2025年6月10日火曜日

ZINE PAL at ゆとぴやぶっくす


さいたま市・南浦和のゆとぴやぶっくすさんにて開催されるZINEイベント
ZINE PAL」に参加します!以下イベントの紹介です。
(ゆとぴやぶっくすさんのインスタより引用)

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ZINE PAL(ジンパル)はゆとぴやぶっくす主催のZINE頒布イベントです。去年から年一回開催しています。

ZINE PALという言葉はゆとぴやぶっくすがつけたオリジナルのネーミングです。パル=「友だち」で「ZINE友だち」というようなニュアンスです。ZINEを通じて制作者のことを知り、友だちの輪を広げていきたいという願いを込めてこのようなイベントタイトルにしています。

ZINE PALでは交流の時間も大切にしたいと思っているので制作者による搬入搬出のタイミングで店内で交流がもてる機会を設けようと考えています。

6/21、7/6、7/21は搬入・搬出DAYのため、出店者と直接会って話せる可能性があります。ZINE制作者に直接会ってみたい、話してみたいというかたはこの日にぜひお越しください。本人から直接購入したり自分が作っているものを手渡したり交換することも可能です。

このイベントを通じてZINEというごく私的なメディアを通じて交流をもち、作り手の発信と「自分でも何か作ってみたい!」と思うきっかけの場にしていきたいと考えています。

ぜひ、この機会にここでしか出会えない創作物、さまざまな価値観、また、個人から湧き上がるメディアとして楽しまれ、制作されているZINEとのふれあいをお楽しみください。
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販売していただく私のZINEは、以下の2冊です。

  • 乱読の地層
  • 日本語ラップ長電話

会期は【6月21日(土)〜7月5日(金)】の前期となります。

 ZINEについて、オンライン通販で売ったり、文学フリマに出店したり、さまざまなお店に委託販売をお願いしてきたのですが、一番やりたかったことは「自分が暮らすローカルなエリアでZINEを売ること」でした。今回念願が叶って、とても嬉しいです。改めてゆとぴやぶっくすさんには感謝しかありません。この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございます!

 ゆとぴやぶっくすは、古本+新刊書籍のハイブリッド型の書店なんですが、古本は他の店で見ないものも多いですし、新刊書籍は店主の方のセレクトが個人的な趣味と合致することもあり、毎回行くたびにすべての棚をチェックしてしまう、とても好きな本屋さんです。

 東京に住んでいた頃は「さいたまって遠くない?」と思っていましたが、実際に住んで見ると、思っているより近いので小旅行気分でぜひお越しください。本屋だけではなく、近隣にユニークなお店がありまして、個人的なおすすめルートとしては、こんな感じです。

ゆとぴやぶっくす
   ↓
Letter(最高のジェラート)
   
ハレとケ(ロボットがコーヒーを入れてくれる!)

 最寄りは本屋不毛地帯であり、近隣の本屋もいわゆる大手書店ばかり。カルチャー不毛地帯であることは、先日のさいたま市長選挙において、ミュージシャンよりも排外主義者が多く得票したことから証明されてしまったわけですが、そんなことであきらめてはいけない!という気持ちも沸いてきた今日この頃です。他の出展者の方のZINEも楽しみです。それではどうぞよろしくお願いいたします!

2025年6月4日水曜日

独り居の日記

独り居の日記/メイ・サートン

 ブックオフで旧版が叩き売りされていたのをサルベージした。もともとメイ・サートンという名前は知っていたし、最近の日記ブームの中で取り上げられる場面が多い一冊。そんな日記文学の古典として興味深かった。日々の生活の中からクリエイティビティを絞り出していく中で、喜怒哀楽がないまぜになりながらストラグルしている様がビシビシと伝わってきた。

 この日記は、著者が58歳の一年間を記録したもので、毎日欠かさず書くというよりも、思い立ったときに日々の生活のあれこれや、小説、詩といった創作に関して備忘録的に日記として綴っている。初版は1973年なのだが、半世紀前の文章とは思えないほど、現代に生きる我々の胸に刺さる言葉が詰まっていた。

 庭仕事の描写にページが相当割かれており、著者のライフワークと言っても過言ではない。草を抜き、花を植え、室内に持ち帰って飾る。そうした行為が、メンタルのバランスを保つための儀式のように描かれている。著者自身が癇癪や鬱に悩まされていることを自覚しながら、その揺らぎと向き合うために自然との接点を持つ。部屋に花があるだけで気持ちが安定するという話は、現在の「ていねいな暮らし」の流行とは違った、もっと切実でリアルな生活の知恵として響いた。ちょうど自分の子どもが花を好きになったことをきっかけに、植物への関心が高まっていた時期だったので、個人的にも感じ入るものがあった。

 都市で働いていると、季節の変化を感じ、味わうことが疎かになりがちだ。天気が悪い、暑い、寒いといった直接的な感覚ではなく、庭の草木や動物の行動を媒介にして感じる間接的な季節の移ろいが、本著には丁寧に描かれている。その季節の変化と自身の心情の変化をシームレスに描いていくその筆致は、日記の魅力そのものと言える。少し方向性は違うが、植本さんの新作にも通じる要素があるように感じた。

 日記の中では創作に対する著者の考え方がいくつも披露されており、そこが個人的にはハイライトだった。今の時代にも通用するようなことがたくさん書かれていて、70年代に書かれたとは思えないほど時代を超越している。一部引用。これらの言葉が書かれたのは1970年代だが、SNSや即席のバズが評価とされがちな今こそ強く響くはずだ。

芸術とか、技術のいろはを学ばないうちに喝采を求め才能を認められたがる人のなんと多いことだろう。いやになる。インスタントの成功が今日では当たり前だ。「今すぐほしい!」と。機械のもたらした腐敗の一部。確かに機械は自然のリズムを無視してものごとを迅速にやってのける。(中略)だから、料理とか、編み物とか、庭づくりとか、時間を短縮できないものが、特別な値打ちをもってくる。

不安は、私が知りもせず知るすべもない多くの人々の生活と、アンテナかなにかでつながっているという自分の生活の感覚を失ったときに起こるのだ。それを知らせる信号は、常時行き交っている。

 著者が受けた書評での厳しい評価に悩む様子も記されており、それをどう乗り越えるかに腐心する過程も包み隠さず描かれている。大衆受けするようなメジャー志向ではなく、自分の読者に向かって書いていこうとする姿勢に勇気をもらうクリエイターは多いはずだ。この辺りは自分でZINEを作ってみて初めて理解できた感覚であり、各人がディグして見つけてくれて、しかも買ってくれたことに改めて感謝の念が湧いた。ディグして見つけるものを「自分が発見した森に咲く野の花」と例えていて心に沁みた。

 本著の鍵となるテーマのひとつが「孤独」であり、それは「創造の時空としての孤独」として、訳者あとがきでも強調されていた。毎日のように手紙が届き、その返信に追われたり(今のメールやチャットと全く同じ…!)、たくさんの友人が訪問してきたりと多忙を極める中でも、あえて独りになる時間を確保し、その中で思考を整理し、創作に集中する。この喧騒と静寂のバランスが、著者の創作活動を支えていたのだろう。現代においても、常時オンラインでつながる生活の中で、自らをネットと切り離す時間の必要性は日に日に増しているように思える。

 著者は同性愛を公にしたことで大学を追われたという経歴を持っており、その背景を知ったうえで日記を読むと「孤独」の意味合いがまた異なって見えてくる。自分の恋愛事情を率直に語っているが、社会的な差別や偏見について直接的に訴えることはせず、あくまで関係性そのものに焦点を当てている点に、著者の強さが感じられた。一方で、性別役割への疑問や女性の生きづらさについては何度も言及しており、当時のウーマンリブ運動とも通じているのだろう。

 今の日記ブームの中では、どちらかといえば日々の生活の積み重ねに魅力を感じることが多いが、このように著者の思考がふんだんに入っているエッセイ寄りの日記がもっと増えてもいい。

2025年6月3日火曜日

三寒四温

三寒四温/高橋翼

 植本さんと出店した文学フリマで仲良くなった高橋さんのお店「予感」を訪れた際に交換いただいたZINE。阿佐ヶ谷にあるISB BOOKSで開催された「ふ〜ん学フリマ」に参加するために作られたそうでオモシロかった。前作『夏の感じ、角の店』に引き続き日記となっており、2025年2月のある一週間が綴られている。

 前作は土日にオープンしているお店の日誌だったが、今回は平日の暮らしも含まれており、高橋さんの生活のリアルな部分がさらに増していた。知っている人の日記を紙媒体で読む体験は新鮮で、高橋さんの人となりを知ってから読んでいるので、前作よりもなるほどな〜と思うことがたくさんあった。あと前作に引き続き、料理の描写が魅力的で、いつも食べたくなる。今回はパスタのレシピがとても美味しそうで真似したくなった。

 猫を迎える話があるのだが、そのきっかけをもたらした方の猫が今、行方不明になっているらしい。その猫の迷子ポスターをお店で見た私の子どもは、私と高橋さんがお店で話をしているあいだ、猫の行方をずっと心配していたらしい。そんな出来事があったので、「クック」という名前が出てきたとき、思わず「クック出てきた!」と思わず大声を出したのであった。この日記は、次のZINEにも収録予定らしいので、そちらも楽しみ。

 そんな高橋さんのお店「予感」で『日本語ラップ長電話』を置いてもらうことになりました。前作の『乱読の地層』に続いて、ありがたいかぎりです…都内で販売いただいているお店は『予感』だけですので「どんな感じなのかな?」と見てみたい方はぜひ「予感」を訪ねてみてください。先日、初めてお店に行かせてもらいましたが、とても素敵な空間で、慢性的カルチャー不足な埼玉県民の私と妻は「あんなお店が近くにあったらいいなぁ」と帰りの電車で連呼していたのでした。

Instagram (@yokan.daitabashi)

2025年6月2日月曜日

ここは安心安全な場所

ここは安心安全な場所/植本一子

植本さんの新作『ここは安心安全な場所』のレビューを書かせていただきました。
通販サイトでも読めますが、ここにもポストしておきます。
こんなふうに毎回紹介文を書かせていただいて、感謝しかありません。
この場を借りて改めてお礼を申し上げます…ありがとうございます!
詳しくは本およびレビューを読んでいただければと思いますが、
前作にも増して、新しいフェーズに突入している感じがあり、
「一子ウォッチャー」の皆さまはもちろんのこと、
今の社会のどこか息苦しい部分の一端を知ることができるという意味で、
読者を選ばない作品になっていると思います。
通販スタートとのことで、以下リンクからぜひお買い求めくださいませ。
(発送は6/16以降の発送とのことです。)

石田商店 - ここは安心安全な場所

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 植本一子によるエッセイシリーズ『わたしの現在地』の第二弾は「馬と植本さん」という、パッとは想像がつかないテーマだ。岩手県の遠野を訪れている様子は、SNSでたまに拝見していたが、まさか一冊まるごと「馬の話」とは思いもしなかった。その意外性もあいまって、新境地へと達した「エッセイスト・植本一子」の本領が発揮されている一冊と言えるだろう。

 冒頭、映画のワンシーンのように淡々と遠野へ向かう描写から始まる。車窓の景色や気温、身体の感覚などが手に取るように伝わってくる、描写の粒度の細かさに圧倒される。そこから流れるように遠野での暮らし、馬との出会い、触れ合いが綴られていくのだが、そこには知らない豊かな世界が広がっていた。植本さんの作品の魅力として、誰もが経験する日常を、信じられない解像度で描いている点が挙げられるだろう。今回は多くの人にとって非日常な「馬」というテーマではあるが、解像度はそのままに、門外漢にも分かりやすく、馬を通じた生活と植本さんの思考が展開されていく。

 実際、どんな馬なのか。その姿は、植本さん自身が撮影したフィルムの写真で確認することができる。表紙を飾る馬の写真を含めて、圧倒的な存在感に心を射抜かれた。我々が「馬」といわれて想像する見た目は多くの場合、競走馬のように整えられた姿だろう。しかし、植本さんが訪れた場所で暮らす馬たちはまったく異なる。金色の長いたてがみをなびかせた、その野生味あふれる立ち姿がとにかくかっこいい。実際、この馬たちは、馬房にも入れず、人間が求める役割から降り、なるべく自然に近い状態で生きているらしく、そんな形で存在する馬の凛々しさに目も心も奪われたのであった。

 写真でグッと心を掴まれた上で、植本さんがいかに馬に魅了されているか、馬との関係について丁寧に言葉を尽くしている文章を読むと、臨場感が増し、まるで自分自身が遠野の大地に立ち、馬と向き合っているかのような感覚になった。それは馬に関するルポルタージュのようにも読めるわけだが、馬との関係や、ワークショップで過ごした内容を含めて、内省的な考察が展開していく点が本書のユニークなところである。

 人間は他者と関係を構築するとき、どうしてもラベリングした上で、自分との距離を相対的に把握していく。そのラベルでジャッジし、ジャッジされてしまう。SNS登場以降、ネット空間ではラベルがないと、何者かわからないので、さらにその様相は加速している。しかし、そのラベルが失われたとき、人は一体どういう存在になるのか?そんな哲学的とも言える問いについて、馬とのコミニュケーションを通じて思考している様子が伺い知れる。

 馬との関係においては、自分がどこの誰かといった背景は一切関係なく、接触しているその瞬間がすべてになる。人間の社会ではどこまでもラベルが追いかけてくるが、動物と関係を構築する際にはフラットになる。さらに犬や猫といった愛玩動物と異なり、馬はリアクションが大きくないらしいのだが、そこに魅力がある。つまり、現代社会では「インプットに対して、いかに大きなアウトプットを得るか」が重視され、余暇でさえコスパ、タイパと言いながら、効率を求めていく。しかし、馬や自然はそんなものとは無縁だ。その自由さは私たちが日々の生活で忘れてしまいがちなことを言葉にせずとも教えてくれるのだった。

 夜、馬に会いに行く場面は、その象徴的なシーンだ。祈りに近いような気持ちで馬を探しにいくが、馬は何も語らず、大きなリアクションも返さない。ただそこにいるだけ。それなのに、言葉では伝えきれないような安心感や包容力の気配を確かに感じる。そんな馬という「写し鏡」を通じて、自分という存在の輪郭を静かに確かめる。そんな自己認識の過程は、近年の植本さんのテーマでもある「自分の在り方」をめぐる探究と共鳴していると言えるだろう。

 と、ここまでそれらしいことを書いてきたのだが、巻末にある徳吉英一郎氏による寄稿が本書の解説として、これ以上のものはないように思う。遠野で個人としても馬を飼い、暮らしている方による「記名論」とでもいうべき論考は刺激的だ。特に、怖れ、恐れ、畏れ、怯えとの関係は、ゼロリスク型の管理社会全盛の今、言われないと気づけない大事なことが書かれていた。

 写真と文章、両方の技術と感性を持つ植本さんだからこそなし得た新しい表現がここにある。本書を通じて、多くの読者が、自分の「現在地」を見つめ直すきっかけになることを願ってやまない。