2024年10月27日日曜日

生殖記

生殖記/朝井リョウ

 ネタバレを避けたくて、すぐに読んだ。前作の『正欲』の続編というのは過言ではなく、タイトルどおり生と性をテーマにした小説だった。中村文則『教団X』を読んだときと感覚としては近い。社会に接続し、批評性を物語に含ませながら、エンタメの枠から決してはみ出すことなくオモシロく読ませる。そして、このねちっこい文体。朝井リョウだからこそ書ける圧倒的な小説だった。

ここから思いっきりネタバレ

 本著には特大ギミックがあり、それは人称である。二人称で語られているのだが、その語り手は生殖器=男根となっている。その男根の持ち主である主人公の名前は尚成(しょうせい)。さらに作品内で言及されているとおり、へりくだった一人称である「小生」と同じ発音であるがゆえ、読んでいると一人称で語っているようにも見えてくる。

 そんな男根が何を語るかといえば、同性愛者がどのように世間と相対しているかである。日本は同性婚も認められておらず、先進国の中では同性愛者への風当たりは強い。尚成自身が同性愛者であり、彼が社会で差し障りなく生きるため、いかにバランスを取るか。彼の人生観とその背景にある社会情勢を、男根が俯瞰した視点で解説してくれる。まるで男根と一緒に尚成をモニタリングしているかのようだった。

 今の社会にはびこる空気と同性愛を絡めた社会批評が男根から繰り広げられるのがとにかく痛快で無類にオモシロいし興味深い。エデュテインメントの様相さえ呈している。語り手がヒトではないからこそ、ヒトが定義した社会的正義から一歩距離を取ることが可能となっていた。神の視点である三人称で距離を取る方法もあるが、それだと客観性が強過ぎて、読み手にとって同性愛が他人事になってしまうから避けたのかもしれない。

 男根は輪廻転生を繰り返しており、さまざまな生物の生殖器を経験している設定もあいまって、場所と時間のスケールを地球基準として、ヒトの論理的破綻をチクチクとついていく。柔らかい話し口調と皮肉の塩梅がちょうど良くい。「いやーほんとヒトって意味わかんないですよね」というトーンがずっと続くので、途中若干疲れてくる点は否めないのだが、それを凌駕する論考の新鮮さとギミックでひたすら引っ張られた。

 なかでも資本主義のもとで生きることに対する冷めた姿勢が、個人的には一番痛烈に感じた。右肩上がりの成長が前提とされる社会で、人生に意味を見出そうとするとき、そこには「判断、決断、選択、先導」が発生し、自分に変化をもたらさなければならない。ライフイベントも資本主義に巻き取られていることを「新商品化」という言葉でラッピングしてしまう、このドライさよ…

”今よりもっと”を追求し続けながら、自分を絶えず新商品化させていくことで共同体に寄与し他個体に貢献し幸福度を保ち続ける数十億秒。

 並の作家が同性愛を描くとすれば、当然同性間の恋愛関係を多少なりとも入れてくるだろう。しかし、著者はそんな生温いことはしない。「恋愛しない、できない」状況になった尚成を考察することに終始している。特に現在の日本社会においては同性愛者に非がある、もしくは異性愛者側が「受け入れます」という形になっている状況を疑問視している。また近年,大手を振って歩く「生産性」という言葉の危うさについても資本主義の限界、共同体幻想といった概念から解きほぐしており興味深かった。一番納得したのは、モラハラ大黒柱夫と異性愛共同体の類似性だ。つまり、同性愛者がどれだけ社会に貢献したとしても、異性愛者から「生産性がない」と言われることは、いくら家事をしたところで「生活費を稼いでいるのはおまえじゃない」と言われること似ている。家父長制維持と同性愛批判の点と点をつなぐ視座として新鮮だった。

 尚成がひたすら己を押し殺し、世間との摩擦を限りなくゼロにして人生を文字通り暇つぶしにしか捉えていない。その無気力さが外部環境によるものであることが分かってきた頃に、真逆の考えを持った同性愛者が登場、そこから一気に物語としての魅力が加速していた。陰と陽の駆け引き描写が本当に見事だった。さらにダイエットに新たな意味を見出した尚成の奇行も、人生をゼロサムゲームと捉え危うさを象徴しているし、そのクリーピーさがたまらなかった。二作書いたということは、生と性に関する三作目があるに違いないので本当に楽しみだ。

2024年10月24日木曜日

地獄への潜入 白人至上主義者たちのダーク・ウェブカルチャー

地獄への潜入 白人至上主義者たちのダーク・ウェブカルチャー/タリア ラヴィン 

 トランプが大統領選に再度立候補しており、彼の背後で蠢くものが知れるかと思い読んだ。トランプのろくでもなさは当然として、白人至上主義者の中に巣食っている底知れない闇の深さが理解できる一冊だった。レイシストの現状は遠巻きに聞いているだけでもヒドいのに、潜入捜査を含めて自分の身を削りながら真相を暴こうとしている著者の姿勢にはリスペクト。

 ユダヤ人のジャーナリストである著者は、白人至上主義者にカウンターすべくアクティビストとして積極的に動いてきた経緯があえう。そんな彼女がこれまで経験したことや背景にある差別思想について丁寧に解説してくれている一冊となっている。白人至上主義と言われても日本だとピンと来ないかもしれないが、同じような人種差別は日本にもある。安田氏の「寄稿」にも書かれていたが、日本における在日朝鮮人差別は、米国におけるユダヤ人差別と類似している。またキリストではない1000年以上前の北欧の神を持ち出し、自分たちの存在を権威づけていくムーブは、日本の右曲がりのダンディたちにおいて、ヤマトタケルを持ち出している場面を見たことがある。このように、国が変わっても差別主義者は同じような思考回路やムーブで自分たちのポジションを確保していることに驚いた。(日本が海外の潮流をなぞっているだけの可能性も多いにあるが)自らの存在の矮小さを忘れさせてくれる大きな物語に乗っかりたい人が多いのかもしれない。

 白人至上主義は人種差別、ミソジニー、同性愛差別など、あらゆる差別の根っこにあるものと本著では位置付けられていた。人は性別、国、人種といったように、さまざまなグループに属しているわけだが、特定のグループでマイノリティでも、別のグループではマジョリティとなる。アメリカはその坩堝なわけで、何を切り口にして差別するのかと考えてしまうが、「白人、異性愛者、男性」という従来のアメリカ社会で多数派を占めていた人たちによる暴力的な姿勢が目に余った。

 タイトルに「ダーク・ウェブ」とあるとおり、インターネットやSNSがもたらした負の側面に大きくフォーカスしていた。情報通信速度が高速化したことによる利便性の一方で、それと同じ速度で悪意も高速で伝播していくことを痛感させられる。自分の考えを強化する都合のよい「事実」を大量に摂取、タコツボ化し、悪い方向へどんどん振れていき、凄惨な事件が暴発してしまう。各国にいる白人主義者たちが連帯し、負のエネルギーがマグマのようにたまっていき最終的に噴火するかのような差別プロセスの描写が見事。

 アクティビストとしての側面を大いに生かして著者が潜入調査するシーンがハイライトだろう。差別を解説するだけにとどまらず、自らの身を差別のフロンティアに投じていく。ネット上でなりすます分には、直接的な被害はそこまでないものの、カジノで開催された極右の集会に潜入してツイッターでポストしていくシーンはかなりスリリングだった。大半の集会参加者はネット弁慶だろうことが想像つくものの、一人でも過激な人間がいた場合、銃による暴力が行使される可能性があるアメリカは日本とは段違いの怖さがあった。この手の本は読み進めることにエネルギーが必要だし目を背けたいことしか書いていないが、ヘッドラインを読んでいるだけではわからない実情を知るために定期的に読んでいきたい。

2024年10月17日木曜日

ガチョウの本

ガチョウの本/イーユン・リー

 イーユン・リーの最新作。新刊が出れば必ず読んでいる数少ない作家の一人だが、今回も期待どおりの内容でオモシロかった。もともとストーリーテラーとして比類なき才能の持ち主であることは間違いないが、前作を含めて新たなチャプターに突入しており、その新鮮さを大いに楽しんだ。

 フランス人でアメリカに移住した女性アニエスが、ある日、同級生のファビエンヌが出産で亡くなった知らせを受ける。そこから回想する形で物語は進んでいく。当時十代の二人が共作した小説が人気を博し、アニエスだけがフランスからイギリスへ移住、フィニッシングスクールで学び始めるものの…というのが話の大筋。著者は中国からアメリカへの移民であり、中国を背景にした物語が多かった中で、前作から自身のバックグラウンドとは全く関係ない物語を紡いでスタイルチェンジを図っている。そのことで逆説的に彼女の小説の表層の部分ではない奥行に気付かされた。経験していないことを想像して描き出せることが小説の醍醐味であるが、リアリティ偏重な今こそ、想像の世界で好き勝手に書くことができるダイナミックさを存分に味わえた。

 本作の魅力はなんと言っても、主人公二人の関係性だろう。十代前半ならではの時間だけが無限にある退屈な日々の中で、何をもって人生に彩りを与えていくのか。それが彼女たちにとっては空想の物語を描いていくことであり、想像しない形でスケールし、見たことのない景色をアニエスにもたらすことになる。十代前半の頃の友人関係は往々にして希薄になりがちだが、主人公たちにとってもそれは例外ではない。読んでいると自分にとってのファビエンヌ、つまり親友であり、憧憬していた存在について想いを巡らせざるを得ない。あの頃の自分が誰と一緒にいたのか、何を大切にしていたのか。

 基本的にはアニエスがファビエンヌを追いかけるような関係性なのだが、最後まで読むとある種の共依存であることがわかり、その終焉まで見届けることになるがゆえに切ない。オレンジ、ナイフなどを使ったアナロジーも巧みで、その耽美さにため息が出た。

 著者の小説で人生を巡るパンチラインがはそこかしこに仕込まれている点がストロングポイントであり、本著でもいかんなく発揮されていた。こんなに付箋だらけになる小説もそうそうない。

人々はだいたい忌まわしかったり退屈だったりする。両方であることもある。世の中もそうだ。もし世の中が忌まわしくも退屈でもなかったら、伝説などいらないだろう。

幸せっていうのはね、首を伸ばして明日や翌月や翌年を楽しみに待つことなく、一日一日が昨日になるのを押しとどめようと手を出すこともせずに、毎日を過ごすこと。

 物語が俄然オモシロくなるのは後半のフィニッシングスクールに入学してからだ。「花嫁修行」的な作法の数々を学びながら、小説を書く生活をアニエスが強いられるのだが、この前時代的な状況から飛び出すところが最大の見どころ。しきたりを学び、守ることで個性を失い、自分のために生きている実感が失われていく。それは小説も同様でアニエスの書いた内容が、大人によって加筆、修正されてしまう。このように自分がどんどん剥ぎ取られて、世間に迎合していくことに対して、物語全体を通じて疑問を呈している。「右にならえ」が苦痛で生きてきた人生なので、この主張は至極納得しつつ、結果的に苦しむアニエスの姿は辛かった。学校は、世間、社会に出ていくにあたって「成形」する場所であり、一定必要なのは理解している。ただ、それが過剰になってイエスマンの金太郎飴がたくさんできたところで一体誰が幸せになるのだろうか?とたびたび考えるので、アニエスが抱える苦労や不満がよく理解できた。特に大人の恩着せがましい「親切」という化けの皮を被った命令のリアリティが迫ってくるシーンでは手に汗を握った。自分にとって特別な作家であることに変わりはなく、次の短編小説の邦訳を楽しみに待ちたい。

2024年10月10日木曜日

25歳からの国会: 武器としての議会政治入門

25歳からの国会: 武器としての議会政治入門/平河エリ 

 衆議院が解散され、選挙が月末にあるということで長らく積読していた本著を読んだ。国会、選挙などの仕組みについて、わかっているようで、わかっていないことがたくさんある現実に気づかされた。なお「25歳」とタイトルにあるが、これは被選挙権を得る年齢のことで他意はないようだ。Age ain’t nothing but a numberってことで、今から政治の勉強をしても何も遅いことはない。

 日本の国会や選挙の仕組みについて、教科書のように淡々と説明されても、なかなか頭に入ってこない。しかし、本著では「こんな疑問に答えます」という形で、近年話題によく上がる質問に対して諸外国の制度と比較しながら解説してくれており理解しやすかった。また、過去の国会答弁を引用している点もユニークだ。それら各章でを読むたびに、今の政治家の答弁がいかに誠実ではないか、時代を逆行しているようで辛い気持ちになった。

 会期制を中心として日本の時代遅れっぷりが目につく。著者も言及しているとおり、民意が100%反映されるような仕組みは実現不可なのだが、納得度が高いものを求めることが必要だろう。社会がこれだけ変化しているにも関わらず、選挙や国会の仕組みがほとんど変化していない。その歪さに最適化している自民党が勝ち馬に乗っているままだと変わる可能性は低い。選挙が権力の附託であることを改めて認識させられた。

 日本は小選挙区が中心で議員個人に投票するものの、議員が一個人でできることには限界があり、政党によるガバナンスが基本となっている。であれば、すべて比例枠でもいいのでは?と考えてしまうが、そうなると今の小選挙区の死票が効力を持つから自民党は困るのだろう。自民党が長期政権化し、それに対抗する野党の不在により、野党の言動が問題視される場面をよく見かける。それは野党が国会の制度上で対抗するために取れる言動だと初めて知った。たとえば自明に思える質疑も、それによって政府側の問題点を浮き彫りにするという意味がある。その意図を知らない人からすると時間潰しにしか見えないのかもしれない。(時間潰しも一つの目的なので、両方の意味があるのかもしれないが。)ただ、制度に沿ったものとはいえ、民衆の理解を得られなければ本末転倒なので、やり方は考えてほしいところだ。

 本書の最大の特徴は「ジェンダーと国会」という章だ。女性議員が諸外国に比べて極端に少ない背景について考察されている。実は国会や選挙自体が、家制度を未だに色濃く残しているものであり、それと女性議員が少ないことを繋げており興味深かった。なかでも選挙における名字の重要性を読むと、選択的夫婦別姓を嫌がる理由も透けて見える。つまり、選挙において名字は一つの看板であり、それを一種形骸化させることへの警戒心が働いているのではないかと。未だに世襲が多く占める状況を抜け出し、議員個人の資質に対してジャッジできるような有権者がいなければ、状況は変わっていかない。また、同性婚の憲法解釈については知らないことばかりだった。「「両性の同意に基づいて」の文言があるから同性は不可」という安直な理解ではないことが丁寧に説明されており勉強になった。月末選挙!民意!示そう!

2024年10月8日火曜日

ブルックリンの八月

ブルックリンの八月/スティーブン・キング

 最近毎月楽しみにしているポッドキャスト番組『美玉ラジオ』で紹介されていたので読んだ。スティーブン・キングという大作家を前にすると、一体何から読めばいいのかと足踏みしてしまうが、今回のように構えることなく、自分の興味のまま読めばいいなと思った。ただ、スティーブン・キングの初手としては絶対これじゃないなと思いつつ、メタ構造をふんだんに含んだ小説と巨匠の筆致を感じられるエッセイ、いずれもオモシロかった。

 本著は短編小説が四つ、エッセイ一つ、詩が一つで構成された特殊な一冊である。後半に載っている野球に関するエッセイを目的に読んだが、短編小説もオモシロかった。なかでも、ホームズやチャンドラーに対するオマージュ作品に驚いた。これだけビッグネームの作家が、同様のビッグネーム作品に対して模倣作(パスティーシュ)を試みているだなんて。ホームズの方は、相棒のワトスンが推理能力を発揮する、いつもと立場が逆転した推理小説。久しぶりにストレートな推理小説を読むと、謎解きの過程がシンプルに楽しい。チャンドラーの方は、オマージュというより、小説の作者と主人公の邂逅というメタ的展開を駆使して、いい意味でダラダラと作家稼業について語っており興味深かった。

 野球エッセイは、著者の息子が参加したリトルリーグの大会に関するものだった。リトルリーグならではの視点で、子どもたちのメンタル面からくるプレーの質の変化について鋭く考察していた。チームメイトのキャラクター描写はさすが巨匠!という塩梅で、それを駆使した野球の試合の白熱っぷりと、息子のチームがいかに奇跡的だったか、熱を持って伝わってきた。日本の高校野球の刹那性に近いが、もっと不安定でどう転ぶか分からないムードがリトルリーグにはあることを知った。また、同じ地域に暮らすという共通点しかない中で育まれる友情の尊さもそこにあった。歳を取れば取るほど、関係性はたこつぼ化していく中、子どもの頃に世の中の雑多性を知っておくことは必要だと読んでいて改めて感じた。

 スティーブン・キングは映画化されまくっているので、わざわざ小説で読む必要があるのかと躊躇する作家だったけど、これをきっかけに色々読んでみたい。

2024年10月7日月曜日

2024/09 IN MY LIFE Mixtape

 今月は訃報が多く、特にFrankie Beverlyが亡くなった話は辛いものがあった。ヒップホップの元ネタ入りの浅いソウル好きのような僕にとっても、Frankie Beverlyは本当に大好きなシンガーであった。ソウルのレコードはかなり手放したものの、MAZEのアルバムはまだ手元に置いてある。亡くなってからライブ盤を久しぶりに聞き直すと、そのマチュアな音楽性に改めて敬意を抱いた。彼が残した音楽は無くならないから、これからも聞いていきたい。

 また、今月は読書で音楽が触発された。なかでも『プリンス録音術』という本は、プリンスのアルバムをスタジオワークから再評価するという斬新な内容で、本に載っている話を読みながらアルバムを聞くと、アルバムの持っている別レイヤーが見えてきて楽しかったし、なによりもプリンスの偉大さよ…!膨大な量のアルバムを残しているが、今はストリーミング、Youtubeなどでかなりのカタログを網羅できてしまう。聞いたことがないアルバムを聞くと、知らないかっこいい曲がゴロゴロ出てくる。人生レベルでDigっていきたい。

 あとは『イッツ・ダ・ボム』もおすすめしたい。グラフィティの小説だが、現在のラップミュージックの捉えられ方と重なる部分も大いにあった。同じヒップホップというカルチャーに包含されるので、当然といえば当然なんだけど、重ね合わせて考えたことがなかった。ラップミュージックが語られる場面で感じる違和感の正体がずっと謎だったんだけども、それは究極的にいってしまうと、小池百合子がバンクシーもどきと一緒に写真を撮ったときの嫌悪感と一致することに気づいた。ラップミュージックがポップスとなり、マス化している時点で避けられないことではあるものの、表面的な知識だけ薄手の長シャツみたいに羽織って、足元は土足で入ってくるから、そらゲートキープしたくなるよな〜と。なんてことを考えたのでした。

 ジャケットは公園でひろった落ち葉とバケツ。砂場の季節 has come.



ひろがる「日韓」のモヤモヤとわたしたち

ひろがる「日韓」のモヤモヤとわたしたち

  一作目を読んでいたので、二作目となる本著も読んだ。各人のステータスが変わったこと以外は地続きであり、一作目の新鮮さは正直なかった。しかし、こうやって継続しなければ、社会を変えることはできないことを、本著は体現しており、その点で著者たちは自らの信念に忠実だといえる。

 コラム、座談会を中心に構成されており、一作目同様に参加者たちが現在地を確認しながら問題点を議論している。K-popを筆頭とした韓国カルチャーの流入の勢いは止まることがなく、今なお人気を博している。加えて、韓国の若い世代の親日的なムードもあいまって、若い世代における日韓関係は良好といえるだろう。また、政治の面では本著にも記載のとおり、強制労働の賠償問題について韓国政府が肩代わりし、日韓関係の軋轢解消に向けて動いている。

 このようにここ五年、十年の間で関係性は最も落ち着いている状況で読むと、何が問題なのかと思えてしまう。しかし、政治は人間の忘れやすさにつけ込んでくる。小池都知事は虐殺された朝鮮人に対する個別の追悼はいまだに控えているし、先の賠償についても、韓国側の対応で日本側は抗議後、待ちの姿勢を取っている。加害と被害の関係について誰も顧みることなく、時間が過ぎて皆が忘れることを待っているように映る。

 こういったことを防ぐために歴史という形で体系的に学ぶことに意味があるのだなと改めて感じた。しかし、慰安婦の話は教科書には載っていないし、1910年の韓国併合なども深堀りして学ぶことはない。実際の学校教員の講義が載っており、教育でカバーできる限界について詳細な状況を知ることができて勉強になった。

 新たな視点としては、韓国の右翼が、日本の右翼と連帯しているということ。「韓国の右翼=民族アイデンティティを大切にする=慰安婦に激怒」という構図かと勝手に思い込んでいたが、全くそうではなかった。むしろ歴史を蔑ろにする点で日韓の右翼同士が連帯しているという事実に驚かされた。

 本著の最大の見どころは沖田氏の発言の数々だ。歴史を専門とする大学の先生や、志の高く時間がある学生ではなく、社会の荒波に放り出されて企業社会で生きる人間。そんな彼女と社会活動、政治の関係性が率直な言葉で語られている。理想と現実の狭間でそれでも自分でできることを模索する姿は眩しく映った。

「そんなことより」という言葉は、現在の政治と民衆の距離感をずばり表すキーワードと言えるだろう。本著内でも繰り返し登場するが、韓国では、大衆と民主主義の距離が近く、自分たちの手で国を変えることができる、という実感を伴っている。彼らにできて、我々ができない理由はないはず。ちゃちな言葉にはなるが、結局は一人一人が主体性をもって政治にコミットするしか道はない。月末選挙!裏金クソ野郎は一人残らず落としていこう!

2024年10月1日火曜日

すべての、白いものたちの

すべての、白いものたちの/ハン・ガン

 韓国文学を読みたいなと思って、その代表格であるハン・ガンによる本著を読んだ。小説と詩、散文の境界を漂うような繊細な作品だった。白をモチーフにするのは物語の定石だが、言葉を尽くして描かれた白の世界に魅了された。

 三つの章から構成されており、それぞれの章はさらに細分化された文章の集積となっている。読み終えると全体像はなんとなく見えるが、そこに物語性を見出すというより、詩を読んでいる感覚に近かった。しかも、そのどれもが静謐で読書でしか得ることができない余韻があった。

 白をテーマに、これほど多角的に描写できるのは、作家の鋭い洞察力があってこそだ。同じ白だとしても、そこにはグラデーションがある。単行本は複数の種類の紙で造本されており、物語の内容が物理的に表現されていることにアガった。

 あとがきを読むと、私小説のようで実体験をベースに小説が書かれていることが伺える。白いものを見て考えたことが、まるで呟くように綴られており、心の奥深くに迫ってくる印象を受けた。それは、主人公の母が経験しら死産の具体的な描写に要因するのだろう。亡くなった子どもが生きたかもしれない人生を自分が生きているのだ、という業のようなものが全編に漂っていた。本著は一種の息抜きのように書かれたようなので、他の骨太な作品も読んでみたい。