2025年12月26日金曜日

ブロッコリー・レボリューション

ブロッコリー・レボリューション/岡田利規

 Palmbooksの作品で著者のことを知り、他の小説も読んでみようと文庫で手に入りやすい本著を読んだ。既存の小説の形式を脱構築していくようなスタイルが印象的だった。

 著者はもともと劇作家であり、小説も書いている。本著はタイトル作を含む短編、中編を交えた作品集となっている。どの作品もテーマ自体は他愛のないことであり、物語的な大きな起伏は用意されていないものの、語り口のユニークさにぐいぐい引き込まれた。

 オープニングを飾る「楽観的な方のケース」は最初こそ女性の一人称で進んでいくのだが、急にカメラが彼女から離れる瞬間が訪れる。しかし、語り口は女性のままで、彼女の視点から見たパン屋の様子、彼氏の視点が語られていく。ぼーっと読んでいると見落としそうなほどシームレスに話が進んでいくのだが、ここで明らかになるのは、著者が「小説の語り手」についてかなり自覚的であるということだ。カップルが同棲を始める話にも関わらず、一般的な会話体が一切なく、それぞれの視点から見た彼、彼女に対する内面の感情が細かく描かれている。それは小説だからこそ書けることであり「演劇」という会話の塊のようなフォーマットでは描けない領域を小説で模索している様が伝わってきた。

 ヒップホップ好きとしては「ショッピングモールで過ごせなかった日」を興味深く読んだ。一つのモチーフとしてラップを取り上げているのだが、「ストリート」と「ショッピングモール」を対比させつつ、どちらも同じくらいにお飾りなものでしかなく、存在自体に必然性がないことを描いている。Tohjiが提示したMall boyzの世界観を小説にしたら、こうなるかもしれないと思わされた。ただそれにしては「ストリート」に対する視点が冷めすぎており、それに呼応させるようにストリート側をダサすぎるラップ描写でラベリングしている点には抵抗があった。

 「黄金期」は終わらない都市開発を舞台にした、頭のいかれた人間の話で読んでいてワクワクした。作中では横浜だが、最近渋谷に行くたびに感じる「一体何がしたいのか?」という気持ちが端的に表現されていて膝を打った。

利便性を高めたい一心でアイデアが労力が資金が、よかれと思って投入された結果が裏目に出たということなのか、無視できない副作用が出てしまったということなのか、ずいぶんとやさぐれた場所、剝き出しになる寸前の殺気がしれっと色濃く漂う場所へと、ここをすっかり変貌させた。

そして、渋谷駅を通るたびに感じるのは、殺気だったのかと気づいた。

各々の目的の優先を妨害してくる他の人間どもの意志を斥け合う。その意志の存在を互いにそもそも認知しないという仕方による、意志の排斥合戦によって、絶えずそこかしこで小さな火花が生じ、こうしてこの場は常時一定以上の濃度の殺気を保つ。

 三島由紀夫賞を受賞した表題作は、ここまで紹介した語り口のユニークさと暴力性が「文学」という形で結晶化した作品となっていた。話の筋としては、妻が家を出ていってしまい、タイでバカンスを一人過ごしているというもの。このとき、妻の一人称でバカンスの様子が語られるのではなく、残された夫が、妻のバカンスでの様子を二人称で語っている。残された側が「こんなバカンスを過ごしているに違いない」という妄想の羅列ともいえるのだが、小説の本質、つまり、小説とは誰かの頭の中で行われる想像の一種なのだということを、人称によって改めて明示している。それは冒頭を飾り、文中で執拗に繰り返される「ぼくはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれども」というセリフに象徴されているのだった。

 巻末に多和田葉子との対談が収録されており、そこでも人称の話題になっていた。著者がタイで印象に残った風景や出来事を小説に落とし込むにあたり、一人称だと自分との距離が近すぎるから、このスタイルになったと語っており納得した。二人とも王道というより革新派ゆえのメタ視点の数々が興味深い。特に二人称の「あなた」から「彼方」に派生させて、近しさと距離の話に変換していく多和田葉子はラッパーだなと改めて感じた。

 タイでのバカンス描写は村上春樹を彷彿とさせる洒落たものが多い。それは食事、音楽、プールというテーマに引っ張られているからそう見えるのだろう。なかでも文中で紹介されるタイのインディーポップバンドが甘酸っぱいサウンドでピッタリだった。一方で、このバカンスの妄想を繰り広げてる語り手の男が暴力的というのが新鮮だ。この結果、バカンスシーンが冗長になりすぎず、物語がキュッと締まっていた。

『わたしたちに許された特別な時間の終わり』も読みたいが絶版してるようで、Kindleでリリースして欲しい。

0 件のコメント: