2025年6月10日火曜日

ZINE PAL at ゆとぴやぶっくす


さいたま市・南浦和のゆとぴやぶっくすさんにて開催されるZINEイベント
ZINE PAL」に参加します!以下イベントの紹介です。
(ゆとぴやぶっくすさんのインスタより引用)

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ZINE PAL(ジンパル)はゆとぴやぶっくす主催のZINE頒布イベントです。去年から年一回開催しています。

ZINE PALという言葉はゆとぴやぶっくすがつけたオリジナルのネーミングです。パル=「友だち」で「ZINE友だち」というようなニュアンスです。ZINEを通じて制作者のことを知り、友だちの輪を広げていきたいという願いを込めてこのようなイベントタイトルにしています。

ZINE PALでは交流の時間も大切にしたいと思っているので制作者による搬入搬出のタイミングで店内で交流がもてる機会を設けようと考えています。

6/21、7/6、7/21は搬入・搬出DAYのため、出店者と直接会って話せる可能性があります。ZINE制作者に直接会ってみたい、話してみたいというかたはこの日にぜひお越しください。本人から直接購入したり自分が作っているものを手渡したり交換することも可能です。

このイベントを通じてZINEというごく私的なメディアを通じて交流をもち、作り手の発信と「自分でも何か作ってみたい!」と思うきっかけの場にしていきたいと考えています。

ぜひ、この機会にここでしか出会えない創作物、さまざまな価値観、また、個人から湧き上がるメディアとして楽しまれ、制作されているZINEとのふれあいをお楽しみください。
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販売していただく私のZINEは、以下の2冊です。

  • 乱読の地層
  • 日本語ラップ長電話

会期は【6月21日(土)〜7月5日(金)】の前期となります。

 ZINEについて、オンライン通販で売ったり、文学フリマに出店したり、さまざまなお店に委託販売をお願いしてきたのですが、一番やりたかったことは「自分が暮らすローカルなエリアでZINEを売ること」でした。今回念願が叶って、とても嬉しいです。改めてゆとぴやぶっくすさんには感謝しかありません。この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございます!

 ゆとぴやぶっくすは、古本+新刊書籍のハイブリッド型の書店なんですが、古本は他の店で見ないものも多いですし、新刊書籍は店主の方のセレクトが個人的な趣味と合致することもあり、毎回行くたびにすべての棚をチェックしてしまう、とても好きな本屋さんです。

 東京に住んでいた頃は「さいたまって遠くない?」と思っていましたが、実際に住んで見ると、思っているより近いので小旅行気分でぜひお越しください。本屋だけではなく、近隣にユニークなお店がありまして、個人的なおすすめルートとしては、こんな感じです。

ゆとぴやぶっくす
   ↓
Letter(最高のジェラート)
   
ハレとケ(ロボットがコーヒーを入れてくれる!)

 最寄りは本屋不毛地帯であり、近隣の本屋もいわゆる大手書店ばかり。カルチャー不毛地帯であることは、先日のさいたま市長選挙において、ミュージシャンよりも排外主義者が多く得票したことから証明されてしまったわけですが、そんなことであきらめてはいけない!という気持ちも沸いてきた今日この頃です。他の出展者の方のZINEも楽しみです。それではどうぞよろしくお願いいたします!

2025年6月4日水曜日

独り居の日記

独り居の日記/メイ・サートン

 ブックオフで旧版が叩き売りされていたのをサルベージした。もともとメイ・サートンという名前は知っていたし、最近の日記ブームの中で取り上げられる場面が多い一冊。そんな日記文学の古典として興味深かった。日々の生活の中からクリエイティビティを絞り出していく中で、喜怒哀楽がないまぜになりながらストラグルしている様がビシビシと伝わってきた。

 この日記は、著者が58歳の一年間を記録したもので、毎日欠かさず書くというよりも、思い立ったときに日々の生活のあれこれや、小説、詩といった創作に関して備忘録的に日記として綴っている。初版は1973年なのだが、半世紀前の文章とは思えないほど、現代に生きる我々の胸に刺さる言葉が詰まっていた。

 庭仕事の描写にページが相当割かれており、著者のライフワークと言っても過言ではない。草を抜き、花を植え、室内に持ち帰って飾る。そうした行為が、メンタルのバランスを保つための儀式のように描かれている。著者自身が癇癪や鬱に悩まされていることを自覚しながら、その揺らぎと向き合うために自然との接点を持つ。部屋に花があるだけで気持ちが安定するという話は、現在の「ていねいな暮らし」の流行とは違った、もっと切実でリアルな生活の知恵として響いた。ちょうど自分の子どもが花を好きになったことをきっかけに、植物への関心が高まっていた時期だったので、個人的にも感じ入るものがあった。

 都市で働いていると、季節の変化を感じ、味わうことが疎かになりがちだ。天気が悪い、暑い、寒いといった直接的な感覚ではなく、庭の草木や動物の行動を媒介にして感じる間接的な季節の移ろいが、本著には丁寧に描かれている。その季節の変化と自身の心情の変化をシームレスに描いていくその筆致は、日記の魅力そのものと言える。少し方向性は違うが、植本さんの新作にも通じる要素があるように感じた。

 日記の中では創作に対する著者の考え方がいくつも披露されており、そこが個人的にはハイライトだった。今の時代にも通用するようなことがたくさん書かれていて、70年代に書かれたとは思えないほど時代を超越している。一部引用。これらの言葉が書かれたのは1970年代だが、SNSや即席のバズが評価とされがちな今こそ強く響くはずだ。

芸術とか、技術のいろはを学ばないうちに喝采を求め才能を認められたがる人のなんと多いことだろう。いやになる。インスタントの成功が今日では当たり前だ。「今すぐほしい!」と。機械のもたらした腐敗の一部。確かに機械は自然のリズムを無視してものごとを迅速にやってのける。(中略)だから、料理とか、編み物とか、庭づくりとか、時間を短縮できないものが、特別な値打ちをもってくる。

不安は、私が知りもせず知るすべもない多くの人々の生活と、アンテナかなにかでつながっているという自分の生活の感覚を失ったときに起こるのだ。それを知らせる信号は、常時行き交っている。

 著者が受けた書評での厳しい評価に悩む様子も記されており、それをどう乗り越えるかに腐心する過程も包み隠さず描かれている。大衆受けするようなメジャー志向ではなく、自分の読者に向かって書いていこうとする姿勢に勇気をもらうクリエイターは多いはずだ。この辺りは自分でZINEを作ってみて初めて理解できた感覚であり、各人がディグして見つけてくれて、しかも買ってくれたことに改めて感謝の念が湧いた。ディグして見つけるものを「自分が発見した森に咲く野の花」と例えていて心に沁みた。

 本著の鍵となるテーマのひとつが「孤独」であり、それは「創造の時空としての孤独」として、訳者あとがきでも強調されていた。毎日のように手紙が届き、その返信に追われたり(今のメールやチャットと全く同じ…!)、たくさんの友人が訪問してきたりと多忙を極める中でも、あえて独りになる時間を確保し、その中で思考を整理し、創作に集中する。この喧騒と静寂のバランスが、著者の創作活動を支えていたのだろう。現代においても、常時オンラインでつながる生活の中で、自らをネットと切り離す時間の必要性は日に日に増しているように思える。

 著者は同性愛を公にしたことで大学を追われたという経歴を持っており、その背景を知ったうえで日記を読むと「孤独」の意味合いがまた異なって見えてくる。自分の恋愛事情を率直に語っているが、社会的な差別や偏見について直接的に訴えることはせず、あくまで関係性そのものに焦点を当てている点に、著者の強さが感じられた。一方で、性別役割への疑問や女性の生きづらさについては何度も言及しており、当時のウーマンリブ運動とも通じているのだろう。

 今の日記ブームの中では、どちらかといえば日々の生活の積み重ねに魅力を感じることが多いが、このように著者の思考がふんだんに入っているエッセイ寄りの日記がもっと増えてもいい。

2025年6月3日火曜日

三寒四温

三寒四温/高橋翼

 植本さんと出店した文学フリマで仲良くなった高橋さんのお店「予感」を訪れた際に交換いただいたZINE。阿佐ヶ谷にあるISB BOOKSで開催された「ふ〜ん学フリマ」に参加するために作られたそうでオモシロかった。前作『夏の感じ、角の店』に引き続き日記となっており、2025年2月のある一週間が綴られている。

 前作は土日にオープンしているお店の日誌だったが、今回は平日の暮らしも含まれており、高橋さんの生活のリアルな部分がさらに増していた。知っている人の日記を紙媒体で読む体験は新鮮で、高橋さんの人となりを知ってから読んでいるので、前作よりもなるほどな〜と思うことがたくさんあった。あと前作に引き続き、料理の描写が魅力的で、いつも食べたくなる。今回はパスタのレシピがとても美味しそうで真似したくなった。

 猫を迎える話があるのだが、そのきっかけをもたらした方の猫が今、行方不明になっているらしい。その猫の迷子ポスターをお店で見た私の子どもは、私と高橋さんがお店で話をしているあいだ、猫の行方をずっと心配していたらしい。そんな出来事があったので、「クック」という名前が出てきたとき、思わず「クック出てきた!」と思わず大声を出したのであった。この日記は、次のZINEにも収録予定らしいので、そちらも楽しみ。

 そんな高橋さんのお店「予感」で『日本語ラップ長電話』を置いてもらうことになりました。前作の『乱読の地層』に続いて、ありがたいかぎりです…都内で販売いただいているお店は『予感』だけですので「どんな感じなのかな?」と見てみたい方はぜひ「予感」を訪ねてみてください。先日、初めてお店に行かせてもらいましたが、とても素敵な空間で、慢性的カルチャー不足な埼玉県民の私と妻は「あんなお店が近くにあったらいいなぁ」と帰りの電車で連呼していたのでした。

Instagram (@yokan.daitabashi)

2025年6月2日月曜日

ここは安心安全な場所

ここは安心安全な場所/植本一子

植本さんの新作『ここは安心安全な場所』のレビューを書かせていただきました。
通販サイトでも読めますが、ここにもポストしておきます。
こんなふうに毎回紹介文を書かせていただいて、感謝しかありません。
この場を借りて改めてお礼を申し上げます…ありがとうございます!
詳しくは本およびレビューを読んでいただければと思いますが、
前作にも増して、新しいフェーズに突入している感じがあり、
「一子ウォッチャー」の皆さまはもちろんのこと、
今の社会のどこか息苦しい部分の一端を知ることができるという意味で、
読者を選ばない作品になっていると思います。
通販スタートとのことで、以下リンクからぜひお買い求めくださいませ。
(発送は6/16以降の発送とのことです。)

石田商店 - ここは安心安全な場所

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 植本一子によるエッセイシリーズ『わたしの現在地』の第二弾は「馬と植本さん」という、パッとは想像がつかないテーマだ。岩手県の遠野を訪れている様子は、SNSでたまに拝見していたが、まさか一冊まるごと「馬の話」とは思いもしなかった。その意外性もあいまって、新境地へと達した「エッセイスト・植本一子」の本領が発揮されている一冊と言えるだろう。

 冒頭、映画のワンシーンのように淡々と遠野へ向かう描写から始まる。車窓の景色や気温、身体の感覚などが手に取るように伝わってくる、描写の粒度の細かさに圧倒される。そこから流れるように遠野での暮らし、馬との出会い、触れ合いが綴られていくのだが、そこには知らない豊かな世界が広がっていた。植本さんの作品の魅力として、誰もが経験する日常を、信じられない解像度で描いている点が挙げられるだろう。今回は多くの人にとって非日常な「馬」というテーマではあるが、解像度はそのままに、門外漢にも分かりやすく、馬を通じた生活と植本さんの思考が展開されていく。

 実際、どんな馬なのか。その姿は、植本さん自身が撮影したフィルムの写真で確認することができる。表紙を飾る馬の写真を含めて、圧倒的な存在感に心を射抜かれた。我々が「馬」といわれて想像する見た目は多くの場合、競走馬のように整えられた姿だろう。しかし、植本さんが訪れた場所で暮らす馬たちはまったく異なる。金色の長いたてがみをなびかせた、その野生味あふれる立ち姿がとにかくかっこいい。実際、この馬たちは、馬房にも入れず、人間が求める役割から降り、なるべく自然に近い状態で生きているらしく、そんな形で存在する馬の凛々しさに目も心も奪われたのであった。

 写真でグッと心を掴まれた上で、植本さんがいかに馬に魅了されているか、馬との関係について丁寧に言葉を尽くしている文章を読むと、臨場感が増し、まるで自分自身が遠野の大地に立ち、馬と向き合っているかのような感覚になった。それは馬に関するルポルタージュのようにも読めるわけだが、馬との関係や、ワークショップで過ごした内容を含めて、内省的な考察が展開していく点が本書のユニークなところである。

 人間は他者と関係を構築するとき、どうしてもラベリングした上で、自分との距離を相対的に把握していく。そのラベルでジャッジし、ジャッジされてしまう。SNS登場以降、ネット空間ではラベルがないと、何者かわからないので、さらにその様相は加速している。しかし、そのラベルが失われたとき、人は一体どういう存在になるのか?そんな哲学的とも言える問いについて、馬とのコミニュケーションを通じて思考している様子が伺い知れる。

 馬との関係においては、自分がどこの誰かといった背景は一切関係なく、接触しているその瞬間がすべてになる。人間の社会ではどこまでもラベルが追いかけてくるが、動物と関係を構築する際にはフラットになる。さらに犬や猫といった愛玩動物と異なり、馬はリアクションが大きくないらしいのだが、そこに魅力がある。つまり、現代社会では「インプットに対して、いかに大きなアウトプットを得るか」が重視され、余暇でさえコスパ、タイパと言いながら、効率を求めていく。しかし、馬や自然はそんなものとは無縁だ。その自由さは私たちが日々の生活で忘れてしまいがちなことを言葉にせずとも教えてくれるのだった。

 夜、馬に会いに行く場面は、その象徴的なシーンだ。祈りに近いような気持ちで馬を探しにいくが、馬は何も語らず、大きなリアクションも返さない。ただそこにいるだけ。それなのに、言葉では伝えきれないような安心感や包容力の気配を確かに感じる。そんな馬という「写し鏡」を通じて、自分という存在の輪郭を静かに確かめる。そんな自己認識の過程は、近年の植本さんのテーマでもある「自分の在り方」をめぐる探究と共鳴していると言えるだろう。

 と、ここまでそれらしいことを書いてきたのだが、巻末にある徳吉英一郎氏による寄稿が本書の解説として、これ以上のものはないように思う。遠野で個人としても馬を飼い、暮らしている方による「記名論」とでもいうべき論考は刺激的だ。特に、怖れ、恐れ、畏れ、怯えとの関係は、ゼロリスク型の管理社会全盛の今、言われないと気づけない大事なことが書かれていた。

 写真と文章、両方の技術と感性を持つ植本さんだからこそなし得た新しい表現がここにある。本書を通じて、多くの読者が、自分の「現在地」を見つめ直すきっかけになることを願ってやまない。

2025年5月29日木曜日

KISSA BY KISSA 路上と喫茶ー僕が日本を歩いて旅する理由

KISSA by KISSA/クレイグ・モド

 いつも聞いているRebuildにゲスト出演された回がオモシロくて読んだ。ポッドキャストを聞いている際にも感じた視点のユニークさが、本著ではさらに際立っていて、日本生まれ・日本育ちではなかなか気づけない「日本の奥深さ」に触れることができた。

 著者は、旧中山道(東京〜京都)を、交通機関や自転車を一切使わず、徒歩のみで踏破していく。その道中で出会った喫茶店と、そこにいた人々とのやりとりが、エッセイとして綴られている。日本の片田舎にある純喫茶に、突然「東京から徒歩で来た」という日本語の話せる白人男性が現れ、自分たちの話を熱心に聞いてくれたら話も弾むだろう。その結果として集まったエピソードの数々は、どれもとても貴重なものだ。

 ブルーボトルコーヒーが、日本の純喫茶インスパイアであることは周知の事実だが、著者が掘り下げているのはコーヒーカルチャーだけではない。ブルーボトルがすくいあげなかった、コーヒー以外の純喫茶の「周辺」に存在するカルチャーと人である。独特の内装、モーニングという制度、店主や常連のお客さんたち。その姿は街をフィールドにした社会学者のようでもあり、翻訳ゆえの大仰な語り口とあいまって、どこか歴史家のような風格さえ感じさせる。

 読み始める前は「旧中山道といっても、今では国道沿いにチェーン店が並ぶだけでは?」と思っていた。しかし、著者は「喫茶店のピザトースト」を足がかりに、個人経営の純喫茶を巡礼のように訪ね、発見していく。「金太郎飴」だと思っていた街の中を、まるで桃源郷のような純喫茶を独自の審美眼で見つけては、お店の人、お客さんと会話することで土地の理解を深めていく様が興味深かった。価値のないと思われているところに新たなレイヤーを見出していく態度はヒップホップ的ともいえる。

 シャッター商店街や地方の過疎化については、すでに多くの切り口で語られてきたが、そこに日本国外の視点が加わることで、改めて気づかされることが多かった。たとえば、他国であれば、人がいなくなった場所は荒廃してしまい、うかつに近づけなくなるが、日本ではそのまま静かに残っていて、つぶさに観察できる。これが日本の独自だという視点は日本人には浮かばないだろう。

 若者の人口減少とグローバリゼーションの加速度的進行が、シャッター商店街、田舎に顕著に表れていると指摘されているが、2025年現在、それはさらに加速を進め、都市部の個人店もどんどん駆逐されていき、どの街も「金太郎飴」的な均質な風景へと変わりつつある。(渋谷とか)だからこそ、著者のように、自らの足で歩き、自分の目で見て、耳で聞くという行為は、ますます重要になっていくだろう。AI全盛の時代において、それはまさに「人間にしかできない営み」だ。

 この版元であるBOOKNERDにて拙著『日本語ラップ長電話』をお取り扱いいただいております。ぜひKISSA by KISSAと合わせて、ご購入くださいませ。
「結局、宣伝かい!」と思われるかもしれませんが、たまたま読んだタイミングだったのです…!奇跡!

日本語ラップ長電話 on BOOKNERD

2025年5月26日月曜日

START IT AGAIN

START IT AGAIN/AK-69

 本屋をぶらぶらしていたら、たまたま見かけて買って読んだ。正直、AK-69の曲が好きになってきたのはここ数年のことだ。さらに直近 YouTubeでみた THA BLUE HERB の BOSS との対談で人となりに興味が沸いたのであった。ラッパーの自伝はそれなりに読んでいるほうだが、本著は少し毛色が違った。自伝的な要素は控えめで、それよりも彼が今の位置に至るまでにどう努力し、どう考え、どう動いてきたのか、その方法論が詰まった「自己啓発書」としての色が濃い一冊だった。ヒップホップと自己啓発のかけ合わせの相性の良さがほとばしるほどに炸裂しており、自己啓発書を普段読まない自分でもヒップホップが加わってくることで「なんか頑張ろうかな〜」と思わされるのであった。

 AK-69という名前を最初に意識した瞬間を、はっきりと覚えている。それは『Blast』という雑誌のインタビュー記事だった。AK-69とKalassy Nikoff、それぞれの名義で同時にアルバムを出すというタイミングの特集で、彼の過去の悪行に少し怯えつつ、ヒップホップのストリートカルチャーの一端を垣間見たようで興奮した記憶がある。

 それはさておき、本著では彼がどのようにして「ラッパー・AK-69」として大成したのか、これまで行ってきた具体的なアクションを通じて、自分のマインドセットを丁寧に説明している一冊である。なんとなくのキャリアしか知らなかったが、本著を読むことで彼のラッパーとしての成り上がり方やスタンスを深く知ることができた。歌詞へのアプローチ、ビーフに対するスタンス、セルフプロデュースの思想など、音源だけではうかがい知れない背景が明かされている。

 本の仕掛けとして印象的だった点は冒頭だ。まるでリリックのように、AK-69が読者に問いかけてくる。しかも、そのリリックは単なる縦書きではなく、ヴィジュアルライティングでかましていく。「これぞAK-69!」という派手さと美学が炸裂していて、めちゃくちゃカブいている。近年のヒップホップは自然体がクールとされる傾向にあるが、彼が活躍した 2000〜2010年代、ラッパーは「カブいてナンボ」の時代だった。今なおそのスタンスを貫く姿を見ると、本著で書かれている自己啓発的な内容に説得力を感じるのであった。

 個人的に一番驚いたのは、彼が配偶者のことを「パートナー」と本著内で一貫して呼んでいた点だ。AK-69の音楽のコアなファン層の中には、「嫁」という呼び方を好むような層も少なくないという偏見が自分の中にあった。しかし、彼は本著で一度も「嫁」とは書いていない。ここに彼がラッパーとして長いキャリアを築くことができた一端を垣間見たのであった。つまり、時代の空気を敏感に察知し、自分がそこにフィットしていないと気づけば、しっかりとチューニングしていく。自分自身を客観的に見つめ、今求められている姿に再構築していく柔軟さ。彼はラッパーである同時に、セルフマネジメントの達人とも言えるだろう。

 たとえば、新作『My G’s』では、客演を多数迎えたアルバムのDX版を制作し、横浜アリーナでフェスのようなショウを開催する予定になっている。キャリアが長くなればなるほど閉じていきがちな世界に、新旧さまざまなラッパーやビートメイカーとケミストリーを起こしていくその姿勢は、まさに風通しを良くするための意識的な選択だろう。同じく「自己啓発的」なスタイルを持つ KREVA が客演ゼロ、どちらかといえば閉じた世界観を提示したアルバムとは対照的で、それぞれの戦略と哲学の違いがよく表れている。ほぼ同世代のラッパーかつ互いに日本語ラップのシーンと距離を置きながら、自分の市場を開拓してきた二人が、まったく別のアプローチを取っている点に、とても象徴的なものを感じる。

 「自分の曲には他人への応援歌は一曲もない」と語る彼の言葉も印象的だった。彼の曲は多くのスポーツ選手に愛されているので、応援ソングとして機能しているものと考えていた。しかし、彼の曲を聞いている人たちは、AK-69の言葉として認識するというよりも、自分の中にリリックを取り込み、憑依させる形で聞いているのかもしれない。強烈な一人称を持つヒップホップの特徴が活きているといえる。そうやって聞けるリリックは意外に少ないのかもしれない。

 欲を言えば、彼が経験してきたであろうヒップホップの裏側の話をもっと聞きたかったところではある。名古屋という独自のシーンに根ざしたAK-69は、いわゆる日本語ラップの東京中心の文脈とは異なる場所から登場している。その背景にあるローカルな文化や美学について、本書でもいくつか触れられてはいたが、もっと深く掘り下げてほしかった。

 名古屋のヒップホップという観点でいえば、AK-69のキャリアの転換点として ¥ellow Bucks の台頭は欠かせないトピックであろう。もし彼が現れていなければ、AK-69の現在地はまた違った形になっていたかもしれない。実際、自分自身も「Bussin’」がなければ、彼の音楽にここまで触れることはなかっただろうと思う。だからこそ、AK-69からみた ¥Bという話は、他のラッパーも含めていつかじっくり語ってほしい。実際、本著のラストでは、表題にもなっている代表曲「START IT AGAIN」にYZERR がREMIXで参加した際のレコーディングのストーリーが語られている。「まさにこういう話を読みたい!」という内容だったので、続編に期待したい。このインタビューも合わせて読むと、日本語ラップに対する彼のスタンスがより深くわかって興味深かった。

AK-69と日本語ラップシーンの”縁”

2025年5月19日月曜日

たのしい保育園

たのしい保育園/滝口悠生

 滝口さんが保育園を題材にした小説。文芸誌で連載されていことは知っていたが、単行本になる日を待とうと思い、情報をシャットアウトして待った結果、ついにその日がやってきた。以前にポッドキャストで育児、保育に関する話を伺っており、その時点で相当オモシロかったわけだが、それが今回小説という語り口になることで新たな魅力がふんだんに詰まった最高の小説だった。

 主人公は、ももちゃんという子どもと、そのお父さん。各話が短編として独立しているものの、登場人物は同じなので、連作としても読めるようになっている。植本一子さんとの往復書簡『さびしさについて』でその片鱗を見せていた子どもに対する解像度の高さが本著では存分に発揮されている。テクノロジーの進歩で、簡単に写真や動画で子どもの姿を記録することは可能になったが、改めて文字で目の前で起こっている子どもの様子を言語化されると、そのダイナミックさ、ひいては生命の尊さまでリーチするような厳かな気持ちが湧いてくる。

 子育てをする身からすれば「子どもあるある」がふんだんに詰め込まれているとも言えるわけだが、その「あるある」の解像度は、よくある子育てエッセイとレベルが一段違っている。それは子どもを日々育てる中でなんとなく考えているが、言語化できていなかった思考の残滓を滝口さんが拾い集めて、言葉にしてくれている、そんな印象だ。特に「保育園」を題材として取り上げていることはその象徴のようだ。

 保育園は預けている立場からすると、育児においてかなりの割合を占有するわけだが、自分が育児主体ではないので、保育園での育児について深く考える機会が少ない。そもそも成長速度を含めて日々が怒涛すぎることもある。そこを丁寧にすくいとり、保育園と共に育児を行う様子とその意味をここまで深く描いたものはないだろう。そして、保育園に子どもを預けたことのある人がもれなく感じたことのある、保育園という場所、保育士という職業に対する圧倒的な尊敬と感謝の気持ち、全面的肯定が小説に落とし込まれているのだから、たまらないものがあった。

 〇〇ちゃんのお父さん/お母さんという呼び方に対して、アイデンティティを尊重する観点でネガティブに捉えられるケースもあるが、本著では子どもを持つ登場人物は皆、(子どもの名前+お父さん、お母さん)という形で表現されている。それは保守的ということではなく、あくまでここは子どもの社会なのだ、という宣言のように感じた。そして、それは物語上、区別するための便宜上のものでしかない。本著内で言及されているとおり、保育園に通っていると、子どもが誰に帰属するかは本質的には関係なく「保育園」という共同体に集まった大人たち全員で子どもを育てているのだという認識があるからだ。核家族化、人間関係の希薄化などにより地域ぐるみの子育ては減少していると嘆かれて久しいが、本当にそうだろうか。家族の在り方も20世紀から変化している中で「保育園」が、一種の育児の共同体を担保している可能性について改めて認識することができた。

 最後にある「連絡」という話は、これまでの滝口さんのスタイルが最も色濃く映る。そこへ子どもに対する高い解像度の視点が入り込んでくることで、これまでの作品とは違った印象を持った。たとえば、ガザ虐殺について言及されているが、それが子どもたちが公園で遊んでいる最中に挟まれることでまったく他人事ではなくなる。また、ギスギスした現代社会において、誰が何をしてもいても気にしない一種のユートピア的存在としての公園という空間の多様性が、滝口さんの得意とする視点遷移と共に描かれており、その相性が素晴らしかった。保育園や公園といった場所の存在を言祝ぐような小説だった。

2025年5月13日火曜日

BAD HOP解散!!…. その後のわたくしzine

BAD HOP解散!!…. その後のわたくしzine/マルリナ

 文学フリマで『日本語ラップ長電話』というZINEを売っていたのだが、購入してくれたお客さんから手渡しでもらった紙のZINE。タイトルからして絶対オモシロいだろうなと思って、何気なく読み始めたら、一気読み…!オモシロ過ぎた。しかも、noteでもブログでもなく、手書き&セルフ印刷というスタイルがかっこいい。ZINEブームの中で、ZINEを作って販売することで承認欲求を満たしている自分のことが恥ずかしくなった。資本主義が介在しないガチのZINEは、まさに「ヒップホップ」としか呼びようがない。古参ぶるつもりは毛頭ないのだが、もう十年以上聞いているので、どうしたってアーティストや曲に対して「あーこの感じね」と悟った態度を取ったり、御託をうだうだ並べてしまうわけだが、本著にはヒップホップに対する初期衝動とパッション、それに基づく実践が、これでもかと詰め込まれていた。

 表紙に書かれているとおり、BAD HOPのファンだった著者が、解散後どのようにヒップホップライフを過ごしているのか、ライブレポととして記録されたZINEである。ライブレポは時系列に並んでおり、日記に近い形でリアルな気持ちと現場の様子が丁寧に描かれている。今は昔のようにCDをたくさん買わなくても音楽を聞けるからからいいなぁと思っていたが、その分だけライブやマーチにお金が投下されている現実が記録されていた。とにかく小箱、大箱、都内、地方問わず、自分が好きなアーティストのライブに通い詰めているのだ。BAD HOPを入口として、LANA、KviBaba、Elle Teresaなど現状のトップどころのライブにこれだけ通い詰めていることに驚くし、それがSNSにあるような短絡的な感想ではなく、言語化されていることが貴重だ。媒体におけるライブレポには意味がなくなっているかもしれないが、一個人の記録としてのライブレポにはまだまだ価値があること、そしてBAD HOPがヒップホップの間口を広げる存在として機能していたことを思い知らされた。

 さらにウェブ媒体にあるようなライブレポと一線を画している点は、周辺の観客の様子まで記録されている点である。最も驚いたのは、ライブで周囲のお客さんから押されることが常態化していることだった。本著に登場するような若手のラッパーのライブには足を運べていないし、ライブに行っても自分の背が高いこともあり、後方で見ているので、まったく預かり知らない「ライブあるある」だった。そして、どうしてお客さん同士が押し合うかといえば「近くで撮影したいから」というのも、今の時代のヒップホップライブの現実を映し出していると言えるだろう。また、現場にいるギャルたちのパンチラインの数々にも完全にノックアウトされた。まさに ”この現場以外に本場なんてのは存在しない” のだ。

 ヒップホップカルチャーはおびただしいコンテキストがアーティストや楽曲の背景に存在し、他のジャンルの音楽に比べて、聞く上でのハードルが高くなっているのは間違いないだろう。それはポップな層を新規として受け入れられないハードルになるケースもあれば、一度好きになれば、どこまでものめり込める沼の深さがあるとも言える。その双方がファンの視点から余すことなく描かれている稀有な一冊だった。

2025年5月12日月曜日

文学フリマ完売御礼&通販開始

 前回はおんぶに抱っこスタイルで出店した文学フリマに初めて自分で出店しました。新刊である『日本語ラップ長電話』と前回作った『乱読の地層』を持っていったのですが、おかげさまで持っていった分について完売することができました。ご購入いただいたみなさま、本当にありがとうごうざいました。

 事前段階では「日本語ラップと文学フリマの相性いいのか?」と疑問に思っていましたが、ヘッズの方もちらほらいて、そういった方にはもれなく購入いただいたような感じがあり、大変嬉しかったです。さらには、日本語ラップ自体に深い興味はなくとも、ご購入いただける方が想像以上に多く、近年の日本のヒップホップシーン、ラップカルチャーの盛り上がりを肌で感じました。日本語ラップの冬の時代を見ていた身としては、感慨深いものがありました…改めてありがとうございます。

 そして、本日より通販での販売を開始しています。メルカリショップでご購入いただけますので、遠方の方は是非こちらよりご購入くださいませ。書影は文学フリマで大活躍してくれたCyderです。




『日本語ラップ長電話』
通販サイト

 自分の戦利品はこんな感じ。文学フリマは作り手の方と直接コンタクトできるのが楽しいところですが、熱烈応援している美玉書店やpalmbooksの方々と直接お話できて嬉しい限りでした。そして一番ヤバいブツはこの手書きのZINE…また紹介できればと思います。


2025年5月9日金曜日

アンビバレント・ヒップホップ

アンビバレント・ヒップホップ/吉田雅史

 荘子itとの対談本『最後の音楽:|| ヒップホップ対話篇』も興味深かったので読んだ。ゲンロンでの連載に加筆したものらしく、ヒップホップに馴染みのない読者にも配慮された構成ながら、読み進めるうちにその深度に驚かされる設計になっている。アメリカのヒップホップを主たる対象とする批評が多い中、国内のアーティストにフォーカスされており、なおかつ日本語ラップの立脚点がどこにあるのか、これからの日本語ラップの批評の方向性を示しているとも言えて、本著はその金字塔として今後読み継がれてほしい一冊だった。

 タイトルにある「アンビバレント」は本著における最大のキーワードであり、数々の議論がこのワードへと収束していく。代表的なアンビバレンスとしては、「資本主義とリアル」「アメリカと日本」の二つが挙げられるだろう。前者に含まれる「リアル」が第一章のタイトルという時点で、本著がいかにヒップホップを真摯に捉えようとしているか伝わってくる。日本では、ヒップホップの隆盛に伴い、資本主義の流入は日に日に加速しており、その状況と古参ヒップホップ好きが大切にしていた価値観である「リアル」は相剋する。その緊張関係は、まさに自分が抱えている「アンビバレント」な気持ちそのものである。本著では先んじて、その相剋を乗り越えたであろうアメリカの状況を解説してくれている。特定のアーティストに焦点を当てつつ、通史的な視点も持ち合わせた解説は、ヒップホップ初心者から批評を求める読者まで幅広く楽しめる内容となっている。

 本著の大きな魅力のひとつは、その眼差しのフレッシュさにある。たとえば、ヤン冨田とDJ KRUSHを並べて、ヒップホップにおけるオーセンティシティを論じたり、いとうせいこう、SEEDA、KOHHという異なる世代のラッパーを通じてラップ表現の変遷を定量的に分析するなど、枚挙にいとまがない。なかでも、KOHHに対する考察は白眉だった。彼がトラップをいち早く取り入れ、三連フローなど、トラップと日本語の可能性を拡張したことは周知の事実であるが、これだけ定量的なアプローチで解析した例はおそらくないだろう。意味を壊し、音を優先する中で、ボキャブラリーの貧しさが逆に功を奏したというのは、価値を反転させるヒップホップそのもので、KOHH(および千葉雄喜)がいかにヒップホップを愛し、ヒップホップに愛されるラッパーなのか、そんな証にも映った。

 著者の語り口が理論的であることも特徴的だ。ヒップホップはアートであり、抽象的な議論が多くなりがちだが、引用する文献を明確にして議論を積み上げて行く姿勢は批評としての強度を支えている。さらに、著者がビートメイカーであることを活かした独自のグリッド表記を使った各種解説がエポックメイキングだった。言葉と音の両方を可能な範囲で分解して、読者と共に眺めていく作業を行うことで、説得力を増すことに成功している。ヒップホップに限らず、音楽評論としても新しい境地が切り開かれていると言えるだろう。

 ビートの章でいえば、現在のヒップホップにおけるサウンドの基準であるTR-808に対する考察に驚いた。実機の音が、ウェブ上でまるで融解していく様をめぐる周辺環境の解説は、著者自身がビートメイカーだからこその深度があった。また、トラップ以外の多くのヒップホップの楽曲において808サウンドが使われていること、その使用とラップにおけるメッセージの相関性の考察は目から鱗だった。

 アメリカ発祥のカルチャーであるヒップホップを日本で実践するという営みには、アンビバレンスがつきまとう。もともとヒップホップは、アフリカ系アメリカンを中心とした「サヴァイヴァル・ツール」としての側面を持ち、それを背景を参照せずに形式のみをなぞることは、文化盗用(カルチャー・アプロプリエーション)の危険をはらむ。かといって、アメリカのスタイルを絶対視し、それを基準に日本のヒップホップを評価するような態度も、どこか屈折した文化的劣等感の表れに映る。アメリカ、日本のヒップホップの両方とも好きであればあるほど、この「アンビバレンス」に苦しめられる。それはアーティストもリスナーも同様のことだろう。しかし、著者はその苦しみこそが「日本語ラップ」なのではないか?と提示しており興味深かった。白黒はっきりつけてしまう快楽に抗い、宙ぶらりん=アンビバレントな状態に置いておくことで、日本のヒップホップがアメリカを参照しつつも、独自のスタイルを構築していくのではないか。そんな見立てにおおいに首を振った。

 終盤は、2020年代に入り豊穣さを増す日本語ラップの現状が具体的に取り上げられている。Tohjiや舐達麻といった代表的アーティストも、単に紹介されるだけでなく、音楽理論やサウンドとの関係性を通じて分析されている点がユニークだった。たとえば『KUUGA』は多くの批評にさらされた作品であるが、本著ではTohjiの「内なるJ」を音楽理論から示している点が新しいし、舐達麻についても、ビートのエモさとラップの温度の対比からエモラップの日本スタイルともいうべき在り方について分析されており興味深かった。その中でも印象に残ったのは、KRUSHとJinmenusagiの「破魔矢」に対する考察だ。それは「ダサい」とされていた「お経スタイル」の価値が反転し、かっこいいものになるという最もヒップホップ的な価値観が反映されているからだ。しかも、これは本著前半の議論と呼応しており、このような形で伏線回収するような展開がいくつか用意されている。こういった仕掛けは批評にありがちな単調さを避け、読者を飽きさせないスパイスとして機能していた。長々と色々書いてきたが、本当にたくさんの気づきがある一冊だったので、全ヒップホップ好きに読んでほしい。

2025年4月30日水曜日

死なれちゃったあとで

死なれちゃったあとで/前田隆弘

 積んであったので読んだ。タイトルからして、今読みたかった本だった。JJJ逝去について、安易に言語化できない気持ちがあるのだが、そんな灰色の気持ちを少し和らげてくれる、死への向き合い方を考えさせてくれる稀有な一冊だった。

 編集者・ライターである著者の周りで起こった死にまつわるエッセイ集。もともと文フリで売っていたZINEが商業出版されたもので、最近のZINEブームの先駆けともいえる。死といえば、どうしても「悲しい」「辛い」というイメージばかり浮かびがちだが、実際には喜怒哀楽が存在することに気づかされる。また、死自体にもさまざまな種類が存在し、それに伴って変動する、残された側の感情のあり方について、ここまで具体的に踏み込んで描いているエッセイは読んだことがなかったので興味深かった。特に「父の死、フィーチャリング金」はあまりにもすべてが生々しく綺麗事は一切見当たらない。死とお金は切っても切り離せないことを眼前に叩きつけられたようだった。

 このように死の周りに転がっている現実について、お金、事故、病気とその治療など普段聞くことが少ない数々の事例について知ることができたのは、人生の予習をしているようだった。病気のように近い未来に亡くなる可能性を知っている場合と、自死、事故死のように唐突に死の暴力性が剥き出しになる場合の両方が描かれているので、死を立体的に捉えることができる構成となっている。そんな中でもコロナ禍は特異点といえるが、コロナ禍で亡くなった場合の葬儀がどんなものだったのか、これは歴史に残る重要な記録とも言えるだろう。

 著者の後輩であるD氏は自殺で亡くなっており、彼の死が本著で最もフォーカスされている。数ある死の中でもタイトルの言葉が最も響くのは自死であることは間違いない。自分の意思で急に世の中を去ってしまい、その後に残された側の放り出された感情はいろんな形で存在し、表現される。そこに当然優劣はなく、著者はその感情の置き場について向き合った過程を本著に書き残してくれている。忙しい日常の中で、人の死はどうしても見ないように蓋をしてしまいがちだが、少しでも思い出して、何か具体的に行動することで見える景色を身をもって見せてくれていた。

 友人のラッパーである黒衣の曲「バカとハサミ」にある「ログインしてなきゃ死人扱いか?」というリリックが好きなのだが、それを地でいくエピソードがあり、ネット時代の生死に関する考察が興味深かった。今では死後に家族がログインして代理報告する場面を見かけるが、家族に公開していないアカウントであれば、更新が止まったブログやSNSアカウントの残留思念は、死後そのままインターネットを放流し続ける。それは生きているとも言えるし、死んでいるとも言える。そんな生と死の境界があいまいになる現代だからこそ、葬式が持つ「区切り」としての意味が改めて浮かび上がっていた。

 本著では身近な人の死が数多く取り上げられているが、物理的な距離はあるものの、身近な存在であるアーティストの死との感情の折り合いに困るときがある。とりわけヒップホップというジャンルではアーティストが若くして亡くなるケースがあまりにも多く、そのたびに心が痛む。そのたびに「YOLO(You Only Live Once)」 が毎回頭によぎり、行けるときにライブは行っておいたほうがいいし、やりたいことがあれば、just do it だなと毎回思わされるのであった。

2025年4月26日土曜日

日本語ラップ長電話


 約一年にわたる試行錯誤を経て、日本語ラップに関するZINEをついにリリースすることになりました。
タイトルは 『日本語ラップ長電話』 です。

 日本のヒップホップがここ数年で爆発的に人気を拡大する中で、過去のヒップホップについて、懐古主義の象徴として「日本語ラップ」と形象する場面に遭遇することがあります。ただ、個人的には「日本語ラップ」に込められた言葉の意味として、楽曲内およびアルバム内にラッパーたちがコンテキストを閉じ込めたものを「日本語ラップ」と呼びたい。そういう思いでこのタイトルにしました。

 内容は、私が運営しているポッドキャスト番組「In Our Life」で話した日本のヒップホップに関する内容を再構成したものになります。既出の話ではありますが、活字として再構成することで、新たな魅力に溢れたものとなりました。

 さらに特典として「2025年のKREVAとSEEDA」について話したボーナスエピソードがついてきます。ここでしか聞けない内容なので、いつも聴いてくれている皆さんには是非聞いて欲しいと思います。

 noteでイントロ部分が読めるようになっていますので、試し読みしたい方はこちらからお読みください→『日本語ラップ長電話』Introduction

 メルカリショップで通販販売していますので、遠方の方はそちらでご購入いただけますと幸いです。IN OUR LIFE Web SHOP

 そして、今回は文学フリマ40から販売開始させていただきます。関東近郊の皆様でお時間あれば、是非お越しくださいませ。当日は私とCyderで店番する予定です。


それでは現場でSee Ya!


文学フリマ東京40

2025/05/11(日)12:00〜17:00

東京ビッグサイト(東京都)南1・2ホール

P-53 / IN OUR LIFE

https://c.bunfree.net/c/tokyo40/1F/P/53


2025年4月24日木曜日

この星を離れた種族

この星を離れた種族/パク・ヘウル

 inch magazineという出版レーベルによるポケットシリーズ。第一弾の『生まれつきの時間』もオモシロかったが、今作も同じく短編集としての余韻が素晴らしかった。

 ショートショート「鉄の種族」と表題作の二作で本著は構成されている。どちらも地球に住めなくなる未来の話だ。表題作は、ある惑星をテラフォーミング(地球化)して人間が住めるようにすることを目的として、女性の主人公が派遣される。彼女は、難民として過酷な人生を送りながらも、ゴミ収集車の運転手として働き、自動車整備士の資格を得たことで「テラフォーマー」に選ばれ、単身で惑星の地球化プロジェクトに従事する。孤独と向き合いながら自然と生きている様は、ソローの「森の生活」さながらだ。

 テラフォーミングというと、近未来的で先進的な響きがあるが、本作が描くのはその裏にある破壊の現実だ。新しい生命のために、既存の生態系を殺してしまうことになる。テラフォーミングの過程で、惑星にもともといた生物たちは次々と死に絶えていくわけだが、そこから目をそらさず、淡々と描き出す筆致に物語に対する誠実さが感じられる。一種の「惑星の緩慢な死」とも言えるわけだが、その死のコストを、社会的に弱い立場に置かれた主人公が一手に背負わされているという構図は今の時代にも起こっていることだろう。特にあえて思考停止して業務に従事する姿は読んでいて痛々しく、会社との硬直した関係性など含めて過酷労働小説ともいえるだろう。

 作品の中盤から登場するのが、「山羊頭」と呼ばれる動物である。この不思議な生き物は、仲間が死ぬたびに「葬礼」という儀礼的な行動をとる。気候変動の影響で仲間が大量に死んでいく中、葬礼を行う姿は健気で、人間以上に人間らしい。主人公は家族との通信も断たれ、孤独と虚無の中で次第に「何のために生きているのか」が分からなくなっていく。だが、山羊頭の命を救うことに人生の意味を見出し、惑星を徘徊する浄化車のスイッチを一つずつ手動で切っていく姿は愚直さの体現であり「目の前の現実」にフォーカスする意志の表明でもある。

 作中に登場する「オセロゲーム」という表現は、本著を形容するのにぴったりなフレーズだ。一つの行動が、ある者を救い、ある者を見捨てる。ひっくり返すことで、救われる側と見捨てられる側。このコントラストが物語の構造を象徴している。誰のために、何のために行動するのか。テラフォーミングとそれに伴うバックラッシュのはざまで葛藤する主人公の姿から考えさせられた。

 橋本輝幸氏による「気候変動SF小史」が付録的についているのだが、かなり興味深かった。地球温暖化に端を発するハリケーン、台風、豪雨、山火事などの被害の深刻化は目に見えてひどくなっている中で、少し先の未来を描いていくSFにとって、気候変動はこれから格好の題材になるのだろう。本著はその先頭を切るような一冊だった。

2025年4月23日水曜日

彼女は頭が悪いから

彼女は頭が悪いから/姫野カオルコ

 Kindle Unlimited に入っていたので駆け込みで読んだ。『Black Box』の後に読むと、別のべクトルでの性加害の問題が浮き彫りになっており、暗い気持ちにさせられる一冊だった。本著は性加害を大きなテーマとして取り扱っているのだが、それよりも日本における階級社会をアクセル全開で小説として描いており、社会派作品でありながら、物語としてもオモシロかった。

 本著は、実際に起こった東大生による強制わいせつ事件を基にした小説だ。加害者の東大生たち、被害者の女子大生を中心に展開する群像劇として描いている。登場人物がかなり多く、それぞれのキャラクター設定が丁寧に練られており、言葉を尽くして描かれているため、物語への没入感はかなり高い。当事者である学生たちの高校から大学に至るまでの長さだけではなく、その両親や祖父母にまで取材が及ぶかのような描き込みには驚かされた。これほど深いレベルで人物を掘り下げる小説にはなかなか出会えない。

 そして、その描く角度も独特で、出自や学歴といった「階級」に固有名詞を連発しながら切り込んでいく。それが本著全体に漂う嫌な空気の元凶だろう。自分が普段避けてきた、この手の人々の思考や会話に久しぶりに触れさせられた感覚があり、フィクションとはいえ読んでいてしんどかった。

 「東大という社会的に絶対的な看板のもとでは何をしても許される」という驕りが作品中のそこかしこに登場する。しかし、恐ろしいのは、彼らと読者である自分が完全に別だと言い切れない点である。「東大」がスケープゴートとなっているが、誰しもが権威に寄りかかって、他者に対して無自覚な暴力をふるまってしまう可能性があるわけで、他人の気持ちを幾らかでも想像できることの大切さを痛感させられた。学歴や育ち、仕事に対するジャッジメントの視点に抵抗があるものの、自分にそうした視点がないわけではなく、むしろ狭量であるという自意識がある。そうした自意識もあいまって、自分ごとのように迫ってきたのであった。

 事件に関わった男性の登場人物たちが、女性を一人の人間としてリスペクトしない姿勢を、日常の些細な描写によって浮かび上がらせている点も著者の筆致が光る。一事が万事、女性を対等な関係ではなく「駒」として扱い、常に「女性と一緒にいる自分」にフォーカスしており、身勝手な振る舞いを繰り返す。そして、自分の地位が努力の成果だと信じて疑わない彼らの足元を支えているのは、実は親の高い経済力という現実について皮肉を交えて描いていた。

 作品内で描かれる性加害は、レイプにまでは至らないのだが、陰湿で執拗な暴力が被害者をじわじわと追い詰めていく様子は読んでいて苦しかった。暴力に大小はないことは大前提として、レイプよりも心に深く傷を残すエグさがあった。これだけ胸クソ悪い思いをしたからには、それ相応に罰を受けてほしいという読者の思いは半ば叶い、半ば裏切られる。その分岐点が「東大」であることが象徴的な皮肉であった。

2025年4月21日月曜日

Black Box

Black Box/伊藤詩織

 Kindle Unlimitedにあったので読んだ。ここ数か月、映画をめぐる議論が再燃しているのを見て改めて興味を持ち、読んだわけだが、著者に対する性加害の凄惨さはさることながら、性加害を取り巻く日本社会の現状に衝撃を受けた。

 本著は、著者がTBSワシントン支局長だった山口氏から性的暴行を受けた後、裁判に至るまでの過程を克明に描いたドキュメンタリーである。もはやこの事件を知らない人は少ないだろう。それは被害者である著者が実名を公表し、加害者の逮捕が不当に阻まれた事実を告発したことによる。刑事事件としては不起訴、検察審査会でも不起訴相当となり、最終的に民事裁判で勝訴を勝ち取った。この一連の流れは知っていたが、本著を通して見えてきたのは、そこに至るまでの詳細なプロセスと、著者が抱き続けた思いの数々だった。

 ジャーナリストを志していた著者だからこそできた調査報道のような形で事件に肉薄していく筆致は映画を見ているようだった。性加害の被害者が、自ら事件の真相に迫っていくことは、日本ではほとんど前例がないはずだ。自身の体験を通じて見聞きした日本社会の旧態依然とした制度や意識を描き出すことで、それを痛烈に証明している。取材者と被告者という二重の立場を振り子のようにいったりきたりしながら、言葉を尽くしている様から覚悟がヒシヒシと伝わってきた。特に取材者としての視点は圧巻で、自身の被害を相対的にとらえながら、論点、背景を整理しており、情報を伝達するジャーナリストとしてプロフェッショナルな姿勢を感じた。

 事件の概要を把握していたものの、具体的なディテールは知らなかったわけだが、想像以上に古典的なやり口に驚いた。それは雇用者と被雇用者の権力勾配を利用した手口だったからだ。そこに「デートレイプドラッグ」という新たな手口をかけ合わせており、読んでいて本当に胸クソ悪かった。こうした加害が行われないように、あるいは行われた際に救済されるために法律や制度が存在しているはずだが、そこが機能しない現実が余計に辛い。法律が時代遅れであること、また警察の捜査手法が現代とフィットしてない点は著者が再三指摘しているが、この事件の特異性は、権力の介入で司法や捜査が歪められた可能性が示唆されている点にある。

 著者に対して誹謗中傷を浴びせる人たちは、自分が同じように権力の恣意的な行使の対象になる可能性について想像力を持てないのだろうかと、毎回不思議に思う。また「仕事の口利きしてもらいたくて行ったのだから、しょうがない」といった論調にも違和感がある。本人の同意なく避妊具なしで性交されたとしても、しょうがないことなのだろうか。全くの他人であり、本著を読んだだけにも関わらず、これだけの嫌悪感を抱くのだから著者の心情は察するに余りある。

 また、性加害を受けた際の具体的な対応やアドバイスも記されている点が印象深かった。たとえば、被害を受けたあとは産婦人科ではなく救急へ行くべきこと、日本の法律で加害者を訴える際に必要となる証拠や手続きなど、被害に遭った人が実際に必要とする情報が丁寧に記されている。今のところ自分自身が性加害に遭う可能性は高くないが、娘を育てている立場でもあり、こうした問題は決して他人事ではなくなっている。だからこそ、一刻も早く社会が変わってほしい。

 しかし、本著を含めてこれまで著者が訴えてきたことが、ドキュメンタリー映画製作における作法の不備や、その後の立ち振る舞いによって損なわれてしまいそうな現在の状況にやるせなさを感じる。事件と製作体制を十分に切り分けている論調はあるものの、作品そのものが性加害を主題としている以上、同一視は避けられず、結果として事件が矮小化されてしまう危険もある。現状の懸念点をクリアにし、日本での公開に漕ぎつける以外に、誤解や混乱を乗り越える道はないのではないかと感じる。

 文庫版には武田砂鉄氏による解説の以下ラインが印象深かった。この事件に対して多くの人が取っている姿勢をズバッと書いており、これを読んでハッとした人は読んだ方がいい。

あまりにも理にかなわない言動や判断が繰り返されると、人はなぜか、それを順序立てて振り返る興味を失ってしまう。長期にわたる揉め事を確認すると、これだけ揉めているということは、どっちにも非があるのだろうな、と片付けようとする。どちらが優位か不利かを遠目に眺める。 でも、そういうことではないのだ。バランスではないのだ。起こしたことから逃れようとしている加害者がいて、そうであってはならない、自分のような経験を誰にも味わってもらいたくない、という思いから、その背中を捉えにいった被害者がいる。

2025年4月20日日曜日

死ぬまで生きる日記

死ぬまで生きる日記/土門蘭

 キャッチーなタイトルをいろんなところで見聞きしていて、ずっと気になっていたのだが、ようやく読んだ。どのように希死念慮と折り合いをつけて生きていくか、カウンセリングでストラグルする様がまっすぐ描かれており興味深かった。

 著者は幼い頃から定期的に「死にたい」という衝動に苛まれている中で、オンラインカウンセリングという通常のカウンセリングよりもさらに匿名性の高いサービスを利用して、自分の希死念慮をどう取り扱うかを追ったドキュメンタリーである。タイトルに「日記」とあるが、具体的な日付の記載はなく、著者とカウンセラーとの対話、それを受けた著者の内省が十二章にわたって展開されている。

 本著を読みながら、こないだ読んだ『なぜ人は自分を責めてしまうのか』を思い出した。両者には共通する視座があり、どちらの本にも熊谷晋一郎による「自立とは依存先を増やすこと」という言葉が引用されているのが印象的だった。特に本著において著者が母との関係性に悩む姿は「自責」の感情そのものだ。その様子は『なぜ人は〜』のケーススタディのようにも感じられ、理解を深める助けにもなった。以下のラインはまさに。

あらゆる不満や苦悩を他者のせいにすると。他者が変わってくれることを期待するしかない。 そんなことは私にはできなかった。これまで何度もその期待は裏切られてきたし、その度に傷ついた。期待すること自体が間違っていて、自分が変わるしかないのだと思う方が、よほど建設的だった。

 本著ではカウンセリングの様子が、会話形式で細かく描かれているので、まるで診察の場面に立ち会っているかのような気持ちになる。「どうして死にたいと思うのか?」という哲学的とも言える問いについて言語化していくことで、原因を探っていく過程がスリリングだった。特に地球と火星のアナロジーによる「死にたい」気持ちの細分化は驚きの連続であった。カウンセラーが、著者の提示するアナロジーに乗っかりながら、共に言葉を探っていく過程は、暗闇の中で一筋の光を見出していくような思考の旅だ。そして、その先に待っていたのは生業でもある「書くこと」という結論までの流れは鮮やかだった。こうやって書くと簡単にたどり着いてるように思われるかもしれないが、本著がスペシャルである点は、少しずつ変わっていくプロセスを、すべて開示していることだろう。

 個人的に参考になったのは第七章で議論されている、過去、現在、未来の捉え方だ。ないものを追い求める未来。あるものを捉え直す過去。その両方で成り立つ現在。この三つのバランスの取り方が大事で、未来志向が美徳とされがちな中で、過去への再解釈にも目を向け、現在を丁寧に捉えるという視点は、今をどう生きるかに対するヒントになるように思った。

 終盤、著者にとっては思いも寄らない展開が待ち受けているのだが、著者の切実さが滲み出る、そのドラマティックな描き方は小説のようだった。しかし、その唐突な事態に対して、本著で繰り返されてきたカウンセリングの成果を発揮することで、まさにタイトル通り「死ぬまで生きる」を自らの思考で実現していく過程に多くの読者が勇気づけられるはずだ。なぜなら、著者はカウンセリングを始める前と全く別人であることがわかるから。その変化は、直線的な成長とは異なる。むしろ、少しずつ何かを繰り返しながら「螺旋階段」を登るように、ゆるやかに上昇していく。線型的な成長がもはや現実的でないと痛感する三十代後半の自分にとって「螺旋階段」という例えはかなりしっくりきた。

 歳を取るにつれて死の存在が身近になりつつある今、それでもなお生きていくとはどういうことか、色々と考えさせられる読書体験だった。

2025年4月19日土曜日

LATIN AMERICA DIY CATALOG

LATIN AMERICA DIY CATALOG/筒井伸

 blackbird booksのインスタで知って読んだ。メキシコで行われている地域通貨による脱資本主義の試みが丁寧に解説されていて興味深かった。

 著者がコスタリカに訪問するついでに、メキシコへ寄った際、地域通貨TÚMINの存在を知り、メキシコを横断しながら、ジャーナリストのようにTÚMINがどういう仕組みで運用されているのか迫っていく様子が描かれている。ときに退屈になりがちな経済の話ではあるが、TÚMINの開発者や利用者の具体的なエピソードと、著者による味わい深い絵の数々で退屈することはなく、ページをめくるごとに、DIY経済の手触りが伝わってくるような感覚があった。

 もともとこの本を手に取ったのは、「地域通貨」という言葉に惹かれたからだ。というのも、現在私が住んでいる、さいたま市でも地域通貨の取り組みが行われている。しかし、こちらは大規模な税金を投入して作られた電子通貨でありながら、大手チェーン店でも使えるという仕組みのため、結果的に地域内に還元される構造にはなっていない。トップダウンで進める悪例そのものだ。

 それに対して、TÚMINは地域住民の手によって立ち上げられたボトムアップ型の地域通貨である。その役割は、通貨の代替というよりも、通貨を通じたコミュニティの構築という側面が強い。つまり、TÚMINを持っているということは、ある種の理念に賛同していることの意思表明であり、そこで連帯感を抱くことができる。

 また、TÚMINは通貨ではあるものの、あくまで物々交換のための「道具」として位置付けられており、それによってメキシコ銀行からの追及も逃れている。このあたりはメキシコという国の大らかさを感じる。日本では、ルールや「正しさ」に対して過敏になりがちで、なにかとお上の顔色をうかがう傾向がある。TÚMINのような緩やかながら上手く運用されている様子は新鮮に映った。

 TÚMINの魅力のひとつは、使える人の条件として「プロシューマー(生産消費者)」であることが求められる点にある。ただ受け取るだけでなく、自分自身も何かを提供することによって、地域内で贈与の循環が生まれる。この構造が、TÚMINを通じて形成されるコミュニティに連帯感と持続性をもたらしている。制度の運用においてもガチガチのルールは設けられておらず、あえてフレキシブルにすることで、より多くの人が関われる余地を残しているようだ。そんなTÚMINに対する著者の考察は「地域通貨」という大きなプロジェクトでなくとも、多くの人にとって今必要な思考かもしれない。

新しい経済を作ろう!と言うと難しい話に聞こえがちだが、正しさだけではなく、アイデアや楽しさやユーモア、そしてアマチュアであることを肯定してザクザク色々な人を巻き込んだり、巻き込まれたり、離脱したり、また戻ったり、肩肘はらずにそれぞれが自分の感覚に愚直に動ける空気が伝わってきた。そして、TÚMINの仕組みは、人間が目的に向かって一直線にずっと同じ熱量で動くことはできないという不完全さを最初から許容しているような仕組みだと改めて思った。

 自由貿易の名のもとに進められたグローバル資本主義は、農村部の貧困や搾取を助長してきた。TÚMINは、そうした流れに対する草の根からのカウンターであり、農村が自らの権利と誇りを取り戻すための手段でもある。「安く買えること」が当たり前になった今、その裏にいる生産者の声や生活を見失いがちだ。メキシコの地域通貨が、資本主義、経済の本質に疑問を投げかけ、新たな可能性に気づかさせてくれた。

 遠い国の、遠い町で起きている小さな実践の中に、今この瞬間の私たちにも繋がる大切なヒントが詰まっている。だから、読書はオモシロい。

2025年4月18日金曜日

ハンチバック

ハンチバック/ 市川 沙央

 Kindle Unlimitedの無料期間が終わる直前、偶然見つけて読んだ。芥川賞受賞のタイミングから気になっていたが、想像をはるかに超えて、読者の小説観を大きく更新してくるような内容だった。

 若い頃から背骨が曲がってしまう障害をもった中年女性が主人公。冒頭、村上龍よろしくハプニングバーでの性交の様子が描かれて面食らうのも束の間、それが「コタツ記事」であり、その筆者が主人公自身であることが明かされる。障害と露骨な欲望という、世間では結びつかないとされているものを冒頭から接続することで、ただならぬ小説であることが一発で伝わってきた。

 そこから繰り広げられる主人公の障害者としての生活描写が非常に細やかで印象的だ。著者が障害を持つ当事者だからこそ書けるディテールであることは間違いない。たとえば、落ちたぶどうを拾うシーンといった何気ない描写にこそ、健常者には想像の及ばない現実が浮かび上がる。

 後半は冒頭のコタツ記事を彷彿とさせるような、性的な展開が再び登場するのだが、その描写も衝撃的だった。呼吸器系に問題を抱える主人公が誤飲性肺炎に陥るくだりは、あまりにも生々しく辛い。健常者の「当たり前」を実現するために、妊娠し、中絶するというロジックは荒唐無稽だが、それゆえに胸に迫るものがあった。

 障害者からみた健常者の特権性として、紙の本が取り上げられていることは目から鱗だった。本著は紙の本で読むか、電子書籍で読むかで、読み手のインパクトが大きく異なるだろう。健常者にとっては当たり前の紙の本が、障害者にとってはいかにアクセス困難で、ひいては「特権」であるか。その憎しみを露にされることで、ここでも私たちが無意識に享受している権利について、改めて考えさせられた。

 「多様性」がデフォルトとされる現在において、本著は鉤括弧付きの多様性が包摂しきれない存在を描くことに意欲的である。朝井リョウ『正欲』にも通ずるテーマだが、著者が描こうとしているのは社会の「ハーモニー」である。会話の空気を音楽のコードに喩えたり、常に「場の調和」を意識せざるを得ない主人公の視点が、日本社会の同調圧力を暗示しているように感じた。

 本著を読んで気づかされたことは、自分自身に強く刷り込まれている障害者像である。子どもの頃に観た某テレビ局の24時間チャリティ番組の影響か、障害者=品行方正で努力する存在、というイメージが強く残っていた。それゆえ、本著に描かれる強烈な厭世観や、生死に対する距離感に揺さぶられた。以下のラインに象徴されるように、本著は「生きる」ことの意味を問うてくる。障害とともに生きること、社会と折り合いをつけていくこと、そのすべてに痛みが同居していた。生きるとはどういうことか。死ぬとはどういうことか。そんな問いに真正面から向き合わせられる強烈な一冊だった。

生きれば生きるほど私の身体はいびつに壊れていく。死に向かって壊れるのではない。生きるために壊れる、生き抜いた時間の証として破壊されていく。そこが健常者のかかる重い死病とは決定的に違うし、多少の時間差があるだけで皆で一様に同じ壊れ方をしていく健常者の老化とも違う。

2025年4月17日木曜日

なぜ人は自分を責めてしまうのか

なぜ人は自分を責めてしまうのか/信田さよ子

 植本さんのおすすめで読んだ。心理学の視点から語られる親子関係、なかでも母と娘の関係に関する考察は新鮮だった。

 本著はオンラインセミナーの講義を書き起こしたものとなっている。難しい内容も含まれているが、講義の語り口そのままで書かれているため、非常に読みやすい。一方で、話が展開していくうちに少しずつ焦点がぼやけてしまい「あれ、今何の話だったっけ?」と感じる瞬間もあった。しかし、話の流れを簡潔にラップアップする一言が各ページに挿入されていて、読者がついていきやすいように配慮されていたので助かった。

 多くのページを割いて語られていたトピックが、「アダルトチルドレン(AC)」や「共依存」に関する内容だ。ACという言葉に対しては聞き馴染みがなく、漠然としたイメージしか持っていなかったが、本著では「自分の生きづらさが親との関係にあると認めた人」と定義していた。生きづらさを感じる場面はたくさんあるが、それが親との関係に起因すると考えたことはなかった。親の干渉が強烈だった記憶はないし、自分と親はまったく別の個体だという認識を持っているので、その可能性に気づかなかったのだと思う。ただ、ACの観点で改めて自分の言動を考えると、親との関係の影響も少なからずあるようにも感じた。

私たちはいくら自立した独立した人間だ、私は自分で考えているといったところで、私たちを生み育て、日々膨大な影響を与えつづけた親の影響を点検せずには、本当は生きられないんじゃないか。

 また、ACや共依存という言葉が「当事者が生み出した言葉」であるという点も重要な視点だった。学術的な専門用語ではなく、当事者が自らの経験を表現するために編み出した言葉であるということ。それを尊重する姿勢が著者の語りには貫かれており、専門家が前に出て「正しい答え」を提示するのではなく、当事者との対話を著者は重視している。

 近年頻出する「自己肯定感」に対して、著者は慎重な姿勢をとっていた点も興味深い。自己完結的なセルフケアは危うさをはらんでいると指摘し「他者を介在させ、社会に受け入れられている実感を得ることが大切」と説いていた。他人を頼るのが得意ではなく、自己完結しがちな自分にとって耳が痛かった。このブログはその象徴とも言える。一方で、定期的に友人たちとポッドキャストで話すことが、想像以上に自分の精神の安定に寄与しているのかもしれないと気づかされた。

 「自責が反転することで、他人に正義を無闇に振りかざしてしまう」という見立ても納得感があった。自己責任論が蔓延する現代社会において、自分を責め、その反動で他者に厳しくなるというネガティブなスパイラルが生まれている。なんとも言えない生き苦しさの構造を垣間見たようだった。

 親との関係はさることながら、自分自身が親となった今、子どもとの関係性について思いを巡らせる場面が多かった。まだ三歳とはいえ、自我の萌芽を感じる日々の中、四章にある育児論の数々が、個人的には本著のハイライトであった。育児に正解があるわけではないことは百も承知だが、ズバズバと言い切る語り口が心に刺さった。

親が自分の思うどおりにならない子どもを「反抗」と決めつけるのは、へんですよ。

子どもと親は対等ではないですよ。人権という意味では対等ですけどね。

子どもが何かしたとき、わがことのようにつらいということを裏返すと、子どもには何をしてもいいというのが張り付いている。この二面性をやっぱり知っておかないといけない。

「こんなに一生懸命やってんのに」と言われると、子どもは申し訳ないと思いますよね。こうやって、家族の中で無敵な存在になっていく。こういう支配のことを共依存というふうに言います。

 自分の行動が子どもに与える影響の大きさ、その「思い」が知らず知らずにプレッシャーや支配に転じる可能性を突きつけられ、ドキッとする。だからこそ「自分のことは自分でする」と子どもに伝えつつも、自責が過剰にならないように、適度なバランスを探りながら接していく必要があると感じた。

2025年4月15日火曜日

1964年のジャイアント馬場

1964年のジャイアント馬場/柳澤健

 1976年のアントニオ猪木(以下、猪木本)がオモシロ過ぎたので、その勢いで読んだ。猪木本では、猪木の天才性が存分に描かれる一方で、ジャイアント馬場に対してはどこか冷酷で、権力に頼って猪木を押さえ込もうとする“いけすかない男”という印象すら抱いていた。しかし、本書を読み進めるうちに、その見方は大きく変わっていった。むしろ、馬場のプロレス観や人柄の良さ、アメリカ修行時代の大活躍ぶりを知ることで、BI砲のもう一人の主役の輪郭が立体的に浮かび上がってきた。

 馬場がアメリカにプロレス留学をしていた1960年代を中心に、ジャイアント馬場というプロレスラーに迫っている。1999年に亡くなっているので、リアルタイムで見たことはなく、晩年の映像やモノマネによる、図体が大きくて動きの鈍いレスラーとしての姿しか知らない。しかし、本著では、アメリカ修行時代のジャイアント馬場の全盛期に大きくフォーカスしており、元プロ野球選手としてのキャリアに裏打ちされた抜群の運動神経と身体能力を武器に、アメリカのマット界で一線級のレスラーとして活躍していた。そんな彼のプロレスラーとしてのキャリアについて、当時のアメリカのマット界の状況を含めて丁寧に取材している。大谷翔平は言い過ぎかもしれないが、アメリカのプロスポーツでこれだけのレベルで活躍した日本人が他にどれだけいるだろう。有象無象がうごめくアメリカのマット界の中で存在感を示した馬場は、紛れもなく“本場を経験した一流”だった。

 馬場と猪木のプロレス観の違いも読みどころのひとつだ。猪木が「闘い」としてのプロレスを追求したのに対し、馬場は一貫して「エンタメ」としてのプロレスを志向していた。アメリカにおける“ロマン派”バディ・ロジャースと、“ガチ派”カール・ゴッチの対立構造がそのまま日本に持ち込まれ、猪木はガチ路線を、馬場はロマン路線を引き継いだともいえる。馬場が多くの外国人レスラーを招聘し続けたのは、プロレスを夢とスケールで観客に届けるという彼なりの信念に基づいたものだった。

「プロレスとはケンカである」という力道山の思想は、極東の島国だけで通用する二流の思想だ。プロレスラーに必要な能力とは、ケンカに強いことではなく、客を呼ぶ能力なのだ。

 馬場のスタイルは往年のアメリカンプロレスだ。強さは二の次であり、とにかくお客さんを楽しませ、興奮させるかを主題に置いていることがよく理解できた。1960年代にプロレスの本場アメリカでメインイベンターを務めるところまで上り詰めた男だからこその視座がある。「プロレスはエンタメである」という強固な思想のもとで、「本場モンの翻訳」に終始する姿勢は、アメリカの属国として数々のカルチャーを輸入して、土着化させてきた戦後日本の姿と重なるとも言える。

 「テレビとプロレス」も大きなテーマだ。力道山の死後、日本プロレスが新日、全日に分派していく中で、テレビ中継もテレ朝(新日)と日テレ(全日)に分かれた構図は、プロレスとメディアの結びつきの始まりだった。猪木はテレビとの親和性を発揮したが、全日はなかなかうまくいかない。そんな状況でも日テレが放映対価として毎年数億単位のお金を全日に供与していたらしく、日本にも豊かな時代があったのだなと遠い目になった。その資金を馬場は惜しみなく、外国人レスラーとの“古き良きプロレス”に投資していく。理想を追い続ける姿勢は美しく見えるが、時代に取り残される頑固な昭和のおじさんの姿とも重なり、切なさを感じさせた。

 そんな馬場が時代に取り残される中で、天龍、長州、ジャンボ鶴田、三沢たちがなんとか全日を盛り上げようとする姿は、会社の若手サラリーマンさながらだ。特に個人的な記憶としては、三沢、川田、小橋、田上による「四天王プロレス」に、子どもながらにめちゃくちゃ興奮した記憶がある。あの死闘とも言える戦いは、旧世代のスタイルを壊し、新たなプロレス像を模索していた証だったと知り、彼らの志にグッときたのであった。

 猪木本は間違いなくクラシックであるが、本著を読むと猪木本にはない景色が広がっていた。馬場と猪木、両方を知って初めて、日本のプロレスの全体像がくっきりと浮かび上がってくるのだ。プロレスというカルチャーの奥行きと幅広さを味わいたいなら、両方読んでこそ、その魅力が何倍にも膨らむ。なので併読マスト!

2025年4月9日水曜日

完本 1976年のアントニオ猪木

完本 1976年のアントニオ猪木/柳澤健

 本著をもって「〇〇年の〇〇」というフォーマットを生み出した著者によるアントニオ猪木の評伝。ずっと気になっていた作家で、先日読んだ水道橋博士の書評集『本業2024』で多数の著作が紹介されていたことをきっかけに読んだ。プロレス好きだった幼少期、父が録画していた『ワールドプロレスリング』を放課後に毎週のように見ていた身としては、自分のプロレス観を更新するような、極上の調査ドキュメンタリーだった。

 1976年に猪木は異種格闘技戦として三試合戦っており、そこにフォーカスしながら「アントニオ猪木」という存在を描いている。猪木に対して持つイメージは、プロレスや格闘技に対する見識の有無で大きく変わってくるだろう。何も知らない人からすれば「バラエティでよくモノマネされるプロレスラー」「ダーッといいながらビンタする人」くらいだろうか。しかし、2000年代までのプロレスおよび総合格闘技黎明期における猪木の存在は“神”と呼んでも過言ではないほど絶対的だった。子どもの頃は、VTRで見る昔の猪木、たまに現場に降臨するだけの猪木の凄さが理解できていなかったのだが、本著を読むと、猪木がいかに超規格外の人間であり、泥水をすすりながら這い上がってきた人であるかをようやく理解することができた。

 そもそも、なぜ猪木が「異種格闘技戦」に挑まなければならなかったのか、その背景も驚きの連続だった。そこに立ちはだかっていたのは、ライバル・ジャイアント馬場である。馬場は体格に恵まれていただけでなく、NWAというプロレス団体の権威を巧みに利用するビジネスマンでもあり、猪木をプロレス界から締め出そうとしていた。それに抗う唯一の手段が、本当の強さを証明する「リアルファイト」での勝利という展開は、極めてヒップホップ的だ。私が当時、ノアや全日ではなく、新日本プロレスが一番好きだった理由も「Keep it real」をどこまでも追い求める姿勢に共鳴していたからかもしれない。

 1976年に行われた異種格闘技戦のうち、最も有名な試合はモハメド・アリとの戦いだろう。ボクシングの現役チャンピオンとプロレスラーがショーではなく、ガチで試合をする。今の時代には到底実現できないだろう超弩級のビッグマッチの裏側を精緻に描いている。今でもストライカーちグラップラーの膠着状態は「猪木-アリ状態」と呼ばれており、この試合は現在の総合格闘技までに繋がる重要な試合である。映像で断片的に見たことがあったが、その解像度が十倍くらい高まって相当オモシロかった。特にアリ側の取材が充実しており、彼のトラッシュトークが実はプロレス由来であったこと、また来日してからブックのないリアルファイトだと知らされたが逃げなかったという逸話には胸を打たれた。やはりアリは偉大なファイターなのであった。

 残りの異種格闘技戦についても濃密に描かれている。猪木が韓国でリアルファイトをけしかける横暴な振る舞いをしていたなんて知らなかったし、さまざまな相手に対して、リアルファイトを仕掛けてきた猪木が、逆にパキスタンでハメられてリアルファイトをけしかけられる展開は、まさしく因果応報である。そして、そこで躊躇なく勝ってしまうのも猪木らしいのだが…

 本著を読むまでは猪木に対して一種の幻想を抱いていたのだが、読み進める中で瓦解していった。掴みどころのなさは意図的に作られたもので、合法と不法、リアルとフェイク(インチキ)の境界を極めて曖昧にしてしまう「天性のプロレス能力をもった男」といえば聞こえはいいが、ときとして、その振る舞いは自己中心的でセコくもある。特に後半にかけて新日本プロレスを私物化していく流れは、ちょうど自分が新日本プロレスを見ていた時期に重なるので、子どもの頃には理解できなかった数々の出来事(武藤の全日移籍とか)が色々と腑に落ちたのであった。とはいえ、その傍若無人な振る舞いの数々が、歴史を動かす原動力であることは間違いなく、日本が今なおプロレス、MMAの格闘技大国となっている現状は、猪木なしには考えられない。ゆえに多くの人が神格化するのだろう。

 終盤にはUWFから総合格闘技に繋がる流れまで描かれている。その流れを踏まえて猪木-アリ戦について「双方の技術不足であった」と分析する視点も新鮮だった。また、現在のRIZINまでに繋がる日本の総合格闘技の勃興については『2000年の桜庭和志』『1984年のUWF』でより詳細を知ることができると思うので今から読むのが楽しみだ。

 本著を特別な一冊たらしめているのは、著者の圧倒的な構成力と表現力である。豊富な情報をドラマとして語る構成の妙、そして何より言葉の力がすごい。一番打ち震えたラインを引用しておく。レスト・イン・ピース、アントニオ猪木。

ふたりの動きが止まった。表情は見えない。音も聞こえない。見えるのは猪木のブリッジが作り出す美しいフォルムだけだ。「建築とは凍れる音楽である」と言ったフリードリッヒ・シュレーゲルに倣えば、この時のジャーマン・スープレックス・ホールドは、正に凍れるプロレスであった。

2025年4月6日日曜日

消息

消息/小袋成彬

 今年初めにリリースされたアルバムの革新性に驚いたのも束の間、さいたま市長選への立候補と、著者には立て続けに驚かされている。そんな著者の初めての書籍ということで読んだ。これまでSNS上でたびたび物議をかもす言動が垣間見えていた中で、まとまったエッセイという形で彼の思考に触れたことで、今までと印象は変わった。

 2019〜2024年にQuick Japanで連載していたエッセイをまとめた一冊。コロナ禍前後、ロンドン移住後という背景もあり、内省的な視点と、対外的に見た日本、ワールドワイドな視点の両軸から物事を考えている様がうかがえる。とりわけ後者は「海外移住によるナショナリズムの再発見」というありがちな側面が強いわけだが、著者の場合、本業の音楽で見事に昇華している点が凡百の移住者と異なる。新作『ZATTO』は、近年世界的なトレンドになっている往年の日本のソウルやシティポップをリバースエンジニアリングするかのように、ロンドンのスタジオミュージシャンを起用し、2020年代のサウンドとして生音オンリーで作り上げたものだ。「日本を対外的な視点で捉えて音楽をつくる」という観点で、これだけかっこいいものは今後なかなか出てこないだろう。本著は、その背景にある思想や視点を知る上でも重要な一冊だと感じた。

 収録されたエッセイの中には、noteに掲載され話題を呼んだ「新時代」も含まれており、基本的にこのバイブスが本著を貫いている。この記事について、エイジズムで分断を煽るものとして批判的な気持ちを抱く人もいるかもしれない。しかし、個人的には納得する部分があり、今回のさいたま市長選出馬にあたってのマニフェストは、さいたま市民としては相当フィールする部分があった。現状の政治において、若年層に向けた施策を謳いながらも、シルバー民主主義が根深く、リソースの配分や施策の優先順位に絶望的な気持ちになることが少なくない。それはさいたま市に限らず、日本各地の自治体に共通する課題だろう。ゆえに、今回の市長選がひとつの試金石になることを期待している。

 文体は、まえがき、あとがき以外は「ですます体」で書かれているので、全体的に丁寧でややかしこまった印象を受ける。内容的にもリベラルな視点が貫かれており、過去のSNSでの印象とはギャップを感じる人も多いだろう。その「ですます体」で綺麗に均された文章の息抜きとして、イラスト、写真、本人の手書きのコメントが掲載されている。そのうち各年の主要な出来事について、手書きでコメントが書かれているのだが、その内容と本文のギャップに戸惑った。

 たとえば「イギリス政府のコロナ対応は日本政府に比べて迅速で的確だったと思う。人はたくさん亡くなったけど」と書かれているのだが、「人がたくさん亡くなったのに何が的確なのか?」と疑問を抱かざるを得ない。ウィル・スミスがグラミー賞で平手打ちした件について「俺はかっこいいと思った」と書かれると、繰り返し唱えている非暴力主義と整合性がないように映る。「ハラキリ」というエッセイでは、日本の死刑制度から謝罪カルチャーまでを語っているわけだが、その挿絵として首が飛んだ侍の絵が描かれている。こういった言語化しづらい倫理観の危うさと、ある種の「正しさ」を繰り返し主張する姿、一体どちらが「本当の著者」なのかは正直わからない。そもそもアーティストに対して「正しさ」を要求すること自体、お門違いであり、矛盾を内包しているからこそ惹かれるという側面もある。しかし、今の時代に政治家という公の立場を志すのであれば、言葉の整合性や説明責任は無視できない要素だ。口では博愛主義的なことをいくらでも言えるかもしれないが、少しのほころびにいつか足元をすくわれてしまう可能性があるからだ。

 ここまで批判めいたことを書いたが、あとがきにおける「日本と海外のギャップ」に関する考察は興味深かった。文化的な違いを乗り越え、日本がポジティブな方向にむかってほしい気持ちは同じなので、今回の選挙選を通じて、これまでにない景色を見せてくれることを期待したい。

2025年4月3日木曜日

これはわたしの物語 橙書店の本棚から

これはわたしの物語 橙書店の本棚から/田尻久子

 書評のZINEを自分で作ったわけだが、作るまで書評集をまともに読んだことがなかった。そんな中で、友人からおすすめしてもらったので読んだ。本屋を経営し、文芸誌を自身で発行する著者による書評集で、読みたくなる本にたくさん出会えて良かった。

 二部構成になっており、第一部は読書全般にまつわること、第二部は書評集となっている。第一部では本、読書にまつわる考えが書かれており興味深かった。斜陽産業であることが取り沙汰されてはや幾年という感じの本屋および出版ビジネスだが、インターネットの情報がフロー型かつその信頼性が大きく揺らぐ中で、本が果たす役割が大きくなる気もしている。著者のように本に対して、真摯に向き合っている姿勢を見ると「街の本屋」の存在の大きさを噛み締めるのであった。

 メインは第二部の書評である。小説、エッセイなどジャンルを問わず掲載されていた。前述のとおり、自分で作っておいてアレだが、書評集はあまり読んだことがない。わざわざ書評集で本を探しに行かずとも、読みたい本が常にスタックしている状況が続いているからだ。しかし、本著を読んで気付いたのは、本は世の中に膨大に存在し、自分の情報収集範囲からこぼれてしまう、オモシロそうな本が山ほどあるということだった。AIを含めてレコメンド精度はこれからも高まっていくだろうが、セレンディピティをもたらす書評集の可能性を改めて感じた。「0→1で、ものを生み出す人が一番エラい」という風潮は根強く存在するが、膨大に存在するものをキュレートする意味やオモシロさ、またその作品に対する解釈を深めることの豊かさを味わうことができた。

 紹介されている本の中には、読んだことのある本もあったのだが、自分で書いた感想と著者の書評を見比べることが楽しかった。当たり前だが、本はコンテンツとして長いものなので、その本の中で興味深い(あるいはつまらない)と感じる箇所は千差万別である。その違いを見ることで、本が多角的な存在として浮かび上がってくる。書評集を読むことは、今流行りの読書会を一人で行うような側面もあることに気づいた。次は『橙書店にて』を読みたい。

2025年4月1日火曜日

ボブ・グリーンの父親日記

ボブ・グリーンの父親日記/ボブ・グリーン、西野薫

 パパは神様じゃないのあとがきで本著が取り上げられていたので読んだ。1980年代のアメリカでにおける育児の様子が伝わってきて興味深かった。名コラムニストということもあり、着眼点と文章がいずれもピカイチで、男性による育児エッセイとしてはベスト of ベスト級だった。

 序文で本著を執筆するに至った理由を説明してくれており、以下の課題認識は、約三十年経った今でも変わらないと言えるだろう。育児本は世の中に溢れているが、育児する当事者の有り様や心境変化を描いたものは少ない。自分が探していたものが、1980年代のアメリカの本であるということは意外だった。

今まで二人で暮らしていた夫婦が急に三人家族になった時、何が起こるのかを、当事者の気持ちに焦点を合わせてとりあげた本は、どこにも見当たらなかった。

 著者は新聞のコラムニストとして名を馳せた書き手らしい。脂の乗ったキャリアの中で、子どもが誕生し、彼がいかに育児と向き合ってきたか、誕生から一歳の誕生日まで365日分の日記として描かれている。80年代の作品なので、アメリカでも妻が仕事を辞めて育児に専念している。日本であれば、女性が育児に全コミットすることが当然だったかもしれないが、当時のアメリカは過渡期のようだ。妻が自分一人で育児する辛さをぶちまけるシーンもあるし、著者自身が主体的に育児に関わろうとする意識が日記のそこかしこに表れている。仕事が忙しい中でも、どうにかして子どもと過ごす時間を作り、そこで目撃した子どもの挙動と自分の感情の機微を逃すまいとする姿勢にジャーナリスト魂を垣間見た。

 育児の主体は妻であり、著者は仕事のかたわらサポートする立場ゆえに状況がわかっていないことも多い。妻から幾多の注意を受けている様を、そのまま描いている点が真摯だ。日記というフォーマットゆえ、かっこつけることなく「記録」することに重きを置いているからだろう。男性らしさを感じた点は、これだけ献身的に子どもの生活を夫婦二人で支えているが、子どもが大人になった頃には、そのサポートについて一切覚えていないことを繰り返し心配している点だ。費用対効果的な思考であるが、こと育児においてはインプットに応じたアウトプットが出てこないケースが往々にしてあり、そこに育児の醍醐味と辛さの相反する要素が存在する。育児に携わる中で、著者が徐々にそのことに気づいていき、後半に出てくる以下のラインはグッときた。特に前者はトイトレ真っ最中の自分の心に深く刺さった。

赤ん坊は確実に自分のペースで進歩していく、ということだろう。それより速くもなく、遅くもない。僕たちはせかせるためにここにいるのではなく、耳を傾け、やっと言葉が出た時に認めてやるためにここにいるのだ。

今が始まりなのだ。他の人々に対する態度が形作られる始まりなのだ。白人の子と黒人の子の絵を見ても、アマンダは今は何とも思わないかもしれない。だがやがてこういう絵が意味をもってくるはずだ。そのうちいつか、何かがカチリと彼女の中に入りこむだろう。アマンダは他の人々に対し僕たちの世代が持っていないものを前提にして、人生をスタートするのだ。

 TV番組のジャーナリストとしても活動しており、いろんな場所へ出張するのだが、そこでも子どものことを考えてしまう話が繰り返し登場する。ステレオタイプとしての「娘を溺愛する父親」が苦手なのだが、著者の場合はその愛情表現がさっぱりしているからかヤダ味がない。それはおべんちゃらではなく、日々の生活における実践に基づいて、著者がその理由を紐解いているからなのかもしれない。

 私の子どもは三歳で、すでに乳幼児期を脱したところだが、本著を読んでいると、産まれてからの一年が走馬灯のように頭を駆け巡り、なんでもないシーンで急に涙が込み上げてきた。それはひとえに彼の筆力に他ならない。子どもの状況描写と著者の心情、思考のバランスが見事で、他人の子にも関わらず、子どもが赤ちゃんだった、かけがいのない時間を追体験することができるのだ。楽しいこと、悲しいことが渾然一体となった、生命力に満ち溢れているからこそのアップダウン。戻りたいような、戻りたくないような、そんなアンビバレントな気持ちになった。男性の育児参加が社会的に促されている今こそ復刊してほしい。

2025年3月22日土曜日

ニーニとネーネ/好きな人に会う/喜びも悲しみもある今日

 ZINEメンターの植本さんの新作各種がリリースされたので読んだ。いずれも印刷やホッチキス止めなどを自分の手で行う家内工業スタイルのZINEで、ウェブショップで購入可能となっている。

ニーニとネーネ vol.1&2

 飼猫であるニーニ、ネーネの写真集+エッセイ。最初にエッセイを読まずに写真を見たのだが、その存在感に目を奪われた。片目を失い、腫れている中でも懸命に生きようとする猫の生命力が植本さんのカメラで克明に切り取られていた。フィルムカメラの質感がもたらす刹那性もあいまってかなりグッときた。その後、エッセイを読むと写真に関する植本さんの考えが書かれており、文章でここまではっきりと写真に対する考えを読むことが初めてだったので新鮮だった。

 闘病中のニーニだけではなく、ネーネも謎の絶食状態に陥り入院したらしく、猫がいかにセンシティブな生き物なのか思い知らされる。動物と暮らした経験がないが、このように動物が闘病する様を見て、読むと、本当に人間さながらだ。公園に行くと、犬を過剰に人間のように扱っている場面に遭遇して、以前は面喰らっていたが、今となってはそれもわかるようになった。愛玩動物はただ一緒に生きているだけではない、本当の意味で家族なのだなと思う。

好きな人に会う


 阿佐ヶ谷のISB booksで開催された380円の作品販売会「38商店」で売られていたもの。特定の対象に関する植本さんの雑感が、伏せ字込みで綴られている。以前にZINE FESTで一緒に出店させていただいた際に、この話は一度聞いていたが、文章になると起承転結がはっきりしてオモシロかった。自分が信用できるものだけと関わる世界線と、そうは問屋が卸さない現実に逡巡する様は今の資本主義社会に生きる誰しもが抱えるモヤモヤだろう。そんなアンビバレントな気持ちが「避けているものの中で遭遇した好きなもの」という矛盾を通じて、最終的に何かを好きになる、ファンになることの意味に着地していた。憧れの対象に会ったときのリアクションというのは、非常に悩ましい。自意識が肥大している身なので、毎回立ち振る舞いに悩むが、最近は照れずにストレートに感情を伝えればいいかと思っている。

喜びも悲しみもある今日



 こちらは手書きの日記。二月のある日が描かれているのだが、これが今までと感触が異なる日記になっていて驚いた。一日だけ、ということもあってか、日常に対する解像度が相当高く、どこか小説を想起するような日記だった。

 前半のお子さんとの日常生活は、昔から日記を読んでいる身からすると、時間の経過を感じざるをえなかった。多くの「一子ウォッチャー」は、保育ママと同じような気持ちになるに違いない。

 後半では『好きな人にあう』に続いて、今の社会で生きる皆がなんとなく感じるモヤモヤについて書かれており、それが戦争との距離感だ。ロシア、ウクライナ間の戦争において、ドローンを用いた攻撃が行われており「人の命の重さとは?」と考える様が描かれている中で、「目の前の焼きりんごがいかに美味しいものなのか?」も同時に描かれている。これこそ人間だよなと心底思えた。言い方が難しいのだが、今の社会は「戦争が嫌だ」と「焼きりんごが美味しい」は両立しない、どちらか一方を選ばないといけない圧力を感じる場面が多い。自分がポッドキャストでだらだら話しているのは、すぐにまとめてわかりやすくパッケージしようとする空気から距離を置きたい気持ちが多分にある。だから、この非圧縮状態の日常描写の数々にとてもフィールしたのであった。

2025年3月19日水曜日

風景のほうが私を見ているのかもしれなかった

風景のほうが私を見ているのかもしれなかった/飴屋法水・岡田利規

 信頼のpalmbooks のサブレーベルとしてtiny palmbooksが立ち上がり、その第一弾として本著がリリースされたので読んだ。アーティストによる芸術論を久しぶりに読んだので、脳がスパークするかと思うほど、刺激的なやり取りに興奮した。それを支える「紙の本」としての造形も、palmbooks印であいかわらず素晴らしく、うっとりした。

 まず始めに造本について触れざるを得ないほど、今回は攻めた形の本となっている。縦開きかつ裏面に文字がないので、見た目はメモ帳そのもの。この造本の特徴が活きてきたのは、読み終えた後、改めて内容を見返すときだった。メモ帳のようにパラパラとめくる動作がとてもクセになる。断片的なメモのようなものではなく、書簡や対談といった文の連なりを、このような動作で探し、読むことのダイナミックさは唯一無二である。また、書簡が横書き、対談が縦書きとなっているのは、終盤にある飴屋氏による発言のインスパイアかと思われ、「読書は日々の営みである」というメッセージを受け取ったのであった。

 2010年に行われた往復書簡、2024年に行われたトークショー、その後に行われた追加の往復書簡の三部から構成されている。いずれのパートでも「演劇とは何か?」が主題となっており、抽象と具体を行き来するスリリングなやり取りが興味深い。役者と役はイコールではない、役者は役を投影するスクリーン、役者同士で生じたリアクションではなく、俳優から観客に向けてのリアクションのみがある、など演劇を見る上で楽しみが増えそうな複雑なレイヤーに関する議論が繰り広げられている。テーマは多岐に渡るのだが、往復書簡および対談というフォーマットゆえに語り口が平易なので二人の言葉がスルスル入ってきた。

 クリエイティビティのあり方について、言葉を尽くして話し合っているところにグッとくる。お互いを信頼し合っているからこそ、前提を色々すっ飛ばして、いきなり演劇や演技のプリミティブな要素について話されており、逆説的に門外漢でもとっつきやすいクリエイティビティ論となっている。

 タイトルにもなっている「風景」をめぐる議論が本作を貫くテーマだ。演出家と役者の関係が対等かどうか、飴屋氏は二者間の関係で捉えるのではなく、何か別の第三者との距離をもってして、演出家、役者の関係性が対等である、つまり、演出家、役者と第三者の距離は等しいと主張していた。そして、その第三者について岡田氏の劇中のセリフを参照して「風景」と呼んでいた。この考え方を踏まえると、以前に読んだ飴屋氏の小説『たんぱく質』に対する理解が進んだし、さらには岡田氏が対談で唱えていた『たんぱく質』における同心円のイメージにも納得した。また、岡田氏は「風景」を「神さま」という形でとらえており、無神論者だけども「神さま」を感じるのはどういうことなのか、一種の神学論のようなものが展開されており興味深かった。

 両者とも小説を書くので、小説と演劇の違いについても話されており、他者が必ず介在する演劇と、個人で完結する小説。その相似と相違についても話されていたので、二人が書いた小説を次は読みたい。(時間が許せば演劇も見たい…!)

2025年3月18日火曜日

戻れないけど、生きるのだ 男らしさのゆくえ

戻れないけど、生きるのだ 男らしさのゆくえ/清田隆之

 植本さんがおすすめしてくれていたので読んだ。古今東西のコンテンツをジェンダーの切り口で見つめ直していくエッセイ集で興味深かった。本、ドラマなどのガイドとしても参考になるし、既に見たり、読んだ作品は改めて著者の視点を意識してみたいと思わされた。

 本著はコンテンツを通じたジェンダー論がメインテーマにあるわけだが、なかでも文学、ドラマ批評が興味深く、特にそれがテーマとして前景化していない作品について、著者の見立てが発揮されていて読み応えがあった。自分では手に取らないだろうなと思う作品の数々も、ジェンダーという切り口によって見通すことのできる景色の広さに驚いた。

 古臭いジェンダー観を更新するようなコンテンツに感動する様を描きながら、その度に自戒している点が特徴的だ。それは日本社会で特権を持つ男性という属性を持ちながら、安易にフリーライドしてしまうことを避けるため。確かに、苦しみをもたらす社会構造の一端を担っている人間が横からやってきて「感動しました!」と無邪気に発言している危うさは著者が指摘する通りだろう。

 ただ「俺たち」という主語を用いて男性全体をいっしょくたに議論する点が、この手の本を読むときに毎回しっくりこない。「ジェンダー、フェミニズムに理解があるか/ないか」のゼロイチではなく、各人それぞれグラデーションがある中で、急に首根っこを掴まれて逐一確認されるような気持ちになるからだ。個人の体験や考えに終始しているだけでは社会が変わっていかないという認識はありつつ、個人から全体へ派生、言及していく難しさはジェンダー論においては常につきまとう。自分自身のジェンダー観は保守的ではないと思っているものの、他人から指摘されるとウッとなるし、逆に指摘する側も、保守的な場面が間違いなく存在する。このように誰もが完璧ではいられないことに著者は意識的であり、ヒット&アウェイで語っている姿勢が真摯に映った。

 後半にかけてはジェンダーから拡張していき、恥、生産性、家父長制、お悩み相談などより広いトピックが取り扱われており、著者の具体的な情報が詳らかにされていた。育児中の身としては、生産性と育児について言語化された内容に首がもげるほど頷いたのであった。常に最適化を追い求めて日々仕事を回しているわけだが、こと育児においてもついついその進め方を導入してしまう。結果的に目の前にいる生身の子どもと向き合っておらず、特定のタスクとして対処してしまっているケースはよくある。また、男性が「ケアの育児」ではなく「刺激の育児」に偏りがちという指摘も膝を打った。

 苦手ながらもジェンダー、フェミニズムの本を進んで読んでいる背景には、娘が誕生したことによって、どこか他人事だった性別格差が以前よりも自分の身に迫ってきたことも大きい。当然、自分と娘は別人格であるが、彼女のことを考えると、男性の特権性が少なからず見えてくる。なので、自分の子どもが少しでも生きやすい社会を目指したい気持ちがある。本著のタイトルに寄せれば「抽象的な今(自分)ではなく、具体的な未来(娘)に生きるのだ」とでも言えようか。先日見た映画『怪物』はそれの最たるもので、今ある問題を私たちの世代で対処し、次世代が生きやすい社会にする意味に気付かされた。そして、これほど腹落ちした経験はなく、やはり著者が繰り返し主張する、心が動かされることの必要性について実感を伴って理解できた。

 性格上「俺たち」という形で肩を組むブラザーフッドは得意ではないが、特定の誰かのためであれば具体的な行動へコミットできるから、各人が何らかの形で当事者性を持つ場面が増え、「永遠の微調整」を繰り返すことで社会が少しずつ変わっていけばいいなと感じた。

2025年3月17日月曜日

パパは神様じゃない

パパは神様じゃない/小林信彦

 タイトルに惹かれて古書店でサルベージした。2025年の視点で見ると、およそ育児エッセイとはいえない、粒度の荒い子育ての話だった。1970年代の雰囲気を知る上では格好の内容であり、オイルショックによるインフレ、物価高に苦しむ様は今の状況とシンクロする部分があり、経済で苦しむ点においては何も変わらないのかと暗澹たる気持ちになった。

 本著は、下の子が生まれてから一歳半になるまでの期間に書かれたエッセイである。著者の日常の話があり、そこに子どもたちの話が加わるという構成となっている。育児エッセイというよりも「赤ちゃんがいる物書きの日常」といった側面が強い。

 冒頭、赤ちゃんの出産前後の描写があるが、エッセイとして最高においしい部分を丸ごと書いていない。なぜなら、赤ちゃんの誕生を手放しで喜ぶことにてらいがあるから。この認識のギャップからして、男性の育児に対する当時のスタンスが伺える。しかも、その後に仕事とプライベートを兼ねて、家族を日本に残し、約50日間海外で過ごし、最後にはハワイで過ごす様子まで描かれており、さすがにビックリした。今の時代なら妻がSNSに爆ギレポストして大バズりしそう。そんなスタンスの著者にとって、松田道雄『育児の百科』『スポック博士の育児書』がバイブルであり、ネットがない頃はこういった書籍が、最初に接触する信頼できる情報源だった事実に改めて気付かされた。

 そんな著者は「男性が育児において参加できることは何もない」という前提なので、基本的に「私は何もできないのだ」という話に終始している。それがタイトルに通じており、私は神様ではないので、祈ることしかできない、というもの。しかし、そんなものは欺瞞であり、仕事や自分の時間を充実させたいだけなのだが、言い訳せずにそのまま書いている点は潔い。つまり、横やりしてくる存在として赤子を捉えていた。そんな中で、たまに現代でも通用するような視点もあり、以下のラインは著者に比べて育児に参加している身からしても、まさに!と思ったのであった。心配だけするくせに自分の手を動かしてないことがよくあるので自戒したい。

父親が感じる<心の痛み>などというのは、いいかげんなものであり、母親の事務的処理の方が、おおむね、正しいのである。

 文庫あとがきは、なんと当時赤ちゃんだった下の娘が担当している。文庫化は91年で大学生になったばかりの彼女が、著者との暮らしについて素朴に綴っている。「作家は気難しい」を地でいくエピソードに昭和を感じた。約半世紀経った今、これだけギャップを感じるということは2075年ごろの育児に対する男性の価値観は今と大きく変わっているかもと思えば、未来は暗くないのかもしれない。

2025年3月12日水曜日

二〇二一年フェイスブック生存記録

二〇二一年フェイスブック生存記録 /中原昌也

 中原昌也の新刊が出てることを知り、日記がKindle unlimited に入っていたので読んだ。(2ヶ月無料なので久しぶりに入ったけど、雑誌以外はゴミしかない) 基本、映画、音楽日記の様相を呈しているが、その中で垣間見える日常や論考が興味深かった。

 2021年といえば、まだまだコロナ禍真っ只中ということもあって、イベント以外のソーシャルな関係はほとんど見られない。その代わりに毎日のように見ている映画や音楽関する感想以上批評未満のような内容がひたすら続いていた。映画も音楽もメジャーなものはほとんどなく、彼の趣味嗜好が炸裂しているだけなのだが、その博覧強記っぷりは知らなくても読んでいるだけで楽しい。「ネットで調べればなんでもわかる」と知識をアウトソーシングすることは簡単だが、知識が肉体と精神に宿り、立板に水のように放たれる様がかっこいい、と世代的に感じたのであった。しかし、本人の言い分は以下の通り、かっけー!

何かに造詣が深い人、になんざまったくなりとうない!!  昼間から真っ当な仕事もしないで、映画だの音楽だの小説だの美術にうつつを抜かしているのは、ランダムに色々接して、訳がわかんなくなるためなんだよ!  何かに詳しくなるためじゃぜんぜんない。寧ろ、混乱したいだけ。

 前の晩に見た夢の描写が多く、夢日記の側面もある。人の夢ほど、つまらない話はないわけだが、それが中原昌也になると、まるで小説のスケッチのように見えるのだから不思議だ。本著を読むことを寝る前のルーティンにしていたのだが、格段に夢を見る確率が上がって怖かった。

 病気の予兆は本著からもところどころ感じられるが、いきなり半身不随になるなんて本当に信じられない。健康の重要性を痛感しつつ、新刊も早々に読みたい。

2025年3月7日金曜日

法治の獣

法治の獣/春暮康一

 国内SFは海外SFに比べると、取っ付きづらく、どれから読んでいいかわからない。そんな中でポッドキャスト番組『美玉書店』と出会い、今では国内のSFガイドとして個人的に一番好きなポッドキャスト番組だ。そこで本著の著者である春暮康一特集が組まれていたので、国内SF入門編として読んだのであった。(ポッドキャストは過去三回分しか公開されていないので、特集回はもう聞けなくなってしまっているのだが…)テクノロジーを駆使した思考実験が物語へと見事に昇華されていて興味深かった。

 三つの中篇で構成されており、それぞれ別の話ではあるものの、表題作以外の二作は繋がりがある。巻末の作品ノートによれば、三作とも「《系外進出》シリーズ」と作者が名付けたシリーズに含まれるもので、文字通り太陽系外に人類が飛び出していき、そこで遭遇する生命との関わりを描いている。ファーストコンタクトものは、SFの定番中の定番ではあるが、本著ではコンタクトすること自体の是非、そしてコンタクト後の倫理的課題についてフォーカスしている点がとてもユニークだった。三作に共通する人類の認識として、太陽系外の生物に対して不必要にコミットしないことが前提となっている。つまり、人類の都合で植民地にしたり、生態や文明に不必要に介入して改変してはならないということだ。その前提において、人類がはかない希望を抱きながら、なんとかコンタクトを試みる過程がとても興味深かった。

 印象的な表紙絵は国内SF作品を数多く手掛けてきた加藤直之という大御所らしく、この絵からはクラシカルなSFのムードを感じる。しかし、中身は想像以上にモダンであり、AI、功利主義など現在の世の中のテーマと関わりがあるので、そのギャップに驚いた。AI時代到来で世界が新たなフェーズに突入する中で読むSFは、その先の未来を想像させてくれるので、刺激的で読むのが楽しい。本著の各作品ではアシスタントとしてのAIはデフォルトであるが、そうなっていたとしても人間が尊厳を失わないように工夫している様子が伺えて、今後にAIとの付き合い方の参考になるかもしれない。

 とにかく「よくこんな設定を思いつくな〜」ということばかりで、これがハードSFと呼ばれるサブジャンルなのであれば、かなり好きかもしれない。なぜなら、科学の知識をフル動員した、著者による思考実験のようなものだから。一定の論理を貫きながら、なるべく破綻しない世界観を作り上げ、さらに物語的魅力を展開していく著者には畏敬の念を抱くしかない。表題作がその思考実験っぷりが最も発揮されている。法律、資本主義、研究など多彩なトピックが縦横無尽に入り乱れる様は、法治の獣こと、一角獣のシエジーが走り回る様とシンクロするかのようだった。

 コンピューターを中心として、人類が生み出すテクノロジーに対して無限の可能性を抱いていた時代が終焉しつつある中で、SFが少し先の未来を描くものとして、さらなる未知を追い求めた先にあるのは「生物」という視点も興味深い。0か1のバイナリ的思考が世界を席巻しているが、それよりもグラデーションを持つであろう生物の世界を詳しく解き明かした先に、別の未来が見えるのかもしれない。そんなことを考えさせられたのであった。

 いずれの話も人類が地球で飽和しているゆえ、別の居住可能な惑星を探すことが目的ではあるが、それを上回るのは人間の好奇心である。「一体何なのか?」「どういう仕組みなのか?」人間がここまで進歩してきた過程において、そういった好奇心が原動力であることは自明だが、極めて原始的な「遭遇」から炙り出される「業」にも近い好奇心の側面が丁寧に描き出されていた。次は本著よりもさらに未来を描いたらしい『オーラリメイカー』を読む。

2025年3月5日水曜日

Paloalto Live In Tokyo

 韓国のラッパーPaloaltoの単独公演があったので行ってきた。韓国ヒップホップにおいて最もアイコニックな存在はJay Parkであることは間違いないが、裏番長とでもいうべきか、屋台骨のような存在がPaloaltoと言ってもいいだろう。そんな彼のレガシーがたっぷり詰まった90分のショウケースは、圧倒的すぎるラップスキルとライブスキルで完全にノックアウトされた。最近見たヒップホップのライブの中でも群を抜いたクオリティだった。2020年のShow Me The Money(以下SMTM) 9から韓国ヒップホップを聞き始め、もう5年ほどシーンを追いかけ続けた、その魅力が存分に発揮されていたのであった。

 事前に本人からセットリストが公開されており、それを聞いてから、ライブに臨んだのでかなり楽しみやすかった。ライブ会場はミュージックバーに近いクラブのようなところで、ステージの横を人が通るような、お世辞にもライブ向けとは正直言いにくい場所。ライブ前は心配だったが、それは杞憂だった。「弘法筆を選ばず」をまさしく体現しており、1MCのラップだけでこれだけロックされるのは本当に久しぶりだった。タイトなラップがかっこいいのは当然ながら、声の安定感、ライブでの所作など、すべてがベテランゆえの技量で「これぞプロフェッショナル…!」と感嘆せずにはいられなかった。

 本人がDJすることも影響していると思うが、押し引きの構成が本当に見事で緩急を駆使し、とにかく飽きさせない。韓国ヒップホップの屋台骨がゆえに、自身の曲だけではなく、Featで参加したヒット曲がたくさんあるわけだが、それらも出し惜しみなく披露してくれるサービス精神旺盛っぷりも頼もしい。また、曲のバリエーションが豊富で、縦ノリ、横ノリを自在にコントロールしてるあたり、マスターオブセレモニーとしてのMC能力が高く、相当なライブ巧者であることが証明されていた。

 曲間のMCはすべて英語で、日本語はiPhoneにメモしたものをたまに披露していた。日本での単独公演かつ、これだけの長尺は初めてらしい。前半はDaytona移籍後の2枚『DIRT』『Lovers turn to Haters』が中心。自らがオーナーだったHi-Lite Recordsをクローズした際はかなり驚いたが、Daytona移籍後はCEO業をQuiettに任せ、ラップにフォーカスしたこともあってか、いずれの作品も個人的にかなりお気に入りなので、それらの楽曲を生で聞けただけで最高だった。この日買った『DIRT』のバイナルは一生大切にします…

 さらにそこからFeat曲、Hi-Lite Records、4 The Youth、SMTMというパートに分けながら、ライブが進むことで、彼のレガシーがスタックされていく構成は、Paloaltoがどういうラッパーなのか証明するようなものであり、ライブを見終えたあと、彼に対するリスペクトがこれまで以上に増した。Hi-Lite Records時代の曲を中心に往年の名曲でかなり盛り上がっていたので、この日を待ち望んだ古参ファン(a.k.a 同志)がたくさんいたのだろう。個人的には後半の4 The Youth、SMTMパートがかなりグッときた。『4 The Youth』は当初、JUSTHISのわかりやすいラップスキルで好きになったのだが、聞き返すたびにPaloaltoの魅力に気づくことになった韓国ヒップホップのマスターピースだ。「Wayne」「Swith」「Next One」といった楽曲群を生で聞けたのが嬉しかった。そしてSMTMパート。昨年見たBlaseのライブでもSMTMパートがあったが、PaloaltoのSMTMパートはコミットしてきた歴史の長さもあいまって、番組で生まれたクラシックとしての圧倒的な強度があった。なかでもSMTM9で生まれた「Want it」はSMTM9で韓国ヒップホップの衝撃を受けた身なので、5年のときを経て本人のラップを目の前で聞くことができて感慨深かった。

 この規模かつ90分のライブを見れたのは本当にラッキーで満足度が高かったことは間違いない。ただ、継続的に日本で韓国ヒップホップのライブを見る可能性を考えると、今回のような形はあまりサステイナブルではないと思うので、日本と韓国のラッパーの交流がもっと進んで、相互が盛り上がるフェスのようなものが開催される未来を期待してやまない。

2025年2月27日木曜日

結婚とわたし

結婚とわたし/山内マリコ

 ちくま文庫の棚を徘徊してたときに見かけて読んだ。共働き家庭における家事分担の経年変化という貴重な記録となっており、めちゃくちゃ興味深かった。

 著者が今のパートナーと同棲を始めた際にan・anで開始され、結婚後も続いていた連載が、完全版として再編集されたものである。元の単行本の名称が「皿洗いするの、どっち? 目指せ、家庭内男女平等!」であり、家事分担にまつわる、よもやま話&考察が数多く収録されている。「家事が大変」という散発的な感情の発露はネットを徘徊すれば、すぐにヒットする時代だが、結婚前後かつ一定期間にわたる経過観察という情報は貴重であり、本という媒体だからこそ得られる知見だ。さらに文庫化に伴い、2024年時点の著者の視点も加わることで、ここ十年近くで起きた価値観の変化にも気付かされた。

 日記として連載されていたこともあり、著者の生活の機微がひしひしと伝わってくる点がオモシロい。家庭内でのちょっとしたことも、性別に伴う価値観の違いから改めて考えてみると、思いもよらないことが多い。「フェミニズム」と聞くとアレルギー反応を示す人もいるかもしれないが、本著では生活現場において性差がもたらす不平等のあれこれが、これでもかと詰め込まれているので、自分の日常にフィードバックしやすい。私は男性なので、著者のパートナーの所業の数々に身に覚えがあり、それらに対する著者からの鋭い指摘にぐうの音も出ない。そしてパートナーに対する感謝の気持ちを深めるばかりだった。放置された靴下をめぐる以下の言葉は心に刻んでおきたい。

女性の心にはこの手の日常的な男性の負の習慣が、澱のように、澱のように(二回言った)溜まっているものなのですよ。

 また、本著内でも言及されているとおり、家事分担は男女問題というよりも、社会的な要素が大きく影響することもよくわかる。日本社会においては、これまで男性が外に出て金を稼ぎ、女性が家で家事を行ってきたため、男女問題として捉えられていた。その刷り込みは強烈であり「女性が家事をすべき」という男性側の認識はさることながら、女性側も「家事をしなければ」と自責の念に駆られてしまうほどだ。しかし、コロナ禍を経て男性も在宅勤務が可能なケースが増え、家にいることができるようになった。その結果、家事のバランスが変化しているように思う。本著でもパートナーがフリーランスとなり、食事作りを担い始めると、著者が「家庭内おじさん」と化していく話は笑った。我が家も完全在宅の私と、出社するパートナーという旧来の家族観とは真逆の現状があるので、私が多くの家事を担当している。(育児周りの細々した対応はパートナーが担ってくれており大変感謝しています…)

 こういった姿をいろんな家庭の子どもが見ることで将来的に価値観が少しつず変動していく気はしている。誰かにケアしてもらうことは楽なので、つい寄りかかってしまうが、人生百年時代において誰に何が起こるかはわからない。家族のこともケアできればよいが、最低限自分のことは自分でケアできるようにしておくべきだろう。男女問わず、家事分担に悩む人にとって格好の書籍であり、パートナーと二人で読めば効果てきめんのはず。

2025年2月26日水曜日

風と共にゆとりぬ

風と共にゆとりぬ/朝井リョウ

 先日読んだ時をかけるゆとりの続編エッセイということで読んだ。前作における大学時代の「オモシロエピソード」はおじさんにとって若干辛いものがあったが、本作では専業作家になってからのエピソードが多く、なおかつ著者のエッセイ力が格段に向上しており、思わず声を出して笑ってしまうシーンがいくつもあって相当オモシロかった。

 第一部は「日常」、第二部は日経での連載、第三部は「肛門記」という三部で構成されているエッセイ集となっている。一番笑ったのは第一部だった。著者曰く「小説に込めがちなメッセージや教訓を 「込めず、つくらず、もちこませず」を モットーに綴った」とのことだが、文章で人を笑わせるスキルの高さは業界屈指の腕前といっても過言ではない。お気に入りのエピソードは「対決!レンタル彼氏」と「ファッションセンス外注元年」。前者は、女性の担当編集者がレンタル彼氏のサービスを利用し、著者が編集者の弟として食事をするという奇怪すぎる話。「誰かになりきりたい」という著者の願望が、これ以上ないほど歪んで達成されている様がとにかくオモシロい。後者は、ファッションセンスのない著者がスタイリストに服を見繕ってもらう話。その前段におけるGQでの撮影エピソードがオモシロすぎて腹よじれるほど笑った。ネット上で実際に使われた写真を見ることができる点まで含めて最高の読書体験であった。

 第二部は日経に載っていたこともあり、真面目成分が多めとなっている。オーディション論、友達論、物語論など著者の視点の鋭さが光っていた。特にオーディション論は、十年前に書かれた文章だが、今のオーディション番組ブームの最中に読むとかなり味わい深い。

パッと現れサッと去る受験者たちの後ろ姿を見て、私は、彼らはこの十五分間の前後にも別のオーディションを受けているかもしれない、という当然の事実にやっと気が付いたのだ。私が見たのは、二十五人それぞれのたった十五分に過ぎない。それだけを見て、人の星とか運命とか都合のいい言葉で思考をこねくり回していた自分に辟易した。あの二十五人は、昨日も今日も明日も、手を替え品を替え場所を替え、自分のもとに巡ってくるかもしれない星を摑もうとしているのだ。勝手に創り上げた想像を押し付けて、気持ちよく言語化できた解釈をねじこむのはやめよう、と思った。そんなことばかりしていたら、そんな作品ばかり書いてしまいそうだ。

 そして、ラストは「肛門記」。痔瘻を患う著者が手術に至るまでの過程を描いている。タイトルを見たときに、これはまさかと思ったが、最新刊である生殖記の前段と言えるはずだ。というのも、肛門を擬人化したシーンがあるからである。そのくだらなさったらないのだが、著者が得意とする客観の視点を駆使しつつ、前作の「お腹が弱い」「痔主」というフリをタランティーノばりに回収してくるので、ここもかなり笑った。「つまらないから意味がない」という短絡的過ぎる考え方、読み方を反省し、意味偏重主義から抜け出して、もっと肩の力を抜いて生きたいと思わされた。そんな著者が尊敬するエッセイストは、さくらももこ氏らしく、たまたま家にあるので、少しずつ読んでいきたい。