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ヘルシンキ 生活の練習/朴沙羅 |
2022年に読んだ本で一番オモシロかったと友人から聞いて、文庫化のタイミングで読んだ。いわゆる「北欧礼賛系」の本とは異なる切り口の「北欧リアルトーク」といった内容で興味深く読んだ。
本書は、2020年にフィンランドへ移住して、子ども二人との生活を営んだ記録、エッセイだ。「生活」と銘打たれているが、育児の話が中心にあり、保育園に通う子どもを持つ身としては、日本の育児を相対的な視点で捉えた話の数々が目から鱗だった。
前述のとおり、日本ではフィンランドやスウェーデンといった北欧圏のヨーロッパ各国を一種のユートピアのように捉える言説が多く見られる。高い税金に応じた福祉サービスの充実は、少子化対策といいながら、納税額からして納得できるサポートが追いついていない日本からすると眩しく見える。しかし、著者は実際に住んでみて「全部が全部、素晴らしいわけではない」ことをフィールドワークのレポートさながら、実体験をベースにした社会学者の視点で考察しており、エッセイと論文の狭間にある文章のスタイルが個人的に好きな塩梅だった。
当然ながら、フィンランドのいいところはたくさん見える。最も印象的だったのは、子どもができないことに対して、本人の性格、気質といった属人的な感情サイドにフォーカスするのではなく、能力主義に基づき「スキルが足りてないので練習しましょう」とアプローチする点だ。育児する中で他人の子どもと比較することは避けがたいことであるが、能力、スキルに還元することにより「いつかできるようになる」前提なので、変に焦る必要がないことが腹落ちする。言われてみれば当たり前なのだが「どうしてできないんだろう?」と育児の中では考えがちなので、大いに参考にしていきたい。
また、保育園が親の就労状況に関わらず、誰でも利用可能であり、保育を受けることは子どもの権利であるという建て付けに驚いた。ゆえに保育園に通う親同士の関係が希薄らしいが、だからといって親が孤独にならないように助けを求められるセーフネットが用意されている。「各人が何かをすり減らして頑張っているから成り立つ」という運要素を可能な限りなくし、当人が申し出れば、公がきちんとフォローしている安心感。わかりやすいサービスの充実度ではなく、こういった思想のベースからして、フィンランドが福祉国家と呼ばれる背景を理解することができた。それは「親が滅私奉公して育児に献身せよ」という無言の圧力がそこかしこに漂う日本とは違った光景である。以下は、そんな違いを端的に言語化していた。
おおまかな工夫をすることによって多様なニーズに応えられるのと、そのおおまかな工夫のなさを個々人がイライラしあったり責めあったりしてカバーするのと、どっちが好きかと言われたら、私は前者の方が好きだ。
育児に限らず、属人的なものをなるべく排除するのはフィンランドの特徴なのかもしれない。大人の「ソーシャル」の概念も、最初に友人を作って、その友人と何らかのアクティビティをするのではなく、最初にどんなアクティビティをするのかにフォーカスし、そこに人間関係がついてくる。ゆうなれば、最初に友人を作る能力はいらず、何がしたいかだけ決めればいい。日本でも同じようなケースは当然あるだろうけど、フィンランドの方はよりシビアに人間とアクティビティを区別している印象を受けた。
前述のとおり、社会のあり方を論考するような硬めの学術的内容と、日々の暮らしのエッセイが地続きで描かれている点が、本著を特別なものにしている。顕著なのは関西弁の多用だろう。子どもの話し言葉だけではなく、著者による関西弁が結構な頻度で登場、大阪出身の自分としては郷愁にかられた。標準語で同じ内容を書いた場合、真正面の議論過ぎて角が立ちそうなところも関西弁で柔らかくなっていた。(関西出身ではない方は若干くどく感じるかもしれないが。)
「いい学校」というチャプターは個人的にフィールした。自分自身はお世辞にもガラがいいとは言えない場所で育った中、友人が私立中学へ行く姿を見ていた。そのとき、自分たちが行く予定の公立中学について、その友人から半笑いで言われたことを思い出した。そのとき「絶対こいつには負けない」と思ったのが、大学に至るまでの勉強に対するモチベーションの一つだったように思う。続編の『ヘルシンキ 生活の練習はつづく 』も早々に読みたい。
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