2026年2月6日金曜日

フェミニズム入門

フェミニズム入門/大越愛子

 ずっと読もうと思っていた中で友人からレコメンドしてもらって、ついに読んだ。今読むと新書とは到底思えないほど専門的内容が詰まっており、フェミニズムの学問的側面を知る上で興味深い一冊だった。

 フェミニズム研究者である著者によるタイトルどおりの入門書。初版は1996年で、ちょうど30年前の本になる。正直、本著を読むまでは「フェミニズム」と聞いても「女性が奪われてきた権利を奪還していくための思想体系」くらいの印象しか持っていなかった。しかし、実際にはフェミニズムと一言にいっても多様な立場が存在する。思想体系という横の広がりと、歴史という縦の深さ、両方をカバーしてくれているので、2000年直前までのフェミニズムの全体像とグラデーションを把握することが可能となっている。

 冒頭、<女性に関することなら何でもフェミニズムであると誤解しているお気楽な輩>とあり、いきなり首根っこを掴まれたような気持ちになった。第一章は当時のフェミニズムの立脚点を宣言するような文章であり、未来への期待も感じさせる。

 本著を読んで最初に驚いたのは、第二章で紹介されているフェミニズムの多様さである。9つもの潮流が紹介されており、これらをすべて一括りに考えてしまうから、理解が進まないのかもしれない。個人的には「精神分析派フェミニズム」における、ナンシー・チョドロウの主張が印象的だった。性的役割分業が従来から変わらず、母親のみが育児を担うという性的役割分業がジェンダー差異を生み、性別意識を再生産するという指摘は、男性の育児参加がフェミニズムと接続していることを示している。男性として育児ZINEまで作った身としては驚いたのだった。

チョドロウは、このようなプロセスで形成される心理的性差は、性別役割分業体制の産物であるから、分業の解体、特に「初期の親業を男女で分かち合う」ことが、男女間の情緒の非対称性を変えていくことになると示唆している。彼女の理論は、性別役割分業の改変が、男女の外的存在形態のみならず、心理的存在形態も変革せしめるという、実践的な問題提起を行っていて、大きな影響力をもっている。

 日本におけるフェミニズムの歴史を深堀りしてくれている点も勉強になった。平塚らいてうなんて、学生の頃の教科書で見た歴史上の人物の一人でしかなかったが、本著を読むと彼女の来歴や思想を具体的に知ることができて興味深かった。母性主義を掲げているがゆえに近代天皇制の家族主義に取り込まれ、フェミニズムが弱体化していく流れは全く知らず、国ごとの社会背景によってフェミニズムの様相が大きく異なることを知った。

 そのあと、戦後のフェミニズムへと流れていくのだが、日本のフェミニズムが他責ではなく自責に向かってしまったという見立ても興味深い。新左翼の影響を受け、自己否定や自己批判を基に、女性自身の内面分析へと向かっていく。外部の制度的抑圧が問題であるにもかかわらず、社会制度を批判するのではなく、自身の内部に解決を求める姿勢は、どこか日本的にも思える。

 日本のフェミニズムといえば上野千鶴子が頭に思い浮かぶが、本著では彼女の功罪を冷静に分析している。フェミニズムを女性の問題から家族の問題へと転換し、性別役割分担という男女関係の問題として提示したことで大衆化に成功した一方、女性の搾取構造そのものが見えにくくなったという指摘は新鮮だった。こうした学問的対立の存在を知れたことも収穫であり、上野自身の議論も読んでみたいと思わされた。このように興味の射程を広げてくれる点で、本著は確かに入門書として機能している。

 最後の章では家父長制、ジェンダー、性暴力といったテーマがフェミニズムの理論的解釈と共に紹介されている。このパートが一番興味深かった。当然、フェミニズムの実践となれば、具体的な行動がなければ現実は変わらない。それゆえ、具体的な事象について取り上げる場面を多く見るが、その事象の背景にどういった学問的理論があるか。それを知っているか、知らないかで解像度は変わるだろう。そういった意味で、本著はフェミニズム的問題を新しい切り口から理解するための視点を与えてくれる。

 ただ、著者はむすびで、理論に傾倒することがフェミニズムではないと述べている。繰り返しになるが、あくまで日常的な実践を伴ってこそ現実は変化していくからだ。

フェミニズムは、人間的現実を突きつけて、何重にも錯綜した欺瞞や仮象の体系を解体しようとする、日常的、理論的実践である。解体の後に何がくるのか、それを発見していくことにこそ、尽きせぬ快楽の泉があるといえるかもしれない。

 女性の首相が誕生したこと自体はジェンダーバランスの上では歓迎すべきことだが、彼女が日本の歪なジェンダーバランスの是正に積極的かといえば、そうとは言えない状況である。これだけではないけども、今回の選挙までの流れふくめて、国民は舐められまくっているわけで、選挙で自分の民意を示していきたい。みんな選挙いこ!(定期)

2026年2月4日水曜日

ふつうの人が小説家として生活していくには

ふつうの人が小説家として生活していくには/津村記久子

 大阪帰省のタイミングで1003に立ち寄った際に友人共々購入した。買ったときは気づいてなかったが、実は感慨深い出来事だった。というのも、著者の熱烈なファンだった、その友人にレコメンドされて著者の小説を読んできたからだ。そんな運命論めいた話はさておき、対談本として無類の面白さだった。一日で読み切れるようなボリュームながらも、人生の土台になるような大事なことが詰まっており、友人全員に読んで欲しいと思う本だった。

 本著は夏葉社からリリースされており、同社代表である島崎潤一郎自らが相手を務める対談本となっている。津村記久子といえば、先述の通り、2010年代の日本文学を代表する作家の一人だ。大仰な物語を振りかざすのではなく、卑近な日常や労働のリアルを淡々と描くタイプの作家だ。特に労働に関する小説群はリアリティが高く、前述のとおり当時好んで読んでいた。

 そんな著者の人生を振り返りながら、タイトルどおり小説家として、どうやって生きてきたのか、ざっくばらんに対談しているのだが、このざっくばらん感がたまらない。かしこまったインタビューではなく、同世代の二人が就職氷河期という時代背景を共有しながら、脱線しつつ「ふつうの会話」を繰り広げ、その中で顔をのぞかせる本質の数々は、人生で大切にしたいと思えることばかりだ。

 一番グッときたことは好きなものを見つけること、ディグ力に関する話だった。最近はレコード文化以外でも「ディグる」という言葉が一般的になっているが、若い頃に好きなものを自力で見つけた経験があるかどうかが大事で、それは知識量とは関係がない。あくまで自分が好きかどうかの琴線を作る姿勢の大切さが説かれていた。

 また、その琴線を作り上げるのにギャンブルが必要という指摘も今の時代だからこそ腑に落ちた。今はレコメンド技術が発達しすぎて、失敗せずに「正解」に辿り着けてしまう。しかし、予定調和ではないもの、自分にとって「好きじゃないもの」に遭遇することには、意味と尊さがある。タイパ重視の若い世代からすれば「うぜーな、おっさん」と一言で瞬殺されるかもしれないが、「無駄な出会い」こそが血肉になる感覚は、世代的に納得感があった。インスタントでポップなものだけを消費するのと、自分の直感を信じて泥臭く好きなものを追いかけるのとでは、二者間のギャップは大きくなるなと大人になればなるほど感じることだ。こういった根源的な部分について、改めて小説家と出版人という職業の方が語っていることに意味がある。

 そして、ディグ力=見つける力こそが、小説家として著者の原動力だという主張も興味深かった。小説家というのは、どちらかと言えば、多くの場合スルーされるような日常の場面でも、鋭い観察眼で新たな側面を拾い出すイメージが強い。それは掬い取る、いわば水平方向の能力だが、垂直方向の能力であるディグを重要視しているのは意外だった。

 小説執筆の具体的な話が本著のハイライトであろう。テーマ設定、アプローチといった抽象的な話にとどまらず「具体的にどの時間にどうやって書いているか」を包み隠さず開陳してくれており、小説執筆に限らない広い意味での仕事におけるプロダクティビティ論になっており読んでいて楽しい。なかでもニュースサイトの「ライフハッカー」を読んでいた話や、独自のポモドーロテクニックへと至る流れが元会社員らしさを感じるエピソードだった。「ライフハッカー」を読んでいた著者らしい表現として、自らを「オープンソースで形成されている」と言っている場面は笑った。それを踏まえて放たれる「コントロールできるのは自分の人生だけ」という言葉には説得力があった。

 著者が『アレグリアとは仕事はできない』という作品で、コピー機のことを書いた経緯が興味深かった。自分にしか書けない身の回りのディテールをアートに昇華させること。これは私の好きなラッパーであるSEEDAによる「けん玉理論」の小説による実践であり、ここがリンクするとは思わず興奮した。また、著者は生来のなにか、才能などに興味はなく「行動」を書きたいという主張から、なぜ著者の仕事小説が面白いのか納得した。未読の作品がまだまだあるので、これをきっかけに色々読んでいきたい。

2026年2月1日日曜日

すべての罪は血を流す

すべての罪は血を流す/S・A・コスビー

 PEPCEE&YOSHIMARLによる新しいアルバム『STONE COLD』に触発されて積んであったクライムノベルを読んだ。著者の作品を読むのは二作目だが、今回もページターナーっぷりは健在で他の追随を許さない圧倒的なレベルだった。

 主人公は保安官のタイタス。アフリカ系アメリカンによる高校での銃撃事件を発端に、次々と発覚していく陰惨な事件を追っていく物語である。舞台がアメリカ南部ということもあり、宗教や人種という現代アメリカの根深い問題をメインテーマに据えつつ、銃、ドラッグ、ペドファイルといった個別の具体的な問題がその上に乗っかってくる。プロットの面白さだけではなく、南部の空気を体感できる点が、本著が並のクライムノベルと異なるところだ。

 警察官を主人公に据えると、勧善懲悪の単純な構図に陥りがちだが、タイタスはFBI勤務時代の暗い過去を引きずっており、清廉潔白な正義漢ではない。グレーなニュアンスがあるからこそ、物語にスムーズに乗ることができた。一方で追いかける犯人の悪っぷりは今まで読んできたクライムノベルの中でも屈指の悪。タイトルどおり血が流れまくりだし、描かれる殺人はいずれも陰惨極まりない。情状酌量できる余地がないほどおぞましいからこそ、誰が犯人なのか、どんな結末を迎えるのかと読む手がドライブさせられた。 アクション描写も圧巻だった。特に犯人とのバトルはいずれも手に汗を握る展開で、終盤まで積み上げられてきた凄惨な犯行描写によって膨れ上がった犯人像が明らかになった挙句のバトルなので読み応えがあった。

 今回は宗教が大きなテーマということもあり、以前に読んだ『黒き荒野の果て』よりも著者の筆が乗っている印象を受けた。聖書やシェイクスピアといったクラシックの引用が物語に厚みを加え、それに呼応するような著者独特の言い回しもかっこいい。たとえば、主人公の母の格言として語られる「真実がズポンを引き上げているあいだに、嘘は地球を半周する」SNS以後のポストトゥルースな状況をこんな短い言葉で的確に表現していて、ラッパーさながらである。

 アフリカ系アメリカンが白人を銃殺したけれども、その白人が実はペドフィリアで…といった具合に、問題がインターセクションしていく構造も印象的だった。安易な二元論に回収されることを拒む、著者なりの工夫であろう。アフリカ系アメリカンが置かれてきた不遇な立場を大前提としながらも、それだけに閉じない人間同士による凄惨な争いが展開するゆえ、業の深さを感じさせられた。

 「宗教もドラッグも依存という観点では変わらない」と考えるタイタスが、登場人物の中で一番と言っていいほど聖書に詳しい人物として描かれている点は皮肉と言える。どれほど神の存在を信じていても、母親は早くに亡くなり、子どもたちは無惨に命を奪われる。こんなひどい状況でも「すべては神の御心」という言葉で腹落ちさせる信仰に、一体どんな意味があるのか。タイタスは深く信仰していたからこそ裏切られた気持ちが強く、それゆえに秩序、忍耐という新たな信仰へと向かわせる。この姿勢は実質的に無宗教な人が多い日本人には刺さりやすいだろう。そして、犯人は別ベクトルで信仰に付随した裏切りを受けた結果の末路であることを考えれば、宗教に振り回された人生という観点で二人は似たもの同士かもしれない。次は『頬に哀しみを刻め』を読みたい。

2026年1月28日水曜日

『Skippin' on Step』 Worldwide Skippa Release Party

 Worldwide Skippaのリリースパーティーに行ってきた。彼の存在を知ったのは、ソングウォーズの第1回目で、当時まさかここまでシーンの中心的な存在になるとは、誰も想像していなかっただろう。1年弱という短期間で、ハードワークを武器にヒット曲を立て続けに生み出し、確固たるポジションをシーンに築いたことをあらためて証明するような、素晴らしいパーティーだった。

 仕事終わりに行ったので、19時過ぎにWWWに到着するとTakaryuというDJの時間だった。深夜帯のパーティーから足が遠のいて久しい身にとって、この時間に爆音でDJを浴びられるありがたさを噛み締める。現場でしか聞けない日本語ラップのマッシュアップもあって到着早々ブチ上がった。(プレイリストを本人が公開してくれていました→リンク)ストリーミングばかりで音楽を聞いていると、こういう瞬間には一生出会えないので、現場に行くことの大切さを実感した。

 続いて登場したのはBBBBBBB。Dos Monosのポッドキャストで名前を聞いて気になっていたのだが、こちらの想像の上の上の上くらいのライブで圧巻だった。Underworld「Born Slippy」が流れる中、長髪の男が一人、さらにもう一人と現れ、彼らがBBBBBBBだとわかる。BPMの早い四つ打ちビートの上でひたすらシャウトし続け、WWW独特の傾斜きつめの客席へ移動していく。もう一人の男は徐々に衣服を脱いでいく。そんな奇想天外で自由なステージングをみると、自分の凝り固まっていた音楽観が気持ちよく破壊されていった。パンクのようなアプローチであるものの、煽りが「3、2、1、Let's go!」という近年のヒップホップライブの定型であり、ヒップホップ好きとしては親近感を抱きやすかった。さらにビートが四つ打ちからグライムっぽいノリになると、彼らの表現したいことが一気に伝わってきて、結果的に「なんか好きかも?」と思わされているから、ライブこそが彼らの最大の魅力なんだろう。

 BBBBBBBの出番で客演した徳利がそのままライブへ。正直に言えば「インターネットのミーム的な存在」という雑な認識しかなかった。しかし、ガイドボーカルに頼らず、汗をかきながらストイックにラップし続ける姿は、予想を裏切られた。キャッチーな曲名やトピックは、ライブにおいて圧倒的な強度を持ち、ワンコールでフロア全体を巻き込む力がある。「ネタラップ」として一括りにされがちだが、観客をロックする力を目の前で見れたことは新たな発見だった。

 その後はグライムかけおことsoakubeatsによるDJ。ここにsoakubeatsを招聘することに、パーティー主催者の感性の豊かさ、コンテキストを大事にしていることが伝わってくる。グライムに留まらない広義のUKダンスミュージックが流れまくり。普段聞かないサウンドばかりでブチ上がった。ストリーミングでいつでも何でも聞けるからこそ、DJというフォーマットの価値が高まっているように感じた。つまり、何をどういう順番でかけるのか?ということ。

 そんなUKミュージックをサンドイッチするかのように、最初と最後の曲は自身がプロデュースした日本語ラップというのがニクい。冒頭は「The Bridge feat. A-THUG」この日初めて聞いたのだが、どんなビートでもA-THUGの曲にしてしまうオリジナリティには毎回驚かされる。ラストは「ラップごっこはこれでおしまい feat. ECD」このパーティーで流れること自体に意味がある一曲だ。素直に見れば、ECDが日本語ラップにもたらしたコンシャスの系譜がECD→MOMENT JOON→Worldwide Skippa と引き継がれる様が刻印されたと言える。しかし、事はそんな簡単な話ではない。後述するMOMENT JOONのライブでも示されたとおり、「コンシャス」な側面はそのラッパーの一側面でしかない。それはSkippaもインタビューで話していたとおりである。内容偏重ではなく、あくまで音楽としてかっこいいかどうか。そして、<将来の夢は犯罪者>と喝破するECDのラップは「コンシャス」というわかりやすいフレーミングに対するカウンターに聞こえてしまうのだからヒップホップは不思議な音楽である。

 そんなECDの曲を聞いたあとのMOMENT JOONのライブ。旧知の仲なので、もう何回も彼のライブを見ているが、ここまで諦念が漂うライブは初めて見たかもしれない。一番顕著だったのは「シャトレーゼやめた」のフロウを引用して披露したアカペラのラップである。「正しいことの代弁者」という他人に背負わされた十字架の重さについて、こんなふうにラップで表現できるのは彼しかいないだろう。「TENO HIRA」という代表曲も披露されたのだが、そこに至るまでの構成から、従来あったエンパワメントのムードがシニカルに反転し、顕在化した強烈な諦念に思わず泣いてしまった。今の彼を支配する気持ちが具体的にどういったものなのか。その辺りは連載中のエッセイなのか、はたまた次のアルバムなのか、是非とも知りたいところである。ただ、そんな諦念を払拭するように五本指の手のひらから中指だけを残し「We Don’t Trsut」に流れていくあたりは流石。彼のビーストモードが開放され、ラップをスピットしていて、ひたすらにかっこよかった。

 そして、大トリを飾るのはもちろんWorldwide Skippa。「まほろば」から始まったわけだが、実質ワンマンとはいえ圧倒的な合唱率で驚く。30分という短い尺の中で「メタナイト」「Tee Shyne Flow」などの人気曲を本人が「出し惜しみなし」と言う通り、立て続けに披露され、フロアの盛り上がりはとんでもないことになっていた。特に「俺が出るライブで痴漢したら殺す」の大合唱は本当に信じられなかった。こういった啓蒙ソングで、ここまで盛り上げることができるのは、先述したコンシャスの文脈でいえば、内容に即してしんみり聞く必要もなく、曲としてかっこよければ、それはそれで盛り上がるということを体現している。まさに彼が日本語ラップをネクストステージに導いた証左と言える場面だった。

 ゲストゾーンが豪華メンツでこちらも出し惜しみなし。同じく名古屋を拠点とするXameleonとは「King’s anthem」を披露。目下最注目のプロデューサーである808 Edi$onのビートを初めてデカい音で聞けたので、私にとって1月27日が<Edi$on記念日>。そして、サプライズゲストとしてShowyの二人。翌日リリースのShowyのシングルにSkippaが客演で参加しており、その曲がこの日歌い下ろし。その名も「Worldwide lit」Showyのステージングはキャリアを感じさせるもので、圧倒的に華があった。そして個人的に一番好きな曲である「Go Taxi」では、Sad Kid Yazを召喚。圧倒的なアンセムっぷりをライブで体感することができた。

 MOMENT JOONを再び呼び込んでの「We Don’t Trust REMIX」はまさかのフルメンバー!Skippaが、2021年に行われたMOMENT JOONのWWWXでのワンマンを見にきていたというエピソードも相まって、エモーショナルな展開だった。REMIXの他の客演参加者であるFisong、SiX FXXT UNDXRを見れたことも貴重な機会だった。二人ともラップのフィジカルが仕上がっており、間違いなく今後注目のラッパーである。今回でいえば、SiX FXXT UNDXRがこの場にいたことの意味は特に大きい。なぜなら彼は、Skippaの楽曲のミックス、マスタリングをほとんど手がけており、Skippaの活躍の陰の立役者だからだ。いわゆるアングララッパーの音源を聞いていると、ミックスやマスタリングの粗雑さが耳につくこともある中で、Skippaの音源はその点がしっかり整理された音像、鳴りになっているのは彼がいてこそだ。これもパーティー主催者のキュレーション力の賜物と言える。

 『Skipping tape vol.1』から「徳利とブラピ」「Trust me」なども聞くことができた。「徳利とブラピ」のアウトロに言及があって、彼自身もここまでのスピード感を想定していなかったのだろうと腑に落ちる。今後はなかなか聞けないかもしれない。終盤は「don’t stop freestyle」「Nagoya rich boy」「Fuck hater 裏」といった最近のリリース中心の構成。最後は「シャトレーゼやめた」で大団円。当日はSkippaの誕生日だったらしく、ステージにHABUSHとケーキが用意されてライブが終演した。

 30分とは思えないほど充実したショーケースでいかに彼がヒット曲を生み出してきたか、よくわかるステージだった。一方で、キャリアの短さゆえにラッパーとしてのフィジカル性はまだ足りていない印象を受けた。そもそも1年で50曲近くリリースして、さらにそれらをライブでしっかり歌えるように仕上げていく、というのは土台無理な話で期待しすぎではある。その不足をシンガロングで補う観客との関係性こそ、新世代のライブスタイルなのだろう。Skipping tapeシリーズではないアルバムを用意しているらしく、2025年の間に出したミクステで、これだけのリスナーを巻き込んだSkippaだからこそ期待は否が応でも高まるわけで楽しみに待ちたい。

2026年1月27日火曜日

鹽津城

鹽津城/飛浩隆

 SFの本を選ぶとき、国内SFが選択肢に入ることが少ない。私はヒップホップが好きなのだが、それに例えればUSのヒップホップばかり聞いて日本のヒップホップを聞いていないことになり「それはちゃうやろ」という気持ちで国内SFを少しずつ読むようになった。本著はマイフェイバリットポッドキャストであり、私にとって数少ない国内SFガイドである『美玉ラジオ』で知ったのだった。これぞ国産SF!というドメスティックな要素、展開の数々を楽しく読んだ。

 本著は基本的には短編集であり、タイトル作が中篇となっている。全体の特徴としてまず挙げたいのは、登場人物や作中内の現象の名称が、見たことない漢字だらけであることだ。これだけ「読んだことがない漢字」に遭遇するのも久しぶりで小説という表現の自由さを味わった。また、複数の時間軸を並行して描き、それらの関係性を構築することに注力していることが伺える。その構築においては、わかりやすさよりも、著者本人にとっての確からしさを重視しているように伝わってきた。さらに、物語に明確なカタルシスを用意していない点も特徴的だ。なにかが始まるかもしれない期待だけが差し出され、読者には想像できる余地が残されているので余韻がある。

 著者の作品を読むのは初めてだし、ポッドキャストでもタイトル作中心に話されていたので、冒頭の「羊の木」の得体の知れなさに面食らった。新海誠『君の名は。』のアダルティ版とも言える、時空を超えた交錯劇。続く「ジュブナイル」もサイエンスフィクションというよりも少し不思議な話であり、こういうトーンなのかと思いきや、「流下の日」でギアが変わって一気にSF色が濃くなっていく。

 「流下の日」は、近未来の功利主義や管理社会を描いた作品で、一番好きな話だ。日本が独自のテクノロジーで唯我独尊で発展を成し遂げてきたように描写しながら、後半にかけて、実態はビッグブラザーだったという裏切り方が巧みだった。また、同性愛を含めて「家族」の範囲を拡張しつつも、家という組織単位をより強固にしていくという設定も興味深い。一見、リベラルなのだが、実のところは保守という構図から、現実ではいまだに「家族」の範囲さえ広がらないディストピアというアイロニーにも映った。

 SFを読むときにもっとも楽しみにしているのは、どのような近未来テクノロジーが導入されているか、という点だ。「流下の日」では生物学的なアプローチで、身体に埋め込まれたバングルによって、あらゆる行動が制御され、また制御されてしまう。政府が個人の思想や活動に干渉する社会の中で、主人公たちはレジスタンスとして、バングルに支配されない世界を心の中に構築する。それを「中庭」と呼ぶネーミングがかっこいい。英語ではなく、漢字二文字でSF的概念を表現していくところに国産SFらしさがあるし、実在する中庭から展開していく仕掛けもオモシロかった。インターネットを通じて、私たちは心の「中庭」を他人にどんどん開放しているが、誰にも入らせない思考の「中庭」を持つことの重要さを教えてもらった気がした。

 もっとも壮大な話がタイトル作の「鹽津城」である。三つの時間軸が並行し、シンクロしながら物語が進行していく。ここでテーマになるのは海と塩である。海水中の塩化ナトリウムが突如結晶化して街を破壊していく現象と、身体の中に塩分濃度の異常に高い、細い線条が形成される病気、二つの謎を中心として物語が描かれる。原発を絡めていることから、東日本大震災をモチーフにしていることはあきらかだが、あの出来事かこれほど跳躍力のある物語を紡げるのは、日本のSF作家ならではの視点だと思う。そこに『ワンピース』的な漫画の要素が合わさってくることで、こういった物語こそが本当の意味での「クールジャパン」なのではないか、と感じた。

 塩化ナトリウムだけが海水から分離、凝固する科学的背景として「マックスウェルの悪魔」が引用されており、ネタ元を明示してくれる点も興味深い。さらに同じ分子挙動の不思議さについて、チューリングによる反応拡散方程式による生物の模様形成にも接続し、思考がどんどん広がっていく。それに呼応した表紙はさすがの川名潤ワークスだし、このように科学的想像力を足場にして物語が展開するSFならではの醍醐味があった。

 マックスウェル、どこかで聞いた覚えがあるなと思ったら、「マクスウェル分布」のことだった。久しぶりにWikipediaでそれを眺めていると大学院入試で勉強した記憶がよみがえった。当時は本当に嫌だったし、今数式を見てもぼんやりとしか思い出せないが、こうやってSFの題材として出てくると「どういう意味なんだろう?」と興味が湧くのだから、エデュテイメントとしてのSFは偉大さである。寡作な作家のようなので、他も読んでみる。

2026年1月23日金曜日

ものごころ

ものごころ/小山田浩子

 毎年友人とやってる本に関する年間BESTエピソードの中で、友人が著者の作品を1位にしていて、入門編として勧められたので読んだ。いわゆるステレオタイプの小説の形式から逸脱し、話というよりも構造の妙を追求している作家に惹かれがちなので、著者がその道を極めしものであることをこの一冊で十分理解した。

 本著は、各文芸誌に掲載されていた短編をまとめたもので、さまざまな設定の話があるのだが、中心にあるのは子どもとコロナ禍である。子どもは普遍的なテーマである一方で、コロナ禍は局所的なテーマ。この二つが掛け合わさることで、日常と非日常のコントラストが鮮やかに立ち上がる。特に子ども、学生たちの人生で1回しかない貴重な瞬間がコロナ禍で失われてしまったことに気付かされた。こうやって小説という時代を超えて残りやすいフォーマットで書かれているのは意義深い。

 著者の小説を読むのは初めてだったのだが、圧倒的な改行の少なさに驚かされる。紙面にパツパツに満ちている文字の密度は活字中毒者からすれば眼福である。そのスタイルを可能にしているのは、すべての出来事を並列に扱う態度である。場所、人称、時間、平文と会話など、それらのスイッチングを何の予告もなく行なわれる様は、まるで一筆書きで書いたようだ。

 読んでいるあいだに勝手にスイッチする構造は、人によっては不親切に映るかもしれないが、予定調和の小説に飽きている人にとって、これほどスリリングな文体はないだろう。しかも、この変則的な文体だからこそ表現できる「心の機微」があることに読めば気付かされる。読む前までは著者のギミックだけが耳に入り、勝手に出オチのように扱ってしまっていたが、これほど内容と相関しているだなんて、やはり読まないと実のところは何もわからないものだ。

 ギミックの観点でいえば「おおしめり」がダントツにぶっ飛んでいた。句点なしで突っ走る水をめぐる物語。大学生の平凡な日常の話が、見せ方次第でこんなに非現実的に見えることに、表現の可能性を大いに感じた。中華料理屋に行くたびにこの話を思い出しそう。最後の主語のスイッチングの大胆さにも心底驚いた。あと同世代の方ならわかってくれると思うが、昔のはごろもフーズのCMインスパイアな水の王冠描写は、タイトルよろしく「ものごころ」がついた頃の記憶をフラッシュバックした。

 本著を象徴するのは、宏とエイジを主人公にした、冒頭の「心臓」と巻末の「ものごころごろ」だろう。二つは繋がっていて、少年が青年への階段を歩み始める話なのだが、躍動感と閉塞感の対比が素晴らしい。前者については、河原で犬を追いかけるという極めてプリミティブな昭和世代直撃な原風景なのだが、出来事が収束していく先に待つ大人という杓子定規な存在、つまりは閉塞感の元凶の書き方が見事。大人になれば、宏の母親の言葉はすべて「正論」で何も間違ってないのだが、そのおもんなさたるや。後者では中学受験が本格化し、そのおもんなさに拍車がかかるのだが、それを野犬が人間にとって「いい犬」に順化していくことと対比させている点が残酷に映った。

 一番心に突き刺さったのは「種」だった。子どもの身体に何かトラブルが起こった際の思考、行動のフローがシームレスな文体ゆえに巧みに表現されていて唸った。トラブルが起こるたびにググって玉石混合のネット情報の海を彷徨い、自分を納得させる落とし所を探る行為は現代に生きる親たちが皆やっていることだろう。それを小説でこんなふうに落とし込むアイデアが素晴らしい。今後はAIに聞くことがデフォルトになると思うので、このように逡巡する機会はなくなっていくだろうから時代の記録としても貴重と言える。しかも、終盤に「大便手掴み」という怒涛の展開が待っていてシビれた。さらに「大便掴み」が短編同士をゆるやかに繋ぐキーとなっているギミックにニヤニヤした。(子どもの排泄周りは色々と苦労しているところなので、余計に刺さったところもある。)

 「作家性」という言葉を安直に使うことは許されない、まごうことなきオリジナリティに久しぶりに打ち震えたので、著作を順々に読んでいきたい。

2026年1月16日金曜日

自然のものはただ育つ

自然のものはただ育つ/イーユン・リー

 「イーユン・リーのエッセイ出たんや」と本屋で知り、積んでいた『水曜生まれの子』を読んでから本著を読んだ。前情報を何も知らなかったので、彼女の生活の機微を知れるのかなと軽い気持ちで読み始めたら、長男に続いて次男も自殺で亡くなったことをきっかけに書かれたエッセイと知り愕然…奈落の底にいる彼女が綴るドライな感情と思考の数々が心の奥底まで沁みてきた。

 本著は次男ジェームズを亡くしたあと、彼女がどう考え、どう行動しているか、22章から構成されるエッセイ集。長男ヴィンセントを亡くした際には、彼とのやりとりをオマージュした小説『理由のない場所』を書いた著者だが、今回はフィクションではなくノンフィクションを選んだ。それは子どもたちの特性に合わせた選択だったという。

 子ども二人を自死で失う。作家である彼女でさえ小説には使わないであろう、あまりに現実味のない出来事であり、その気持ちを想像することなんて到底できない。育児に正解はないと思いつつ子どもと向き合いながら、どうすればいいか試行錯誤しているわけだが、この日々の積み重ねが自死によって唐突に終わりを告げてしまうだなんて想像しただけで辛すぎる。

 読み進めるにつれ、ヴィンセント、ジェームズを中心としたリー家の関係性、家族の風景が断片的に浮かび上がってくる。家族は外から見れば、どこも特異に映るのは世の常だが、リー家の子どもたちが、それぞれ異なるベクトルで社会と距離を取っていたことが伝わってきた。なかでもヴィンセントが10歳の頃に著者に伝えた言葉は、彼女の小説をずっと読んでいる身からすると、あまりにも悲しすぎて涙がボロボロとでてきた。

苦しみをわかってて、苦しみについてそんなに上手に書くのに、どうしてぼくたちを生んだの

 神話や戯曲、小説を引き合いに出しながら、ジェームズの死について考えている様は作家らしい。古典ゆえだからこそ真理をついた言葉と、著者の論考が交じわり、さながら読書会の様相を呈している。また、物語が人生を救済する可能性について露骨には言及せず、引用を重ねることで、物語の存在意義そのものを示していく点に著者らしさを感じた。

 なかでも象徴的なのは『シーシュポスの神話』である。「真に哲学的な問題は一つしかない。それは自殺についてである」というラインから始まる一冊であり、ジェームズは亡くなる数週間前に読んでいたという。神話に登場する「シーシュポスの岩」は日本の賽の河原に近い話で、大きな岩を何度も山頂に押して運ぶものの、運び終えると岩は転がり落ちる。一般には終わりのない徒労の象徴とされるこの岩を、著者は時間のメタファーと捉え、「時間を運ぶことの辛さ」を語っていた。つまり、育児をしていると時間があっという間に過ぎることに比べて、亡くなった後は時間が全く過ぎていかないことを示しており、さらに亡くなった子どもを「別種の新生児」と呼ぶあたりに並々ならない言語感覚を感じた。

 さらに、「小石」という比喩も登場し、それはふい浮かんでくる思考のメタファーだ。この小石に逐一反応していると身が持たないから、小石を蹴飛ばしていながら生きていく。シーシュポスの岩との対比としても鮮やかだった。

 先日読んだ『水曜生まれの子』でもパンチラインのつるべ打ちに圧倒されたが、エッセイゆえに切れ味はさらに鋭く、なおかつテーマがテーマなだけに心に強く響く。

直感とは、将来の可能性や起こりうることや別の選択肢をめぐる物語だ。そういう意味では、直感はフィクションだ。そして人生に裏づけられると、事実になる。

やる価値があることとやれることには隔たりがあり、その隔たりこそ若者に野心が宿り、老人に衰えが待ち構えているところなのだ

 こんな鋭い言葉を連発する彼女にとって、言葉こそがすべてなのだと読み進めるうちにわかってくる。それを裏付けるように言葉に関してさまざまな思索が展開される。世界でここでしか読めない洞察の連発に息を呑んだ。息子たちの自死という悲劇から導き出される言葉の奥行きは、他の追随を許さないものがある。そして、それは安易な救済の物語ではなく、彼女が今後の人生で考え続けていくだろうことの序章とも言える。

 本著は一種の育児論としても読むことができて、子どもを失ったからこそ見えてくる、親が普段気づいていないことが言語化されている。特に育児における直感を信じるべきか、どの程度、楽観視するか、といった問いは奥深い。赤ちゃんのあいだは四六時中、見守る必要があるが、大きくなるにつれて、子どもの一挙手一投足を把握することはできない。そのとき親は、ある種の直感に従い、子どもを信じるしかなくなる。「どこまで信じるべきなのか?」と著者から問われると不安になった。目に見える行動や親にとって都合のいいことだけ信じるのではなく、子どもの内面についても思いを馳せていく必要性に気付かされた。そして、これはタイトルにも繋がり「ただ育つ」という楽観性と、一方で「自然に死んでしまう」という諦念。この相反する感情を、徹底的受容により引き受けている。

 他にも「子どもが健康でいてくれるだけでいい」とよく言われるが、「存在」が当たり前になってくると「行動」ばかりに目を取られる。「存在」そのもののありがたみを理解できている親がどれだけいるのかと言われてドキッとした。「子どもは死ぬ」という強烈な言葉と、著者のドライな視点の数々は彼女以外に書きえない。

 なんでこんなことが起こってしまったのか?と考えると、著者自身に自殺未遂の経験があることが、どうしても頭をよぎってしまう。そんな私の下世話な考えを見透かすように、終盤では彼女自身の自殺未遂についても言及されていた。そこまで言葉にする必要があるのかと思いつつ、彼女が公人であるがゆえとはいえ、あまりにも心ない報道や周辺の対応には言葉を失った。悪意がなくても、彼女の辛い状況に寄り添うために自分の経験を引き合いに出すことの不毛さを語っており、彼女の言葉で言われるとかなり重たかった。

私の悲哀に終わりはいらない。子どもの死は熱波でも吹雪でもなく、急いで駆け抜けて勝つべき障害物競走でも、治すべき急性や慢性の病気でもない。悲しみとは言葉であり省略化であり、その言葉よりはるかに大きなものの単純化にほかならない。

 何よりも心身を大切にしてほしいが、著者は悲しむ母親として振る舞うことに否定的であり、止まることはないようだ。訳者あとがきによれば、今は大河小説を執筆中らしく、それが今から待ち遠しい。