2025年8月1日金曜日

対馬の海に沈む

対馬の海に沈む/窪田新之助

 2024年の開高健ノンフィクション大賞受賞作。ずっと気になっていたが、Kindleでセールになっていたのを機に読んだ。導入からエンディングまで、まるで優れた推理小説を読んでいるかのようで、ページをめくる手が止まらなかった。離島で起きた事件から日本社会の歪みを浮き彫りにしていく著者の手腕は圧巻だった。

 舞台は長崎県・対馬。JA対馬の従業員が不可解な死を遂げる。彼は優秀な営業マンとして知られていたが、その裏には金融商品をめぐる不正があった…そんなイントロダクションから物語は始まる。この時点で面白いことは確定しているかのようで、著者はジャーナリストとして粘り強く取材を重ね、事件の全貌を少しずつ明らかにしていく。その過程が丁寧に描かれており、読者は著者とともに謎を解き明かしていく感覚を味わえる。

 驚かされたのは、「農業」という素朴なイメージとは裏腹に、JAが共済をはじめとした金融商品の販売において従業員に過大なノルマを課していることだ。そのノルマが不正の温床となり、従業員を追い詰める。JAは想像以上に複雑な組織構造で、パッと読んで理解できるような代物ではない。しかし、著者はもともとJAの媒体出身というバックグラウンドを生かし、平易な言葉で懇切丁寧に解きほぐしてくれる。そして、従来型の日本的組織がいかにして歪んだモンスターを生み出してしまったのかを明らかにしていた。

 本著が圧巻なのは、わかりやすい悪党について取材で徹底的にあきらかにしたあと、その過程で読者がうっすらと思っていた疑問について、最後の最後で刺してくところである。旧態依然とした日本社会の縮図のような寓話的エンディングに、狐につままれたような気持ちになった。持ちつ持たれつの互助社会は利害関係が一致しているときだけ機能し、問題が起これば一人に責任を押し付けて「トカゲのしっぽ切り」で終わらせて、全員は知らん顔していることが怖い。しかも、それが都心部で起こるならまだしも、人口がそれほど多くない対馬のような比較的閉鎖空間で起こっていることが恐ろしい。閉鎖空間ゆえに誰も見てないし、気づかないから大丈夫でしょ的なマインドなのだろうか。そんな状況と、初期の段階から不正を告発していた人物の人生がオーバーラップして胸を締めつけられるようだった。

 組織には目に見えないルールや空気があり、それにうまく馴染めるかどうかが、生き残るための重要なスキルになる。本著は、日本人が集団になるとどうしても顔を出す「村社会」の性質が、強烈な形で表れた様子を克明に描いている。読んでいると、自分自身が組織でどう立ち振る舞うべきかを考えずにはいられなかった。

2025年7月31日木曜日

サイコロジカル・ボディ・ブルース解凍

サイコロジカル・ボディ・ブルース解凍/菊地成孔

 著者の本は見かけるたびに読んでおり、その中でもあまり見かけたことのない一冊をゆとぴやぶっくすで発見。積んであったので読んだ。著者の見識の広さはもはや言うまでもないが、そこに格闘技まで含まれていることを知ったのは『あなたの前の彼女だって、むかしはヒョードルだのミルコだの言っていた筈だ』を読んだときだった。なぜ今読んだかといえば『1984年のUWF』『2000年の桜庭和志』を読んで下地が整ったからである。そのおかげで、著者のバイブスをふんだんに味わうことができた。

 副題にあるとおり、著者が神経病を患ったことも影響してか、格闘技から五年ほど離れていた中、著者の格闘技語りに目をつけた編集者が執筆を打診。そして、2004年大晦日のPRIDE観戦をきっかけに「解凍」され、格闘技語りを再開するという背景で書かれた本となっている。前半はインターネット掲示板(!)で著者が書いていた格闘批評、後半はPRIDEを含め実際に会場で観戦したライブレポート&論考という構成だ。

 「成孔節」という文体が明確に存在し、こと批評において、これだけオリジナリティを出せる人が今どれだけいるのだろうかと、いつもどおり打ちのめされた。2000年代前半で、著者が比較的若いこともあいまってノリノリで今読むとオモシロい。(それゆえにキワドイ発言も多いのだが…)特に注釈量が異常で、なおかつその注釈では収まり切らないほどに言いたいことがあるようで、紙面の都合で割愛されている見立てがたくさんあった。また、まえがきのあまりの見事さに「粋な夜電波」の口上をレミニス…復活しないのだろうか。(定期n回目)

 プロレス、格闘技と与太話は相性がよく、なんなら与太話がしたくて見ているところだってあるわけだが、その相性の良さが抜群に発揮されており、他のジャンルを語るときよりも好き勝手に、縦横無尽に語っている印象を持った。その中心となっているのはPRIDE語りである。ピーク期の大晦日でカードの並びがエグい。今では定番となった「大晦日に判定、駄目だよ。KOじゃなきゃ!」が五味から発せられたり、ノゲイラ vs ヒョードルがあったり。特にミルコ、シウバに対する批評的な見方が興味深かった。

 『1984年のUWF』は佐山史観であったが、著者はどちらかといえば前田史観でUWFを捉えている。本著を読んだことで両方の視座を得ることができた点は収穫だった。『1984年〜』では総合格闘技の始祖としての佐山を神聖化していたが、佐山は佐山で彼なりのきな臭さがあることを知った。そして、前田の煮え切らなさを父殺しの神話でアナライズしている様が見事でうなりまくった。さらに終盤にかけてHERO'sで前田が前線復帰。HERO'sのポジションを考察しながら、その崩壊を予想しつつ、それでも前田の孤独を受け入れるというエモい文章は批評の中でも抑えきれない前田への愛に溢れていた。

 上記の前田に関する言論然り、日本ではプロレスが発展していく流れで、総合格闘技が誕生してきたわけだが、その歴史を踏まえているかどうかは総合格闘技に対する見方に違いが出ることに気付かされた。たとえば、RIZINにおける皇治の色物カードはガチの人からすればノイズでしかないだろう。しかし、プロレス的な思考があれば、その戦いから導き出されるストーリーや意味を紐解こうとする。そこにロマンを感じるかどうか。今の社会情勢からすると「正しさ」を希求するあまりに「ガチ」が正義となりがちだが、そこを迂回できる余裕がほしいものだ。

 文庫解説でも触れられているように、一種の文明論にまでリーチしているあたり、著者の慧眼に打ちのめされた。なかでも世界を「途中から見る連続テレビドラマ」であるとする人生論からプロレス論へ展開していく流れは最高だった。

 格闘技はツイッターを中心とした言論空間がシーンの中心なので、こういうまとまった批評を読む機会はほとんどない。(強いていうなら青木のnoteか)だからこそ昔のものだとしても、こういった本を読むことで自分の目や見識を養っていきたい。

2025年7月26日土曜日

THE DIALOG AND SOMETHING OF SCANDINAVIA 北欧記録

THE DIALOG AND SOMETHING OF SCANDINAVIA 北欧記録/10 years later

 先日来、何回か登場しているcommon houseという本屋を経営するお二人は、10 year laterという名義でZINEを作成しており、先日お店に伺った際に購入した。旅行記は臨場感があってオモシロく、何よりお二人の人柄を感じるような文章がZINEならではだと感じた。

 2023年6月に訪れた北欧三カ国(フィンランド、デンマーク、スウェーデン)の旅行について、日記形式で綴られている。旅行記のZINEというと、カラー写真もりもりで、その横に軽くテキストが添えられている、みたいなイメージを持っていた。しかし、本著はむしろその逆で、文字でびっしり埋まっており、たまに写真という構成。活字中毒者としては、最高だった。また、リソグラフ印刷による独特のざらりとしたテクスチャーが、プライベートな旅情と絶妙に噛み合っていて、「自分もリソグラフで何か作ってみたい」と思わされた。

 最大の特徴は二人で書いている点だ。同じ一日でも、それぞれ別の視点で日記を書いており、これが新鮮だった。読み進めるうちに、同じ一日の描写の違いから、それぞれのキャラクターが浮き彫りになっていく様が興味深かった。当たり前だが、同じものを見たり、食べたりしていても、それぞれ感じ入るものは異なるし、ときに重なることだってある。こうした二重の視点によって、二人の旅がより立体的に浮かび上がってくるのだ。

 旅行にいく場合、そこで何を大事にするかの価値観はそれぞれだ。二人はわかりやすい観光地にいくというよりも、その街の生活に身をおいて体験することに重きを置いている。私もどちらかと言えば二人のスタンスに近く、卒業旅行でヨーロッパに訪れた際、その価値観ですれ違い、気まずくなったことを思い出した。

 旅行記ではあるが、単純な記録というよりも、旅行を通じて何を思い、何を考えるか、にウェイトが置かれている点も読み応えがあった。今は本屋を経営されているが、本著を作ったタイミングでは二人で何かを模索している最中だったようだ。巻末にあるポッドキャスト的な二人の会話の文字起こしは、三十代になると抱える「自分は何者で、どうやって生きていくのか」という問いに真摯に向き合っていて興味深かった。

 また、このタイミングで読むとSayakaさんによる以下のラインが刺さった。エコーチャンバーありきの今の社会において、少しでも気を抜いていると自分の世界に凝り固まり、偏った見方をしてしまう。そんなとき、旅行は自分の世界、見識を広げる貴重な行為だなと改めて考えさせられた。こうも暑いと家にばかりいがちだけども、書を捨てよ町へ出よう!(クーラーの効いた自室より)

自分の今いる場所だけが世界ではないこと、自分とは違う色んな人がいること、色んな暮らしがあること、色んな文化や言葉や慣習があること、知らない場所や言葉に心細さや苦労を味わうこと、人それぞれの喜びや悲しみやストーリーがあるということ。人生の中でそれらを知っていくことは、自分という人間を作っていく中でとても大きいことなんだろうと思う。

2025年7月25日金曜日

今日もよく生きた~ニューヨーク流、自分の愛で方~

今日もよく生きた/佐久間裕美子

 先日、common houseで行われている植本一子さんの写真展を見に行った際、著者の佐久間さんがたまたまいらして、その場でサインしていただけるとのことで本著を購入した。「こんにちは未来」での若林氏との丁々発止のやりとりをいつも楽しんでいるのだが、その背景にある佐久間さんの今の考え方がより深く伝わってくる内容で興味深く読んだ。

 副題どおりNY在住の佐久間さんが自分の愛で方=セルフケア、セルフラブについて、あますところなく綴っている。日本では「ご自愛」という言葉が普及し、自分に対するケアを大切にするムードが醸成されつつあるが、欧米ではさらに進んでいて、セラピーにかかることが日常的だ。佐久間さんがセラピーで自己分析した内容に基づいて、セルフケアへとつなげていく過程をみると、セラピーを通じて自分を客体化していくことで楽になる部分があることに気付かされる。自分自身で客体化できているつもりでも、自然とブレーキを踏んでしまっている部分が少なからずあり、言語化を通じて内なる感情を引き出し、クリアにしていくことの有用性を感じた。

 特に印象に残ったのは、NYでサバイブするために「強い存在」として自分を位置づけてきた佐久間さんが、年齢を重ねるにつれて弱い部分も含めて自己開示できるようになっていく過程だ。アクティビストとしての精力的な活動の裏側で、文章だからこそ開示できる深く繊細な部分がある。終盤にかけてはセクシャリティ、子どもを産むこと、父の死といったパーソナルなテーマが次々と語られ、数々のストラグルに対して「今日もよく生きた!」とタイトルそのままの言葉を送りたくなった。

 「How are you?」 カルチャーに関する論考も興味深い。日本では「調子どう?」から会話が始まるケースは少ないわけだが、英会話教室に行くと、毎回のように必ず「How are you?」と聞かれる。そのときに「調子よくないと言うのもアレか…」と思って、なんとなく「I’m good」と毎回答えていた。実際の自分の感情と乖離した表現を口にすることのモヤモヤがあったのだが、このやり取りは相手を慮ったケアの一種だから、素直に表現すればいいのだと思えた。

 また、日本の「バチ」の概念が自責の念を強める遠因となり、呪いのように心に忍び寄るという指摘も鋭い。なんでもかんでも「自己責任」で結論づけてしまう社会的な圧力に抗うためのセルフケアという文脈は、今を生きる多くの人にとって必要なことだろう。

 内容としては自己啓発に近い部分があるが、単なる方法論ではなく、その背景にある状況や考えがセットで書かれているため、ケーススタディとして読むことができる。人生の先輩による指南とでもいうべきか「ここに石があるから気をつけな」と先回りして教えてくれるようだ。たとえば、先日の選挙結果をふまえると、コロナ禍における誤情報による「別れ」が辛かったという話は、これから日本でも現実味を帯びてくるのかもしれない。

 極度の天邪鬼体質なので、自己啓発的なものを敬遠しがちなところがある。それは押し付けがましく、資本主義社会において、とにかく利口に生きていくためのライフハック的な要素が強いからだ。しかし、本著では佐久間さんが色々な情報を見聞きしながら、自分の中で生まれた考え方について、人生をご機嫌に過ごすための「人生の道具箱」として整備しているから参考になった。一次情報を確認して自分ごとにしていく作業は、真偽不明な情報が飛び交う中では今後ますます必要かつ重要な能力になってくるだろう。何かに触れたとき、自分がどう思うか、そしてどんな人生を生きていくのか、主体性を取り戻すためには格好の一冊だ。

2025年7月24日木曜日

1984年のUWF

1984年のUWF/柳澤健

 先日読んだ『2000年の桜庭和志』の前日譚的位置付けとのことで読んだ。私は小学生からプロレスが好きで、父が録画していた新日本プロレスやノアを夢中で見ていた。当時、特に惹かれていたのは派手な技を繰り出すレスラーというより、西村修や鈴木みのる、ヤングライオン時代の柴田、後藤のような選手たちだった。黒いショートタイツに身を包み、ゴッチスタイルのクラシックなレスリングやハードな打撃で魅せる、いわゆる「ストロングスタイル」の象徴的なレスラーたちである。そんなスタイルが好きだったからこそ、やがて「強さ」を追い求める気持ちはプロレスを超え、総合格闘技(MMA)へと移っていき、今ではすっかりプロレスから離れてしまっている。

 なぜこんな自分語りから始めたかといえば、本著はプロレスと格闘技の境目に関して書かれたドキュメンタリーだからだ。その象徴がUWFである。現在、三十代の私にとって、UWFは桃源郷のような存在だった。自分が好むスタイルが大きくフィーチャーされた団体があったなんて…となかば信じられない気持ちだった。ワールドプロレスリングで、UWFが取り上げられるのは過去の東京ドーム大会の新日本 vs UWFインターの対抗戦での武藤敬司 vs 高田延彦。武藤が高田を四の字固めで破ったあの試合だ。今でも覚えているほど象徴的なシーンなのだが、そこに本著のエッセンスがすべてつまっていて驚いた。

 UWFといえば前田日明や高田延彦のイメージが強い。しかし本書は表紙にあるように、初代タイガーマスク=佐山聡にフォーカスしている。総合格闘技の雛形となった修斗の創始者でありながら、表舞台ではあまり語られることのなかった佐山が、いかにして「ガチ」へとシフトしていったのか。その過程が丁寧に描かれている。個人的には前半のプロレスキャリアが特に新鮮だった。初代タイガーマスクの映像は見たことがあったが、佐山が世界トップクラスの人気レスラーだったことは知らなかったし、帰国せず海外でプロレスラーとしてキャリアを積む未来もあったという。そこで登場するのがアントニオ猪木だ。著者の作品を読むたびに思うが、猪木は日本のプロレス・格闘技史の至るところで決定的な判断を下している。このケースでは「本格的な格闘技をやらせてやるから日本に帰ってこい」と佐山を説得したという。もしこの一言がなければ、今のMMAの歴史は違っていたかもしれない。歴史は本当に面白い。

 前回の桜庭本のレビューでも書いたとおり、今やMMAの台頭により、プロレスが結末の決まった一種のショウであることは周知の事実となっているが、UWFの全盛期である1980〜90年代はその点があいまいだった。そして、そのあいまいさに寄りかかるようにUWFは「ガチ」を標榜して既存のプロレスと分岐する道を進んでいく過程が取材と共に描かれていて勉強になった。ガチが進んだ結果、新聞でもスポーツとして取り上げられるほどになったらしい。今では想像もできない世界である。

 UWFは一次、二次、分裂期と各フェーズがあるのだが、そこで起こる人間ドラマが最大の魅力のように思う。「強さ」という同じ目標に向かっていると思いきや、各人の人間臭い思惑が交錯して、組織がどんどん良くない方向に転がっていく様は、客観的に見ていると超絶オモシロい。それは「リアル」をめぐる争いであり、ファンを含めて幻想を膨らませていく様子に既視感があるなと思ったら、ヒップホップの「リアル」論争と重なって見えた。それぞれの信念に基づき、自分なりの「本物」を追い求める。そのロマンこそ、私がプロレスや格闘技、そしてヒップホップに惹かれる理由なのかもしれない

 そして、本著がスペシャルである点は、本著自体がUWFのレスラーおよびファンに対する一種の「プロレス」を仕掛けている構造にある。巻末で触れられているように、本著はレスラーやライター、ファンから多くの批判にを受けた。特に前田日明をはじめとする関係者への取材を行わずに書き上げたことは大きな論争を呼んだ。だが、まさにその挑発的な手法こそが、前田史観一色のUWF史に新しいアングルを持ち込み、UWF語りを再び熱くさせたと言える。これはヒップホップにおけるビーフそのもので、その点でもヒップホップとプロレスの親和性の高さを再認識した。前田日明相手に堂々と「喧嘩を売る」著者の胆力にはリスペクトしかない。事実をもとにどんなアングルを見せるか、それがオリジナリティだとすれば、著者は間違いなく稀代のドキュメンタリー作家であろう。

2025年7月22日火曜日

ほんまのきもち

ほんまのきもち/土井政司

 同じ著者の新刊がリリースされており、その前に積んであった本著を読んだ。DJ PATSAT名義のエッセイ&対談集『PATSATSHIT』がめちゃくちゃオモシロかったのも記憶に新しいが、小説となると打って変わって繊細さが際立っており、著者の何でも書けるマルチプレイヤーっぷりに舌を巻いた。

 本作の主人公は小学生の子ども。その一人称で、小学校や家族との日常が綴られる。描かれているのはごく小さな世界のはずなのに、不思議とダイナミズムに満ちている。これは、自分が子どもと暮らすようになって気づいたことでもあるが、何気ない公園や道端でも、彼、彼女にとっては発見と驚きに満ちている。たとえそれが人形であっても、子どもにとっては「生きている」存在なのだ。大人になる過程で置き去りにしてしまった感覚が、本作ではみずみずしくよみがえってくる。

 クラスで居場所を見つけられない主人公は、自分の立脚点を弟との関係、そして家族とのつながりに見出していく。だが、その大切な弟との間にもズレが生じ、余裕がなくなっていく描写には胸がキュッとなった。自分の中で感情がうまく処理できず、キャパオーバーしてしまう瞬間。そんなとき、誰かがそばにいてくれること。「先生のハグ」が他者による肯定の象徴として描かれており、家族だけではない他者が介在することの必要性を実感させられた。

 子どもの語りで綴られる自然な関西弁の文体も本作の魅力だ。おそらく自身の子どもをトレースしているのだろうが、ここまでなりきって書けることに驚いた。自分自身、大阪出身なので、どうしても子どもの頃の記憶が呼び起こされる。関西出身ではない人が、お笑い的に茶化すニュアンスで関西弁を使う場面には正直苦手意識がある。関西弁が笑いと不可分であることは理解しつつも、その表層的な扱いにどこか浅はかさを感じてしまう。その点、本著は話し言葉で書かれていることもあり、関西の言葉が持つ微妙なニュアンスをすくいとり、方言を駆使した文学として昇華されていてかっこいい。

 だからこそタイトルが「ほんとうのきもち」ではなく「ほんまのきもち」であることに意味がある。つまり「ほんとう」と「ほんま」は「本物であり、偽りや見せかけのでないこと」という意味の上では同じだが、ニュアンスが異なり「ほんま」には主観的な感情や温度がいくらか込められているのだ。皆が追い求める客観的な「正しさ」ではなく当人にとっての「確からしさ」とでも言えばいいのか。自分自身も「ほんとうのきもち」より、「ほんまのきもち」を大事にしたいと思えた小説だった。

2025年7月21日月曜日

それがさびしい


 先日、植本一子さんの写真展で買った会場限定のZINE。ホッチキス留め、A6サイズの手作りのコンパクトなもので、その外見に呼応するように読者に語りかけるような繊細なものだった。

 飼い猫のニーニが病気を患っており、余命幾ばくかという話は別のZINEでも読んで知っていたが、実際にその猫を看取った様子が克明に記録されていた。以前であれば、日記でタイムラインを追うような形式になっていたと思うが、エッセイという形になり、実際の猫の様子と植本さんの考えがシームレスに描かれている。猫の闘病記は『にがにが日記』で初めて読んで、人間さながらの介護が必要なものだと初めて知ったわけだが、ニーニの場合は写真でどういう状況なのか、具体的には片目が摘出されて、顔が腫れているという状況まで知っているので胸にくるものがあった。

 そんなエッセイの中でも、一番心に残ったのは選挙のことだった。今回の結果は正直目も当てられない。前回の衆議院選挙のときに収録したポッドキャストを聞いていると、たった半年前なのに参政党に対して半笑いで楽観視していた。本当に加速度的に何かが始まっている、もしくは壊れているのかもしれない。本著では、自分の心に余裕がなかったり、立場が弱いとき、人はどうしても自分よりも弱いものをはけ口にしてしまうことについて、猫の介護を通じて書かれており、今こそ読まれてほしい。

 肝心の写真展も素晴らしかった。本で読んでいた馬たちの新たなビジュアルをたくさん見ることができて、馬の存在感を堪能することができた。写真展はcommon houseという本屋さんで行われているのだが、経営されているお二人と植本さんが邂逅したのは一緒に出店したZINEFESTで、私もその場に居合わせていた。そして、会場設営はこれまた文フリで仲良くなった予感の高橋さんなので、人の縁を勝手に感じて感慨深かった。

 会期は7月30日までなので、このZINEも含めて一子ウォッチャーの皆様はチェックされるとよろしいかと思います。本屋さんは居心地も、品揃えも二人の個性をたっぷり感じられて最高でした。千歳烏山駅からだと徒歩20分くらいですが、お店の近くにレンタサイクルの駐輪場があるので、駅からレンタサイクルに乗っていくのがおすすめです。



2025年7月20日日曜日

OMSB “KUROOVI’25”


 OMSBのワンマンライブを見てきた。SIMI LABの頃からファンで、ずっと聞いてきたラッパーであるにも関わらず、ワンマンに一度も行ったことないことに気づいて、すぐにチケットを買った。過去に客演で彼がラップする姿を何度か見てきたわけだが、それとは比較しようがない圧倒的なライブのスキル、パワーに圧倒された。高いバイブスで2時間弱スピットしっぱなし、まさにラップの黒帯ホルダーであることを証明していた。

 ライブが始まった、その一声目で「声でか!」と思わず言いたくなるほどにバイブスは満タン。WWWXで何度もライブを見ているが、この日の低音量は本当にハンパじゃなくて、Tシャツがビリビリ震えるほど。最近のインタビューで発言していたヒップホップの定義を有言実行していて信頼できる、まさに「最後のB-BOY」だと実感した。その爆音に一切負けることがないOMSBのボーカリゼーションが素晴らしかった。ストリーミングの影響で同じ曲を繰り返し聞くことが少なくなった今、細かいリリックまで覚えていないことが多いわけだが、鳴り響く重低音の中でリリックがしっかりと聞き取れることに驚いた。その観点で一番印象的だったのは「喜哀」ライブで聞くと、全く異なる感触だった。特に以下のラインが突然グサっときて思わずウルッとした。

みんな大好き お弁当かトレンド 
無能がゴネる コイツ数字取れんの?
地味、派手、古い新しいじゃねえんだよ
お前の知らなかったグレーゾーンを開けんの

 今では、ボーカル入りの曲でラップするラッパーの方がシーンにおいて多数派となる中、OMSBはストイックにガイドなしのインストオンリーで叩きつけるようにラップしていた。歯切れよくラップしているときに「スピット」と表現するが、今日の彼のパフォーマンスを見ると、安易に他のラッパーのラップに対して「スピット」と使えなくなる。それほど「スピット」という言葉でしか表現できない、これぞラップとしてのショウを繰り広げていた。

 そんなことを考えている合間に、この日のハイライトの一つである「黒帯」が始まった。ライブのタイトルにもなっているこの曲にOMSBのライブの醍醐味がすべて詰まっていると言っても過言ではない。例えば、ストリーミングで今この曲を聴いても、その輪郭しか掴めないだろう。リリースから十年が経ち、楽曲が異形の形に進化しており、現場で見なければ、この曲の持つパワーは感じ取ることができない類のものだ。三年連続でワンマンを続ける中で洗練されてきたことが察せられる。柔道の黒帯よろしくにビートとラップが組んず解れつしまくる様は、「ヒップホップ」としか呼びようのない瞬間の連続だった。この日、バックDJを務めた盟友Hi'Specとのコンビネーションも抜群で、音の抜き差しだけではなく、まるでスキャットのようなOMSBの声にならないようなアドリブに呼応するターンテーブリズムが圧巻。全ヒップホップファンが見届けるべきと言い切れる曲だ。

 最近の客演曲を聞くことができたこともワンマンならでは。具体的には、Kzyboostとの「O/G」、Young Yujiroとの「No way(REMIX)」この二曲はOMSBのヒップホップに対する高い理解度ゆえに、相手の良さを最大限に引き出す受け身の上手さが発揮されており、それを生で聞ける機会は貴重だった。客演ではないが、「Memento Mori Again」をNORIKIYOの「Do My Thing」のビートに乗せて披露した場面も最高だった。「いいか Young gun」というライン繋ぎで、同じローカルをレペゼンするOGに向けたリスペクトの表現として、これほど粋な出所祝いはない。また二人で曲を作ってほしいと思わずにはいられなかった。

ビートジャックは「Blood」や「Lastbboyomsb」 でも行われており、これらもライブだからこそ聞ける醍醐味。ビートジャックしながら「ヒップホップの話をしようぜ!」で大合唱できる空間なんて、ヒップホップがこれだけ流行っている今でも、OMSBのライブしかないだろう。「Blood」は2Pacの「Do for love」だとわかったのですが、「Lastbboyomsb」のビートがわからずモヤっているので、識者の方はご教示ください。

 一度暗転する場面があり、そこからJJJ追悼パートへ。「ActNBaby」、「Bro」、「心」といったJJJとの共演曲を彼のバースも含めて披露していた。特に「心」はJJJのガヤの音質が良いためか、ステージ袖で声出しているのかと思うほど、むき出しの生の声が会場に鳴り響いており、JJJがいないことの寂しさが浮き彫りになっていた。(「心」はライブ音源をスペシャ、STUTSにお願いして用意してもらったようですね…納得!)アンコールでも、JJJ逝去がOMSBにとって、いかに大きな出来事だったか話していたし、ライブの最後の曲はJJJに向けた書き下ろし曲であったことからも彼に対する強い想いが伝わってきた。

 OMSBの魅力として、ラウドな面とセンシティブな面の相反する魅力が同居している点が挙げられるだろう。それはヒップホップが一人称の音楽であり、人間性そのものが滲み出る音楽だからこそ表現できるものだ。ラウドなヒップホップを爆音で聞いて自分をエンパワーしたいときもあるし、死をモチーフにしたような内省的で繊細なリリックから自問自答することもある。この両方をシームレスに行き来できるラッパーはシーンにもそう多くない中で、OMSBとJJJは上記の点で同じベクトルにいたラッパーと言える。ゆえにJJJの不在がOMSBに与えた影響は察するに余りある。そんな中で、最後に「RIPじゃねーんだ、忘れんな。曲聞け」と言っていたことに溜飲を下げた。最近Twitterをまた見るようになって「JJJが亡くなったことをアテンション稼ぎに使ってない?」と感じる瞬間が時折ある。当然、死との距離感は人によって異なり、同じように辛い思いを抱えた人が連帯できるのは理解できるのだが、そこに承認欲求が見え隠れすると薄ら寒い気持ちになる。これは完全に私見であり、OMSB本人がどこまでを意図していたかはわからないが、一つ確かなことは私たちはJJJというラッパーを忘れてはならないということだ。

 自分にとってこの日のハイライトは「Scream」だった。この曲は対人関係で辛いときに何度も聞いた曲で、個人的にOMSBのキャリアで一番好きな曲だ。2ndアルバムに収録されている中で特別目立つ曲ではないのだが、人の多面性を歌った曲でここまでの完成度を持った曲に未だ出会ったことがない。まさか生で聞けるだなんて感無量だった。

 そして、近年リリースされたOMSBの楽曲の中で最も好きな「大衆」という曲を遂に聞くことができた。メロウなトーンで、BPMも比較的スロウで、パーソナルかつ機微のあるリリックにも関わらず、なぜこれだけ気持ちが昂ぶり、盛り上がるのか?と思うほど会場に一体感が生まれていた。それはやはりOMSBが表現している景色に多くの観客が投影できる普遍性があるからなのだろう。このバースは子どもがいる今、一層沁みる。

見ないフリしていた普通や常識の定義
それでも誰にも変え難い愛しのLadyからなんと愛しのBabyが産声をあげた
さあお前も今日から大衆だ

さらにビーフが話題の今はこのラインだろう。

誰かが誰かをディスほらねこういうとこ
よそ見ばかりしてるから見失う

 こうやって時代や環境の変化、聞くタイミングで、リリックの感じ方が変わっていくこともヒップホップの面白さの一つだなと感じた。ヒップホップが好きであれば、どうしても件のビーフに気を取られてしまうわけだが、そこで何かを見失っていることに改めて気付かされた。

 アンコールは唯一無二なラップアンセム「Think good」からスタート。客演なしでほとんど休憩することなく、あれだけラップしてきたのに、まだその出力なのかとラップフィジカルにただただ脱帽。そこからEテレの番組の主題歌である「Toi」これもOMSBだからこそ書けるリリックで、実際に番組を見ると、この曲に込めたOMSBの思いが感じ取れるので番組もおすすめだ。

 ヒップホップのライブをたくさん見てきたが、この日のOMSBは日本で一、二を争うレベルのクオリティだった。OMSBというラッパーが、こんなにもかっこよく、信頼できる存在として日本にいる。その事実を改めて声を大にして言いたくなる夜だった。

2025年7月18日金曜日

生きる力が湧いてくる

生きる力が湧いてくる/野口理恵

 おすすめしていただいたので読んだ。前情報を全く入れないまま読んだ結果、一人の女性の壮大な人生に巻き込まれていくような読書体験で驚いた。「世の中には色んな人がいる」と口で言うのは簡単だが、壮絶な環境において、それでも人生を続けていく覚悟が本著にはたっぷり詰まっていた。

 著者は編集者を生業としているようで、文芸誌も自身で発行するようなバイタリティのある肩書きとは裏腹に、母を自死で亡くし、その後に父が病で他界、さらに兄を自死で亡くすという壮絶すぎる半生を過ごしたらしく、自分の過去から現在まで、あまりにも赤裸々なエッセイ、私小説の数々に読む手は止まらなかった。

 フィクションではよく描かれる「天涯孤独な人」が、実際に存在し、ただ悲しみに沈むのではなく、「生きる」ことに向き合っている様子が生活の機微を含め、丁寧に描かれている。冒頭、実家のガーデニングにまつわるほっこりしたエッセイから始まり、装丁やタイトルからして、日常系のエッセイ集なのかと思いきや、いきなり母親の自死の話が始まり、そのギャップにも驚かされた。

 これまでの人生で辛いことがたくさんあったことは経歴からして容易に想像つくわけだが、そんな御涙頂戴な展開の話は入っていない。むしろ、その逆境をどうやってタイトルどおり「生きる」ためのエネルギー源としていくか、肉親が不在の中でとにかく自己を肯定し、自分をブチ上げていく。無条件で愛してくれる存在がいないから、自分のことを愛する。まさにご自愛。そんなエピソードがたくさん入っているので、セルフケアの文脈に位置付けることが可能で、文字どおり「生きる力が湧いてくる」人もいるだろう。

 ただ一つ、個人的にしんどく感じたのは、兄の自死をモチーフに、兄の視点から語られる小説があったことだ。他人の家族の話であり、どう書くかは著者の自由だ。ただ、自死に至るまで、相当な葛藤があっただろうと想像がつく中で、あまりにも自死を単純化しすぎている気がした。それは繰り返し述べられるように著者にとって「死」があまりにも日常的に存在することも影響しているのかもしれない。しかし、だとすれば、より自死に対して慎重な取り扱いが必要なように思う。

 とはいえ、家族偏重主義に対するカウンターとしてはこれ以上機能するエッセイはないだろう。家族を大切にすること自体は否定されるべきではないが、他人に対して「家族を大切にする」価値観を一種のテンプレートとして押し付けることに違和感がある。先日見たバチェラー・ジャパンの最新シーズンで、やたらと「家族が〜」と連呼されていて、それが無条件に受け入れるべき価値観として提示されていることにモヤモヤしていたので、本著における家族観には溜飲が下がった。

 歳を重ねれば重ねるほど、死との距離は自然と縮まっていく。しかし、死は順番どおりには訪れない。それは突然で、理不尽なものだ。そんな死と、私たちはどう向き合えばいいのか。壮絶な人生を生き抜いてきた人が書いた言葉だからこそ、本著はそのヒントをくれる一冊だった。

2025年7月17日木曜日

初子さん

初子さん/赤染晶子

 エッセイ集『じゃむパンの日』がオモシロかったので読んだ。本業である小説のフィールドでも、その唯一無二の感性は健在というより、さらに強烈に発揮されていた。この二冊からして書き手としての才能は明らかで、もう亡くなってしまっていることが悲しくなる。palmbooksが復刊を手がけるのも読めばわかる小説だった。

 タイトル作を含め中篇が二つ、短編が一つで構成されている。いずれも三人称で描かれている女性が主人公の物語だが、それぞれの時代も立場もまるで違っていて、三つの異なる世界が広がっている。共通しているのは、どの物語でも「女性が働くこと」にフォーカスさかれている点だ。主人公が労働を通じて感じる違和感や停滞感について、豊富なメタファーを駆使して描いている点が本著の魅力と言えるだろう。

 普段読む小説の中で、これだけメタファーが多用する作家はいないので新鮮だった。このメタファーの鮮やかさはラップのリリックに近いものがある。例えば、「初子さん」では、縫い目(主人公の仕事)→日々→呼吸(母の寝息)という繰り返しの動作を重ねていく様が鮮やかだった。「まっ茶小路旅行店」では、停滞した職場の空気を砂漠に例え、そこに生えているサボテンを自分自身、さらに自分に不似合いなカンザシをサボテンの花に例えるイメージの連鎖もうっとりする。

 停滞している空気、なんの変化もない日常の繰り返しが耐え難く、労働を中心とした生活の中に意味をなんとか見出して、艱難辛苦を乗り越えていこうとする姿は胸にグッとくるものがあった。生きるために働くのか、働くために生きているのか、わからなくなることがたまにあるが、この小説の主人公たちのストラグルを見ていると、後者でありたいなと思う。

 本著のなかでも異質なのが「うつつ・うつら」だ。お笑い、芸事を題材にした歪な小説で、この歪さをどう受け止めていいのか正直戸惑った。売れない女性のピン芸人が舞台に立ち続けるものの、階下にある映画の音がダダ漏れで、自分のネタが映画の音にかき消されていくという、なんともシュールな状況から始まる。そこへ漫才コンビ、九官鳥、赤ちゃんなど、どんどん要素が上乗せされながら「言葉と実存性」みたいな話に変容していく。具体的には、言葉を剥ぎ取られることの恐怖を通じて、己がなんのために存在しているのか、問われるのだ。自分の言葉が剥ぎ取られる感覚は生成AI全盛の現在、誰しもが経験したはずであり、今読むと考えさせられる。ユニークでカオティックな世界観の中でも、そこにある普遍性は、時代を越えて響いてくる作品だった。

2025年7月14日月曜日

今の自分が最強ラッキー説

今の自分が最強ラッキー説/前田隆弘

 文学フリマで買いそびれていたが、立ち寄ったSPBSでゲット。先日読んだ『死なれちゃったあとで』がオモシロかったので読んだわけだけど、やっぱりオモシロかった。この簡素なジャケット、タイトルから、見た目ではなく中身で勝負するんだという気概を感じた。

 「生きている今の自分が最強ラッキーで、アンラッキーだった場合はもう死んでる」という論理が本著のタイトルの由来らしく、その観点で見た過去の出来事に関するエッセイ集となっている。前作も読んでいて感じたが、過去の出来事に対する解像度がとても高くて、まるでこないだあったことかのように、数十年前のことをイキイキして語られている。まるで落語を聞いているようだ。

 本を読んでいて声を出して笑うことはそんなにないが、本著は笑いどころがたくさんあった。実際にオモシロいかどうかと、文字にしてオモシロいかどうか別物であり、著者はその極意を心得ているように映る。実際、このようなことが書かれていた。

会話では「その場限りの揮発性の高い盛り上がり」というのがある。会話を円滑に進める、雰囲気を良くするという意味では大事なのだけれど、しかし言葉そのものに力はない。文字にしてしまうと、取るに足りなさがあらわになってしまう。

擬音、改行、「ですます調」と「である調」のスイッチなど、文体の工夫によって、これだけ文章に躍動感が出るのか!とブログをたらたら書いている身としては勉強になった。

 東京ポッド許可局のコーナーの「忘れ得ぬ人々」というコーナーを想起させるようなエッセイがたくさん載っている。コーナーの紹介文を引用する。

ふとしたとき、どうしているのかな?と気になってしまう。自分の中に爪跡を残している。でも、連絡をとったり会おうとは思わない。そんな、あなたの「忘れ得ぬ人」を送ってもらっています

この観点で見ると、バイト先、職場におけるエピソードが特に好きだった。いずれも仕事場限りの関係性にも関わらず、関係の密度は高い。自分の人生に大きな影響を与えているにも関わらず、仕事場から離れると関係性が終わってしまう。人生は出会いと別れで構成されているのだなとしみじみした。

 人生が無数の選択の積み重ねで構成されていることは考えれば当たり前なのだが、本著を読むと自分の人生の分岐点を今一度考えさせられる。過去の出来事を思い起こす場合、だいたい辛かったことや恥ずかしかったことである。本著の考え方に沿えば、それすらも何か自分の人生の糧になっている。だから今の自分が「最強ラッキー」という考え方は、下手な自己啓発的思想よりもよっぽど自分の人生において役立つに違いない。

2025年7月12日土曜日

SF LIVE IN TOKYO



 Zion.Tが主宰のレーベルSTANDARD FRIENDS(以下SF)のライブが開催されたので行ってきた。レーベルメンバーのうち、今回ライブを行ったのはWonstein、sokodomo、GIRIBOY、Zion.Tである。自分にとって、このメンバーは韓国ヒップホップが好きになったきっかけであるSMTM9ゆかりのメンバーなので、個人的にはかなり感慨深いものがあった。あれから5年経つが、まだ韓国ヒップホップを聞き続けており、その原点となる存在のラッパーたちのライブを見ることができて本当に嬉しかった。会場は渋谷にあるWOMBで正直この規模で見れることに驚いた。前回のPaloaltoのライブもありえない距離感だったけど、このメンツでこの会場で見れる機会は今後なかなかないかもしれない。

 一番手はWonsteinで、いきなり「Freak」で登場して歓喜…!この曲はSMTM9のZion.T&GIRIBOYチームの楽曲であり、自分が一番最初に韓国ヒップホップの想定外のスタイルとレベルに驚いた曲だ。

Wonsteinのラップを生で聞けただけで満足というレベル。おなじくSMTM9の楽曲で「Infrared Camera」も披露していた。彼はシンギングラップというより、完全に歌に振ったときに魅力が炸裂していて、アカペラの歌声が素晴らしかった。まだフルアルバムがリリースされていないので、SFのトーンでどんなアルバムが出るのか今から楽しみだ。

 次はsokodomo。ちょうどアルバムリリースタイミングでのライブであり、この日のMVPだった。そもそも今回出たアルバムが本当にかっこいい。騙されたと思って一曲目だけでも聞いてほしい。キラーチューンがこれでもかと詰め込まれており、最近一番聞いている。

韓国のラッパーはインストオンリーでラップするストロングスタイルが多いが、sokodomoはボーカル入りのトラック、というか音源そのものを流して、その上で歌い、ラップするスタイルだった。まだリリースされたばかりというのも影響しているかもしれない。しかし、その分のエネルギーをステージ上で爆発させていて、とにかく盛り上がりがハンパじゃなかった。 彼はSMTM10で、Zion.T&slomのチームに参加して大きくキャリアが変わったラッパーだ。もともとイロモノキャラだったところから、音楽にフォーカスしたことで才能が爆発した。MCではその片鱗を見せていて、それがまたチャーミングで魅力的だった。あと今回の全アーティストのバックDJを務めていたのが、sokodomoの新作でも客演しているValoというアーティスト。公演終了後にインスタみると、SFのアーティストの作品にコンポーザーで参加しつつ、ソロでも活動しているようで、彼の存在を知れたことは大きな収穫であった。

 三番目はGIRIBOY。日本で何度か単独公演を開催しているのを見逃していて、今回やっと見ることができた。ビートも自分で作り、ラップも歌もこなすマルチタレントであり、その魅力をふんだんに味わえる大人なステージングだった。比較的ポップな曲が多い中でたまに見せるラップのデリバリーの安定感とKREVAがよく言うビートの後ろのポケットにどれだけ乗れるかというところで圧巻のスキルを魅せていた。

 そして、最後はZion.T御大。彼のステージが日本で、しかもこの規模で見れるのかという驚きがあり、このために今日来たといっても過言ではない。それだけ期待していたわけだが、自分の考える「ライブの良さ」について改めて考えさせられるステージだった。その最大の要因は彼のボーカリゼーションにある。WOMBはクラブなので、インストの音量が相当大きい中で彼は声を張り上げることなく自分のボリュームを貫いていた。その姿勢に、彼のカリスマ性を感じた。つまり、観客のライブに対する能動性が引き立てられるのだ。ライブにおいて声がデカいことが正義、正解とされがちな中で、このスタイルを貫き通すことができるから「Zion.TはZion.T」なのだと感じた。 過去曲もふんだんにやってくれて、特に「No Make Up」「Complex」といった定番はもちろん、Primary名義の「Question Mark」を聞けて死ぬかと思った…!そして最新アルバムからは「Stranger」「V」など。特に「V」はMV含め渋谷系オマージュの曲であり、それを渋谷で聞けたことも趣深かった。

 すべてのステージが終わり四人が登場、曲名を失念したのだけど1曲披露したのちに、 sokodomo「MERRY‑GO‑ROUND」のイントロがかかって会場は大盛り上がり。客演参加のWonstein、Zion.Tも揃った完パケで聞ける機会はそうそうないので、かなり嬉しかった。ちょっとポップすぎて、そこまで好きな曲ではなかったのだけど、圧倒的な祝祭感、アンセム感があって皆で歌いながら聞くのは最高な体験だった。

 

これで大団円かと思っていたが、会場からアンコールが発生、SFサイドは想定しなかったようで、急遽sokodomoが「LIE LIE」をおかわりで披露。客演参加のGIRIBOYがいたので歌うかと思いきや、なぜかZion.Tが歌っていた。個人的には「Credit」エンディングで良かったのでは?と思った。

 とにかく日本に来てくれたことに感謝しかないし、充実した時間を過ごすことができた。SFのスタイルの音楽は日本でも絶対人気が出ると思うので、もっと認知が上がって次はさらに大きなステージで皆のライブがみたい。先日チケットが全然取れなかったSUMIN,slomとまとめてお願いします。あと毎回韓国のラッパーのライブ行くたびにMCの内容がわからないのが辛いので、いい加減、韓国語を学んでいきたい。

2025年7月10日木曜日

対談録 太田の部屋(1)書く人の秘密 つながる本の作り方

対談録 太田の部屋(1)書く人の秘密 つながる本の作り方/太田靖久・植本一子

 私のZINEメンターである植本さんが、ZINE作りについて語っている対談本。私が個人でZINEを作り、右も左もわからない中で、文学フリマへ誘っていただき、売る姿を背中で見せていただいたわけだが、本著ではZINE作りのマインドセットさらには具体的なことまで、植本さんの製作におけるノウハウが明かされていて勉強になった。

 本著には、2023年と2025年に行われた二回分のZINEづくりに関する対談が収録されている。植本さんはこれまでの著作において、自分の気持ちについて言葉を尽くしてきた人であるが、この本では製作の背景にある考え方などが対談形式ながら体系的にまとまっている。そもそもなぜ写真家だったところから文章を書くようになったのか、書く際に大事にしていること、本の受け止められ方についてなど、率直に語られていた。

 対談内の質問にあったように、植本さんの本を読むと「ほんとうのこと」が書かれているという印象を抱く。それは植本さんが書くことについて真摯に向き合っている結果であり、同時に「自分を知ってほしい」という動機が、打算ではなく純粋な欲求から出ているからこそ、読んでいる人の心を掴むことができるのだと改めて気づかされた。

 ZINEを自分で作ることの難しさを実感している今だからこそ、各プロセスを細分化、解説してくれている点がありがたい。自分で作ってみてわかったことだが、すべてを自分で担うことは本当に大変なことだ。ZINEの製作、販売にあたっての各プロセスで考えることは山ほどある中で、実際に結果を出してきた植本さんのノウハウが惜しみなく開示されており、ZINEブームの今、参考になる人はたくさんいるはずである。私自身も、在庫バランスや宣伝の難しさを痛感している真っ最中で、やればやるほど植本さんへのリスペクトが増すばかり。その理由は本著を読めばわかる。

 そして、これだけ植本さんから、たくさんのノウハウやの考えを引き出している対談相手の太田さんの質問力も特筆すべきことだろう。植本さんの著作を踏まえながら、表面的なところから深いところまで縦横無尽に確認するように聞いている様は、ポッドキャストを運営する身として勉強になった。そして、太田さんが販売イベントで意識していることが、とても参考になった。具体的には「買います」とお客さんが言ってくれた後に、どう着地させてお客さんの購入時の「寂しさ」を引き取るか。ここで「寂しさ」というワードチョイスがまさに小説家!と思ったし、私はとても苦手なので、意識していきたいところ。現在、三作目を鋭意製作中なので、本著を参考にしつつ引き続き頑張りたい。

2025年7月8日火曜日

LIFE HISTORY MIXTAPE 02

LIFE HISTORY MIXTAPE 02/菊池謙太郎

 一冊目も圧倒的にオモシロかったLIFE HISTORY MIXTAPEの第二弾。『日本語ラップ長電話』を文学フリマで販売していたときに、著者の方が帰り際にわざわざ声をかけてくださり、ありがたいことにZINEを交換させていただいた。今回もいわゆる媒体のインタビューでは拾いきれないラッパーの語りがふんだんに収録されていて興味深かった。

 著者の方が「ラップスタア」というヒップホップリアリティショーのディレクターということもあり、そのコネクションをおおいに生かした人選のラッパーインタビュー集となっている。したがって、同番組の副読本といっても過言ではない。

 「ラップスタア」はリアリティーショーであり、そのラッパーがどういった出自なのか重要視される傾向がある。「ヒップホップは音楽のコンペティションである」という主張は理屈としてはわかるものの、一方で「どの口が何言うかが肝心」であり、一人称の音楽である以上は、その出自と楽曲は不可分であることは事実だ。それゆえ、どういった境遇だったか知ることで楽曲自体の厚みが増すケースは往々にしてあり、本著はその役目を担っている。

 すべてのインタビューが2023〜2024年に行われており、番組を通じて注目されたラッパーたちの「その後」に触れることができる点もオモシロい。皆が自分の人生と向き合いながら、それぞれのスタイルでラップと向き合っている様子が伺い知ることできて興味深い。各人の今の状況を見ると、リアリティショーで結果が出ても、それを生かすも殺すも当人次第だと改めて感じた。

 特筆すべきは、前作同様、「貧困からのサクセスストーリー」といった型通りのナラティブに収まりきらない人生が、丹念に掘り起こされている点だ。インタビューの文字起こしも、ラッパーたちの話し言葉のニュアンスを極力残そうとする姿勢が伝わってきた。AIによる自動文字起こしが一般化しつつある今だからこそ、こういった生の言葉が持つラフな輪郭と強度は、より一層意味を帯びてくるだろう。

 登場するラッパーたちは若い子が多いので、必然的に子どもの頃の話が多く、それらがトリガーになって自分の子どもの頃を思い出した。特にKVGGLVのインタビューで語られる「不良への生半可な憧れを持つことの危うさ」という話は、ガラの悪い場所で育った自分としても身につまされるものがあった。また、娘を持つ父親という立場では、彼女がどういった人生を生きるのだろうかと考えさせられた。

 ラッパーである彼ら、彼女らがヒップホップにどれだけ人生を救われたのか、直接的な言及がなくても伝わってくる点が素晴らしい。音楽を使って自己表現できることの豊かさとでも言えばいいのか。前作でも感じたが、境遇を問わずラップを書くことが一種のセラピーとしての機能を果たしているようだ。

 個別の話をすればキリがないものの、個人的に冒頭のKen Francisのこのラインはかなりくらった。

自分のために自信を持とうとは思わなかったんですけど、俺がそのせいでグレてんのを見てる親とか友達とかが悲しそうだったんで。自信持ってると周り喜ぶし、みたいな。みんなのバイブス上がるから自信持てるようにしてみたら楽しくなってきましたね。高校生ぐらいから。

最も鮮烈な印象を残すラッパーはTOKYO Galだろう。ヒップホップを聞いていると、リリックやインタビューで不幸な生い立ちを知ることがあるが、本著で話されていることは数段ギアが違っており、番組で放送されていたのは氷山の一角だった。次のNowLedgeのインタビューと流れで読むと、社会の実相を反映しているとも言える。インタビュー自体は収録した時系列で並んでいるようだが、ミックステープゆえの「順番のマジック」が起こっていた。

 最近はアングラの若手のラッパーの曲をたくさん聞いている中で、リリックのユニークさ、鋭さに驚かされることが多く「彼らにどういうバックグラウンドをがあって、こんな曲を書いているのか知りたい!」という好奇心が尽きない。それゆえ、今年の「ラップスタア」で誰がエントリーしてくるのか、今からとても楽しみにしているし、著者がそんな将来有望な若手ラッパーたちに聞き取りしてくれる日を心から楽しみにしている。

2025年7月7日月曜日

2000年の桜庭和志

2000年の桜庭和志/柳澤健

 少しずつ読み進めている著者の格闘ドキュメンタリーの中でも一番楽しみにしていた作品。その期待に応える、いや大幅に上回る超絶オモシロさで、過去作とも繋がる格闘ロマンサーガだった。

 桜庭和志のキャリアを縦軸に、日本〜世界におけるMMAの発展を横軸に描くドキュメンタリーとなっている。ただ時系列に事実を追っただけでは、ここまでオモシロくなるわけはない。中心にいるのは、圧倒的天才であり、強烈なキャラクターと強さを兼ね備えた桜庭和志という稀有な存在だ。桜庭和志がUFC殿堂入りを果たした際のインタビューから始まるわけだが、正直「UFCと桜庭の関係」と聞いてもピンとこない読者が多いだろう。しかし、本著はそんな疑問を丁寧かつ力強く解きほぐしてくれる。読み終えた後に持つ桜庭和志像は今までよりもクッキリしたものになった。

 現在では、プロレスと総合格闘技(MMA)は完全に別物になっており、それぞれのファンダムが形成されているが、2000年代後半くらいまではその境目がきわめて曖昧だった。主に新日本プロレスのレスラーたちが総合格闘技の試合に出場しており、プロレスからMMA好きになった私はその結果に一喜一憂していたのであった。良い意味でも悪い意味でも大元は桜庭和志が言い放った「プロレスラーは、本当は強いんです!」だと言える。この言葉は、グレイシー一族が黒船として登場してから、彼が具現化していく。高田延彦がヒクソン・グレイシーに二度敗戦したことで、本当の「強さ」が何かわからなくなってしまった日本のプロレスファンのもとに颯爽と現れた救世主が桜庭だった。世代的に後追いなので、桜庭和志の衝撃をそこまで理解できていなかったのだが、本著を読んで、その格闘IQの高さがひしひしと伝わってきた。それもこれも筆者の圧倒的描写能力によるものであり、もう著者以外の格闘ライターのルポでは満足できない気さえする。特に総合格闘技史上、ベストバウトの呼び声が高いホイラー戦は白眉。実際Youtubeで映像を見てさらに感動した。グレーゾーンではあるものの、すぐ見れるのはいい時代になったものだ。

 タイトルどおり、桜庭和志の評伝なのだが、「評伝」という形式の強みも存分に活かされている。自伝とは異なり、本人の語りに他者の視点や検証を加えることで、立体的で多層的な人物像が浮かび上がってくる。桜庭本人へのインタビューだけではなく、当時の関係者、対戦相手の証言まで丹念に取材しており、その積み重ねが「記録」としての信頼性と「物語」としてのオモシロさを同時に成立させている。近年では「批評には意味がなく、本人の言葉がすべて」という乱暴な議論を見かけることもある。しかし、本著のような作品に触れると、誰かが記録し、検証し、分析することでしか見えてこない景色があることに気付かされた。

 単純な評伝で終わっていないところが本著のもっとも優れた一面であろう。桜庭和志を通じてMMAの歴史を紐解いているからだ。ルールすら定まらなかった創世記から、世界的な人気スポーツへと至るまでの過程を、一人のファイターの歩みと重ねることで、歴史が血の通った物語として立ち上げている。今はRIZIN、UFCともに大きな人気を博しているが、そこに至るまでの長い道のりは知らないことだらけで驚いた。今でこそUFCの方が圧倒的にレベルも人気も高い状況ではあるが、PRIDE全盛期、UFCは今よりも下火であり、世界最強が集まっていたのはPRIDEだったという話は隔世の感がある。

 一番印象的だったのはオープンフィンガーグローヴの採用のくだりで、今でこそ当たり前になっているものにある背景を知ることができて勉強になった。そしてMMAの背景として最もボリュームが割かれているのは柔術である。柔術の歴史を丁寧にわかりやすく解説してくれた上で知るグレイシー柔術の成り立ち、そして桜庭和志と邂逅するまでのストーリーラインの美しさは完璧なプロットと言いたくなる完成度だった。

 また、当時の格闘シーンの歪みや問題点について忌憚なく書かれている点に真摯さを感じた。特にプロモーターサイドの無茶なマッチメイク、今でこそRIZINの顔にもなっている榊原氏の立ち回りは特に目を引いた。「地獄のプロモーター」と笑うことは簡単だが、それは選手のことを考えたマッチメイクではないことをオモシロおかしくして誤魔化しているだけだと気付かされた。また、桜庭といえば、秋山との試合におけるヌルヌル事件が有名だが、秋山が柔道家時代にも同じようにクリームで道着を掴みにくくしていたなんて知らなかった。相当な悪意のある行為にも関わらず、本人の禊がほとんどなされないまま、ONEで逆輸入されて免罪されている状況はしんどいものがある。この視点で見ると、近年ONEで行われた青木と秋山の試合は、桜庭と青木のRIZINでの戦いも踏まえると、是が非でも青木に勝って欲しかったものである。(試合後の桜庭の一言が泣ける…)

 格闘家の半生とキャリアをまとめた動画は今ではYouTubeにたくさんあって、知らないUFCファイターのエピソードとか見てしまうのだが、こういった本に出会うと活字にしかない情報の圧縮量と熱量を改めて感じた。MMA好きな人はマストで読んでおくべきクラシック。

2025年7月4日金曜日

死なないための暴力論

死なないための暴力論/森元斎

 随分前に二木氏のツイートで知って読んだ。直前に産獄複合体を題材にした小説『チェーンギャング・オールスターズ』を読んでいたこともあり、必要な「暴力」に関する論考はどれも興味深かった。

 間違いが許容され辛い潔癖な世界の中で、暴力は忌避される方向にある。理不尽に他人の権利を侵害するような暴力は悪であることは当然として、本著では「暴力を十把一絡げに悪とみなしていいのか?」という議論が終始展開している。つまり、のほほんと「非暴力」を掲げていても、国家の暴力的振る舞いには太刀打ちできないのだから、カウンターとしての暴力が必要なのではないか?ということだ。本著における暴力はただの殴り合いや戦争のことではない。税の徴収や家父長制といった制度がもたらす抑圧も含まれる。そう考えると「自分には関係ない」なんて言える人はいないだろう。

 人間は潜在的に暴力を内包し、それがいつ、どのような形で顕在化するかに焦点が当たっている。今の世の中で暴力と無関係に生きることは不可避である。そんな前提のもとで古今東西の暴力議論と実例を紹介してくれている。

 例えば、イギリスの女性参政権を獲得するまでの市民運動、メキシコでのEZLNによる自治のエピソード、クルド人によるロジャヴァ革命などが紹介されている。その背景にある考え方や、暴力性があったからこそ社会が変革したのではないか?というアナキストらしい意見が展開されており興味深かった。いずれもあくまでカウンターとしての暴力であり、暴力が先攻行使されていないことがくり返し主張されており、これは本著における重要なポイントである。

 新自由主義は今や世界中に広がった思想であり、その暴力性は世界で火を吹いているわけだが、その黎明期における広め方について解説されており、知らないことばかりで驚いた。すべてに市場の原理を導入して淘汰した挙句、上流だけがお金を儲けて、その結果もたらされた荒廃を引き取るのは、下流にいる民衆という話は何回読んでも腹が立つし「勝ち馬に乗れないと負け」という思想は本当に貧乏ったらしくて嫌になる。そんなブルシットに対しては、やはりカウンターをかまさないとやりきれない気持ちになる。

 抑止力的な意味合いでも暴力の必要性が議論されている。暴力をふるわれるのは、こちらが非暴力で無抵抗だからであり「やられたら出るとこ出るぞ」というマインドが大切だということは、ここ十数年の国の無策っぷりで痛感している。国民が舐められているのは明らかだ。

 個人に対して暴力的な気持ちを抱くことは加齢と共に減ってきてはいるものの、対国家、権力という視点で考えれば、いつだってそんな気持ちである。選挙だけがカウンターできる手段だと思い込まされているが、間接的抗議であるデモの価値について分析がなされていた。短期的成果ではなく、中長期的な社会変革を見据えた視点は、日本のデモ観に対する有用な意見だったと思う。デヴィッド・グローバーがかなり引用されており、改めて彼の論考の鋭さは本当に貴重なものだったのだなと痛感した。そして亡くなっていることに途方に暮れるのであった…

 自分の中に国家を内在化し、結果的に排外的な振る舞いをする人が増えている中で、国家と同じヒエラルキー構造ではなく、非国家の形で民衆が起点となり反操行を繰り広げる必要性を痛感した。本著でも取り上げられている大麻の問題もその一つと言える。国家の枠組みを盲目的に信じているだけで本当にいいのか?国とは別の枠組みで権利を考えてみることをあまりにも忌避しすぎてないか?そんなことを考えさせれられた。

 終盤では、暴力が起こる手前における民衆同士の相互扶助の議論が展開されており、グローバーの提唱する「基盤的コミュニズム」の議論が刺激的だった。というのも子育てをしていると「基盤的コミュニズム」の欠如を著しく感じるからだ。特に首都圏はひどく、目も当てられない場面に幾度も遭遇している。しかし、先日関西に久しぶりに帰ったときに感じた子どもに対する「コミュニズム」的な視点やアプローチには逆に驚かされたことを記しておく。

 そして最後に引用しておきたいのは、前述したメキシコのEZLNマルコス副司令官による例え話。

警察に不満があるからといって、自分が警官になることで解決しようとする市民はいないだろう。もし警察がうまく機能しないのなら、市民は警官になろうとするのではなく、より良い警官を配置するよう要求するのだ。このことはEZLNの提起に通ずるところがある。われわれは権力を批判する。しかし、だからといってわれわれは権力を排除しようとしているのではなく、適正に機能し、社会の役に立つ権力を求めているのだ。

国家、権力に対して批判すると、すぐに「てめえがやれや」「代替案は?」という言葉が飛び交う今こそ、この言葉は有用だと思う。暴力のない世界が理想だけども「なめんなマインド」は常に忘れないでいたいと思わされた一冊だった。

2025年7月3日木曜日

ゆとぴや・びぶりおてか 小さな本屋の読書日記

ゆとぴや・びぶりおてか 小さな本屋の読書日記

 ゆとぴやぶっくすの店主の方による読書日記。埼玉にある数少ない個人書店の一つであり、よくお店に行っている。今回、ZINE PALというイベントで、自分のZINEをお店に期間限定で置かせていただいているのだが、店主の方の読書日記ということで、ZINEを納品するタイミングでゲットした。本屋の方がどんな本を読んでいるか、好きなのか、意外に知らないわけだが、この日記ではジャンル問わず、読んだ本の記録がどさっと載っていてオモシロかった。自分の読んでいる本のジャンルがいかに狭いか、「本」と一言にいっても様々なものがあることを改めて思い知った。

 人がどういう順番で何を読んだか、そんな読書日記は本好きとしては読むのが楽しい。忖度なくシンプルに思ったことがズバッと書かれていて読みやすかった。いつからか本の感想を大仰に書いてしまいがちで、それは最近ますます加速しているのだが、このくらいフランクな語り口、かつ端的に芯をくって書いてあるほうがわかりやすくていい。冗長であることの良し悪しを考えさせてくれるきっかけになった。

 読んだことがある本の感想は共感や違いを見つけて楽しめるし、なかでも一番助かったことは「知っているけど、なんか読むのは気乗りしないな〜」と思う本の感想だった。たとえば、川上未映子の『夏物語』は一時あまりにも本屋で押し出しされ過ぎて辟易としていたけど、今回日記を読んで、読もうと決意した。『テスカトリポカ』も同じく。

 読んだことのない本も、優しい語り口でブレイクダウンしてくれているので「読んでみようかな?」と思わされるものが多かった。具体的には『羆嵐』、金井美恵子の作品各種など。紹介されている本からの関連本マッピングもとても参考になる。AIにはできない精度のレコメンド領域がまだまだあることがわかる読書日記。

2025年7月2日水曜日

チェーンギャング・オールスターズ

チェーンギャング・オールスターズ/ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー

 前作『フライデー・ブラック』が滅法オモシロかった著者による二作目。今回は短編集から長編にフォーマットが変わったものの、オモシロさはあいかわらずぶっちぎり…!いわゆる日本の少年漫画的な世界観が全編にわたって展開されつつ、彼のシグネチャーといえる、アメリカにおけるマイノリティへの差別構造が見え隠れするレイヤードスタイルは健在。これぞエデュテイメント!

 アメリカでは刑務所に収監される人数が膨大になる中で、囚人たちを安価な労働力として搾取する「産獄複合体」が社会問題となっている。以下リンクやNETFLIXのドキュメンタリー映画『13階段』に詳しい。

現代の「奴隷制」アメリカの監獄ビジネス 黒人「搾取」する産獄複合体の実態

本著は、その刑務所産業をSF的発想で拡張し、刑務所ごとに受刑者たちをチーム編成させ、対抗形式で殺し合いをさせる、そんな格闘イベントとして殺し合いをエンタメ化してしまうという、ある種の残酷ショーが舞台。物語は殺し合いの参加者や周辺人物の群像劇として描かれている。キャラクターの魅力が本当に素晴らしく、さながら少年漫画。各キャラには複雑な背景と武器が設定され、ゲームのようなランク制度まで存在する。世界観の作り込みの強度は本当に高く、友情・軋轢・強大なヴィランの登場など、子どもの頃から慣れ親しんできた格闘漫画フォーマットが踏襲されている。ページをめくる手が止まらなかった。

 なかでもメインで描かれるのは、No.1とNo.2の実力を誇る女性ふたり。彼女たちは愛し合う存在でもあり、最強同士の百合的関係性が本作の大きな魅力となっている。少年漫画的世界観との差別化ポイントであり、マスキュリニティに満ちた刑務所産業へのカウンターとしても機能しているのが印象的だった。

 表面だけ見ていれば楽しいバトルエンタメ小説に見えるが、そうは問屋が卸さない。なぜなら参加者たちは全員受刑者であり、なおかつその戦いで敗れることは、そのまま死を意味するからだ。つまりこれは、新たな形の死刑制度にほかならない。バイデン政権下では死刑制度の見直しが進んでいたが、再びトランプが就任したことで死刑執行が活発に行われる可能性が高い。著者はそんな状況を憂慮していたのだろう。これは死刑制度に代表される懲罰願望が拡大する機運がアメリカにあるとも言えるだろう。

 現在問題になっている深刻な現実をエンタメにレイヤードしているわけだが、そのスタイルが斬新だ。例えば、大量のTMマークは、いかに民間企業が刑務所産業に食い込んでいるかを示す象徴的な表現である。また、受刑者が参加にあたってサインする契約書の描写から、このバトルプログラムのルールを知ることになわけだが、これは完全にシステムと化している現在の刑務所産業を暗に示唆しているようにも受け取れる。

 印象的だったのは、バトルを含めて受刑者が小説内で亡くなるたびに注釈で著者が弔いの言葉を書いている点だ。バトルフィクションかつ展開が早いので、命が軽く取り扱われてしまうところを意図的にブレーキを踏み、人間としての尊厳を取り戻そうとしており、そこに著者の真摯さを感じた。

 刑務所産業への批判にとどまらず、刑務所そのものが孕む暴力性にも意識的である。特に独房における拷問シーンが強烈だ。インフルエンサー(!)と呼ばれる棒を使うことで、通常の何倍もの痛みを引き出して囚人たちを追い込んでいく様は読んでいて辛かった。このように囚人を過剰に抑圧した結果生まれてしまう悲しきモンスターの誕生はマジで漫画!と感じた。

 痛みを増幅する方向ではなく、収監されているあいだ一言も話すことができない刑務所もあり、そちらは窒息しそうになる息苦しさが表現されていた。どれもがエクストリームな設定ではあるが、刑務所で行われている拷問に近い暴力を念頭においたものであることは「謝辞」で展開される情報ソースの多さから明らかだろう。

 好みはわかれる作品かもしれないが、ここまで振り切ったスタイルはこれで良しと思える。次はもう少し内省的な物語を読みたい。

2025年6月27日金曜日

統合失調症の一族 遺伝か、環境か

統合失調症の一族 遺伝か、環境か/ロバート・コルカー

 友人と話したポッドキャストで「2024年に読んだ中で一番」として挙げられていたので読んだ。統合失調症のことは何も知らなかったが、本著を読むことで過酷な実態を掴むことができた。そして、読み終えた今でもこれがノンフィクションだとは到底信じられない。さまざまな人物が錯綜しながら、その人間交差点の狭間から見えてくる精神病との戦いは「事実は小説より奇なり」を体現していた。

 舞台はアメリカのコロラド州。そこで50〜70年代にかけて12人の子どもをもうけた夫婦がおり、その子どもたちのうち6人が統合失調症にかかった。本著は、そのファミリーヒストリーと、統合失調症に対する研究と治療の歴史を追いかけたノンフィクションだ。

 統合失調症という言葉の響きだけでは、その実態がなかなか掴めないわけだが、以前は精神分裂病と訳されていた病だ。本人にしか意味が通らない発言、感情の激しい起伏、現実と幻想の境目が曖昧になるような症状が発症する病気だ。そんな異常事態が、家族内で次々と連鎖していく様は、読んでいて心が削られるほどだった。当時も今も、統合失調症に対して的確に作用する薬や治療がないため、なんとか各人が症状を抑えるような努力をしつつも、どうしても限界が生まれてしまい、ひたすら入退院を繰り返す終わりのない地獄のような日々が描かれていた。

 本著が最も優れているのは構成である。前半はひたすらファミリーヒストリーが続くのだが、あるタイミングで視点が一気に切り替わる。それは統合失調症に関する研究パートが入ってくるのだ。その後は、家族の話と、統合失調症に関する研究の話が交互に登場、どんどんグルーヴが増していき読む手が止まらなくる。ドラマとしての魅力を家族が担い物語を推進する一方で、学術的な探求も進んでいくことで興味が尽きない。一冊を通して、知的好奇心と感情の揺さぶりが波のように押し寄せてくるのだ。

 家族一人一人のキャラクターが強烈なことも本著の魅力である。「魅力」というと語弊があるが、とにかく最悪と思える出来事が頻発する。外ヅラの家族像とその内情のギャップは、どこの家族でもいくらかは抱えていることだと思う。しかし、彼らほど多くを抱えている家族はそういないだろう。父も母も、多くの問題を抱えていたように見えるが、それを責めることができるかといえば、そう単純な話でもない。同じ立場に自分が置かれたと想像した場合、現実を冷静に受け止めて、一つずつ対処できるだろうかと言われれば到底無理だ。だからこそ、両親が「ことなかれ主義」で家族の体裁をなんとか延命させるしかなかったことが理解できる。

 現時点でも統合失調症の原因は明確にわかってない中、遺伝要因と環境要因が綱引きし続けている歴史的背景から学問の進歩を味わえる点が素晴らしい。当初は「統合失調症誘発性の母親」というレッテル張りで物事を単純化し表面を取り繕っていたが、研究が進んでいくと、遺伝要因以外の可能性も開かれていく。学問は一足飛びに真理に辿りつくものではなく、常に迂回し、間違いを経て前進していくというプロセスが丁寧に描かれていた。大きなことを言えば人間が人間である理由とも言える。一方で資本主義社会において、病を研究し、創薬することの難しさが伝わってきた。多くの人が劇的に良くなる可能性があったとしても、そこで「儲けられるか?」という指標が介在するために研究が中断、分断してしまうシーンは虚しい気持ちになった。

 終盤にかけて末娘のリンジーが、母親と精神疾患を抱える兄たちの面倒を一手に担い、病気を抑える各人にとっての最適解を模索していく過程には驚いた。なぜなら年齢が一番下であるがゆえに、家族の中で最も割を食った人生を歩んできた立場だからだ。しかし、そんな過去に拘泥することなく、献身的なサポートを繰り返す。そして、その姿に感化されて他の兄弟たちも協力的になっていく様は、家族再生の物語として興味深かった。

彼女は、思いがけない残酷な運命が、自分は見逃してくれたものの、兄たちを襲ったことに、ひどい負い目を感じていたのだ。彼女はその不公平を正したかった。借りを返したかった。(中略)

なぜ私ではなくピーターが病気になったのか? とリンジーはよく思った。私は病気にならなかったのだから、ピーターに借りがある、と。

 そして、とんでもないエンディングが大ラスに待ち構えていて震えた。読んでいるあいだ、こんな未来を感じさせるエンディングは全く予期していなかったので驚いたのであった。原因がわからないゆえに他人事ではない病の怖さも感じつつ、超一級エンタメとしての魅力もある不思議な一冊。

2025年6月23日月曜日

心臓を貫かれて


心臓を貫かれて/マイケル・ギルモア

 最近、読書ブログを更新できていなかった理由は600ページ超の本著を読んでいたからだ。犯罪実録もので、ページをめくってもめくっても終わらない、そんな読書体験はタイトルどおり「心臓を貫かれて」しまうような壮絶なものだった。

 殺人罪で死刑判決を受けたゲイリー・ギルモアが、死刑廃止ムード漂う70年代アメリカで、みずから銃殺による死刑を要求し執行された。そのゲイリーの実弟であるマイケルが自身のファミリーヒストリーを丹念に追いかけながら、どうしてゲイリーが死ななければならなかったのかについて掘り下げていくドキュメンタリーである。

 マイケルはローリングストーン誌でも活躍した音楽ライターであり、末っ子である自分自身の記憶や主観だけではなく、両親や兄弟の人生を丹念に取材し、まるで一本の映画を撮っているようなタッチで家族の歴史を描き出していく。特に序盤は両親の過去の話であり、当事者からはかなり距離のある登場人物かつ過去パートなので読み進めるのが本当に大変だった。そんな読みづらい物語が一気にドライブしていくのはマイケルの父の死であり、そこからまるで死神が順番に命を奪うかのような感覚に襲われる。

 カルマという言葉を信じてしまいそうになるほど、家族が破滅ロードを爆進し、物理的にもメンタル的にも救済される様子が描かれておらず、負の連鎖のチェーンそのものを丁寧に描いていく筆致なので、読み進めることが苦しくなる瞬間は何度もあった。マイケルは作中で何度も「呪い」や「悪霊」について語るが、それは決してオカルト好きなわけではなく、むしろ現実から目を逸らすための手段であることを明らかにしている。そして、彼の語りを通じて、オカルトへの逃避という行為そのものが、現実を受け止めることのしんどさを物語っているように感じた。

 「家庭こそ善である」という考え方の暴力性も印象的だった。過剰な束縛や従属によって鬱屈した気持ちが生まれていく様が克明に描かれており、父親からの体罰が日常的に繰り返される家庭で育った子どもが、グレない方が不自然だろう。育児における体罰なんてあってはならないと思いつつ、そんな描写のなかで思い出したのは川上未映子『きみは赤ちゃん』の次の一節だった。

生まれたわが子を犯罪者にしてやろうともくろんだ親はたぶんひとりもいないはずで、どの犯罪者も、どの大悪党も、最初はこのように人のおなかからでてくるだけの、ただのかたまりであったはずなのだ。

 本著では犯罪者になってしまう過程を追いかけるわけだが、決定的な「きっかけ」は存在しないことがわかる。つまり、さまざまなファクターがかけ合わさり、時間をかけて本人もわからないレベルで何かが少しずつ侵蝕していき暴発してしまう。それはまるで癌のようで、気づいたときにはもう手遅れなのだ。

 愛と憎しみは表裏一体であり、その対象によっては、愛はあっけなく憎しみに反転する。そして、その憎しみをきっかけとして、少しのミスで元に戻れないところまで落ちてしまう。その落ちた先で待つのは「信仰の皮をかぶった裁き」というのは言い得て妙だった。当時のアメリカではキリスト教かもしれないが、今の日本では「ジャスティス教」とでも呼びたくなるような正義の鉄槌が、ネット上で無数に振り下ろされている。その無邪気な行為がどれだけ人を壊してしまうか、そのリスクが軽視されている中で、本著を読むと人間性は昔と何も変わっておらず、表出する形が変化しているだけなのだと感じた。そして、絶え間のない審判を潜り抜けることが、生きることだ、という筆者の主張に激しく頷いたのであった。

 日本でも死刑制度は存在し、被告人の意思に沿うかのように早期執行される例も少なくない。しかし、ゲイリーの姿を通して見えてくるのは、人が人を裁くときに「死」をもって何が解決されるのか、という問いだ。当然、彼が重大な加害者であることは間違いないわけだが、その凶行に至るまでに何があったのか、本著ほどのプロファイリングを行なってからでも遅くないのではないのかと思う。原因の一端でも掴むことができれば、それを次世代に生かすことで未来は少しでも良くなるのではないのか。こんなことを言うと「理想主義者が!」と鼻で笑われることを承知しつつ、そんなことでも言わないとやってられないほど、本著で描かれる地獄は容赦がない。

 そして、分量的にも内容的にもかなりハードコアな本著を日本に紹介する上で、翻訳者としての村上春樹の活躍には舌を巻かざるをえない。訳者あとがきで、本著を翻訳する経緯や方法論について書かれていたが、その愛や思いは翻訳からも十分に伝わってきた。このリーダビリティの高さは特筆すべきもので、もし他の訳者だったら、完読できなかったかもしれない。いい意味でのポップさが効果的に機能するいい例だった。とにかく後にも先も前人未到な圧倒的ノンフィクション!

2025年6月10日火曜日

ZINE PAL at ゆとぴやぶっくす


さいたま市・南浦和のゆとぴやぶっくすさんにて開催されるZINEイベント
ZINE PAL」に参加します!以下イベントの紹介です。
(ゆとぴやぶっくすさんのインスタより引用)

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ZINE PAL(ジンパル)はゆとぴやぶっくす主催のZINE頒布イベントです。去年から年一回開催しています。

ZINE PALという言葉はゆとぴやぶっくすがつけたオリジナルのネーミングです。パル=「友だち」で「ZINE友だち」というようなニュアンスです。ZINEを通じて制作者のことを知り、友だちの輪を広げていきたいという願いを込めてこのようなイベントタイトルにしています。

ZINE PALでは交流の時間も大切にしたいと思っているので制作者による搬入搬出のタイミングで店内で交流がもてる機会を設けようと考えています。

6/21、7/6、7/21は搬入・搬出DAYのため、出店者と直接会って話せる可能性があります。ZINE制作者に直接会ってみたい、話してみたいというかたはこの日にぜひお越しください。本人から直接購入したり自分が作っているものを手渡したり交換することも可能です。

このイベントを通じてZINEというごく私的なメディアを通じて交流をもち、作り手の発信と「自分でも何か作ってみたい!」と思うきっかけの場にしていきたいと考えています。

ぜひ、この機会にここでしか出会えない創作物、さまざまな価値観、また、個人から湧き上がるメディアとして楽しまれ、制作されているZINEとのふれあいをお楽しみください。
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販売していただく私のZINEは、以下の2冊です。

  • 乱読の地層
  • 日本語ラップ長電話

会期は【6月21日(土)〜7月5日(金)】の前期となります。

 ZINEについて、オンライン通販で売ったり、文学フリマに出店したり、さまざまなお店に委託販売をお願いしてきたのですが、一番やりたかったことは「自分が暮らすローカルなエリアでZINEを売ること」でした。今回念願が叶って、とても嬉しいです。改めてゆとぴやぶっくすさんには感謝しかありません。この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございます!

 ゆとぴやぶっくすは、古本+新刊書籍のハイブリッド型の書店なんですが、古本は他の店で見ないものも多いですし、新刊書籍は店主の方のセレクトが個人的な趣味と合致することもあり、毎回行くたびにすべての棚をチェックしてしまう、とても好きな本屋さんです。

 東京に住んでいた頃は「さいたまって遠くない?」と思っていましたが、実際に住んで見ると、思っているより近いので小旅行気分でぜひお越しください。本屋だけではなく、近隣にユニークなお店がありまして、個人的なおすすめルートとしては、こんな感じです。

ゆとぴやぶっくす
   ↓
Letter(最高のジェラート)
   
ハレとケ(ロボットがコーヒーを入れてくれる!)

 最寄りは本屋不毛地帯であり、近隣の本屋もいわゆる大手書店ばかり。カルチャー不毛地帯であることは、先日のさいたま市長選挙において、ミュージシャンよりも排外主義者が多く得票したことから証明されてしまったわけですが、そんなことであきらめてはいけない!という気持ちも沸いてきた今日この頃です。他の出展者の方のZINEも楽しみです。それではどうぞよろしくお願いいたします!

2025年6月4日水曜日

独り居の日記

独り居の日記/メイ・サートン

 ブックオフで旧版が叩き売りされていたのをサルベージした。もともとメイ・サートンという名前は知っていたし、最近の日記ブームの中で取り上げられる場面が多い一冊。そんな日記文学の古典として興味深かった。日々の生活の中からクリエイティビティを絞り出していく中で、喜怒哀楽がないまぜになりながらストラグルしている様がビシビシと伝わってきた。

 この日記は、著者が58歳の一年間を記録したもので、毎日欠かさず書くというよりも、思い立ったときに日々の生活のあれこれや、小説、詩といった創作に関して備忘録的に日記として綴っている。初版は1973年なのだが、半世紀前の文章とは思えないほど、現代に生きる我々の胸に刺さる言葉が詰まっていた。

 庭仕事の描写にページが相当割かれており、著者のライフワークと言っても過言ではない。草を抜き、花を植え、室内に持ち帰って飾る。そうした行為が、メンタルのバランスを保つための儀式のように描かれている。著者自身が癇癪や鬱に悩まされていることを自覚しながら、その揺らぎと向き合うために自然との接点を持つ。部屋に花があるだけで気持ちが安定するという話は、現在の「ていねいな暮らし」の流行とは違った、もっと切実でリアルな生活の知恵として響いた。ちょうど自分の子どもが花を好きになったことをきっかけに、植物への関心が高まっていた時期だったので、個人的にも感じ入るものがあった。

 都市で働いていると、季節の変化を感じ、味わうことが疎かになりがちだ。天気が悪い、暑い、寒いといった直接的な感覚ではなく、庭の草木や動物の行動を媒介にして感じる間接的な季節の移ろいが、本著には丁寧に描かれている。その季節の変化と自身の心情の変化をシームレスに描いていくその筆致は、日記の魅力そのものと言える。少し方向性は違うが、植本さんの新作にも通じる要素があるように感じた。

 日記の中では創作に対する著者の考え方がいくつも披露されており、そこが個人的にはハイライトだった。今の時代にも通用するようなことがたくさん書かれていて、70年代に書かれたとは思えないほど時代を超越している。一部引用。これらの言葉が書かれたのは1970年代だが、SNSや即席のバズが評価とされがちな今こそ強く響くはずだ。

芸術とか、技術のいろはを学ばないうちに喝采を求め才能を認められたがる人のなんと多いことだろう。いやになる。インスタントの成功が今日では当たり前だ。「今すぐほしい!」と。機械のもたらした腐敗の一部。確かに機械は自然のリズムを無視してものごとを迅速にやってのける。(中略)だから、料理とか、編み物とか、庭づくりとか、時間を短縮できないものが、特別な値打ちをもってくる。

不安は、私が知りもせず知るすべもない多くの人々の生活と、アンテナかなにかでつながっているという自分の生活の感覚を失ったときに起こるのだ。それを知らせる信号は、常時行き交っている。

 著者が受けた書評での厳しい評価に悩む様子も記されており、それをどう乗り越えるかに腐心する過程も包み隠さず描かれている。大衆受けするようなメジャー志向ではなく、自分の読者に向かって書いていこうとする姿勢に勇気をもらうクリエイターは多いはずだ。この辺りは自分でZINEを作ってみて初めて理解できた感覚であり、各人がディグして見つけてくれて、しかも買ってくれたことに改めて感謝の念が湧いた。ディグして見つけるものを「自分が発見した森に咲く野の花」と例えていて心に沁みた。

 本著の鍵となるテーマのひとつが「孤独」であり、それは「創造の時空としての孤独」として、訳者あとがきでも強調されていた。毎日のように手紙が届き、その返信に追われたり(今のメールやチャットと全く同じ…!)、たくさんの友人が訪問してきたりと多忙を極める中でも、あえて独りになる時間を確保し、その中で思考を整理し、創作に集中する。この喧騒と静寂のバランスが、著者の創作活動を支えていたのだろう。現代においても、常時オンラインでつながる生活の中で、自らをネットと切り離す時間の必要性は日に日に増しているように思える。

 著者は同性愛を公にしたことで大学を追われたという経歴を持っており、その背景を知ったうえで日記を読むと「孤独」の意味合いがまた異なって見えてくる。自分の恋愛事情を率直に語っているが、社会的な差別や偏見について直接的に訴えることはせず、あくまで関係性そのものに焦点を当てている点に、著者の強さが感じられた。一方で、性別役割への疑問や女性の生きづらさについては何度も言及しており、当時のウーマンリブ運動とも通じているのだろう。

 今の日記ブームの中では、どちらかといえば日々の生活の積み重ねに魅力を感じることが多いが、このように著者の思考がふんだんに入っているエッセイ寄りの日記がもっと増えてもいい。

2025年6月3日火曜日

三寒四温

三寒四温/高橋翼

 植本さんと出店した文学フリマで仲良くなった高橋さんのお店「予感」を訪れた際に交換いただいたZINE。阿佐ヶ谷にあるISB BOOKSで開催された「ふ〜ん学フリマ」に参加するために作られたそうでオモシロかった。前作『夏の感じ、角の店』に引き続き日記となっており、2025年2月のある一週間が綴られている。

 前作は土日にオープンしているお店の日誌だったが、今回は平日の暮らしも含まれており、高橋さんの生活のリアルな部分がさらに増していた。知っている人の日記を紙媒体で読む体験は新鮮で、高橋さんの人となりを知ってから読んでいるので、前作よりもなるほどな〜と思うことがたくさんあった。あと前作に引き続き、料理の描写が魅力的で、いつも食べたくなる。今回はパスタのレシピがとても美味しそうで真似したくなった。

 猫を迎える話があるのだが、そのきっかけをもたらした方の猫が今、行方不明になっているらしい。その猫の迷子ポスターをお店で見た私の子どもは、私と高橋さんがお店で話をしているあいだ、猫の行方をずっと心配していたらしい。そんな出来事があったので、「クック」という名前が出てきたとき、思わず「クック出てきた!」と思わず大声を出したのであった。この日記は、次のZINEにも収録予定らしいので、そちらも楽しみ。

 そんな高橋さんのお店「予感」で『日本語ラップ長電話』を置いてもらうことになりました。前作の『乱読の地層』に続いて、ありがたいかぎりです…都内で販売いただいているお店は『予感』だけですので「どんな感じなのかな?」と見てみたい方はぜひ「予感」を訪ねてみてください。先日、初めてお店に行かせてもらいましたが、とても素敵な空間で、慢性的カルチャー不足な埼玉県民の私と妻は「あんなお店が近くにあったらいいなぁ」と帰りの電車で連呼していたのでした。

Instagram (@yokan.daitabashi)

2025年6月2日月曜日

ここは安心安全な場所

ここは安心安全な場所/植本一子

植本さんの新作『ここは安心安全な場所』のレビューを書かせていただきました。
通販サイトでも読めますが、ここにもポストしておきます。
こんなふうに毎回紹介文を書かせていただいて、感謝しかありません。
この場を借りて改めてお礼を申し上げます…ありがとうございます!
詳しくは本およびレビューを読んでいただければと思いますが、
前作にも増して、新しいフェーズに突入している感じがあり、
「一子ウォッチャー」の皆さまはもちろんのこと、
今の社会のどこか息苦しい部分の一端を知ることができるという意味で、
読者を選ばない作品になっていると思います。
通販スタートとのことで、以下リンクからぜひお買い求めくださいませ。
(発送は6/16以降の発送とのことです。)

石田商店 - ここは安心安全な場所

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 植本一子によるエッセイシリーズ『わたしの現在地』の第二弾は「馬と植本さん」という、パッとは想像がつかないテーマだ。岩手県の遠野を訪れている様子は、SNSでたまに拝見していたが、まさか一冊まるごと「馬の話」とは思いもしなかった。その意外性もあいまって、新境地へと達した「エッセイスト・植本一子」の本領が発揮されている一冊と言えるだろう。

 冒頭、映画のワンシーンのように淡々と遠野へ向かう描写から始まる。車窓の景色や気温、身体の感覚などが手に取るように伝わってくる、描写の粒度の細かさに圧倒される。そこから流れるように遠野での暮らし、馬との出会い、触れ合いが綴られていくのだが、そこには知らない豊かな世界が広がっていた。植本さんの作品の魅力として、誰もが経験する日常を、信じられない解像度で描いている点が挙げられるだろう。今回は多くの人にとって非日常な「馬」というテーマではあるが、解像度はそのままに、門外漢にも分かりやすく、馬を通じた生活と植本さんの思考が展開されていく。

 実際、どんな馬なのか。その姿は、植本さん自身が撮影したフィルムの写真で確認することができる。表紙を飾る馬の写真を含めて、圧倒的な存在感に心を射抜かれた。我々が「馬」といわれて想像する見た目は多くの場合、競走馬のように整えられた姿だろう。しかし、植本さんが訪れた場所で暮らす馬たちはまったく異なる。金色の長いたてがみをなびかせた、その野生味あふれる立ち姿がとにかくかっこいい。実際、この馬たちは、馬房にも入れず、人間が求める役割から降り、なるべく自然に近い状態で生きているらしく、そんな形で存在する馬の凛々しさに目も心も奪われたのであった。

 写真でグッと心を掴まれた上で、植本さんがいかに馬に魅了されているか、馬との関係について丁寧に言葉を尽くしている文章を読むと、臨場感が増し、まるで自分自身が遠野の大地に立ち、馬と向き合っているかのような感覚になった。それは馬に関するルポルタージュのようにも読めるわけだが、馬との関係や、ワークショップで過ごした内容を含めて、内省的な考察が展開していく点が本書のユニークなところである。

 人間は他者と関係を構築するとき、どうしてもラベリングした上で、自分との距離を相対的に把握していく。そのラベルでジャッジし、ジャッジされてしまう。SNS登場以降、ネット空間ではラベルがないと、何者かわからないので、さらにその様相は加速している。しかし、そのラベルが失われたとき、人は一体どういう存在になるのか?そんな哲学的とも言える問いについて、馬とのコミニュケーションを通じて思考している様子が伺い知れる。

 馬との関係においては、自分がどこの誰かといった背景は一切関係なく、接触しているその瞬間がすべてになる。人間の社会ではどこまでもラベルが追いかけてくるが、動物と関係を構築する際にはフラットになる。さらに犬や猫といった愛玩動物と異なり、馬はリアクションが大きくないらしいのだが、そこに魅力がある。つまり、現代社会では「インプットに対して、いかに大きなアウトプットを得るか」が重視され、余暇でさえコスパ、タイパと言いながら、効率を求めていく。しかし、馬や自然はそんなものとは無縁だ。その自由さは私たちが日々の生活で忘れてしまいがちなことを言葉にせずとも教えてくれるのだった。

 夜、馬に会いに行く場面は、その象徴的なシーンだ。祈りに近いような気持ちで馬を探しにいくが、馬は何も語らず、大きなリアクションも返さない。ただそこにいるだけ。それなのに、言葉では伝えきれないような安心感や包容力の気配を確かに感じる。そんな馬という「写し鏡」を通じて、自分という存在の輪郭を静かに確かめる。そんな自己認識の過程は、近年の植本さんのテーマでもある「自分の在り方」をめぐる探究と共鳴していると言えるだろう。

 と、ここまでそれらしいことを書いてきたのだが、巻末にある徳吉英一郎氏による寄稿が本書の解説として、これ以上のものはないように思う。遠野で個人としても馬を飼い、暮らしている方による「記名論」とでもいうべき論考は刺激的だ。特に、怖れ、恐れ、畏れ、怯えとの関係は、ゼロリスク型の管理社会全盛の今、言われないと気づけない大事なことが書かれていた。

 写真と文章、両方の技術と感性を持つ植本さんだからこそなし得た新しい表現がここにある。本書を通じて、多くの読者が、自分の「現在地」を見つめ直すきっかけになることを願ってやまない。

2025年5月29日木曜日

KISSA BY KISSA 路上と喫茶ー僕が日本を歩いて旅する理由

KISSA by KISSA/クレイグ・モド

 いつも聞いているRebuildにゲスト出演された回がオモシロくて読んだ。ポッドキャストを聞いている際にも感じた視点のユニークさが、本著ではさらに際立っていて、日本生まれ・日本育ちではなかなか気づけない「日本の奥深さ」に触れることができた。

 著者は、旧中山道(東京〜京都)を、交通機関や自転車を一切使わず、徒歩のみで踏破していく。その道中で出会った喫茶店と、そこにいた人々とのやりとりが、エッセイとして綴られている。日本の片田舎にある純喫茶に、突然「東京から徒歩で来た」という日本語の話せる白人男性が現れ、自分たちの話を熱心に聞いてくれたら話も弾むだろう。その結果として集まったエピソードの数々は、どれもとても貴重なものだ。

 ブルーボトルコーヒーが、日本の純喫茶インスパイアであることは周知の事実だが、著者が掘り下げているのはコーヒーカルチャーだけではない。ブルーボトルがすくいあげなかった、コーヒー以外の純喫茶の「周辺」に存在するカルチャーと人である。独特の内装、モーニングという制度、店主や常連のお客さんたち。その姿は街をフィールドにした社会学者のようでもあり、翻訳ゆえの大仰な語り口とあいまって、どこか歴史家のような風格さえ感じさせる。

 読み始める前は「旧中山道といっても、今では国道沿いにチェーン店が並ぶだけでは?」と思っていた。しかし、著者は「喫茶店のピザトースト」を足がかりに、個人経営の純喫茶を巡礼のように訪ね、発見していく。「金太郎飴」だと思っていた街の中を、まるで桃源郷のような純喫茶を独自の審美眼で見つけては、お店の人、お客さんと会話することで土地の理解を深めていく様が興味深かった。価値のないと思われているところに新たなレイヤーを見出していく態度はヒップホップ的ともいえる。

 シャッター商店街や地方の過疎化については、すでに多くの切り口で語られてきたが、そこに日本国外の視点が加わることで、改めて気づかされることが多かった。たとえば、他国であれば、人がいなくなった場所は荒廃してしまい、うかつに近づけなくなるが、日本ではそのまま静かに残っていて、つぶさに観察できる。これが日本の独自だという視点は日本人には浮かばないだろう。

 若者の人口減少とグローバリゼーションの加速度的進行が、シャッター商店街、田舎に顕著に表れていると指摘されているが、2025年現在、それはさらに加速を進め、都市部の個人店もどんどん駆逐されていき、どの街も「金太郎飴」的な均質な風景へと変わりつつある。(渋谷とか)だからこそ、著者のように、自らの足で歩き、自分の目で見て、耳で聞くという行為は、ますます重要になっていくだろう。AI全盛の時代において、それはまさに「人間にしかできない営み」だ。

 この版元であるBOOKNERDにて拙著『日本語ラップ長電話』をお取り扱いいただいております。ぜひKISSA by KISSAと合わせて、ご購入くださいませ。
「結局、宣伝かい!」と思われるかもしれませんが、たまたま読んだタイミングだったのです…!奇跡!

日本語ラップ長電話 on BOOKNERD

2025年5月26日月曜日

START IT AGAIN

START IT AGAIN/AK-69

 本屋をぶらぶらしていたら、たまたま見かけて買って読んだ。正直、AK-69の曲が好きになってきたのはここ数年のことだ。さらに直近 YouTubeでみた THA BLUE HERB の BOSS との対談で人となりに興味が沸いたのであった。ラッパーの自伝はそれなりに読んでいるほうだが、本著は少し毛色が違った。自伝的な要素は控えめで、それよりも彼が今の位置に至るまでにどう努力し、どう考え、どう動いてきたのか、その方法論が詰まった「自己啓発書」としての色が濃い一冊だった。ヒップホップと自己啓発のかけ合わせの相性の良さがほとばしるほどに炸裂しており、自己啓発書を普段読まない自分でもヒップホップが加わってくることで「なんか頑張ろうかな〜」と思わされるのであった。

 AK-69という名前を最初に意識した瞬間を、はっきりと覚えている。それは『Blast』という雑誌のインタビュー記事だった。AK-69とKalassy Nikoff、それぞれの名義で同時にアルバムを出すというタイミングの特集で、彼の過去の悪行に少し怯えつつ、ヒップホップのストリートカルチャーの一端を垣間見たようで興奮した記憶がある。

 それはさておき、本著では彼がどのようにして「ラッパー・AK-69」として大成したのか、これまで行ってきた具体的なアクションを通じて、自分のマインドセットを丁寧に説明している一冊である。なんとなくのキャリアしか知らなかったが、本著を読むことで彼のラッパーとしての成り上がり方やスタンスを深く知ることができた。歌詞へのアプローチ、ビーフに対するスタンス、セルフプロデュースの思想など、音源だけではうかがい知れない背景が明かされている。

 本の仕掛けとして印象的だった点は冒頭だ。まるでリリックのように、AK-69が読者に問いかけてくる。しかも、そのリリックは単なる縦書きではなく、ヴィジュアルライティングでかましていく。「これぞAK-69!」という派手さと美学が炸裂していて、めちゃくちゃカブいている。近年のヒップホップは自然体がクールとされる傾向にあるが、彼が活躍した 2000〜2010年代、ラッパーは「カブいてナンボ」の時代だった。今なおそのスタンスを貫く姿を見ると、本著で書かれている自己啓発的な内容に説得力を感じるのであった。

 個人的に一番驚いたのは、彼が配偶者のことを「パートナー」と本著内で一貫して呼んでいた点だ。AK-69の音楽のコアなファン層の中には、「嫁」という呼び方を好むような層も少なくないという偏見が自分の中にあった。しかし、彼は本著で一度も「嫁」とは書いていない。ここに彼がラッパーとして長いキャリアを築くことができた一端を垣間見たのであった。つまり、時代の空気を敏感に察知し、自分がそこにフィットしていないと気づけば、しっかりとチューニングしていく。自分自身を客観的に見つめ、今求められている姿に再構築していく柔軟さ。彼はラッパーである同時に、セルフマネジメントの達人とも言えるだろう。

 たとえば、新作『My G’s』では、客演を多数迎えたアルバムのDX版を制作し、横浜アリーナでフェスのようなショウを開催する予定になっている。キャリアが長くなればなるほど閉じていきがちな世界に、新旧さまざまなラッパーやビートメイカーとケミストリーを起こしていくその姿勢は、まさに風通しを良くするための意識的な選択だろう。同じく「自己啓発的」なスタイルを持つ KREVA が客演ゼロ、どちらかといえば閉じた世界観を提示したアルバムとは対照的で、それぞれの戦略と哲学の違いがよく表れている。ほぼ同世代のラッパーかつ互いに日本語ラップのシーンと距離を置きながら、自分の市場を開拓してきた二人が、まったく別のアプローチを取っている点に、とても象徴的なものを感じる。

 「自分の曲には他人への応援歌は一曲もない」と語る彼の言葉も印象的だった。彼の曲は多くのスポーツ選手に愛されているので、応援ソングとして機能しているものと考えていた。しかし、彼の曲を聞いている人たちは、AK-69の言葉として認識するというよりも、自分の中にリリックを取り込み、憑依させる形で聞いているのかもしれない。強烈な一人称を持つヒップホップの特徴が活きているといえる。そうやって聞けるリリックは意外に少ないのかもしれない。

 欲を言えば、彼が経験してきたであろうヒップホップの裏側の話をもっと聞きたかったところではある。名古屋という独自のシーンに根ざしたAK-69は、いわゆる日本語ラップの東京中心の文脈とは異なる場所から登場している。その背景にあるローカルな文化や美学について、本書でもいくつか触れられてはいたが、もっと深く掘り下げてほしかった。

 名古屋のヒップホップという観点でいえば、AK-69のキャリアの転換点として ¥ellow Bucks の台頭は欠かせないトピックであろう。もし彼が現れていなければ、AK-69の現在地はまた違った形になっていたかもしれない。実際、自分自身も「Bussin’」がなければ、彼の音楽にここまで触れることはなかっただろうと思う。だからこそ、AK-69からみた ¥Bという話は、他のラッパーも含めていつかじっくり語ってほしい。実際、本著のラストでは、表題にもなっている代表曲「START IT AGAIN」にYZERR がREMIXで参加した際のレコーディングのストーリーが語られている。「まさにこういう話を読みたい!」という内容だったので、続編に期待したい。このインタビューも合わせて読むと、日本語ラップに対する彼のスタンスがより深くわかって興味深かった。

AK-69と日本語ラップシーンの”縁”

2025年5月19日月曜日

たのしい保育園

たのしい保育園/滝口悠生

 滝口さんが保育園を題材にした小説。文芸誌で連載されていことは知っていたが、単行本になる日を待とうと思い、情報をシャットアウトして待った結果、ついにその日がやってきた。以前にポッドキャストで育児、保育に関する話を伺っており、その時点で相当オモシロかったわけだが、それが今回小説という語り口になることで新たな魅力がふんだんに詰まった最高の小説だった。

 主人公は、ももちゃんという子どもと、そのお父さん。各話が短編として独立しているものの、登場人物は同じなので、連作としても読めるようになっている。植本一子さんとの往復書簡『さびしさについて』でその片鱗を見せていた子どもに対する解像度の高さが本著では存分に発揮されている。テクノロジーの進歩で、簡単に写真や動画で子どもの姿を記録することは可能になったが、改めて文字で目の前で起こっている子どもの様子を言語化されると、そのダイナミックさ、ひいては生命の尊さまでリーチするような厳かな気持ちが湧いてくる。

 子育てをする身からすれば「子どもあるある」がふんだんに詰め込まれているとも言えるわけだが、その「あるある」の解像度は、よくある子育てエッセイとレベルが一段違っている。それは子どもを日々育てる中でなんとなく考えているが、言語化できていなかった思考の残滓を滝口さんが拾い集めて、言葉にしてくれている、そんな印象だ。特に「保育園」を題材として取り上げていることはその象徴のようだ。

 保育園は預けている立場からすると、育児においてかなりの割合を占有するわけだが、自分が育児主体ではないので、保育園での育児について深く考える機会が少ない。そもそも成長速度を含めて日々が怒涛すぎることもある。そこを丁寧にすくいとり、保育園と共に育児を行う様子とその意味をここまで深く描いたものはないだろう。そして、保育園に子どもを預けたことのある人がもれなく感じたことのある、保育園という場所、保育士という職業に対する圧倒的な尊敬と感謝の気持ち、全面的肯定が小説に落とし込まれているのだから、たまらないものがあった。

 〇〇ちゃんのお父さん/お母さんという呼び方に対して、アイデンティティを尊重する観点でネガティブに捉えられるケースもあるが、本著では子どもを持つ登場人物は皆、(子どもの名前+お父さん、お母さん)という形で表現されている。それは保守的ということではなく、あくまでここは子どもの社会なのだ、という宣言のように感じた。そして、それは物語上、区別するための便宜上のものでしかない。本著内で言及されているとおり、保育園に通っていると、子どもが誰に帰属するかは本質的には関係なく「保育園」という共同体に集まった大人たち全員で子どもを育てているのだという認識があるからだ。核家族化、人間関係の希薄化などにより地域ぐるみの子育ては減少していると嘆かれて久しいが、本当にそうだろうか。家族の在り方も20世紀から変化している中で「保育園」が、一種の育児の共同体を担保している可能性について改めて認識することができた。

 最後にある「連絡」という話は、これまでの滝口さんのスタイルが最も色濃く映る。そこへ子どもに対する高い解像度の視点が入り込んでくることで、これまでの作品とは違った印象を持った。たとえば、ガザ虐殺について言及されているが、それが子どもたちが公園で遊んでいる最中に挟まれることでまったく他人事ではなくなる。また、ギスギスした現代社会において、誰が何をしてもいても気にしない一種のユートピア的存在としての公園という空間の多様性が、滝口さんの得意とする視点遷移と共に描かれており、その相性が素晴らしかった。保育園や公園といった場所の存在を言祝ぐような小説だった。

2025年5月13日火曜日

BAD HOP解散!!…. その後のわたくしzine

BAD HOP解散!!…. その後のわたくしzine/マルリナ

 文学フリマで『日本語ラップ長電話』というZINEを売っていたのだが、購入してくれたお客さんから手渡しでもらった紙のZINE。タイトルからして絶対オモシロいだろうなと思って、何気なく読み始めたら、一気読み…!オモシロ過ぎた。しかも、noteでもブログでもなく、手書き&セルフ印刷というスタイルがかっこいい。ZINEブームの中で、ZINEを作って販売することで承認欲求を満たしている自分のことが恥ずかしくなった。資本主義が介在しないガチのZINEは、まさに「ヒップホップ」としか呼びようがない。古参ぶるつもりは毛頭ないのだが、もう十年以上聞いているので、どうしたってアーティストや曲に対して「あーこの感じね」と悟った態度を取ったり、御託をうだうだ並べてしまうわけだが、本著にはヒップホップに対する初期衝動とパッション、それに基づく実践が、これでもかと詰め込まれていた。

 表紙に書かれているとおり、BAD HOPのファンだった著者が、解散後どのようにヒップホップライフを過ごしているのか、ライブレポととして記録されたZINEである。ライブレポは時系列に並んでおり、日記に近い形でリアルな気持ちと現場の様子が丁寧に描かれている。今は昔のようにCDをたくさん買わなくても音楽を聞けるからからいいなぁと思っていたが、その分だけライブやマーチにお金が投下されている現実が記録されていた。とにかく小箱、大箱、都内、地方問わず、自分が好きなアーティストのライブに通い詰めているのだ。BAD HOPを入口として、LANA、KviBaba、Elle Teresaなど現状のトップどころのライブにこれだけ通い詰めていることに驚くし、それがSNSにあるような短絡的な感想ではなく、言語化されていることが貴重だ。媒体におけるライブレポには意味がなくなっているかもしれないが、一個人の記録としてのライブレポにはまだまだ価値があること、そしてBAD HOPがヒップホップの間口を広げる存在として機能していたことを思い知らされた。

 さらにウェブ媒体にあるようなライブレポと一線を画している点は、周辺の観客の様子まで記録されている点である。最も驚いたのは、ライブで周囲のお客さんから押されることが常態化していることだった。本著に登場するような若手のラッパーのライブには足を運べていないし、ライブに行っても自分の背が高いこともあり、後方で見ているので、まったく預かり知らない「ライブあるある」だった。そして、どうしてお客さん同士が押し合うかといえば「近くで撮影したいから」というのも、今の時代のヒップホップライブの現実を映し出していると言えるだろう。また、現場にいるギャルたちのパンチラインの数々にも完全にノックアウトされた。まさに ”この現場以外に本場なんてのは存在しない” のだ。

 ヒップホップカルチャーはおびただしいコンテキストがアーティストや楽曲の背景に存在し、他のジャンルの音楽に比べて、聞く上でのハードルが高くなっているのは間違いないだろう。それはポップな層を新規として受け入れられないハードルになるケースもあれば、一度好きになれば、どこまでものめり込める沼の深さがあるとも言える。その双方がファンの視点から余すことなく描かれている稀有な一冊だった。

2025年5月12日月曜日

文学フリマ完売御礼&通販開始

 前回はおんぶに抱っこスタイルで出店した文学フリマに初めて自分で出店しました。新刊である『日本語ラップ長電話』と前回作った『乱読の地層』を持っていったのですが、おかげさまで持っていった分について完売することができました。ご購入いただいたみなさま、本当にありがとうごうざいました。

 事前段階では「日本語ラップと文学フリマの相性いいのか?」と疑問に思っていましたが、ヘッズの方もちらほらいて、そういった方にはもれなく購入いただいたような感じがあり、大変嬉しかったです。さらには、日本語ラップ自体に深い興味はなくとも、ご購入いただける方が想像以上に多く、近年の日本のヒップホップシーン、ラップカルチャーの盛り上がりを肌で感じました。日本語ラップの冬の時代を見ていた身としては、感慨深いものがありました…改めてありがとうございます。

 そして、本日より通販での販売を開始しています。メルカリショップでご購入いただけますので、遠方の方は是非こちらよりご購入くださいませ。書影は文学フリマで大活躍してくれたCyderです。




『日本語ラップ長電話』
通販サイト

 自分の戦利品はこんな感じ。文学フリマは作り手の方と直接コンタクトできるのが楽しいところですが、熱烈応援している美玉書店やpalmbooksの方々と直接お話できて嬉しい限りでした。そして一番ヤバいブツはこの手書きのZINE…また紹介できればと思います。


2025年5月9日金曜日

アンビバレント・ヒップホップ

アンビバレント・ヒップホップ/吉田雅史

 荘子itとの対談本『最後の音楽:|| ヒップホップ対話篇』も興味深かったので読んだ。ゲンロンでの連載に加筆したものらしく、ヒップホップに馴染みのない読者にも配慮された構成ながら、読み進めるうちにその深度に驚かされる設計になっている。アメリカのヒップホップを主たる対象とする批評が多い中、国内のアーティストにフォーカスされており、なおかつ日本語ラップの立脚点がどこにあるのか、これからの日本語ラップの批評の方向性を示しているとも言えて、本著はその金字塔として今後読み継がれてほしい一冊だった。

 タイトルにある「アンビバレント」は本著における最大のキーワードであり、数々の議論がこのワードへと収束していく。代表的なアンビバレンスとしては、「資本主義とリアル」「アメリカと日本」の二つが挙げられるだろう。前者に含まれる「リアル」が第一章のタイトルという時点で、本著がいかにヒップホップを真摯に捉えようとしているか伝わってくる。日本では、ヒップホップの隆盛に伴い、資本主義の流入は日に日に加速しており、その状況と古参ヒップホップ好きが大切にしていた価値観である「リアル」は相剋する。その緊張関係は、まさに自分が抱えている「アンビバレント」な気持ちそのものである。本著では先んじて、その相剋を乗り越えたであろうアメリカの状況を解説してくれている。特定のアーティストに焦点を当てつつ、通史的な視点も持ち合わせた解説は、ヒップホップ初心者から批評を求める読者まで幅広く楽しめる内容となっている。

 本著の大きな魅力のひとつは、その眼差しのフレッシュさにある。たとえば、ヤン冨田とDJ KRUSHを並べて、ヒップホップにおけるオーセンティシティを論じたり、いとうせいこう、SEEDA、KOHHという異なる世代のラッパーを通じてラップ表現の変遷を定量的に分析するなど、枚挙にいとまがない。なかでも、KOHHに対する考察は白眉だった。彼がトラップをいち早く取り入れ、三連フローなど、トラップと日本語の可能性を拡張したことは周知の事実であるが、これだけ定量的なアプローチで解析した例はおそらくないだろう。意味を壊し、音を優先する中で、ボキャブラリーの貧しさが逆に功を奏したというのは、価値を反転させるヒップホップそのもので、KOHH(および千葉雄喜)がいかにヒップホップを愛し、ヒップホップに愛されるラッパーなのか、そんな証にも映った。

 著者の語り口が理論的であることも特徴的だ。ヒップホップはアートであり、抽象的な議論が多くなりがちだが、引用する文献を明確にして議論を積み上げて行く姿勢は批評としての強度を支えている。さらに、著者がビートメイカーであることを活かした独自のグリッド表記を使った各種解説がエポックメイキングだった。言葉と音の両方を可能な範囲で分解して、読者と共に眺めていく作業を行うことで、説得力を増すことに成功している。ヒップホップに限らず、音楽評論としても新しい境地が切り開かれていると言えるだろう。

 ビートの章でいえば、現在のヒップホップにおけるサウンドの基準であるTR-808に対する考察に驚いた。実機の音が、ウェブ上でまるで融解していく様をめぐる周辺環境の解説は、著者自身がビートメイカーだからこその深度があった。また、トラップ以外の多くのヒップホップの楽曲において808サウンドが使われていること、その使用とラップにおけるメッセージの相関性の考察は目から鱗だった。

 アメリカ発祥のカルチャーであるヒップホップを日本で実践するという営みには、アンビバレンスがつきまとう。もともとヒップホップは、アフリカ系アメリカンを中心とした「サヴァイヴァル・ツール」としての側面を持ち、それを背景を参照せずに形式のみをなぞることは、文化盗用(カルチャー・アプロプリエーション)の危険をはらむ。かといって、アメリカのスタイルを絶対視し、それを基準に日本のヒップホップを評価するような態度も、どこか屈折した文化的劣等感の表れに映る。アメリカ、日本のヒップホップの両方とも好きであればあるほど、この「アンビバレンス」に苦しめられる。それはアーティストもリスナーも同様のことだろう。しかし、著者はその苦しみこそが「日本語ラップ」なのではないか?と提示しており興味深かった。白黒はっきりつけてしまう快楽に抗い、宙ぶらりん=アンビバレントな状態に置いておくことで、日本のヒップホップがアメリカを参照しつつも、独自のスタイルを構築していくのではないか。そんな見立てにおおいに首を振った。

 終盤は、2020年代に入り豊穣さを増す日本語ラップの現状が具体的に取り上げられている。Tohjiや舐達麻といった代表的アーティストも、単に紹介されるだけでなく、音楽理論やサウンドとの関係性を通じて分析されている点がユニークだった。たとえば『KUUGA』は多くの批評にさらされた作品であるが、本著ではTohjiの「内なるJ」を音楽理論から示している点が新しいし、舐達麻についても、ビートのエモさとラップの温度の対比からエモラップの日本スタイルともいうべき在り方について分析されており興味深かった。その中でも印象に残ったのは、KRUSHとJinmenusagiの「破魔矢」に対する考察だ。それは「ダサい」とされていた「お経スタイル」の価値が反転し、かっこいいものになるという最もヒップホップ的な価値観が反映されているからだ。しかも、これは本著前半の議論と呼応しており、このような形で伏線回収するような展開がいくつか用意されている。こういった仕掛けは批評にありがちな単調さを避け、読者を飽きさせないスパイスとして機能していた。長々と色々書いてきたが、本当にたくさんの気づきがある一冊だったので、全ヒップホップ好きに読んでほしい。

2025年4月30日水曜日

死なれちゃったあとで

死なれちゃったあとで/前田隆弘

 積んであったので読んだ。タイトルからして、今読みたかった本だった。JJJ逝去について、安易に言語化できない気持ちがあるのだが、そんな灰色の気持ちを少し和らげてくれる、死への向き合い方を考えさせてくれる稀有な一冊だった。

 編集者・ライターである著者の周りで起こった死にまつわるエッセイ集。もともと文フリで売っていたZINEが商業出版されたもので、最近のZINEブームの先駆けともいえる。死といえば、どうしても「悲しい」「辛い」というイメージばかり浮かびがちだが、実際には喜怒哀楽が存在することに気づかされる。また、死自体にもさまざまな種類が存在し、それに伴って変動する、残された側の感情のあり方について、ここまで具体的に踏み込んで描いているエッセイは読んだことがなかったので興味深かった。特に「父の死、フィーチャリング金」はあまりにもすべてが生々しく綺麗事は一切見当たらない。死とお金は切っても切り離せないことを眼前に叩きつけられたようだった。

 このように死の周りに転がっている現実について、お金、事故、病気とその治療など普段聞くことが少ない数々の事例について知ることができたのは、人生の予習をしているようだった。病気のように近い未来に亡くなる可能性を知っている場合と、自死、事故死のように唐突に死の暴力性が剥き出しになる場合の両方が描かれているので、死を立体的に捉えることができる構成となっている。そんな中でもコロナ禍は特異点といえるが、コロナ禍で亡くなった場合の葬儀がどんなものだったのか、これは歴史に残る重要な記録とも言えるだろう。

 著者の後輩であるD氏は自殺で亡くなっており、彼の死が本著で最もフォーカスされている。数ある死の中でもタイトルの言葉が最も響くのは自死であることは間違いない。自分の意思で急に世の中を去ってしまい、その後に残された側の放り出された感情はいろんな形で存在し、表現される。そこに当然優劣はなく、著者はその感情の置き場について向き合った過程を本著に書き残してくれている。忙しい日常の中で、人の死はどうしても見ないように蓋をしてしまいがちだが、少しでも思い出して、何か具体的に行動することで見える景色を身をもって見せてくれていた。

 友人のラッパーである黒衣の曲「バカとハサミ」にある「ログインしてなきゃ死人扱いか?」というリリックが好きなのだが、それを地でいくエピソードがあり、ネット時代の生死に関する考察が興味深かった。今では死後に家族がログインして代理報告する場面を見かけるが、家族に公開していないアカウントであれば、更新が止まったブログやSNSアカウントの残留思念は、死後そのままインターネットを放流し続ける。それは生きているとも言えるし、死んでいるとも言える。そんな生と死の境界があいまいになる現代だからこそ、葬式が持つ「区切り」としての意味が改めて浮かび上がっていた。

 本著では身近な人の死が数多く取り上げられているが、物理的な距離はあるものの、身近な存在であるアーティストの死との感情の折り合いに困るときがある。とりわけヒップホップというジャンルではアーティストが若くして亡くなるケースがあまりにも多く、そのたびに心が痛む。そのたびに「YOLO(You Only Live Once)」 が毎回頭によぎり、行けるときにライブは行っておいたほうがいいし、やりたいことがあれば、just do it だなと毎回思わされるのであった。