2026年10月16日金曜日

トランスジェンダー・ティーンネイジャー

トランスジェンダー・ティーンネイジャー/ニコ・ラング

 印象的な表紙絵をSNSで見かけて読んでみた。トランスジェンダーについては、Netflixの『クイア・アイ』で当事者のエピソードを見たことや、某ヒップホップDJがしきりにヘイトをSNSで発信していることくらいしか知らなかったが、本著を読んで、その実情に触れることができ、大きな学びがあった。

 本著は、主にアメリカの中西部で暮らすトランスジェンダーのティーンネイジャーたちを著者が訪ね、数日間を共に過ごしながら、彼らが直面する現状を描き出すドキュメンタリーとなっている。

 トランスジェンダーを扱った本は色々あると思うが、概念的なことよりもアクチュアルな内容を知りたかったので、そのニーズにはピッタリだった。普段暮らしている中で、当事者の実情に触れる機会はほとんどない。それゆえに、こういった形でまとめてもらえることがありがたい。悩みや苦しみが可視化されて初めて、自分がどう振る舞うべきか理解の端緒に立つことができるからだ。

 アメリカは州ごとに法律が異なるため、住む場所によってはトランスジェンダーにかなり厳しい環境になっている。共和党、特に福音派を中心にLGBTQIA+に対して強い反対意見があることは理解していたが、州によっては、法的にトランスジェンダーに対する医療行為を法的に禁じ、違反すれば処罰される法律まで制定されていると知って驚いた。他人の性自認に対して国家が手を突っ込んでくること、明確に攻撃対象としていることに違和感しかなく、法律に翻弄される状況が読んでいて辛かった。特にトランスジェンダーの若者が、現状の生きづらさについて議会で証言している最中に、議員がスマホをいじったり、天井を眺めていたというシーンが心底胸糞悪かった。

 「そんなに嫌なら引っ越せばいい」と思う人もいるかもしれないが、そうは問屋が卸さない。親の仕事の都合があるのはもちろん、LGBTQIA+に寛容なカリフォルニアやニューヨークは物価が高く、誰もが住めるわけではない。こうしたアメリカの地域間格差は、今回読むまで知らなかった。

 本著は悲嘆に暮れる話だけで終わらせないという志を、冒頭で宣言している。トランスジェンダーを特別視して悲劇の主人公に仕立てるのではなく、喜びや幸せも含めた一人の人間としての実像を丁寧に描いている点が、最大の特徴だと思う。それゆえ原題は『American Teenagers』なのだが、邦題はこの本の姿勢とややズレているように感じた。『アメリカン・ティーンエイジャーズ』では何の本かわからず売りづらい、というマーケティング上の事情は理解できる。それでも、せめて副題にとどめてほしかった。

 シスジェンダーが当たり前に享受している多くの前提を、トランスジェンダーの人たちは一つ一つ乗り越えていかなければならない。制度的な壁から精神的な負担まで、机上の空論ではなく、目の前の困難に立ち向かう個別の事例があるからこそ胸に響くものがあった。

 自我が形成される年代で、何をするにも「トランスジェンダーの」という枕詞が付いて回る煩わしさは、それぞれ状況が異なる中でも、登場人物たちが一様に抱えていた苦しみだった。

 また、先行きの不透明さも彼らを苦しめている。州単位で比較的カジュアルに法律が制定されてしまうため、いつ迫害の対象になるかわからない不安と隣り合わせで生きることになる。心理的安全性を欠いたこの状況に、ティーンエイジャーたちが置かれていることを思うと、悲しく、やるせない気持ちになった。

 一方で、ステレオタイプではないトランスジェンダーの話が興味深い。その際たる例がイスラム教徒のクリントだ。イスラム教は同性愛に一律に厳しい印象があったが、実際にはグラデーションがあることを初めて知ったし、次の言葉にはハッとさせられた。

「トランスだから自分は悪いムスリムだなんて、考えたこともない」と彼は言う。「クルアーンにはトランスであることについて書かれていないし、それが自分に影響を与えているとも思わない。むしろモスクに通うことが、自分のアイデンティティを肯定するための役に立っているんだ」

 もう一人、異色なのが最終章のカイリーだ。苦しむ他の若者たちとは対照的に、彼女は裕福な家庭に生まれ、カリフォルニア州で、比較的苦労の少ない環境で暮らしている。天真爛漫な様子が伝わってくるが、そんな彼女でさえ「なにもかもにうんざりしきっている」と涙ながらに語る場面が印象に残った。また、心配のあまり過干渉になる母親と、自立を求める本人との間の議論は、私自身が最近子育てのなかで考えていたことと重なり、参考になった。

 私自身はシスジェンダーとして生きてきたが、自身の子どもの性自認が今後どうなるかはわからないし、子どもの友人でトランスジェンダーの子がいる可能性もあり得る。そんな時代に生きる親を含めた大人には、子どもたちが生きやすい環境を整える努力が求められる。そのことに気づかせてくれた読書体験だった。

2026年10月14日水曜日

東京で漕ぐ 東京を想う

東京で漕ぐ 東京を想う/10 years later

 先日、予感(もうすぐ閉店…涙)を訪れた際、common houseの店主であるミツルさんとたまたまお会いした。最近、表紙絵に惹かれてか、娘がしきりにこのzineを棚から取り出していたこともあって読んだ。自転車というパーソナルな乗り物と、エッセイの相性の良さを実感する一冊だった。

 世田谷にある本屋「common house」を営む2人が制作したZINEで、自転車にまつわるエピソードや、自転車を通じて考えたことが率直に綴られている。2人の文章が交互に登場し、その目の付け所がそれぞれ異なるので小気味よく読み進められる。

 自転車は基本的に一人乗りだからこそ、一人称のエッセイと相性がいい。内容は自転車の話に限らないが、自転車と重ねて書かれることで、親密さや書き手らしさが増していた。

 自転車のカウンターカルチャーとしての側面にも改めて気付かされた。身近な「世間」である電車から距離を置く方法としての自転車。そこから見えてくる自転車の持つ自由さ。自転車に乗る人なら誰しも味わったことがある「漕げば、どこまでもいける」という感触がみずみずしく蘇ってくる。

 編集後記トークでも触れられているとおり、このZINEを読むと「私と自転車」の話をしたくなる。というわけで私の話を勝手にすると、このZINEを読んでから、自転車に関する放置していた作業を2つ達成した。

 1つは、電動自転車の前方のチャイルドシートの取り外し。業者でしか外せないと勝手に思いこんでいたが、まったくそんなことはなく10分程度で外すことができた。一気に視界が開けていい感じだし、おむつに代表されるように、何かを減らすことは子どもが成長している証なのだなと思うなど。

 もう1つは、ピストバイクのパンク。前輪がパンクしていたのだが、電動自転車があれば事足りるので放置していた。しかし、このZINEをきっかけに自転車への愛が盛り上がって、意を決して自分でパンク修理した。自分の手で修理すると愛着が増すもので、もう15年オーバーでボロボロだが、まだまだ乗っていきたい気持ちになった。次はハンドルを交換するつもり。

 なかなかお店まで自転車で行くことは距離的に難しいけれど、駅前からシェアサイクルで世田谷の空気を浴びながら、またお店に伺いたい。

2026年10月9日金曜日

戦争犯罪と闘う 国際刑事裁判所は屈しない

戦争犯罪と闘う 国際刑事裁判所は屈しない/赤根智子

 新書は滅多に読まないのだが、最近は駐車場代を浮かせるために本を買う必要があり、SNSで見かけたことをきっかけに読んでみた。国際刑事裁判所(ICC)について詳しく知ることができる新書的な役割だけではなく、大義のもとに仕事を完遂しようとする著者の高い志がひしひしと伝わってくる1冊だった。

 著者はハーグにあるICCの所長を務めており、彼女の来歴を交えながら、その仕事内容や意義について書かれている。近年はロシアによるウクライナ侵攻や、イスラエルとパレスチナをめぐる紛争に代表されるように、戦争や武力衝突が絶えない。そんな状況で国際的な法秩序のもと、第三者機関であるICCが彼らの戦争における重大犯罪を捜査、裁判するケースが報道されている。著者はそのトップとして、日々汗をかいて仕事をしている様子が伝わってきた。

 本著を読むまでは、ICCについて「たしか教科書で見たような気がする…」くらいの認識だった。しかし、その役割や成り立ち、実際の業務について、著者が柔らかな語り口で丁寧に説明してくれるので、法律に明るくなくても理解を深めることができた。

 本著が刊行された時点で、ロシアに指名手配されていたわけだが、今年の9月にはアメリカからも制裁対象とされてしまった。本著内でも繰り返し取り上げられているアメリカ(というかトランプ)の横暴っぷりは目に余るものがあるのだが、まさに著者が危惧していた事態が現実になろうとしている。

 そもそもICCが発足した背景には、戦争犯罪を戦勝国が一方的に裁くのではなく、第三者機関が司法の場で裁くことで、公平性と法の支配を担保するという理念がある。しかし、近年のアメリカ、ロシアに代表される大国は、ICCに加盟していないこともあり、国際的な法秩序よりも自国の力を優先する姿勢を強めている。そうした大国によるICCの無効化ともいえる動きに対して、著者が精一杯踏ん張っていることが、ひしひしと伝わってくる。

 ICCの歴史や存在意義ももちろん興味深いのだが、本著の最大の魅力は著者の仕事の話や来歴にある。前者については、実際にどのように仕事を進めているのかがかなり具体的に描かれており、まるでICCの仕事場を訪問したインターンになったような気分で読んだ。自分とはまったく異なる業界で、しかも国際的な舞台で働く人の仕事の進め方を知ることができるのは単純に面白い。

 一方、後半で語られる著者自身の来歴からは、とにかく恐ろしく優秀な人なのだということがわかる。それほどの能力と実績を持つ人でさえ、日本社会のジェンダーギャップに苦しんできたという話には胸が痛んだ。実際に自身が経験してきたことだからこそ、単なる机上の空論ではない説得力がある。特に80年代から2000年代あたりまでの女性差別の実状には、改めて驚かされた。そうした幾多の困難を乗り越えながら、社会のために自分の仕事をまっとうしようとする著者の姿勢には、ぼーっと仕事をしている自分としては身が引き締まる思い。

 ICCに対する拠出金額は日本が一番大きいらしい。だからというわけではないが、平和国家として法の支配をリードするような役割を国際社会から期待されていることが伺えた。日本がトランプの「力による支配」の理論に同調することなく、国際的な法秩序を守る側として毅然とした態度を取ってくれることを切に祈りたい。(今の政権にはまったく期待できないけど。)

2026年10月6日火曜日

あらゆることは今起こる

 

あらゆることは今起こる/柴崎友香

 買って積んだままだったのだが、読書日記に登場して、買ったことを思い出し、ようやく読んだ。日本語ラップでもADHDという言葉を耳にする機会が増える中で、当事者のダイレクトな感覚を知ることができて勉強になった。

 小説家である著者が、ADHDの診断を受けたのちに考えたことを綴ったエッセイ集であり論考集であり、医学書院の「ケアをひらく」シリーズの一冊だ。前半ではADHDと自身の特性や経験を照らし合わせながら、実生活でどういったことが起こってきたか、具体的に描写しつつ、後半にかけてはテーマが発散していき、ADHDに限らない思索へと展開していく。もともと著者の小説が好きなので、どういった人となりなのか、知ることができて興味深かった。

 著者が繰り返し述べているとおり、本著はADHDの専門書ではなく、あくまで一個人の体感を説明したものである。言葉の専門家といえる小説家が言語化を試みてくれたおかげで、ADHDの大まかな輪郭を掴むことができたような気がする。

 ただ、著者は「わかった気になる」危険性について自覚的だ。本著で語られる内容をADHDの代表例として受け取らないでほしいと何度も注意喚起している。そこから、世の中の短絡的思考を憂いている点が印象的だった。複雑なものを複雑なまま、圧縮も簡略化もせずに、受け取ることは今後必要なアティチュードでもあり、技量にもなってくるだろうなと感じた。ADHDの話題に限らない、著者の思考の断片が次々と繰り出され、思考の渦に巻き込まれたような読書体験だった。

 日常で困っていることの列挙、その対処法、過去の失敗談まで、かなり踏み込んで書かれており、ADHDがぐっと身近になった。私はADHDに「多動」のイメージを持っていたが、実際にはさまざまなタイプがあり、著者の場合は頭の中が「多動」状態になって、動けなくなってしまうのだという。外から見れば何の問題もなさそうに見えてしまう辛さも綴られていて、ADHDの現れ方が人によって大きく異なることを思い知らされた。

 身近に感じられたのは、「病との向き合い方」という、きわめてパーソナルなことが書かれているからだろう。動画や音声ではなく、本で読むという体験も、親密さを増す要因だと思う。また、文体が比較的カジュアルで、関西出身の私には、ごく自然に差し込まれる関西弁に親近感を覚えた。

 一方で、ADHDの特性として紹介される事例の数々は、自認非ADHDの自分からしても日常でよくある失敗の延長線にあるように映った。なので、ADHDだから質的に特別に異なる、というよりも、頻度や程度といった量的な違いなのかもしれないと感じた。

 さらに、ADHDについて語ることは、それを取り巻く日本社会の現状への考察にまで波及していく。率直な意見の数々は納得するものが多かった。特に過度な同調圧力の存在は、ADHDを浮き彫りにするための踏絵のようになっているという指摘にハッとした。その象徴として挙げられるのが「迷惑」という言葉だ。「他人に迷惑をかけることは悪」という考えは、自己責任論と共に社会に浸透しているが、「迷惑をかける」と「助けを求める」は紙一重であり、それについて「迷惑」を英訳しようとする試みの中で可視化していた。英訳の観点でいえば、incentiveの語源から始まる脳の報酬系に繋がるアナロジーのくだりは読んでいて笑った。「励ましの歌を歌うコーラス隊」という表現が素敵。

 冒頭で並行世界に関する話が登場するとおり、過去、現在、未来がパラレルに今起こっている感覚について、南米のマジックリアリズムを代表するガブリエル・ガルシア=マルケスの作品を語りながら、著者の小説のスタイルへと接続していく流れが鮮やかだった。ADHDならではの時間感覚が、複数の登場人物たちが交錯する小説のダイナミクスに寄与しているのだろう。

 さらに興味深かったのは「日常」という言葉に対する考察である。著者の小説の多くは大きな事件が起こるわけではなく、何気ない場面の連続と思えるわけだが、このラインからは著者の世界を捉えるレイヤーの違いを感じた。

そうやって日々を生きていて、なんか変でおもしろい、なんやろうこれは、と思っていたことを小説に書いたら、「何気ない日常」「なにも起こらない日常」とよく言われた。何気ないことも。なにも起こらないことも、私にとっては「日常」とはちょっと違う層にあるものなので、そうではないんやけどな、と思っていた。

 そんな「日常」を考察した1冊として『わたしがいなかった街で』が挙げられていたので、次はこれを読んでみようと思う。

2026年10月3日土曜日

ゆとぴや・びぶりおてか 小さな本屋の読書日記2025

ゆとぴや・びぶりおてか 小さな本屋の読書日記2025

 埼玉県にある数少ない個人書店の一つである、ゆとぴやぶっくすの店主による読書日記。前作に引き続き、本著もオモシロかった。

 タイトル通り2025年に読んだ本と、その感想が時系列で並んでいるシンプルな構成。まえがきで読書に関する本質的なことが書かれていて膝を打った。私は本の感想を冗長に書いているので「よくそんな書くことあるね」とか「つまらない本だったらどうしてる?」とたまに言われるのだが、その質問に対するこれ以上ないアンサーだと思う。本は多面的なものであり、何もかもつまらないということはなく、どこかしら必ず感じるものがある。

というか、別につまらない本なんてなくて、どの本も面白かったり読まれるべき理由があるから存在しているのであって…
究極、つまらなくてもいいし、つまらない本でも最後まで読んでいるということは きっと「なにか」はあるんだろうと思います。

 この前提を踏まえながら読む、百人組手さながらの感想の数々はどれも率直でオモシロい。小説、人文書、エッセイなどジャンルを問わず、ひたすら読みまくっている。読書自体は1人で完結する行為だが、こうして日記に書き起こされることで、初めて他人の読書体験に触れることができる。そんな読書日記ならではの醍醐味を存分に味わうことができる。特にミステリーは自分の守備範囲外なので興味深かった。

 読みたくなる知らない本がたくさん登場し、既読の本は「そんなふうに読めるのか」という気づきがある。前者でいえば、岡田育『我は、おばさん』が気になり、実際にお店で購入した。そして、私の周囲でレコメンドが頻発する小川哲はいよいよ読むか…という気持ちになった。あと直前に柚木麻子を初めて読んだところだったので、他の著作の紹介が参考になった。 後者でいえば、津村記久子の冷徹さなんて考えたこともなかったので新鮮だったし、『アルケミスト』の胡散くささに言及する文章に初めて遭遇してアガった。

 そんな博覧強記の読書マスターである店主の方と、俳人の松本てふこさんによるポッドキャスト番組『ほんとのよもやま』にゲストで呼んでいただきましたので、是非聞いてみてください。半分くらい超RIZIN5の話をしていますが、拙ZINE『ikuzine』の店主視点の感想は大変ありがたいものでしたし、お二人のおすすめの本紹介も聞き応えがあります。


そして、『ikuzine』に続き、『日本語ラップ日記 2025』も置いていただいております。埼玉のヘッズへ届け!


2026年9月28日月曜日

子どもかんさつ帖

子どもかんさつ帖/鈴木純

 『ikuzine』きっかけで本屋B&Bの選書企画に呼んでいただいた。先日、滝口悠生さんと前田エマさんのトークイベントに足を運んだ際、その選書企画の一環として置かれていた「誰でも書けるノート」を読むと、そこには、男性として育児をすることについての著者の長文コメントが載っていて興味深く読んだ。それをきっかけに購入したのだった。タイトルどおり「かんさつ」を通じた、子どもへのやさしい眼差しが感じられる一冊だった。

 本著は、著者の子どもが0歳11ヶ月から3歳7ヶ月になるまでの様子を観察した記録と、その記録をもとにしたエッセイで構成されている。観察記録=発育記録となるわけだが、冒頭に発育に関するエクスキューズがちゃんと付いていた。

 「何歳で何ができるのか?」は子どもによって千差万別である。3歳くらいまでは横並びの感覚が強く、他の子ができて我が子にできないことが気にかかっていた。ただ、3歳を過ぎたあたりから、保育園や習い事の同級生の間で明確な個体差があることを感じるようになり「発育速度は個人によって異なる」ということを認識できるようになった。本著で紹介されている内容も、その個体差のバリエーションの一つであり、同じ年齢だった頃の我が子を思い出し、比べながら読んでいた。

 改めて感じたのは、子どもは世界を学んでいる最中だということだ。4歳でもうすぐ5歳になろうとする我が子は、基本的なことは自分でできるし、言葉も達者になった。それゆえ、大人ができる当たり前のことでグズついている様子をみると、ストレスを感じてしまう。しかし、冷静に考えてみると、まだ4年しか生きていのだから、できないことが当然ある。大人はそこを観察し、汲み取りながら成長を見守っていく必要がある。本著を読んで、こういったアプローチが必要なのだと気づかされた。著者が育てながら少しずつ理解を深めていく流れとして記録されているからこそ、追体験として腑に落ちやすかった。

 なかでも一番グッときたのは、「目に見えないものを理解していく」というエッセイ。著者の子どもが愛情を水に例えて、自身の感情の微妙な揺らぎを両親に伝えるエピソードで、子どもとは到底思えないほど、的確で繊細な表現に驚かされた。抽象的な内容を具体物に変化させて、親と子で相互理解していく過程自体が楽しいということは育児でよくあることだ。ただ、こうやって言葉にしてくれるからこそ、日常で流れていく、ささやかな気づきについて振り返る機会をもらえるので、他者が育児する様子は定期的に読んでいきたいなと思う。

 フェアは9月30日で終了なので、私が選書した本を紹介します。このブログでも紹介した『研究者、生活を語る』でした。

 著者とは異なるアプローチで男性による育児についてと滝口悠生さんと対話した1冊、『ikuzine』も好評販売中ですので、詳細含めて以下リンクよりチェックしてみてください。

https://afro108.blogspot.com/2025/10/ikuzine.html

2026年9月26日土曜日

言葉と出来事

言葉と出来事/阿部大樹

 『Forget it not』、『now loading』がオモシロかったので、最新作も読んだ。『now loading』の続編的な位置付けの育児日記としての側面が色濃く出ていて楽しく読んだ。

 2023年〜2025年までの日記に加え、あとがきでは日記論、附録では哲学者の古田徹也との対談が収録されている。日記のスタイルは『nowloading』と同様、タイトルはなく末尾に日付だけ記されてあり、余白をたっぷりとった、改行も含めて見栄えを重視した構成に、著者の美意識が改めて感じられる。基本は見開き2ページだが、たまに1ページのみで片側が完全な空白になっている箇所があり、平板になりがちな日記に構成上の抑揚を生み出していた。文章が冗長になりがちな自分からすると、これほど端的に表現できることが羨ましいし、その切れ味のよさは、著者の泰然自若さを象徴しているとも言える。

 前作から引き続き、育児に対する著者のフレッシュな視点は目から鱗である。ほぼ同年齢の子どもを育てているのでリアルタイム性が高く、自分ごととして読めた。『now loading』では、子どもにフォーカスされていたが、本著ではレンジが広がり、パートナーも含めた家族3人の生活が丁寧に描かれている。日記が進むにつれて情報が少しずつ明らかになり、家族像が立体的に浮かび上がってくる構成もオモシロかった。絵に描いたようなシティライフの中に、育児がロウな形で放り込まれてくるところがリアルだった。言葉についての本でもあり、哲学を中心に難解な内容が引用される一方で、息子がポケモンに熱中していく様がかっこつけることなくそのまま書かれている。このバランス感覚は日記だからこそだろう。

 そんな「言葉」の観点で興味深かったのは、2024/2/13の日記「ありふれた表現について」。もはや言葉は手垢まみれであり、独自性を持ちうるのは組み合わせだけだという指摘は、日常的に日本語ラップを聴いている身として深く頷けるものだった。AとBの組み合わせで新鮮さを模索すると、その過程でA、Bそれぞれの言葉自体が陳腐化していく可能性については考えたことがなく、新鮮な視点だった。そしてこの陳腐化から逃れる術は「中身のある文章を書くこと」だと結ばれていて、ラップのリリックも同じで、結局後世に残るのは中身のあるものなのではないか、と考えさせられた。

 友人からの「保守的になった」という指摘に対する著者の答えも印象的。昔に比べると、自分自身も守りに入っていることは否めないが、著者の言うように「深さ」を追い求めていると思う。

たしかに子供ができて行動半径は狭くなったかもしれないけれど、つまらない言い方をすればその代わりに深い穴を掘るようになったし、でもその深さは見えないのだと言われて、それはそうかもしれないと思った

 附録の対談でピックアップされていたこのラインもまさに!と思わされた。最近、園まではたどり着くのだが、毎日のように下駄箱前で行き渋っている。そうなってくると「そもそもなんで預けているのか?」という考えが頭をよぎり、自分の仕事の価値と子どもの存在を、頭の中で天秤にかけることがしばしばあり、そんな感情がずばり表現されていてハッとした。

私の身体は楽だし仕事も進むので良いのだが、子と親と祖母で遊ぶこと以上に意味のある仕事なんてあるのだろうかという気持ちもある。

 さまざまな人物が登場する点も読みどころだ。翻訳つながりで斎藤真理子、精神科医つながりで宮地尚子など、本で読んだことある人物たちが急に登場して驚かされる。なかでも意外だったのは、ダイアン津田である。その粋な登場はまるでドラマのワンシーンのようだった。前作で登場した総合格闘家の阿部大治然り、意外な人が日記の中に突如登場すると謎か妙にテンションがアガってしまう。

 あとがきでは思いもよらない今後の展開が明かされていて驚いたが、ぜひこれからも著者の日記を読ませてほしい。