2026年7月7日火曜日

あの風景に会いに行く


 植本一子さんが東京都渋谷公演通りギャラリーで展示をされるとのことで見てきた。会場では植本さんを含めて4名の展示が行われており、しかも無料。場所はパルコの真裏という渋谷の超一等地なので、渋谷に用事のある際には立ち寄りやすい場所だった。
(私はCampanellaのライブ@WWWXの前に伺いました。)

 この展示は『ここは安心安全な場所』でフォーカスしていた遠野の馬の写真と、新しい試みであるドキュメンタリー映像の2本立てとなっている。後者は、10年ぶりの帰省を記録したドキュメンタリーとのことで、長年日記を読んできた自称「一子ウォッチャー」としては、ご実家との関係も頭をよぎり、少し緊張しながら見たところ、それは杞憂で映像には終始穏やかな時間が流れていた。

 実家に帰るのは10年ぶりとのこと。日記で読んだことがある家が実際に映し出され、そこには昔ながらの日本の家があった。帰省の様子に合わせてモノローグが流れる構成なのだが、見始めてすぐに感じたのは料理の豊かさである。

 実家に帰ると親がたくさん料理を作ってくれる、というのはよくある話かもしれない。しかし、この映像から伝わってきたのは、そうした「あるある」を超えた、料理そのものへの熱量だった。そして、その源流がお母様にあることが自然と理解できる。日記やSNSでこれまで何度も手料理を目にし「美味しそうだな〜」と毎度思っていたが、その背景には母から受け継いだものがあったのだと腑に落ちた。これまでは料理以上に様々な出来事が起こり続けていたため、料理そのものに焦点が当たることは少なかったように思う。映像というメディアだからこそ、その豊かさがよりダイレクトに伝わってきた。

 料理だけでなく、この10年間の出来事を1本の線で結び直していくような内容にも驚かされた。当日、会場にご本人がいらしたので、どこまで意図的な構成なのか尋ねたところ、「ノープラン」とのことだった。しかし、お母様がここぞとばかりに明かす新事実が、どれも植本さんの人生に関わるものばかりだ。放射線と甲状腺、苗字の変遷と帰属性など、これまで日記で読んできたテーマに対して、お母様が新たな情報をもたらし、次々と見方が更新されていく。長年の読者ほど受け取るものは多いだろう。作品にするために、お母様が親心で撮れ高を用意してくれたのではないかと邪推したくなるほどだった。

 両親の暮らしぶり、たまにインサートされる猫の映像、孫のために植えた木の話など、終始穏やかな時間が流れ続けている。しかし、この帰省に至るまで10年という歳月があった。「10年会わないというのは、なかなかだよな」と思い、最後に帰省した際の様子が書かれている『家族最後の日』をあらためて読んでみた。そこでは植本さんの筆力もあいまって壮絶な出来事が繰り広げられていて言葉を失った。一度読んでいるはずなのに、自分が親になった今読むと、祖母、母、自分、子どもという4者の関係性が全く違って見える。ここまで胸が締め付けられる出来事はフィクションでもなかなか遭遇しない。この経験を経て10年後に再会し、その時間をドキュメンタリーとして作品に落とし込めるだなんて。ここに植本さんらしい気骨を感じるし、時間が解決してくれることもあるのだなと思えた。

 そして、実家から移動後は戦争の話題へとシフトしていく。戦争との距離感は、以前に読んだウェブのエッセイを読んだ際にも印象に残っていたが、今回の映像でさらに立体的に伝わってきた。広島で育った人だからこそ抱く戦争への切実な忌避感は、社会全体が少しずつ右傾化している今、かえって新鮮に映ってしまう。その自分の感覚の変化が怖かった。

 単なる広島の記憶を振り返る作品ではなく、現在、そして未来に対する視線があるからこそ、このドキュメンタリーは今見る意味がある。今年の衆議院選挙の結果を見て以来、個人的には政治に対する無力感ばかりが募っていた。それでも、「嫌なことは嫌だ」と言い続けることをやめてしまえば、本当に何かが起きるところまで社会は進んでしまうかもしれない。ECDのツイートを基にした「ONE PERSON. ONE POWER.」のパッチムーブメントを思い返しながら、この無力感に抗い続けなければならないと、あらためて感じた。

2026年7月6日月曜日

ミルク・ブラッド・ヒート

ミルク・ブラッド・ヒート/ダンティール・W・モニーズ

 リリース当時に見た表紙が印象的でいつか読もうと思っていたら、気づけば時が経ち、ブックオフで見かけてサルベージした。アメリカで暮らす女性の観点を中心にした短編の数々に魅了された。

 フロリダ出身の作家によるデビュー作の短編集となる。11編を収録しており、それぞれ独立しているので、どこから読んでも楽しめる仕様となっている。

 とにかくストーリーテリングが見事だ。短編ながらも「この先どうなるの?」とグイグイ引き込まれつつ、その背景にあるテーマについても描かれている。エンターテイメント性とメッセージが高いレベルで両立しているので、新世代として期待される理由がよくわかる。

 表題作をはじめ、シスターフッドを扱った短編が印象的だった。ただ連帯を描くのではなく、その中にある複雑な関係性や感情の機微まで余すことなく描いているからこそリアリティがある。その背景には、黒人であり、女性であり、フロリダで育った著者自身の経験が色濃く反映された登場人物の存在があるのだろう。

 個別の話をすれば、表題作では色を通じた語り口が素晴らしかった。冒頭で乳と血に関する強烈な展開があるのだが、単に物語の起伏を作るためのショッキングな演出ではなく、終盤でしっかりと物語に帰結していく構成力の巧みさに唸らされた。

 中年男性として最も刺さったのは「天国を失って」だ。妻の癌が再発し、拠り所を失った男が、バーテンダーの女性や若い男性客との関係を通じて自分の立場を保とうとする。加齢に伴ってメタ認知が鈍っていく様子を、ここまで容赦なく描かれると精神的に堪えた。最近話題の俳優間によるパワハラ問題を彷彿としたし、自分も「おじさん」と呼ばれる年齢なので、その危うさを自覚していかなければならないと感じた。

 「欠かせない体」は妊娠初期に出産を逡巡する女性が主人公。ネット、SNSの発展に伴い、妊娠、出産、育児に関して情報が溢れる時代だからこそ、必要以上の不安に苛まれる姿が現代的だった。情報過多で身動きが取れなくなる状況は出産に限らず、あらゆる場面に通じる普遍性がある。そして、主人公の妹のセリフは何かと重たくなる足取りを軽くしてくれる効果があった。

うん、そうしてみなよ?自分のやってること、みんながみんな、きちんと分かってると思う?

 「骨の暦」では、放浪する母親と専業主婦という対極的存在を配置し、女性の主体性を問う挑戦的な内容だった。子どもを祖母に預け、世界を旅する母親が、専業主婦に対して「家で飼いならされるのは動物だけだよ。動物だって本当は嫌なはず。」と言い放つのは極論すぎる。しかし、その極端さゆえに、バランスが大事であることが伝わってきた。また、周囲と異なることで向けられる視線について、子ども目線の瑞々しい感性で描いており、自分の子どもの頃を思い出した。最後にも乳、血、熱というタイトルに挙がっているワードを回収する語り口が鮮やかだった。

2026年7月1日水曜日

ディス・イズ・アメリカ 「トランプ時代」のポップミュージック

ディス・イズ・アメリカ 「トランプ時代」のポップミュージック/高橋芳朗

 いつもの古本屋でサルベージした。2010年代後半〜2020年初頭という近過去の音楽は最近なかなか接する機会がないので、こうやって書籍を通じて振り返ることができたのは有意義だった。

 副題に「「トランプ時代」のポップミュージック」とあるように、本著は第一次トランプ政権直前〜コロナ禍初期までに登場したアメリカのポップミュージックについて多角的に読み解く1冊となっている。著者がラジオ出演した際に紹介をもとに構成されているので、論点が整理されていて、リーダビリティが高い。アメリカのポップミュージックのメインがヒップホップ、R&Bへ転換していく時代を扱っており、自分の好きなジャンルを深掘りしてくれていてありがたかった。ストリーミングサービスの登場で膨大な量のカタログに簡単にアクセスできるようになった一方で、各作品をじっくり堪能する機会は減ってしまった。しかし、本著のように作品の時代背景を含めて丁寧に紹介してもらえると、改めて聞き直してみたくなるアルバムがいくつもあった。

 その筆頭株がアリアナ・グランデだ。マック・ミラーとのデュエット「The Way」にノックアウトされ、デビューアルバムのCDを買ったことを覚えている。その後は世界的なスターとなり、「ポップシンガー」というイメージを勝手に抱き、新作が出ても何となく流し聞きしているだけだった。しかし、彼女のコンサートで起こったテロ事件や、LGBTQやフェミニズムをめぐる活動など、彼女の背景を知ることで音楽の聞こえ方が大きく変わった。また、彼女のルーツの一つにインディア・アリーがあることを知って、自分が彼女の歌声に惹かれた理由の答え合わせができた気がした。

 もちろん扱われるのはヒップホップやR&Bだけではない。ポップミュージック全体を対象としているからこそ、当時のアメリカ社会を理解する上でも非常に参考になった。なかでも印象的だったのは、テイラー・スウィフトが政治的発言へ踏み込んでいく過程の解説だ。あれほどの国民的アーティストが、自身の政治的スタンスや支持する候補者をSNSで公表するようになった背景には、アメリカ社会の切迫した状況があったことを、本書を読んで初めて実感した。

 日本では少し前に松尾潔のインタビューをめぐり、菊地成孔が怪気炎をあげていたことが記憶に新しい。松尾潔が訴えている内容自体は支持できるものの、まずは自分が関わってきた近しいアーティスト(LDH周りなど)に直接働きかけるところから始めてほしいと感じた。一方でこういった「言わないからダメだ」という踏絵の応酬になってしまうからこそ、インタビューを問題視する菊地成孔の応答も理解できるところがあった。

 第二次トランプ政権はイランとの戦争然り、世界的に大きな悪影響を与えており、対岸の火事ではなくなってしまった。先日見たNetflixのリアリティショー『Queer Eye』のファイナルシーズンもかなりシリアスムードで、今のアメリカのモードが表現されていた。本著を読んでいると、グラミー賞が内紛劇も含めて、時代の空気を表現していることが伝わってきた。今年のBad Bunnyの受賞はトランプ政権の移民政策に対するカウンターだと受け止めることが可能だろう。

 何か問題が起きたとき、沈黙を選ぶことももちろん個人の自由だ。しかし、声を上げた人々の言葉は記録され、記憶され、後の時代へ受け継がれていく。今の社会もまた、そうした先人たちのストラグルの積み重ねの上に成り立っている。本著は、音楽を通してそのことを改めて思い出させてくれたし、自分がおかしいと思ったことには、一市民として声を上げ続けることの大切さを後押ししてくれる1冊だった。

2026年6月29日月曜日

Campanella Oneman live "Optimistic"


 昨日のDaichi Yamamotoの熱が冷めやらぬ中、Campanellaのワンマンを見てきた。そのラップスキルは音源から明らかだが、そのスキルはライブでも同様で圧倒的なラップ力を堪能したライブだった。

 「Mi Yama」からライブはスタートし。JJJによる<ステージは崖みたく尖り そこから言葉が殺し合う>というラインが、ライブの幕開けを宣言しているようだった。続く「Friendskill」でフロアはいきなり爆発。今回のライブは最新作『Cerosia』を中心しながらも、キャリア全体を振り返るような構成となっていた。

 会場はWWWXで、とにかく出音が最高だった。Ramza、shobbieconzを中心としたビートの重低音が鳴り響き、クラブミュージックとしてのヒップホップを体現していた。 坂本龍一サンプリングの「Douglas Fir」がその最たる例で、ストリーミングでは伝わらない音の迫力を感じた。そんな「Douglas Fir」の前にぬるっとステージに現れたのはKID FRESINO。ここでまさかの「Douglas Fir」のKID FRESINOバースによるREMIX!今回初めて聞いたREMIXだったが、Campanellaに負けないラップ巧者っぷりを発揮。そのまま「Puedo」まで続き、序盤から贅沢な展開となった。

 クラブ的アプローチという観点では、レゲエパートも最高だった。Max Romeo「Chase The Devil」のフレーズをまんま日本語に置き換えてる「NANKAIDEMONELL」からの、ダンスホールチューンの「Bell」という流れは抜群だった。

 先のKID FRESINOに限らず、客演陣を迎えたパートはどれも盛り上がっていた。
仙人掌は最新アルバムの「SOFT」で参加。Campanellaの抑制の効いたバースと対照的に、バイブス高いラップでかっこよかった。彼のバースはキャッチーな韻のおかげか、他の曲に比べてシンガロング率が高かった。<さながらプッシャーとマリス>で私も叫びました。

 盟友C.O.S.A.も登場。「Monarch」で破壊力抜群のバースをキックし、身体の大きさそのままにラップがデカいというか、声のアタック力、安定感がケタ違いだった。昨年リリースされたDJ Scratch Niceのアルバム収録曲「Spent Time」も披露。ここで初めて王道のヒップホップビートが鳴ったことで、Campanellaの楽曲のオリジナリティが逆説的に顕著になっていた。

 客演MVPを挙げるなら、鎮座DOPENESSだろう。彼の登場で空気が一変して、一気にお祭りモードへ。「Raga」「concent」の2曲で参加。「concent」の前にビールをCampanellaから促されると「飲むとこの曲はラップできない」と固辞するプロフェッショナルな姿勢を見せつつ、実際にステージを見ると、その言葉を証明するような圧倒的なバースをキックしていた。

 そこへSTUTSが加わり、お祭りムードはさらに加速。始まったのは、なんと「Sticky Step」。今となってはCampanellaと鎮座DOPENESSの組み合わせは鉄板だが、最初に提示したのはSTUTSだった。そして同曲収録の「EUTOPIA」のリリパが同じくWWWXだった、というエピソードがSTUTSから披露されて時の流れを感じた。

 続いて、Daichi Yamamotoが登場し2日連続で「YAMAMOTO」。昨日の彼のライブも圧倒的だったが、WWWXのスケールで見る彼のライブは迫力が倍増。昨日とまったく同じ流れでSTUTS「Expressions」へ。しかし、この日は鎮座DOPENESS、仙人掌まで追加された超豪華バージョン。「Let's get ready to rumble!」と言いたくなるようなマイクリレーの口火を切ったのは、まさかのSTUTS!彼の弾ける笑顔と高いバイブスに呼応するような、各ラッパーのテンションも一気に上がっていた。これだけBPMの速いマイクリレーは最近なかなかないし、このメンツで見れたのはアツかった。最後は最新アルバムから「Bollard」をSTUTSとしっとりと披露していた。

 KID FRESINOは冒頭だけではなく再度登場。「supaflat」が始まる前に、Campanellaは「難しいんだよなぁ」と本音を漏らしながらスタートして、実際に曲の一部をフロウし切れていなかった。KID FRESINOはその様子を見てステージ上で爆笑しながら、自身のバースを見事に蹴り上げていた。ラップ魔神のCampanellaでも苦戦する曲があるのか、と彼の人間性を垣間見た。

 冒頭でもJJJにフォーカスしていたが、再びのJJJパートは「Eye Splice」のRemixが投下されてフロアは大爆発。このテイストのドリルの曲がこんなに神格化されるなんてリリース当時は思ってもみなかった。さらに「Something」、「Filter」も聞くことができた。この日披露されたJJJ関連曲を最後に聞いたのは、JJJ JULY TOURだったので、やり切れない思いが去来しつつも、こうやって曲は歌い継がれることで、JJJは曲の中で生き続けるのだろう。

 そして、個人的に一番感動したのはラストで、まさかの『PEASTA』パート。聞き慣れた「Indigo」のサンプリングネタが流れ、そこから「Indigo」へ。事前インタビューで「ワンマンだからこそできる構成を」と語っていたので、少し期待はしていたものの、まさかやってくれるとは。さらに「YUME no NAKA」、「PEASTA」まで披露されて感無量…Tシャツが震えるような低音にもグッときた。帰り道に久しぶりに聞き直したが、このアルバムのマスターピースとしての佇まいは唯一無二。今年でリリースからちょうど10年のようで、それを記念して披露してくれたのかもしれない。客電がついてライブは終了したものの、あまりにもしっとりしたエンディングだったからか、観客からアンコールの拍手が鳴り止まず、最後にもう1曲だけ「ウワッツラ」を披露していた。

 ラップが上手いラッパーはいくらでもいる。しかし、Campanellaは、その唯一無二のラップが、インダストリアルで実験的なサウンドと結びついた瞬間にしか生まれないオリジナリティを持っている。キャッチーさに頼ることなく、重低音が鳴り響く空間で飄々とラップし、観客を熱狂させる姿はどこか仙人のようだった。次の作品がリリースされるまで時間がかかるかもしれないが、その際にはまたライブに遊びに行きたい。

2026年6月28日日曜日

Kudos:Daichi Yamamoto Live 2026


 昨年の5lackのワンマンで、GAPPERパートの客演として現れたDaichi Yamamoto。そのわずかなパフォーマンスに心を奪われ、「いつかワンマンを見たい」と思っていた。その機会がようやく訪れて、やっと今回見ることができた。

 日本語ラップのライブでここまでのクオリティのショウが見られる時代になったのかと感慨深くなった。ラップが圧倒的に上手いことは当然として、ブラックミュージックであるヒップホップのレガシーを現代的な形で体現するショウケース。グローバルに見ても、ここまで完成度の高いライブを成立させられるラッパーは決して多くないだろう。日本語ラップを好きで良かったと心から思えるライブだった。

 1曲目は最新アルバム『Secure+』の「Central Line」。まず驚いたのは圧倒的なシンガロング率だった。生音ベースが躍動するドラムンベースの曲で、どちらかと言えば渋めの印象を持っていたが、会場は爆発していた。続く「Orange Juice」でもシンガロング率は圧倒的で、MVになったり、バズった曲だけではなく、アーティストに対する愛に溢れた観客のロイヤリティの高さと熱量に胸を打たれた。

 とにかくラップ力がハンパではない。これまで見てきたラッパーの中でも間違いなく五本の指に入るレベルだ。自身の技巧を見せつけるのではなく、キャッチーなバースも複雑なフロウも軽々と駆け抜けていく。その自然体なスタイルは唯一無二だ。個人的には、2026年のベストバース候補であるWatson「スーパーレア」のバースを開始早々に聞くことができて十分満足だった…が、それはこの日の序章に過ぎなかった。

 ライブは、キーボード、トークボックスにKzyboost、DJ、マニピュレーターにPhennel Koriander、コーラスとしてMika Arisaka、Bobby Bellwood(ことsauce81)という編成。ヒップホップのライブとしてはかなりトリッキーな編成だが、この布陣こそがDaichi Yamamotoのライブの何倍も魅力的なものにするキーファクターである。

 まずは、Kzyboost。トークボックスによる絶妙なアレンジが既存曲に新たな表情を与えていた。特にSTUTS & ZOT on the WAVE「Perfect Blue」はメロウネスが際立っていたし、この日のハイライトの一つである「Wanna Ride」ではトークボクサーとしての力量を存分に発揮していた。オートチューン全盛の時代に、ここまでトークボックスをライブの核として機能させるラッパーは世界的にも珍しい。

 そして、コーラス部隊も素晴らしかった。この2人がコーラスを務めていることの贅沢さは、往年のJazzy Sportヘッズであれば共感してくれるだろう。ラッパーのライブにおけるコーラス部隊は不思議な組み合わせに映るが、歌の力は楽曲に奥行きを与えていた。ラッパーが歌うようにラップするようになった結果、シンガーとラッパーが共演するケースは昔に比べて減っているものの、餅は餅屋という言葉のとおり、シンガーだからこその迫力がある。

 それが最も顕著だったのは「Brown Paper Bag」である。1stアルバムの曲で、すっかり記憶から抜け落ちてたいのだが、D’Angelo「Brown Sugar」を下敷きにした楽曲の魅力をコーラスが最大限に引き出し、鳥肌が立つほどのグルーヴを生み出していた。

 原曲でもMika Arisakaが参加している「なんとかなるさ」では、音源では抑えめだったコーラスがが全開。ダイナミックな歌声が会場に鳴り響き、この曲の持つエモーショナルなバイブスを一層高めていた。他にもgroovemanspot「Power」、STUTS & Julia Wu「With U 」といった曲でも存在感は抜群で、このライブの裏MVPと言っても過言ではないだろう。

 客演陣も豪華だった。前半では最近の多岐にわたるコネクションの中で、Kianna、Benjazzyが登場。特にKiannaをこのタイミングで見ることができたことは嬉しかった。後半にかけてはCampanella、STUTS、KID FRESINOといったお馴染みのメンツが登場。Campanellaも含めたSTUTS「Expression」やKID FRESINOとの「Let It Be」など、この日ならではの共演を楽しめた。KID FRESINOとは新曲も披露されており、今後の展開が楽しみである。

 客演ではないが、Daichi Yamamotoといえば、JJJとの曲が切っても切り離せない。2人が共作した名盤「Radiant」からは「ガラスの京都」、「OTO」が披露された。特に「ガラスの京都」は批評家・中村拓哉氏のポッドキャスト番組「ひとりりある」でアウトロのスクラッチの元ネタが紹介されており、それもあいまってエモーショナルな気持ちになった。そのスクラッチを担当した、DJ Scratch Niceにシャウトを送るDaichi Yamamotoの律儀さにもグッときた。

 DJ Scratch Niceといえば、彼の最新アルバムに収録された「Phase」も披露。JJJの2バース目は彼の死後、より意義深いものになったことを踏まえるかのように、ラップをかぶせることなく、JJJの声が会場に鳴り響いていた。一方で「Taxi」ではJJJのバースまでしっかり蹴っていて、こういった細かな押し引きが、彼のJJJへのリスペクトと、ライブに対する意識の高さが伝わってきた。

 キャリアを振り返るようなセットリストを聞いて感じたのは、KMとJJJという日本語ラップを代表するプロデューサーがこれだけコミットしているラッパーは他にはいないということだ。JJJの声によるKMのサウンドタグがDaichi Yamamotoのライブで鳴る瞬間、その三者によるトライアングルほど特別なものはない。それは、この日の会場の熱狂が何より証明していた。

 Daichi Yamamotoの最大の魅力は、ブラックミュージックに対する温故知新の姿勢にある。リリックで本人が言及しているとおり、過去や先人に対するリスペクトが多いに持ちながら、自身がミックスという立場も含めて、ブラックミュージックを経由しながら日本語ラップを更新していく力強い意志を作品から感じる。前述のD'Angeloオマージュ然り、「Orange Juice」のフックにおけるOutkast「Ms.Jackson」の引用などは象徴的なものである。ライブの編成も、ラッパーという枠を超え、一人の音楽家として表現を追求するためのものであろう。

 アンコールはSTUTSとの「Cage Birds」で大団円。繰り返された<Higher>というフレーズはDaichi Yamamoto自身の尽きることのない向上心そのもののようだった。年明けには武道館が決定したらしく、このスタイルでどこまでも突き抜けてほしい。

2026年6月26日金曜日

ディアンジェロ: ヒップホップ世代が生み落とした未来のソウル

ディアンジェロ: ヒップホップ世代が生み落とした未来のソウル

 ディアンジェロが亡くなったときの喪失感は、海外のアーティストではこれまで味わったことのない類のものだった。そんな落ち込んだ状態の中で、SNS上の雑な言説にバッティングしたことでさらに気持ちが沈んだ。その気持ちをなんとか整理したく読んだのが、『ディアンジェロ《ヴードゥー》がかけたグルーヴの呪文』だった。本著は、そんな気持ちをさらに癒してくれるかと思って読んだところ、圧倒的な内容で感動した。

 ディアンジェロの来歴、関係者へのインタビュー、国内ミュージシャンのインタビューと対談、ディスクガイド、批評まで網羅的にまとめられた1冊。ここまで充実した内容でこの値段は正直破格だと思う。

 本著が体現しているのは、ディアンジェロがいかに豊かなコンテキストに溢れたアーティストであるかということだ。「ブラックミュージック」と一口に言っても、さまざまな要素を含むわけだが、彼はその膨大な歴史を吸収し、自らの表現へと昇華した稀有なアーティストである。そんな歩みを時間という縦軸と、周辺人物という横軸の両面から深掘りしている。

 個人的には冒頭のインタビュー2連発で心を掴まれた。まずは久保田利伸である。ディアンジェロの歌にフォーカスして語れる人間として、これ以上ない人選である。実際、久保田利伸はディアンジェロ含むソウルクエリアンズと同時代に生きて、一緒に音楽を作っていた張本人であり、その証言の数々のどれもが目から鱗だった。(ディラビートに心酔した話がアツい。)他にもディアンジェロと直接関係ないものの、アメリカでアジア人がR&Bシンガーとして活動することへの周囲の反応や、ミュージック・ソウルチャイルドに対する評価なども興味深かった。

 そして、もう1人がRHYMSTERのDJ JINである。今の私の音楽の嗜好性は、彼によって構築されたと言っても過言ではない。RHYMESTERがレギュラーを務めていたTOKYO FM『WANTED!』の番組内で毎週30分弱くらいDJ JINによるミックスが放送されていた。当時、日本語ラップは聞いていたものの、海外のヒップホップをほとんど知らない私が、ディアンジェロやソウルクエリアンズと出会ったのは彼がきっかけだからである。だからこそ、DJ JINによるDJ、ビートメイカー視点で語られるディアンジェロの話は至極だった。ディアンジェロはジャンルに縛られず、古い音楽を咀嚼しながら新しい表現へと更新していたわけだが、DJ JINもbreakthroughを筆頭に音楽のクロスオーバーを率先して体現してきたキャリアがある。それゆえの共鳴具合がインタビュー全体から伝わってきた。ディアンジェロ特集で、この2名を抜擢する編集センスには脱帽するしかない。

 押野素子氏による関係者インタビュー群が、本著のハイライトだ。本人が多くを語らないアーティストだったからこそ、周囲の証言から浮かび上がる人物像はどれも貴重で、ページをめくる手が止まらなかった。ネット上ではまず得られない情報が、日本語でこれほどまとまって読めること自体が奇跡のように思える。さらに、押野氏自身がディアンジェロ初来日時のアテンドを務めていたこともあり、その経験を語る本人インタビューまで収録されている。まさに歴史的証言と言っていい内容だった。

 ディスクガイドも充実しており、ソウルクエリアンズ周辺作品まで幅広く網羅している。個人的にありがたかったのは、参加曲や提供曲のリストである。3枚のオリジナルアルバムはそれこそ穴が空くほど聞いてきた一方で、参加曲や提供曲は点在していて追いきれていなかった。今回まとめてくれているおかげでプレイリストにして楽しんでいる。

 ディアンジェロが好きな人にとっては買って損なし、一家に一冊必携レベルの決定版なので、読んでいない人は一刻も早く読んでみてほしい。

2026年6月23日火曜日

レコード店の文化史

レコード店の文化史

 ディスクユニオンに立ち寄った際に見かけて気になったので読んだ。ストリーミングサービスのおかげで月額1000円程度で膨大なカタログにアクセスできる時代において、レコードを含めてフィジカルなものを買う場所の意味を改めて考えさせてくれる一冊だった。

 本著には、学者やジャーナリストを中心に、レコード店という場所をめぐるさまざまな論考が掲載されている。対象は欧米諸国だけではなく、日本を含む世界各国に及んでおり、たとえばルーマニアやナイジェリアは、社会情勢に応じてレコード販売の形態が変化しており、政治と生活が直結している様がありありと描かれていた。

 レコード店とコミュニティについて非常にたくさんの事例が載っている。それらを読んでいると、大阪に住んでいた頃、アメリカ村のレコード屋に足繁く通っていたことを思い出した。当時はSERATO登場前夜で、レコードでDJしていた。お店にはクールな大人たちがたくさんいて、そこに置いてある未知の音楽を持ち帰り、家で針を落として聞く瞬間は独特の高揚感があった。

 SNSで知った音楽をストリーミングで聴く現在のスタイルも、本質的には同じようなプロセスである。しかし、両者の違いがあるとすれば、コミュニケーションの濃度だろう。こういうことを言っていると老害扱いされそうな上に、ストリーミングサービスの恩恵を受けまくっているので、今の状況を否定するつもりはない。それでも、音楽にまつわるフィジカルな体験は失われて欲しくない文化だと本著を通じて再認識した。

 全体としてロックミュージックについて書かれている論考が多いものの、ニューオリンズのヒップホップレコード店やロンドンのレゲエレコード店など、ブラックミュージックに関する章は個人的な興味の範囲なので特にオモシロかった。

 ニューオリンズの章では、ヒップホップのローカルなスタイル(バウンス)を下支えしているショップの役割やハリケーン・カトリーナが地域文化に与えたインパクトの大きさなどが多角的に描かれていた。一方、ロンドンのレゲエレコード店を扱った章は、移民と音楽をめぐる論考となっている。社会的に抑圧される人々にとって、レコード店や音楽がコミュニティを支える装置として機能していたことが示されており、音楽が連帯を生み出す力をあらためて感じた。

 レコードの製造についても知らないことが多かった。日本やニュージーランドがそれぞれの事情で国内プレスを行っていた背景は興味深い。日本では海外アーティストの国内プレス盤はオリジナルではないから価値が低いとされてきたようだが、今や日本のレコード帯カルチャーは海外に逆輸入されていて価値の転換が起こっている。また、ニュージーランドについては過去に関税の影響から自国プレスが発展した歴史が興味深く、最近の関税をめぐる混乱を想起した。このように歴史を踏まえると現在の状況も解像度高く理解できるので、本著のような視点は貴重である。

 学術的な論考が多い中でも、いくつか収録されているエッセイも興味深い。特に印象的だったのは、イランで西洋音楽を聞く方法について書かれたエッセイだった。イラン革命後の抑圧的な状況が音楽を通じて語られており、政治や社会の変化を肌感覚で理解できる。現在はある程度状況が改善しているようだが、ヒップホップだけは依然として警戒されているという。その事実は、逆説的にヒップホップの持つ影響力の大きさを示しているように思えた。

 レコード店を巡る物語といえば『ハイ・フィデリティ』は外せない。映画ではレコード屋の店員が特定の音楽の趣味に応じた立ち振る舞いを繰り広げていたことが記憶に残っている。(『ブラスト公論』で知ったのも懐かしい話だ。)そんな『ハイ・フィデリティ』が2020年にドラマ版としてリメイクされており、小説、映画、ドラマと時代を通じて変遷したきた内容を考察していた。ドラマ版が現在はストリーミングで配信されていないようだが、どこかで見れたらいいな…また、『ハイ・フィデリティ』に象徴されるレコード店のボーイズクラブ的なノリに対して女性店員から提示されている視点は、男性として理解が及んでいないことだった。

 最近は子どもの習い事の待ち時間にディスクユニオンでサクッと見るレベルのディグしかできていない。そんな短い時間の中でも思わぬ出会いがあり、アドレナリンが出まくるからレコード蒐集はやめられない。せっかく東京に出やすい環境にいるので、インディペンデントなレコード店にも足を運びたいと思わせられた。

2026年6月9日火曜日

トピーカ・スクール

トピーカ・スクール/ベン・ラーナー 

 前作『10:04』も読んだベン・ラーナーの最新作。何を読んでいるか、途中までなかなか掴めないにも関わらず、ある地点から急に視界が開け、その世界に没入させられてしまう。そんな特別な読書体験だった。

 主人公アダムを中心に、家族や友人たちの人生が交錯する群像劇。舞台はアメリカ中西部の田舎町で、精神科医の両親を持つアダムがどのように大人になっていくのかが語られる。家族というものは、それぞれの年齢や立場の変化に応じて形を変えていく。本著では時間軸や視点を大胆にシャッフルすることで、その変化の過程を立体的に描き出していた。また、メタ的な視点を含むさまざまな仕掛けも特徴的で、読者を楽しませてくれる。

 登場人物の多さに対して説明描写は最小限で、前半は正直読みにくい。大きな事件が起こるわけでもなく、鮮明な情景描写と何かの気配だけが漂い続ける。しかし、読み進めるにつれてテーマが徐々に浮かび上がり、気づけば夢中にさせられる構成が見事だった。作品全体は安易に要約できないよう設計されており、パズルのピースのように最後に合わさっていくカタルシスが本著の魅力と言える。

 個人的には母ジェーンのパート「男たち」で一気にギアが上がった印象だった。現在から過去を振り返る語りでありながら、かつ二人称なのでインタビューを読んでいるようだった。ここで家族関係や過去の出来事が整理され、舞台背景がクリアになる。この章以降、各描写の意図が理解しやすくなったので、読みづらくて苦労している人は、何はともあれここまで読み進めてみてほしい。

 巻末で白岩英樹氏が熱く、熱く、語り倒しているとおり、本著は現代の言葉、特に「話し言葉」をめぐる物語だ。他者と会話することの意味について、ディベートを通じて考えさせてくれる。ディベートでは相手を論破することを目的とするが、その技術や価値観が、私たちの生活に侵食していることを浮き彫りにしているのだ。たとえば冒頭で、アダムが両親から注意された際にディベートのスタイルで反論するくだりは象徴的だ。それはアメリカや日本の政治的リーダーが、言葉を軽視し、はったり上等で息をするように嘘を吐き出す振る舞いとも重なる。彼らのスタイルがディベートと地続きであることが、小説を通じて浮かび上がってくるのが興味深い。

 また、大量の情報を一方的に投げつけ、反論がなければ同意とみなすようなコミュニケーションも登場する。ウェブ上で規約に同意する場面なんて最たるものだが、これもディベートの技法の一つらしい。本著ではディベートに限らず、今の社会に対する違和感を登場人物や設定を通じて見せていく展開が多く、著者の視点の鋭さに何度も舌を巻いた。

 ヒップホップが大きくフィーチャーされている点も印象的だった。著者はもともと詩人でもあるので、親和性は高いのだろう。なんと「サイファー」という章まであり、ディベートとMCバトルをオーバーラップさせていく語り口は「話し言葉」をテーマにした本著にぴったりだ。2 Pac、Bone Thugs-N-Harmony が印象的なシーンで登場していたり、ディベートにおいて速度と内容の激しさではない韻律の重要性について表現していたり。90年代の米国中西部における白人たちのヒップホップの受け止め方という観点でも興味深い描写が多かった。

 子を持つ身としては終盤の展開にも強く惹かれた。子どもが「よくないこと」をしたとき、大人はどこまで介入すべきなのか。本作は二つの対照的なシチュエーションを通じて、その難しさを描いている。大人が介入して解決すべき問題と、子どもたち自身に委ねるべき問題。その境界線の曖昧さを寓話的に表現する手腕は、まさに小説家ならではだ。

 さらに、ここで鮮やかなのは「介入」というテーマを家族の問題に留めず、重層的にアメリカ社会を描いていることだ。共和党は限りなく小さい政府を掲げ、市場原理を重視する一方、外交や移民政策では必要以上の介入を行っている。「介入」の是非が、社会全体の要請や利益ではなく、各人の立場や利害によって判断されている。そんな社会の硬直性をこんなふうに描くことができるなんて脱帽した。

 現代に関する直接的表現はミニマルであるにも関わらず、ここまで今の問題を鮮やかに描き出す筆力。そして、説教臭く感じさせない物語的ギミックの数々とポエジー。これらが組み合わさり、唯一無二の小説となっていた。次の作品が今から楽しみ。

2026年6月3日水曜日

そして誰もゆとらなくなった

そして誰もゆとらなくなった/朝井リョウ

 著者のエッセイシリーズである「ゆとり三部作」の最終作が文庫になったので読んだ。これまでの二作ともおおいに笑わせてもらったが、本著も間違いない仕上がりで何度も笑った。

 直近の作品であり、過去の作品よりも自分と執筆時の著者の年齢が近く、年をとることに伴う変化について書かれているエッセイが多いので、過去作の中ではもっとも親近感をもって読むことができた。

 とにかく文字で笑わせるスキルがハンパじゃない。SNSのくだらないミームは足元にも及ばない「これぞプロ!」というスキルをこれでもかと見せてくれる。テンポ、ボキャブラリー、文体など、文字で自身が経験した状況と感情を描くスキルは他の追随を許さない。世はエッセイブームであり、箸にも棒にもかからないエッセイが山ほどある中で、こんなに人の心を動かせるエッセイは他にないかもしれない。

 著者の「おもしろい」に対するシンプルな考えが本著であきらかにされており、まさに著者のエッセイの真髄である。「おかしみ」を抽出するスキルが高い。

おもしろいというのは私にとって、様々な邪念が一切入ってこないくらい、素直に、そして真剣に生きているときに滲み出る〝おかしみ〟のことなのだ。そのおかしみは、隙、と表現することもできる。

 「お腹がゆるい」という著者の特性に関するエピソードが今回は特に多く、その内容に勇気づけられる。自分もどちらかといえばゆるい方だが著者ほどではないので、こういった 経験談をてらいもなく開示してくれていると「自分なんてまだマシだ」というポジティブな気持ちになれるので感謝である。「腹と修羅」における「現代のシザーハンズ誕生の瞬間である。」というパンチラインは笑いすぎて死ぬかと思った。

いろんな人に『イン・ザ・メガチャーチ』をおすすめされているので、早く読みたい。

2026年5月26日火曜日

昔の会社員はどうやって仕事をしていたのか vol.1&2

昔の会社員はどうやって仕事をしていたのか vol.1

昔の会社員はどうやって仕事をしていたのか vol.2

 blackbird booksのインスタで見かけてジャンピング購入。AIが本格的に仕事へ導入されつつあり、大きなパラダイムシフトが起こりそうな今、過去の仕事のあり方を見つめ直す試みがとても興味深かった。

 著者は80年代生まれで、自身より上の世代である70年代、80年代に入社した方々へ仕事の進め方をヒアリングし、その内容と現状を比較しながら論考が展開されている。生活史の仕事版のような一冊で、各人がどのようなキャリアを歩んできたか。今でこそ個人のキャリアパスに関する情報はネット上に溢れているが、インターネット以前の「普通のサラリーマン」のキャリアはなかなかアクセスできない情報であり、そういう意味でもZINEという媒体の強みを感じる。

 vol.1では著者の伯父への聞き取りが中心なのだが、PCによって当たり前になった業務が、手作業だった当時の現実の数々に驚くしかなかった。特に製品台帳が大きな模造紙だったという話は衝撃的だった。とはいえ、現在、PC上で行っている作業内容を逆算して考えると、模造紙くらいしかないか…と勝手に頭の中でリバースエンジニアリングしていた。他にもFAXが登場した際に「紙が物理的に飛んで届く」と思っていた女性部下のエピソードなど、時代感覚の違いがオモシロい。

 vol.2では広告業界とメーカー営業の2人に話を聞いている。vol.1でそろばん→電卓→PCという流れを通じて、「計算」が仕事の中心を担っていたことにフォーカスしていたが、vol.2では歴史を深掘りしながら、「仕事は読み書き、そろばん」をキーワードとして、計算機からPCまでの発展を解説してくれていて勉強になった。現在の当たり前が当時は革新的だった技術だと知ると、AIもいずれ社会へ溶け込んでいくのかもしれない。私が働き始めた2010年代には、すでにPCも基本的なソフトも存在しており、ここまで大きな変化の波をリアルタイムで経験するのは初めて。だからこそ柔軟に受け止められる人間でありたいと思う。

 70〜80年代は「モーレツ社員」と呼ばれる働き方が当たり前で、日本の経済成長は過重労働によって支えられていたとも言われる。しかし、当時の仕事における「計算」にかかるコストを知ると「そらそうやろ」という感想しか浮かばなかった。テクノロジーの進歩によってコストを圧縮できるようになった分、他のコストが上乗せされている状況ではあるが、「たくさん働いたら、それだけ成長する」という盲目的な神話を復活させようとする現政権の労働観はやっぱり理解不能だなという思いを新たにした。

2026年5月22日金曜日

脱獄のススメ 弍

脱獄のススメ 弍/NORIKIYO

 昨年秋に第一弾が届けられたNORIKIYOの獄中記の第二弾。第一弾も最高にオモシロかったが、まったく異なる味わいをもった、超一級の刑務所潜入ルポルタージュだった。

 前作のまえがきは獄中で書かれていたが、今回は仮釈放後に綴られている。釈放後にライブに客演参加している姿はSNS等で目にしていたものの、釈放後の本人の言葉に初めて触れると「本当に釈放されんだ…良かった…」という気持ちになった。本著では服役9〜14ヶ月の頃の日記が一日も欠かすことなく綴られている。毎日これだけの分量を手書きで書いていることに改めて驚かされるし、NORIKIYOの眼と耳を通じて知る「今の刑務所」の様子は前作に続いて目から鱗な話の連続だった。

 刑務所ライフは娑婆と完全に乖離しており、当たり前にできることが徹底的に制限される過酷な状況を読めば読むほど、今の生活に対する感謝が湧いてくる。そんな中でもNORIKIYO自身の刑務所内でのランクが上がったおかげで、お菓子が買えるようになり、お菓子描写は前作に比べて大幅に増加。もはや砂糖こそドラッグなのではないかと思えるほどの熱量で書かれており、食べたくても食べれない無念さが文章に昇華されていた。

 刑務所にいながらも、ヒップホップの話題はてんこ盛りだ。閉鎖的な空間の中でも近年の日本語ラップの盛り上がりが届いているのだ。Creepy Nuts、Awich、梅田サイファー、千葉雄喜などがラジオを通じてNORIKIYOに届いており隔世の感があった。マスに届く音楽は、ヒップホップカルチャーにおいて軽視されがちだが、ANARCHYが少年院でZEEBRAに出会ったように、マスだから届く層が間違いなくある。

 ZEEBRAといえば、例のビーフに関して長めに言及されており、これはあの頃の日本語ラップヘッズ全員が読むべき内容だった。当時から現在に至るまでの感情や意図が、愛憎入り混じりながら赤裸々に書かれており、NORIKIYOがどれほどヒップホップを愛しているか伝わってきて胸が熱くなった。ビーフについては他にもYZERR vs 舐達麻を通じたNORIKIYO流ビーフ論もあり、「どちらがどうとかより、両方に感謝しろや!」という視座は新鮮だった。

 NORIKIYOがミュージック・マガジンに掲載された自身の作品レビューについて言及するシーンも印象的だった。NORIKIYOと批評といえば「混ぜるな危険!」なわけだが、今回は比較的大人な対応になっている。『犯行声明』に収録された曲の解釈が異なることについてツッコミを入れているのだが、改めて当該曲を聴くとメタファーのレベルが相当高く「これはしょうがないのでは?」と思った。同時に、深い解釈をもたらすことができるという意味で、NORIKIYOが優れたリリシストだと再確認したし、これまでの作品でリスナーが気づいていない解釈がたくさんあるかもしれない。

 『犯行声明』やこの獄中記の制作背景についての記述も興味深い。前作も本著も自費出版ながら、完成度は商業出版と遜色ない。実際、現役の編集者たちが手伝っているようで、当初は出版社からのリリースを想定していたものの、重版タイミングを自身でコントロールできないことを知り、クリエティブのハンドルを自ら手離さない姿勢はまさにインディペンデントの矜持だ。

 誰かに自分の言葉を預けることに対して敏感なのは、音楽における原盤権と重なるからだろう。書籍は音楽ほどインディペンデントな動きが広がっていない中で、それでも彼が自分の言葉を大切にする姿勢は、自費でZINEを作っている身からすれば勇気づけられた。さらに、自費出版を選択したにも関わらず、編集者たちが手を引かずに協力していることに、獄中記に対する編集者たちの愛を感じたのだった。

 前作と大きく異なるのは、リリックに関する内容が飛躍的に増えたことだ。一つは、NORIKIYOがいかにして塀の中でリリックを書いてきたか。はじめのころはトイレットペーパーに書くという懲罰にもなり得るリスキーな行動を重ねつつも、やがて頭の中で組み立て、居室で書き出すというスタイルへ徐々に進化していく過程がスリリングだった。さらに、NORIKIYOがラッパーであることが発覚してからは、同囚だけではなく看守まで含めた皆が彼のクリエティブを見守っているような状況にグッときた。これだけの濃い人生経験をどのようにラップとして昇華してくれるのか、楽しみでならない。他にも多様性の観点とリリックの兼ね合いについても相当な文字数を割いて書いており、現役のラッパーでここまで自分のリリックについて思慮深く考えているラッパーがどれだけいるのだろうか。

 もう一つは、受刑者たちのリリックである。NORIKIYOのリリックは掲載されていない一方で、周りの受刑者たちのリリックが載っているのだ。比較的長期の刑に服している受刑者が多い工場に配属されており、彼らのリリックは言葉の重さがとんでもない。実際にラップして音楽としてどう響くのかは分からないが、読み物としてのリリックの完成度が高くてグイグイ引き込まれた。しかし、当然ながら、彼らの多くは被害者がいる重罪を犯した犯罪者…このアンビバレントな感情に引き裂かれる。決して彼らの過去の行いを肯定するものではないとNORIKIYOも繰り返し言及しており、その上で救済の音楽としてヒップホップがこれだけ機能していることをダイレクトに見せつけられると、刑務所が用意するガワだけの更生プログラムよりも人を救う可能性があるのではないかと思ってしまう。

 読んでいて思わず泣いてしまったのは、塀の外からの名前を呼ばれる場面だった。居室にいるNORIKIYOへ向けて、刑務所の外から誰かがいたずら半分に名前を叫ぶ。その一連の流れの描写および、それに対して応答する文章の素晴らしさよ…塀の内と外の話は幾度となく登場するが、このシーンほどポエティックなものはなかった。いたずらに名前を呼ばれたことだけで、ここまでのことが書けるのはNORIKIYOがリリシストであることの証明である。

 刑務所論や依存論といった骨太なテーマについて深く掘り下げている点も興味深い。前者では、刑務所が本当に更生施設として機能しているのか、いかに人権軽視な状況が続いているのか、具体例を交えて論じられる。再犯率が約50%という現実を見れば、少なくとも数字上は機能しているとは言い難い。(リピート率50%のテーマパークというアイロニーを炸裂させていた。)こんな状況において、NORIKIYOは清々しいほどに理想を語っていて胸がすく思いだった。SNSでは冷笑的な現実主義者の立ち回りが賞賛され、理想を語る人間が後ろ指をさされがちだ。しかし、それはあくまでネット上での話だ。ネットから強制的に切り離されたNORIKIYOに肩を揺さぶられ現実に引き戻されるような感覚だった。是々非々だけでは社会は前に進まない、自分なりの理想を語り続けなければならないのだと感じた。

 自分自身、若い頃は政治を筆頭に社会に対する怒りや、こうあってほしいという理想を掲げていたが、年を重ねるにつれてどんどん他人事になり、自分の頭で考えなくなっていた。しかし、本著を読むと、それがいかに危ういことで、お上の扱いやすい国民になってはならないという思いを強くした。

 後者の依存論については、前作の「大麻論」から、さらに普遍的な論考へと拡張している。現代社会が依存に満ちていることを踏まえ、ドラッグに限らない依存の構造が論じられている。このきっかけになったのは、仮釈放に向けた教育プログラムが始まったことが影響しているのだろう。始終硬直しているように見えた刑務所の中で、この授業の柔軟さは意外だったわけだが、それでも日本社会のドラッグに対する盲目的なアプローチについては、NORIKIYOの主張が説得力をもって響いた。地動説と天動説を引き合いに出しながら、未来の読者に語りかける様子は本という時間軸の長いフォーマットならではだ。

 清濁あわせ呑んできたNORIKIYOだからこそ辿り着ける視点の数々。こんな獄中記は、今後二度と読めないのではないか?そう言い切りたくなる傑作だった。

2026年5月11日月曜日

トーフビーツの(難聴)ダイアリー2023

トーフビーツの(難聴)ダイアリー2023/tofubeats

  日記熱が高まったので積読していた本著を読んだ。インタビューを含め自己開示がダサいというムードは、ヒップホップのアーティスト周辺で散見されることだが、ここまで筆力をもって自分の状況や感情を書くことができるミュージシャンであれば、むしろ強力な武器になりうることを証明していた。

 2023年の出来事がまるっと1年分収録されている日記ZINE。今回もZINEということもあってか、踏み込んだ内容が多く、ファンとしては嬉しい。2023年当時、まだ社会にはコロナの余波が残っていたことを日記で気付かされるなど、やはり記録しておくことに意味があることを再認識した。東京のシティライフを謳歌する様子と、それに伴うストラグルが並行して描かれており、酸いも甘いもある、人生を象徴するような日記となっていた。

 2023年から現在に至るまで飛ぶ鳥落とす勢いで活躍を続けているが、2023年時点でなお、自身の音楽キャリアや築いてきたレガシーについて疑問を抱いている点に彼らしさを感じた。自分の作品を疑う視線は一見ネガティブに映るかもしれない。しかし、それは裏返せば、まだ自分ができることを模索しているとも言える。だからこそ彼は停滞することなく、常にシーンの中でプレゼンスを発揮し続けているのだろう。

 tofubeatsのレガシーについて友人と話した際に印象に残っているのは「Lonely Nights」だ。もし、tofubeatsがYOUNG JUJU名義だったKEIJUにオートチューンを提案していなければ、今の彼のスタイルや立場はなかったはずである。だから、日本語ラップヘッズたちはもっとtofubeatsに感謝すべきだ、という持論を勝手に抱いている。そんな「Lonely Nights」を収録した『FANTASY CLUB』に関して言及しているラインにくらった。

手前味噌だがこのアルバムは良い悪いは別として何かを突破しようとしていてその気合いみたいなものはそれなりにきっちり込められたとは思う。せっかくHIPHOPに類する音楽を聴いているのだがら簡単に越えられないものを越えようとする気概みたいなものを感じたい。

 もともと難聴をきっかけに日記がスタートしたわけだが、コロナ禍が明け、ライブやDJ活動が本格化していくタイミングで、耳が再度不調をきたしていく様子が描かれる。耳に入ってくる音の総量(ボリューム×時間)で症状が変化する。難聴がここまでデリケートな病であることを初めて知った。ミックスやマスタリング、ライブでのオペレーションなど、音の細部に強いこだわりを持つミュージシャンだからこそ、余計に辛いだろうなと感じた。

 合間合間に挟まれる論考も興味深い。たとえば、HIPHOPライブにおける相互客演問題について言及していた。フェスなどでは、客演曲はゲスト込みでやること当然視されており、実際に本人が出てこないと観客は肩透かしを食らった気分になる。勝手に期待され、勝手に失望される構図は確かに不憫だと思う一方で、リスナーとしては「同日出演ならやってほしい」と思ってしまう気持ちも正直ある。

 他にはアーティストの言動と楽曲の関係性についての話。言動と音楽を切り分けて「関係ない」という態度を決め込む人もいれば、逆に言動と音楽は不可分で適切な対応が取られなければならないという態度もあるだろう。直近ではKanye Westが最たる例だろう。このどちらかを選びきれない感覚について「選ぶこと」が加速度的に要求されている現代の社会状況を踏まえつつ、自身のDJ論も絡めて実直に語られていた。

 SNSではこういった思考の軌跡を追うことは難しい。だからこそ本というスタティックかつ、いい意味で一方的なフォーマットの強度の必要性を感じた。2024年の日記もリリースされることを心待ちにしたい。

2026年5月10日日曜日

N/A

N/A/年森瑛

 美玉ラジオで取り上げられていたので読んだ。現代的な感覚や時代の空気をこういった形で小説へ落とし込む筆致に芥川賞候補になるのも納得のオモシロさだった。

 主人公は高校生のまどかという女の子。彼女の学生生活を軸にしながら、現代社会のムードを描いていく。まどかは、生理になりたくないという理由で食事制限を始めたり、恋人とは異なる「かけがいのない他人」を追い求めて女性と交際を始めたりする。こういった一連の行動は「社会規範」から逸脱する行為に映ってしまい、そんな逸脱した主人公に対して、周囲がどのようなリアクションを取るのか、細やかに描かれている点が興味深い。

 規範から外れた存在に対して、杓子定規に正しく応答することに意味があるのか?当人の気持ちを傷つけない最適なアプローチは、当人のことを本当に考えているのだろうか?「多様性」という言葉だけが先走り、実態を伴わず形骸化している状況が、繊細な年頃のティーンエイジャーの関係性の中で浮かび上がっていた。

 特に、インターネットの普及により、ある種の「正解」の流布で起こったコミュニケーションの均一化が、人間関係を毀損している可能性に気付かされた。周囲のリアクションと自分の意図が乖離していることに戸惑いを感じた経験はあるが、拒食症や同姓愛といったマイノリティのテーマと接続することで、当人の気持ちをいかに置き去りにしているのか鮮明にしている。特に後者の同姓愛に関しては、2人の関係が一番大事であるにも関わらず、社会的正義、貢献という名の元で、まどかの恋人が己の承認欲求を満たす様は最近よく見る光景だ。

 本著全体から伝わってくるのは、自分自身の感情に根ざしたコミュニケーションの重要さと、テクノロジーの進展によって私たちがそれをどれほど疎かにしているのかということである。一番顕著なのは終盤のLINEのやり取りだった。LINEは日本における2010年代後半以降のコミュニケーションを象徴するツールだ。そこでどういった言葉をかわしていくのか、思考過程を含めてこれだけスリリングに描いた小説を読んだのは初めてだった。チャットアプリなので、応答することが前提となっているが、それはアプリに駆動されているだけで、適切な言葉を探す意味がどこにあるのかと思わされる。

 タイトルの「N/A」は、Not Available=データがないことを意味している。エクセルのVLOOK関数などで値を探しにいっても見つからないときに帰ってくるエラーだ。皆が自分の内側ではなく、さながらVLOOK関数のように外側に正解を参照しにいく態度の比喩として秀逸である。ゼロではなく「存在しない」というニュアンスが、正解探しの虚しさを端的に表現している。

 心がひやっとしたのは後半の生徒と先生のやりとり。「先生が元生徒と結婚する」vs「生徒が授業中に内職する」という双方が規範から逸脱した結果として、教師から振るわれる言葉の暴力にゾッとしつつ、そこで連帯するシスターフッドにグッときた。突発的な状況の中では、誰もが検索、参照することなく、思い思いの連帯を示すからだ。ここで初めて本当の意味での多様性が立ち上がる裏腹な構成が見事だった。

 多様性と言われるものの、それは理解できる範囲でのみ許容されるという暗黙の了解の上に成り立っている。朝井リョウや村田沙耶香がここ数年指摘してきた息苦しさとも響き合いながら、本著はさらに軽やかに、なおかつ現代の空気やツールをうまくパッケージした上で提示している素晴らしい小説だった。

2026年5月9日土曜日

すべての原付の光

すべての原付の光/天沢時生

 あまりにも気になりすぎるタイトルかつ早川書房から出てることに惹かれて読んだ。日本のSFを読めていない中で、脳みそがスパークしそうな圧倒的情報量とドライブしまくる物語の構成に魅了されてあっという間に読み終えた。

 タイトル作を含めて合計5作の短編・中編で構成されている。似たような話は一つとしてなく、それぞれ異なる魅力を持っていた。なんといってもタイトル作が「これぞ日本のSF!」という内容で最高だった。暴走族およびヤンキーという絶滅危惧種の日本の伝統を、SFに落とし込んでこんなユニークな小説が書けるだなんて。勝手に原チャで暴走していた中坊を捕まえてタレットから空中に打ち込み異世界に吹き飛ばすという設定がぶっ飛んでるし、原付の光が明滅するシーンにおけるリテラルな表現は斬新だった。全体通してのギミックとしては、ルビ振りが特徴的。漢字に対して英訳ルビが振ってあるので、情報量が増えて世界観の構築に一役買っていた。

 一番好きだったのは「ショッピング・エクスプロージョン」ドン・キホーテをオマージュした量販店が無限に増殖し、地球上を侵食していく。それを食い止めるミステリーバディものという荒唐無稽な話。『フライデー・ブラック』を想起しつつ、ワンピースやドン・キホーテというベタなものをかけあわせてフレッシュな文学に昇華してしまうスキルに脱帽した。主人公2人がジャズメンを模した名前だったり、熊谷が大麻の街だったりと、ハイコンテキストなカルチャーのマダラ模様も読んでいて楽しかった。タランティーノに映画化してほしい。

 一方で「竜頭」は少し不思議系なストーリー展開に地方の鬱屈性が配合された独特の世界観だし、「ラゴス生体都市」は進撃の巨人オマージュな展開だったり。同じSFの中でも、サブジャンルを横断して自分のスタイルに落とし込む様からオールラウンダーであることが伝わってきた。

 いわゆる日本的なサイバーパンクのイメージを率先して具現化している街は、渋谷、新宿といった都市部かもしれないが、そのベタ性から距離を取り、地方を舞台に想像力を爆発させて軽やかに完全オリジナルの世界観を作り上げている点にクリエイティビティを感じた。新作が最近出たばかりのようなので、そちらも読みたい。

2026年5月8日金曜日

ちょっと踊ったりすぐにかけだす

ちょっと踊ったりすぐにかけだす/古賀及子

 日記ブームと言われて久しい中、その一翼を担う書き手である著者の作品を初めて読んだ。育児日記として面白く読んだ。

 もともとウェブ上で公開されていた2018年から2022年までの日記を抜粋、再構成した一冊。著者と2人の子どもによる他愛もない日常の様子が綴られている。形式としては日記だが、日付や時間の連続性はそこまで前景化していない。むしろ各エピソードにキラーフレーズのようなタイトルが付されていることで、エッセイ的なニュアンスが強まっていた。

 成熟した大人から見ると、子どもの発想や言葉づかいにハッとさせられる瞬間は多い。著者はその瞬間をキャッチするアンテナが鋭く、丁寧に記録しているからこそ面白い。印象的なのは、著者のボキャブラリーや感覚を子どもたちが吸収して育っていることだ。以下に端的に表れている。

「感性がちょろいからすぐ踊っちゃう」と息子に言われた。その「感性がちょろい」って言葉、教えたの私だ。上手に使いこなしてる。

 SNSやYouTubeにおいて、子どもと大人の非対称性から生まれる出来事でインプレッション稼ぎしているコンテンツを見るとギョッとするときがある。しかし「はてなブログ」を筆頭とした、当時のウェブ日記の文体をまとった著者の文章からそういった邪な気持ちは微塵も感じることがなかった。それは、かしこまっていない自然な文体を通じて、著者の人柄や子どもに対する無償の愛が伝わってきたからだ。

 「些細な日常を描く」という惹句は、日記やエッセイで山ほど使われているが、これほどまで文字通りの「些細な日常」を体現した日記はそうそうない。家族3人以外の部外者の話がほとんど登場せず、著者は仕事して、子どもは学校に行く。そんな繰り返しの日々の中でも、考えることやプレシャスな瞬間が溢れている事実に気付かされる。並の人間なら日記にならない日が、著者の手にかかればスペシャルな一日になる。この観察力と文章力が多くの人の心を鷲掴みにするのだろう。なかでも親と子どもの異なる発想の角度が交差して発生するコミュニケーションの数々は読んでいてニヤニヤしたし心が清められた。

 本著の特徴としては、育児におけるネガティブな側面やしんどさがほとんど言及されていない点も挙げられるだろう。子どもと暮らしていると、かわいい、健気だと思う瞬間はたくさんある一方で、親を当惑させ、ときには怒らせるような出来事も当然ある。自分自身も4歳の子どもを育てている中で、つまづくことが山ほどある。これだけポジ出しのエピソードがたくさんあると育児で疲れることがあっても、著者の子どもに対する優しい視点に勇気をもらえた。

 一方で、ここまでキレイにされていると、ジェントリフィケーションに近いニュアンスを感じないと言えば嘘になる。それは子どものディテールの細かさに対して、パートナーに関する記載の薄さも同様の感情を抱いた。そもそも何を書こうが自由だし、わざわざネガティブな瞬間を人に伝える必要はないのかもしれない。また、パートナーや子どもとしても「書かれない権利」があるのだから、時代にあった適切な配慮とも言えるだろう。

 植本さんや西村賢太の日記で育ったので、「日記」というフォーマットに対して「リアル」を過剰に求め過ぎているのかもしれない。同じ「日記」と呼ばれるものでも、著者は現実を食べやすく成形した結果としての「リアル」であることについて自覚的なのだろう。それは前述したとおり、タイトルをつけて日記の要素を薄めていることや、あとがきでも「日記というよりも創作に近いものである」という自身の日記観からも伺える。まだ一冊しか読んでいないので、次は『おくれ毛で風を切れ』を読んでみる。

2026年5月1日金曜日

シスタ・ラップ・バイブル

シスタ・ラップ・バイブル/クローヴァー・ホープ (著), 押野素子 (翻訳)

 最近読んだ『ヒップホップ名盤100』の中で、リル・キムが「早すぎたフェミニスト」と言及されており、積んであった本著を読んだ。ヒップホップはずっと好きで聞いてきたが、女性たちが構築してきたカルチャーについて知らないことばかりで興味深かった。

 ヒップホップ黎明期から現在までシーンに登場した女性ラッパー100人を個別に取り上げた「ラッパー名鑑」的な一冊である。 基本的には時系列で構成されており、それぞれのラッパーの来歴を追いながら読むことで、誰がどのような変化をもたらしてきたのかが、歴史として立体的に浮かび上がる。オールカラーで描かれたポップなイラストも魅力的で、ページをめくるだけでも楽しい。

 女性ラッパーにフォーカスして、ヒップホップ史を捉え直す試みは、男性中心で語られてきた歴史のアナザーサイドである。同じヒップホップでありながら、まるで別のカルチャーのように映るのは、女性の存在がこれまで十分に歴史として語られてこなかったことの証左と言える。

 ヒップホップにおいては、女性が搾取の対象として描かれてきたケースも多い。そうした文脈の中で、女性ラッパーたちが自身の欲望、経験をリリックに落とし込んできた歴史こそが、ヒップホップがもつレベルミュージックとしての側面を体現しているように感じられた。

 なかでも、リル・キムとフォクシー・ブラウンが印象的だった。彼女たちが女性のあけすけな欲望をヒップホップに持ちこんだことは革命だったわけだが、自身のセクシャリティを解放しているだけにも関わらず、下品だと言われてしまったり、男性中心の価値観の中で消費されてもきた。「b*tch」という言葉を筆頭にリリック内で女性を搾取してきたにも関わらず、当人たちが同様に表現すると男性が当惑する。このダブルスタンダードっぷりはどうなんだと思いつつ、自分も日本語ラップにおける女性のダイレクトな性表現を聞いて当惑することもあるので、人のことは言えない。

 一番驚いたのはニッキー・ミナージの捉え方だった。Kanye West「Monster」での客演バースは歴史に残る最強のバースであり、そのラウドな印象に引っ張られがちだ。しかし、彼女は女性のラッパーとしての新たな土壌を2010年代に切り拓いた。セクシュアリティに依存しすぎない表現とメロディックなスタイルも取り入れた幅広い音楽性で、リル・キムやフォクシー・ブラウン以降のラッパー像を塗り替えたゲームチェンジャーだと知った。かつて『Pink Friday』を何気なく聴いていた当時の自分の理解の浅さを思い知った。

 さらに、ローリン・ヒル、ミッシー・エリオットといった性的表現とは異なる軸で革新をもたらしたラッパーたちも取り上げられており、その音楽性だけではなく、キャリア全体を振り返って後進に対する影響の大きさについて丁寧に書かれている。シンギンスタイルの萌芽をローリン・ヒルに見出すのは新たな視座だったし、ミッシーがいかに才覚に優れた人間なのかもよく理解できた。

 本著によれば、かつては女性ラッパー同士が競合構造の中で「一人しか生き残れない」状況に置かれることも多く、それがシーンにおける持続的な定着を妨げてきた要因のひとつとされる。しかし現在では、DEI(ダイバーシティ・エクイティ&インクルージョン)の広がりやヒップホップ自体のさらなる大衆化を背景に、多様なスタイルの女性ラッパーが同時に活躍する状況が生まれている。NETFLIXの『LADIES FIRST』というドキュメンタリーが本著の理解を大きく促進してくれたので、まずはそちらを見てから本著を読むのもいいかもしれない。

 どういったサウンドなのかだけではなく、リリックの中身を知るとラッパーについてイメージしやすくなる。英語に明るくなく、USのヒップホップを聞く際にリリックを蔑ろにしてきたが、AI全盛の今はスラングも含めてわからないところは簡単に翻訳できたり、リリックの技巧的な部分を含めてレビューまで生成してくれたり、理解が深まりやすい環境だからこそ、積極的に情報を取っていきたいと感じた。

2026年4月24日金曜日

RECTRUCK peko × Mummy-D



  『RECTRUCK』というヒップホップ番組が始まっている。『フリースタイルダンジョン』、『日本統一』が放送されていた枠で地上波で放送されており、Abemaではアーカイブ視聴も可能だ。Tade Dust × EASTA、KOWICHI×YELLASOMAの回をYoutubeで流し見する程度だったのだが、今回はなんとマイメンpekoがMummy-Dと共演するということで本腰入れて見たのだった。

 番組の趣旨である車で旅をしながら2人で作った新曲もかっこよかったのだが、その曲を含めたライブが圧巻だった。何年かぶりに自分がRHYMESTERに心酔していた記憶が呼び起こされ、RHYMESTERのかっこよさを再定義するようなライブだった。

#24:peko(梅田サイファー)× Mummy-D(RHYMESTER)【LIVE SHOWCASE】

 直近のRHYMESTERのリリースで心がときめいたかと言われれば、正直それは難しい。現時点の最新作『Opne The Window』は久しぶりのアルバムだったものの、ノベルティ色の強い内容で、自分たちが聞いてきた、そして信じていたRHYMESTER像とは乖離があった。そのリリース当時に落胆した記憶が自分の中では更新されないまま3年が経過しており、同じモヤモヤを抱えている往年の日本語ラップファンも少なくないはずだ。

 そんな半信半疑の状態でライブを見たのだが、pekoが筋金入りのRHYMESTERヘッズであり、DJの視点でもあるからこそ、セットリストは愛とコンテキストに溢れていた。「そうだ!俺はRhymesterが大好きだったんだ!」と思い出させてくれたのである。

 開幕は、2人が最初にコンタクトした『Red Bull 64 Bars』での楽曲をそれぞれ披露するという高負荷な構成から、ライブにかける意気込みを感じた。当然二人ともガイドボーカルは一切なく、ビートの上でひたすらスピットしていく様は現場叩き上げゆえの力量が如実に発揮されていた。特にMummy-DがDJ KRUSHの超変則ビートの上で必死にラップしている姿があまりにも雄弁で、この時点で前述した半信半疑の気持ちは霧散していた。

 続くパートでは、各自の楽曲に別楽曲のバースを乗せていくマッシュアップ的な展開へ。そのチョイスが絶妙で、「マジでハイ」で「スタンバイ・チューン」のバースをキックするという往年のヘッズにはたまらない瞬間である。BPM的に言えば、もっといろんな曲あったと思うけど、我々世代にとっての『グレイゾーン』というアルバムの重要性さを再認識させてくれた。他にもpekoの数少ないソロ曲であるCocolo Blandのコンピに収録された「The Boy Flies In The Mid Night」をここで歌うことに驚いたし、その上で「ちょうどいい」のバースをMummy-Dが歌うなんて誰が想像しただろうか。

 逆にRHYMESTERの楽曲にpekoがバースをキックするパターンもあり、チョイスした曲が「Born To Lose」というのがヘッズすぎる。ベタに「B-BOYイズム」とかいきそうなものだけど、このチョイスにRHYMSTER愛が伝わってきた。今でこそ梅田サイファーとして順風満帆のキャリアを歩んでいるが、そこに至るまでの過程を外巻きながら見てきているので、このバースが骨の髄まで沁みる。RHYMESTER「敗者復活戦」の引用はさることながら、ECD、晋平太といった亡くなってしまったラッパーたちのラインを引用している点もアツかった。特に晋平太の<今日勝つために負け続けた>は曲との相性がバッチリだし、Mummy-Dと肩を並べた日という記念すべき日にぴったりだ。2人とも30代でメジャーデビューし、いわゆる「ストリート」と距離を取るかたちで日本語ラップを探求してきた共通点を持ち、その苦労を重ねた経験を分かち合っているからこそ「Born To Lose」はふさわしいことをバースで証明していた。

 その後、番組の企画で制作された「巡る」を披露。Mummy-Dが心の琴線に触れてくるタイプのしっとりモードの曲でかっこよかった。エモーショナルなhokutoビートの上で、オートチューンを駆使したメロウなpekoのアプローチに対して、Mummy-Dは自声で語りかけるようなラップという対照的な構成が素晴らしかった。この曲については番組内で詳細に解説されていたので、そちらを参照。(ブッダとRIZEのタギングのデカさの話が面白かった。)

 最後にはまさかの「ONCE AGAIN」おそらく人生で最も聞いたであろう日本語ラップの一つだが、久しぶりに聞くとMummy-Dバースでうっかり泣きそうになってしまった。若い頃に聞いていたものとは、まったく別の角度で刺さってきたからだ。これぞ音楽の魔法。pekoはここでもオリジナルバースを書き下ろしており、ツアー中とは思えないハードワークっぷりを見せつけていた。この貴重な機会を存分に活かそうとする鬼のヘッズっぷりに脱帽。さらに、番組司会であるZeebraまで呼び込み、Zeebraが「ONCE AGAIN」のバースをかますというアラフォー全員涙目案件。バースだけではなく、REMIX終盤の掛け合いまで再現されており完全にノックアウトされた。

 ヒップホップは頻繁にスタイルの更新が行われ、常にフレッシュであることが要求される残酷な音楽ジャンルだ。(あのANARCHYでさえ自身が老害である可能性を考えるような音楽なのだ。)RHYMESTERもキャリア終盤に差し掛かり、今から何か新しいことを彼らに要求するのは酷な話である。今回のライブでは、単純に昔の曲をラップしただけではなく、少しの「K.U.F.U」で彼らの膨大なレパートリーがまだまだ輝く可能性が垣間見えた。それこそ「枯れた技術の水平思考」で何か新しいアプローチのRHYMESTER像を再び生み出せるのではないかと感じた。それはさておき、今再びRHYMESTER熱が高まる、かつてのヘッズだったみんなに是非見てほしいライブだった。

2026年4月22日水曜日

理系の読み方:ガチガチの理系出身作家が小説のことを本気で考えてみた

理系の読み方:ガチガチの理系出身作家が小説のことを本気で考えてみた/大滝瓶太

 去年の友人のベスト10に入っていたので読んだ。人生において理系、文系の選択は大きなものであり、結果的に理系を選択して良かったなと思うこともあれば、別の可能性を想像してしまうこともある。本著では、そんな異教同士を接続させ、新たな小説の捉え方を提示している刺激的な1冊だった。

 小説を読むこと・書くことについて、理系視点から講義のように解きほぐしていく構成になっている。一口に理系といっても幅広いが、著者の専攻は「熱力学」「統計力学」。つまり、物理化学的な思考がベースにある。その視点で小説と科学という全く異なるものを重ね合わせて、鮮やかなアナロジーで小説について語っていく。論理的な思考回路で具体的に作品を分析し、そこで得た知見をさらに「読み方」として定式化していく手つきは理系そのものだ。小説と科学を以下のような解釈で接続し、本著の語りの必然性を見出していく点にグッときた。

「わかる」を積み重ねていたはずなのに「わからない」という全体が生成されていて、そういう経験を与えてくれる本に出会うたび、小説と複雑系の自然科学はかなり近い位置にあると思わされます。

 特にオモシロかったのは、ミステリーを理系的に読み解くパート。読書に対してわかりやすい答えを求めていないので、正直進んでは読まないジャンルだが、そのゲーム性の高さゆえに表現方法の進化が言語化できるオモシロさに気付かされた。同じジャンル小説のSFに対する視点も鮮やかで、SFを読んでいて苦労するのも小説体験の一部として機能していることがわかったので、これからは挫けることなく読み切れそう。

SFは「理解できない」という感覚が作品の底力となりえるのです。この感覚を使いたいとき、複雑かつ詳細にわたる説明をあえて改行なしに長く続けたりすると「読みにくさ」が「スケールの大きさ」として表れます。

 一番ハッとさせられたのは、読書習慣がもたらす功罪に関する指摘だった。長い間、本を大量に読む生活を続けている中で知識や思考の幅は広がった一方で、読んだ本の内容が以前ほど記憶に残らないことに薄々気づいていた。著者も同様の状況だと書かれていた。

慣れによって文章のパターンを知っていき、長く読書をする体力がついたのと同時に、簡単に読み流せるようにもなってしまった。効率良くたくさん読むための技術を知らず知らずのうちに身につけてしまっていて、この読み方こそまさに前回に述べた「『ノイズ』を削ぎ落とす」という行為です。

ノイズを得るために本を読んでいると思っていたが、ノイズと感じるセンサーが死んでしまっているのかもしれない。ただ読書していて、頭に残る数少ない本は、どこかしらノイズがあるものだなと逆説的に気付かされた。

 「小説の技巧」をエンターテイメントとして楽しめていないから本が売れていないのでは?という問題意識で本著は書かれている。最後のパートで具体的な作家を取り上げて、その技巧を分析しているのだが、それがなんと滝口悠生!日本の小説家でトップクラスに好きな作家について、理系的なアプローチで読み解かれており興味深かった。

 滝口作品に関して言及する際、誰もが人称について触れることになるが、本著は他の追随を許さない圧倒的解像度を誇っている。小説を読んでいるあいだにボヤッと頭に浮かんだことが逐一言語化されており、さらに作品構造を図示して「私」のあり方を整理していく試みも興味深かった。滝口作品の技術的アプローチについて「メゾスコピックな領域で世界を捉える方法」と位置付けており、これぞ理系的な視点だなと感じた。しかも『長い一日』の一文で締め括られる構成も鮮やかだった。小説の読み方に関する示唆を得たい人には理系、文系問わずおすすめしたい。

2026年4月20日月曜日

オートコレクト

オートコレクト/エトガル・ケレット

 エトガル・ケレットの最新作ということで読んだ。新潮クレストからリリースされた『あの素晴らしき七年』でファンになって以来、翻訳されるたびに読んでいる作家だ。この状況でイスラエル作家の小説を読むことに逡巡があったが、国家と個人を同一視する必要はない、そんな当たり前の事実に気づいた瞬間、戦争が思いのほか自分の心に染み込んでいることが怖くなった。それはともかく、アテンションの持続が難しい今の時代にふさわしい形式の小説集だった。

 SFのショートショートを彷彿とさせる極めて短い話が大量に収録されている短編集。 訳者あとがきによれば「フラッシュフィクション」と呼ばれる形式で、彼の得意なスタイルの一つらしい。SNSでちょっとした小話を読むくらいの分量であり、隙間時間に読むのにぴったり。男女関係、テクノロジー、宗教とテーマは多岐にわたるが、著者のシニカルさは通底している。ウェットではなくドライだからこそサクサク読み進められた。

 話が短い分、比喩表現の鮮やかさにふと心を掴まれる。短いからこそ密度が高いのかもしれない。

人は、本当に起きたことをそのとおりに覚えておくのが、どうも苦手らしい。たとえば記憶っていうのは、洗濯表示を無視して何度も洗った服みたいなものだ。色は褪せるし、サイズも縮む。もともとあった懐かしい匂いも、いつのまにか柔軟剤のランの合成香料にすっかり変わってしまっている。

向こうの部屋では、まだ恐怖というものを知らない好奇心旺盛な男の子が、老人みたいないびきをかいて寝ている。人生の木の幹を、のごぎりで削られているとでもいうような音をたてて。

 最もタイムリーに映る話は「犬には犬を」だ。飼い犬をアラブ人のドライバーに轢き殺されたことをきっかけに、ユダヤ人の子どもたちが復讐を企てる。戦争の原初的な衝動にフォーカスしながら、その緊張感とくだらなさの両方が伝わってきた。戦争と子どもの喧嘩を比較はよくあるモチーフだが、「向こうの犬にガソリンかけて火をつける」という具体的な展開があるからこそ、単なるアナロジーの領域に収まらないリアルネスがあった。どちらかが引き金をひいてしまったとき、落とし所はそれぞれが妥協する以外にない。

 コロナ禍を題材にした「外」も印象的だった。ロックダウンされて外出できなくなった後の世界で、外出許可が出ても人々は戸惑う。孤独になることの功罪と、他者との関係を構築していく中で徐々に心が死んでいくことをミニマルに描き切っていてコロナ禍をテーマにした作品を色々読んだ中でも鋭い切れ味だった。SNSを眺めることに疲れている人にこそオススメしたい小説集。

2026年4月11日土曜日

jellyy 『Forever』 Release Live


  jellyyのワンマンライブに行ってきた。圧倒的に若者だらけだろうなとは思いつつ、今見ておきたい気持ちが勝って平均年齢爆上げスティーロで馳せ参じたのだった。結果として1時間ものライブを見ることができて大満足。彼の楽曲の特色がライブでうまく機能していて1時間があっという間の素晴らしいショウケースだった。

 仕事で会場に遅れて着いたのだが、そのタイミングでSieroがライブをやっていて「ニコニコ」でフロアは大爆発していた。こういったヤンガンのライブに行くのはSkippaのリリパ以来。あのときはWWWだったので逃げ場があったが、今回はCircusでフロアとステージの一体感がハンパなく日本語ラップの今の勢いを肌で感じた。

 その後、この日jellyyのバックDJを務めたchex2によるDJタイムになったのだが、ここでもひと昔前にはまったく想像つかない風景が広がっていた。転換DJ時、フロアに人がいなくなる風景をヒップホップのライブ現場で長らく見ていたが、若い子たちはDJタイムでもライブと同じくらい盛り上がっているのだ。1曲目がLEX, Only U, Yung sticky wom「Team」でフロア前方が爆発。さらにSad Kid Yaz「ロンドン」でモッシュまで起こっていた。当然ライブの方が盛り上がるのだろうけど、DJだとしても「好きな曲なら上がるっしょ?」というピュアな音楽への愛が伝わってきた。chex2が最後にかけた曲がSEEDA「Slick back」のCCG12収録の新しいREMIXヴァージョンでアガった。jellyyのバースがあるからかけたのだろうけど、PUNPEEやNORIKIYOのバースまで聞けて大変ありがたかった。

 満を持して始まったjellyyのライブ。今回は先日リリースされた『Forever』のリリパということでアルバム曲中心のセットリスト。アルバムの構成と同様にアッパーモードで始まり、聞かせるメロウなパートを経て、終盤はアンセム系といった構成となっていた。「日本語ラップバブル」と言われて久しいが、ワンマンライブで60分もライブをやれるラッパーがどれだけいるだろうか。若干19歳だが、音楽でやっていくんだという気概をそれだけでも感じる。

 ライブは「Forever(Intro)」からバイブス満タンでスタート。とにかくフロアが盛り上がる曲が立て続けに投下されていく。「Never ever lose」の1stバースの音抜き&刻みのフロウが、照明もあいまって、あまりにもかっこよすぎてフロアもバウンスしていた。「Naked」への流れは、ライブならではのカットインで入っていく仕様で最高。さらに1stアルバム『Most hated』から「Togari」が投下。たった1年でバンガーをこれだけ作り出していることに驚く。

 そして、Sieroがぬるっと登場して二人のジョイントアルバムから「WWW」が披露されて、この日1番くらいに大爆発。昨年のリリパに行けなかったので、二人が揃ってラップする姿が見ることができてよかった。もう1曲はサンクラにある「Remember」という曲で二人の絆を感じさせるステージングだった。これに限らず、アルバム以外のシングルやサンクラ曲も惜しげもなく披露されており「Drank night」はリリース時に「こっちもいけるのか!」と驚いたウェッサイチューンで今回聞けて嬉しかった。「動き」「不器用」で前半パートが締めくくり。ここで激しいモッシュが発生しており今の現場のリアルが詰まっていた。トラップが登場して約10年経ち、身体的な意味でも根付いたのだなと改めて感じた。

 「What You See(19)」から比較的落ち着いたトーンの後半がスタート。アルバムでも同様だが、ライブでもこのパートに彼らしさが表れていた。大抵のヤンガンたちは同じトーンの曲がたくさんある状況でライブのメリハリがつきづらいだろう。しかし、jellyyの場合はハードもメロウも、どんなモードでもラップできるがゆえ、ライブに緩急がついて1時間という長い尺でも全くダレることがなかった。ここに彼がスペシャルである理由が詰まっている。

 『Most hated』からの客演曲も立て続けに披露され、客演ではTiea Creator、Kamui、Lisa lil vinciが軒並み勢揃い。Kamuiのバイブスの高さはキャリアを感じさせるものでかなり盛り上げていた。彼が「3、2、1 let’s go!」というトラップ以降の定番フレーズを放った瞬間に、逆説的にjellyy がその手の煽りをここまで一切していないことに気付かされた。<やりたくない事やらない日本語ラップテンプレート>と曲でも言及しているので、自分のスタイルを確立しようと模索していることが伺えた。

 終盤は彼のディスコグラフィの中でもポジティブサイドである「Alright」「Living In The Dream」とアンセム系が続いて「良い未来」で大団円。自身の弱さを見せたあとに、ビートの派手なトーンにあったエンパワメント性に溢れた曲を聞くとより深く心に刺さった。

 曲間のMCでは、繰り返しリスナーに対する感謝を伝えていることが印象的だった。また、楽曲からも感じられる自己肯定感の低さはMCでも吐露されていたが、そこを乗り越えていくためにヒップホップがある。ライブを通じて観客含めた全員がその感覚を共有できていることに、セラピーとしてのヒップホップの側面を垣間見たのであった。

 ボーカルのキーの低さや声量など、ライブの技術的に気になるところがないわけではない。しかし、等身大の自分をさらけ出し、自分らしく生きていくことをステージで体現しているからこそ、そこには技術を超えた何かが表出していた。これは若いラッパーにしか出せないものであり、彼がリリックとして昇華した感情の機微は、多くの若者たちが抱える感情の結晶であることが、その盛り上がりから伝わってきた。

 地元が大阪の若手ラッパーが、東京でこれだけ支持されていることは、ヒップホップの従来のフッドの価値観を覆すものであるし、jellyyのラップはcold cityである東京だからこそ刺さりやすいのかもしれない。CCGにも抜擢されたことだし、夏にはアルバムが予定されてるそうなので、2026年がjellyyの年になってほしい。

2026年4月10日金曜日

ヒップホップ名盤100

ヒップホップ名盤100/小林雅明

 大阪帰省時にblackbird booksで遭遇してゲトって読んだ。このタイトルに求められる、ある種の普遍性をかなぐり捨てて、著者独自のセレクションと視点で単なるディスクガイドを超越した読み物として圧倒的にオモシロかった。

 日本でもヒップホップが爆発的人気を獲得する中、「一体何から聞けばいいのか」と途方に暮れている人も多いだろう。そうした場面でディスクガイドは機能するわけだが、とりわけ月1000円で音楽が聞き放題のストリーミング時代においては、その効力がかつてより増している。なぜなら、掲載作品を即座に再生できるから。本著を読みながら、クラシックや隠れた名作を聞き返す時間は最高だった。

 アメリカのヒップホップのアルバムから著者が100枚を選び、紹介している本著はディスクガイドと言える。ただし、本著がヒップホップをこれから聞くビギナー向けかといえば、正直なところ難しいかもしれない。というのも、王道は一応抑えてあるものの、玄人志向なチョイスが散見されるからだ。なぜこんなチョイスなのかといえば、定番の名盤情報は今やインターネット上に溢れており、本に頼る必要はないからだろう。それこそ生成AIに細かくプロンプトを与えて、各自のリスニング歴や環境に応じたリストを作ることなんて造作もない。

 となるとディスクガイドをリリースする意義がどこにあるか。それは、アルバムのチョイスとそれに対する視点のユニークさに他ならない。同じラッパーやグループでもどのアルバムを選ぶかで、選者の個性が如実に現れるわけで、本著はその点で雄弁である。DJが「人が作った曲を選んで、かけているだけ」と揶揄されることがあるが、AI時代においては「選ぶこと」自体が大きな意味を持つ。その人固有のコンテキストが重要だからだ。「定番ではない方」を選び、それに対して情報を肉付けしている本著は独自のコンテキストを持ち、日本語圏におけるアメリカのヒップホップに対する理解の促進に大きく貢献している。

 英語が堪能ではないため、リリックや各ラッパーたちの背景について、そこまで知らず、音楽としてかっこいいかどうかの次元でしか聞けていないことを痛感させられた。100枚のうち7割くらいは聞いたことのある作品だったものの、本当の意味で聞けているかと言われれば、言葉を濁さざるを得ないほど、本著に詰まっている情報の密度が高い。

 日本でアメリカのヒップホップが紹介される際、アルバム概略やサウンドデザインが中心で、リリックが深堀りされるケースはそれほど多くない。しかし、本著ではリリックについてライミングまで含めたスタイル、内容が丁寧に紹介されており、各ラッパーの新たな側面を知ることができた。ヒップホップの発祥地であるアメリカには千差万別のスタイルが存在することを、改めて思い知らされた。

 冒頭に「2025年に選ぶのであれば」というエクスキューズがあるが、本著は各アルバムを2025年の視点から捉え直すアーカイブとしても貴重だ。ラッパーの女性に対する視点や陰謀史観は特に顕著で、なかでもLil Kimの早過ぎたフェミニズムのくだりは笑った。 他にもリリース当時の時代背景が紹介されているケースも多い。ネット上の情報を後追いして「当時の空気を知っている」ように振る舞うスタンスが個人的に苦手なのだが、著者は筋金入りのラップ好きであり、その点でも信頼できる。年の功がなせるリアルがあった。

 100枚のセレクションの合間に挟まれたコラムも読み応えがあった。特に2010年代に関するコラムで紹介されていたChief Kief「I Don’t Like」がもたらした、数文字の脚韻のみで押し切るスタイルは、近年の日本語ラップでも顕著になっており、その源流について知ることができて勉強になった。『ミックステープ文化論』を執筆した著者だからこその視点が光るコラムも興味深い。実際、ミックステープが多く選ばれていることは本著の大きな特徴と言えるだろう。2000〜2010年代にインターネット上で無料ダウンロードできたミックステープ文化はモロに世代なのだが、2000年代前半の作品は聞いたことのない作品が多かった。なおかつ最近はミックステープがストリーミングで解放されているし、去年のMetro Boominによるミクステなど、環境やタイミングが整っていることもあいまって今ミックステープを取り上げるのはベストタイミングと言えるだろう。これを機にディグってみたい。

 ここまで刺激的なディスクガイドはなかなかネット上では出会えないと思うので、ヒップホップ大好きな人たちには超推奨な一冊だし、『ミックステープ文化論』も読んでみたい。

2026年3月31日火曜日

菜食主義者

菜食主義者/ハン・ガン

 ノーベル文学賞受賞も記憶に新しいハン・ガン。以前に『すべての、白いものたちの』を読んだことはあったが、少しトリッキーな作品だったので、小説ど真ん中の作品を読むのは今回が初めて。あまりの面白さと重厚さに「そらノーベル文学賞取るか」と心底納得させられた。

 本著は、中編が3つ収録されており、1つずつ独立した話ではあるものの、すべて繋がっており連作長編といった構成になっている。最初の話はタイトルどおりで、ある男性の妻ヨンヒが肉を食べなくなるところから始まる。この一つの変化からバタフライエフェクトのように壮大な物語が広がっていく点にハン・ガンの筆力が詰まっていた。

 「多様性」が叫ばれる現在、菜食主義(ベジタリアン)は何も特別なことではない。しかし、本著が書かれた2000年代初頭の韓国においては、それが社会のルールから大きく外れるようなことなのだと周囲のリアクションから伺える。なおかつ、それが女性という点が話のキーとなっている。なぜなら、家父長制が色濃く残り、女性が家のことをすべて担い、性別役割分担が露骨に決まっている時代背景を「肉を食べない」というトリガーで浮き彫りにしているからだ。「妻が肉を食べなくなった→夫も肉を食べることができない(夫が自分で料理しない)」という論旨が当然になっているし、ヨンヒの父親を中心に、家族全員で無理くり肉を食べさせるシーンは読んでいて心がエグられた。社会や家族が定めた「普通」から少しでもズレた人間を矯正しようとする暴力。それが最終的には精神病院にまで到達する展開は「精神に病を抱える人を、無理くり社会に適合させる必要はあるのか?」という問いさえ突きつけてくるものだった。

 近年の韓国文学では、主張が目的化しているケースもあるが、本著はそういった要素だけではなく、小説としての面白さ、凄みも伴っている。それは残り二つの中編で顕著だ。

 「蒙古斑」では、アーティストであるヨンヒの義兄がアートを通じてヨンヒと関係を構築し、自身の作品へと昇華していく。といえば聞こえはいいが、結局は性欲の犠牲になっていくおぞましさ。どんどん膨張していく義兄のリビドーと、それをいい意味でも悪い意味でも森のように受け止めてしまうヨンヒの儚さ。その対比が見事で、ページをめくる手が止まらなかった。

 最後の「木の花火」はヨンヒの姉が、実質精神崩壊してしまった妹であるヨンヒを救うために悪戦苦闘する。ヨンヒは肉どころか食事自体を拒絶し、命の危機に瀕している状況。なんとか生きていてほしいと懸命に手を伸ばす姉もまた、徐々にすり減っていく。その様子は、読んでいるだけなのにグッタリするレベルだった。家族だからわかりあえる、といった綺麗事がない点にリアルを感じた。

許したり、許されたりする必要さえない。私はあなたを知らないから。

 この話が素晴らしいのは、終盤のポエティックな描写である。タイトルの「木の花火」はパッとタイトルだけ読んでもわからないだろう。最後の最後で著者が姉の視点を通じて隠喩と共に語るわけだが、不眠症を患い、明け方に見るその光景の儚さと美しさに人生を感じるのであった。

 本著に通底するのは「人間はどこまでいっても他人の心のうちは理解できない」という、当たり前の現実である。では、他者のことがわからない前提のうえで人間はどうやって生きていくべきなのか?暴力を介在させ、自分と他者を同化させることに果たして意味があるのか?そんなことを考えさせられる一冊だった。他の作品もどんどん読んでいきたい。

2026年3月27日金曜日

創造性はどこからやってくるか―天然表現の世界

創造性はどこからやってくるか―天然表現の世界/郡司ペギオ幸夫

 著者の名前を知ったのは、OGRE YOU ASS HOLEのリリースタイミングのウェブ記事がきっかけだった。それからずっと読みたいと思っていたところでKindleでセールされていたので読んだ。新書とは思えない情報量とパーソナルな内容に驚きつつ、著者が繰り返し提示する「天然表現」という概念があらゆる領域に転用可能な理論で興味深かった。

 新書というと一般的な概念を体系立てて解説するイメージがあるが、本著では独特の理論とその実践が記録されている一冊となっている。中身としては、最初に著者が構築した理論の解説があり、その理論を適用した作品批評、さらに実践としての創作という構成になっている。

 著者はもともと学者であり、理論を考案することは自身の得意領域だ。前半では存分に、自身の持論を開陳し、その勢いのまま後半はコンフォートゾーンを飛び出し、自らの理論を実践する創作に挑んでいく。その過程がスリリングだった。理論を語るものは創作しないし、理論を語らないものは創作するというイメージを持つが、著者はその壁を乗り越えていく。大谷さながらの二刀流挑戦ドキュメンタリーとして抜群に面白い。

 特に興味深いのは、通常であれば、作品が理論の適用対象となるのに対し、本著では理論が先行し、それを体現する作品を後から創作するという逆転現象が起きている点だ。理論ベースの作品は頭でっかちでクリエイティブに欠けるのではないか?とつい思ってしまう。しかし、著者は自身の作品のエッジの鋭さをもって、そんな通説に対して鮮やかにカウンターを決めている。特に実家でのインスタレーション制作は、写真付きの制作日誌とあいまって、現代アートらしい理論ベースの制作プロセスが伝わってきて、読みごたえがあった。

では、そんな理論とは何か?読み終えた今も明確には捉えきれていないものの、一番端的でわかりやすいと思えた部分を引用する。

創造とは外部を召喚することだ。相反する二つの概念を共に受け入れる肯定的矛盾と、共に脱色し否定する否定的矛盾を共立させ、トラウマ構造を開くとき、そこに二つの概念を想定し、両者をどう関係づけるかと思案していたときには思いもよらなかった、その思考の外部が召喚される。それこそが創造であり、絶えず創造するシステム、生命の構えである。

 「外部が召喚されることが創造」という主張は直感に反するかもしれない。創作においては、作家の主体性がすべてのように考えがちだが、能動的なアプローチだけではなく、受動的に何かが起こるように能動的に手配しておくことも必要だということだろう。これはPUNPEE(ひいてはRHYMESTERも)がたびたび唱えているヒップホップにおける「事故」の重要性と重なる話で個人的には腑に落ちた。閉鎖系の中では要素が少なく何も起こらないが、開放系にして受け入れることで、予期せぬ何かが生まれる。こういった態度は年を重ねるほど難しくなるからこそ、自戒の意味を込めて開放系でいたいと思う。

 最初に理論の話から始まるので取っ付きづらさはあるが、これほど深いアート論が実践と共に語られていることが貴重である。たくさんの金言があったのですが、作家最強論に対するカウンターとして、アナロジー含めて「こんな視点があるのか!」と驚いた。

作品が、作家の描き切ったもので、もはやそれ以上、何もそこに関与する外部がないなら、作品は、どこでも、誰が鑑賞しても、作家が意図した通りのものとなる。ビルに入るための電子入構カードを、誰が使っても同じ機能を果たすように、作品は誰が鑑賞しても同じ理解を立ち上げるものとなる。電子入構カードを誰が作ったのか気にしないように、そのような作品は、誰が制作したかの意味を失う。誰が制作しようがそれを忘れても、作品の理解に影響しない。

 作家が何かを完成まで作り切るのではなく「完全な不完全体」として作品を提供した結果、多義的な解釈が生まれて、作品としての完成が初めて日の目をみる。鑑賞者の役割や視点についてここまで深い論考はなかなか読めないから貴重である。書籍や日本語ラップのレビューを書く中で、つい当事者の意図に寄せたくなることがあるわけだが、そこに寄せるばかりでは何も生まれない。鑑賞者という立場だからこそ感じるものを、改めて追い求めていきたいと思った。

 『天然知能』という別書籍もある著者ならではの科学に対する視座も興味深かった。AIを中心とした科学への過度な信頼に対して疑問を投げかけつつ、安易にアンチ科学となるわけではなく「芸術ベースの科学」を提案していた。つまり試行錯誤と証拠の積み重ねを前提とする現代科学に対し、思いつきを含めてAIが到達できない「外部」へアクセスすることで、人間の当事者性や尊厳を取り戻せるのではないか?という主張が刺激的だった。

 本著を読んで「ペギオ的思考回路」が身についた気がするので、OGRE YOU ASS HOLEも影響を公言している『やってくる』を次に読みたい。興味ある方は、本著のエッセンスが理解できるOGRE YOU ASS HOLEと著者による対談をおすすめしておく。

OGRE YOU ASSHOLE×郡司ペギオ幸夫 人工知能と対極の創造性を司る「天然知能」の話

2026年3月25日水曜日

一私小説書きの日乗 這進の章

一私小説書きの日乗 這進の章/西村賢太

 唯一単行本化されていなかった『這進の章』が過去作の文庫化に伴って収録されたと聞いて読んだ。『這進の章』では、亡くなる1ヶ月前までの日記が掲載されており、生活のあらゆる細部が「死の予兆」なのではないかと勘ぐってしまう自分がいて、何とも言えない読書体験であった。

 『堅忍の章』はコロナ初期だったのに対して、今回はコロナ禍真っ只中で著者がどのよう日々を過ごしていたのかが記録されている。もはや遠い昔のように感じるが、実際は数年前だということが信じられない。人はこうやって生きていくために忘却していくわけだが、そんな自然の摂理に抗うかのごとく細かく記録されている日記を読むと、当時の空気を思い出すのであった。

 日記スタイルにはなんら変わりなく、起床時間、食事の内容、飲酒量、入浴の有無など、定点観測が続いている。その中で原稿仕事、ライフワークである藤澤清造の活動記録の編纂にいかに身を捧げているかがわかる。

 基本的に出不精で、家で原稿を書き、晩酌を重ねる日々。しかし、月に一度、藤澤清造の墓のある石川県七尾市までかけていき法要を取り行っている。コロナ禍で移動制限があった中でも関係なく移動を繰り返しており、あれだけ自粛ムードで皆が抑圧されていた中、著者はその影響を受けていないことに芯の強さを感じた。そして「自粛とはなんだったのか?」と以下のラインで改めて考えさせられた。「感染拡大」という社会全体としての課題はあったわけだが、他人が自分の外出の必要性をジャッジする構図はやっぱりおかしい。

この一連の短き時間が、今の自分の生きる原動力。これが不要不急の要件であるわけがない。

 一応、関係者には配慮しており、飲み屋で食事していることは記録されているものの場所から人の名前まで「某」という形で基本的には伏せてあった。その中で「ソーシャル」という言葉の使い方がオモシロく、著者の皮肉屋としての側面が発揮されていて笑った。

 日記を読む限りでは、眼科や通風での通院はあるものの、死の気配は日記から漂っていないからこそ怖い。会社員だと年一回の健康診断があるので、何か病気があれば見つかりやすいが、フリーランスだとそうもいかないから、自己管理に委ねられる。著者は自分が直接感じない不調については無頓着であり、爆食爆飲道を歩み続けた結果、亡くなってしまった。そんな爆食爆飲がエンタメになっている点が、この日記の醍醐味なので、なんとも言えない気持ちである。(大食い選手権を見ているときと似たような感情を読むたびに抱く。)日記はもう更新されることはないので、残された小説たちをこれから読んでいきたい。

2026年3月23日月曜日

羆嵐

羆嵐/吉村昭

 令和の熊騒動が記憶に新しい中で、かつて人々が熊とどう対峙していたのかを知りたくなり、積んであった本著を読んだ。大正時代、北海道に入植したばかりの村で実際に起きた、熊による最大規模の被害ということでかなりスリリングな内容だった。

 昭和57年初版で手元にあるのは、令和6年59刷…!歴史に名を刻むクラシックだということがよくわかる。文体としてはやや硬派で、慣れるまで若干読みにくさはあるものの、事態が凄惨さを増していくにつれて、リーダビリティを上回る「先を知りたい」という欲求が勝り、いつのまにか読み終わっていた。

 舞台は、農業や漁業で生計を立てる開拓期の北海道。そこに現れる羆が、住民を次々と襲い、捕食していく。「熊が人間を襲い、食べる」という事実の原初的な恐怖は、現代と何ひとつ変わらない。ただし、人間側の装備と環境は大きく異なっている。猟銃は一部の人間しか持っていないし、その銃で定期的に猟活動をしているわけではないので、宝の持ち腐れと化している。さらに電気もないので、ひたすら薪で火を炊いて、闇夜の中で羆を警戒し続けるしかない。そんな脆弱な環境を見透かすように、羆が果敢に襲いかかってくるシーンが怖かった。

 本著の白眉はスプラッター描写であろう。今の時代に同じような被害が起こった場合、どこまで書けるだろうか?と思わされるほど、羆が人間を餌として食べてしまった結果の残忍さが克明に記録されていた。ひとたび襲われれば、人間はもはや「個人」ではなく「餌」へと変化してしまう。結果として、遺体を扱う側の人間もまた、同様の視点を引き受けざるを得ない。その過程で、人間の尊厳が揺らいでいく感覚が生々しく伝わってきた。読み手ですらそう感じるのだから、遺された家族の心情は想像に余りある。

 襲われた村の者たちだけでは到底対処できないので、外部に助けを求めることになるのだが、対照的な助け船が登場する。かたや国家権力である警察を中心とした大量動員で羆を数で制圧するようなアプローチなのだが、いくらたくさんの銃があったとしても、それを扱う胆力や技術がなければ意味がないし、いざ羆と対峙した際の覚悟がなければ烏合の衆にすぎない。巨大な組織では機動力に欠け、フットワークの軽やかな羆の前では無力である。ここには単なる熊被害対応を超えた官僚的システムを否定する眼差しがある。

 ジリ貧の状況で羆に相対するのは、銀四郎という名の1人の猟師である。酒癖は最悪だけども、狩りの腕は一級品という男の登場で事態が大きく進展していく。銀四郎と羆のやり取りの緊張感は相当なもので、ページをめくりながらヒヤヒヤしつつも、どんなエンディングが待っているのか続きが気になってしょうがなかった。

 警察をふくめ集団では熊を退治することはできず、猟師個人と熊によるタイマンでしか退治できない。つまり、100年以上経過した今でも、熊との戦いが「個」の技量に依存している側面は大きく変わっていない。AIやテクノロジーの進化が叫ばれる時代にあっても、自然との関係において人間が依然として従属的な存在であることを容赦なく突きつけてくる話である。まごうことなきクラシック。

2026年3月22日日曜日

PAPER DIARY VOL.01

PAPER DIARY VOL.01

 タラウマラのポストで知って読んだ。(タラウマラでは、すぐに売り切れてしまったよう。1003では買えるようなので、そちらのリンクを貼っておきます。)印象的な表紙はさることながら「ラップコラム」の文字を見て即購入したのだった。どのページも読み応えバッチリで、古本の世界の理解の端緒に立つには格好の一冊である。

 梁山泊、マヤルカ古書店という古書店を経営されている二人の雑談と各自のコラムで構成されている。文字のフォントが何種類も使われていたり、紙の色も複数使っていたりと見た目にも面白い仕掛けがたくさんあり、まさにZINEという作り。肝心の中身は、古本屋当事者による、良い意味で外向けに成形されていない、ざっくばらんな話が貴重である。特に印象に残ったのは、「本屋経営が慈善事業のように見えることへの違和感」という指摘だ。近年の本屋をめぐる言説では、苦境や理想が強調されがちだが、「本を売り、買い取り、それで生活している」という当たり前の事実に立ち返る。斜陽産業とはいえ、たくさんの人が本を読んでいる現実があり、それを買い取って稼いで生活している人がいるのだ!という古書店としてのプライドを感じる数々の議論は読んでいて刺激的だった。また、インターネットで調べれば、なんでもわかる時代にあっても、古本屋ジャーゴンの数々はこういったテキストを読まないと一生遭遇しない日本語なので興味深かった。

 レビューを中心とした承認欲求のくだりは、新しい本を読んではレビューしている身からするとドキッとする内容だった。色んな人間の戯言が世に蔓延る中で、他者の評価を気にしながらやっていかないといけない今の商売の難しさ、というのは言われてみて初めて気づかされた。

 コラムも面白く、マヨルカ古書店の店主の「ペーパーチェイサーは古本屋の夢を見るか?」では、読書遍歴と共に語られる過去への眼差しが印象的だった。昔のことがたくさんレミニスされ、特に漫画の貸し借りが生んでいたコミュニケーションは思い当たることがたくさんあった。

 そして、一番楽しみにしていたのはラップコラムである。梁山泊のソウタさんは大阪時代に何度かお話しさせていただいた近い関係の人だと買ってから気づいたのだった…すごい偶然!当時、ヒップホップの話をした記憶もいくらかよみがえり、20代前半だった私が無礼なことを言っていたかもしれないと読みながら肝を冷やした。なぜなら、ソウタさんがゴールデンエラである90’sヒップホップ愛好者だからだ。自分自身もその時代をルーツの一つとしているが、同時に流行や変化に応じて好みを更新してきた。一方、ソウタさんはブレずに自らの好きな基準を貫いていることがコラムを通じて伝わってきた。今の時代、こういうブレなさを文字できちんと表現している人は少ないので、このコラムは今後も楽しみだ。そして、このブレないマインドはおそらく仕事にも発揮されているのだろうことが雑談パートからも伝わってきたのであった。

 ZINEの中にシリアル番号が付されており、限定100冊のようなので気になっている人はマストチェック。

2026年3月13日金曜日

valknee issue vol.1

valknee issue vol.1


 ラッパー自らが紙でZINEをリリースする時代に突入している。ということで読んだのは、先日アルバム『GEAR』をリリースしたvalkneeによるZINE第一弾。全ページフルカラーとはいえ、若干お高め…と思っていたものの、今の時代に音楽を聞くことの多層性を拡張する、お値段以上の素晴らしい試みだと読み終わってから感じた。

 新しいアルバム『GEAR』について多角的に深堀りした一冊となっている。「今、音楽をアルバム単位で聞いている人はどれだけいるのか?」と、音楽好きな友人たちとよく話す。アルバム単位でどうのこうの言っているのはコアなリスナーだけであり、プラットフォームの構造上もいかに曲単位でヒットを作れるか?という競争が促進されている。毎週のように新譜がリリースされ、リスナーはプレイリストで供給される新譜を聞いて、半年も経てば曲の鮮度は落ちてしまう。

 そんな流行り廃りの早い時代において、アーティストたちはさまざまな方法で、リスナーが聞くきっかけを作ろうとプロモーションを繰り返すわけだが、valkneeが今回提示しているのは紙媒体のZINEというフォーマットである。インタビュー、セルフライナーノーツ、クロスレビュー、エッセイ、ルックなど、さまざまな角度で『GEAR』という作品に迫っている。アーティストとしてのvalkneeをどう表現すればいいか、その試行錯誤の様子が伺える。メタ視点で見たvalkneeと、主観的に譲れないポイントでせめぎ合った結果として作品が生まれており、インディペンデントでやっていく上での矜持が随所から伝わってきた。

 ライターのつやちゃんが企画・監修で併走していることもあり、雑誌としてのクオリティが高い。ビジュアルブックとしての面白さと、読み物としての面白さの両方を抑えており、そのバランスの良さから昔の雑誌を思い出して懐かしい気持ちにもなった。本人が最後のエッセイで触れているとおりショート動画を筆頭にインスタントな消費が繰り返される中で、すべてが真逆のアプローチではあるものの、活字中毒者としてはたまらないものがあった。

 ラジオやさんごっこのエピソードで、このZINEが紹介されていた際、星野源『YELLOW MAGAZINE』がモデルの一つにあるとのことだった。アーティストたちは「言いたいことは曲にすべて込めています」と言って自己開示しないケースも増えているが、本当にそうなのか?と問うているようなZINEである。伝えたいことがない、もしくはあったとしても、ちょうどよく届く媒体がないから、そう言っているだけなのではないか?と思わされるほど、ZINEとアーティストの相性の良さを今回読んで感じた。他のラッパーもこうしたZINEを作ってみて欲しい。

 一番興味深かったのはクロスレビューである。これを読む前に自分でもレビューを書いていたので、掲載されたレビューと読み比べて楽しんだ。参加している書き手の顔ぶれもユニークで、valkneeの音楽との距離感に応じた様々なスタイルのレビューが並んでおり、読んでいると同じ音楽を聞いても感じ方はまるで異なる、という当たり前の事実に気付かされる。SNS時代では影響力の大きい人の短い言葉が「正解」として一人歩きすることも多い中、こうやって各人がアルバムに向き合って長い文章を書くことの尊さよ。雑誌のクロスレビューとは異なり、各人に必然性があるからこそ、23分と短いアルバムながらも、そこにある深さが理解できる仕様となっている。

 なかでも中條千春によるレビューがかっこよく惚れ惚れした。冒頭でGEAR=社会における歯車(ピース)というアナロジーを提示し、終盤にギアとエンジンを対比させながら、ギアの重要性を主張していく鮮やかさに唸った。

 日本語ラップは一人称の音楽であるゆえに、それを解釈し、言語化することが野暮だという意見が根強くある。なぜなら一人称である以上、「本人の意図したことが正解だ」という主張が成立するからだ。果たして、本当にそうなのだろうか?アーティストが作品に残した意味を汲み取り、解釈する行為によって、本当の意味で作品が完成するのではないか?最近そうした主張の本をいくつか読んでいることもあり、valkneeの試みに連帯を示したくなった。

 ラストにある本人のエッセイも気合いを感じる素晴らしいステートメントのようだ。アーティストとして活動することのリアルが詰まっていた。特に自身の環境分析が興味深く、周囲に対してこれだけ客観的な視点を持つことができる、その鋭い眼差しこそがvalkneeをvalknee たらしめている気がした。活字中毒の日本語ラップファンはマストで読むべきZINE。

2026年3月10日火曜日

牛を食べた日

牛を食べた日/千葉貴子

 バックパックブックスで買って積んであったことを思い出して読んだ。「飼っていた牛を食す」という一連の流れがドキュメンタリーのように記録されつつ、私たちの食肉文化について考えさせるリーチも併せ持った興味深い本だった。

 和歌山県の農村が舞台で、著者と同じ村に住む人が飼っていた牛を食べることに決めて、実際に食べるまでの過程と、その背景が書かれている。当たり前のことだが、私たちが普段食べている牛、豚、鶏といった肉は誰かが捌き、それが食べやすいサイズにカットされ、スーパーに陳列されたり、外食で提供されている。普段はそういった流れについて、意識していないが、本著を読むとその一つ一つの工程に思いを巡らさずにはいられない。

 この牛は食肉目的ではなく、牛耕という使役目的で飼われていた。しかし、牛耕がうまくいかず最終的に食べることにしたという。今の日本では特殊な状況が書かれている点が貴重な記録である。(仮に寿命まで飼育したとしても、最終的には産業廃棄物として処理されてしまう現実に驚いた。)

 と畜場へ出荷する一日の様子が克明に記録されているのだが、その道中があまりにもドラマティック。牛を運ぶだけでもこれほど大変なのかと、読んでいてハラハラさせられた。そこで発生する矛盾する感情について否定も肯定もせず、淡々と記録している点が印象的だった。

 著者は現在の牛肉消費のあり方に懐疑的な立場だ。食用として牛を飼うことで地球環境に与えるコストについても具体的に書かれていて勉強になった。もともとあった自然が、食用牛向けの飼料用の穀物畑や飼育場へ置き換わっていくのは確かに本末転倒に思える。

 愛情をもって接していた存在を食べる。この行為に矛盾を感じる人がいるかもしれないが、本著を読むと、矛盾することなく、むしろシームレスに感じる。使役動物から食用動物へ役割が転換するだけで、あくまで生活のために存在しているという認識がある。

動物をまるで家族の一員のように捉える感情移入ではなく、利害の一致で一緒にいる、ということなのかなと思う。最近で言うところの「ビジネスカップル」のような。人と牛のビジネスカップル。

 「同じ地球に暮らす動物」というあまりにも粒度の粗いレイヤーで捉えてしまうと、犬や猫のような愛玩動物と混同され、動物愛護の議論へと発展していくのだろう。昨年から話題となっている熊騒動で「熊がかわいそう」と自治体にクレームを入れる人が一定数いたことからもわかる。動物愛護はポリコレと地続きの文脈にあり、昔よりも「熊を駆除することの正しくなさ」に抵抗を感じる人は増えているかもしれない。しかし、そういったクレームを入れるのであれば、食肉ほど暴力的な行為はない。その点について自覚的な人はどれほどいるのだろうか。

 本著では、生き物と共生することに関して高い解像度で語られており、机上の空論で「正しいっぽい」ことを言うだけなら誰にでもできるが、実際に命をいただく行為と密接に関わる人たちの現場の声を知ることの大切さを強く感じたのであった。

 動物を食べる行為について「かわいい、かわいそう、おいしい」という著者の表現が独特で頭に残っている。本来であれば、生き物をと殺して食べる行為は、これだけ相反する感情が入り混じる行為であるにも関わらず、現代の食肉産業はそこをマスキングしてしまっている現状を端的に表現しているからだ。食肉産業が工業化され、システマチックに市場へ肉が供給されることの利便性を享受するだけではなく、消費者として少しでもカウンターアクションできればなと考えさせられた。とはいえ、結局は家族で焼肉きんぐへ行き、牛タンを何度も頼んでしまう自分の姿が容易に想像できてしまい、生きることの難しさを痛感した。

2026年3月9日月曜日

Make Some Trips! vol.2

Make Some Trips! vol.2/バックパックブックス

 代田橋にある本屋バックパックブックスによるオリジナルZINE。今年で5周年というポストをインスタで見て、積読になっていたことを思い出して読んだ。店主と執筆陣の関係値が、そのままZINEという形で表出しているようでオモシロかった。(vol.1は廃盤だそうです、読みたい…!)

 さまざまな人が旅に関連したエッセイを中心に寄稿している一冊。有名、無名問わず、各人の旅行に関する話はどれも興味深かった。紀行文というほど大袈裟なものではなく、広い意味での旅に関するエッセイだからこそ人を旅に駆り立てる力があり、特に最初と最後が、今行きたいと思っている青森のエッセイで挟まれていることもあいまって、読むうちに旅行に行きたくなった。

 旅のエッセイとはいえ本屋なので、本と旅が紐づいている点が特徴的だ。同じ場所を訪れても本を読んで得た前提知識があると、他の人が見えないレイヤーが見える。結果として旅行体験をさらに豊かにしてくれることがよくわかった。旅先について行く前に調べて、なんでもネタバレしてしまうことには興醒めするのだが、本を読み、頭の中に知識を持って旅行するのは楽しそう。いつも行った後にどういう場所だったのかな?と読むことが多いけれど、予習として先に読んでおくのもいい。

 本著で取り上げられている、駒沢敏器 『語るに足る、ささやかな人生』が復刊されることを先日知ったタイミングで、このZINEを読めたことに運命的なものを感じたし、さらにはその復刊本の巻末コメントを店主の宮里さんが担当されているというミラクルっぷりに驚いた。発売したら代田橋まで足を伸ばして買いに行きたい。5周年おめでとうございます!

2026年3月6日金曜日

書店員の怒りと悲しみと少しの愛

書店員の怒りと悲しみと少しの愛

 ツイッターで印象的な表紙を見かけてオモシロそうだと思っていたら、行きつけの本屋に置いてあったので読んだ。ここ10年ほど比較的熱心に本を読み、書店に通う身としては、読んでいて辛い部分がありつつ、読み手に本が届くまでの実情を知ることができて勉強になった。

 本屋の過去、現在、未来について、現役の書店員や店主、さらには退職した人までが語っている。本屋が社会的インフラだった時代は終わりを告げ、斜陽産業だと言われて久しい。とりわけAmazonの登場以降、本はもっとも割を食っている商材の一つだろう。実質無限に在庫があり、ワンクリックで注文可能、翌日には届く。電子書籍も拡大し、ワンクリックで購入してその場で読める。こういった利便性を持つ競合と実店舗の本屋は戦っていく必要がある。

 実店舗としての本屋を残していくのであれば、書店、流通、取次、出版社といったサプライチェーンが一体となって、Amazonを中心としたネット通販に対抗するための施策を考えなければならない。しかし、そこまで進んでいない現状が詳しく語られている。当然、過去の経緯もあるのでドラスティックに何かを変えることは難しいのだろう。課題のジャンルは異なるものの、複数のプレイヤーがそれぞれの利害をめぐって揉めることは仕事につきものだなと感じた。

 読んでいて辛い気持ちになるのは、単純に「本屋は大変」という批判ではなく、タイトルどおり本屋への「少しの愛」が文章の節々から伝わってくるからだ。むしろ「最悪だ!」と強めにディスってくれたほうが清々しく読めるわけだが、なんともいえない底知れぬ怒りと悲しみが文章からにじみ出ていた。本著に寄稿するくらいなので、筆力がある人が抜擢されているとはいえ、書店員の方々の文章力の高さに驚かされた。

 そもそも論として、社会的に小売業に対するリスペクトが少ないように感じる。「ゼロイチで何かを産み出す人間が偉い」という価値観の過度な浸透とは無関係ではないだろう。正直、私自身もZINEを作り、イベントで自ら販売したり、本屋に卸して販売してもらうまで、モノを売ることの大変さをまったく理解できていなかった。モノは置いておくだけで売れるわけではない。小売業に従事する方たちのきめ細やかな創意工夫の積み重ねの結果だということを痛いほど思い知ったのだった。

 学生時代、某チェーンのレンタルショップでバイトをしていたのだが、その頃のことも鮮明に思い出した。CDやDVDを無料で借りられるとはいえ時給は最低賃金ポップもバイトが家で作っていた。学生だった自分にとって、自分が書いたポップのCDやDVDをお客さんが借りてくれるのは何とも言えない嬉しさがあった。今振り返れば、その承認欲求を店側にうまく利用されていたのだなと気づいた。

 また、BOOKS青いカバの店主である小国氏が言及していた「接客向上」の話にも似た記憶がある。当時の店長が無類のディズニー好きで、チェーン店舗間の接客評価もあったため、「ディズニーランドレベルの接客をこの店で達成する!」と意気込んでいた。丁寧な接客ができない人間はシフトを減らされることになり、「こんな下町のレンタルショップで誰がそんな接客求めんねん」と思って何もしなかった結果、案の定シフトを減らされたのは苦い思い出である。

 ネットショップにない要素として「人間による細やかな接客」は確かに実店舗の強みかもしれない。しかし、そんな短絡的なことで利益率の低さをはじめとする産業構造の歪さを解決できるはずもない。接客がお店づくりにおいてコストになっているという指摘が複数の書店員から出ており、異なる現場から同様の声が上がっていることが一冊の中で確認できる点に本著の価値がある。

 本屋に行く動機として「目的買い」のケースはここ数年ほとんどなくなった。なんとなくお店に行って、自分の琴線に触れる本を探して買うことが多い。その点では、独立系書店、古書店、新刊書店のどれも等価なのだが、ランダム性が高い独立系書店、古書店に足が向きがちでだ。新刊書店も、子どもの習いごとのあいだに立ち寄ることはあるのだが、どんな本が出てるのか眺めるだけで終わることが多い。そうして「遅かれ早かれ買うつもりの本」をその場で買わないことが、結果としてどれだけ書店の売上を減らしているのか。往来堂書店の店主のインタビューを読んで、そのことを痛感した。

 これだけ脊髄反射なエンタメが氾濫する世界では、読書はむしろ知的行為として崇高ささえまとっている。結果として本屋はどこか非日常な場になりつつあるのかもしれない。しかし、実際の商いは泥臭い作業の連続であり、本屋がこれからも悪戦苦闘するであろう実像がわかる本として、これ以上のものはないだろう。

 そして、発行者である長嶺氏の最後の言葉が印象的だった。本屋や書店員に皺寄せがきている、取次、出版社もこの状況を打破するために協力できないのか?といった声が本著にこれだけ集まった中で、こんなことはなかなか言えない。

私は、書店がどんなに苦労しているとしても、同じ業界にいるからといって、出版社がその苦労を分かち合うべきだなどとは思っていません。

 一見すると極めてドライな意見に映るが、泥舟のなかで足を引っ張り合い「しんどいから一緒に苦しもう」というのは解決策ではない。「もっと未来を切り開く可能性を模索しよう」という前向きな態度の現れだと受け取った。読了前後で本屋および書店員に対する解像度が一気に変わるので、本が好きな方にとってはマストで読むべき一冊。

2026年3月3日火曜日

リック・ルービンの創作術

 

リック・ルービンの創作術/リック・ルービン

 Mu-tonのMVで登場したり、ISSUGIがスタジオ紹介で言及していたり、そしてついに曲名(BABYWOODROSE「リックルービン」)やリリック(Campanella「Monarch」)にまで登場しているリック・ルービンによる書籍。タイトルどおり、彼がどのようにクリエティブを発揮して、創作に向き合っているか、それを余すことなく書いてくれている一冊で興味深かった。

 リック・ルービンはヒップホップ創成期の立役者であり、Def Jam Recordingsを立ち上げた一人でもある。個人的には、Jay-ZやKanye Westのクラシックに関わっていることでその名を知った。特にJay-Zのドキュメンタリー『Fade to Black』における「99 Problems」の録音シーンが印象的だ。他にもKanye Westにとってキャリアの分岐点となった『YEEZUS』にも彼の存在が背景にある。そんな彼が音楽業界でいかにトッププロデューサーとしてやってきたか、そのノウハウや思考がたくさん詰め込まれている。

 読み始めて気づくのは、スピリチュアルな語り口が強いということ。宇宙とのコネクション、運命論的な発想は、正直受け入れづらいなと思いつつも、過剰に主張されるわけではなく、むしろ創作において前のめりになりがちな意識を一歩引かせるための装置のようにも映る。能動的な姿勢も大切だが、受動的な姿勢で適切なタイミングを待つことを伝えるための比喩としての「宇宙」と解釈すれば腑に落ちた。

 今回は通読したものの、本著はそれよりも自分がクリエティブなことで煮詰まった際に、リック・ルービンならどのように考えるかを教えてもらう、辞書や事典のような読み方が適切だろう。 本の構成としてもアイデアベースから始まり、アートが完成に至るまでの各工程に応じた、具体的なハウツーから抽象的な考え方まで網羅的に抑えてくれているので、読むというより「使う」に近い。なので、スタジオに置かれている理由もよくわかる。そういった用途を想定したような圧倒的な装丁の美しさは特筆すべきポイントだろう。手に持ったときの重厚感が素晴らしく、本著で語られているクリエティブを体現しているとも言える。こういった理由から必ず紙の本で買うべきと断言しておく。

 自己啓発書で似たようなことを書いている本は探せば、正直見つかるかもしれない。しかし、結局のところは「どの口が何言うかが肝心」であり、リック・ルービン御大の言葉だからこそ響くのだ。彼は冒頭で「生きているだけでアートだ」と喝破する。アートを特別な領域から引き下ろし、間口を極限まで広げる。それは明石家さんまの「生きてるだけで丸儲け」を彷彿とさせるもので、誰もがアートにコミットできるとエンパワメントしてくれているようだ。他にも、アートのために別の仕事をこなすことは、純粋な作品を作ることができるベターな方法だとダブルワークを肯定していた。サラリーマンとして働きながら、ZINE作りを続ける身としては勇気づけられた。

 オール・オア・ナッシングで、何も手につけられないことは、アテンションエコノミー時代には往々にしてあることだ。完璧を目指さなくていいから手を動かして一歩目を踏み出し、6〜8割の出来でも走り切ったときに見えてくる風景を目指せ、というアドバイスが刺さった。なので、次のZINEを作ろうと思って、今は少しずつ手を動かしている。

2026年2月24日火曜日

本と偶然

本と偶然/キム・チョヨプ

 フェイバリットなSF作家であるキム・チョヨプの初エッセイ。去年読んだ『サイボーグになる』が興味深かったので楽しみにしていたが、その期待を上回る素晴らしいSFエッセイだった。SFを読むのも好きなのだが、他人の語るSF論も好きなのでドンズバな内容だった。

 エッセイ集ではあるものの、生活の話というより著者の読書遍歴と作家論が中心となっている。これまでの作品を読んできた読者からすれば、作品や彼女自身の背景を知ることができる最高のビハインド・ザ・ストーリーものである。

 『サイボーグになる』もノンフィクションという点では共通しているが、内容もあいまって文章が硬かった。それに比べて本著は柔らかく読みやすい。自然体で自身のことを語っており、著者の誠実さが文章からヒシヒシと伝わってくるエッセイらしいエッセイだ。

 著者の小説はSFではあるが、いわゆるハードSFではなく、現代社会とどこかしら地続きなものが多い。ゆえに私を含めてコアなSFファンに限らず、広い読者層に届いているのだろう。意図的に柔らかいSFを書いているのかと思いきや、実際には結果としてそうなっているようで、本人は思いのほかSFというジャンルにこだわりを持っている。自分の作品評価や業界での相対的なポジションについて極めて自覚的で、その視点の鋭さに唸った。

 前述のとおり、制作裏話がところどころに挟まれており、ファンにとってはありがたい。なかでも『サイボーグになる』は執筆における苦労に関してかなりの分量で書かれており個人的に嬉しかった。そもそも著者が「SF作家によるエッセイ」を愛読してきており、その系譜を自覚的に引き受けているのだろう。

SF作家のエッセイは作家の日常をのぞき見できるばかりか、当人のジャンルと作法に関する話までたっぷり聞けてしまう、作家仲間としてはまことにありがたい秘蔵の玉手箱なのである。

 興味深いのは、著者が必ずしも熱心なSF読者として作家になったわけではないという点だ。作家になってから、どうやってキャッチアップしていったか、読書遍歴と共に語られる。とにかく科学ノンフィクションの素養がハンパない。玉石混合の割に分量が多く、本屋では取扱いも少なく単価も高い科学ノンフィクション。こういったいくつものハードルがあるにも関わらず、著者のアンテナはバリサン。タイトルだけで読みたくなる本がわんさか登場する。さらに著者の柔和で真摯な語り口も読みたくなる気にさせてくれる。

 著者は、自身の創作を「内面から湧き出る想像力」だけでなく、「外部から集めた素材を積み上げていく営み」に近いと語る。その比喩は料理や建築に例えられていたが、私にはサンプリングから始まったヒップホップの方法論とも重なって見えた。ラッパーのC.O.S.A.、プロデューサーのKMなど、著者の作品が局地的にヒップホップ業界で人気があるのは、こういった背景も影響しているのかもしれない。

 また、大学院で研究に挫折した経験も率直に語られている。著者の言うとおり、科学的なものが好きなことと、実際の科学の現場、特に研究業務には大きなギャップがある。レベル感は違うが、私も高校で理系科目が他より得意だったから大学で専攻したものの、まったく好きになれなかった。結果的に現在の仕事が研究職ではない自分に負い目がある。そんな負い目について著者も繰り返し吐露しており、そんな葛藤を乗り越えて、作家として確固たる地位を確立しているのだからかっこいい。

 書評に関するチャプターは踏み込んでいる印象を受けた。本の評価に対するアンビバレントな感情を結構な分量で書いており、小説家がここまで踏み込んで書いているものを読むのが初めてだった。書評が単純な感想に閉じずに脈絡を構築し、誰かの読書に貢献する可能性についてはまったくもって同意で、その気持ちでこのブログを延々と書いている。(著者が書評集を出そうとして、友人から「黒歴史になるからやめとけ」と止められた話は、個人で書評ZINEを作った身としては耳が痛かった…)

 本を通じた作者と読者のコミュニケーションへの言及が最も興味深かった。そもそも小説を通じてメッセージを伝え、それを読者が受け取るという手段は、効率だけを基準にすれば信じられないほど非効率である。しかも今は、作者の意図から逸脱する読解が許されにくい「考察の時代」でもある。そんな中で、著者がコミュニケーションの失敗にこそ可能性があると言っている点に、安易な逆張りではない本への愛を感じたのだった。

作家が読者に意味を伝えつくすことに失敗し、読者が作家の意図を把握しつくすことに失敗することで、本は本来より拡張した存在となる。(中略)読むことを試み、読むことに失敗し、時に誤読が拡張の可能性へと変貌する個然の瞬間を期待しつつ、誤解と理解のあいだを行きつ戻りつしながら本に無数の意味を盛り重ねていくその作業を、わたしは喜ばしい気持ちで追いかけたい。

 最後に語られている現代社会における科学の立ち位置についての視座も新鮮だった。陰謀論や疑似科学はくだらないものだと科学の合理的な価値観から説明することは可能だが、結局は科学も人間の営みだからこそ、どこまでいっても非合理性からは抜け出せない。そんな悲観的な視点から、正直さ、誠実さ、明確さ、開放性といった「科学的価値」を選び取る姿勢を示しており、今の時代に必要な態度だと感じた。

 巻末には本著で紹介されたブックリストがついていて、日本語への翻訳状況も含めて一覧で見れるのは本好きにとって貴重な資料である。そんな本への愛に溢れた最高の一冊だった。