナ訪問に関する4章である。今に至るまで続く紛争以前のパレスチナの日常や社会の空気といったリアルな実情を手記で読めることが貴重である。外形的な情報はネットや専門書で得ることができるかもしれないが、パーソナルな視点と論考を行き来する構成だからこそ地に足がついている印象を持った。

 著者ならではの視点といえば、アメリカにおけるアフリカ系アメリカンと、イスラエルにおけるパレスチナ人の立場の比較であろう。人種差別の被害者であった歴史を持つユダヤ人が、パレスチナ人に対して加害者として振る舞っている現実に驚いた。真綿で首を締めるようなイスラエルからパレスチナ人に対する迫害の状況に読んでいて苦しい。さらにアメリカとイスラエルの複雑な関係性が、アフリカ系アメリカンである著者がパレスチナを訪れる過程のなかで徐々に立ち現れる。読者は著者に伴走するように未知の過酷な現実を知っていくことになりスリリングだった。

 著者は過去と現在を接続して自分のリアルな手触りを語り下ろしていく手腕が本当に見事だなと今回も感じた。調査能力もありながら、その結果を噛み砕き、さらには自分の経験もスムーズに混ぜ込んでいく、エッセイ以上論文未満のこの塩梅が、個人的にはとても心地よい。このブログや日本語ラップのnoteも著者のようなスタイルでやっていきたい。

書くこと、書き直してゆくことは、たんに真実を伝えるだけでなく、真実がもたらす恍惚をも伝えようとする営みなのだ。私にとっては、読者に私の主張を納得させるだけでは十分ではない。私が一人で感じているあの特別な歓びをともに感じてほしいのだ。世のなかで、誰かがその歓びの一部でも共有したと聞くことは嬉しいものだ。

2026年2月6日金曜日

フェミニズム入門

フェミニズム入門/大越愛子

 ずっと読もうと思っていた中で友人からレコメンドしてもらって、ついに読んだ。今読むと新書とは到底思えないほど専門的内容が詰まっており、フェミニズムの学問的側面を知る上で興味深い一冊だった。

 フェミニズム研究者である著者によるタイトルどおりの入門書。初版は1996年で、ちょうど30年前の本になる。正直、本著を読むまでは「フェミニズム」と聞いても「女性が奪われてきた権利を奪還していくための思想体系」くらいの印象しか持っていなかった。しかし、実際にはフェミニズムと一言にいっても多様な立場が存在する。思想体系という横の広がりと、歴史という縦の深さ、両方をカバーしてくれているので、2000年直前までのフェミニズムの全体像とグラデーションを把握することが可能となっている。

 冒頭、<女性に関することなら何でもフェミニズムであると誤解しているお気楽な輩>とあり、いきなり首根っこを掴まれたような気持ちになった。第一章は当時のフェミニズムの立脚点を宣言するような文章であり、未来への期待も感じさせる。

 本著を読んで最初に驚いたのは、第二章で紹介されているフェミニズムの多様さである。9つもの潮流が紹介されており、これらをすべて一括りに考えてしまうから、理解が進まないのかもしれない。個人的には「精神分析派フェミニズム」における、ナンシー・チョドロウの主張が印象的だった。性的役割分業が従来から変わらず、母親のみが育児を担うという性的役割分業がジェンダー差異を生み、性別意識を再生産するという指摘は、男性の育児参加がフェミニズムと接続していることを示している。男性として育児ZINEまで作った身としては驚いたのだった。

チョドロウは、このようなプロセスで形成される心理的性差は、性別役割分業体制の産物であるから、分業の解体、特に「初期の親業を男女で分かち合う」ことが、男女間の情緒の非対称性を変えていくことになると示唆している。彼女の理論は、性別役割分業の改変が、男女の外的存在形態のみならず、心理的存在形態も変革せしめるという、実践的な問題提起を行っていて、大きな影響力をもっている。

 日本におけるフェミニズムの歴史を深堀りしてくれている点も勉強になった。平塚らいてうなんて、学生の頃の教科書で見た歴史上の人物の一人でしかなかったが、本著を読むと彼女の来歴や思想を具体的に知ることができて興味深かった。母性主義を掲げているがゆえに近代天皇制の家族主義に取り込まれ、フェミニズムが弱体化していく流れは全く知らず、国ごとの社会背景によってフェミニズムの様相が大きく異なることを知った。

 そのあと、戦後のフェミニズムへと流れていくのだが、日本のフェミニズムが他責ではなく自責に向かってしまったという見立ても興味深い。新左翼の影響を受け、自己否定や自己批判を基に、女性自身の内面分析へと向かっていく。外部の制度的抑圧が問題であるにもかかわらず、社会制度を批判するのではなく、自身の内部に解決を求める姿勢は、どこか日本的にも思える。

 日本のフェミニズムといえば上野千鶴子が頭に思い浮かぶが、本著では彼女の功罪を冷静に分析している。フェミニズムを女性の問題から家族の問題へと転換し、性別役割分担という男女関係の問題として提示したことで大衆化に成功した一方、女性の搾取構造そのものが見えにくくなったという指摘は新鮮だった。こうした学問的対立の存在を知れたことも収穫であり、上野自身の議論も読んでみたいと思わされた。このように興味の射程を広げてくれる点で、本著は確かに入門書として機能している。

 最後の章では家父長制、ジェンダー、性暴力といったテーマがフェミニズムの理論的解釈と共に紹介されている。このパートが一番興味深かった。当然、フェミニズムの実践となれば、具体的な行動がなければ現実は変わらない。それゆえ、具体的な事象について取り上げる場面を多く見るが、その事象の背景にどういった学問的理論があるか。それを知っているか、知らないかで解像度は変わるだろう。そういった意味で、本著はフェミニズム的問題を新しい切り口から理解するための視点を与えてくれる。

 ただ、著者はむすびで、理論に傾倒することがフェミニズムではないと述べている。繰り返しになるが、あくまで日常的な実践を伴ってこそ現実は変化していくからだ。

フェミニズムは、人間的現実を突きつけて、何重にも錯綜した欺瞞や仮象の体系を解体しようとする、日常的、理論的実践である。解体の後に何がくるのか、それを発見していくことにこそ、尽きせぬ快楽の泉があるといえるかもしれない。

 女性の首相が誕生したこと自体はジェンダーバランスの上では歓迎すべきことだが、彼女が日本の歪なジェンダーバランスの是正に積極的かといえば、そうとは言えない状況である。これだけではないけども、今回の選挙までの流れふくめて、国民は舐められまくっているわけで、選挙で自分の民意を示していきたい。みんな選挙いこ!(定期)