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ヤンキーと地元/打越正行 |
著者が亡くなったことを知り、文庫で読んだ。沖縄の暴走族を中心とした若者たちの実態をエスノグラフィーを駆使して描き出しており、めちゃくちゃオモシロかった。あとがきで岸政彦氏が書いているとおり、上間陽子氏の裸足で逃げるとセットで読むと、沖縄の若者の生活の実態がくっきりと立ち上がってくるはずだ。
本著は、社会学の「参与観察」と呼ばれる手法で沖縄の若い男性の生活に迫ったもので、著者の博士論文が商業出版の形でリリースされたそう。沖縄は観光地、リゾートという一般的な認知がある中で、米軍基地の存在を含めた産業構造の歪さについて、若者の就労状況から丁寧に明らかにしている点が本著の白眉である。それは単純な産業の売上から第三次産業中心であることがわかる、という数字の議論ではない。幾つものレイヤーが重なりあって社会が形成されており、人間が営む生活、社会が一筋縄や綺麗事では片付かない現状を具体的な生活史の積み上げで描いている。男性の若者たちのギリギリでヒリヒリする生活の数々が閉鎖性を浮き彫りにしていて、自己責任では片付けることができない地獄に近いものを感じる場面もあった。(特に暴力の連鎖)
私はヒップホップが好きで、タイトルの「ヤンキーと地元」は日本のヒップホップど真ん中のテーマである。特に沖縄は近年ヒップホップのメッカといっても過言ではないほど、メジャーからアンダーグラウンドまでさまざまなラッパーを輩出している。「社会が荒んでいるときにヒップホップが輝く」とも言われるが、沖縄のラッパーの台頭は、本著で書かれている内容と無縁ではないはずだ。なかでも、以下の楽曲は本著と直接的な関連があるといえる楽曲だろう。2022年に起きた事件で、スクーターに乗った高校生に対して、警察官が警棒を差し向けて右目失明の重傷を負わせた。その事件の判決に対する抗議する曲となっている。沖縄の若者にとって警察との関係構築が死活問題であることは本著でも書かれているとおりだが、2020年代に突入し、新たなフェーズに入っているのかもしれない。
貧しい暮らしから、ラップで成り上がり、地元をレペゼンしつつ結果的に地元に還元する、そんな「フッドの美学」をさまざまなラッパーの曲で耳にしてきた。しかし、そんなわかりやすい物語の背景には有象無象の屍があり、地元を大切にするといえば美談に聞こえるが、実態はそんなに甘いものではないことが本著では詳らかにされている。地元に残らざるを得ず、その硬直した縦社会はまるで監獄のように若者たちを捉えて離さない。その中で何とか自分の裁量を手にしようとサバイブするものもいれば、地元の空気に耐えきれず逃げ出すものもいる。そんな若者たちの育った背景や仕事、生活の様子をつぶさに観察、レポートしており、著者が書いていなければ「いなかった」ことにされてしまった人々の声を本著では読むことができる貴重なものだ。そして、これは沖縄に限らず日本の閉塞した地方ではどこでも起こっていることかもしれないと想起させられる。
読者として客観的に見ると、ぎょっとする話もたくさん出てくるのだが、それらをひょうひょうと乗り越えて、十歳ほど離れた若者たちの懐に社会学者として入り込んでいくなんて、誰でもできることではない。著者だからこそできたフィールドワークであり、文庫版に矜持として書かれたあとがきは興味深かった。ネガティブな意味で捉えられる「パシリ」を参与観察の観点で捉えれば、別のベクトルで観察対象に迫ることができるという論考はかなり新鮮だった。「ポリコレ」の先にある想定外、そこに生きる人たちに迫ることがパシリの社会学だ、というステイトメントは今の時代に力強くみえる。しかし、そんな著者の新しい著作をもう読むことができないと思うと、読後はやり切れない悲しい気持ちでいっぱいになった。
社会調査は権力を有する調査者がいまだ明らかになっていない人びとの声を聴き、いないことにされている人びとの存在を明らかにし、そこから既存の社会や知のあり方を批判的に問うことを目的とする。だが、既存の社会や知のあり方から彼らを調べる限り、それは既存の知のあり方を再生産し強化することにしかならない。パシリとしての参与観察は、そのような状況を乗り越えうる調査方法なのである。
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