2025年11月1日土曜日

それがやさしさじゃ困る

それがやさしさじゃ困る/鳥羽和久、植本一子

 植本さんが写真を担当されていると知って読んだ。子どもがあくびをしている表紙からは、朴訥で柔らかい内容を想像していたが、実際にはどこでも読んだことのない刺激的な教育論が詰まっており、そのギャップに驚いた。子どもと接することについて、これだけ言語化された書籍は、後にも先にも登場しないかもしれないと思わされるほどの傑作だった。

 まず印象的だったことは、本著を手に取ったときの感触である。普段読む本ではおよそ感じない独特のツルツルとした質感からして、ただものではない気配が漂っている。内容は、鳥羽氏の各種媒体での連載と書き下ろしをテーマ別にまとめたもので、その合間に植本さんの写真が挟まれている。さらにページ下部には鳥羽氏による日記が添えられており、圧倒的な情報量だ。論考も日記もそれぞれ一冊の本にできるほどの分量があり、読後の満足感を考えると、この値段は破格に感じる。

 メインでは、子どもとの関わりや教育に関する論考が中心に展開される。ときに重たく感じる箇所もあるが、実際の子どもとの触れ合いに裏打ちされた思索であることが、写真や日記によって可視化されており、構成として興味深い。特に写真の扱いが印象的だった。よくあるモノクロの挿絵的な扱いではなく、カラーで大胆に差し込まれ、裏面にはフィルム写真のような仕様が施されている芸の細かさ。写真を一つの独立した芸術として取り扱う意図が伝わってきて、その心意気に胸を打たれた。そして、植本さんの写真はもちろんバッチリな仕上がり。つい考え込んでしまいそうな瞬間に、子どもたちのなんでもない日常の姿、表情が、現実へ引き戻してくれる。

 モノとしての完成度は当然ながら、中身も圧巻だった。鳥羽氏は塾、単位制高校、オルタナティブスクールを運営しており、日々子どもと向き合う中での思索があますことなく書かれている。タイトルのとおり、品行方正であることが当然の社会で、「やさしさ」があらゆる場面で子どもに対して発揮される現在、本当にそれは子どものためになっているのか?大人が思考を停止し、責任を放棄するための仮初の「やさしさ」ではないか?ということが一冊を通じて問われている。

 現役の中高生と接する機会のない者にとって、若者たちの価値観や、そこに呼応する親の状況をこれほど丁寧に描いてくれることは貴重だ。その背景にあるのは子どもに対する愛である。ページ下部の日記は、SNSのつぶやきほどの短さながら、そこで垣間見える子どもたちに対する実直な視線が、本著の説得力を強固なものにしている。評論家が、机上で構築した教育論ではなく、日々の実践と観察から導き出された言葉であることが、本書が唯一無二の存在たらしめている。

 私自身は三歳の子どもを育てており、本著の主な対象である小・中・高校生とは距離がある。それでも広い意味での教育論として、心にグサグサ刺さることが山ほどあった。たとえば、教育水準の高い学区に引っ越し、そこに安住する大人の心理を鋭く突いた箇所では、自分の考えを見透かされたようでぐうの音も出なかった。

 一方で、「子どもの自由な選択」にも鋭いメスをいれていく。自由という言葉の裏に、子どもに責任を丸ごと押しつける残酷さが潜んでいることを指摘しており、これも耳が痛かった。言われてみれば、子どもは深く考えずに選ぶことも多いのに、その結果の責任だけ大人並みに負わせるのは酷な話である。とはいえ、実際には「やらせてみないと分からない」という因果応報的な態度は、大なり、小なりやってしまいがちな自分がおり、強く考えさせられた。

 父親の育児参加が必ずしもプラスに働くわけではない懸念についても納得した。子どもにとって、親は小言ばかりのウザったい存在であるのに、それが二人になってしまえば、子どもは逃げ場がなくなるという指摘にハッとした。なんとなく妻が怒っているときに自分は怒る側にならないようにしているし、逆も然りなのだが、内容によっては二人で怒ってしまう可能性がゼロではないので胸に留めておきたい。

 一貫して、鳥羽氏は大人が「こんなもんだろう」と思い込んでいる前提条件に対して懐疑的な視線を投げ続ける。そこには大人が子どもを未熟な存在と見くびっていること、またn=1という極めて少ない母数である「自分」と子どもを比較して、子どものことを安直に捉えてしまう危うさへの問題意識がある。

 なかでも考えさせられたのは「学校に行きたくない」と言われた場合の対処である。右に倣え的な日本の教育制度自体に懐疑的ではあるものの、どうしても横一線から脱落するというイメージが自分を苛んでくる。自分自身がどうしても行きたくないほど、学校に嫌気が差した経験もないので、もし自分の子どもがそう言ったとき、どう対処できるのだろうか?と繰り返し自問自答していた。

 日記パートでは、自分が中高生の親ではないこともあり、自分の過去を振り返ることが多かった。特に受験期のことは、能動的に選択したというよりも、育った環境に流されるように進んできたこともあり、どうすれば自分が主体的な学びができたのだろうかと考えさせられた。短く、遠慮のない、芯をくっている言葉に何度もハッとさせられた。

他人の期待に応えるような人生は自分の人生ではないから。自分に何かを期待してくる人を遠ざけて生きていくということは、大人にとっても大事な知恵。

 巻末で「反省する必要はない」と書かれていたものの、本著を読んだ多くの人が、自分の子どもに対する解像度の甘さにどうしても疑いの目を持たざるを得ないのは事実だろう。しかし、鳥羽氏は自分の「正しさ」を主張しているわけではなく、あくまで自分の視点から見た子どもの話と、それに基づいた自分の考えに終始している。日記にあった以下のラインが端的に本著のポリシーを表しているように感じられた。

賛否両論白熱しているときにどちらが正しいというより、両論あることが波打ち際の防波堤になって現実や倫理を支えていることが度々ある。だから、必ずしも二者のどちらかを選ばなければならないわけではないし、明確な解決法や結論が必要とは限らない。

 日々、心も体も変化していく子どもという動的な存在と向き合うにあたり、大人は硬直した「正しさ」に頼るのではなく、臨機応変に、懐深く寄り添うことの重要性を思い知った一冊だった。

2025年10月30日木曜日

ikuzine

 ポッドキャストでは進捗を話しておりましたが、ついに三冊目のZINEが完成しました。その名も『ikuzine』です。私のポッドキャスト番組『IN OUR LIFE』で話した育児に関するパートを書き起こし、編集した一冊となっています。育児本は世に数多ありますが、他の本とは一線を画す仕上がりになっています。子育てしている、していないに関わらず、ぜひ読んでもらえたら嬉しいです。

 本の中心となっているのは、私、友人のタクボ、小説家である滝口悠生さんとのエピソードです。これまで滝口さんにご出演いただいたエピソードをすべて含んでいます。2016年ごろに初めて滝口さんの小説を読み、その唯一無二なスタイルにぶっ飛ばされて早十年、こんな日がくるとは想像もしませんでした。何事も継続だし、やることに意味があるのだなと思います。そして、滝口さんの協力なしには完成しなかった一冊なので、この場を借りて感謝申し上げます。ありがとうございました。

 そして、ZINEの中でも説明しているとおり、このZINEが実現したのは植本一子さんのおかげです。これまでにもZINEメンターとして、色々と教えていただいたのですが、今回はさらに具体的なアドバイスを懇切丁寧にいただきまして、最後の追い込みでクオリティーが二段、三段あがりました。いつも本当にありがとうございます。

 また、今回は初の試みとして装画を作家の方にお願いしました。はしもとなおこさんという方で、以前に絵を買わせていただいて、家に飾っているくらい、はしもとさんの絵が好きなので、装画を今回お受けいただいたことはとても嬉しかったです。自分の発想になかったペンギンの絵を見たとき、他者と何かを作ることの楽しさや意味を再認識しました。改めてありがとうございます。

 お取り扱いにつきましては、私のウェブショップと各書店で販売させていただきます。ウェブショップの方では、私の育児日記付きのDX版も用意させていただいておりますので、サポートいただける方は、そちらもチェックしてもらえますと幸いです。取扱店舗については随時こちらに追記させていただきます。

IN OUR LIFE ウェブショップ

 なお、文学フリマ41に出店しますので、もしご来場予定の方は、そちらでご購入いただく方が送料分安くなりますのでお得です!関東近郊の方は、ぜひお越しくださいませ。

文学フリマ41東京

会場:東京ビッグサイト 南1-4ホール
日時:2025年11月23日(日)12:00〜17:00

詳細→https://c.bunfree.net/c/tokyo41/4F/%E3%81%A6/28



2025年10月22日水曜日

中川ひろたかグラフィティ: 歌・子ども・絵本の25年

中川ひろたかグラフィティ: 歌・子ども・絵本の25年

 例によって、子どもが図書館で本を探したり読んだりしているあいだ、大人向けの絵本関連書を眺めていたら、本著が目に留まり読んでみた。なぜなら、村上康成&中川ひろたかのタッグ作品は、子どものお気に入りの絵本だからだ。そして、保育園の卒園式で歌った「みんなともだち」の作者でもある。そんな著者がどういった経緯で子ども向けの歌や絵本を生業にすることになったのか。その経緯を知ることができて、興味深かった。

 本著はタイトルどおり自叙伝であり、著者のキャリアを振り返る一冊となっている。文中には、ささめやゆきという版画家の絵も随所に登場、改行も多く、ページ下部に余白を多く取った独特のレイアウトが軽やかさを感じさせる。読む前は絵本作家がメインの仕事かと思っていたが、もともと作曲、歌手活動が本業で、絵本は後年手がけるようになったらしい。「世界中の子どもたちが」を手がけたのも著者らしく、自分の知っている歌の中に彼がいることに驚いた。

 大学を中退して、保育園で働き始めるところから社会人としてのキャリアがスタート。1970年代前半までは「保育できるのは女性のみ」と児童福祉法で決まっていたなんて信じられなかった。そのため、実際には保育に携わっているものの、書面上は「用務員」として雇われていたというエピソードは時代を感じる。

 朴訥な文体もあいまって、行き当たりばったりで人生を進めているように見えるが、その自由さこそが魅力である。ネットのない時代においては人の繋がりが大事で、人脈が彼に新しい仕事を次々ともたらしていく。とはいえ、人脈だけでなんとかなるわけではなく、著者が驚異的なペースで音楽を作り続けていることが最大の要因だ。とにかくいろんな人を巻き込んで、録音、ライブに奔走する姿はバイタリティの塊である。そこに打算はなく、自分の表現で子どもを楽しませたいという純粋な気持ちが伝わってきた。

 登場人物もさまざまで、一番驚いたのはケロポンズのメンバーと著者が同じバンドのメンバーだったということである。問答無用のクラシック「エビカニクス」(YouTubeの再生回数、1.7億回…!)の生みの親であるわけだが、そんな彼女たちのバックグラウンドを知れたことは思わぬ収穫であった。そもそも大人と子どもが一緒に見にいけるバンドがあったこと自体、驚きである。自分の知る限り、コンサートといえば、「おかあさんといっしょ」や「しなプシュ」くらいで、それらはあくまでショーであり、音楽ライブという雰囲気でもない。バンドサウンドを子どもと一緒に楽しめる機会があるのであれば行きたい。

 一番読みたかった村上康成との出会いと関係についても書かれていた。村上が絵本作家としては先輩であり、著者が教えを乞うような形で関係が始まり「さつまのおいも」の大ヒットによって、この黄金コンビが確立していったようだ。村上の柔らかいタッチの絵と、著者のリズム感のある文体、このコンビネーションが子どもの心を掴んで離さないのだろう。その背景には、著者の保育現場での経験が生きている。抽象的に「子ども向け」を考えるのではなく、具体的に当時の子どもたちを思い浮かべ、彼らに語りかけるように物語を作る。そんな創作姿勢を知ることができたのは大きな発見だった。

 また、今年亡くなってしまった谷川俊太郎とのエピソードも印象的だった。著者が、彼の言葉に心酔し、「同じ空の下に住みたい」と思って阿佐ヶ谷に住んでいたことを後年伝えると、谷川が「それは同じ空じゃなく、同じ雲の下だよ」と返したという話は、あまりに谷川俊太郎すぎる。

 子どもの絵本をきっかけに、自分の知らなかった世界が広がっていくのは楽しい。これからどんな本を好きになっていくのか、引き続きその様子を見守っていきたい。

2025年10月20日月曜日

ライムスター宇多丸の「ラップ史」入門

ライムスター宇多丸の「ラップ史」入門

 宇多丸史観の日本語ラップについて読んだので、当人が自ら語るヒップホップ史の本を読んだ。初版は2018年、私がブックオフでサルベージしたのは2024年の5刷。ヒップホップブームの中で、多くの人がまず最初にこれを手に取り、理解を深めようとしていることがうかがえる。読みやすさ、まとまり具合でいえば、入門書としてこれ以上のものはない。ヒップホップに興味を持ち始めた人にはおすすめだし、私のように長年聞いてきたヘッズでも新たな発見がたくさんあり興味深かった。

 本著は2018年にNHK-FMで放送された10時間にわたるヒップホップ特番の書き起こしである。司会はRHYMSTER 宇多丸、サポートに音楽ライターの高橋芳朗&渡辺志保、音出しなどでDJ YANATAKEというメンバー編成。構成としては、アメリカのヒップホップの歴史を年代順に辿りながら、その時代の日本語ラップシーンゲストを交えつつ、歴史を振り返っていく。つまり、「アメリカで何が起きていたか」と「日本ではどう受け止め、どう応答していたか」をパラレルに描いている点が本書の大きな特徴である。

 こういった構成になっているのは、日本語ラップが常にアメリカのヒップホップをリファレンスし、自分たちのスタイルを模索してきたからに他ならない。その第一人者のプレイヤーである宇多丸、BOSE、Zeebraが語っている内容は、「どうすれば日本語がラップとしてかっこよく聞こえるか」というラップの聞こえ方の話が中心で、そこに至るまでの試行錯誤が伝わってきた。番組の締めには、当時1stアルバムを出したばかりのBAD HOPが登場し、スタジオライブで幕を閉じる。アメリカの文脈を踏まえつつ日本語で表現する、その継承と更新を象徴する構成だ。日本語ラップの現状の盛り上がりは、国内アーティストを中心としたドメスティックなものにとどまっているように最近感じる。その中で、YZERRが自らメディアを立ち上げ、あの超弩級のアメリカのラッパーたちと日本のラッパーというラインナップでヒップホップ特化のフェスを開催したことは、本著の意図の延長線にあると言えるだろう。本著でも語られているように、ヒップホップは時代ごとにアップデートされる共通ルールのもとで、世界規模の競争が行われるゲーム的な音楽なのだ。だからこそ、アメリカを中心としたグローバルなトレンドを常に参照し、その文脈の中で日本語ラップを位置づける視点は欠かせない。

 日本語ラップのパートでスリリングだったのは、MC漢が登場する場面だ。この二人がNHK-FMで当時のことを振り返るなんて企画を立案、実行した担当者の方々にリスペクト。前述の二者は同世代かつ交流もあるわけだが、世代も信条も異なる中で、宇多丸がMC漢のオリジナリティの高いスタイルの起源を紐解いていくあたりは知らないことだらけで驚いた。今でこそYouTubeで共演するレベルの関係性だが、2018年段階では貴重な邂逅であり、文字だけども緊張感がちゃんと伝わってきた。

 アメリカサイドは、基本的なヒップホップ史を改めて俯瞰できる構成になっており、自分の中のタイムラインが整理できた。特に東海岸、西海岸以外のヒップホップに理解が浅い自分にとっては、南部の歴史を流れで知ることができて勉強になった。合間に各人が持っているヒップホップ小ネタが挟まれるのがオモシロく、宇多丸はライター時代のインタビューエピソード、高橋氏はヒップホップ以外の音楽とヒップホップの関係性、渡辺氏はスラング、ゴシップなど鮮度の高い情報、DJ YANATAKEはレコ屋店員時代の経験といった形で、それぞれの得意分野が相補的に機能し、情報に厚みが増していた。

 歴史の授業あるあるだが、黎明期〜2000年代までの説明が丁寧になった結果、近年の動向が相対的に弱くなってはいる。特にヒップホップは50年の歴史の中で目まぐるしくスタイルが変遷してきており、最近のトレンドについて知りたいと思って読んだ人は肩透かしをくらうかもしれない。しかし、ヒップホップのオモシロいところは、過去をサンプリングという形で何度でも再評価、再構築するところだ。ゆえにクラシックを知っていることで、新しい曲のコンテキストを深く味わうことができる。だからこそ、こういった形で体系的に歴史を網羅した一冊は定番として読み継がれていくだろう。

2025年10月16日木曜日

世界へ ガザからの漫画

世界へ ガザからの漫画

 blackbird booksのインスタで知って読んだ一冊。イスラエルとパレスチナの間では、人質解放をきっかけに和平へのわずかな兆しが見え始めているものの、依然として先行きは不透明だ。そんな状況で、ニュースでは感じ得ないガザに住む人の生の感情が本著から伝わってきて、なんとも言えない気持ちになった。

 原作は医学生、作画は英文学専攻の学生。ともに2003年生まれという若さで、戦争に巻き込まれている現実を突きつけられる。物語は、戦禍に巻き込まれたある学生が、北部から南部へ避難しながら、ガザで起こっているジェノサイドを止めてほしいと訴える手紙を凧に託し、塀の向こうへ飛ばすというもの。誰かがそれを受け取ってくれることを祈る、ただそれだけの話なのだが、結果的に誰も止めることができず、日々が過ぎていった現実に胸が痛くなる。

 決して絵が上手いわけではないのだけど、「描かずにはいられない」という衝動が伝わってくる。また、弱いタッチや直筆の文字から情勢の不安定さがにじみ出ていた。あとがきで語られる木炭の話は、紙とペンさえあれば何とかなるという希望と、絵を描くのに木炭を使わないといけない絶望の両方が同時に伝わってきて苦しかった。

 「他国における戦争がどうして自分ごとにならないのか?」は答えがなかなか出ない問いである。BDS運動としてマクドやスタバをボイコットできるかと言われれば、実質そんなことはできておらず、娘との食事でマクドを選んでしまう。一方で、CanteenのBoiler Roomとの協業に関する声明には正直納得できなかった。このように戦争に対して是々非々で接しているとき、自分が部外者であり、無力な存在だなと感じる。

 そんな中、自分の身近な日常の中で、イスラエル寄りに映る両論併記的な発言をみかけた。いかにも平和主義のように見える「戦争を起こさないようにしよう」という発言が、親イスラエル側から発されることに違和感を感じたのだった。多くの子どもが亡くなっているジェノサイドをすっ飛ばして「両方の問題だよね」と、このタイミングで言うことなのか?と納得できなかった。とはいえ「平和が一番」という旗印のもとでは、多くの人にとっては私の感じた違和感は伝わりにくいかもしれない。実際、妻とは「何が問題なのかわからない」という話になった。

 情勢が複雑になるほど理解が追いつかず、戦争は遠くの出来事になっていく。だからこそ、こうして当事者が書いた本を手に取り、少しでもその痛みや現実に触れることが、自分にできる小さなアクションなのかと思う。戦争に胸を痛めている人には、ぜひ読んでみてほしい。

※bbbではすでに在庫切れでしたが、ほかの書店ではまだ購入できるようです。

2025年10月12日日曜日

ヘルシンキ 生活の練習は続く

ヘルシンキ 生活の練習は続く/朴沙羅

 一作目がオモシロかったので、続編である本著も読んだ。毎年、友人とポッドキャストでその年読んだ本について話しているが、2024年の友人の4位だった。前作でも、よく見かける「フィンランド万歳本」とは異なるシャープな視点が印象的だったが、本著はさらに先鋭化、フィンランドの考え方、歴史的背景により迫った内容になっていた。

 著者は子どもを二人を育てながら、ヘルシンキ大学で働いている。日本とフィンランドを往復する生活を送っている。仕事と家事をこなす中で著者が感じたことがエッセイ以上、論文未満くらいの温度感で書かれており、読みやすさと読みごたえのバランスが絶妙である。

 第一章は前作の延長線上とも言える内容だったが、第二章、第三章の「戦争と平和」で一気にギアが変わる。戦争は突然起こる、そのリアリティを体現するかのように唐突に始まるので、面食らった。ここでは、ウクライナとロシアの戦争がフィンランドでどのように受け止められ、何が起こったのか、さらに「フィンランドと戦争」というテーマのもとで、歴史的背景を含めて掘り下げられていた。

 「フィンランドって徴兵制があったような…」という程度の知識しかなかった私にとって、2023年のフィンランドのNATOへの加入についてリアルタイムで追いかける描写は刺激的だった。地政学的なバランスの上で、ロシアと西洋諸国のあいだに立つ「中立国家」としての立場から、ウクライナ侵攻によりバランスが変化、フィンランドはNATOへ加入した。地政学としての戦争、実際に生活の中でみる戦争。マクロとミクロの視点を使い分けながら、大陸として地続きの近隣で戦争が起こるとどうなるのか?日本では体験し得ない現実の数々が興味深かった。

 本著を通底するテーマとしては「権利」が挙げられる。近年では、排外主義とセットで語られることも多い「特権」や、「人権」とは何か?など、フィンランドで移民の立場になったからこそ見えてくる、権利のあり方に関する論考は読み応えがある。前作が制度をベースにした話だったとすれば、本著ではその背景にあるフィンランドの根本的な思想にまで踏み込んでいる。その議論にあたっては、著者が在日韓国人として日本で生きてきた経験がオーバーラップしていく。客観的にフィンランドの事情を知るだけではない、主観のレイヤーが入ってくることで唯一無二な一冊となっていた。

 また、成長した二人の子どもの視点が多く取り入れられているのも特徴的だ。その率直な発言が、しばしば硬くなりがちな議論をほどよくほぐしている。前作から引き続きバリバリの関西弁なのだが、そこも先鋭化して明確に京都弁になっているところもオモシロい。子どもの芯をくった発言は、SNSでは格好のバズ案件であり、本著でもある種の混ぜ返し役として繰り返し登場するわけだが、それでも著者はこれを良しとはしない。なぜなら「子どもの無垢な発言は社会規範、知識不足を子どもの理屈で補っているから」と書かれており、その精緻な分析に膝を打った。

 「普通」に関する議論も目から鱗だった。もう長いあいだ、「多様性」「みんなちがってみんないい」といった言葉が使われてきた一方で、今やそれらが形骸化していることは否めない。それは発信している側のインクルージョン的なアプローチ、特定の規範(つまり普通)からはみ出した人間を受け入れる、この権力勾配に皆がうっすら気づいているからだろう。フィンランドでは、普通は存在せず、それぞれは異なっており、全員が特殊なのだという。これは「右に倣え」の日本に住んでいると感じづらい。当然、その精神が役立つ場面があることは理解しつつも、今の政治や社会状況を鑑みると、その「倣え」があまりに押し付けがましい場面を散見し辟易とするのだった。SIMI LABよろしく「普通って何?常識って何?んなもんガソリンぶっかけ火つけちまえ」というラインを信条として生きてきたが、ガソリンぶっかけて火をつけなくても「その普通も特殊である」という一歩引いた大人の視野を本著のおかげで手に入れることができた。

 政治との距離感に関しても考えさせらることが多く、自分の意見を伝えること、またその伝え方を、子どもたちは大人の振る舞いから学ぶことを痛感した。つまり、大人たちが自分の意見や不平不満をきちんと伝える姿を見せることは大切なのだ。そして、フィンランドでは、声をあげることは自分のためではなく、みんなのためだという認識があるという話は驚くしかなかった。また、意見と人間をしっかり分離する必要性も著者は唱えていた。正直、今の時代、「レッテル貼り」という言葉のとおり、その態度は難しい場面も多いが、対話しなければ、社会は前進していかないことは間違いないので、肝に命じたい。(私はとても不得意…)

 終盤、一人で完結せず、他者と集団をつくって実現していくことの重要性が語られていた。現代社会では個人主義が進み、何でも自己完結しがちだが、だからこそ「集団で何かを成す」練習が必要だという。フィンランドと日本を単純に比較できるわけではないが、フィンランドという鏡を通して日本の価値観の歪みを照らし出す本著は、読み終えたあとも長く考えさせられる一冊だった。

2025年10月9日木曜日

本が生まれるいちばん側で

本が生まれるいちばん側で/藤原印刷

 空前のZINEブームの中、私もその流れに乗るようにこれまで二冊を制作してきた。本にそこまで関心がない人にとっては、なぜZINEがこれほどまでに盛り上がっているのか不思議に思うかもしれない。本著は、そんな「本を作ることの醍醐味」を印刷業の視点から解きほぐしてくれており、自分の欲求が言語化されているようだった。

 長野県松本市にある藤原印刷で働く藤原兄弟。二人とも東京出身で、東京で印刷とは異なる職に就いたのち、祖母が創業し母が継いだ藤原印刷で働き始める。出版業界の斜陽化が叫ばれて久しいが、印刷業もまた同様に厳しい。既存の堅実な仕事だけでは先行きが見えない中、彼らは個人出版の印刷を新たに受注し始めた。そんな挑戦の歩みと、実際に手がけた作品の背景が丁寧に綴られている。

 現在、ZINEの印刷において主流となっているのは、ネットプリントであろう。私自身も小ロットかつ安価に制作できるその利便性から活用している。本著ではその利便性を認めつつも、「本が生まれる」過程そのものをもっと楽しんで欲しいと語られており、装丁を考え、制作することの面白さが、具体例と共に説かれていてワクワクした。

 これまで私は「本は中身がすべて」と思っていたが、実際に作ってみて気づかされたのは、「モノとしての佇まい」が手に取られるかどうかを大きく左右するということだった。本著には、そんな「見た目」をいかに工夫できるか、その知恵と情熱がこれでもかと詰まっている。兄弟がともにベンチャー企業で働いていた経験も影響してか、本作りに対する前のめりなエネルギーを感じる。営利企業である以上、利益は当然大切であるものの、クライアントに最適な答えを導き出そうとする社内全体の活気が伝わってきた。

 装丁がユニークな本の事例がたくさん紹介されている、その本自体の作りがユニークというメタ構成も見事である。一番わかりやすい例として、本文に五種類もの紙が使われている点が挙げられる。さらに、文字をあえて薄く印刷する技術なども実物で提示されており、説得力がある。

 情報の中心は今やインターネットにあることは間違いない。しかし、その情報は流動的であり、いつまで残っているかもわからない不安定なものだ。そんな状況で、ZINEがブームになっているのは、本著でいうところの「閉じる」行為によって、情報や感情を固定したい欲望が背景にあるのだろう。私自身もブログで書いていた書評やポッドキャストの書き起こしをもとにZINEを制作した。ネット上で読んだり聞いたりできるにもかかわらず、多くの人に手に取っていただいたのれは、発散していた情報を「閉じる」という行為によって文脈を与えられたからだと感じる。本著にある「自分が編み上げた世界」という表現は、まさにその感覚を言い当てている。

紙の本は印刷された瞬間に情報が「固定」される。つくり手にとっては「伝えたいことをノイズなく齟齬なく伝えられる」ということだ。自分が編みあげた世界に読み手をぐるぐる巻き込むことができる。

 終盤の「出版と権威」に関する話も示唆的だ。藤原印刷やネットプリントのように個人の印刷を請け負うサービスや、電子書籍が登場する以前、本を作る行為は特権的なものであった。つまり、本を発行するには、誰かに認められる必要があったわけだ。しかし、今は誰もが自分の意思で本を作ることができる。その自由を謳歌するように、多様な立場の人が本を作ることで、世界が少しずつ前進していく。本著の高らかな宣言には多くの作り手が勇気づけられるだろう。

 奥付のクレジットも通常よりも詳しくなっており、本づくりの工程に、どれだけたくさんの人が携わっていることが明示されていた。「クラフトプレス」ならではの心意気と言える。自分の今のスケールだと藤原印刷で依頼するほどではないのかと正直思ってしまうが、いつかお願いできる日が来ればと思わずにはいられない。

2025年10月6日月曜日

脱獄のススメ 壱

脱獄のススメ 壱/NORIKIYO

 俺たちのNORIKIYOが帰ってきた…!ということで、クラウドファンディングの返礼品が到着したので、速攻で読んだ。(現在もマーチの一つとして購入可能)インスタで公開されていたファンに向けた手紙や、出所後のblock.fm『INSIDE OUT』出演時のエピソードなどから、過酷な獄中生活をなんとなくわかったつもりでいたが、まったくわかっていなかった。ここまで事細かな取材報告を届けてくれたことは、ファンにとって最高の贈り物と言えるだろう。

 本著は、収監されたDay Oneから一日も欠かさず綴られた獄中記だ。二段組で、とんでもない分量となっており、読了後の満足感はお値段以上である。(壱)と題されているとおり、本著に収録されている日記は八ヶ月分。NORIKIYOは実刑三年のうち二年で仮釈放されているため、単純計算でまだあと二冊は発行される可能性がある。この一冊だけで圧倒的な満足度にも関わらず、まだ読めるのか…と思うとワクワクが止まらない。これまでのリリックやインタビューからして、文才は明らかだったわけだが、それがここでは存分に発揮されている。

 日記で書かれていることは、刑務所での生活を中心にしつつ、彼の思想や過去の出来事などである。「潜入取材」と称して、2020年代の刑務所がどういった場所となっているのか、丁寧に書いてくれている。D.Oの獄中記『JUST PRISON NOW』を読んだときにも感じたが、刑務所は同じ日本とは思えないほど過酷な環境である。「罪を犯した人間だから、どんなに過酷でも耐えろ」という考えが根強いのかもしれないが、それは実態を知らないから言えることだ。居室に冷暖房が一切なく、入れ墨を入れた人の写真は開示されないなど、時代錯誤な制度がまかり通っている。NORIKIYOの指摘しているとおり、誰がいつ当事者になるかはわからないし、再犯率を下げるための更生施設とはうまく機能していない現状がある。たとえ受刑者だとしても、その人権が考慮されるべきではないかと、日本の刑務所制度について考えさせられるのだった。

 今回の獄中記の大きな特徴は、NORIKIYOが国の指定難病を抱えながら服役していた点にある。重い病気を抱えた人間が刑務所でどんな扱いを受けるのか。その管理体制の実態は杜撰なものだった。構造的な問題が多い中でも、属人的な運用が多分にあり、親切な刑務官もいれば、最悪な刑務官もいる。その人情味、陰湿な感じは日本社会を象徴しているようだ。NORIKIYOはウィットを混ぜ合わせながら、それらなるべく面白おかしく描いていた。本当はムカついていることが山ほどあるはずだが、日記として言語化することで自分の気持ちを落ち着けているようだ。最近は日記ブームだが、これほど「書くこと」がセラピーとして機能している例はないだろう。

 そして、なかでも興味深いパートは、周りの受刑者たちの描写 a.k.a 取材報告である。彼の収監先はいくつかあるのだが、それぞれ環境やムードが異なっている。はじめの方は、病を抱える受刑者の多くいるエリアに収監されていたため、高齢者が多く、刑務所が介護施設と化している実態が見えてくる。やがて工場勤務へと移ると、今度は十年以上の刑期を抱える人たちが増え、普段何気なく接している人が、過去に人を殺めてたりする。(れんこんのよっちゃん…!)きつかったのは、レイプを声高に自慢話のように語っている受刑者の存在だ。このように悪自慢する人たちを華麗にスルーし続けないと、いつかトラブルに巻き込まれ、懲罰で出所が遅れる可能性がある。そんなヒヤヒヤした環境のなかで過ごすNORIKIYOの心中は察するにあまりある。

 思想面では、大麻政策を筆頭に彼の国家観や世相批評がふんだんに書かれている。曲中では語り切れないことが、日記というフォーマットゆえに自由に綴られていた。こういった自己開示はアーティストにとって諸刃の剣だが、NORIKIYOの思想と感性を知ることができることはファン冥利に尽きる。最近、彼と同世代のラッパーやDJによる同姓愛蔑視の姿勢にうんざりしていたが、NORIKIYOが明確に同性愛蔑視を否定していたことに、勝手に胸を撫で下ろしたのであった。彼の他者の痛みに対する感受性の高さこそ、今の時代に必要なことだし、自分がなぜ彼のラップを聞き続けてきたのか、読み進める中でその理由がよく理解できた。

 今のNORIKIYOといえば、大麻の話は避けて通れない。難病の治療薬を長期服用する中で耐性がつき、より強いステロイドを使わざるを得なくなり、その服用によって胃がんリスクが上昇してしまう。それを避けるために大麻を食して独自に緩和治療していたという経緯がある。日本ではどんどん大麻は厳罰化方向に進んでいる中で、彼がこれまで学んできた知識が本著内でフル動員されており、日本の大麻を取り巻く環境に関して解説本を書けそうな勢いである。生産者としての知識、法体系への理解、国内外の研究まで、彼の言葉を全て鵜呑みにしていいとは思わないが、自分の生死がかかった情報について、国内外含めていろんなアプローチを取ってきたことが、書きっぷりから十二分に伝わってきた。「お上のいうことをそのまま信用していていいのか?」という問いは、大麻に限らない普遍的なテーマといえる。安易な「Fuckバビロン」ではなく、自分の生死をかけた実践の上で語られる「リアル」には説得力があった。

 さらに、ファンにとって嬉しいのは、過去の出来事やヒップホップに関する記述である。楽曲のビハインド・ザ・ストーリーや彼のヒップホップ観があますことなく書かれていることはありがたい。中でも驚いたのは、彼の足の怪我がいかにセンシティブなものかということだ。ライブを何度か見ているが、気になったことは一度もなく、今まで一体どうやって乗り切ってきたのだろう?と思ってしまうほどだった。他にも、詩集『路傍に添える』を巡るミラクルはヒップホップの神様がいるとしか思えないエピソードだった。さらには「2 Face」を聞いて検事辞めた人、「証言」のジブさんバースの引用、ZORN「REP」のハグライフの真相とか…本当にキリがない。こういった具体的なエピソードだけではなく、ヒップホップがいかに救済の音楽であるか?が日記全体から痛いほど伝わってくる。本著を読んでいると、自分がヒップホップが好きで良かったと何度も思わされた。

 本著の発送スケジュールについて連絡があった際、ライブは2026年6月以降とのことだった。ストリーミングで音楽を聞くこともあるが、グッズを買うことも一つのサポートであり、本著はNORIKIYOの音楽に一度でも心が動いたことがある人はマストバイだし、2020年代の獄中記として読めるもので本著を超える物は出てこないだろう。まごうことなきクラシックだ。

2025年10月2日木曜日

日本語ラップ 繰り返し首を縦に振ること

日本語ラップ 繰り返し首を縦に振ること/中村拓哉

 日本語ラップに関する批評の本ということで読んだ。日本語ラップを批評的に扱う作品は、先日読んだ『アンビバレント・ヒップホップ』などがあるが、依然として数は少ない。そうした状況において、本書は批評という切り口から本格派の登場を告げる一冊であり、日本語ラップを聴く楽しさを論理的に理解できる醍醐味がふんだんに詰まっていた。

 三部から構成されており、第一部が日本語ラップ概論、第二部が批評論、第三部が具体的な作品批評としてSEEDAのアルバム『花と雨』を取り上げている。第一部は著者の日本語ラップ観を提示する宣言のような章で、テーマは「一人称」である。ヒップホップが他の音楽と決定的に異なるのは、極端にパーソナル性を要求する点だと説かれる。

 その「一人称」を起点に展開される「宇多丸史観」は本著の白眉である。現在では映画批評などを通じ、日本カルチャーにおける批評的眼差しの第一人者といえる宇多丸だが、彼が日本語ラップにおいて打ち立てた「一人称」こそが重要であり、すべての始まりだったという見立ては興味深い。当初は空洞だった「一人称」に、さまざまな出自のラッパーが登場することで、日本語ラップが本来のヒップホップのあり方に近づいていく流れに、まさしく首を縦に振った。宇多丸の批評的立場を真正面から評価する言説がほとんどなかった中で、本著は歴史的な一冊といえる。長年ヒップホップを聴き続けてきたリスナーだからこそ得られる視座ともいえるだろう。

 また、いとうせいこうが「日本語ラップの創始者」とされることへの違和感が見事に言語化されていた点も印象深い。ヒップホップを「盗み、差異化する概念」として捉えるか、それともオーセンティックな音楽として「ヒップホップ」に忠実であるか。この二つをわけて論じることで、日本語ラップにおけるアティチュードの重要性が浮かび上がる。これは現行シーンのラッパーにも当てはまる課題だろう。海外で流行するスタイルをそのまま日本語で行うのか、それとも異化させて日本語の表現としてのヒップホップを模索するのか。そのアティチュードはいつの時代も問われるからこそ、本著で改めて整理されたことの意味は大きい。

 第二部は批評そのものについて議論が展開される。正直にいえば難解で、日本語ラップが好きで読み始めた人はここで挫折してしまうかもしれない。私自身も、著者の主張の半分も理解できているか、怪しいところである。議論が抽象的かつ、さまざまな言説が引用され、それこそサンプリングミュージックよろしく、チョップ&フリップしているようだからだ。元ネタにあたる哲学的な議論の難解さに加えて、さまざまな論点を接続していくので、この手の言説に明るくないと厳しいものがある。しかし、この手法こそが日本語ラップ的な批評の実践であり、以下のラインはそれが端的に表現されていた。

言葉を名で呼び、連関から破壊的に抜き取り、それを新たなテクストのうえで韻を踏ませて。根源へ引き戻す過程を経て、引用された言葉に新たな「死語の生」を生きさせること。

 わかりやすいのはタイトルにある「繰り返し首を縦に振ること」と批評の関係性である。この動作は、BPMが85〜100ほどのヒップホップの曲に対してリアクションする動作である。ここから「反復」「肯定」という要素を抽出して、本人の宣言どおり日本語ラップ的に「反復」「肯定」を論じていく。「なるほど」という言葉を多用し、「反復」「肯定」をリテラルに表現することで、離脱しそうな読者を置いていかないような工夫がなされていた。

 第二部は第三部で楽曲批評を進めるための準備段階と位置づけられるが、著者がここまで徹底的に理論武装している背景には、日本語ラップ批評に向けられる、ラッパーやリスナーからの否定的な眼差しを意識してのことだろう。「お前が頑張れ 似非評論家」というSALUのパンチラインに象徴されるように「一人称」の音楽であるからこそ、本人の意向が他の音楽よりも重視される。その中で第三者が日本語ラップを批評する意義をどう担保するのか?著者はその問いに向き合うため、これだけ理論武装しているとも言える。冒頭で宣言しているとおり、批評は中立であったり、対象の意向に沿っている必要はない。著者の言い方を借りれば「より偏向した、より差異的」な視座だからこそ、日本語ラップの本質に迫っていくことができる。

 難解な議論の中でも、具体的に日本語ラップが参照されることで理解が進む場面もあった。PUNPEEのサンプリングセンスとベンヤミンの自然史概念を接続した議論や、RUMI「あさがえり」に対するアナロジー的批評には強く心を動かされた。必ずしも有名でない曲でも、批評によって光が当たり再び輝き出す。このマジックこそ批評の醍醐味だろう。

 第三部ではいよいよ『花と雨』の研究・批評が展開される。日本語ラップを代表するクラシックであり、特に30代〜40代のヘッズにとって特別な一枚だが、ここでは「日本語ラップを語る」という行為そのものを一段引き上げる試みがなされていた。押韻を軸とした批評の眼差しを日本語ラップに向けることで、思いもよらない解釈へと導かれていく。

 画期的だと感じたのは、バースを意訳している点である。意訳してしまうとラップの行間に宿るポエジーを削ぎ落とすため、野暮ったい印象は否めない。しかし、この作業を通じて浮かび上がる解釈の豊かさは他にない体験だった。理論を背景に押韻を軸とした批評が深度を増し「一人称」の音楽としてのSEEDAの圧倒的な描写力が浮かび上がる。そこにBESやNORIKIYOといった仲間が関連し、複数の「一人称」が連帯を生む様が痛快に描かれる。「花と雨」と「水と油」の対比、SEEDAと雨のモチーフの関係性など、聴き込んできた曲に新鮮な視点が与えられる。さらに「Sai-Bai-Man」のホモフォビア的リリックを大麻というメイントピックと接続し反転させる批評も見事であった。ラストで提示される「遠く韻を踏んでいる」という押韻の新たな視座は、『花と雨』の最深部に到達したかのような感覚さえあった。

 現在の日本語ラップは人気拡大に伴い、爆発的なプレイヤー数が増加し、リリース量が過去に比べて膨大になっている。したがって、一曲ごと、もしくはアルバム単位で、これだけ真剣に向き合うことは難しい。しかし、本著を読むと、向き合えば向き合うほど、音楽の体験が豊かになることがわかる。実際、読んでから『花と雨』を聞くと、今まで幾度となく聞いているにも関わらず、リスニング体験に「新たな生」が付与されたようだった。

 本著で論じられている日本語ラップは、現在のメインストリームとはやや距離がある。今の日本語ラップにおいて、首を縦に振ってリアクションする曲は多数派とは言えないからだ。トラップ登場以降の日本語ラップのリアクションは、首というより全身を揺らす、より身体性の高い音楽となっている。さらに本書で批判的に扱われたJ性も、Jポップ的なメロディーを特徴としたハイパーポップを筆頭に若い世代では人気を博している。ストリーミング時代のグローバルな音楽市場では「内なるJ」が自身の個性、オリジナリティとして考える新世代のラッパーも登場しているからだ。もし次作があるのであれば、より現行シーンの日本語ラップについて、第三章のような形で研究されたものが読みたい。

2025年9月29日月曜日

ブラック・カルチャー 大西洋を旅する声と音

ブラック・カルチャー 大西洋を旅する声と音/中村隆之

 このタイトルで岩波新書となれば、読まざるを得ないと思って手に取った。ヒップホップをはじめ、アメリカ、イギリスのブラック・ミュージックが好きな人間であればあるほど、「ブラック」という呼称について考えをめぐらせることになる。本著では、大西洋を軸に据えることで、宗主国の視点だけでなく、オリジンであるアフリカに焦点を当てている点が新鮮だった。

 タイトルどおり、ブラック、つまりアフリカの人々が奴隷として北米や南米(著者はアメリカスと呼んでいる)へ連行された結果、誕生したカルチャーの変遷を追った一冊となっている。ドラマ『ザ・ルーツ』、映画『それでも世は明ける』、小説『地下鉄道』など、アメリカにおける奴隷制度を題材にした作品は色々と見たり、読んだりしてきたが、それでも抜け落ちている視点がまだまだあることを痛感させられる。近視眼的ではなく、もっと俯瞰した形で、北米に閉じないアメリカスとアフリカの関係性を捉えることで、文化の豊かさをさらに噛み締められるのだ。

 ここ日本でもヒップホップが爆発的人気を獲得している今、ヒップホップのルーツとどう向き合うべきか?という問いは、しばしば問われがちだ。つまり、それが借り物の文化であることに自覚的かどうか。しかし「貸し借り」という窮屈な図式に陥るよりも、本著を読むと、アフリカの人々が連綿と伝承してきた音楽スタイルの延長線上に、日本のヒップホップが存在していることに気づかされ、歴史の壮大さに対して自然と敬意が芽生える。それを可能にしているのは、著者が「環大西洋」という広い領域を対象に、現行のブラック・ミュージックを位置付けているからだ。また、ブラック・カルチャーはアフリカ系アメリカンが占有するものではないことを丁寧に示しており、後ろめたい気持ちがいくばくか和らげられる人もいるだろう。(決して盗用の肯定ではないことは補足しておく。)

「自分は〜である」とその反対の「他者は〜である」というアイデンティティ画定の呪縛を解除し、絶えず混交状態を生きている私たちの生の実態をむしろ見つめましょう。そのことを教えてくれるのもブラック・カルチャーです。ブラック・カルチャーが植民者の文化を受容し、何世代もの創意と工夫によって自文化をつくりあげてきたように、私たち一人ひとりもまた、日本語をはじめとする文化を共有しながらも、世界のさまざまな文化にかかわり、ときに他者の文化を自己の属性に変えながら、生きています。

 「ブラック・カルチャー」とはなっているが、音楽が一番フォーカスされているテーマである。奴隷制によりアフリカの各民族が分断され、奴隷としてアメリカスで過酷な労働に従事する中で、なんとか伝承されてきたのは、口頭伝承だからこそ。文字に残されなかったがゆえのニュアンスがメロディやリズムに息づき、その揺らぎがブラック・ミュージックのグルーヴを生んでいる。今ではポップミュージックにも大きく浸透し、多くの人々を惹きつけてやまない。文字の記録こそ進んだ文明の証とされがちだが、必ずしもそうではないことを示している点も興味深い。

西洋音楽が楽譜に書いた理論を再現するという抽象的世界から出発するのに対し、アメリカスの奴隷制社会から生まれた音楽は、奏でられる音を聴き、真似て覚えるという個別・具体的世界から生まれてきた現実と無関係ではないはずです。

 世の中では「新しさ」が重視され、斬新であることが称揚されがちだが、本当にそうだろうか。著者はブラック・ミュージックの性質を思想家のアミリ・バラカンの概念を用いつつ「変わりゆく同じもの」だと主張している。単純に「新しい」というだけではなく、その未来は過去から生み出されている。ヒップホップのサンプリングはまさに最たるものだろう。偶然なのか、この「変わりゆく同じもの」をテーマにした日本語ラップの曲を思い出して久しぶりに聞いた。懐かしい…!

 新書とは思えないほど広範な議論が展開、紹介されており、ここで紹介したのはほんの一部だ。「ブラック・ミュージック」好きの方は、ぜひ読んでほしい一冊。

2025年9月24日水曜日

THE VIBES OF RIP SLYME vol.1

THE VIBES OF RIP SLYME vol.1/ゴウロクケンジロウ

 一年間の期間限定とはいえ、久々に五人で再始動したRIP SLYME。そんな復帰の話題で盛り上がるなか登場したのが、このRIP SLYMEのZINEだ。RIP SLYMEは、日本語ラップを好きになるきっかけとなったアーティストであり、多くのアラサー、アラフォーにとって特別な存在だろう。この復帰タイミングで、単純なファンジンの領域を大きく飛び越えた決定版ともいえるアーティスト本がリリースされたことに読み終えて感謝した。

 本著はvol.1と銘打たれており、1994年〜2004年までのキャリアを総括する内容になっている。自分は「雑念エンターテイメント」のシングルから聞き始めたので、インディー時代の活動はほとんど知らなかったが、本著ではその点も徹底的に掘り下げられている。インターネットで容易に情報が拾えない時代の雑誌やラジオといった一次資料を丁寧に参照しており、著者の足で稼いだ情報から熱意が伝わってきた。

 ジャーナリストよろしく、カジュアルな ファンにとっての空白の時間を埋めてくれている。メンバー各自のバックグラウンドや、加入するタイミングがこんなにバラバラだったなんて知らなかったし、当時のシーンにおける評価を知ることができる点が興味深い。90年代の日本語ラップが語られる際、彼らはほぼ抜け落ちる対象なので貴重である。特に宇多丸、Zeebra、Dev Largeらによる言及から、彼らのポジションが伝わってきた。Dev LargeがRIP SLYME を評価していた件として、ナイトフライトのコメントが参照されていたが、後年コンピレーションCDの『Mellow Madness』に「白日」が選曲されていたことも個人的には印象的な出来事であった。

 本著の魅力は、前述したような「日本語ラップ」の切り口と「ラップ歌謡」の切り口の両面から紐解いている点が挙げられる。ラップ歌謡の切り口でいえば、当時のオリコンチャートの数字がとても興味深い。子どものころに理解できていなかった数字の意味がわかるので、いかに RIP SLYME がラップ歌謡でJポップフィールドをサバイブしていたか、よく理解できた。今では武道館公演を行う日本語ラップのアーティストはたくさんいるが、彼らは全盛期、一年に五回も武道館でライブをやっていたことがあったり、さらには五万人スケールのライブまでも行っており、今の日本語ラップバブルのスケールと比較しても、稀有なアーティストであることが数字から明らかにされていた。

 楽曲分析もかなり丁寧に行われており、サウンドとリリック双方から分析されている。現在の日本語ラップに関する批評および語りは、どちらか片方に偏っているケースが多いわけだが、本著ではシングルCDが売れていた背景もあり、一曲一曲の重みが大きかった時代ゆえの情報が整理されていた。なんならCDジャケットのデザインまで深掘りしていて驚いた。近年、プレイヤーサイドからの情報開示が進んでいる点も大きく、特にRYO-Z、FUMIYAを中心に昔語りが進んだことで本著の情報量は肉厚になっている。元の動画を見ればいいのだろうが、こうやって体系的に整理してもらうことで全体像が理解しやすくなっており、素晴らしい仕事だ。

 逆説的で申し訳ないのだが、こうした分析から自分がRIP SLYMEを当時そこまで好きになれなかった理由も見えてきた。それはビートのBPMとジャンル性である。RIP SLYME はとにかく速いBPMと、非ヒップホップ的な音色の数々が特徴的だった。日本のマーケットはBPM が早くなければ人気がでない兆候は現在も続いているが、それに応じた采配だったのだろう。(Creepy Nutsもその呪いの下にいると言える。)また、『MASTERPIECE』におけるビートルズオマージュもヒップホップとは別のベクトルであり、マス受けを目指していたことがよくわかる分析で大変興味深かった。今、各アルバムを聞き返してみると、自分が好きなテイストの曲はたくさんあるわけだが、当時の私は、キングギドラ「公開処刑」の影響もあり、よりドープなもの、BPMが遅いものを追い求めていたがゆえに好きになれなかったのだなと改めて納得した。

 全体的にはジャーナリスティックな筆致だが、たまに垣間見える著者のRIP SLYMEに対する思いや当時の思い出が、本著をスペシャルなものにしている。これこそファンジンの魅力であり、出版社やアーティスト自身によるムック本とは異なる点だ。なかでも『TOKYO CLASSIC』を聞くシーンは全く同じ経験があったかと錯覚してしまうほど具体的な描写に相当グッときた。

 インターネット以後は追体験しやすい環境が整い、当時の状況を知らない世代が、主観的視点で書いたり、語っている場面を見かけることがある。しかし、著者は自身とRIP SLYMEの距離をしっかりと設定していて、主観と客観を明確にしてくれているので、その点もヒップホップ的に「リアル」だと感じた。

 RIP SLYMEとポリコレの関係も、当人たちは触れにくいことなので、ファンジンならではといえる。SMAPとの対比で描いていく展開が見事だった。具体的なことでいえば、t.A.T.uのMステ事件にRIP SLYMEが間接的に関与していたなんて知らなかった。ただ、その延長線で考えると、直近のMAGAオマージュ騒動が腑に落ちた。90年代サブカルに代表される露悪的ユーモアは軒並みキャンセルされている現代において、彼らのイタズラ心はそのポピュラリティに反比例するように理解されにくい。ラッパーである以上、もっとリリカルな形で表現として昇華すれば、それはアートとして受け止められるのではないかと感じた。

 今回の復帰前のRIP SLYMEに対するイメージは、地に落ちていたと言っても過言ではない。著者はその汚名を返上するべく、彼らが成し遂げた仕事の偉大さを体系的にアーカイブする気持ちで書き始めたそうだ。そして、このタイミングでRIP SLYMEが奇跡の復活を成し遂げたのは、著者の他の追随を許さないハードワークに対する神の恵みのようだ。Vol.2も首を長くして待ちたい。

2025年9月20日土曜日

5lack「そのさきのはなし」


 5lackが彼の地元である板橋でワンマンライブを行うと知り行ってきた。チケット代が7500円で、ホールとはいえ少し割高…と購入時は思っていたのだが、実際の公演は余裕でお釣りがくる、安すぎるとすら思わされる充実したショーケースだった。日本語ラップにおける「孤高の天才」というイメージがあるが、この日は「天才には天才が引き寄せられる」言い換えるなら、羊(G.O.A.T.)が群れるように集まった豪華な布陣に魅了されたライブだった。

 「五つノ綴り」のイントロが流れてライブがスタート。ステージ横から5lackと思しきマスクマンが登場して歌い始める。その後、暗転し、今度はステージ上に聖歌隊が円陣を組み、同じく「五つノ綴り」をゴスペルとして歌い上げる。それが終わると、バックDJを務めるWatter、ラッパーのGapperたちが板橋を徘徊するコント映像がスクリーンに流れて「集合場所は高架下!」の合図で本編が始まった。5lackは、サングラスをかけ、シャツインのネクタイ姿で登場し、最新EP『Turnover』から「高架下」を披露。さらにステージ脇にはドラマーのmabanuaが控え、半生バンドの演奏と5lackのラップが融合、その相性はバッチリだった。このように冒頭からギミックが山盛りでワンマンライブならではの味わいがあった。

 「563」を含め数曲、半生バンドで披露したのち、続く「Change up」では、盟友ISSUGIが早々に登場。二人のコンビネーションの特別さを再確認した。そして「Change up」の2000年代バイブスを引き継ぎながら「近未来200X」へ。往年のファレルのスタイルを思いっきりオマージュしたビートで大好きな曲だ。ここではGAPPERが登場、さらに曲終盤の5lackが歌い上げるパートでは、風を使った演出があり、そのくだらなさにいい意味で肩の力が抜けているように感じられた。ギターつながりでSILENT POETSとの「東京」も披露。もともと東京五輪のキャンペーン向けの曲だったが、地元をレペゼンするライブの定番曲となっていて時の流れを感じた。

 そこから「俺の長いキャリアはBudamunkなしには語れない」というMCと共にBudamunkプロデュース曲のパートがスタート。「Betterfly」「Life a」など、Budamunkの独特のグルーヴのビートが、ホールに鳴り響く様は圧巻だった。最後には本人も登場し、5lackと共にステージを一旦退場。

 インターバルはGAPPERが担当。「HOTEL@GAPARINA」を披露したのち、お笑い芸人の営業さながら場を繋ぎ始めて場内はざわついていた。Good old daysな話として、彼らが若手の頃、近くのリハスタで練習していたこと、このホールの前でたむろしてたことなど、地元ならではの空気を精一杯伝えてくれていた。最後に披露した「Assquake」では、客演のDaichi Yamamotoがまさかの登場で、さらに場内騒然。Daichi Yamamotoのラップを初めて見たのだが、ラップのうまさから身のこなし、何から何まで演者としてかっこよすぎたのでワンマンライブに行きたくなった。

 後半は、トレードマークの読売ジャイアンツのベースボールキャップをかぶったB-BOYスタイルで再登場。後半冒頭で、いろんな曲のメドレーがかかったのだけど、そこで『情』に収録されていた「朝の4時帰宅」がかかってビビった。そんな前振りののち、ステージ上にLEDによる星、天の川のようなものまで浮かび上がり披露されたのは「Gaia」そして小袋成彬が登場。彼の声が会場の空気を一変させ、視覚的にも聴覚的にも楽曲の壮大さが表現されていた。これを二人揃って聞ける機会なんてそうないだろうから、この辺で入場料金が高いと一度でも思ったことを本当に反省した。

 この日のハイライトは「But Love」「HPN」の流れだった。「But Love」では、オリジナルのビートではなく、ピアノソロの上で5lackがスピットしていく。このアルバムを一番聞いていたのは東大日本大震災直後の頃で、あの頃のなんともいえない閉塞感、自分の人生のうまくいかなさなどを思い起こさせる、彼のラップの生々しさに思わず涙してしまった。その後、暗転された中、ステージにスタンドマイクがセットされて、JJJとの「HPN」が流れ始め、暗転したままJJJのバースが流れ続ける。ここで浮かび上がるのは、JJJの圧倒的な不在である。POP YOURS、the light tourなど、JJJがまるでいるかのように振る舞うことで、彼のこれまでのキャリアに敬意を表したわけだが、5lackはそれらとは全く別のアプローチを取り、彼なりに喪に服したのだった。そもそも「HPN」は人生で起こる想定外の事態を歌った曲であり、リリース時はFebbの急逝を憂いたものだった。実際、2018年のリキッドルームの5lackのワンマンライブではJJJ、そしてKid fresinoも登場して、ライブ中にFebbに思いを寄せていた。それから7年後の現在、JJJの不在を可視化され、死の現実を目の前に提示されたようで涙が止まらなくなってしまった。その後、用意されたスタンドマイクを使って歌い上げるのは「進針」この流れで聞くと、意味合いが深まって聞こえる曲で素晴らしかった。

 往年の名曲「NEXT」「Girl if you」「Hot cake」「適当」も披露されていた。この辺りは無条件でブチ上がらざるを得ない青春の名曲の数々であり、本人も言っていたが、リリースから十数年経つのに古びていないし、若い子たちにも聞かれていることが会場の合唱からも伝わってきた。やはりサンプリングビートだからこそのエバーグリーンな魅力があるのだろう。

 「キャリアが長くなってきたけど、まだまだ欲望はあるよ、その大きさは5XLくらいかな?」のMCとともに「5XL」が始まり、まさかのLEX降臨!先ほどのDaichi Yamamoto然り、初めてライブで見たのだが、カリスマがステージからビシバシ発せられており、日本語ラップのライブにおいて、この手のカリスマを感じることがあるのかと心底驚いた。そして、肝心のラップも独特のボーカリゼーションが「マジでスター!」としかいいようがないい、いい意味での自由さに溢れていて、若者たちが熱狂する理由がよく理解できた。LEXがパフォーマンスのあいだ、ずっと手をポケットに入れていて、何なのかなと思ったら、5LACKのバースに ”考えてるふりしてるだけ 手を入れるポケット” オマージュだったことに気づく。いいやつすぎる。そして、この曲の会場での合唱率が異様に高く、お客さんが若返りしていることにも気付かされた。

 続く、Kojoeとの「Feelin29」では、ベテランならではのスタイルウォーズを見せつけていた。Kojoeのマイクが最初入ってなくて、一瞬ざわっとしたのだが、歌っている本人が全く動じてなくて、ミスをミスに見せないプロの業を見た。

 この日はアフターパーティーとして「Weeken’」が予定されており、ラインアップの紹介を経たのちに「Weekend」をmabanuaを再度召喚して半生バンドで。この曲のアートワークのとおりビートの持つお祭り的なノリが生のドラムでさらに加速していて、会場がぐわんぐわん揺れていた。最後に白い円盤シリーズ「39 hour」で一旦締め。

 そのあと、アンコールでは冒頭に登場したマスク姿で5LACKが登場…と思いきや、それはPUNPEEだったというまさかの展開から兄弟ソング「Wonder Wall」へ。この日はいろんな客演があったわけだが、他のアーティストとは異なる二人の信頼感がステージングから伝わってきた。そして、ここにGAPPERが加わって、まさかのPSG!「M.O.S.I」「神様」はメドレーで、PUNPEEのアルバム収録「Stray Bullets」名曲「愛してます」がフルバージョンで披露。三人でラップする姿を見ていて、PSGがそのまま活動していたら、どうなっていたのだろう?と一瞬考えたのだが、PUNPEEと5lackという天才兄弟が別ベクトルで活動した結果、日本語ラップの未来の裾野が大きくなった世界線に我々は生きていることに一周回って感謝した。大ラスは再度白い円盤シリーズより「こうして夜空を眺めて」で大団円。

 直近のEPでは、キャリア初期の「適当」「ミュージックのみ」といったアプローチよりも、サッカーMCものが意外に多い。それは『5XL』リリース時のインタビューからも明らかなとおり、日本のヒップホップ市場が大きくなっていく中で、ラップ、歌、ビートといった「スキル」のコンペティションだったはずのヒップホップが歪められていることに苦い思いをしてるからだろう。そんな状況で、この日のライブはスキルフルで、ちゃんとライブ用にボーカルなしのビートの上で自らのラップスキルを誇示し、彼がいかにかっこいいラッパーなのかを明確に示すものであったし、ショウケースとしても素晴らしかった。(非常に細かい話だが、ライブ中にほとんど水を飲まないことにも日々の鍛錬を垣間見た。)

 1987年生まれとはいえ早咲きの天才は、すでにベテランの領域に差し掛かっており、今後どんな音楽を紡ぎ出すのか、これからも見守っていきたい。とか書いていたら、日付変わって、ニューアルバム『花里舞』がリリース!ライブを新譜のプロモーションのチャンスとしない天邪鬼っぷりこそが、5lackというラッパーの魅力を最も表しているかもしれない。

 そして、何気なくアルバムのプロデューサー陣を見ていたら、見慣れないKid Hazelという名前がありググってみると、21 savageも手がけるUSトッププロデューサーだった。こんなサプライズを含め、ライブのタイトルどおり「そのさき」の景色を見せてくれそうなアルバムなので、ライブの余韻に浸りながら楽しみたい。

2025年9月18日木曜日

ディック・ブルーナ ぼくのこと、ミッフィーのこと

ディック・ブルーナ ぼくのこと、ミッフィーのこと

 子どもがいつからかミッフィーのことを好きになった。二歳ごろから好きな気持ちが顕著になり、絵本を読んだり、アニメを見たり、フィギュアでごっこ遊びをしている。図書館に絵本をよく借りにいくのだが、最近は自分で探してきてしばらく眺めていることも多く、こちらが手持ち無沙汰になる。そんなとき、子ども本のフロアにある「絵本・児童書研究」といった大人向けの棚を見ることが習慣になり、そこで本著を見つけてオモシロそうと思い読んだ。ちょうどZINEの仕上げを進める中で、クリエティビティに煮詰まっていたのだが、光明が差すようなクリエイティブ論に救われた。また、ミッフィーに関する知らなかった情報がたくさん載っていて、そちらも興味深かった。

 日本に来日したブルーナ氏にインタビューした内容がまとまった一冊となっている。一問一答形式で、彼自身の人生を振り返りつつ、ミッフィー制作の裏話が数多く明かされている。

冒頭で家族との関係性について問われ、パートナーに真っ先に作品を見せると話していた。その理由は「作品がひとりよがりになっていないだろうか?」という不安からだという。終盤にも同じようなクリエイティブ論があり、特に次の言葉に心を打たれた。

どれだけ描いても、慣れた仕事であっても、その出来ばえに謙虚になることは、創作活動に必要です。

作品のスタイルは自然に生まれてくるものではなく、探し求めるものです。(中略)スタイルの探求というのは、絶えず発展していくプロセスなのです。今もそのプロセスの途中にいると思っています。

自分は自分を客観的に見ることはできません。だから、ぼくには作品を正直に評価してくれる、信頼できる批評家が必要なのです。

 第二次大戦の戦火はオランダにも及んでおり、その経験から「やりたいことで生きていく」と決意した話は、平和な時代を生きる私たちには想像もつかない。彼のキャリアも順風満帆とは言い難く、はじめはアーティストとして生きていくことを親に反対され、父親の会社である出版社でデザイナーとしてキャリアをスタート。膨大な仕事量をこなしながら、絵本をサイドビジネスとしてコツコツ続けていた。このあたりは、自分が会社員しながらZINEを制作していることにも重なった。結局、父親の会社を退職して自立したのは48歳らしく、相当遅咲きであるが、会社員として鍛えられた結果、自分のスタイルを見つけることができたらしい。

 ミッフィのビハインド・ザ・ストーリーについて、本人の口から聞けた点では貴重なインタビューである。普段読んでいる絵本の裏側を知る機会はなかなかなく、特に日本で出版された本書に収録されているエピソードとして、『ボリスとあおいかさ』が東京のホテル滞在中に、傘をさして風に煽られている人々を見て思いついた話は印象的だ。他にも『うさこちゃんのにゅういん』『うさこちゃん ひこうきにのる』の誕生エピソードが具体的に語られており興味深かった。

 また、茶色のうさぎであるメラニーの誕生秘話も興味深かった。読み聞かせのために小学校に訪れると、肌の色が異なるさまざまな子どもがいることがきっかけだったらしく、そのアクチュアルな感性に驚きつつ、私自身は子どもが色で区別してしまう難しさに直面している。子どもに色で区別するこの是非について逐次説明しているのだが、果たしてどこまで伝わっているのか。

 デザインの観点でいえば、シンプル・イズ・ベストだと信じてやまないスタンス。いかに削ぎ落として本質だけ抽出できるかに尽力していたか、インタビューから伝わってきた。他にもデザイン論についてはたくさん話していて、たとえば、ミッフィーの絵本が正方形なのは、子どもが持ちやすいようにしているとのこと。実際にうちにある絵本で、子どもが手に持って自ら読んでいるのはミッフィーの本が多いので、まさしくデザインの勝利だ。

 使う色についてもブルーナ氏が厳密に決めていたことがよくわかる。しかし、日本で展開されるミッフィー関連商品の中には、その色味を無視したものも多く見受けられる。「権利を購入したのだから自由でいい」という発想は、ブルーナ氏、ひいてはミッフィーそのものへのリスペクトに欠けるのではないかと思ってしまった。

 ミッフィーたちは体が横を向いていても、顔は正面を向いている。これは、子どもたちのまっすぐな目に応えようとブルーナ氏が思ったからとのことで、とにかく絵本を読む子どものことを何よりも大切に考えていることがわかるエピソードだ。絵本の世界の奥深さを堪能できる一冊だった。

子どもにとって絵本は世界を広げてくれるもの。絵を見たり読んだりして心に響くものがあるから、自由にイマジネーションをふくらませることができるし、その先にある何かに気づいたり、自分もやってみたい気分になったりするのです。子どものための絵本は、そういうことが大事なんです。

2025年9月17日水曜日

砂漠の教室: イスラエル通信

砂漠の教室: イスラエル通信/藤本和子

 先日読んだ『音盤の来歴』で、著者の別作品に関する言及があり、積んであった本著を読んだ。これまで何作か著者の本を読んできたが、その中でも骨太な一冊だった。紀行エッセイとしてオモシロいのはさることながら、イスラエル、ユダヤ人に対する価値観が克明に書かれていて興味深かった。

 タイトルの「砂漠の教室」とは、ヘブライ語を学習するために訪れたイスラエルの語学学校のことであり、著者がイスラエルで過ごした期間に書かれたエッセイが中心となって構成されている。過去作同様に著者の観察眼は冴え渡り、教室にいる生徒や先生たちのユニークな雰囲気がふんだんに伝わってくる。時代は70年代であり、第二次世界大戦の余波がまだまだある中で、ユダヤ人たちの立場の脆さや、イスラエルという国をなんとか理解しようとストラグルしている。検索、さらにはAIに尋ねたりと、知らないことを学ぶ上で、現代ではたくさんのアプローチがある。しかし、当時、生きた情報を得ようと思えば、現場に直接訪ねることがもっとも確実だったのだろう。だからといって、夫婦二人でいきなりイスラエル行ってヘブライ語を学ぶなんて、相当トリッキーではある。

 特に心をつかまれたのは「イスラエル・スケッチ」と呼ばれる章だ。銀行員との会話、兵士のヒッチハイク(花と銃の対比!)、ベドウィン、イスラエルの料理など、イスラエルで暮らす人たちの生活がまさにスケッチされるかのように微に入り細に入り描かれていた。特に今回は料理にフォーカスしていて、なかでも「悪夢のシュニツェル」では、イメージする中東料理が裏切られていき、イスラエルと欧州の関係性のねじれを料理をアナロジーにしてズバッと表現していて見事だった。

 エッセイにとどまらない思索が載っている点も本著の特徴だろう。具体的には、最後にある「なぜヘブライ語だったのか」「おぼえがきのようなもの」という章だ。ここではイスラエル、ユダヤ人を著者がどのように捉えているか、言葉を尽くして書かれている。イスラエル、パレスチナの問題は日本から距離もあり、直接関係するわけでもないため、どうしても他人事に映ってしまうのが現状だろう。しかし、著者はユダヤ人と朝鮮人をディアスポラとしてオーバーラップさせ、イスラエル・パレスチナ問題について、私たちが他人事でいれるわけがないのだと喝破していた。

 当時のイスラエルと2025年の今のイスラエルでは状況が異なり、ユダヤ人の不遇に思いを寄せることは今は難しい状況ではある。ただ、そんな中でも突き刺さる言葉はいくつもあった。

わたしは人間が人間に対してこれまでに行ってきた残虐行為の詳細な内容を知ることでは、もはやわたしたちの思想を力強いものにすることはできないと感じた。(中略)残虐、血、殺戮、死は茶の間でも日常茶飯事となり、わたしたちの感覚はしびれきって、持続しない、もろい「一般的な怒りの気持」としてあるだけで、結晶しない。正義の言葉のように思える言葉の一つ一つは、歴史に汚され、いやしめられ、萎えている。言語の貧困は思想の貧困を丸出しにしている、と思った。

 今日もガザ侵攻のニュースが流れてきて、一体どうすればいいのか、もはやよくわからなくなってきているが、こうやって本を読んで理解を深めることは必要だと感じている。最近、イスラエル擁護の視点を日常生活の中で目撃して、そこで違和感を感じたのは、間違いなく自分で能動的に情報を取得しているからだ。自分の違和感を少しでも伝えていくしかないのかなと思う。

2025年9月11日木曜日

音盤の来歴: 針を落とす日々

音盤の来歴: 針を落とす日々/榎本空

 『それで君の声はどこにあるんだ?』の著者による音楽を主題としたエッセイ集。前作はかなり好きな一冊だったが、本著も自分にとって特別な一冊になった。レコードを買うこと、聞くこと、さらには音楽を聞くこと全体を通じて、これだけの話を書ける著者の筆力に改めて感服した。そして、月並みながら「やっぱりレコードっていいなぁ」という思いを新たにした。

 レコードさながらSide A、Side Bという形で構成されており、Side Aではレコードをめぐるエッセイ、Side Bではより広く音楽と人生に関するエッセイとなっている。著者はアメリカに移住してから本格的にレコード蒐集を趣味として始めたようで、買ったレコードに関するエピソードがSide Aでは展開されていた。レコードに関する読み物は色々あるが、一枚のレコードに付随して、これだけパーソナルな出来事が言語化されている文章に巡り合うことはなかなかない。さらに、レコードを買ったミュージシャンのライブレポも興味深く、栄枯盛衰な音楽の世界で、それぞれのアーティストがキャリアを重ねながら、自分なりの表現を貫いている様に「アメリカ」を感じたのであった。レコードとライブを通じて、アーティストの今昔を貫いていくような構成はまさに「音盤の来歴」というタイトルがふさわしい。

 著者が若い頃からレコード好きというわけではなく、比較的最近好きになったからこそ、レコードに対するみずみずしい感情が表現されていて、レコード愛を取り戻させてくれる。レコードで音楽を聞く行為は、日常においてスペシャルな瞬間なのである。また、レコード蒐集家であれば、皆が抱いたことのある、中古レコードがもっている強烈な磁場のようなものが、著者の言葉で見事に言語化されていた。誰かがレコードという塩化ビニルの円盤に音を記録して、誰かがそれを聞く。そして、様々な人のもとを経て、自分の家のレコード棚にある奇跡を本著は感じさせてくれる。

 ストリーミング時代においては、言及されている音楽をすぐに聞くことが可能であり、聞きながら読むと臨場感が増して、より一層楽しむことができる。本著で取り上げられる70年代のロック、ソウル、ジャズといった音楽の数々は、読まないと出会うことがなかっただろう作品ばか。特に最初のエピソードに登場するアラン・トゥーサンとの出会いは大きな収穫であった。

 Side Bにかけては「音楽と人生」とでもいうべきエッセイとなっている。自分の人生において重要な存在だったものの、今わざわざ連絡して会おうとは思わない。誰しもそんな人がいると思うが、そこに音楽というファクターが加わるだけで、どうしてこんなにスペシャルでノスタルジックなものになるのだろうか。タイムレスな魅力を持つ音楽が、記憶と結びつくことで輝きがさらに増す、つまり、その音楽がその人固有のものになるからなのか、と考えさせられた。

 著者のオリジナリティがもっとも発揮されているのは「レコードにまつわる抜き書きのアーカイヴ、あるいは百年目のボールドウィンへ」という章だろう。アフリカ系アメリカンの作家たちを縦横無尽に引用しながら、レコードを絡めつつ思考が広がっていく様は圧巻。特にボールドウィンの引用は前作にも増して行われており、いつか読みたいなと思っていた気持ちを強く後押しされた。ボールドウィンのレコード棚にあった音楽が、ストリーミングのプレイリストで聴けることの味気なさの話も興味深かった。何を聞いていたかも大事ではあるが、それよりもボールドウィンと音楽のあいだにあった「痕跡」こそを私たちは求めているのだという指摘は、データ至上主義の今、新鮮に映った。

 終盤にはイスラエルとパレスチナの戦争に対して胸を痛めている話があった。ちょうどこの戦争の受け止め方でモヤモヤしていたタイミングだったので、著者のまっすぐな懸念に溜飲を下げた。この言葉を胸に刻んでおきたい。藤本和子の『砂漠の教室』をちょうど家に積んでいたので、次はそれを読む。

遠くの地の虐殺を止めろと叫ぶことと、子どもたちが走り回る部屋でレコードを聴くこと(もちろんそれはレコードじゃなくたって、音楽じゃなくたっていいのだけど)、これらは二者択一ではなくて、どちらも生きるという営為の大切な一部であり、しかもきっとどこかで繋がっている。


2025年9月8日月曜日

ビルボードジャパンの挑戦 ヒットチャート解体新書

ビルボードジャパンの挑戦 ヒットチャート解体新書/磯崎誠二

 『本の惑星』というポッドキャストで著者がゲスト出演していたエピソードを聞いて、著作がオモシロそうだったので読んだ。番組内ではビルボードジャパンが「本のヒットチャート」を構想している話が出ていたが、本著では音楽チャートについて詳細に解説されている。これまで考えたこともない視点の連続で、普段あまりチャートアクションを見て音楽を聞くタイプではないものの、思わずチャートを眺めたくなった。

 アラフォーの私にとっては、音楽のチャートといえばオリコンだが、それはCDが売れに売れた時代の話だ。いまやCDはアイドルカルチャーを中心とした「複数枚購入機会生成装置」と化してしおり、その売上枚数は世間的流行の物差しにはなりにくい。その代わりに存在感を増しているのが、ストリーミングや動画、カラオケ、CDなど複数の指標を総合するビルボードチャートである。本著は、そのビルボードチャートの立ち上げから携わってきた著者が、設立までの過程、運用の状況から実際のデータ分析まで「チャートとは何か?」「チャートから何がわかるか?」を丁寧に解き明かしてくれている。

 今や当たり前に存在するビルボードチャートだが、その設立までの紆余曲折の過程が詳細に書かれていた。本家USビルボードのロジックをそのまま持ってきているだけかと思いきや、USサイドはあくまでアドバイザー的立場でしかなく、日本サイドでロジック構築、チューニングしていることに驚いた。ガラパゴス的とも言われる日本の音楽産業は、配信解禁の遅れなどステイクホルダーの思惑に左右されており、今となっては、ストリーミングがほぼ全面開放ではあるものの、それが数年遅れたことによるインパクトの大きさについて、チャートを作る立場から憂いていた。既得権益がその構造を維持したがる態度は、音楽業界に限らず、日本全体の風習とも言えるわけだが、それを一つずつ打破して今のビルボードチャートがある。合間合間にある著者の過去のエピソードを読む度に、同じサラリーマンとして胸が打たれるものがあった。

 後半は実際のアーティストのデータ分析に踏み込んでいる。アーティストファンダム、楽曲ファンダムという大きく二つのタイプで分けて、各アーティストの過去、現在をあぶり出していく様に、音楽に対しても想像以上にデータ分析の波が押し寄せている現実を改めて突きつけられた。最近、ツイッターでYOASOBIの地方巡業について話題になっていたが、なぜ彼らがそういったアプローチをしているのか、本著に答えが載っている。また、ストリーミングの台頭によってCD販売で見えなかった過去曲の聞かれ方も分析対象となっている点も興味深かった。手元の資産を有効活用して利益を最大化していくにはどうすればいいかデータが教えてくれる、というのはデータ分析の基本であり醍醐味だが、それをふんだんに味わうことができる。特に著者はビルボードの最大の特徴である複数指標を重視しており、単純な実数だけではない考察も含めて興味深かった。

 「音楽はアートだ」といってもやはりトップアーティストになれば、アーティストは商材であり、その商材で会社、ひいては多くの人を支えなければならない。素晴らしい音楽を作ることがアーティストの役目であれば、それを最大化するには、データを軸とした細かいマーケティングが必要であることがよく理解できた。

 著者が、音楽ジャーナリストの柴 那典と、BMSG社長のSKY-HIとそれぞれ対談した内容も載っており、それらもオモシロかった。前者では音楽業界全体の構造、後者ではアイドルカルチャーとチャートについて深堀りされている。特にSKY-HIは自身がアイドル産業の当事者だった時代を経て、今度は自分がオーナーになってアイドルを売り出す側になった唯一無二な存在である。2020年代になっても、アイドルカルチャーにおいては、特典商法を通じてCDを尋常じゃない数(数10万〜100万!)を売っている事実に驚いたし、それに対してレコード会社と自分たちの双方がウィンウィンになるような打開策を検討してるあたりにビジネスマンとしての手腕を垣間見た。

 ビルボードチャートだけではなく、Spotifyのバイラルヒットチャートなど、いつの時代もチャートの存在が、世のトレンドを作っていることは否定できない。そして、今の時代は以前よりもメジャー、インディペンデントの垣根なく、素晴らしいものを作れば、忖度抜きでダイレクトにチャートインされ、広がっていく素晴らしい時代である。チャートにあるからといって、その音楽を好んで聞くわけではないが、それでも、相対化された「いま」を映し出す指標としての存在意義は大きい。音楽とデータが好きな人には間違いなくおすすめできる一冊だった。

2025年9月4日木曜日

小名浜ピープルズ

小名浜ピープルズ/小松理虔

 坂内拓氏による美しい装画に惹かれて読んでみた。東日本大震災から14年が経過し、時の流れの早さを実感する一方で、福島県ではまだまだ「災後」という現実が存在している。そして、日本に住んでいるかぎりは常に「災前」とも言える状況にあり、その「災間」に生きる我々がどのように災害と向き合って生きていくのか、たくさんの視座に溢れていた。

 タイトルどおり、著者のふるさとであり、今も住んでいる福島県小名浜を中心に、さまざまな人のエピソードおよび著者の思索で構成されたエッセイ集。冒頭の「はじめに」でまず心を掴まれた。それは著者の造語であり、本著のメインテーマでもある「共事者」という言葉に出会ったからだ。

中途半端であることそれ自体に意味があるはずだし、当事者でも専門家でもないからこそ果たせる役割だってあるんじゃないか。そう考えられるようになって、ぼくは「わたしの震災」を語っていいんだ、そうやって自分の立場から語っていかないと震災や原発事故の影響だってわからないじゃないかと思うようになった。そのプロセスで「共事者」なんて言葉が自分のなかから生まれた。共事者とは中途半端な人たちのことだ。自分自身の中途半端さに意味を見出したくて、つまり自分をなんとか勇気づけたくて出てきた言葉だった。

 インターネット、SNSの台頭により、誰もが発信できるようになった時代、災害に限らずあらゆる場面で「当事者」性が求められる。外野のヤジは聞くに値しないこともあるが、「非当事者」だからこそ語れることがあるのではないか。それは自分がブログやポッドキャストで試みていることそのものだ。著者の「共事者」という言葉は、自分のアプローチに名前を与えてもらったように感じたのだった。

 各章ごとに著者にゆかりのある「ピープルズ」が紹介されながら、その人のバックグラウンドや会話のやりとりを紹介しつつ、著者の思索が丁寧に描かれている。著名な人というわけではなく、福島に暮らし、自分なりにストラグルしている方々のリアルな姿は、エスノグラフィーのような魅力に溢れていた。自分が勝手に抱いていた被災後の実情や被災者像といったものを、読んでいる間にことごとく塗り替えられた。これこそが最大の魅力だ。押し付けの「復興」がどうしてワークしないのか、本著はその答えにもなっていると言える。

 印象に残ったエピソードを挙げればキリがない。例えば、原発処理水の放出をめぐる漁業の話では、補償があれば安心なのかと思いきや、その補償が結果的に下駄を履かせてもらうような形になり、純粋な商売として競争ができない。商品の魅力そのものを伝えたいという思いが、補償によって逆に歪められてしまうもどかしさにハッとさせられた。

 また、旅館の一角に設けられた「考証館」の話も興味深かった。旅館の一角に設けられた考証館では、津波で亡くなった子どもの遺品が展示されており、触れることまで許されている。その場所と国が用意した伝承館を対比しつつ、原発事故を経験した人たちによる新たなまちづくりに関する議論は、現場ならではのものだ。そして、遺族の方の今なお続く捜索活動へと繋がっていく流れは、災後は終わらないことを痛感させられた。

 さらに、原発事故後、立ち入りが禁じられた双葉高校に当時の高校生と共に訪問するシーンは本著のハイライトと言えるだろう。被災したことの辛い現実よりも、母校を訪問したときに誰でもが抱くシンプルに懐かしい気持ちが上回る。若い人たちのそんな率直な感情の動きに驚いた。

 終盤、著者が子どもと原発伝承館を訪ねる場面がある。そこで重ねられる何気ないやりとりの中で、子どもが発する真理と思えてしまう言葉の数々。「怒り」ではなく「悲しい」という感情が、被害者と加害者の境界線が曖昧にさせ、安易な二項対立ではないと著者が気づいていく。そして原発の無責任性に対して、子どもが発する「伝承」することへの意思表示。いくらビッグバジェットで豪華な施設を用意しても、最終的には人間の意思が重要なのだという対比にグッときた。

 時間が経つほど、過去の災害に関する情報は届きにくくなる。だからこそ、風化しない媒体としての本に託される意味は大きい。本著は単なる当事者語りを超え、非当事者の心の持ち様にもフォーカスしている。読むことで、自分自身が「共事者」として何ができるのか考えさせられる一冊だった。

2025年9月2日火曜日

FANMADE ARCHIVE ICE BAHN

FANMADE ARCHIVE ICE BAHN

 日本語ラップの盛り上がりと共にファンベースが拡大し、それに呼応するようにファンZINEも増えている。手前味噌ながら自分でも作成したし、このブログで紹介したマルリナさんのライブレポZINEも素晴らしいものだったし、今はRIPSLYMEのZINEが話題となっている。そんな中でnoteで見つけたのが、ICE BAHNのZINEだった。コンビニ印刷できるとのことだったので、すぐに印刷して読んだのだが、想像以上に愛情のこもった一冊だった。

 著者の説明によると、本著はnoteでまとめていた内容を、改めて冊子の形に起こしたものとなっている。「資料集」と名付けられているとおり、ICE BAHNのこれまでの活動を確認することができる。ディスコグラフィーは、活動初期の楽曲や客演曲まで含めて網羅されている。また、ディスコグラフィーだけではなく、ライブ映像、MCバトルといった活動まで記録されており、なおかつその記録の粒度が高く、情報の質と量に圧倒された。

 特に印象的だったのは「ICE BAHNの現在地」から始まる構成だ。横浜ベイスターズへの楽曲提供、JA全農のラジオCM、ヒプノシスマイクへの楽曲参加といった近年の活動を丁寧に解説しており、単なる懐古ではなく、今のICE BAHNにフォーカスしているところに唸らされた。

 近年のフリースタイルブームの一翼を担ったFORKのMCバトルについてまとめられている点が、本著の白眉である。他のメンバーを含めてICE BAHNのMCバトルの戦績が網羅的にまとめられており、勝敗の結果まで丁寧に記録されていることに驚く。そして、稀代のフリースタイラーであるFORKのバトルにおけるバースが一部書き起こしされているのだが、相当読み応えがあった。即興のリリックよりも練られたリリックの方に魅力を感じるので、正直なところMCバトルはそんなに得意ではない。しかし、FORKのバトルでのバースを文字で読むと、そのライミングは即興のレベルを大きく凌駕して、時間をかけて熟成されたバースと同じ味わいがあるのだ。本著のようにまとまった形で読むと、改めてリスペクトが増した。

 2006年のUMBにおける名勝負、HIDA vs FORKについても多角的に深堀りされている。さまざまな資料をリファレンスしながら、当時のバトルがどういう位置付けにあったのかを浮き彫りにしていく様は、ジャーナリズム的アプローチで読み応えがあった。そして今の時代が素晴らしいのは、このテキストを読んだあとにすぐに映像が見れることだ。このパートを読んだあとに、実際のバトルを見ると、自分も歴史の証人になったような気持ちになった。

 巻末のリファレンス一覧に代表されるように、著者は紙媒体やウェブ記事、YouTube、ラジオ、さらには本人への直接取材まで駆使している。情報の裏づけが徹底されており、資料的価値は極めて高い。noteでも読むことができるようだが、やはりこういった読み物の形でまとまって読めるのは大変貴重なものだ。しかも、これは第一弾で続編があるらしいので、次もリリースされればぜひ読みたい。印刷できるのは9/8 AM8:00までらしいので急げ!

2025年8月30日土曜日

介護入門

介護入門/モブ・ノリオ

 エドワード・サイードの『ペンと剣』を読んだきっかけが著者の紹介だった。その記事を知ったタイミングで芥川賞受賞の記念品をメルカリに出品するというオモシロ過ぎることをやっていたので受賞作品を読んだのであった。久しぶりに小説で頭にガツンとくる内容でめちゃくちゃクラった。大麻、介護、文学が魔合体し、気づけば「介護の入門書」と読めてしまう奇妙な読書体験だった。

 物語はシンプルで、30代の男性が実家で母と共に祖母を介護している。それだけで大きな展開はない。延々と描かれるのは、主人公が介護している情景および心情描写、介護にあたっての心構えだ。閉ざされた家庭内介護の空間からトリップしていくかのような主人公の思考の展開は、著者がまるで吸引しながら書いているように映る。

 ラップのリリックを彷彿とさせる文体が特徴的で、その大きな要因の一つは繰り返し登場する「朋輩」という言葉だ。同志と同様の意味をもち、本来の読み方は「ホウバイ」なのだが、作中ではルビが「ニガー」と振られている。2025年の現在、このNワードはアフリカ系アメリカ人固有の言葉として、部外者が使うことは差別に加担する行為とみなされる。しかし、2004年時点では、芥川賞を受賞するほど世間的に認知された小説でもこれが問題にならなかったのかと時代を感じた。当然Nワード自体には問題があるのだが、「朋輩」という呼びかけが、読み手を物語に引き止め、発散する視点をひとつに収束させる効果を生んでいるのもまた事実である。

 表紙に麻の葉模様が描かれているとおり、主人公は大麻を吸引しているのだが、あくまで日常のルーティンの一つでしかなく、描写としては控えめなものだ。大麻で酩酊状態のまま祖母を介護する主人公には、様々な思考の濁流が押し寄せ、延々とそれが吐露されていく。特に自らの親であるにも関わらず介護にコミットしない親戚や「介護地獄」と称してコタツ記事を書くマスコミ、ろくに介護したことない開発者が生み出す介護ロボットへの呪詛のような言葉の数々がハイライト。ロジック、文体どれをとっても一級品であり、こんなにネチネチと「なめんなよ?」と表現することができる作家の筆力と独特の文体。芥川賞受賞も納得の仕上がりである。

 一方で、作中には真っ当な介護の心得も折り込まれる。だからこそ前述の呪詛のような文章とのギャップが興味深かった。取材して描く作家には書くことができない、介護当事者の気持ちを余すことなく書いているからこそ、本書はスペシャルなのだ。介護は被介護者が亡くなったときに終わることになるが、その終わりが訪れるのは明日かもしれないし、五年後かもしれない。そんな終わりが明らかではない介護生活でのマインドセットについて、著者が言葉を尽くして書いてくれており、文字どおり「介護入門」として役に立つだろう。

 「血」と「記憶」を相対的な視点で捉えて、血縁至上主義に対して「記憶」でカウンターを放っている点が印象的だった。それは祖母の実子でありながら介護に関わらない親族に対する激しい罵倒と裏表の関係にある。「祖母の記憶の物語が、血の物語を乗り越えるのだ!」という宣言は、閉塞的な介護生活を突破する力強い思想にもなっていた。

 終盤にかけて、祖母に対する愛、生きてほしい気持ちを主人公が吐露している。石畳に頭を打ってしまい、ICUで生死をさまよう祖母に主人公が語りかけ、触れ続ける姿はエモーショナルそのもの。その一方で、介護が人を追い込んでいく現実も描かれ、日々ギリギリで命をなんとか繋ぎ止めることのリアルが浮かび上がっていた。

 2004年刊行当時に比べ、大麻も介護もいっそう身近なものとなった今だからこそ、両者が交錯することで見えてくる感情の機微は、今こそ多くの人に読まれるべきだと思う。

2025年8月25日月曜日

馬と今ここ

馬と今ここ

 植本さんの『ここは安心安全な場所』を読んで誰もが驚いたのは、あとがきの「とくさん」こと徳吉英一郎氏の文章だろう。馬との関係から派生して記名論を展開する、その筆致に只者ではない気配を感じ、石田商店で本著が売っていたので買って読んだ。本著は、ですます調なのでトーンに丸みがあるのだが、心の芯に迫ってくる内容で短いながら読み応えがあった。

 本著は遠野で馬と生活する徳吉さんの馬との付き合い方ガイドだ。前半は馬と触れ合うときの具体的なアドバイスが中心で、馬という生き物の実態が丁寧に説明されている。「人間が乗ることができる哺乳類」という存在はやはり特別であり、読み進めるうちに牛や豚とは一線を画す動物だと感じた。それは、筆者が優しさと冷静さの同居する視線を馬に投げかけているからだろう。

 後半は馬との関係性について深堀りしてメンタル的な点について色々と書かれているのだが、個人的にはここがハイライトだった。というのも、馬との関係について書かれているものの、もっと普遍的な人間関係や子育てといった話に置き換え可能だからだ。以下のパートは自分の育児のスタンスとして胸に刻んでおきたい。

大事なのは、馬が健やかに生きていけるように環境を整えつづけること。それから馬みずからが育っていくようなケアをしつづけること。そして、馬と人のあいだで育っていくコミュニケーションの、豊かさや多様さや深さを楽しみつづけること。そんなふうに思います。

さかだち日記

さかだち日記/中島らも

 ぶってえ本を連発で読んでいたので、古本屋でサルベージした本著を読んだ。『アマニタ・パンセリナ』を読んで、中島らものオモシロさに改めて気づいて古本屋で見たら買うようにしている。日記ということもあり、彼の生活の機微が伝わってきて興味深かった。

 95年5月にアルコール依存症と躁うつ病で入院して、そこで断酒を決意。そこから一年後の96年5月〜98年4月までの日記となっている。(タイトルの「さかだち」は「酒断ち」を意味している。)作家、ラジオパーソナリティ、役者、バンドマンとマルチタレントとして多忙な時期を過ごしている頃の様子が伺える。バタやんというマネージャーと二人三脚で、仕事をこなす日々は退廃的なイメージとは裏腹であった。それだけに酒がいかに危ないか証明するような日記である。一度、連続飲酒が炸裂するシーンがあるのだが、そのときのタガの外れ方が尋常ではなくスリリングだった。

 バブル崩壊後とはいえ、まだまだ日本は豊かだったのか、連載原稿のために海外旅行にバンバン行っているのが印象的だ。インターネット登場以前、紙媒体が持っていた情報の価値の高さに思いを馳せた。海外に行くと、やはりジャンキーの血がうずくのか、入手方法やそれをキメた感想などが書かれており、酒をやめている分、そこで発散するようにしていたのかもしれない。前述の酒のシーンに比べると、どれも穏やかなので、酒のようなハードドラッグが手軽に安く入手できるのに、大麻に対して異常に厳しい今の日本の状況は合理的には納得しづらいなと改めて感じた。そして同じことを著者も憂いていた。

 冒頭とエンディングには野坂昭如との対談が掲載されている。冒頭は断酒について、エンディングはバイアグラについて。前者では、それぞれの断酒方法や酒をやめるまでの経緯などについて話しており日記の導入として機能しているのだが、問題は後者である。脈絡なく、二人がその場でバイアグラを飲む対談が載っており、丁々発止のやりとりを披露している。ただの露悪趣味の企画と思いきや、野坂がアメリカ論にリーチするあたりが油断ならない作家ならではの展開だった。小説、エッセイ、悩み相談など膨大な著作があるので、他のも少しずつ読んでいきたい。

2025年8月23日土曜日

世界99

世界99/村田沙耶香

 夏の読書2025、第二弾。ぶってえ本を読みたいと思ってたら、Kindleのセールで合本版がポイント還元で実質半額になっていたので読んだ。村田沙耶香作品はいくつか読んできているが、集大成と思わず言いたくなるような強烈な小説だった。女性が日本で生きる困難さについて、アイロニーをこれでもかとねじ込んで煮詰めた末に出来上がった怪作とでも言えばいいのか。さらに、ジェントリフィケーションが物理的な場所だけではなく、私たちの心のうちにまで入りこんできている現状を描きだしていた。そんなことができるのは、なんでもありの最後の聖域である「小説」というフォーマットだからこそかもしれない。

 主人公である空子の一生涯を軸に近未来を描く物語で、女性が経験するイベントや心情を丁寧に追いながら、男性社会の地獄と人間の差別心を徹底的に浮かび上がらせていく。前者については男性社会の最悪な部分を余すことなく列挙し、順番に詰め込んでるレベルで網羅的に取り上げられており、自分の振る舞いを改めて指摘されている気がした。感情移入しやすく、追体験ができるフィクションだからこそ描く意味がある。特に前半で空子が学生の頃に経験する性にまつわる描写の数々がきつい。中学生、高校生の女の子と付き合う大学生、社会人男性の気持ち悪さがここまで言語化されている小説はない 。「純愛」というか、そこに愛があれば成立するかのような言説があるが、権力勾配を利用した性搾取であることを突きつけていた。

 後者については、特定の遺伝子を有した人間が差別される社会となっており、見た目でわからない「遺伝子」というファクターで差別が行われる怖さが存分に描かれている。外国人に対するヘイト感情が可視化された今読むと、人間の差別心が増長すると、なんでもやれてしまう怖さを感じた。また検査結果がすべてであり「根拠があれば何をやってもいい」という一種のファクト主義へのカウンターにもなっていた。

 近未来要素としてはピョコルンという生き物が挙げられる。はじめは一種の愛玩動物として登場するのだが、物語が進むにつれて、その中心を担う存在となる。具体的には性別役割分担として、女性がこれまで担ってきた家事、出産、子どもの世話などを代行する都合のいい動物へと変化していくのだ。これまで担う側だった女性たちが解放されるわけだが、担う側から頼む側になったことで、自分たちの置かれていた非人道的とも言える立場を自覚すると同時に、辛さがわかるゆえに押し付けることの苦悩に苛まれる。ピョコルンは動物ということもあり、家畜に近い扱いだからこそ、人間サイドの残酷性が思いっきりぶつけられており辛い。この設定によって、日本社会において女性がいかに抑圧されているかを逆説的に強調することに成功していた。物語が進むにつれてピョコルンに女性の「負債」が移行していくことで、著者がリミッターを徐々に解除して、ドス黒い感情を広げていく様が圧巻だった。上巻の終わりのあまりに凄惨すぎるエンディングは言葉を失った。そのエンディングを受けても、人間は自分たちの都合を優先して生きていく、業が深い生き物なのだと言わんばりに厳しい仕打ちが待っており何も救いがない。

 物語の軸としてペルソナに焦点を当てている。人は人間関係ごとにペルソナを使い分けている中で、本当の自分なんてどこにもいなくて、己の意志もない。誰かがいて、初めてそこで自分のペルソナが立ち上がるという描写が繰り返される。主人公は各ペルソナを「世界」と呼び、各ペルソナに番号を振っている。その一番後方にいる99番、つまり複数のペルソナを司る空っぽな人間だと自己認識しているペルソナを「世界99」と呼んでいるのだった。これは考察ブームを筆頭としたメタ視点に対するカウンターであり、いろんなものを客観視できたとしても、そこには己の残滓は何も残っていないという指摘に映る。さらに、いくらメタ視点をとっても、その外側には真の意味で客観視できる他人がいるのだから、という無限マトリョーシカ的な構造まで示唆されていた。『コンビニ人間』から一貫してアイデンティティの揺らぎに着目しているが、今回のペルソナの使い分けは、SNSでアカウントをクリック一つでスイッチする様を想起させるもので、より時代にフィットする形にアップデートしたものとなっていた。

 専業主婦である自分の母親を「道具」と呼び、自分も便利な道具の連鎖の中にいることを自覚している。つまり、都合のいいように使われるだけの存在であり、そこから彼女は自由でありたいと思っているが、生きていくうえではそうも言ってられない。夫である明人との関係を評した以下ラインが象徴的だった。これらだけではなく、見た目を整えて、男に選ばれることを目指す気持ち悪さを手を替え品を替え表現していた。

明人の便利な生活と人生のための家電になること。その上で性欲処理もし、ゆくゆくは子宮を使って明人の子供を発生させること。私が捨てようと努力している未来は、母が生きてきた地獄でもあった。

自分を養うためだけに自分の奴隷になるか、家畜を飼うことで真の家畜になることはぎりぎりで免れながら、明人の人生と生活のための便利な家電になるか。私は家電を選んだ

 当たり障りがない、摩擦をなるべく起こさない人間を「クリーンな人」と呼び、自分の意見を主張することは暴言と同列で「汚い感情」として取り扱われる。クリーンな人は何も考えずに調和を乱さないように生き、面倒なことは遺伝子の異なるラロロリン人 a.k.a「恵まれた人」がやってくれる。意志がない人間がクリーンな世界を構築し、表向きは何も問題がないように取り繕っているが、その内実は面倒なことを他人に押し付けているだけという社会論が後半では展開されていた。小説だからこそできるラディカルなものだと思いつつ、投票率が50%程度なので、現実のアナロジーとも言えるだろう。

 「死ねよ!」という言葉に代表されるように言葉遣いの乱暴さが目についた。しかし、これは単純に乱暴なだけではなく、その手の言葉が「己を守る一つの武器なのだ」という指摘がなされておりハッとした。自分自身もよく言っていたし、ダウンタウンの浜田が昔よく言っていた「死ねばいいのに」にも笑っていた。暴力性が社会で徐々に剥ぎ取られていく中で、その言葉自体を誰もが公に発することが難しい状況となった。しかし、世の中には「死ねよ!」という言葉でしか抗えないほど気分が悪くなることがあり、その暴力性を弱者からも取り上げて、感情の発露を封じてしまうのはどうなんですか?と問うていた。これは小説家という言葉を仕事にしている人だからこその視点だし、暴力的な言葉が世の中に蔓延ることは必ずしも賞賛すべきことではないとわかりつつも、声なきものの声まで奪っていないか?という指摘はもっともだ。

 各論についてだーっと書いてしまったが、日本社会の嫌な部分をこれだけ集めてきて濃縮しながら物語として構築するスキルは圧巻である。この小説を読み終えて思い出したのは百田尚樹のクソ発言だ。発言の中身が最悪であることは当然だが、あの発言はSFひいては小説全体に対する侮辱でもあったのだと本著を読むと気付かされる。百田尚樹から仕掛けられたビーフに対するアンサーとして、これ以上のものはないだろう。そして、ラッパーのように現役の小説家でGOATをあげろといわれれば、村田沙耶香の他にいない。それくらいの超大作だった。

さよなら未来 エディターズ・クロニクル 2010-2017

さよなら未来 エディターズ・クロニクル 2010-2017/若林恵

 夏の読書といえば、分厚い本を読みたい気持ちになる。そこで、ずっと置いてあった本著を読んだ。元WIRED編集長による、雑誌やウェブに掲載されていたエッセイ・評論集。五年分あるので500ページ超だが、記事の集積なので隙間時間で読み進めることができた。未来を考えるために過去や現在を見つめ直す、まさに温故知新の考えが詰まっていて興味深かった。

 2012〜2017年という近過去は、2025年の現在からすると振り返られにくいタイミングであるが、だからこそ今読むと色々と気づきがある。テック雑誌の編集長として未来について語ることを要求されながらも、著者は未来を語る上での過去の必要性を問うていた。実際、未来のことを直接言及するよりも「過去にこういうことがあった」という視座から話が展開されていくことで説得力が増している。特に原発に関する論考は、十年以上が経ち歴史化しつつある今読むと改めて刺激的で、「あのとき何が起き、何を考えるべきだったのか」を突きつけられた感覚があった。

 テック雑誌ということもあり、トピックは多岐にわたるなかで著者の引き出しの多さに驚かされた。編集長なので、一つのテーマについてどういうアプローチで雑誌を作るか、そのテーマの思索を深めているとはいえ、毎度フレッシュな視点を提供し続けることは並大抵のことではない。

 なかでも著者が音楽好きということもあり、音楽に関する記事が豊富な点も特徴だ。ビジネスとしての音楽について論じたり、匿名ブログでブックオフの500円CDをレビューしていたりと切り口の幅に驚かされる。世代や音楽の趣味は異なるものの、読んでいて興味深いものばかりだった。たとえば、アイスランドの音楽シーンのエコシステムは、グローバル化の時代に読むと新鮮だし、K-Pop論は今日のグローバル・ポップな状況を予期したような内容となっていた。そして、近年の爆発的人気の拡大に伴い、ヒップホップ周辺で巻き起こるさまざまな事象にモヤモヤするわけだが、結局は著者のこの言葉に尽きるなと思える金言があった。

音楽好きは、音楽好きを敏感に察知する。音楽ファンが、アーティストのみならず、レコード会社なり、オンライン/オフライン問わずショップなり、新しいメディアやデジタルサーヴィスなりのなにに注視しているかと言えば、結局のところ「こいつら、ホントに音楽が好きなのかな?愛、あんのかな?」というところでしかない。

 音楽に関する内容の中でも、ソランジェとビヨンセがそれぞれ2016年にリリースしたアルバムに対するレビューに一番グッときた。特にソランジェのアルバムについて、その音像からしてエポックメイキングな内容で個人的にかなり好きなのだが、特にリリックの考察まで含めたアフリカ系アメリカンの現在地に関する考察が目から鱗だった。こういう記事を読むと、サブスクでひたすら新譜を右から左に聞きまくっているだけの音楽生活について考えさせられる。つまりは、アーティストが残した作品に対して、ちゃんと向き合うことがいかに必要で重要であるかということだ。

 また、本著はクリエイティブ論としても読むことができる。テック雑誌といえば、テクノロジーの発展に対して過剰に期待して持ち上げそうなものの、そういうものとは意識的に距離を置いている。厭世感が漂う中で、クリエイティブに対してエンパワメントに溢れる言葉がふと現れる。そんなギャップがあるからこそ、読み手は著者の言葉を信頼し、活力を得られるのだろう。終盤、トランプが一回目の大統領選を制した際の「分断」をめぐる記事は、日本にもその波が訪れているからこそ、当時よりも迫るものがあった。「私たちは他山の石にできたはずなのでは?」と思ったりもするが、世界の潮流はそう簡単に変わるわけもない。未来をただ夢想するのではなく、現実や過去を直視しながら考えること。その重要性を改めて教えてくれる一冊であり、2025年の夏に読むにふさわしい読書だった。

2025年8月19日火曜日

それでも不安なあなたのためのクルドの話

それでも不安なあなたのためのクルドの話/小倉美保

 埼玉県川口市における「クルド人問題」と称された行政課題がよく取り上げられている。特にゼノフォビアの傾向が先日の選挙で大きく可視化されたことで、現実がどうなっているか知りたくなり、浦和のパルコで開催されていた本の催事で購入した。

 本著は、市民公開講座での講演をもとに書籍化されたもの。著者は蕨で本屋兼カフェを営み、川口市に長年暮らしながら、クルド人との交流の場づくりにも積極的に関わってきた人物である。その立場から見た「川口市とクルド人」の現状が、具体的に語られている。

 講義形式の文体で読みやすく、難解な専門書とは異なり、現場感覚を伴ったリアルが平易な言葉で整理されているのがありがたい。歴史や統計の基礎知識も改めてまとめられていて、「自分たちがいかに印象論だけで会話していたか」に気づかされる。調べようと思えば調べられるのに、ついサボってSNSの濃いヘイト情報に触れ、負の循環を強めてしまう現状を思うと、静的なメディアである「本」から情報を得ることの重要性を再確認した。

 難民に対して、日本側の制度整備が追いついていない問題が取り上げられている。 特に難民認定まで時間がかかる問題が今の相互不理解の大元となっているようだ。制度改善は当然のことだが、現状の日本の社会の仕組みがどうなっているかを当事者にわかるように説明することが必要だという話は現場を見ている人ならではの意見だった。

 「ゼノフォビア絶対ダメ!」というゼロサム思考になっていない点が本著の白眉だろう。嫌悪する気持ちがないことに越したことはないわけだが、欧米各国に比べて「単一民族国家風」の時期が長かった日本では、異なる文化背景を持つ人に違和感を覚える場面もあるかもしれない。そんなときに「外国人だから」という短絡的な思考に陥るのではなく、そこの個別性に着目することが大切だという指摘はもっともである。 言い換えれば、それは「他者とどう向き合うか」という普遍的な問いであり、今の日本社会で共に生きていくための貴重なヒントに満ちた一冊である。

2025年8月10日日曜日

派遣者たち

派遣者たち/キム・チョヨプ

 小説家の中で、リリースのたびに迷わず買う数少ない作家、キム・チョヨプ。本著は長編ということで楽しみにしていたが、今回も期待を裏切らないオモシロさだった。「共生」がテーマであり、今の時代に読むと、ことさら胸に沁み入るものがあった。

 舞台は地球が荒廃し、人類が地下で暮らすクラシカルなポストアポカリプス的世界。地上は、菌をモチーフにした異生物「氾濫体」に支配されており、選ばれし「派遣者」が地上に出て調査や探索を行う。主人公は、自分の脳内に存在するオルターエゴのような存在と関わりながら任務を進める。当初は生成AIによるCopilotのように、こちらの利益を最大化するために相手を利用する関係だったところから、物語が進むにつれてジャンプ漫画のような熱いバディへと変化していく。(シャーマンキングとか?たとえが古すぎて終わっている…)

 氾濫体に侵食されると、人間は錯乱状態に陥り、やがて死に至るため敵視されている。ゆえに氾濫体を絶対悪として描き、その異生物から世界を奪還するのだ!という勧善懲悪な構図を想像するかもしれないが、著者はそんな単純な物語にはしない。人間と氾濫体の狭間の存在について、さまざまなグラデーションで描き出し、世界の豊かさと難しさを同時に表現している。価値観どころか姿、形も全く異なる生物同士が協調して、どうすれば同じ世界で生きていけるか模索する。メッセージ性を失わず、ダイナミックな物語としてドライブさせながら描き切るその筆致がキム・チョヨプらしい。

 個人的ハイライトは、スーサイドスクアッドならぬスーサイドトリオによる過酷なミッションだ。それぞれが命をかける事情を抱えつつ、協力し、ときに衝突しながら、探究心で物事を明らかにしようとする姿は、それぞれの動機があるとはいえ、サイエンスそのものだった。終盤にかけては、主人公の善悪の揺らぎと儚い恋心が重なり、怒涛のクライマックスへと向かっていく。著者がストーリーテラーとして、よりポップでエンタメ性の高いステージに突入していることがよくわかった。

 物語の背景にあるのは、人間を「さまざまな生物の集合体」として捉える視点である。私たちの体内には無数の菌や微生物が共生している。つまり、自分と関係ないと思っていても、いつのまにか関係している、その象徴としての菌は「共生」というテーマで物語を紡ぐ場合、これ以上に適当なモチーフはないだろう。主人公の親代わりの存在であるジャスワンという登場人物の言葉はシンプルにそのテーマを表現していた。

大事なのはね、自分が自分だけで成り立ってるって幻想を捨てること。そしたら、可能性は無限だよ

 日本でも、幻想に溺れている人々がたくさんいることが可視化されてしまった今、誰かと共に生きることを考える上では、うってつけの小説だ。

2025年8月5日火曜日

本屋さんになりたいんだけど日記

本屋さんになりたいんだけど日記/LAZY BOOKS

 万博のミャクミャクを彷彿とさせる赤と青の配色が印象的な表紙をネットで見かけて以来、ずっと気になっていた中、先日訪れたcommon houseで実物を見て即購入した。

 本著は、東京都と仙台に住む男女二人(なおや氏&ゆりあ氏)が、本屋を開業するまでの過程として綴った日記である。ZINEが盛り上がっている背景には、ここ数年の「日記ブーム」の存在が大きいだろう。SNSがアテンション合戦と化す一方で、知らない人のささやかな日常を本で読む行為は、SNSとは対極にある時間の過ごし方だ。とはいえ、日記のZINEはすでに飽和状態なので、まったく知らない人の日記を読むには何らかのフックが必要である。本著の場合は二つのフックがあり、一つは本屋を経営しようとしていること、もう一つは圧倒的に凝った装丁である。

 本好きであれば一度は夢想するであろう「本屋をやってみたい」という願望。しかし、今の日本で本屋を開業するのは容易なことではない。本の利益率の低さや大手ネット通販の普及といった逆風は、あちこちで語られている通りだ。本著は、そんなシビアな現実を忘れてしまいそうになるくらい、いい意味で楽観的だ。単純に本が好きで、それを生業にすれば人生がオモシロくなるという思いが先行している。当然、本屋として儲かるためのビジネススキームについて考えることは大切なことだろうが、その手前のモチベーションの高さがまっすぐ伝わってきた。何事も計画しているときが楽しいといわれるが、それが日記という形で言語化されているので、読んでいるこちらもワクワクさせられる。二人のアイデアマンとしてのセンスも光っており、とりわけ製本や装丁の部分は、自分自身がZINEづくりをする上でも大いに参考になった。

 そして、本書を圧倒的にスペシャルな存在にしているのが、その装丁である。右綴じ・縦書きで、真ん中のリストページを境に上下が反転。二人それぞれの日記が前後で分割収録され、しかもスピンが二本ついていので、同じ期間の日記を二人の視点から読み比べることもできる。(私はなおや氏→ゆりあ氏の順に読んだ)。真ん中のブックリストも秀逸で、タイトルを眺めているだけでも楽しく、日記中で言及される本を辿る索引としても機能している。

 正直、この装丁の魅力は言葉で説明しきれない。しかし、実物を手に取ったときの感動は唯一無二で、本が好きであればあるほど、本著は魅力的に映ることは間違いないので本好きはマストチェック。

2025年8月1日金曜日

対馬の海に沈む

対馬の海に沈む/窪田新之助

 2024年の開高健ノンフィクション大賞受賞作。ずっと気になっていたが、Kindleでセールになっていたのを機に読んだ。導入からエンディングまで、まるで優れた推理小説を読んでいるかのようで、ページをめくる手が止まらなかった。離島で起きた事件から日本社会の歪みを浮き彫りにしていく著者の手腕は圧巻だった。

 舞台は長崎県・対馬。JA対馬の従業員が不可解な死を遂げる。彼は優秀な営業マンとして知られていたが、その裏には金融商品をめぐる不正があった…そんなイントロダクションから物語は始まる。この時点で面白いことは確定しているかのようで、著者はジャーナリストとして粘り強く取材を重ね、事件の全貌を少しずつ明らかにしていく。その過程が丁寧に描かれており、読者は著者とともに謎を解き明かしていく感覚を味わえる。

 驚かされたのは、「農業」という素朴なイメージとは裏腹に、JAが共済をはじめとした金融商品の販売において従業員に過大なノルマを課していることだ。そのノルマが不正の温床となり、従業員を追い詰める。JAは想像以上に複雑な組織構造で、パッと読んで理解できるような代物ではない。しかし、著者はもともとJAの媒体出身というバックグラウンドを生かし、平易な言葉で懇切丁寧に解きほぐしてくれる。そして、従来型の日本的組織がいかにして歪んだモンスターを生み出してしまったのかを明らかにしていた。

 本著が圧巻なのは、わかりやすい悪党について取材で徹底的にあきらかにしたあと、その過程で読者がうっすらと思っていた疑問について、最後の最後で刺してくところである。旧態依然とした日本社会の縮図のような寓話的エンディングに、狐につままれたような気持ちになった。持ちつ持たれつの互助社会は利害関係が一致しているときだけ機能し、問題が起これば一人に責任を押し付けて「トカゲのしっぽ切り」で終わらせて、全員は知らん顔していることが怖い。しかも、それが都心部で起こるならまだしも、人口がそれほど多くない対馬のような比較的閉鎖空間で起こっていることが恐ろしい。閉鎖空間ゆえに誰も見てないし、気づかないから大丈夫でしょ的なマインドなのだろうか。そんな状況と、初期の段階から不正を告発していた人物の人生がオーバーラップして胸を締めつけられるようだった。

 組織には目に見えないルールや空気があり、それにうまく馴染めるかどうかが、生き残るための重要なスキルになる。本著は、日本人が集団になるとどうしても顔を出す「村社会」の性質が、強烈な形で表れた様子を克明に描いている。読んでいると、自分自身が組織でどう立ち振る舞うべきかを考えずにはいられなかった。

2025年7月31日木曜日

サイコロジカル・ボディ・ブルース解凍

サイコロジカル・ボディ・ブルース解凍/菊地成孔

 著者の本は見かけるたびに読んでおり、その中でもあまり見かけたことのない一冊をゆとぴやぶっくすで発見。積んであったので読んだ。著者の見識の広さはもはや言うまでもないが、そこに格闘技まで含まれていることを知ったのは『あなたの前の彼女だって、むかしはヒョードルだのミルコだの言っていた筈だ』を読んだときだった。なぜ今読んだかといえば『1984年のUWF』『2000年の桜庭和志』を読んで下地が整ったからである。そのおかげで、著者のバイブスをふんだんに味わうことができた。

 副題にあるとおり、著者が神経病を患ったことも影響してか、格闘技から五年ほど離れていた中、著者の格闘技語りに目をつけた編集者が執筆を打診。そして、2004年大晦日のPRIDE観戦をきっかけに「解凍」され、格闘技語りを再開するという背景で書かれた本となっている。前半はインターネット掲示板(!)で著者が書いていた格闘批評、後半はPRIDEを含め実際に会場で観戦したライブレポート&論考という構成だ。

 「成孔節」という文体が明確に存在し、こと批評において、これだけオリジナリティを出せる人が今どれだけいるのだろうかと、いつもどおり打ちのめされた。2000年代前半で、著者が比較的若いこともあいまってノリノリで今読むとオモシロい。(それゆえにキワドイ発言も多いのだが…)特に注釈量が異常で、なおかつその注釈では収まり切らないほどに言いたいことがあるようで、紙面の都合で割愛されている見立てがたくさんあった。また、まえがきのあまりの見事さに「粋な夜電波」の口上をレミニス…復活しないのだろうか。(定期n回目)

 プロレス、格闘技と与太話は相性がよく、なんなら与太話がしたくて見ているところだってあるわけだが、その相性の良さが抜群に発揮されており、他のジャンルを語るときよりも好き勝手に、縦横無尽に語っている印象を持った。その中心となっているのはPRIDE語りである。ピーク期の大晦日でカードの並びがエグい。今では定番となった「大晦日に判定、駄目だよ。KOじゃなきゃ!」が五味から発せられたり、ノゲイラ vs ヒョードルがあったり。特にミルコ、シウバに対する批評的な見方が興味深かった。

 『1984年のUWF』は佐山史観であったが、著者はどちらかといえば前田史観でUWFを捉えている。本著を読んだことで両方の視座を得ることができた点は収穫だった。『1984年〜』では総合格闘技の始祖としての佐山を神聖化していたが、佐山は佐山で彼なりのきな臭さがあることを知った。そして、前田の煮え切らなさを父殺しの神話でアナライズしている様が見事でうなりまくった。さらに終盤にかけてHERO'sで前田が前線復帰。HERO'sのポジションを考察しながら、その崩壊を予想しつつ、それでも前田の孤独を受け入れるというエモい文章は批評の中でも抑えきれない前田への愛に溢れていた。

 上記の前田に関する言論然り、日本ではプロレスが発展していく流れで、総合格闘技が誕生してきたわけだが、その歴史を踏まえているかどうかは総合格闘技に対する見方に違いが出ることに気付かされた。たとえば、RIZINにおける皇治の色物カードはガチの人からすればノイズでしかないだろう。しかし、プロレス的な思考があれば、その戦いから導き出されるストーリーや意味を紐解こうとする。そこにロマンを感じるかどうか。今の社会情勢からすると「正しさ」を希求するあまりに「ガチ」が正義となりがちだが、そこを迂回できる余裕がほしいものだ。

 文庫解説でも触れられているように、一種の文明論にまでリーチしているあたり、著者の慧眼に打ちのめされた。なかでも世界を「途中から見る連続テレビドラマ」であるとする人生論からプロレス論へ展開していく流れは最高だった。

 格闘技はツイッターを中心とした言論空間がシーンの中心なので、こういうまとまった批評を読む機会はほとんどない。(強いていうなら青木のnoteか)だからこそ昔のものだとしても、こういった本を読むことで自分の目や見識を養っていきたい。

2025年7月26日土曜日

THE DIALOG AND SOMETHING OF SCANDINAVIA 北欧記録

THE DIALOG AND SOMETHING OF SCANDINAVIA 北欧記録/10 years later

 先日来、何回か登場しているcommon houseという本屋を経営するお二人は、10 year laterという名義でZINEを作成しており、先日お店に伺った際に購入した。旅行記は臨場感があってオモシロく、何よりお二人の人柄を感じるような文章がZINEならではだと感じた。

 2023年6月に訪れた北欧三カ国(フィンランド、デンマーク、スウェーデン)の旅行について、日記形式で綴られている。旅行記のZINEというと、カラー写真もりもりで、その横に軽くテキストが添えられている、みたいなイメージを持っていた。しかし、本著はむしろその逆で、文字でびっしり埋まっており、たまに写真という構成。活字中毒者としては、最高だった。また、リソグラフ印刷による独特のざらりとしたテクスチャーが、プライベートな旅情と絶妙に噛み合っていて、「自分もリソグラフで何か作ってみたい」と思わされた。

 最大の特徴は二人で書いている点だ。同じ一日でも、それぞれ別の視点で日記を書いており、これが新鮮だった。読み進めるうちに、同じ一日の描写の違いから、それぞれのキャラクターが浮き彫りになっていく様が興味深かった。当たり前だが、同じものを見たり、食べたりしていても、それぞれ感じ入るものは異なるし、ときに重なることだってある。こうした二重の視点によって、二人の旅がより立体的に浮かび上がってくるのだ。

 旅行にいく場合、そこで何を大事にするかの価値観はそれぞれだ。二人はわかりやすい観光地にいくというよりも、その街の生活に身をおいて体験することに重きを置いている。私もどちらかと言えば二人のスタンスに近く、卒業旅行でヨーロッパに訪れた際、その価値観ですれ違い、気まずくなったことを思い出した。

 旅行記ではあるが、単純な記録というよりも、旅行を通じて何を思い、何を考えるか、にウェイトが置かれている点も読み応えがあった。今は本屋を経営されているが、本著を作ったタイミングでは二人で何かを模索している最中だったようだ。巻末にあるポッドキャスト的な二人の会話の文字起こしは、三十代になると抱える「自分は何者で、どうやって生きていくのか」という問いに真摯に向き合っていて興味深かった。

 また、このタイミングで読むとSayakaさんによる以下のラインが刺さった。エコーチャンバーありきの今の社会において、少しでも気を抜いていると自分の世界に凝り固まり、偏った見方をしてしまう。そんなとき、旅行は自分の世界、見識を広げる貴重な行為だなと改めて考えさせられた。こうも暑いと家にばかりいがちだけども、書を捨てよ町へ出よう!(クーラーの効いた自室より)

自分の今いる場所だけが世界ではないこと、自分とは違う色んな人がいること、色んな暮らしがあること、色んな文化や言葉や慣習があること、知らない場所や言葉に心細さや苦労を味わうこと、人それぞれの喜びや悲しみやストーリーがあるということ。人生の中でそれらを知っていくことは、自分という人間を作っていく中でとても大きいことなんだろうと思う。

2025年7月25日金曜日

今日もよく生きた~ニューヨーク流、自分の愛で方~

今日もよく生きた/佐久間裕美子

 先日、common houseで行われている植本一子さんの写真展を見に行った際、著者の佐久間さんがたまたまいらして、その場でサインしていただけるとのことで本著を購入した。「こんにちは未来」での若林氏との丁々発止のやりとりをいつも楽しんでいるのだが、その背景にある佐久間さんの今の考え方がより深く伝わってくる内容で興味深く読んだ。

 副題どおりNY在住の佐久間さんが自分の愛で方=セルフケア、セルフラブについて、あますところなく綴っている。日本では「ご自愛」という言葉が普及し、自分に対するケアを大切にするムードが醸成されつつあるが、欧米ではさらに進んでいて、セラピーにかかることが日常的だ。佐久間さんがセラピーで自己分析した内容に基づいて、セルフケアへとつなげていく過程をみると、セラピーを通じて自分を客体化していくことで楽になる部分があることに気付かされる。自分自身で客体化できているつもりでも、自然とブレーキを踏んでしまっている部分が少なからずあり、言語化を通じて内なる感情を引き出し、クリアにしていくことの有用性を感じた。

 特に印象に残ったのは、NYでサバイブするために「強い存在」として自分を位置づけてきた佐久間さんが、年齢を重ねるにつれて弱い部分も含めて自己開示できるようになっていく過程だ。アクティビストとしての精力的な活動の裏側で、文章だからこそ開示できる深く繊細な部分がある。終盤にかけてはセクシャリティ、子どもを産むこと、父の死といったパーソナルなテーマが次々と語られ、数々のストラグルに対して「今日もよく生きた!」とタイトルそのままの言葉を送りたくなった。

 「How are you?」 カルチャーに関する論考も興味深い。日本では「調子どう?」から会話が始まるケースは少ないわけだが、英会話教室に行くと、毎回のように必ず「How are you?」と聞かれる。そのときに「調子よくないと言うのもアレか…」と思って、なんとなく「I’m good」と毎回答えていた。実際の自分の感情と乖離した表現を口にすることのモヤモヤがあったのだが、このやり取りは相手を慮ったケアの一種だから、素直に表現すればいいのだと思えた。

 また、日本の「バチ」の概念が自責の念を強める遠因となり、呪いのように心に忍び寄るという指摘も鋭い。なんでもかんでも「自己責任」で結論づけてしまう社会的な圧力に抗うためのセルフケアという文脈は、今を生きる多くの人にとって必要なことだろう。

 内容としては自己啓発に近い部分があるが、単なる方法論ではなく、その背景にある状況や考えがセットで書かれているため、ケーススタディとして読むことができる。人生の先輩による指南とでもいうべきか「ここに石があるから気をつけな」と先回りして教えてくれるようだ。たとえば、先日の選挙結果をふまえると、コロナ禍における誤情報による「別れ」が辛かったという話は、これから日本でも現実味を帯びてくるのかもしれない。

 極度の天邪鬼体質なので、自己啓発的なものを敬遠しがちなところがある。それは押し付けがましく、資本主義社会において、とにかく利口に生きていくためのライフハック的な要素が強いからだ。しかし、本著では佐久間さんが色々な情報を見聞きしながら、自分の中で生まれた考え方について、人生をご機嫌に過ごすための「人生の道具箱」として整備しているから参考になった。一次情報を確認して自分ごとにしていく作業は、真偽不明な情報が飛び交う中では今後ますます必要かつ重要な能力になってくるだろう。何かに触れたとき、自分がどう思うか、そしてどんな人生を生きていくのか、主体性を取り戻すためには格好の一冊だ。

2025年7月24日木曜日

1984年のUWF

1984年のUWF/柳澤健

 先日読んだ『2000年の桜庭和志』の前日譚的位置付けとのことで読んだ。私は小学生からプロレスが好きで、父が録画していた新日本プロレスやノアを夢中で見ていた。当時、特に惹かれていたのは派手な技を繰り出すレスラーというより、西村修や鈴木みのる、ヤングライオン時代の柴田、後藤のような選手たちだった。黒いショートタイツに身を包み、ゴッチスタイルのクラシックなレスリングやハードな打撃で魅せる、いわゆる「ストロングスタイル」の象徴的なレスラーたちである。そんなスタイルが好きだったからこそ、やがて「強さ」を追い求める気持ちはプロレスを超え、総合格闘技(MMA)へと移っていき、今ではすっかりプロレスから離れてしまっている。

 なぜこんな自分語りから始めたかといえば、本著はプロレスと格闘技の境目に関して書かれたドキュメンタリーだからだ。その象徴がUWFである。現在、三十代の私にとって、UWFは桃源郷のような存在だった。自分が好むスタイルが大きくフィーチャーされた団体があったなんて…となかば信じられない気持ちだった。ワールドプロレスリングで、UWFが取り上げられるのは過去の東京ドーム大会の新日本 vs UWFインターの対抗戦での武藤敬司 vs 高田延彦。武藤が高田を四の字固めで破ったあの試合だ。今でも覚えているほど象徴的なシーンなのだが、そこに本著のエッセンスがすべてつまっていて驚いた。

 UWFといえば前田日明や高田延彦のイメージが強い。しかし本書は表紙にあるように、初代タイガーマスク=佐山聡にフォーカスしている。総合格闘技の雛形となった修斗の創始者でありながら、表舞台ではあまり語られることのなかった佐山が、いかにして「ガチ」へとシフトしていったのか。その過程が丁寧に描かれている。個人的には前半のプロレスキャリアが特に新鮮だった。初代タイガーマスクの映像は見たことがあったが、佐山が世界トップクラスの人気レスラーだったことは知らなかったし、帰国せず海外でプロレスラーとしてキャリアを積む未来もあったという。そこで登場するのがアントニオ猪木だ。著者の作品を読むたびに思うが、猪木は日本のプロレス・格闘技史の至るところで決定的な判断を下している。このケースでは「本格的な格闘技をやらせてやるから日本に帰ってこい」と佐山を説得したという。もしこの一言がなければ、今のMMAの歴史は違っていたかもしれない。歴史は本当に面白い。

 前回の桜庭本のレビューでも書いたとおり、今やMMAの台頭により、プロレスが結末の決まった一種のショウであることは周知の事実となっているが、UWFの全盛期である1980〜90年代はその点があいまいだった。そして、そのあいまいさに寄りかかるようにUWFは「ガチ」を標榜して既存のプロレスと分岐する道を進んでいく過程が取材と共に描かれていて勉強になった。ガチが進んだ結果、新聞でもスポーツとして取り上げられるほどになったらしい。今では想像もできない世界である。

 UWFは一次、二次、分裂期と各フェーズがあるのだが、そこで起こる人間ドラマが最大の魅力のように思う。「強さ」という同じ目標に向かっていると思いきや、各人の人間臭い思惑が交錯して、組織がどんどん良くない方向に転がっていく様は、客観的に見ていると超絶オモシロい。それは「リアル」をめぐる争いであり、ファンを含めて幻想を膨らませていく様子に既視感があるなと思ったら、ヒップホップの「リアル」論争と重なって見えた。それぞれの信念に基づき、自分なりの「本物」を追い求める。そのロマンこそ、私がプロレスや格闘技、そしてヒップホップに惹かれる理由なのかもしれない

 そして、本著がスペシャルである点は、本著自体がUWFのレスラーおよびファンに対する一種の「プロレス」を仕掛けている構造にある。巻末で触れられているように、本著はレスラーやライター、ファンから多くの批判にを受けた。特に前田日明をはじめとする関係者への取材を行わずに書き上げたことは大きな論争を呼んだ。だが、まさにその挑発的な手法こそが、前田史観一色のUWF史に新しいアングルを持ち込み、UWF語りを再び熱くさせたと言える。これはヒップホップにおけるビーフそのもので、その点でもヒップホップとプロレスの親和性の高さを再認識した。前田日明相手に堂々と「喧嘩を売る」著者の胆力にはリスペクトしかない。事実をもとにどんなアングルを見せるか、それがオリジナリティだとすれば、著者は間違いなく稀代のドキュメンタリー作家であろう。

2025年7月22日火曜日

ほんまのきもち

ほんまのきもち/土井政司

 同じ著者の新刊がリリースされており、その前に積んであった本著を読んだ。DJ PATSAT名義のエッセイ&対談集『PATSATSHIT』がめちゃくちゃオモシロかったのも記憶に新しいが、小説となると打って変わって繊細さが際立っており、著者の何でも書けるマルチプレイヤーっぷりに舌を巻いた。

 本作の主人公は小学生の子ども。その一人称で、小学校や家族との日常が綴られる。描かれているのはごく小さな世界のはずなのに、不思議とダイナミズムに満ちている。これは、自分が子どもと暮らすようになって気づいたことでもあるが、何気ない公園や道端でも、彼、彼女にとっては発見と驚きに満ちている。たとえそれが人形であっても、子どもにとっては「生きている」存在なのだ。大人になる過程で置き去りにしてしまった感覚が、本作ではみずみずしくよみがえってくる。

 クラスで居場所を見つけられない主人公は、自分の立脚点を弟との関係、そして家族とのつながりに見出していく。だが、その大切な弟との間にもズレが生じ、余裕がなくなっていく描写には胸がキュッとなった。自分の中で感情がうまく処理できず、キャパオーバーしてしまう瞬間。そんなとき、誰かがそばにいてくれること。「先生のハグ」が他者による肯定の象徴として描かれており、家族だけではない他者が介在することの必要性を実感させられた。

 子どもの語りで綴られる自然な関西弁の文体も本作の魅力だ。おそらく自身の子どもをトレースしているのだろうが、ここまでなりきって書けることに驚いた。自分自身、大阪出身なので、どうしても子どもの頃の記憶が呼び起こされる。関西出身ではない人が、お笑い的に茶化すニュアンスで関西弁を使う場面には正直苦手意識がある。関西弁が笑いと不可分であることは理解しつつも、その表層的な扱いにどこか浅はかさを感じてしまう。その点、本著は話し言葉で書かれていることもあり、関西の言葉が持つ微妙なニュアンスをすくいとり、方言を駆使した文学として昇華されていてかっこいい。

 だからこそタイトルが「ほんとうのきもち」ではなく「ほんまのきもち」であることに意味がある。つまり「ほんとう」と「ほんま」は「本物であり、偽りや見せかけのでないこと」という意味の上では同じだが、ニュアンスが異なり「ほんま」には主観的な感情や温度がいくらか込められているのだ。皆が追い求める客観的な「正しさ」ではなく当人にとっての「確からしさ」とでも言えばいいのか。自分自身も「ほんとうのきもち」より、「ほんまのきもち」を大事にしたいと思えた小説だった。