2026年5月1日金曜日

シスタ・ラップ・バイブル

シスタ・ラップ・バイブル/クローヴァー・ホープ (著), 押野素子 (翻訳)

 最近読んだ『ヒップホップ名盤100』の中で、リル・キムが「早すぎたフェミニスト」と言及されており、積んであった本著を読んだ。ヒップホップはずっと好きで聞いてきたが、女性たちが構築してきたカルチャーについて知らないことばかりで興味深かった。

 ヒップホップ黎明期から現在までシーンに登場した女性ラッパー100人を個別に取り上げた「ラッパー名鑑」的な一冊である。 基本的には時系列で構成されており、それぞれのラッパーの来歴を追いながら読むことで、誰がどのような変化をもたらしてきたのかが、歴史として立体的に浮かび上がる。オールカラーで描かれたポップなイラストも魅力的で、ページをめくるだけでも楽しい。

 女性ラッパーにフォーカスして、ヒップホップ史を捉え直す試みは、男性中心で語られてきた歴史のアナザーサイドである。同じヒップホップでありながら、まるで別のカルチャーのように映るのは、女性の存在がこれまで十分に歴史として語られてこなかったことの証左と言える。

 ヒップホップにおいては、女性が搾取の対象として描かれてきたケースも多い。そうした文脈の中で、女性ラッパーたちが自身の欲望、経験をリリックに落とし込んできた歴史こそが、ヒップホップがもつレベルミュージックとしての側面を体現しているように感じられた。

 なかでも、リル・キムとフォクシー・ブラウンが印象的だった。彼女たちが女性のあけすけな欲望をヒップホップに持ちこんだことは革命だったわけだが、自身のセクシャリティを解放しているだけにも関わらず、下品だと言われてしまったり、男性中心の価値観の中で消費されてもきた。「b*tch」という言葉を筆頭にリリック内で女性を搾取してきたにも関わらず、当人たちが同様に表現すると男性が当惑する。このダブルスタンダードっぷりはどうなんだと思いつつ、自分も日本語ラップにおける女性のダイレクトな性表現を聞いて当惑することもあるので、人のことは言えない。

 一番驚いたのはニッキー・ミナージの捉え方だった。Kanye West「Monster」での客演バースは歴史に残る最強のバースであり、そのラウドな印象に引っ張られがちだ。しかし、彼女は女性のラッパーとしての新たな土壌を2010年代に切り拓いた。セクシュアリティに依存しすぎない表現とメロディックなスタイルも取り入れた幅広い音楽性で、リル・キムやフォクシー・ブラウン以降のラッパー像を塗り替えたゲームチェンジャーだと知った。かつて『Pink Friday』を何気なく聴いていた当時の自分の理解の浅さを思い知った。

 さらに、ローリン・ヒル、ミッシー・エリオットといった性的表現とは異なる軸で革新をもたらしたラッパーたちも取り上げられており、その音楽性だけではなく、キャリア全体を振り返って後進に対する影響の大きさについて丁寧に書かれている。シンギンスタイルの萌芽をローリン・ヒルに見出すのは新たな視座だったし、ミッシーがいかに才覚に優れた人間なのかもよく理解できた。

 本著によれば、かつては女性ラッパー同士が競合構造の中で「一人しか生き残れない」状況に置かれることも多く、それがシーンにおける持続的な定着を妨げてきた要因のひとつとされる。しかし現在では、DEI(ダイバーシティ・エクイティ&インクルージョン)の広がりやヒップホップ自体のさらなる大衆化を背景に、多様なスタイルの女性ラッパーが同時に活躍する状況が生まれている。NETFLIXの『LADIES FIRST』というドキュメンタリーが本著の理解を大きく促進してくれたので、まずはそちらを見てから本著を読むのもいいかもしれない。

 どういったサウンドなのかだけではなく、リリックの中身を知るとラッパーについてイメージしやすくなる。英語に明るくなく、USのヒップホップを聞く際にリリックを蔑ろにしてきたが、AI全盛の今はスラングも含めてわからないところは簡単に翻訳できたり、リリックの技巧的な部分を含めてレビューまで生成してくれたり、理解が深まりやすい環境だからこそ、積極的に情報を取っていきたいと感じた。

2026年4月24日金曜日

RECTRUCK peko × Mummy-D



  『RECTRUCK』というヒップホップ番組が始まっている。『フリースタイルダンジョン』、『日本統一』が放送されていた枠で地上波で放送されており、Abemaではアーカイブ視聴も可能だ。Tade Dust × EASTA、KOWICHI×YELLASOMAの回をYoutubeで流し見する程度だったのだが、今回はなんとマイメンpekoがMummy-Dと共演するということで本腰入れて見たのだった。

 番組の趣旨である車で旅をしながら2人で作った新曲もかっこよかったのだが、その曲を含めたライブが圧巻だった。何年かぶりに自分がRHYMESTERに心酔していた記憶が呼び起こされ、RHYMESTERのかっこよさを再定義するようなライブだった。

#24:peko(梅田サイファー)× Mummy-D(RHYMESTER)【LIVE SHOWCASE】

 直近のRHYMESTERのリリースで心がときめいたかと言われれば、正直それは難しい。現時点の最新作『Opne The Window』は久しぶりのアルバムだったものの、ノベルティ色の強い内容で、自分たちが聞いてきた、そして信じていたRHYMESTER像とは乖離があった。そのリリース当時に落胆した記憶が自分の中では更新されないまま3年が経過しており、同じモヤモヤを抱えている往年の日本語ラップファンも少なくないはずだ。

 そんな半信半疑の状態でライブを見たのだが、pekoが筋金入りのRHYMESTERヘッズであり、DJの視点でもあるからこそ、セットリストは愛とコンテキストに溢れていた。「そうだ!俺はRhymesterが大好きだったんだ!」と思い出させてくれたのである。

 開幕は、2人が最初にコンタクトした『Red Bull 64 Bars』での楽曲をそれぞれ披露するという高負荷な構成から、ライブにかける意気込みを感じた。当然二人ともガイドボーカルは一切なく、ビートの上でひたすらスピットしていく様は現場叩き上げゆえの力量が如実に発揮されていた。特にMummy-DがDJ KRUSHの超変則ビートの上で必死にラップしている姿があまりにも雄弁で、この時点で前述した半信半疑の気持ちは霧散していた。

 続くパートでは、各自の楽曲に別楽曲のバースを乗せていくマッシュアップ的な展開へ。そのチョイスが絶妙で、「マジでハイ」で「スタンバイ・チューン」のバースをキックするという往年のヘッズにはたまらない瞬間である。BPM的に言えば、もっといろんな曲あったと思うけど、我々世代にとっての『グレイゾーン』というアルバムの重要性さを再認識させてくれた。他にもpekoの数少ないソロ曲であるCocolo Blandのコンピに収録された「The Boy Flies In The Mid Night」をここで歌うことに驚いたし、その上で「ちょうどいい」のバースをMummy-Dが歌うなんて誰が想像しただろうか。

 逆にRHYMESTERの楽曲にpekoがバースをキックするパターンもあり、チョイスした曲が「Born To Lose」というのがヘッズすぎる。ベタに「B-BOYイズム」とかいきそうなものだけど、このチョイスにRHYMSTER愛が伝わってきた。今でこそ梅田サイファーとして順風満帆のキャリアを歩んでいるが、そこに至るまでの過程を外巻きながら見てきているので、このバースが骨の髄まで沁みる。RHYMESTER「敗者復活戦」の引用はさることながら、ECD、晋平太といった亡くなってしまったラッパーたちのラインを引用している点もアツかった。特に晋平太の<今日勝つために負け続けた>は曲との相性がバッチリだし、Mummy-Dと肩を並べた日という記念すべき日にぴったりだ。2人とも30代でメジャーデビューし、いわゆる「ストリート」と距離を取るかたちで日本語ラップを探求してきた共通点を持ち、その苦労を重ねた経験を分かち合っているからこそ「Born To Lose」はふさわしいことをバースで証明していた。

 その後、番組の企画で制作された「巡る」を披露。Mummy-Dが心の琴線に触れてくるタイプのしっとりモードの曲でかっこよかった。エモーショナルなhokutoビートの上で、オートチューンを駆使したメロウなpekoのアプローチに対して、Mummy-Dは自声で語りかけるようなラップという対照的な構成が素晴らしかった。この曲については番組内で詳細に解説されていたので、そちらを参照。(ブッダとRIZEのタギングのデカさの話が面白かった。)

 最後にはまさかの「ONCE AGAIN」おそらく人生で最も聞いたであろう日本語ラップの一つだが、久しぶりに聞くとMummy-Dバースでうっかり泣きそうになってしまった。若い頃に聞いていたものとは、まったく別の角度で刺さってきたからだ。これぞ音楽の魔法。pekoはここでもオリジナルバースを書き下ろしており、ツアー中とは思えないハードワークっぷりを見せつけていた。この貴重な機会を存分に活かそうとする鬼のヘッズっぷりに脱帽。さらに、番組司会であるZeebraまで呼び込み、Zeebraが「ONCE AGAIN」のバースをかますというアラフォー全員涙目案件。バースだけではなく、REMIX終盤の掛け合いまで再現されており完全にノックアウトされた。

 ヒップホップは頻繁にスタイルの更新が行われ、常にフレッシュであることが要求される残酷な音楽ジャンルだ。(あのANARCHYでさえ自身が老害である可能性を考えるような音楽なのだ。)RHYMESTERもキャリア終盤に差し掛かり、今から何か新しいことを彼らに要求するのは酷な話である。今回のライブでは、単純に昔の曲をラップしただけではなく、少しの「K.U.F.U」で彼らの膨大なレパートリーがまだまだ輝く可能性が垣間見えた。それこそ「枯れた技術の水平思考」で何か新しいアプローチのRHYMESTER像を再び生み出せるのではないかと感じた。それはさておき、今再びRHYMESTER熱が高まる、かつてのヘッズだったみんなに是非見てほしいライブだった。

2026年4月22日水曜日

理系の読み方:ガチガチの理系出身作家が小説のことを本気で考えてみた

理系の読み方:ガチガチの理系出身作家が小説のことを本気で考えてみた/大滝瓶太

 去年の友人のベスト10に入っていたので読んだ。人生において理系、文系の選択は大きなものであり、結果的に理系を選択して良かったなと思うこともあれば、別の可能性を想像してしまうこともある。本著では、そんな異教同士を接続させ、新たな小説の捉え方を提示している刺激的な1冊だった。

 小説を読むこと・書くことについて、理系視点から講義のように解きほぐしていく構成になっている。一口に理系といっても幅広いが、著者の専攻は「熱力学」「統計力学」。つまり、物理化学的な思考がベースにある。その視点で小説と科学という全く異なるものを重ね合わせて、鮮やかなアナロジーで小説について語っていく。論理的な思考回路で具体的に作品を分析し、そこで得た知見をさらに「読み方」として定式化していく手つきは理系そのものだ。小説と科学を以下のような解釈で接続し、本著の語りの必然性を見出していく点にグッときた。

「わかる」を積み重ねていたはずなのに「わからない」という全体が生成されていて、そういう経験を与えてくれる本に出会うたび、小説と複雑系の自然科学はかなり近い位置にあると思わされます。

 特にオモシロかったのは、ミステリーを理系的に読み解くパート。読書に対してわかりやすい答えを求めていないので、正直進んでは読まないジャンルだが、そのゲーム性の高さゆえに表現方法の進化が言語化できるオモシロさに気付かされた。同じジャンル小説のSFに対する視点も鮮やかで、SFを読んでいて苦労するのも小説体験の一部として機能していることがわかったので、これからは挫けることなく読み切れそう。

SFは「理解できない」という感覚が作品の底力となりえるのです。この感覚を使いたいとき、複雑かつ詳細にわたる説明をあえて改行なしに長く続けたりすると「読みにくさ」が「スケールの大きさ」として表れます。

 一番ハッとさせられたのは、読書習慣がもたらす功罪に関する指摘だった。長い間、本を大量に読む生活を続けている中で知識や思考の幅は広がった一方で、読んだ本の内容が以前ほど記憶に残らないことに薄々気づいていた。著者も同様の状況だと書かれていた。

慣れによって文章のパターンを知っていき、長く読書をする体力がついたのと同時に、簡単に読み流せるようにもなってしまった。効率良くたくさん読むための技術を知らず知らずのうちに身につけてしまっていて、この読み方こそまさに前回に述べた「『ノイズ』を削ぎ落とす」という行為です。

ノイズを得るために本を読んでいると思っていたが、ノイズと感じるセンサーが死んでしまっているのかもしれない。ただ読書していて、頭に残る数少ない本は、どこかしらノイズがあるものだなと逆説的に気付かされた。

 「小説の技巧」をエンターテイメントとして楽しめていないから本が売れていないのでは?という問題意識で本著は書かれている。最後のパートで具体的な作家を取り上げて、その技巧を分析しているのだが、それがなんと滝口悠生!日本の小説家でトップクラスに好きな作家について、理系的なアプローチで読み解かれており興味深かった。

 滝口作品に関して言及する際、誰もが人称について触れることになるが、本著は他の追随を許さない圧倒的解像度を誇っている。小説を読んでいるあいだにボヤッと頭に浮かんだことが逐一言語化されており、さらに作品構造を図示して「私」のあり方を整理していく試みも興味深かった。滝口作品の技術的アプローチについて「メゾスコピックな領域で世界を捉える方法」と位置付けており、これぞ理系的な視点だなと感じた。しかも『長い一日』の一文で締め括られる構成も鮮やかだった。小説の読み方に関する示唆を得たい人には理系、文系問わずおすすめしたい。

2026年4月20日月曜日

オートコレクト

オートコレクト/エトガル・ケレット

 エトガル・ケレットの最新作ということで読んだ。新潮クレストからリリースされた『あの素晴らしき七年』でファンになって以来、翻訳されるたびに読んでいる作家だ。この状況でイスラエル作家の小説を読むことに逡巡があったが、国家と個人を同一視する必要はない、そんな当たり前の事実に気づいた瞬間、戦争が思いのほか自分の心に染み込んでいることが怖くなった。それはともかく、アテンションの持続が難しい今の時代にふさわしい形式の小説集だった。

 SFのショートショートを彷彿とさせる極めて短い話が大量に収録されている短編集。 訳者あとがきによれば「フラッシュフィクション」と呼ばれる形式で、彼の得意なスタイルの一つらしい。SNSでちょっとした小話を読むくらいの分量であり、隙間時間に読むのにぴったり。男女関係、テクノロジー、宗教とテーマは多岐にわたるが、著者のシニカルさは通底している。ウェットではなくドライだからこそサクサク読み進められた。

 話が短い分、比喩表現の鮮やかさにふと心を掴まれる。短いからこそ密度が高いのかもしれない。

人は、本当に起きたことをそのとおりに覚えておくのが、どうも苦手らしい。たとえば記憶っていうのは、洗濯表示を無視して何度も洗った服みたいなものだ。色は褪せるし、サイズも縮む。もともとあった懐かしい匂いも、いつのまにか柔軟剤のランの合成香料にすっかり変わってしまっている。

向こうの部屋では、まだ恐怖というものを知らない好奇心旺盛な男の子が、老人みたいないびきをかいて寝ている。人生の木の幹を、のごぎりで削られているとでもいうような音をたてて。

 最もタイムリーに映る話は「犬には犬を」だ。飼い犬をアラブ人のドライバーに轢き殺されたことをきっかけに、ユダヤ人の子どもたちが復讐を企てる。戦争の原初的な衝動にフォーカスしながら、その緊張感とくだらなさの両方が伝わってきた。戦争と子どもの喧嘩を比較はよくあるモチーフだが、「向こうの犬にガソリンかけて火をつける」という具体的な展開があるからこそ、単なるアナロジーの領域に収まらないリアルネスがあった。どちらかが引き金をひいてしまったとき、落とし所はそれぞれが妥協する以外にない。

 コロナ禍を題材にした「外」も印象的だった。ロックダウンされて外出できなくなった後の世界で、外出許可が出ても人々は戸惑う。孤独になることの功罪と、他者との関係を構築していく中で徐々に心が死んでいくことをミニマルに描き切っていてコロナ禍をテーマにした作品を色々読んだ中でも鋭い切れ味だった。SNSを眺めることに疲れている人にこそオススメしたい小説集。

2026年4月11日土曜日

jellyy 『Forever』 Release Live


  jellyyのワンマンライブに行ってきた。圧倒的に若者だらけだろうなとは思いつつ、今見ておきたい気持ちが勝って平均年齢爆上げスティーロで馳せ参じたのだった。結果として1時間ものライブを見ることができて大満足。彼の楽曲の特色がライブでうまく機能していて1時間があっという間の素晴らしいショウケースだった。

 仕事で会場に遅れて着いたのだが、そのタイミングでSieroがライブをやっていて「ニコニコ」でフロアは大爆発していた。こういったヤンガンのライブに行くのはSkippaのリリパ以来。あのときはWWWだったので逃げ場があったが、今回はCircusでフロアとステージの一体感がハンパなく日本語ラップの今の勢いを肌で感じた。

 その後、この日jellyyのバックDJを務めたchex2によるDJタイムになったのだが、ここでもひと昔前にはまったく想像つかない風景が広がっていた。転換DJ時、フロアに人がいなくなる風景をヒップホップのライブ現場で長らく見ていたが、若い子たちはDJタイムでもライブと同じくらい盛り上がっているのだ。1曲目がLEX, Only U, Yung sticky wom「Team」でフロア前方が爆発。さらにSad Kid Yaz「ロンドン」でモッシュまで起こっていた。当然ライブの方が盛り上がるのだろうけど、DJだとしても「好きな曲なら上がるっしょ?」というピュアな音楽への愛が伝わってきた。chex2が最後にかけた曲がSEEDA「Slick back」のCCG12収録の新しいREMIXヴァージョンでアガった。jellyyのバースがあるからかけたのだろうけど、PUNPEEやNORIKIYOのバースまで聞けて大変ありがたかった。

 満を持して始まったjellyyのライブ。今回は先日リリースされた『Forever』のリリパということでアルバム曲中心のセットリスト。アルバムの構成と同様にアッパーモードで始まり、聞かせるメロウなパートを経て、終盤はアンセム系といった構成となっていた。「日本語ラップバブル」と言われて久しいが、ワンマンライブで60分もライブをやれるラッパーがどれだけいるだろうか。若干19歳だが、音楽でやっていくんだという気概をそれだけでも感じる。

 ライブは「Forever(Intro)」からバイブス満タンでスタート。とにかくフロアが盛り上がる曲が立て続けに投下されていく。「Never ever lose」の1stバースの音抜き&刻みのフロウが、照明もあいまって、あまりにもかっこよすぎてフロアもバウンスしていた。「Naked」への流れは、ライブならではのカットインで入っていく仕様で最高。さらに1stアルバム『Most hated』から「Togari」が投下。たった1年でバンガーをこれだけ作り出していることに驚く。

 そして、Sieroがぬるっと登場して二人のジョイントアルバムから「WWW」が披露されて、この日1番くらいに大爆発。昨年のリリパに行けなかったので、二人が揃ってラップする姿が見ることができてよかった。もう1曲はサンクラにある「Remember」という曲で二人の絆を感じさせるステージングだった。これに限らず、アルバム以外のシングルやサンクラ曲も惜しげもなく披露されており「Drank night」はリリース時に「こっちもいけるのか!」と驚いたウェッサイチューンで今回聞けて嬉しかった。「動き」「不器用」で前半パートが締めくくり。ここで激しいモッシュが発生しており今の現場のリアルが詰まっていた。トラップが登場して約10年経ち、身体的な意味でも根付いたのだなと改めて感じた。

 「What You See(19)」から比較的落ち着いたトーンの後半がスタート。アルバムでも同様だが、ライブでもこのパートに彼らしさが表れていた。大抵のヤンガンたちは同じトーンの曲がたくさんある状況でライブのメリハリがつきづらいだろう。しかし、jellyyの場合はハードもメロウも、どんなモードでもラップできるがゆえ、ライブに緩急がついて1時間という長い尺でも全くダレることがなかった。ここに彼がスペシャルである理由が詰まっている。

 『Most hated』からの客演曲も立て続けに披露され、客演ではTiea Creator、Kamui、Lisa lil vinciが軒並み勢揃い。Kamuiのバイブスの高さはキャリアを感じさせるものでかなり盛り上げていた。彼が「3、2、1 let’s go!」というトラップ以降の定番フレーズを放った瞬間に、逆説的にjellyy がその手の煽りをここまで一切していないことに気付かされた。<やりたくない事やらない日本語ラップテンプレート>と曲でも言及しているので、自分のスタイルを確立しようと模索していることが伺えた。

 終盤は彼のディスコグラフィの中でもポジティブサイドである「Alright」「Living In The Dream」とアンセム系が続いて「良い未来」で大団円。自身の弱さを見せたあとに、ビートの派手なトーンにあったエンパワメント性に溢れた曲を聞くとより深く心に刺さった。

 曲間のMCでは、繰り返しリスナーに対する感謝を伝えていることが印象的だった。また、楽曲からも感じられる自己肯定感の低さはMCでも吐露されていたが、そこを乗り越えていくためにヒップホップがある。ライブを通じて観客含めた全員がその感覚を共有できていることに、セラピーとしてのヒップホップの側面を垣間見たのであった。

 ボーカルのキーの低さや声量など、ライブの技術的に気になるところがないわけではない。しかし、等身大の自分をさらけ出し、自分らしく生きていくことをステージで体現しているからこそ、そこには技術を超えた何かが表出していた。これは若いラッパーにしか出せないものであり、彼がリリックとして昇華した感情の機微は、多くの若者たちが抱える感情の結晶であることが、その盛り上がりから伝わってきた。

 地元が大阪の若手ラッパーが、東京でこれだけ支持されていることは、ヒップホップの従来のフッドの価値観を覆すものであるし、jellyyのラップはcold cityである東京だからこそ刺さりやすいのかもしれない。CCGにも抜擢されたことだし、夏にはアルバムが予定されてるそうなので、2026年がjellyyの年になってほしい。

2026年4月10日金曜日

ヒップホップ名盤100

ヒップホップ名盤100/小林雅明

 大阪帰省時にblackbird booksで遭遇してゲトって読んだ。このタイトルに求められる、ある種の普遍性をかなぐり捨てて、著者独自のセレクションと視点で単なるディスクガイドを超越した読み物として圧倒的にオモシロかった。

 日本でもヒップホップが爆発的人気を獲得する中、「一体何から聞けばいいのか」と途方に暮れている人も多いだろう。そうした場面でディスクガイドは機能するわけだが、とりわけ月1000円で音楽が聞き放題のストリーミング時代においては、その効力がかつてより増している。なぜなら、掲載作品を即座に再生できるから。本著を読みながら、クラシックや隠れた名作を聞き返す時間は最高だった。

 アメリカのヒップホップのアルバムから著者が100枚を選び、紹介している本著はディスクガイドと言える。ただし、本著がヒップホップをこれから聞くビギナー向けかといえば、正直なところ難しいかもしれない。というのも、王道は一応抑えてあるものの、玄人志向なチョイスが散見されるからだ。なぜこんなチョイスなのかといえば、定番の名盤情報は今やインターネット上に溢れており、本に頼る必要はないからだろう。それこそ生成AIに細かくプロンプトを与えて、各自のリスニング歴や環境に応じたリストを作ることなんて造作もない。

 となるとディスクガイドをリリースする意義がどこにあるか。それは、アルバムのチョイスとそれに対する視点のユニークさに他ならない。同じラッパーやグループでもどのアルバムを選ぶかで、選者の個性が如実に現れるわけで、本著はその点で雄弁である。DJが「人が作った曲を選んで、かけているだけ」と揶揄されることがあるが、AI時代においては「選ぶこと」自体が大きな意味を持つ。その人固有のコンテキストが重要だからだ。「定番ではない方」を選び、それに対して情報を肉付けしている本著は独自のコンテキストを持ち、日本語圏におけるアメリカのヒップホップに対する理解の促進に大きく貢献している。

 英語が堪能ではないため、リリックや各ラッパーたちの背景について、そこまで知らず、音楽としてかっこいいかどうかの次元でしか聞けていないことを痛感させられた。100枚のうち7割くらいは聞いたことのある作品だったものの、本当の意味で聞けているかと言われれば、言葉を濁さざるを得ないほど、本著に詰まっている情報の密度が高い。

 日本でアメリカのヒップホップが紹介される際、アルバム概略やサウンドデザインが中心で、リリックが深堀りされるケースはそれほど多くない。しかし、本著ではリリックについてライミングまで含めたスタイル、内容が丁寧に紹介されており、各ラッパーの新たな側面を知ることができた。ヒップホップの発祥地であるアメリカには千差万別のスタイルが存在することを、改めて思い知らされた。

 冒頭に「2025年に選ぶのであれば」というエクスキューズがあるが、本著は各アルバムを2025年の視点から捉え直すアーカイブとしても貴重だ。ラッパーの女性に対する視点や陰謀史観は特に顕著で、なかでもLil Kimの早過ぎたフェミニズムのくだりは笑った。 他にもリリース当時の時代背景が紹介されているケースも多い。ネット上の情報を後追いして「当時の空気を知っている」ように振る舞うスタンスが個人的に苦手なのだが、著者は筋金入りのラップ好きであり、その点でも信頼できる。年の功がなせるリアルがあった。

 100枚のセレクションの合間に挟まれたコラムも読み応えがあった。特に2010年代に関するコラムで紹介されていたChief Kief「I Don’t Like」がもたらした、数文字の脚韻のみで押し切るスタイルは、近年の日本語ラップでも顕著になっており、その源流について知ることができて勉強になった。『ミックステープ文化論』を執筆した著者だからこその視点が光るコラムも興味深い。実際、ミックステープが多く選ばれていることは本著の大きな特徴と言えるだろう。2000〜2010年代にインターネット上で無料ダウンロードできたミックステープ文化はモロに世代なのだが、2000年代前半の作品は聞いたことのない作品が多かった。なおかつ最近はミックステープがストリーミングで解放されているし、去年のMetro Boominによるミクステなど、環境やタイミングが整っていることもあいまって今ミックステープを取り上げるのはベストタイミングと言えるだろう。これを機にディグってみたい。

 ここまで刺激的なディスクガイドはなかなかネット上では出会えないと思うので、ヒップホップ大好きな人たちには超推奨な一冊だし、『ミックステープ文化論』も読んでみたい。

2026年3月31日火曜日

菜食主義者

菜食主義者/ハン・ガン

 ノーベル文学賞受賞も記憶に新しいハン・ガン。以前に『すべての、白いものたちの』を読んだことはあったが、少しトリッキーな作品だったので、小説ど真ん中の作品を読むのは今回が初めて。あまりの面白さと重厚さに「そらノーベル文学賞取るか」と心底納得させられた。

 本著は、中編が3つ収録されており、1つずつ独立した話ではあるものの、すべて繋がっており連作長編といった構成になっている。最初の話はタイトルどおりで、ある男性の妻ヨンヒが肉を食べなくなるところから始まる。この一つの変化からバタフライエフェクトのように壮大な物語が広がっていく点にハン・ガンの筆力が詰まっていた。

 「多様性」が叫ばれる現在、菜食主義(ベジタリアン)は何も特別なことではない。しかし、本著が書かれた2000年代初頭の韓国においては、それが社会のルールから大きく外れるようなことなのだと周囲のリアクションから伺える。なおかつ、それが女性という点が話のキーとなっている。なぜなら、家父長制が色濃く残り、女性が家のことをすべて担い、性別役割分担が露骨に決まっている時代背景を「肉を食べない」というトリガーで浮き彫りにしているからだ。「妻が肉を食べなくなった→夫も肉を食べることができない(夫が自分で料理しない)」という論旨が当然になっているし、ヨンヒの父親を中心に、家族全員で無理くり肉を食べさせるシーンは読んでいて心がエグられた。社会や家族が定めた「普通」から少しでもズレた人間を矯正しようとする暴力。それが最終的には精神病院にまで到達する展開は「精神に病を抱える人を、無理くり社会に適合させる必要はあるのか?」という問いさえ突きつけてくるものだった。

 近年の韓国文学では、主張が目的化しているケースもあるが、本著はそういった要素だけではなく、小説としての面白さ、凄みも伴っている。それは残り二つの中編で顕著だ。

 「蒙古斑」では、アーティストであるヨンヒの義兄がアートを通じてヨンヒと関係を構築し、自身の作品へと昇華していく。といえば聞こえはいいが、結局は性欲の犠牲になっていくおぞましさ。どんどん膨張していく義兄のリビドーと、それをいい意味でも悪い意味でも森のように受け止めてしまうヨンヒの儚さ。その対比が見事で、ページをめくる手が止まらなかった。

 最後の「木の花火」はヨンヒの姉が、実質精神崩壊してしまった妹であるヨンヒを救うために悪戦苦闘する。ヨンヒは肉どころか食事自体を拒絶し、命の危機に瀕している状況。なんとか生きていてほしいと懸命に手を伸ばす姉もまた、徐々にすり減っていく。その様子は、読んでいるだけなのにグッタリするレベルだった。家族だからわかりあえる、といった綺麗事がない点にリアルを感じた。

許したり、許されたりする必要さえない。私はあなたを知らないから。

 この話が素晴らしいのは、終盤のポエティックな描写である。タイトルの「木の花火」はパッとタイトルだけ読んでもわからないだろう。最後の最後で著者が姉の視点を通じて隠喩と共に語るわけだが、不眠症を患い、明け方に見るその光景の儚さと美しさに人生を感じるのであった。

 本著に通底するのは「人間はどこまでいっても他人の心のうちは理解できない」という、当たり前の現実である。では、他者のことがわからない前提のうえで人間はどうやって生きていくべきなのか?暴力を介在させ、自分と他者を同化させることに果たして意味があるのか?そんなことを考えさせられる一冊だった。他の作品もどんどん読んでいきたい。