生殖記/朝井リョウ |
ネタバレを避けたくて、すぐに読んだ。前作の『正欲』の続編というのは過言ではなく、タイトルどおり生と性をテーマにした小説だった。中村文則『教団X』を読んだときと感覚としては近い。社会に接続し、批評性を物語に含ませながら、エンタメの枠から決してはみ出すことなくオモシロく読ませる。そして、このねちっこい文体。朝井リョウだからこそ書ける圧倒的な小説だった。
ここから思いっきりネタバレ
本著には特大ギミックがあり、それは人称である。二人称で語られているのだが、その語り手は生殖器=男根となっている。その男根の持ち主である主人公の名前は尚成(しょうせい)。さらに作品内で言及されているとおり、へりくだった一人称である「小生」と同じ発音であるがゆえ、読んでいると一人称で語っているようにも見えてくる。
そんな男根が何を語るかといえば、同性愛者がどのように世間と相対しているかである。日本は同性婚も認められておらず、先進国の中では同性愛者への風当たりは強い。尚成自身が同性愛者であり、彼が社会で差し障りなく生きるため、いかにバランスを取るか。彼の人生観とその背景にある社会情勢を、男根が俯瞰した視点で解説してくれる。まるで男根と一緒に尚成をモニタリングしているかのようだった。
今の社会にはびこる空気と同性愛を絡めた社会批評が男根から繰り広げられるのがとにかく痛快で無類にオモシロいし興味深い。エデュテインメントの様相さえ呈している。語り手がヒトではないからこそ、ヒトが定義した社会的正義から一歩距離を取ることが可能となっていた。神の視点である三人称で距離を取る方法もあるが、それだと客観性が強過ぎて、読み手にとって同性愛が他人事になってしまうから避けたのかもしれない。
男根は輪廻転生を繰り返しており、さまざまな生物の生殖器を経験している設定もあいまって、場所と時間のスケールを地球基準として、ヒトの論理的破綻をチクチクとついていく。柔らかい話し口調と皮肉の塩梅がちょうど良くい。「いやーほんとヒトって意味わかんないですよね」というトーンがずっと続くので、途中若干疲れてくる点は否めないのだが、それを凌駕する論考の新鮮さとギミックでひたすら引っ張られた。
なかでも資本主義のもとで生きることに対する冷めた姿勢が、個人的には一番痛烈に感じた。右肩上がりの成長が前提とされる社会で、人生に意味を見出そうとするとき、そこには「判断、決断、選択、先導」が発生し、自分に変化をもたらさなければならない。ライフイベントも資本主義に巻き取られていることを「新商品化」という言葉でラッピングしてしまう、このドライさよ…
”今よりもっと”を追求し続けながら、自分を絶えず新商品化させていくことで共同体に寄与し他個体に貢献し幸福度を保ち続ける数十億秒。
並の作家が同性愛を描くとすれば、当然同性間の恋愛関係を多少なりとも入れてくるだろう。しかし、著者はそんな生温いことはしない。「恋愛しない、できない」状況になった尚成を考察することに終始している。特に現在の日本社会においては同性愛者に非がある、もしくは異性愛者側が「受け入れます」という形になっている状況を疑問視している。また近年,大手を振って歩く「生産性」という言葉の危うさについても資本主義の限界、共同体幻想といった概念から解きほぐしており興味深かった。一番納得したのは、モラハラ大黒柱夫と異性愛共同体の類似性だ。つまり、同性愛者がどれだけ社会に貢献したとしても、異性愛者から「生産性がない」と言われることは、いくら家事をしたところで「生活費を稼いでいるのはおまえじゃない」と言われること似ている。家父長制維持と同性愛批判の点と点をつなぐ視座として新鮮だった。
尚成がひたすら己を押し殺し、世間との摩擦を限りなくゼロにして人生を文字通り暇つぶしにしか捉えていない。その無気力さが外部環境によるものであることが分かってきた頃に、真逆の考えを持った同性愛者が登場、そこから一気に物語としての魅力が加速していた。陰と陽の駆け引き描写が本当に見事だった。さらにダイエットに新たな意味を見出した尚成の奇行も、人生をゼロサムゲームと捉え危うさを象徴しているし、そのクリーピーさがたまらなかった。二作書いたということは、生と性に関する三作目があるに違いないので本当に楽しみだ。