2026年5月22日金曜日

脱獄のススメ 弍

脱獄のススメ 弍/NORIKIYO

 昨年秋に第一弾が届けられたNORIKIYOの獄中記の第二弾。第一弾も最高にオモシロかったが、まったく異なる味わいをもった、超一級の刑務所潜入ルポルタージュだった。

 前作のまえがきは獄中で書かれていたが、今回は仮釈放後に綴られている。釈放後にライブに客演参加している姿はSNS等で目にしていたものの、釈放後の本人の言葉に初めて触れると「本当に釈放されんだ…良かった…」という気持ちになった。本著では服役9〜14ヶ月の頃の日記が一日も欠かすことなく綴られている。毎日これだけの分量を手書きで書いていることに改めて驚かされるし、NORIKIYOの眼と耳を通じて知る「今の刑務所」の様子は前作に続いて目から鱗な話の連続だった。

 刑務所ライフは娑婆と完全に乖離しており、当たり前にできることが徹底的に制限される過酷な状況を読めば読むほど、今の生活に対する感謝が湧いてくる。そんな中でもNORIKIYO自身の刑務所内でのランクが上がったおかげで、お菓子が買えるようになり、お菓子描写は前作に比べて大幅に増加。もはや砂糖こそドラッグなのではないかと思えるほどの熱量で書かれており、食べたくても食べれない無念さが文章に昇華されていた。

 刑務所にいながらも、ヒップホップの話題はてんこ盛りだ。閉鎖的な空間の中でも近年の日本語ラップの盛り上がりが届いているのだ。Creepy Nuts、Awich、梅田サイファー、千葉雄喜などがラジオを通じてNORIKIYOに届いており隔世の感があった。マスに届く音楽は、ヒップホップカルチャーにおいて軽視されがちだが、ANARCHYが少年院でZEEBRAに出会ったように、マスだから届く層が間違いなくある。

 ZEEBRAといえば、例のビーフに関して長めに言及されており、これはあの頃の日本語ラップヘッズ全員が読むべき内容だった。当時から現在に至るまでの感情や意図が、愛憎入り混じりながら赤裸々に書かれており、NORIKIYOがどれほどヒップホップを愛しているか伝わってきて胸が熱くなった。ビーフについては他にもYZERR vs 舐達麻を通じたNORIKIYO流ビーフ論もあり、「どちらがどうとかより、両方に感謝しろや!」という視座は新鮮だった。

 NORIKIYOがミュージック・マガジンに掲載された自身の作品レビューについて言及するシーンも印象的だった。NORIKIYOと批評といえば「混ぜるな危険!」なわけだが、今回は比較的大人な対応になっている。『犯行声明』に収録された曲の解釈が異なることについてツッコミを入れているのだが、改めて当該曲を聴くとメタファーのレベルが相当高く「これはしょうがないのでは?」と思った。同時に、深い解釈をもたらすことができるという意味で、NORIKIYOが優れたリリシストだと再確認したし、これまでの作品でリスナーが気づいていない解釈がたくさんあるかもしれない。

 『犯行声明』やこの獄中記の制作背景についての記述も興味深い。前作も本著も自費出版ながら、完成度は商業出版と遜色ない。実際、現役の編集者たちが手伝っているようで、当初は出版社からのリリースを想定していたものの、重版タイミングを自身でコントロールできないことを知り、クリエティブのハンドルを自ら手離さない姿勢はまさにインディペンデントの矜持だ。

 誰かに自分の言葉を預けることに対して敏感なのは、音楽における原盤権と重なるからだろう。書籍は音楽ほどインディペンデントな動きが広がっていない中で、それでも彼が自分の言葉を大切にする姿勢は、自費でZINEを作っている身からすれば勇気づけられた。さらに、自費出版を選択したにも関わらず、編集者たちが手を引かずに協力していることに、獄中記に対する編集者たちの愛を感じたのだった。

 前作と大きく異なるのは、リリックに関する内容が飛躍的に増えたことだ。一つは、NORIKIYOがいかにして塀の中でリリックを書いてきたか。はじめのころはトイレットペーパーに書くという懲罰にもなり得るリスキーな行動を重ねつつも、やがて頭の中で組み立て、居室で書き出すというスタイルへ徐々に進化していく過程がスリリングだった。さらに、NORIKIYOがラッパーであることが発覚してからは、同囚だけではなく看守まで含めた皆が彼のクリエティブを見守っているような状況にグッときた。これだけの濃い人生経験をどのようにラップとして昇華してくれるのか、楽しみでならない。他にも多様性の観点とリリックの兼ね合いについても相当な文字数を割いて書いており、現役のラッパーでここまで自分のリリックについて思慮深く考えているラッパーがどれだけいるのだろうか。

 もう一つは、受刑者たちのリリックである。NORIKIYOのリリックは掲載されていない一方で、周りの受刑者たちのリリックが載っているのだ。比較的長期の刑に服している受刑者が多い工場に配属されており、彼らのリリックは言葉の重さがとんでもない。実際にラップして音楽としてどう響くのかは分からないが、読み物としてのリリックの完成度が高くてグイグイ引き込まれた。しかし、当然ながら、彼らの多くは被害者がいる重罪を犯した犯罪者…このアンビバレントな感情に引き裂かれる。決して彼らの過去の行いを肯定するものではないとNORIKIYOも繰り返し言及しており、その上で救済の音楽としてヒップホップがこれだけ機能していることをダイレクトに見せつけられると、刑務所が用意するガワだけの更生プログラムよりも人を救う可能性があるのではないかと思ってしまう。

 読んでいて思わず泣いてしまったのは、塀の外からの名前を呼ばれる場面だった。居室にいるNORIKIYOへ向けて、刑務所の外から誰かがいたずら半分に名前を叫ぶ。その一連の流れの描写および、それに対して応答する文章の素晴らしさよ…塀の内と外の話は幾度となく登場するが、このシーンほどポエティックなものはなかった。いたずらに名前を呼ばれたことだけで、ここまでのことが書けるのはNORIKIYOがリリシストであることの証明である。

 刑務所論や依存論といった骨太なテーマについて深く掘り下げている点も興味深い。前者では、刑務所が本当に更生施設として機能しているのか、いかに人権軽視な状況が続いているのか、具体例を交えて論じられる。再犯率が約50%という現実を見れば、少なくとも数字上は機能しているとは言い難い。(リピート率50%のテーマパークというアイロニーを炸裂させていた。)こんな状況において、NORIKIYOは清々しいほどに理想を語っていて胸がすく思いだった。SNSでは冷笑的な現実主義者の立ち回りが賞賛され、理想を語る人間が後ろ指をさされがちだ。しかし、それはあくまでネット上での話だ。ネットから強制的に切り離されたNORIKIYOに肩を揺さぶられ現実に引き戻されるような感覚だった。是々非々だけでは社会は前に進まない、自分なりの理想を語り続けなければならないのだと感じた。

 自分自身、若い頃は政治を筆頭に社会に対する怒りや、こうあってほしいという理想を掲げていたが、年を重ねるにつれてどんどん他人事になり、自分の頭で考えなくなっていた。しかし、本著を読むと、それがいかに危ういことで、お上の扱いやすい国民になってはならないという思いを強くした。

 後者の依存論については、前作の「大麻論」から、さらに普遍的な論考へと拡張している。現代社会が依存に満ちていることを踏まえ、ドラッグに限らない依存の構造が論じられている。このきっかけになったのは、仮釈放に向けた教育プログラムが始まったことが影響しているのだろう。始終硬直しているように見えた刑務所の中で、この授業の柔軟さは意外だったわけだが、それでも日本社会のドラッグに対する盲目的なアプローチについては、NORIKIYOの主張が説得力をもって響いた。地動説と天動説を引き合いに出しながら、未来の読者に語りかける様子は本という時間軸の長いフォーマットならではだ。

 清濁あわせ呑んできたNORIKIYOだからこそ辿り着ける視点の数々。こんな獄中記は、今後二度と読めないのではないか?そう言い切りたくなる傑作だった。

2026年5月11日月曜日

トーフビーツの(難聴)ダイアリー2023

トーフビーツの(難聴)ダイアリー2023/tofubeats

  日記熱が高まったので積読していた本著を読んだ。インタビューを含め自己開示がダサいというムードは、ヒップホップのアーティスト周辺で散見されることだが、ここまで筆力をもって自分の状況や感情を書くことができるミュージシャンであれば、むしろ強力な武器になりうることを証明していた。

 2023年の出来事がまるっと1年分収録されている日記ZINE。今回もZINEということもあってか、踏み込んだ内容が多く、ファンとしては嬉しい。2023年当時、まだ社会にはコロナの余波が残っていたことを日記で気付かされるなど、やはり記録しておくことに意味があることを再認識した。東京のシティライフを謳歌する様子と、それに伴うストラグルが並行して描かれており、酸いも甘いもある、人生を象徴するような日記となっていた。

 2023年から現在に至るまで飛ぶ鳥落とす勢いで活躍を続けているが、2023年時点でなお、自身の音楽キャリアや築いてきたレガシーについて疑問を抱いている点に彼らしさを感じた。自分の作品を疑う視線は一見ネガティブに映るかもしれない。しかし、それは裏返せば、まだ自分ができることを模索しているとも言える。だからこそ彼は停滞することなく、常にシーンの中でプレゼンスを発揮し続けているのだろう。

 tofubeatsのレガシーについて友人と話した際に印象に残っているのは「Lonely Nights」だ。もし、tofubeatsがYOUNG JUJU名義だったKEIJUにオートチューンを提案していなければ、今の彼のスタイルや立場はなかったはずである。だから、日本語ラップヘッズたちはもっとtofubeatsに感謝すべきだ、という持論を勝手に抱いている。そんな「Lonely Nights」を収録した『FANTASY CLUB』に関して言及しているラインにくらった。

手前味噌だがこのアルバムは良い悪いは別として何かを突破しようとしていてその気合いみたいなものはそれなりにきっちり込められたとは思う。せっかくHIPHOPに類する音楽を聴いているのだがら簡単に越えられないものを越えようとする気概みたいなものを感じたい。

 もともと難聴をきっかけに日記がスタートしたわけだが、コロナ禍が明け、ライブやDJ活動が本格化していくタイミングで、耳が再度不調をきたしていく様子が描かれる。耳に入ってくる音の総量(ボリューム×時間)で症状が変化する。難聴がここまでデリケートな病であることを初めて知った。ミックスやマスタリング、ライブでのオペレーションなど、音の細部に強いこだわりを持つミュージシャンだからこそ、余計に辛いだろうなと感じた。

 合間合間に挟まれる論考も興味深い。たとえば、HIPHOPライブにおける相互客演問題について言及していた。フェスなどでは、客演曲はゲスト込みでやること当然視されており、実際に本人が出てこないと観客は肩透かしを食らった気分になる。勝手に期待され、勝手に失望される構図は確かに不憫だと思う一方で、リスナーとしては「同日出演ならやってほしい」と思ってしまう気持ちも正直ある。

 他にはアーティストの言動と楽曲の関係性についての話。言動と音楽を切り分けて「関係ない」という態度を決め込む人もいれば、逆に言動と音楽は不可分で適切な対応が取られなければならないという態度もあるだろう。直近ではKanye Westが最たる例だろう。このどちらかを選びきれない感覚について「選ぶこと」が加速度的に要求されている現代の社会状況を踏まえつつ、自身のDJ論も絡めて実直に語られていた。

 SNSではこういった思考の軌跡を追うことは難しい。だからこそ本というスタティックかつ、いい意味で一方的なフォーマットの強度の必要性を感じた。2024年の日記もリリースされることを心待ちにしたい。

2026年5月10日日曜日

N/A

N/A/年森瑛

 美玉ラジオで取り上げられていたので読んだ。現代的な感覚や時代の空気をこういった形で小説へ落とし込む筆致に芥川賞候補になるのも納得のオモシロさだった。

 主人公は高校生のまどかという女の子。彼女の学生生活を軸にしながら、現代社会のムードを描いていく。まどかは、生理になりたくないという理由で食事制限を始めたり、恋人とは異なる「かけがいのない他人」を追い求めて女性と交際を始めたりする。こういった一連の行動は「社会規範」から逸脱する行為に映ってしまい、そんな逸脱した主人公に対して、周囲がどのようなリアクションを取るのか、細やかに描かれている点が興味深い。

 規範から外れた存在に対して、杓子定規に正しく応答することに意味があるのか?当人の気持ちを傷つけない最適なアプローチは、当人のことを本当に考えているのだろうか?「多様性」という言葉だけが先走り、実態を伴わず形骸化している状況が、繊細な年頃のティーンエイジャーの関係性の中で浮かび上がっていた。

 特に、インターネットの普及により、ある種の「正解」の流布で起こったコミュニケーションの均一化が、人間関係を毀損している可能性に気付かされた。周囲のリアクションと自分の意図が乖離していることに戸惑いを感じた経験はあるが、拒食症や同姓愛といったマイノリティのテーマと接続することで、当人の気持ちをいかに置き去りにしているのか鮮明にしている。特に後者の同姓愛に関しては、2人の関係が一番大事であるにも関わらず、社会的正義、貢献という名の元で、まどかの恋人が己の承認欲求を満たす様は最近よく見る光景だ。

 本著全体から伝わってくるのは、自分自身の感情に根ざしたコミュニケーションの重要さと、テクノロジーの進展によって私たちがそれをどれほど疎かにしているのかということである。一番顕著なのは終盤のLINEのやり取りだった。LINEは日本における2010年代後半以降のコミュニケーションを象徴するツールだ。そこでどういった言葉をかわしていくのか、思考過程を含めてこれだけスリリングに描いた小説を読んだのは初めてだった。チャットアプリなので、応答することが前提となっているが、それはアプリに駆動されているだけで、適切な言葉を探す意味がどこにあるのかと思わされる。

 タイトルの「N/A」は、Not Available=データがないことを意味している。エクセルのVLOOK関数などで値を探しにいっても見つからないときに帰ってくるエラーだ。皆が自分の内側ではなく、さながらVLOOK関数のように外側に正解を参照しにいく態度の比喩として秀逸である。ゼロではなく「存在しない」というニュアンスが、正解探しの虚しさを端的に表現している。

 心がひやっとしたのは後半の生徒と先生のやりとり。「先生が元生徒と結婚する」vs「生徒が授業中に内職する」という双方が規範から逸脱した結果として、教師から振るわれる言葉の暴力にゾッとしつつ、そこで連帯するシスターフッドにグッときた。突発的な状況の中では、誰もが検索、参照することなく、思い思いの連帯を示すからだ。ここで初めて本当の意味での多様性が立ち上がる裏腹な構成が見事だった。

 多様性と言われるものの、それは理解できる範囲でのみ許容されるという暗黙の了解の上に成り立っている。朝井リョウや村田沙耶香がここ数年指摘してきた息苦しさとも響き合いながら、本著はさらに軽やかに、なおかつ現代の空気やツールをうまくパッケージした上で提示している素晴らしい小説だった。

2026年5月9日土曜日

すべての原付の光

すべての原付の光/天沢時生

 あまりにも気になりすぎるタイトルかつ早川書房から出てることに惹かれて読んだ。日本のSFを読めていない中で、脳みそがスパークしそうな圧倒的情報量とドライブしまくる物語の構成に魅了されてあっという間に読み終えた。

 タイトル作を含めて合計5作の短編・中編で構成されている。似たような話は一つとしてなく、それぞれ異なる魅力を持っていた。なんといってもタイトル作が「これぞ日本のSF!」という内容で最高だった。暴走族およびヤンキーという絶滅危惧種の日本の伝統を、SFに落とし込んでこんなユニークな小説が書けるだなんて。勝手に原チャで暴走していた中坊を捕まえてタレットから空中に打ち込み異世界に吹き飛ばすという設定がぶっ飛んでるし、原付の光が明滅するシーンにおけるリテラルな表現は斬新だった。全体通してのギミックとしては、ルビ振りが特徴的。漢字に対して英訳ルビが振ってあるので、情報量が増えて世界観の構築に一役買っていた。

 一番好きだったのは「ショッピング・エクスプロージョン」ドン・キホーテをオマージュした量販店が無限に増殖し、地球上を侵食していく。それを食い止めるミステリーバディものという荒唐無稽な話。『フライデー・ブラック』を想起しつつ、ワンピースやドン・キホーテというベタなものをかけあわせてフレッシュな文学に昇華してしまうスキルに脱帽した。主人公2人がジャズメンを模した名前だったり、熊谷が大麻の街だったりと、ハイコンテキストなカルチャーのマダラ模様も読んでいて楽しかった。タランティーノに映画化してほしい。

 一方で「竜頭」は少し不思議系なストーリー展開に地方の鬱屈性が配合された独特の世界観だし、「ラゴス生体都市」は進撃の巨人オマージュな展開だったり。同じSFの中でも、サブジャンルを横断して自分のスタイルに落とし込む様からオールラウンダーであることが伝わってきた。

 いわゆる日本的なサイバーパンクのイメージを率先して具現化している街は、渋谷、新宿といった都市部かもしれないが、そのベタ性から距離を取り、地方を舞台に想像力を爆発させて軽やかに完全オリジナルの世界観を作り上げている点にクリエイティビティを感じた。新作が最近出たばかりのようなので、そちらも読みたい。

2026年5月8日金曜日

ちょっと踊ったりすぐにかけだす

ちょっと踊ったりすぐにかけだす/古賀及子

 日記ブームと言われて久しい中、その一翼を担う書き手である著者の作品を初めて読んだ。育児日記として面白く読んだ。

 もともとウェブ上で公開されていた2018年から2022年までの日記を抜粋、再構成した一冊。著者と2人の子どもによる他愛もない日常の様子が綴られている。形式としては日記だが、日付や時間の連続性はそこまで前景化していない。むしろ各エピソードにキラーフレーズのようなタイトルが付されていることで、エッセイ的なニュアンスが強まっていた。

 成熟した大人から見ると、子どもの発想や言葉づかいにハッとさせられる瞬間は多い。著者はその瞬間をキャッチするアンテナが鋭く、丁寧に記録しているからこそ面白い。印象的なのは、著者のボキャブラリーや感覚を子どもたちが吸収して育っていることだ。以下に端的に表れている。

「感性がちょろいからすぐ踊っちゃう」と息子に言われた。その「感性がちょろい」って言葉、教えたの私だ。上手に使いこなしてる。

 SNSやYouTubeにおいて、子どもと大人の非対称性から生まれる出来事でインプレッション稼ぎしているコンテンツを見るとギョッとするときがある。しかし「はてなブログ」を筆頭とした、当時のウェブ日記の文体をまとった著者の文章からそういった邪な気持ちは微塵も感じることがなかった。それは、かしこまっていない自然な文体を通じて、著者の人柄や子どもに対する無償の愛が伝わってきたからだ。

 「些細な日常を描く」という惹句は、日記やエッセイで山ほど使われているが、これほどまで文字通りの「些細な日常」を体現した日記はそうそうない。家族3人以外の部外者の話がほとんど登場せず、著者は仕事して、子どもは学校に行く。そんな繰り返しの日々の中でも、考えることやプレシャスな瞬間が溢れている事実に気付かされる。並の人間なら日記にならない日が、著者の手にかかればスペシャルな一日になる。この観察力と文章力が多くの人の心を鷲掴みにするのだろう。なかでも親と子どもの異なる発想の角度が交差して発生するコミュニケーションの数々は読んでいてニヤニヤしたし心が清められた。

 本著の特徴としては、育児におけるネガティブな側面やしんどさがほとんど言及されていない点も挙げられるだろう。子どもと暮らしていると、かわいい、健気だと思う瞬間はたくさんある一方で、親を当惑させ、ときには怒らせるような出来事も当然ある。自分自身も4歳の子どもを育てている中で、つまづくことが山ほどある。これだけポジ出しのエピソードがたくさんあると育児で疲れることがあっても、著者の子どもに対する優しい視点に勇気をもらえた。

 一方で、ここまでキレイにされていると、ジェントリフィケーションに近いニュアンスを感じないと言えば嘘になる。それは子どものディテールの細かさに対して、パートナーに関する記載の薄さも同様の感情を抱いた。そもそも何を書こうが自由だし、わざわざネガティブな瞬間を人に伝える必要はないのかもしれない。また、パートナーや子どもとしても「書かれない権利」があるのだから、時代にあった適切な配慮とも言えるだろう。

 植本さんや西村賢太の日記で育ったので、「日記」というフォーマットに対して「リアル」を過剰に求め過ぎているのかもしれない。同じ「日記」と呼ばれるものでも、著者は現実を食べやすく成形した結果としての「リアル」であることについて自覚的なのだろう。それは前述したとおり、タイトルをつけて日記の要素を薄めていることや、あとがきでも「日記というよりも創作に近いものである」という自身の日記観からも伺える。まだ一冊しか読んでいないので、次は『おくれ毛で風を切れ』を読んでみる。

2026年5月1日金曜日

シスタ・ラップ・バイブル

シスタ・ラップ・バイブル/クローヴァー・ホープ (著), 押野素子 (翻訳)

 最近読んだ『ヒップホップ名盤100』の中で、リル・キムが「早すぎたフェミニスト」と言及されており、積んであった本著を読んだ。ヒップホップはずっと好きで聞いてきたが、女性たちが構築してきたカルチャーについて知らないことばかりで興味深かった。

 ヒップホップ黎明期から現在までシーンに登場した女性ラッパー100人を個別に取り上げた「ラッパー名鑑」的な一冊である。 基本的には時系列で構成されており、それぞれのラッパーの来歴を追いながら読むことで、誰がどのような変化をもたらしてきたのかが、歴史として立体的に浮かび上がる。オールカラーで描かれたポップなイラストも魅力的で、ページをめくるだけでも楽しい。

 女性ラッパーにフォーカスして、ヒップホップ史を捉え直す試みは、男性中心で語られてきた歴史のアナザーサイドである。同じヒップホップでありながら、まるで別のカルチャーのように映るのは、女性の存在がこれまで十分に歴史として語られてこなかったことの証左と言える。

 ヒップホップにおいては、女性が搾取の対象として描かれてきたケースも多い。そうした文脈の中で、女性ラッパーたちが自身の欲望、経験をリリックに落とし込んできた歴史こそが、ヒップホップがもつレベルミュージックとしての側面を体現しているように感じられた。

 なかでも、リル・キムとフォクシー・ブラウンが印象的だった。彼女たちが女性のあけすけな欲望をヒップホップに持ちこんだことは革命だったわけだが、自身のセクシャリティを解放しているだけにも関わらず、下品だと言われてしまったり、男性中心の価値観の中で消費されてもきた。「b*tch」という言葉を筆頭にリリック内で女性を搾取してきたにも関わらず、当人たちが同様に表現すると男性が当惑する。このダブルスタンダードっぷりはどうなんだと思いつつ、自分も日本語ラップにおける女性のダイレクトな性表現を聞いて当惑することもあるので、人のことは言えない。

 一番驚いたのはニッキー・ミナージの捉え方だった。Kanye West「Monster」での客演バースは歴史に残る最強のバースであり、そのラウドな印象に引っ張られがちだ。しかし、彼女は女性のラッパーとしての新たな土壌を2010年代に切り拓いた。セクシュアリティに依存しすぎない表現とメロディックなスタイルも取り入れた幅広い音楽性で、リル・キムやフォクシー・ブラウン以降のラッパー像を塗り替えたゲームチェンジャーだと知った。かつて『Pink Friday』を何気なく聴いていた当時の自分の理解の浅さを思い知った。

 さらに、ローリン・ヒル、ミッシー・エリオットといった性的表現とは異なる軸で革新をもたらしたラッパーたちも取り上げられており、その音楽性だけではなく、キャリア全体を振り返って後進に対する影響の大きさについて丁寧に書かれている。シンギンスタイルの萌芽をローリン・ヒルに見出すのは新たな視座だったし、ミッシーがいかに才覚に優れた人間なのかもよく理解できた。

 本著によれば、かつては女性ラッパー同士が競合構造の中で「一人しか生き残れない」状況に置かれることも多く、それがシーンにおける持続的な定着を妨げてきた要因のひとつとされる。しかし現在では、DEI(ダイバーシティ・エクイティ&インクルージョン)の広がりやヒップホップ自体のさらなる大衆化を背景に、多様なスタイルの女性ラッパーが同時に活躍する状況が生まれている。NETFLIXの『LADIES FIRST』というドキュメンタリーが本著の理解を大きく促進してくれたので、まずはそちらを見てから本著を読むのもいいかもしれない。

 どういったサウンドなのかだけではなく、リリックの中身を知るとラッパーについてイメージしやすくなる。英語に明るくなく、USのヒップホップを聞く際にリリックを蔑ろにしてきたが、AI全盛の今はスラングも含めてわからないところは簡単に翻訳できたり、リリックの技巧的な部分を含めてレビューまで生成してくれたり、理解が深まりやすい環境だからこそ、積極的に情報を取っていきたいと感じた。

2026年4月24日金曜日

RECTRUCK peko × Mummy-D



  『RECTRUCK』というヒップホップ番組が始まっている。『フリースタイルダンジョン』、『日本統一』が放送されていた枠で地上波で放送されており、Abemaではアーカイブ視聴も可能だ。Tade Dust × EASTA、KOWICHI×YELLASOMAの回をYoutubeで流し見する程度だったのだが、今回はなんとマイメンpekoがMummy-Dと共演するということで本腰入れて見たのだった。

 番組の趣旨である車で旅をしながら2人で作った新曲もかっこよかったのだが、その曲を含めたライブが圧巻だった。何年かぶりに自分がRHYMESTERに心酔していた記憶が呼び起こされ、RHYMESTERのかっこよさを再定義するようなライブだった。

#24:peko(梅田サイファー)× Mummy-D(RHYMESTER)【LIVE SHOWCASE】

 直近のRHYMESTERのリリースで心がときめいたかと言われれば、正直それは難しい。現時点の最新作『Opne The Window』は久しぶりのアルバムだったものの、ノベルティ色の強い内容で、自分たちが聞いてきた、そして信じていたRHYMESTER像とは乖離があった。そのリリース当時に落胆した記憶が自分の中では更新されないまま3年が経過しており、同じモヤモヤを抱えている往年の日本語ラップファンも少なくないはずだ。

 そんな半信半疑の状態でライブを見たのだが、pekoが筋金入りのRHYMESTERヘッズであり、DJの視点でもあるからこそ、セットリストは愛とコンテキストに溢れていた。「そうだ!俺はRhymesterが大好きだったんだ!」と思い出させてくれたのである。

 開幕は、2人が最初にコンタクトした『Red Bull 64 Bars』での楽曲をそれぞれ披露するという高負荷な構成から、ライブにかける意気込みを感じた。当然二人ともガイドボーカルは一切なく、ビートの上でひたすらスピットしていく様は現場叩き上げゆえの力量が如実に発揮されていた。特にMummy-DがDJ KRUSHの超変則ビートの上で必死にラップしている姿があまりにも雄弁で、この時点で前述した半信半疑の気持ちは霧散していた。

 続くパートでは、各自の楽曲に別楽曲のバースを乗せていくマッシュアップ的な展開へ。そのチョイスが絶妙で、「マジでハイ」で「スタンバイ・チューン」のバースをキックするという往年のヘッズにはたまらない瞬間である。BPM的に言えば、もっといろんな曲あったと思うけど、我々世代にとっての『グレイゾーン』というアルバムの重要性さを再認識させてくれた。他にもpekoの数少ないソロ曲であるCocolo Blandのコンピに収録された「The Boy Flies In The Mid Night」をここで歌うことに驚いたし、その上で「ちょうどいい」のバースをMummy-Dが歌うなんて誰が想像しただろうか。

 逆にRHYMESTERの楽曲にpekoがバースをキックするパターンもあり、チョイスした曲が「Born To Lose」というのがヘッズすぎる。ベタに「B-BOYイズム」とかいきそうなものだけど、このチョイスにRHYMSTER愛が伝わってきた。今でこそ梅田サイファーとして順風満帆のキャリアを歩んでいるが、そこに至るまでの過程を外巻きながら見てきているので、このバースが骨の髄まで沁みる。RHYMESTER「敗者復活戦」の引用はさることながら、ECD、晋平太といった亡くなってしまったラッパーたちのラインを引用している点もアツかった。特に晋平太の<今日勝つために負け続けた>は曲との相性がバッチリだし、Mummy-Dと肩を並べた日という記念すべき日にぴったりだ。2人とも30代でメジャーデビューし、いわゆる「ストリート」と距離を取るかたちで日本語ラップを探求してきた共通点を持ち、その苦労を重ねた経験を分かち合っているからこそ「Born To Lose」はふさわしいことをバースで証明していた。

 その後、番組の企画で制作された「巡る」を披露。Mummy-Dが心の琴線に触れてくるタイプのしっとりモードの曲でかっこよかった。エモーショナルなhokutoビートの上で、オートチューンを駆使したメロウなpekoのアプローチに対して、Mummy-Dは自声で語りかけるようなラップという対照的な構成が素晴らしかった。この曲については番組内で詳細に解説されていたので、そちらを参照。(ブッダとRIZEのタギングのデカさの話が面白かった。)

 最後にはまさかの「ONCE AGAIN」おそらく人生で最も聞いたであろう日本語ラップの一つだが、久しぶりに聞くとMummy-Dバースでうっかり泣きそうになってしまった。若い頃に聞いていたものとは、まったく別の角度で刺さってきたからだ。これぞ音楽の魔法。pekoはここでもオリジナルバースを書き下ろしており、ツアー中とは思えないハードワークっぷりを見せつけていた。この貴重な機会を存分に活かそうとする鬼のヘッズっぷりに脱帽。さらに、番組司会であるZeebraまで呼び込み、Zeebraが「ONCE AGAIN」のバースをかますというアラフォー全員涙目案件。バースだけではなく、REMIX終盤の掛け合いまで再現されており完全にノックアウトされた。

 ヒップホップは頻繁にスタイルの更新が行われ、常にフレッシュであることが要求される残酷な音楽ジャンルだ。(あのANARCHYでさえ自身が老害である可能性を考えるような音楽なのだ。)RHYMESTERもキャリア終盤に差し掛かり、今から何か新しいことを彼らに要求するのは酷な話である。今回のライブでは、単純に昔の曲をラップしただけではなく、少しの「K.U.F.U」で彼らの膨大なレパートリーがまだまだ輝く可能性が垣間見えた。それこそ「枯れた技術の水平思考」で何か新しいアプローチのRHYMESTER像を再び生み出せるのではないかと感じた。それはさておき、今再びRHYMESTER熱が高まる、かつてのヘッズだったみんなに是非見てほしいライブだった。