2025年1月10日金曜日

エドウィン・マルハウス

エドウィン・マルハウス/スティーヴン・ミルハウザー

 「2025年は海外文学を積極的に読む」というなんとなくの目標のもと、印象的な表紙でずっと気になっていた本作を読んだ。年末年始にふさわしいボリュームとクレイジーな内容にぶっ飛ばされた。架空の伝記から浮かび上がってくる、子どもの頃のときに甘く、ときに薄暗い思い出が、走馬灯のように頭を駆け巡る特殊な読書体験だった。

 タイトルにあるエドウィン、そしてジェフリーという小さな男の子二人が主人公の物語で、ジェフリーが書いたエドウィンの伝記という設定。エドウィンは11歳にして亡くなってしまうのだが、そこに至るまでの過程を、伝記と称して事細かに描写している。物語を描く上で、どれだけの土台を用意して展開していくか、作家によってその塩梅は異なる中、本著はとんでもないレベルの描き込みの質と量を誇る。0歳〜11歳までと時間が短いとはいえ、一事が万事、冗長に語り倒している。したがって、物語が展開する速度は遅く、読んでも読んでも進まないページに何度か心が折れそうになった。しかし、過剰な愛情が注ぎ込まれた箱庭を愛でる、楽しむように読んでいると、自分の懐かしい気持ちが刺激されて、自分のパーソナルな記憶とオーバーラップして読めた。

 子ども時代特有の人間関係、そのリアリティの高さも特筆すべき点だ。特にエドウィンの初恋、不良との邂逅の二つは最大の読みどころだ。子どもが人間関係を通じて社会を知り、己の認識が拡張していく様をこれだけ瑞々しく描ける著者の想像力よ。小説は一人間の妄想といえば身も蓋も無いが、これだけ痛感させられる小説もなかなかない。伝記なので、エドウィンの感情そのものが直接描かれるわけではなく、他者から見たエドウィンの様子が、その内面に深く入り込むように、細かく描写されている点がユニークだった。しかも、わずか11年間を幼年期、壮年期、晩年期とチャプター分けしている。幼年期なんて、エドウィンが赤ちゃんの頃の話について、同じく赤ちゃんであるジェフリーが見ていて、成長した11歳のジェフリーが驚異的記憶力で当時を回想、描写しているという設定がクレイジー過ぎてオモシロい。

 訳者あとがきでも指摘されているとおり、ジェフリーの他人の人生に対する異常めいた眼差しが際立っている。特に終盤にかけて、伝記の著者として筆が乗ってくる様が、最悪で最高だった。前半は、記憶とクロノジーの違いに触れながら、彼自身が伝記作家としての矜持を述べる場面もあり、事実描写に徹している。しかし、後半にかけては表現したい自我が抑えられず、アクセルが加速していき、比喩表現などが大幅に増えて、冗長な語り口へと変化していく。最後、エドウィンが目の前で亡くなったにも関わらず、大きく振りかぶった語り口は、伝記作家というより小説家である。つまり、小説になりそうな題材が目の前にぶら下がっていて、それに飛びついたように映る。一億総ツッコミ社会の今、他人の人生で自己承認を満たす様は自分を含めて、そこかしこで散見されることである。それがいかにうす気味悪いか、本著を読み終えた頃に気付かされるのであった。ただ「アーティストはアートを生み出し、伝記作家はアーティストそのものを生み出す」というジェフリーの言葉はカウンターとしては機能していた。トートロジーではあるが、優れたものを「いかに優れているか?」アーティスト以外の誰かがそれを表現するからこそ後世に残っていくことは間違いない。

 エドウィンが残した傑作に対して、ジェフリーが必要以上に意味を見出そうとする姿勢も今の考察ブームを先取りしているかのようだ。作成者が何も意図していない物語に意味や解釈を与えていくのは批評であるが、作者の意図を直接当てたい考察の虚しさ、本人に意味を直接聞いて何も返ってこないから失望するというのは勝手が過ぎる話だ。

 伝記作家が主人公で、さらに伝記を描く対象も想像上の幼い小説家というメタ展開。これを思いついて、事細かに描き倒す著者の作家としての胆力は並大抵のものではない。読んでいるあいだ、何を読まされているのか、頭がクラクラしたが、読書だからこその味わい深さがあった。

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