2025年4月30日水曜日

死なれちゃったあとで

死なれちゃったあとで/前田隆弘

 積んであったので読んだ。タイトルからして、今読みたかった本だった。JJJ逝去について、安易に言語化できない気持ちがあるのだが、そんな灰色の気持ちを少し和らげてくれる、死への向き合い方を考えさせてくれる稀有な一冊だった。

 編集者・ライターである著者の周りで起こった死にまつわるエッセイ集。もともと文フリで売っていたZINEが商業出版されたもので、最近のZINEブームの先駆けともいえる。死といえば、どうしても「悲しい」「辛い」というイメージばかり浮かびがちだが、実際には喜怒哀楽が存在することに気づかされる。また、死自体にもさまざまな種類が存在し、それに伴って変動する、残された側の感情のあり方について、ここまで具体的に踏み込んで描いているエッセイは読んだことがなかったので興味深かった。特に「父の死、フィーチャリング金」はあまりにもすべてが生々しく綺麗事は一切見当たらない。死とお金は切っても切り離せないことを眼前に叩きつけられたようだった。

 このように死の周りに転がっている現実について、お金、事故、病気とその治療など普段聞くことが少ない数々の事例について知ることができたのは、人生の予習をしているようだった。病気のように近い未来に亡くなる可能性を知っている場合と、自死、事故死のように唐突に死の暴力性が剥き出しになる場合の両方が描かれているので、死を立体的に捉えることができる構成となっている。そんな中でもコロナ禍は特異点といえるが、コロナ禍で亡くなった場合の葬儀がどんなものだったのか、これは歴史に残る重要な記録とも言えるだろう。

 著者の後輩であるD氏は自殺で亡くなっており、彼の死が本著で最もフォーカスされている。数ある死の中でもタイトルの言葉が最も響くのは自死であることは間違いない。自分の意思で急に世の中を去ってしまい、その後に残された側の放り出された感情はいろんな形で存在し、表現される。そこに当然優劣はなく、著者はその感情の置き場について向き合った過程を本著に書き残してくれている。忙しい日常の中で、人の死はどうしても見ないように蓋をしてしまいがちだが、少しでも思い出して、何か具体的に行動することで見える景色を身をもって見せてくれていた。

 友人のラッパーである黒衣の曲「バカとハサミ」にある「ログインしてなきゃ死人扱いか?」というリリックが好きなのだが、それを地でいくエピソードがあり、ネット時代の生死に関する考察が興味深かった。今では死後に家族がログインして代理報告する場面を見かけるが、家族に公開していないアカウントであれば、更新が止まったブログやSNSアカウントの残留思念は、死後そのままインターネットを放流し続ける。それは生きているとも言えるし、死んでいるとも言える。そんな生と死の境界があいまいになる現代だからこそ、葬式が持つ「区切り」としての意味が改めて浮かび上がっていた。

 本著では身近な人の死が数多く取り上げられているが、物理的な距離はあるものの、身近な存在であるアーティストの死との感情の折り合いに困るときがある。とりわけヒップホップというジャンルではアーティストが若くして亡くなるケースがあまりにも多く、そのたびに心が痛む。そのたびに「YOLO(You Only Live Once)」 が毎回頭によぎり、行けるときにライブは行っておいたほうがいいし、やりたいことがあれば、just do it だなと毎回思わされるのであった。

2025年4月26日土曜日

日本語ラップ長電話


 約一年にわたる試行錯誤を経て、日本語ラップに関するZINEをついにリリースすることになりました。
タイトルは 『日本語ラップ長電話』 です。

 日本のヒップホップがここ数年で爆発的に人気を拡大する中で、過去のヒップホップについて、懐古主義の象徴として「日本語ラップ」と形象する場面に遭遇することがあります。ただ、個人的には「日本語ラップ」に込められた言葉の意味として、楽曲内およびアルバム内にラッパーたちがコンテキストを閉じ込めたものを「日本語ラップ」と呼びたい。そういう思いでこのタイトルにしました。

 内容は、私が運営しているポッドキャスト番組「In Our Life」で話した日本のヒップホップに関する内容を再構成したものになります。既出の話ではありますが、活字として再構成することで、新たな魅力に溢れたものとなりました。

 さらに特典として「2025年のKREVAとSEEDA」について話したボーナスエピソードがついてきます。ここでしか聞けない内容なので、いつも聴いてくれている皆さんには是非聞いて欲しいと思います。

 noteでイントロ部分が読めるようになっていますので、試し読みしたい方はこちらからお読みください→『日本語ラップ長電話』Introduction

 メルカリショップで通販販売していますので、遠方の方はそちらでご購入いただけますと幸いです。IN OUR LIFE Web SHOP

 そして、今回は文学フリマ40から販売開始させていただきます。関東近郊の皆様でお時間あれば、是非お越しくださいませ。当日は私とCyderで店番する予定です。


それでは現場でSee Ya!


文学フリマ東京40

2025/05/11(日)12:00〜17:00

東京ビッグサイト(東京都)南1・2ホール

P-53 / IN OUR LIFE

https://c.bunfree.net/c/tokyo40/1F/P/53


2025年4月24日木曜日

この星を離れた種族

この星を離れた種族/パク・ヘウル

 inch magazineという出版レーベルによるポケットシリーズ。第一弾の『生まれつきの時間』もオモシロかったが、今作も同じく短編集としての余韻が素晴らしかった。

 ショートショート「鉄の種族」と表題作の二作で本著は構成されている。どちらも地球に住めなくなる未来の話だ。表題作は、ある惑星をテラフォーミング(地球化)して人間が住めるようにすることを目的として、女性の主人公が派遣される。彼女は、難民として過酷な人生を送りながらも、ゴミ収集車の運転手として働き、自動車整備士の資格を得たことで「テラフォーマー」に選ばれ、単身で惑星の地球化プロジェクトに従事する。孤独と向き合いながら自然と生きている様は、ソローの「森の生活」さながらだ。

 テラフォーミングというと、近未来的で先進的な響きがあるが、本作が描くのはその裏にある破壊の現実だ。新しい生命のために、既存の生態系を殺してしまうことになる。テラフォーミングの過程で、惑星にもともといた生物たちは次々と死に絶えていくわけだが、そこから目をそらさず、淡々と描き出す筆致に物語に対する誠実さが感じられる。一種の「惑星の緩慢な死」とも言えるわけだが、その死のコストを、社会的に弱い立場に置かれた主人公が一手に背負わされているという構図は今の時代にも起こっていることだろう。特にあえて思考停止して業務に従事する姿は読んでいて痛々しく、会社との硬直した関係性など含めて過酷労働小説ともいえるだろう。

 作品の中盤から登場するのが、「山羊頭」と呼ばれる動物である。この不思議な生き物は、仲間が死ぬたびに「葬礼」という儀礼的な行動をとる。気候変動の影響で仲間が大量に死んでいく中、葬礼を行う姿は健気で、人間以上に人間らしい。主人公は家族との通信も断たれ、孤独と虚無の中で次第に「何のために生きているのか」が分からなくなっていく。だが、山羊頭の命を救うことに人生の意味を見出し、惑星を徘徊する浄化車のスイッチを一つずつ手動で切っていく姿は愚直さの体現であり「目の前の現実」にフォーカスする意志の表明でもある。

 作中に登場する「オセロゲーム」という表現は、本著を形容するのにぴったりなフレーズだ。一つの行動が、ある者を救い、ある者を見捨てる。ひっくり返すことで、救われる側と見捨てられる側。このコントラストが物語の構造を象徴している。誰のために、何のために行動するのか。テラフォーミングとそれに伴うバックラッシュのはざまで葛藤する主人公の姿から考えさせられた。

 橋本輝幸氏による「気候変動SF小史」が付録的についているのだが、かなり興味深かった。地球温暖化に端を発するハリケーン、台風、豪雨、山火事などの被害の深刻化は目に見えてひどくなっている中で、少し先の未来を描いていくSFにとって、気候変動はこれから格好の題材になるのだろう。本著はその先頭を切るような一冊だった。

2025年4月23日水曜日

彼女は頭が悪いから

彼女は頭が悪いから/姫野カオルコ

 Kindle Unlimited に入っていたので駆け込みで読んだ。『Black Box』の後に読むと、別のべクトルでの性加害の問題が浮き彫りになっており、暗い気持ちにさせられる一冊だった。本著は性加害を大きなテーマとして取り扱っているのだが、それよりも日本における階級社会をアクセル全開で小説として描いており、社会派作品でありながら、物語としてもオモシロかった。

 本著は、実際に起こった東大生による強制わいせつ事件を基にした小説だ。加害者の東大生たち、被害者の女子大生を中心に展開する群像劇として描いている。登場人物がかなり多く、それぞれのキャラクター設定が丁寧に練られており、言葉を尽くして描かれているため、物語への没入感はかなり高い。当事者である学生たちの高校から大学に至るまでの長さだけではなく、その両親や祖父母にまで取材が及ぶかのような描き込みには驚かされた。これほど深いレベルで人物を掘り下げる小説にはなかなか出会えない。

 そして、その描く角度も独特で、出自や学歴といった「階級」に固有名詞を連発しながら切り込んでいく。それが本著全体に漂う嫌な空気の元凶だろう。自分が普段避けてきた、この手の人々の思考や会話に久しぶりに触れさせられた感覚があり、フィクションとはいえ読んでいてしんどかった。

 「東大という社会的に絶対的な看板のもとでは何をしても許される」という驕りが作品中のそこかしこに登場する。しかし、恐ろしいのは、彼らと読者である自分が完全に別だと言い切れない点である。「東大」がスケープゴートとなっているが、誰しもが権威に寄りかかって、他者に対して無自覚な暴力をふるまってしまう可能性があるわけで、他人の気持ちを幾らかでも想像できることの大切さを痛感させられた。学歴や育ち、仕事に対するジャッジメントの視点に抵抗があるものの、自分にそうした視点がないわけではなく、むしろ狭量であるという自意識がある。そうした自意識もあいまって、自分ごとのように迫ってきたのであった。

 事件に関わった男性の登場人物たちが、女性を一人の人間としてリスペクトしない姿勢を、日常の些細な描写によって浮かび上がらせている点も著者の筆致が光る。一事が万事、女性を対等な関係ではなく「駒」として扱い、常に「女性と一緒にいる自分」にフォーカスしており、身勝手な振る舞いを繰り返す。そして、自分の地位が努力の成果だと信じて疑わない彼らの足元を支えているのは、実は親の高い経済力という現実について皮肉を交えて描いていた。

 作品内で描かれる性加害は、レイプにまでは至らないのだが、陰湿で執拗な暴力が被害者をじわじわと追い詰めていく様子は読んでいて苦しかった。暴力に大小はないことは大前提として、レイプよりも心に深く傷を残すエグさがあった。これだけ胸クソ悪い思いをしたからには、それ相応に罰を受けてほしいという読者の思いは半ば叶い、半ば裏切られる。その分岐点が「東大」であることが象徴的な皮肉であった。

2025年4月21日月曜日

Black Box

Black Box/伊藤詩織

 Kindle Unlimitedにあったので読んだ。ここ数か月、映画をめぐる議論が再燃しているのを見て改めて興味を持ち、読んだわけだが、著者に対する性加害の凄惨さはさることながら、性加害を取り巻く日本社会の現状に衝撃を受けた。

 本著は、著者がTBSワシントン支局長だった山口氏から性的暴行を受けた後、裁判に至るまでの過程を克明に描いたドキュメンタリーである。もはやこの事件を知らない人は少ないだろう。それは被害者である著者が実名を公表し、加害者の逮捕が不当に阻まれた事実を告発したことによる。刑事事件としては不起訴、検察審査会でも不起訴相当となり、最終的に民事裁判で勝訴を勝ち取った。この一連の流れは知っていたが、本著を通して見えてきたのは、そこに至るまでの詳細なプロセスと、著者が抱き続けた思いの数々だった。

 ジャーナリストを志していた著者だからこそできた調査報道のような形で事件に肉薄していく筆致は映画を見ているようだった。性加害の被害者が、自ら事件の真相に迫っていくことは、日本ではほとんど前例がないはずだ。自身の体験を通じて見聞きした日本社会の旧態依然とした制度や意識を描き出すことで、それを痛烈に証明している。取材者と被告者という二重の立場を振り子のようにいったりきたりしながら、言葉を尽くしている様から覚悟がヒシヒシと伝わってきた。特に取材者としての視点は圧巻で、自身の被害を相対的にとらえながら、論点、背景を整理しており、情報を伝達するジャーナリストとしてプロフェッショナルな姿勢を感じた。

 事件の概要を把握していたものの、具体的なディテールは知らなかったわけだが、想像以上に古典的なやり口に驚いた。それは雇用者と被雇用者の権力勾配を利用した手口だったからだ。そこに「デートレイプドラッグ」という新たな手口をかけ合わせており、読んでいて本当に胸クソ悪かった。こうした加害が行われないように、あるいは行われた際に救済されるために法律や制度が存在しているはずだが、そこが機能しない現実が余計に辛い。法律が時代遅れであること、また警察の捜査手法が現代とフィットしてない点は著者が再三指摘しているが、この事件の特異性は、権力の介入で司法や捜査が歪められた可能性が示唆されている点にある。

 著者に対して誹謗中傷を浴びせる人たちは、自分が同じように権力の恣意的な行使の対象になる可能性について想像力を持てないのだろうかと、毎回不思議に思う。また「仕事の口利きしてもらいたくて行ったのだから、しょうがない」といった論調にも違和感がある。本人の同意なく避妊具なしで性交されたとしても、しょうがないことなのだろうか。全くの他人であり、本著を読んだだけにも関わらず、これだけの嫌悪感を抱くのだから著者の心情は察するに余りある。

 また、性加害を受けた際の具体的な対応やアドバイスも記されている点が印象深かった。たとえば、被害を受けたあとは産婦人科ではなく救急へ行くべきこと、日本の法律で加害者を訴える際に必要となる証拠や手続きなど、被害に遭った人が実際に必要とする情報が丁寧に記されている。今のところ自分自身が性加害に遭う可能性は高くないが、娘を育てている立場でもあり、こうした問題は決して他人事ではなくなっている。だからこそ、一刻も早く社会が変わってほしい。

 しかし、本著を含めてこれまで著者が訴えてきたことが、ドキュメンタリー映画製作における作法の不備や、その後の立ち振る舞いによって損なわれてしまいそうな現在の状況にやるせなさを感じる。事件と製作体制を十分に切り分けている論調はあるものの、作品そのものが性加害を主題としている以上、同一視は避けられず、結果として事件が矮小化されてしまう危険もある。現状の懸念点をクリアにし、日本での公開に漕ぎつける以外に、誤解や混乱を乗り越える道はないのではないかと感じる。

 文庫版には武田砂鉄氏による解説の以下ラインが印象深かった。この事件に対して多くの人が取っている姿勢をズバッと書いており、これを読んでハッとした人は読んだ方がいい。

あまりにも理にかなわない言動や判断が繰り返されると、人はなぜか、それを順序立てて振り返る興味を失ってしまう。長期にわたる揉め事を確認すると、これだけ揉めているということは、どっちにも非があるのだろうな、と片付けようとする。どちらが優位か不利かを遠目に眺める。 でも、そういうことではないのだ。バランスではないのだ。起こしたことから逃れようとしている加害者がいて、そうであってはならない、自分のような経験を誰にも味わってもらいたくない、という思いから、その背中を捉えにいった被害者がいる。

2025年4月20日日曜日

死ぬまで生きる日記

死ぬまで生きる日記/土門蘭

 キャッチーなタイトルをいろんなところで見聞きしていて、ずっと気になっていたのだが、ようやく読んだ。どのように希死念慮と折り合いをつけて生きていくか、カウンセリングでストラグルする様がまっすぐ描かれており興味深かった。

 著者は幼い頃から定期的に「死にたい」という衝動に苛まれている中で、オンラインカウンセリングという通常のカウンセリングよりもさらに匿名性の高いサービスを利用して、自分の希死念慮をどう取り扱うかを追ったドキュメンタリーである。タイトルに「日記」とあるが、具体的な日付の記載はなく、著者とカウンセラーとの対話、それを受けた著者の内省が十二章にわたって展開されている。

 本著を読みながら、こないだ読んだ『なぜ人は自分を責めてしまうのか』を思い出した。両者には共通する視座があり、どちらの本にも熊谷晋一郎による「自立とは依存先を増やすこと」という言葉が引用されているのが印象的だった。特に本著において著者が母との関係性に悩む姿は「自責」の感情そのものだ。その様子は『なぜ人は〜』のケーススタディのようにも感じられ、理解を深める助けにもなった。以下のラインはまさに。

あらゆる不満や苦悩を他者のせいにすると。他者が変わってくれることを期待するしかない。 そんなことは私にはできなかった。これまで何度もその期待は裏切られてきたし、その度に傷ついた。期待すること自体が間違っていて、自分が変わるしかないのだと思う方が、よほど建設的だった。

 本著ではカウンセリングの様子が、会話形式で細かく描かれているので、まるで診察の場面に立ち会っているかのような気持ちになる。「どうして死にたいと思うのか?」という哲学的とも言える問いについて言語化していくことで、原因を探っていく過程がスリリングだった。特に地球と火星のアナロジーによる「死にたい」気持ちの細分化は驚きの連続であった。カウンセラーが、著者の提示するアナロジーに乗っかりながら、共に言葉を探っていく過程は、暗闇の中で一筋の光を見出していくような思考の旅だ。そして、その先に待っていたのは生業でもある「書くこと」という結論までの流れは鮮やかだった。こうやって書くと簡単にたどり着いてるように思われるかもしれないが、本著がスペシャルである点は、少しずつ変わっていくプロセスを、すべて開示していることだろう。

 個人的に参考になったのは第七章で議論されている、過去、現在、未来の捉え方だ。ないものを追い求める未来。あるものを捉え直す過去。その両方で成り立つ現在。この三つのバランスの取り方が大事で、未来志向が美徳とされがちな中で、過去への再解釈にも目を向け、現在を丁寧に捉えるという視点は、今をどう生きるかに対するヒントになるように思った。

 終盤、著者にとっては思いも寄らない展開が待ち受けているのだが、著者の切実さが滲み出る、そのドラマティックな描き方は小説のようだった。しかし、その唐突な事態に対して、本著で繰り返されてきたカウンセリングの成果を発揮することで、まさにタイトル通り「死ぬまで生きる」を自らの思考で実現していく過程に多くの読者が勇気づけられるはずだ。なぜなら、著者はカウンセリングを始める前と全く別人であることがわかるから。その変化は、直線的な成長とは異なる。むしろ、少しずつ何かを繰り返しながら「螺旋階段」を登るように、ゆるやかに上昇していく。線型的な成長がもはや現実的でないと痛感する三十代後半の自分にとって「螺旋階段」という例えはかなりしっくりきた。

 歳を取るにつれて死の存在が身近になりつつある今、それでもなお生きていくとはどういうことか、色々と考えさせられる読書体験だった。

2025年4月19日土曜日

LATIN AMERICA DIY CATALOG

LATIN AMERICA DIY CATALOG/筒井伸

 blackbird booksのインスタで知って読んだ。メキシコで行われている地域通貨による脱資本主義の試みが丁寧に解説されていて興味深かった。

 著者がコスタリカに訪問するついでに、メキシコへ寄った際、地域通貨TÚMINの存在を知り、メキシコを横断しながら、ジャーナリストのようにTÚMINがどういう仕組みで運用されているのか迫っていく様子が描かれている。ときに退屈になりがちな経済の話ではあるが、TÚMINの開発者や利用者の具体的なエピソードと、著者による味わい深い絵の数々で退屈することはなく、ページをめくるごとに、DIY経済の手触りが伝わってくるような感覚があった。

 もともとこの本を手に取ったのは、「地域通貨」という言葉に惹かれたからだ。というのも、現在私が住んでいる、さいたま市でも地域通貨の取り組みが行われている。しかし、こちらは大規模な税金を投入して作られた電子通貨でありながら、大手チェーン店でも使えるという仕組みのため、結果的に地域内に還元される構造にはなっていない。トップダウンで進める悪例そのものだ。

 それに対して、TÚMINは地域住民の手によって立ち上げられたボトムアップ型の地域通貨である。その役割は、通貨の代替というよりも、通貨を通じたコミュニティの構築という側面が強い。つまり、TÚMINを持っているということは、ある種の理念に賛同していることの意思表明であり、そこで連帯感を抱くことができる。

 また、TÚMINは通貨ではあるものの、あくまで物々交換のための「道具」として位置付けられており、それによってメキシコ銀行からの追及も逃れている。このあたりはメキシコという国の大らかさを感じる。日本では、ルールや「正しさ」に対して過敏になりがちで、なにかとお上の顔色をうかがう傾向がある。TÚMINのような緩やかながら上手く運用されている様子は新鮮に映った。

 TÚMINの魅力のひとつは、使える人の条件として「プロシューマー(生産消費者)」であることが求められる点にある。ただ受け取るだけでなく、自分自身も何かを提供することによって、地域内で贈与の循環が生まれる。この構造が、TÚMINを通じて形成されるコミュニティに連帯感と持続性をもたらしている。制度の運用においてもガチガチのルールは設けられておらず、あえてフレキシブルにすることで、より多くの人が関われる余地を残しているようだ。そんなTÚMINに対する著者の考察は「地域通貨」という大きなプロジェクトでなくとも、多くの人にとって今必要な思考かもしれない。

新しい経済を作ろう!と言うと難しい話に聞こえがちだが、正しさだけではなく、アイデアや楽しさやユーモア、そしてアマチュアであることを肯定してザクザク色々な人を巻き込んだり、巻き込まれたり、離脱したり、また戻ったり、肩肘はらずにそれぞれが自分の感覚に愚直に動ける空気が伝わってきた。そして、TÚMINの仕組みは、人間が目的に向かって一直線にずっと同じ熱量で動くことはできないという不完全さを最初から許容しているような仕組みだと改めて思った。

 自由貿易の名のもとに進められたグローバル資本主義は、農村部の貧困や搾取を助長してきた。TÚMINは、そうした流れに対する草の根からのカウンターであり、農村が自らの権利と誇りを取り戻すための手段でもある。「安く買えること」が当たり前になった今、その裏にいる生産者の声や生活を見失いがちだ。メキシコの地域通貨が、資本主義、経済の本質に疑問を投げかけ、新たな可能性に気づかさせてくれた。

 遠い国の、遠い町で起きている小さな実践の中に、今この瞬間の私たちにも繋がる大切なヒントが詰まっている。だから、読書はオモシロい。