2024年6月12日水曜日

エクソフォニー 母語の外へ出る旅

エクソフォニー 母語の外へ出る旅/ 多和田葉子

 著者は小説家が本業であるが、その背景にある言語感覚について知れるエッセイが好きなので読んだ。今回もドイツ語、日本語を中心にキレキレの解釈をこれでもかと炸裂させていて読むたびに自分の言語感覚が揺さぶられ楽しかった。

 タイトルのエクソフォニーは母語の外に出た状態一般を指す言葉。二部構成となっており、第一部は著者が国外を中心に旅先で遭遇した言葉にまつわる事柄がまとまっており、第二部は第二の母語といってもいいドイツ語に対する考察が書かれている。第一部が特に好きで旅行記かつ言語考察になっているので二度美味しい。日本では国と言語が一致している、つまり日本語は日本でのみ公用語であるが、ドイツ語、英語、フランス語などは他国でも使われており汎用性がある。言われてみれば当たり前なのだが、そこに表現が関わってくることで何語で書くか?それ自身が意味をもつという示唆は興味深い。著者自身、ドイツに住みながら日本語で小説を書いており、当事者性もある具体的な議論が展開されていた。なかでも以下のラインはMOMENTやダーリンはネトウヨでも指摘されていた問題だがユニークな例えでオモシロかった。

日本語で芸術表現している人間に対して、「日本語がとてもお上手ですね」などと言うのは、ゴッホに向かって「ひまわりの描き方がとてもお上手ですね」と言うようなものでとても変なのだが

 日本人が日本語に対して真摯ではないという論点を保守的なパースペクティブではなく言語論として語っている点も興味深かった。ひらがながアルファベットだとすれば、カタカナや漢字は他の言語にない特異性であり、そこに対して批評的ときには愛を持って語ることができるのは日本国外に住む日本語の小説家という彼女の立場を最大限に活かした論点だと感じた。まさしくエクソフォニー。また創作論として誰かの日本語をトレースするのではなく日本語に潜在しながら誰も見たことのない姿を引き出す必要性を主張しており、著者の作品を読む度に驚いているので説得力があった。

言語とアイデンティティをめぐる話では以下の二つのラインがグッと来た。

代では、一人の人間というのは、複数の言語がお互いに変形を強いながら共存している場所であり、その共存と歪みそのものを無くそうとすることには意味がない。むしろ、なまりそのものの結果を追求していくことが文学創造にとって意味を持ちはじめるかもしれない。

確かに正しい日本語や英語を使うべきなのかもしれない。しかし、こと表現においては、超加速度的なグローバル社会の中で言語がマージしていく、そのダイナミックさも大切にしたい。日本のヒップホップに対して「英語が間違っている」「USと韻がちがう」といった新手のヒップホップ警察を散見する中で感じた違和感に対する一種のアンサーになっており溜飲が下がった。

いろいろな人がいるからいろいろな声があるのではなく、一人一人の中にいろいろな声があるのである。だから、祖国という幻想にしがみついても仕方がない。今現在を「ここ」で共に生活する人たちと言葉を交わしながら「移動民」たちの複数言語を作っていくしかない。

こちらは一人一人が複数の声をもっているという視座が新鮮だし、外野のヤジは聞くにはほとんど値せず、当事者同士の直接の対話の必要性がよく理解できた。とついつい引用が多くなってしまうのだが稀代のパンチライナーなのでそれも致し方なし。次はどれか小説を読みたい。

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