2026年8月8日土曜日

THE CROWD ele-king presents HIP HOP JAPAN

THE CROWD ele-king presents HIP HOP JAPAN 

 エレキングによる日本のヒップホップ特集号が久しぶりにリリース。ヒップホップ専門誌がない中で、各雑誌が定期的に特集を組んでくれるわけだが、今回も充実した内容で読み応えがあった。

 巻頭インタビューは舐達麻のBADSAIKUSH。別のヒップホップ雑誌『BLUEPRINT』でも彼が表紙を飾っており、近年リリースのない中でも、注目されていることが伺える。久しぶりに彼自身の言葉で現状を知ることができて興味深かった。特に印象的だったのが、家族、とりわけ子どもとの時間を大切にしているという話。彼のようなストリート上がりのラッパーが、それを率直に語れる状況そのものに社会の変化を感じた。その理由も至極納得できるもので、日々育児をする中では、どうしても煮詰まって面倒だと感じてしまう瞬間があるわけだが、この時間も永遠に続くものではないという現実を踏まえると、しっかり向き合っていきたいと思わされた。

 さらにBADSAIKUSHがInstagramのストーリーに投稿した内容を起点にインタビューが展開されていた点にも時代を感じた。ラッパーたちがもっとも気軽にポストしているだろうSNSのフォーマットだからこそ、そこから彼の興味の本質に迫ろうとするジャーナリズムを感じた。5lack『花里舞』を聞いていたというエピソードは今のシーンのあり方に対する重要な示唆に映る。

 全体的な特徴として、論考は抑えめで、現状のシーンについて対談形式で語るパートがその分増えている。紙媒体や活字離れが進み、ポッドキャストを含めて対談形式が隆盛している状況を踏まえての構成なのだろう。実際、対談はヒップホップと相性の良い語り口だと思う。論考になると客観的な視点や文体が求められるが、一人称の音楽であるヒップホップと必ずしも相性は良くない。一方、対談であれば、語り手のパーソナルな視点、意見が入り込むからこそ、言葉にアクチュアリティが生まれる。

 今の日本のヒップホップは細分化が著しく進み、もはや一人ですべてを把握することは困難だ。だからこそ、ラッパーであれ、ライターであれ、リスナーであれ、自分が何に価値を置いているのかを明確にしなければ、語りに説得力を持たせることは難しい。それぞれの対談を読んでいくと、個々の視点を通して現在の細分化したシーンの流れを包括的に捉えられる内容になっている。

 インタビューもそれぞれ興味深かった。つやちゃんによるReichiのインタビューは、『LIFE HISTORY MIXTAPE』以降を感じさせる社会学的なアプローチが垣間見えた。Reichiの「RAPSTAR CYPHER 2025」のバースは何回聞いても涙ぐんでしまうのだが、その背景を知ることができてよかった。また、目下最注目のプロデューサーであるYamieZimmerのインタビューは、自身もビートメイキングを手掛ける吉田雅史氏ならではの解像度で、彼のサウンドの奥深さの一端を知ることができた。あのサウンドの背景にDr.Dreがいることは、聞かないとわからないことだろう。(表紙のスペル、mが1つ多いので、もし二刷があれば修正して欲しい。)

 そして、SpiderWebのインタビューは『DAWN』におけるYOKO SQUADのインタビューと同様に、彼らを現在のシーンにマッピングする意味でも重要な機会と言える。実態をなかなか掴みづらい彼らのスタイルの片鱗を知ることができた。他にもOMG、凸凹。へのインタビューでは、若い世代がいかにキャリアを形成しているか、具体的に語られていて興味深かった。インターネットがデフォルトの世代であり、その利点を生かしながらも、ネットに閉じない現場主義がコロナ禍を経て花開いている。

 このとおり、いわゆるウェブで見かける定型的なインタビューではなく、ヒップホップの文脈を踏まえたハイコンテキストな内容が紙媒体として残っていくことは貴重である。

 エレキングらしさを感じたのは、VOLOJZA、AIWABEATZ、没、CHIYORIによる座談会だった。ヒップホップはナラティブの音楽である一方、さまざまなジャンルを取り込み、新しい音を鳴らし続ける音楽でもある。クラブミュージックからのアプローチで、どういう音の上でラップをしていくのか。その過程についてプレイヤーたちがここまで言語化してくれていることがありがたい。今のKid Fresinoがオルタナという話題が出ていたが、その文脈でTohjiをどう見ているのかは聞いてみたいところである。

 また、ラッパー自身による原稿が掲載されているのも新しい試みだ。しかも、valkneeと仙人掌という人選よ。インタビューを基に構成されることも多いラッパーによる原稿だが、2人の場合は自分自身の言葉で書いていることが伝わってきた。「ラッパーは何か言いたいなら曲で言え」という風潮はわからなくもないが、ラップで表現できないことも当然あるわけで、両者ともそれを踏まえた内容になっていた。

 日本のヒップホップはバブルと言われているものの、各自が点として存在するだけではカルチャーとして残っていかない。だからこそ、本著のような雑誌やYouTubeなど、点と点を繋ぎ、線として捉えようとする試みに意味がある。その時代の空気が抽出され、後世に残していくことができるからだ。

 そんなことを考えながら、自分でもZINEを作った。私がやっていることもまた、今の日本のヒップホップを点ではなく線として残していくための小さな試みである。弊ZINEを読んだ方は、ぜひ本著も合わせて読んでみてほしい。二つを行き来することで、現在の日本のヒップホップをより立体的に捉えられるはず…という宣伝で終わらせていただきます。

note
日本語ラップ日記 2025|YAMADA KEISUKE
昨年からnoteで『日本語ラップ日記』という形で、日本語ラップについて書いてきました。この度2025年にリリースされた作品についてまとめた『日本語ラップ日記 2025』というZINEを販売いたします。
著者: YAMADA KEISUKE note.com


2026年8月7日金曜日

菊地成孔の粋な夜電波 シーズン13-16 ラストランと♂ティアラ通信篇

菊地成孔の粋な夜電波 シーズン13-16 ラストランと♂ティアラ通信篇

 著者が旧Twitterと意識的に距離を取ってきた中で、とうとう現Xに飲み込まれ、暴れまくっている様子を見て、ずっと取っておいた最終巻を手に取った。同じ内容だとしても、X上の言葉と、ラジオで話す言葉はまったく異なる印象を受けるのだな、という当たり前の事実に気づいたのだった。

 過去作はすべてKindleで買ってきたのだが、いつのまにか販売休止となっている。手元にあるKindleでは読むことができて安心したものの、いつ引き上げられるかわからないなとも思う。本著だけ出版社が変更になり、Kindleになるのをずーっと待っていたのだが、一向にリリースされないので観念して紙で購入したのだった。

 それはさておき、本著ではシーズン13〜16ということで、私がリアルタイムで聞いていたエピソードがいくつも収録されていた。毎シーズンごとに番組冒頭の口上用にBGMが選ばれ、それを毎週聞いていたこともあり、その曲をストリーミングサービスで再生した瞬間に当時の記憶がフラッシュバックした。音楽を聞きながら読むことでセルフラジオ状態になり、読書体験として興味深かった。

 10年弱前の放送が収録されているにも関わらず、タイムリーな内容が多く驚く。(帯のコメント!!!)トランプがアメリカ大統領であること、東浩紀との初邂逅、AIの台頭、音楽におけるラティーノの活躍など、今とシンクロする内容や、先見の明は鋭さはあいかわらずである。なかでも平野歩選手が好きなラッパーが誰なのか?という話題に言及していて、流石の嗅覚すぎる。

 構成作家を置かず、セルフプロデュースで、毎週のように特集を企画し、選曲する。ときにはコント台本まで書いたりする、そのバイタリティに感服する。当時50代だったことにも驚きつつ、10年経った今、そのエネルギーがSNS上での不毛と言えるレスバに、吸い取られている現実がとにかく悲しい。おそらく多くのファンは「やっぱそうなっちゃったか…」と遠い目になるしかない。一方で、たいして知りもしないのに「菊地成孔はどうのこうの」としたり顔で綴っているポストを見るだけでムカついてしまう。そんなXのアルゴリズムの勝利とも言える状況にも辟易する。

 タイトルに掲げられているとおり、最終シーズンに突如として盛り上がったKing & Princeを取り上げたエピソードが多く採用されている。これはKing & Princeのファン(総称ティアラ)による売上を狙ったものらしいのだが、巻末で著者も触れているとおり、その分だけ落としてしまったエピソードがあると思うと悔やまれる。たとえば、韓流最高会議は歴史的にみて重要な資料であることは間違いないからだ。

 しかも、King & Princeのうち、本著で言及されていたメンバーは旧ジャニーズを抜けて、Number_i としてのびのびと活動している。キンプリに対する高評価を歴史に残す意味がないとは言い切れないものの、さすがにちょっと多い。ただ、今のNumber_iに対する音楽的、ひいては批評的な見立てはぜひ聞いてみたいところであり、番組が終わってしまったことが改めて残念に思える。

 最終シーズンの終盤は、番組が終わるのが悲しすぎて聞いていなかったので、今回初めてどんな内容だったのか知ったのだが、想像以上にエモーショナルだった。ニヒリスティックな著者ではあるが、8年間毎週エネルギーを注いできた番組が唐突に失われることを受け止めている様子から、間接的に痛みや悲しみが伝わってきた。

 ネットの影響力がここまで大きくなく、まだまだラジオの力が健在だった頃、そこで果たした役割についても振り返る機会になった。期せずして今回、熊本地震の発生に伴って、著者が「快涙と快眠を導くため」ということでYouTubeでプレイリストを提供しており、音楽の力を信じている著者ならではのアプローチだなと感じた。(レスバとトレードオフと考えると代償がデカすぎる気もするが。。。)

熊本の皆様へ
熊本の皆様へ 2

 その1つ目のプレイリストの最後にセレクトされている宮沢昭『野百合』からセレクトされた「Beyond the Flames」があまりにも凄すぎて。。。日本の音楽でこんな美しい曲、久しぶりに聞いたし、著者のアーカイブの懐の深さに恐れ慄いた。

 これに象徴されるように著者の選曲する力は並大抵のものではなく、この番組で知った音楽の数々は自分の中で大きな財産となっている。音楽に貴賎を設けず、かっこいいかどうかの審美眼を常に携えて選んでいることが改めてわかった。ストリーミングサービスとYouTubeを駆使すれば、ほぼすべての音源を聞くことが可能であり、それだけで楽しい。

 特に旧譜が中心のジャズアティチュード、ソウルBAR<菊>で紹介されていた音楽の数々は古びないエバーグリーンな作品の数々を著者が紹介してくれているから貴重な財産。巻末についている番組プレイリストを基に色々聞いていきたい。そして、今回聞いてぶち上がった曲たちを紹介して終わりにしたいと思います。はー、復活しないかな。(m年ぶりn回目)

 

 


2026年7月31日金曜日

未来

未来/ナオミ・オルダーマン

 美玉ラジオで紹介されていて、それを聞きながらブックオフをぶらついていたら、偶然にも目の前に本著があった。そんな巡り合わせで購入したまま積んでいたのだが、ここ数年は「Summer Reading」に乗っかり、夏に鈍器本を読むのが恒例になっており、満を持して500ページ超の本著に挑んだ。現代的なテーマをこれでもかと盛り込みながら、それらをエンターテインメントとして見事に昇華した一冊だった。

 著者は前作『パワー』が世界的なベストセラーとなり、そちらで知っている人も多いだろう。訳者あとがきによると、マーガレット・アトウッドの弟子筋にあたるらしい。本著は終末SFという王道の枠組みを用いながら、「世界を支配するビッグテック企業のCEOたちが急に姿を消したら社会はどうなるのか」という思考実験を起点にしている。この設定が非常に新鮮だった。しかも舞台は限りなく近未来であるため、SFでありながら現実の延長線上として読めるリアリティがある。テックに関心のある人なら、とりわけ引き込まれるだろう。

 主人公はサバイバル系YouTuberとビッグテック企業の秘書という二人。冒頭で謎めいた激しいアクションが描かれ、その出来事を起点に、終末世界をどう生き延びるのかが多角的な視点から語られていく。

 印象的だったのは、終末論を思想的に支えるソドムとアブラハムをめぐるモチーフだ。旧約聖書を下敷きにしているのだが、神話は毎回読んでもなかなか頭に入ってこないのだが、比較的理解しやすかった。それは複数のテーマに重ねながら繰り返し描かれるため、寓話として自然に読み解くことができたからだろう。

 なかでも表紙に描かれた「キツネ」と「ウサギ」は、本著を象徴する重要なモチーフである。狩りをしながら移動していたキツネだった人類が、一か所(都市)に定住するウサギへと変化してしまった。そんな比喩を通じて現代社会を読み解いていく。その停滞こそが世界を滅ぼす根源だとするラディカルな視点に、環境問題や資本主義への批判が接続されていく構成が見事だった。それは現在の加速度的な資本主義の浸透に対するカウンターでもあり同時代性があった。

 物語全体にインターネット、SNS、AIを中心としたテクノロジーに対する懐疑的な視線が投げかけられており、フィールする内容が多かった。ネット上で机上の空論を交わし、何かを成し遂げた気になっていても、現実は何一つ変わっていないことはよくあることだ。そこから抜け出すには身体を伴った行動が必要であり、その先には現実世界そのものの尊さがある。そんなメッセージが胸に響いた。

 物語のギミックが豊富で、500ページを超える長さにもかかわらず最後まで飽きさせない。掲示板形式の書き込みが随所に挟まれる構成が効果的だし、終盤にはどんでん返しが何度も繰り広げられ、読んでいてハラハラした。複雑な人間関係のなかで、それぞれの思惑が絡み合いながら社会が変化していく様子は読み応え十分だった。その展開は計算されているというよりも、未来の予見不可能性を物語に組み込んでいるようだ。さまざまな出来事や個人の選択が少しずつかみ合って社会は変化していく。つまり「一人一人の行動変容こそが未来を変えていくのである」というメッセージだと受け取った。まさにONE PERSON ONE POWER。

 未来という言葉には期待と不安が常に同居している。本著はその両極を振り子のように行き来しながら、私たちは何を拠り所にこれから生きていけばいいのか問うてくる。目先の利益を利己的に目指していくような現代だからこそ、誰のために、何のために生きていくのかについて、考えさせてくれる小説だった。

2026年7月26日日曜日

世界一おもしろい現代ヒップホップ入門

世界一おもしろい現代ヒップホップ入門/EJ

 日本で出版されるヒップホップ関連本は可能な限り読んでいるので、本著も読んだ。YouTuberが書籍を出版することに時代を感じるし、著者のヒップホップに対する考えも伝わってきて興味深かった。

 著者はYouTuberとして、ヒップホップに関する解説動画を中心に、インタビューなども含めて幅広く活動している。本書はヒップホップ入門書として、アメリカにおけるヒップホップの誕生から現在の流行までを、時系列に沿ってこのカルチャーが発展してきた歴史を解説している。

 世間全体の空気として、YouTuberをナメてかかる風潮があるし、タイトルもボケてきているので、正直なところ内容には不安があったが、それは杞憂だった。想像以上に骨太な内容で、自分の穿った見方を反省した。

 正直ヒップホップの歴史を知るだけなら、インターネット、生成AIなどを駆使していくらでも勉学べる。そんな時代に、本という限られたページ数の媒体でヒップホップについて書く意味があるとすれば、それは切り口に他ならない。ヒップホップの歴史は約50年にわたり、背景まで含めれば膨大な出来事が積み重なっている。著者はそれらを独自の視点で整理しており、これまで読んだヒップホップの歴史本とは一味違うフレッシュな視座を感じた。

 たとえば、ファッションとの接続が挙げられる。ヒップホップとファッションが切っても切れない関係にあることは本書でも繰り返し語られるが、歴史を語る際には意外と見落とされがちな論点でもある。YouTuberという間口の広い仕事だからこそ拾えた視点なのだろう。なかでもFUBUには懐かしさを覚えた。略称の意味を今回初めて知ったし、当時まわりにいた大阪のヤンキーたちがこぞってFUBUを着ていたこともレミニス。インターネット以前から、ファッションを通じてヒップホップがグローバルに影響を与えていたのだと、あらためて考えさせられた。

 また、時間軸だけでなく場所の軸で整理している点も優れている。アメリカのヒップホップを聞くとき、ざっくり東西南といったイメージで捉えてはいるだけだったが、本著では具体的な地名だけでなく、その相対的な位置関係や規模、街の歴史や空気感まで説明されており理解が深まった。ヒップホップの音楽的な側面だけでなく、社会背景まで噛み砕いてくれるので、本を通じてヒップホップを知りたい、という知的好奇心の強い読者にとっては、入門編として十分に機能するはずだ。

 創世記から2020年代までを一気にたどることで、ヒップホップという音楽がいかに豊かな表現形式であるかを、あらためて思い知らされる。既に歴史を知っている古参リスナーにとっても今読むことの醍醐味はここにある。リアルとフェイクをめぐる価値観の変遷や、「何がヒップホップなのか」という定義の揺れも、「歴史」という軸があるからこそ、よりいっそう興味深く映った。

 ヒップホップのオーセンティシティを巡る議論の健全さを主張している点は納得した。常に何がリアルなのかを問い続けることで、その真価が進化してきた歴史を知ることができたし、伝統と革新がせめぎ合い、これほど音楽性と思想性が更新されていく音楽ジャンルは他にない。だからこそ、自分がいまもなおヒップホップに惹かれ続けているのだと気づかされた。

 本著の中で、もっとも読み応えがあったのは、ヒップホップのアンビバレントな側面に関する著者の考え方だった。YouTuberとして活動している以上、いかに間口を広くするかは重要であり、その必要性を著者はよく理解している。一方で、ヒップホップへの深い愛情も伝わってきて、その狭間でストラグルしていることがうかがえる。終盤の日本語ラップの解説や、みのミュージックとの対談は、アメリカ編の情報量や洞察の深さと比べるとやや見劣りするのは否めない。だが、それもより広い層にリーチし、ヒップホップを理解する入口に立ってほしいという思いがあるからこそのアプローチなのだろう。

 若い頃なら「これはセルアウトだ!」と大きな声で言っていたかもしれない。しかし、日本においてヒップホップの人気が実際に広がり、その結果としてメジャーからアングラまで、恩恵を受ける状況がある今、進んで「ゲートドラッグ」になろうとする著者の勇気と姿勢を、素直に応援したい気持ちになった。

 次は2010年代のトラップ以降の細分化されていくアメリカのヒップホップを体系的にまとめた、著者の得意分野かつ専門性の高い内容の本を読んでみたい。(YouTubeチャンネル見ろやって話かもしれないけれども。)

2026年7月21日火曜日

翻訳する私

翻訳する私/ジュンパ・ラヒリ

 新刊が出るたびに必ず買う作家の一人であるジュンパ・ラヒリの最新作。今回はエッセイの枠を超え、翻訳という営みを多角的に掘り下げた、骨太な論考集だった。

 近年の著者はイタリア語の習得をライフワークとし、エッセイや小説をイタリア語で執筆してきた。本著では、そうした経験を踏まえながら英語にも立ち返り、複数の言語の間で生きることを深く考察している。移民二世である著者は、幼い頃からベンガル語で考えたことを英語へ変換するプロセスを自然に経験してきたという。複数の言語を身につけた人だからこそ見える、それぞれの言語でしか表現できないニュアンスについての考察は、どれも刺激的だった。

 『変身物語』におけるナルキッソスとエコーの話と翻訳のアナロジーは著者の翻訳論の肝である。ギリシャ神話を抽象化して、自身の論理を築き上げていく様は学者さながらだ。神話に詳しくない読者にも伝わるよう丁寧に説明され、さらに繰り返し参照されることで、その比喩の説得力が増していた。

 イタリア語への深い愛情が随所から伝わる一方で、イタリア社会ではなお「外様」として見られることへの戸惑いも率直に綴られている。多様なバックグラウンドを持つ人々が英語を共通言語として生きるアメリカとは対照的に、イタリアは画一性が高いからこそ、著者に対して「なぜイタリア語なのか?」と繰り返し問われることに疲れているようだった。

 翻訳は生成AIの普及によって真っ先に代替される仕事として語られがちだ。しかし、実際の翻訳プロセスや思考過程について読んでいると、AIによる翻訳でどこまでフォロー可能なのかと思わされるほど、プロフェッショナルな仕事だった。コンテキストだけではなく、言葉のリズム、語同士の響き合い、一冊全体の構造まで見渡しながら訳文を組み立てていく。その徹底した仕事ぶりには圧倒された。AIが翻訳を大きく変えることは間違いないとしても、仕事のディテールを知らないまま「AIで代替できる」と決めつけることの危うさも感じさせられた。

 また、「翻訳は二次創作であり、創作より下位に位置する」という価値観に著者が強い怒りを示している点も印象深い。「作家としてアイデアが枯渇したから翻訳をしているのだろう」という偏見に対し、創作と翻訳を序列化する発想そのものを問い直していく。具体例を交えながら翻訳の創造性を論じ、「すべては模倣から始まる」というクリエイティブ論へと展開していく流れは、著者の創作哲学そのものを映し出しているようだった。

 著者がイタリア語で執筆を始めたのは45歳の頃らしく、物事に遅いことなんてないなと思えた。他の言語能力を取得するモチベーションはAIの台頭に伴い減退する一方だったが、著者の言語に対するピュアな興味の抱き方を読んでいると、何かを学ぶことの醍醐味を思い出させてくれた。コスパ、タイパで物事を測っていては、人生は少しずつ味気がないものになっていくからこそ、学習意欲は大切にしたいと思えたし、英語をもう1度頑張るか、韓国語を新たに勉強しようかな。

2026年7月17日金曜日

1985年のクラッシュ・ギャルズ

 

1985年のクラッシュ・ギャルズ/柳澤 健

 著者の本をここ1年ほど積極的に読んでおり、レコメンドもあって読んだ。全日本女子プロレスについては世代的に門外漢だが、プロレスというジャンルの業の深さを知るには最適な一冊だった。

 タイトルにある「クラッシュギャルズ」は長与千種、ライオネス飛鳥による女子プロレス界の伝説的タッグ。本著は2人の来歴を評伝としてたどりながら、全日本女子プロレスを中心とした女子プロレス史の栄枯盛衰を描いている。

 今回読んで初めて知ったのは、若手向けタイトル戦では押さえ込みによるガチ決着が行われていたことや年間250試合をこなす過酷な労働環境だった。そんな世界では、フィジカルに優れたライオネス飛鳥が圧倒的な強さを見せ、長与千種は三下に甘んじていた。しかし、長与はフィジカルや技術がなくとも観客の心を掴む能力に長けていたことで徐々に頭角を表していき、最終的に2人がタッグを組んでスターになっていく過程が興味深い。演出家としての長与、それを圧倒的フィジカルで体現する飛鳥のコンビが熱狂的な人気を生み出して国民的スターになっていくのだ。今ではコンテンツの細分化が進み、世代を超えて共有されるスターはほとんど存在しない。だからこそ、女子プロレスラーが国民的スターだった時代があったという事実には隔世の感があった。

 さらに面白かったのは、当初は飛鳥が上だった立場が徐々に逆転し、雑草タイプの長与が飛鳥をまくっていく過程だ。プロレスは勝敗だけを競う競技ではない。観客を巻き込み、その場の熱狂を生み出してこそ価値がある。フィジカルエリートよりも、会場の空気や観客心理を読み切れる人間が頂点へ上り詰めるという構図は、通常のスポーツではなかなか見られない。そこにプロレスならではのドラマやロマンがあり、人を惹きつけてやまない理由なのだと感じた。

 そして、本著最大の特徴は、クラッシュギャルズを追い続けた一人の女性の人生が並行して描かれることだ。学生時代に女子プロレスへ熱狂し、親衛隊を経て、やがて記者となる。彼女の人生とクラッシュギャルズの栄光と衰退が重なり合い、単なる評伝では終わらない奥行きを作品にもたらしている。彼女のパートは一人称ではなくインタビュー形式で構成されているため、自身の人生を客観的に振り返る落ち着いたトーンになっており、クラッシュギャルズの熱量あふれるパートとのコントラストも素晴らしかった。

 クラッシュギャルズの衰退とともに女子プロレス人気も下降し、その中で試合内容がより過激になっていく点も印象に残った。男子のプロレスの方が危険なイメージを持っていたが、著者によれば当時の全日本女子プロレスは「世界で最も危険で陰惨で殺伐としたプロレス」だったという。人気を取り戻そうとする焦りが、より刺激的な表現へとエスカレートしていく構図は、SNS時代特有の現象だと思っていた。しかし、人気商売である以上、その構図自体は昔から変わらないことがよくわかった。

 私にとって女子プロレスラーといえば、バラエティ番組で活躍するタレントという印象が強い。北斗晶やジャガー横田も、リング上で戦う姿よりロケ番組に出演している姿の方が思い浮かぶ。しかし、彼女たちがリングで経験してきた壮絶な日々を知ると、「人に歴史あり」という言葉が自然と浮かぶし、一気にリスペクトが増した。特にジャガー横田の先輩として義理人情を貫く姿勢には胸を打たれた。何事もコストパフォーマンスが優先されがちな時代だからこそ、そうした振る舞いがより熱く感じられた。

 NETFLIX『極悪女王』を見たり、井田真木子『プロレス少女伝説』を読んだりして、この時代の女子プロレスの世界をもう少し深く味わってみようと思う。

2026年7月10日金曜日

イン・ザ・メガ・チャーチ

イン・ザ・メガ・チャーチ/朝井リョウ

 色んな人からおすすめされていて、やっと読んだ。最近読んだ著者のエッセイで、アイドルオーディション番組に初期から関心を持ち、熱心に追いかけてきたことを知り、解像度の高い作品なのだろうと期待していたが、その想像を何倍も上回る怪作だった。

 オーディション番組から誕生したアイドルを軸に、ある父親とその娘、彼らとは無関係な独身女性の三人を主軸に物語は展開していく。得意の群像劇によって、それぞれの立場からアイドルとの関わり方を描きながら、推しカルチャーについて立体的に批評するような小説となっている。

 アイドルオーディションを題材にした作品と聞いていたので、アイドル本人やファンを中心とした物語だと勝手に想像していた。しかし、実際には、オーディションを仕掛ける側である中年男性の視点が大きな比重を占めている。しかも、敏腕アイドルプロデューサーではなく、ミドルエイジクライシスに苦しむ元コンテンツ担当の経理職のおじさんなのだ。この人物設定は、おそらく日経新聞夕刊での連載を前提としていたからこそ生まれたのだろうが、ここに朝井イズムがこれでもかと詰め込まれている。

 著者の群像劇は、登場人物のペルソナの描き込みが作品の深みにダイレクトに寄与してきたわけだが、おじさんパートでは特に筆が乗っている印象だ。「独りで啜るインスタントの味噌汁」というパワーワード一発で、おじさんの孤独を表現している。さらには「脳みそを溶かす」「味噌玉」など、「みそ」を起点に物語のキーとなる展開を描いていくあたりは、さながらラッパーである。

 自分自身がモロに中年男性なので、身に覚えのあるシーンが次々に現れて心苦しかった。意地悪に感じるほどのディテールの細かさは圧倒的だ。数年の社会人経験があるとはいえ、ここまでの解像度で中年サラリーマンの悲哀を書けるだなんて。人生が宙ぶらりんだった主人公が、水を得た魚のように仕事へ没頭し、若者たちと交流する中で失われた時間を取り戻すように主体性を回復していく姿は実に健気だ。そんな健気な気持ちが最後は裏目に出てしまうのだから切ない。その姿を見ていると、自分の将来について考えずにはいられないし、娘と過ごしている時間がいかに尊いものなのか、逆説的に気付かされた。

 やりがいを超えた「生きがい」が本著のテーマの一つである。大量のコンテンツに囲まれて、可処分時間が足りないというエピソードは今や珍しくない。しかし、本著がフォーカスするのは可処分時間が余ってしまうことの恐怖である。その空白を埋めようと、仕事や趣味に生きがいを求める中年男女の姿は読んでいて苦しくなる。とりわけ、アイドルカルチャーで育まれた「信じる力」が陰謀論へと滑らかに接続され、全力でのめり込んでいく女性の描写は、近年の社会状況を思い起こさせるものがあった。

 「メタからベタへ」も本著を貫く大きなテーマであろう。「視野」という言葉が繰り返し登場し、どのような距離感で物事と向き合うのかを問いかけてくる。ズームインして視野を狭めれば、夢中になれる一方で、他人からは痛々しく映ることもある。逆にズームアウトして俯瞰すれば、冷静ではいられるが、そこに熱量は生まれにくい。著者はどちらか一方を肯定するのではなく、両方を丁寧に描くことで、人生はそのバランスの上に成り立つことを示しているように思えた。

 ただ、自分自身は今の社会状況だからこそ、冷笑へと流れがちな俯瞰的な態度よりも、視野を狭めてでも何かに熱中する姿勢を選びたい。「メタ視点を取り続け、考えているだけでは何も積み重ならない」という登場人物の言葉は、この作品の中でも特に胸に刺さった。

 人を夢中にさせるためのマーケティング手法としての「物語」も本著の大きなテーマである。タイトルは、その手法を宗教勧誘に応用するチャーチマーケティングからインスパイアされている。マーケティングを学ぶために留学する同級生と、そのマーケティングの餌食になっている主人公の女子大学生を終盤で対比させる構成は強烈だった。なぜならマーケティングの手法と、その実践を対比させているからだ。しかし、自分が渦中にいるとしてもなお、自分が幸せであればそれでいいという主体性を取り戻した女子学生の姿を見ていると、周囲に流されて生きることと、自ら選んで何かに夢中になることのどちらが人間らしいのかを考えさせられる。その一方で、主体性のないまま別の「物語」に巻き込まれていく中年女性の存在が鮮やかな対比となり、このテーマをより際立たせていた。

 本著がチャーチマーケティングを駆使した推しカルチャーの裏側をメタ的に描いた小説である。それが推しカルチャーサイドに受け止められているからこそ、本屋大賞を受賞し、ヒットしているのだろう。(実際、BMSG推しのパートナーも珍しく読みたいと言っていた。)主人公のように推しカルチャーにどっぷり浸っている人や、それを仕掛ける音楽事務所の人が本著を読んでどんな感想を抱くのか聞いてみたい。