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遊びと利他/北村匡平 |
「公園と遊具から考える」という帯に惹かれて読んだ。3歳の子どもを連れて、ほぼ毎週公園に行く中で、自分が遊んでいた頃の公園と明らかにムードが違うことに違和感を抱いていたからだ。本著では、日本の今の公園、遊具がどういう背景で作られ、運用されているか、丁寧に解説されており興味深かった。さらに広げて「遊ぶ」という概念を分析しつつ、現在の社会における利他のあり方までリーチする一冊だった。
前半は、利他と公園を広く考察、中盤では幼稚園、公園のフィールドワークの取材報告、後半は現代の利他論という構成となっている。効率や絶対的な安全、正しさを追い求める風潮が進む中で、それが公園に表出しているという見立てからして興味深い。実際、公園に行くと注意書きの量が本当に多い。「ボール遊び禁止」はわかるが、「マフラーを巻きながら遊ばない」と遊具に書いてあったり、対象年齢を制限する遊具や、遊び方が書いてあるケースもある。そんなルールでがんじがらめになってしまった公園では、環境要因で子どもの遊びが排他的、利己的になっている状況を著者は危惧していた。利他的行動について考える際に、対人関係が中心になりがちだが、著者はそれだけではなく空間や環境がもたらす影響も考慮している点が特徴的だ。たとえば、仕切りのあるベンチを筆頭に、モノによる管理空間がそこかしこに溢れていることを例に挙げつつ、日常に溶け込むルールによる排他性は子どもに規律を内面化させる可能性があるとのことだった。
本著の白眉はフィールドワークに基づいた取材と、それを参照した「遊び」に対する科学的な眼差しである。子どもの遊びがこれだけ体系立てて、過去から連綿と科学的に研究されていることに心底驚いた。そして、各研究が示している内容は、自分が子どもと遊んだり、他の子どもが遊んでいる様を見ている際に何となく考えていたことが、ことごとく言語化されており、何度も頷いて読んでいた。紹介されている2つの幼稚園は正直現実味がなかったが、羽根木プレーパークは似たような施設が近所にあるため、その場所の解像度が本著を読んだおかげで格段に上がった。実際に、子どもをそこへ連れていくと、その不安定さに如実に魅了されており、普段抑制されている子どもの遊びに対する欲望を具体的に感じたのであった。
紹介されている実際の幼稚園や公園は素晴らしい環境なので、自分が子どもに対して提供できている環境と比べてしまうかもしれない。しかし、紹介されていたような幼稚園や公園に行けないからといって諦める必要はなく、子どもの遊びに必要な要素を意識しながら、普段どおり遊ぶだけでもかなり変わるだろう。とにかく子どもの自由を制限しない必要性が繰り返し唱えられていて、今だと「危ないから、他人に迷惑をかけるから」という理由で子どもの遊びに親がブレーキをかけてしまうケースが多い。しかし、物事の限界を自分の肌で理解しない限り、いつまでも成長しないという話は至極まっとうだし、子ども同士が諍うことに対してアレルギー反応を持たずに、じっくりと大人側が待つ必要がある、それが子どもの民主主義を育てるという主張もまったくもってその通りだ。ただ、今は大人が大きくコミットするのが多数派なので、そこで放置していると「なんで注意しないの?」という懐疑的な視線にさらされるリスクもある。だからこそ、社会全体が余白を持つ必要があると感じた。それが利他的関係性に繋がっていくだろうと思いつつも、今の社会に蔓延る息苦しさが霧のように晴れる日は来るのだろうか…
いろんな見立てが出てくるのだが、その中で一番個人的にしっくりきたのは人類学者であるティム・インゴルドによる「迷路」と「迷宮」の対比だ。
「迷路」はゴールへたどり着くという意図があり、なるべく最短ルートで目的地を目指す。ゴールへのルートから外れてしまったり、立ち止まったり、引き返したりすると、「失敗」になってしまう。それに対して「迷宮」は、途中で足を止め、脇道にそれ、道草をしたり寄り道をしたりしながら、周囲に注意を払い、感性を研ぎ澄ませて、驚きや発見のプロセスを楽しむ。
これが今の遊びの状況を端的に示している。つまり、迷宮ではなく迷路化している。(著者は「公園の遊園地化」とも言っていた。)公園で遊ぶにしても、迷路的な遊具をルールどおり遊ぶのではなく、一工夫して遊んだり、迷宮的な原っぱや木立で積極的に遊び、余白を楽しむことを意識していきたい。
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