2024年6月30日日曜日

LIFE HISTORY MIXTAPE 01

LIFE HISTORY MIXTAPE 01/菊池謙太郎

 SNSで見かけて読んだ。『東京の生活史』とラップスタア誕生が接続して、こんな書籍が生まれるなんて誰が想像できただろうか?と驚きながら一気読み。ラッパーたちの人間味あふれる話の数々に心を奪われっぱなしだった。

 著者はテレビディレクターでラップスタア誕生というヒップホップリアリティショーも担当、そして『東京の生活史』でボランティアで聞き手として参加していたそう。ラップスタア誕生ではラッパーたちの地元へ行って、そこで彼らのキャリアを聞いてから曲を披露するフッドステージが用意されている。そのステージでにおいてどういう環境で育ってきたのか紹介されるけども、やはり主役は音楽なので紹介内容はラッパーとしてのキャリアが中心。ゆえに本著で収められているような家庭環境の深い話は知らないことだらけで非常に興味深かった。同じようなアプローチだと都築響一の『ヒップホップの詩人たち』が挙げられるが、あちらは既に名の知れたラッパーたちの話だった。しかし本著はこれからまだまだ売れていくヤングガンズたちの話でありヒップホップで何かを変えたい気持ちが子どもの頃の話を踏まえてひしひしと伝わってきた。ハードな環境においてビートの上で自分の思いをラップとして吐き出すことはセラピーのような効能があることもよくわかる。日本は相対的に貧しくなっているわけだが、逆境においてこそヒップホップが輝き出す、本著はそんな証とも言えるかもしれない。

 ラップスタア誕生に出場していたラッパーたちの番組で取り上げきれなかったディレクターズカットのような内容になっており番組視聴者は倍楽しめる。その要素が一番大きいのはEASTA、Tepa Roucciのチャプターだろう。想像もしていなかった二人の共通点にびっくりしたし、Tepa Roucciは今年フッドステージに進出、そこで紹介されたエピソードは序の口に過ぎないくらいハードな環境で同じく驚いた。この二人に限らず通常のインタビューで拾いきれない事実がてんこ盛り。たとえばアルバムリリース時に行われるインタビューよりも音楽の聞こえ方が変わるようなインパクトの大きい話がたくさん載っている。

 個別に言及するとキリないのだけども、TOFUとHomunculu$ の関係は今年出たアルバムをより楽しめるし、ratiffのバックグラウンドはおおいに納得するものだったし、個人的に一番ブチ上がったのはJoseph Blackwellがまだラップを辞めていないこと!01とのことなので次作のリリースも期待して待ちたい。

2024年6月29日土曜日

たんぱく質

たんぱく質/飴屋法水

 信頼のpalmbooksから新刊が出たら、それはマストバイなので読んだ。なんの前知識もないまま読んだこともあいまってかなり新鮮な読書体験だった。小説なのか、エッセイなのか、詩なのか、散文なのか。そんなジャンル分けはくだらないものとしてなぎ倒すほどのインパクトがあった。

 書籍の構成自体がユニークで最大の特徴は横書きかつ上下開きという点。本の構成としては極めてトリッキーではあるが、現在人類が最も慣れ親しんでいる横書き縦スクロールの活字、つまりスマホの画面と同じ構成なので文字はスルスル入ってくる。さらに志賀理江子という方の写真が合間に登場することでさながらWebサイトのような見た目とも言えるだろう。

 構成の特徴に目を奪われるが小説としてもそれに見合った相当チャレンジングな内容だった。お話は84個のチャプターに分かれており、それぞれがゆるい形で繋がっている。主人公や起承転結がきっちり決まっておらず、たゆたうように文がそこにあるといった印象で読んでいるあいだフワフワした気持ちになった。一方で限りなく著者の実話っぽいところから急にフィクションのような展開へ大きく飛躍する瞬間もあり、そのアップダウンも楽しい。全体として発散しているものの読み終えた後には世界の深淵を見たような気持ちになる。それはタイトルどおり生命の構成要素としてのたんぱく質に注目して、そこを起点に物語をスイングさせているからに他ならない。もんじゃ焼き、タコ、イカ、ゴキブリなどおよそ並列で語られたことがないものが想像しない形でジョイントして物語になる。ミクロとマクロのフォーカスによるスイングもたまらなくてファミレスの床掃除から生命論まで無理なくトランジションしていく感じが心地よいしオモシロかった。最終的には人間の存在論のような話になり大団円。次のpalmbooksの作品は坂口恭平らしいので、そちらも本当に楽しみ!

2024年6月26日水曜日

推し、燃ゆ

推し、燃ゆ/宇佐見りん

 今更ながら読んだ。時代の空気を目一杯吸い込みながら文学という形で昇華されていてめちゃくちゃオモシロかった。推し、炎上は2020年代のキーワードであり、その二つが接続して推しに対してあふれる複雑な感情が爆発、推すという概念の理解の端緒となる一冊だった。

 主人公は女子高生でアイドルグループの男性を推すことに夢中になっていて、彼女の推しライフを学生生活をまじえて描いている。*推しが燃えた。*この一文目で勝負ありだったと読み終えた今では思う。川端康成『雪国』の冒頭とかそれに類するすべてを予感させるような2020年代最強のファーストセンテンスであり、出落ちではなく呼応するように強い念がこめられたようなセンテンスがこれでもかと詰め込まれているのだからたまらない。

 推している=ファンである、くらいの軽い認識しかなかったが、本著を読むとその認識が更新された。従来のアイドルファン、オタクは言うなれば赤い炎のようなもので界隈で形成されたムードを身にまとい振る舞いも似通った派手なイメージ。オタ芸とか最たるもの。しかし推すことは青い炎として静的でありながら、しかしその熱量は赤い炎よりも何倍もアツいし推しに対する愛情の表現も多様になっている。対象と近づきたい、恋仲になれるものならなりたい。そういった考えの人もいるだろうし実際に主人公の友人は整形して推しの存在と近づくケースが描かれている。しかし主人公は一定の距離を取ることにこだわっている。ここに今の推しカルチャーのノリを垣間見た。推すことは一方通行の愛に他ならないのだが、推すことの尊さを喝破するラインがかっこいい。

あたしが何かをすることで関係性が壊れることもない、一定の隔たりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う。何より、推しを推すとき、あたしというすべてを懸けてのめり込むとき、一方的ではあるけれどあたしはいつになく満ち足りている。

 文字どおり推しは燃えて終盤にはある意味で真っ白な灰へと化していく訳だが、主人公が想像以上に大きく引っ張られて暗い展開になることに驚いた。アイドルを推すことをテーマにしてるので、なんとなくコメディもしくは感動方向で引っ張るかと思いきや裏切られることで物語にのめり込んだ。燃えていくのに比例して主人公も閉塞感に苛まれていくし、特に家族からも距離を置かれる描写もあいまって孤独が際立っていた。大人の世界では多様性が喧伝されている中で、皆と同じようにできないことで社会から取りこぼされる若者を真正面から描いており建前社会の歪さが表現されていた。

 その表現力がズバ抜けてかっこいいからこそ芥川賞を受賞しているわけだが、渋谷の街とスマホの画面を浮遊するように行き来する視点の移動は個人的に超新鮮で読んだときに思わず声が出た。分かりやすいものでいえば祖母の突然の死を大袋の中に入った個舗装のチョコに例えるラインも相当鋭い。まさに新世代の作家という感じで今後も楽しみだし別の作品も早々に読みたい。

2024年6月22日土曜日

ヒップホップ・ラップの授業づくり

ヒップホップ・ラップの授業づくり/磯田 三津子

 朝日新聞の以下の記事内で著者がコメントしていたので読んだ。

中学部活動「ヒップホップ禁止令」生徒ら泣いて抗議 専門家も疑問

 ヒップホップが日本でも若者を中心に人気となってきた中で、日本のパブリックな環境との軋轢は上記のようにこれからも散見されるだろう。本著はそのパブリック領域の教育において、ヒップホップを取り入れようとする志の高い現場の先生に向けたガイドブックのような本だ。ストリートカルチャーであり教育のような権力サイドと迎合することに違和感を持つ。それはヒップホップを好きな期間が長ければ長いほどアレルギー反応を感じるかもしれない。ただ本著を読むとヒップホップというカルチャーについて歴史を交えながら客観的に捉えた場合の効用に大きくフォーカスしており興味深かった。音楽としてかっこいいから、というのは大前提として背景にある本質的な要素に惹かれたからこそヒップホップが好きになったことにも気付かされた。

 著者は埼玉大学教育学部の准教授。晋平太を大学のゼミおよび付属小学校へ招聘しヒップホップ、ラップに関する授業を実際に行った結果とアメリカにおける教育導入事例を参考にしながら、実際の授業でのヒップホップ導入方法が記されている。各カリキュラムごとに目的とそれを達成するためのアクションなど、教える側の視点で授業構成を見るのが非常に新鮮。しかもその背景としてヒップホップを採用しているので余計に興味深い。ラップは歌唱方法の一つで、ヒップホップはアフリカ系アメリカンのカルチャーであることをきっちり教えるようにカリキュラムが組まれていることに驚いた。「もうポップカルチャーの一つだから別にその辺の歴史はいいっしょ」という態度を見かけることが増えている中で教育現場ではback to basicな姿勢を崩していない。

 ただその姿勢にも関わらずフィーチャーされるのが晋平太なのか…という気持ちが日本のヒップホップ好き古参勢としては正直否めなかった。彼を起用して授業のプロトタイプを構成しているとはいえ、ラップの授業で使うインストおよび生徒が日本語でのラップが何たるかを知るために聞く曲がすべて「ボコボコのマイク」というのも正直しんどいかなと思う。今の時代だと生徒側から「こっちの方がイケてるよ」とトラック変更のリクエストがありそう。ラッパーとしての彼が特段嫌いな訳ではないけれども、ここ数年のYoutuberムーブが目先の数字目当てに見え過ぎて辛いところがあった。しかし本著を読むと本当にヒップホップが好きでベクトルは違うもののKREVAがよくやってるエデュテイメントがしたかったのだなとようやく理解できた。冒頭で晋平太がゼミで大学生の質問に回答しているのだけど、その真摯な姿勢は今まで知らなかった一面だったしNワードを使ってはならないことを強く主張している点も印象的だった。ラップというよりもヒップホップが好きなんだと知れていい意味で誤解が解けた。

 授業で使う曲についても紹介されており、そのチョイスを見るのも楽しい。KRS ONEの”You must learn”は確かにって感じはするものの意外だったのはLupe Fiascoの”The Show goes on” 今回リリックを改めて読んでそのメッセージのまっすぐさに驚いた。授業で使う曲の場合にexplicit(過激)な表現が多いと使えないのは大前提だが、アメリカではXXXTENTACIONを取り上げて、なぜ彼のリリックに過激な表現が多いのか議論するケースもあるらしい。こういったケースも含めアメリカでの教育現場におけるヒップホップの導入状況について論文を参照しつつ紹介してくれている点が教員ではない自分にとっては本著の醍醐味であった。アメリカではヒップホップがメジャーとなり生徒たちにとって最も身近な音楽かつラップもダンスもすぐに始められるからこそ、学校にコミットしない/できない生徒たちも巻き込めるツールになっていることに時代を感じた。

 自分の意見を主張する、批評的な視点を持つ、これらを会得できる点がヒップホップ、ラップの大きな魅力であると紹介されていて、まさに自分もそこが好きになったポイントだった。こうした捉え方であれば確かに教育の観点で見ても有用であるといえるだろう。アメリカではテスト結果至上主義から脱却するための主なツールとしてヒップホップが活用されているとのこと。日本でもそういった動きが進めばいいなと思いつつ、冒頭のニュース然り生徒の意見よりは全体の大勢を優先させられる社会なので、それこそ若い人がヒップホップで変えていって欲しい。

2024年6月21日金曜日

きょうのできごと

きょうのできごと/柴崎友香

 保坂和志のプレーンソングを読んだ後に著者の作品を読みたくなって読んだ。解説も保坂氏が担当しており、それも納得の青春日常系小説でオモシロかった。大阪で大学生活を過ごし今は関東に住む身からすると懐かしさもあいまって望郷の念も抱いた。

 京都に引っ越した大学生の引っ越しパーティーの一夜をメインにその前後を描いた話。本当にどこにでもありそうな男女のたわいもない会話が続いていく。三人称で群像劇として描くのではなく一人称の複数の視点で構成されているのが特徴的で各登場人物に対するイメージや当人が思ってることを主観で直接知れるので三人称の客観的視点よりも没入しやすくなっている。

 増補新版では本編のつづき、さらにそのつづきとエピソードが追加されている。映画化されたことを踏まえて現実とフィクションの境目を溶かしていくスタイルが読んだことないタイプでかっこよかった。この手の追加エピソードは蛇足になりがち。しかし、カメラに撮られることに対する著者の考えだったり、映画という新たな視点の話が導入され、さらに保坂氏の解説も視点にまつわるものであった。こういった内容が加わることで小説におけるフレーミングとは何たるかを知ることができる最高の良著と言っても過言ではない。日常系と一言でいってもそのスタイルは千差万別であり、その視点の置き方で個性を表現する、そんな小説の奥行きを楽しめる作品だ。個人的にそれを一番感じたのは中山という登場人物が高校時代を回想するシーン。モラトリアム小説において主人公が教室の窓際の席で遠くを見ているというステレオタイプを裏切り、教室中央の座席から友達二人が窓際で外を眺めているのを見ている描写が印象的だった。読めば読むほど発見がある著者の小説はやはり大切に少しずつ読みたい。

2024年6月19日水曜日

令和元年のテロリズム


令和元年のテロリズム/磯部涼

 いつのまにか文庫になっていたので読んだ。『ルポ川崎』のヒットにより音楽ライターというよりルポライターとなった著者の新たな側面を十分に堪能できる作品だった。本著で取り上げられている様々な事件をすぐに忘れていることへの驚き、危機感もあり、こうやって体系化して文字で残すことの意味がよく理解できた。

 タイトルどおり令和元年に起こった不特定多数に対する暴力、特定の思想に基づいた暴力が原因で起こった事件にそれぞれ迫っていく。読み進めながらテロって何のことなんだろうかと頭をもたげるのだが、何をもってテロと呼ぶのか、著者はその点に自覚的である。具体的には以下の通りでテロを定義づける試みも本著の特徴の一つだ。

暴発的/無意識的に起こされた事件をあえてテロとして解釈する試み

 複数の事件を上記の定義でテロという大枠で捉えつつ現在の日本の社会情勢を重ね合わせながら、事件を駆動しているきっかけを探していく点が興味深かった。ここでポイントとなるのは個別の動機ではない点だ。当然それぞれの事件で事情は異なるのだが、重たい事件の場合には個別かつ特殊な事例だとしてマスコミ含め社会全体が処理して忘却の彼方へ葬り去ってしまう。検証しないから同じことが繰り返されてしまうのではないか?という主張は本著で引用されている森達也も繰り返してきた点であり、事件を横並びにすることで現在でもその状況が変わっていないことが証左となっている。

 自己責任論、引きこもり、7040/8050問題が共通点として浮かび上がり、それぞれ密接に関連している。人間は基本的に自分に甘く他人に厳しいことがインターネットで可視化されて久しいが、ガス抜きがうまくいかず暴発する結果としての「テロ」なんだと読んでいると痛々しいほどに伝わってくる。それは著者による各容疑者、被害者への取材量がなせる技だろう。特に新鮮かつエグいなと感じた点は元農林水産省事務次官長男殺害事件の被害者である長男のツイート分析。これまではプライベートで警察による捜査の中でしか入手できなかった当事者の思想や考えが生のままデジタルタトゥーとしてインターネットに漂流している。何となく頭では理解しているものの、実際にツイートをつぶさに解釈している場面を読んで我々は状況証拠を日々せっせとネット上に作っているのかと思うとゾッとした。

 文庫版では安倍首相暗殺事件への取材が追加されており書籍としての魅力はさらに増している。素人が動画を見て作った手製の銃で元首相が殺害されてしまう時代がくるなんて誰が想像しただろうか。そこから私鉄でのジョーカーなりたい系テロリズムへ接続「ショボさ」から発露する悪意の虚しさを語っている。ここでの「ショボさ」は彼らの犯罪がしょうもないの意ではなく卑近であるということだ。つまり私たちの身の回りで起こる その可能性を頭の片隅におくための言葉である。まだまだ続くであろう令和の時代に本著を念頭において凶悪事件を見ると世界は違って見えるかもしれない。

2024年6月17日月曜日

鋼鉄都市

鋼鉄都市/アイザック・アシモフ

 ハードなSFを読みたいなと思って初めてアシモフの小説を読んでみた。SFを積極的に読み始めたのはここ数年でこういったSFは果たして読めるのかと不安に思っていたが全くの杞憂で思った以上にエンタメ性が高くオモシロかった。

 タイトルのとおり人類が要塞のような大きな都市に住むようになり、都市とその外側が明確に区別された世界が舞台となっている。さらに宇宙人の住む街もそこには存在して、ある宇宙人が地球人に殺されたのではないか?という事件が大筋のサスペンス仕立て。主人公は地球側の捜査官であり、宇宙側も捜査に参加したいということで見た目が人そっくりのロボットを送り込んでくる。この二人によるバディ刑事物語なのが本当に意外だった。その捜査を進める中で登場人物たちが生きる世界の状況が紹介されるのだが、そこがSF仕立てとなっている。なのでタイトルや作者のネームバリューからするとど真ん中のSFというムードを感じるが、ミステリー好きの人も楽しめる門戸の広さが特徴的だ。ただミステリーとしての完成度はご都合主義が否めず、最後も日本の警察よろしく自白に頼る部分があるので微妙だった。とはいえタイムリミットを用意したり、前フリとして推理を空振りさせたりと仕掛けは用意されているので読んでいる間の犯人探しは楽しめた。

 本作ではロボットは人間と代替可能かどうか?が通底するテーマとなっている。ロボットに対して嫌悪感を抱く層が本著の書かれた70年代から懐古主義扱いされている点に先見の明を感じた。人間が懐古する気持ちを外側へ開拓する気持ちにベクトルを巧みに変えていこうとする宇宙人側、という裏テーマとしてのアプローチも興味深く「おめえの苦労したい気持ちはフロンティアで活かせや」という残酷さよ…

 未知のものに対する恐怖心はいつの時代も変わらないし、特に自分の存在、アイデンティティを侵犯してくるロボット(今の時代だとAIか)は人間と同じ形だと余計に危機感を煽られるのがよくわかる描写が多い。またアシモフの作品から生まれたロボット三原則を使ったロボットと人間の境目に関する議論がふんだんに用意されており話題のシンギュラリティと重複する部分がかなりある。だから今読んでも十分通用する話ばかりで興味深かった。訴えかけるような切実さを感じる以下のラインにグッとくる。

美とは、芸術とは、愛とは、神とは?われわれは永遠に、未知なるもののふちで足踏みしながら、理解できないものを理解しようとしているのだ。そこがわれわれの人間たる所以なのだ。

 効率を最大限重視した功利主義、そして資源が相当限界を迎えているという設定も予言的に映る。最適化の結果、個人で持てるものがどんどん減らされて食堂や共同浴場が導入された世界はまるで刑務所だ。合理的であることが一番正しい、確かにそれは世の真理ではあるが、それは絶対的な正しさではない。以下のラインはひろゆきとか言いそう。

あなたが好奇心という用語でほんとうにいっている知識の無目的な拡大は非能率にすぎません。私は非能率を避けるように設計されているのです。

 こういった古典のSFは読むの時間がかかるけれど読み終えたあとの達成感、満足感は大きい。しかも、前述のとおりこちらのイメージを裏切ってくることも多いので時間を見つけて積極的に読みたい。

2024年6月12日水曜日

エクソフォニー 母語の外へ出る旅

エクソフォニー 母語の外へ出る旅/ 多和田葉子

 著者は小説家が本業であるが、その背景にある言語感覚について知れるエッセイが好きなので読んだ。今回もドイツ語、日本語を中心にキレキレの解釈をこれでもかと炸裂させていて読むたびに自分の言語感覚が揺さぶられ楽しかった。

 タイトルのエクソフォニーは母語の外に出た状態一般を指す言葉。二部構成となっており、第一部は著者が国外を中心に旅先で遭遇した言葉にまつわる事柄がまとまっており、第二部は第二の母語といってもいいドイツ語に対する考察が書かれている。第一部が特に好きで旅行記かつ言語考察になっているので二度美味しい。日本では国と言語が一致している、つまり日本語は日本でのみ公用語であるが、ドイツ語、英語、フランス語などは他国でも使われており汎用性がある。言われてみれば当たり前なのだが、そこに表現が関わってくることで何語で書くか?それ自身が意味をもつという示唆は興味深い。著者自身、ドイツに住みながら日本語で小説を書いており、当事者性もある具体的な議論が展開されていた。なかでも以下のラインはMOMENTやダーリンはネトウヨでも指摘されていた問題だがユニークな例えでオモシロかった。

日本語で芸術表現している人間に対して、「日本語がとてもお上手ですね」などと言うのは、ゴッホに向かって「ひまわりの描き方がとてもお上手ですね」と言うようなものでとても変なのだが

 日本人が日本語に対して真摯ではないという論点を保守的なパースペクティブではなく言語論として語っている点も興味深かった。ひらがながアルファベットだとすれば、カタカナや漢字は他の言語にない特異性であり、そこに対して批評的ときには愛を持って語ることができるのは日本国外に住む日本語の小説家という彼女の立場を最大限に活かした論点だと感じた。まさしくエクソフォニー。また創作論として誰かの日本語をトレースするのではなく日本語に潜在しながら誰も見たことのない姿を引き出す必要性を主張しており、著者の作品を読む度に驚いているので説得力があった。

言語とアイデンティティをめぐる話では以下の二つのラインがグッと来た。

代では、一人の人間というのは、複数の言語がお互いに変形を強いながら共存している場所であり、その共存と歪みそのものを無くそうとすることには意味がない。むしろ、なまりそのものの結果を追求していくことが文学創造にとって意味を持ちはじめるかもしれない。

確かに正しい日本語や英語を使うべきなのかもしれない。しかし、こと表現においては、超加速度的なグローバル社会の中で言語がマージしていく、そのダイナミックさも大切にしたい。日本のヒップホップに対して「英語が間違っている」「USと韻がちがう」といった新手のヒップホップ警察を散見する中で感じた違和感に対する一種のアンサーになっており溜飲が下がった。

いろいろな人がいるからいろいろな声があるのではなく、一人一人の中にいろいろな声があるのである。だから、祖国という幻想にしがみついても仕方がない。今現在を「ここ」で共に生活する人たちと言葉を交わしながら「移動民」たちの複数言語を作っていくしかない。

こちらは一人一人が複数の声をもっているという視座が新鮮だし、外野のヤジは聞くにはほとんど値せず、当事者同士の直接の対話の必要性がよく理解できた。とついつい引用が多くなってしまうのだが稀代のパンチライナーなのでそれも致し方なし。次はどれか小説を読みたい。

2024年6月8日土曜日

2024/05 IN MY LIFE Mixtape

 5月も新譜を追い続けてたらいつのまにか終わった感じ。とにかく旧譜の接点が少ないな〜ということがプレイリスト作りを始めて気づいたこと。新譜が大量供給されるので、それは自動的に聞くけど、昔の曲を聞くきっかけはラジオかSNSしかなく、そこが機能しなくなると途端に減っていく。世間では特定の曲を愛でるように繰り返し聞く人の方が多いのだろうけど、それだと音楽を楽しく聞けなさそうなので難しい。こんなことで悩んでいるのはごく少数だろう。

 現場でいえば韓国のラッパーBLASÉのライブも楽しかった。新しいEPも素晴らしい出来だった。ライブのレビューは別で書いたので、こちらを読んでみてください。

BLASÉ JAPAN LIVE SHOWCASE

 日本のヒップホップで言えば、ACE COOLとエムラスタさんのアルバムが人生において重要な役目を今後も担うであろう作品でかなり好きだった。両方ともフィジカルでゲットしたい。

 プレイリストは前半ゆっくりメロウで後半にかけてアッパーになる感じ。こうやってプレイリストを組んでおくと何を聞くか悩んだときにとりあえず再生できて、しかも好きな要素が詰まっているから気分も上がるので最高。ジャケットは子どもと行った公園での一コマ。

🍎Apple Music🍎

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🥝Spotify🥝

2024年6月7日金曜日

服は何故音楽を必要とするのか?

服は何故音楽を必要とするのか?/菊地成孔

 定期的に欲する菊地成孔氏の文章ということで読んだ。2004〜2009年のファッションショーでかかっている音楽とファッションに関する考察。読んだことのない切り口で非常に興味深かった。

 ファッション誌で連載していたコラム、パリコレ取材記、ショー音楽家へのインタビューをまとめた作品となっている。コラムの冒頭には挨拶が毎度書かれており、これが粋な夜電波ファンからすると番組冒頭の口上を彷彿とさせるものがあり懐かしい気持ちになった。音楽やファッションのモードといった目に見えないものを言語化するスキルは天下一品だと本著で改めて認識した。ハイブランドのファッションに全く明るくないが氏の独特の表現に魅了される。また取材記は別のベクトルで日常の様子をおもしろく読ませる筆力があってこれまた楽しい。人によってはイキってると思うかもしれないが、このイキりを味わいたくて読んでいるところもある。

 ファッションショーの音楽は極めてDJ的で服、モデルに合わせた空間作りの一つとして大きな役割を果たしている。その音楽に対する並並ならぬ熱量で考察、ブランドごとに全く異なる音楽へのスタンスを逐一言語化しておりファッションショーにおける音楽のあり方を相対的にマッピングしているのがとにかく興味深い。また副題になっているとおりモデルのウォーキングについては音楽のテンポとの一致、不一致が生み出すムードの話。考えたこともない切り口で新鮮だった。特定の空間でかかる音楽という観点では飲食店や美容院のBGMが気になることが多い。たとえば安易にビートルズばっかりかかっていると、その没個性な選曲がすべてに影響しているのでは?と偏見を抱いてしまう。ストリーミングサービスが普及し何でも再生可能となり、プレイリスト文化が発展した現在、特定の空間でかかる音楽は常にスタンスの表明が求められる。ゆえに今こそ本著のような音楽とムードの関係性を深く考えている本は重要な意味を持つと言えるだろう。

 記録としても貴重で特にKanye Westとファッションの関係性をハイブランド側の視点から考察している点が興味深かった。今となってはYEEZYは当たり前の存在だが、その前にはパリコレなどに足繁く通っていた時代がある。ファレル含めそこからヒップホップがファッション業界をテイクオーバーする前日譚としてオモシロかった。まだ読んでない著作はあるので少しずつ楽しみたい。