2025年5月9日金曜日

アンビバレント・ヒップホップ

アンビバレント・ヒップホップ/吉田雅史

 荘子itとの対談本『最後の音楽:|| ヒップホップ対話篇』も興味深かったので読んだ。ゲンロンでの連載に加筆したものらしく、ヒップホップに馴染みのない読者にも配慮された構成ながら、読み進めるうちにその深度に驚かされる設計になっている。アメリカのヒップホップを主たる対象とする批評が多い中、国内のアーティストにフォーカスされており、なおかつ日本語ラップの立脚点がどこにあるのか、これからの日本語ラップの批評の方向性を示しているとも言えて、本著はその金字塔として今後読み継がれてほしい一冊だった。

 タイトルにある「アンビバレント」は本著における最大のキーワードであり、数々の議論がこのワードへと収束していく。代表的なアンビバレンスとしては、「資本主義とリアル」「アメリカと日本」の二つが挙げられるだろう。前者に含まれる「リアル」が第一章のタイトルという時点で、本著がいかにヒップホップを真摯に捉えようとしているか伝わってくる。日本では、ヒップホップの隆盛に伴い、資本主義の流入は日に日に加速しており、その状況と古参ヒップホップ好きが大切にしていた価値観である「リアル」は相剋する。その緊張関係は、まさに自分が抱えている「アンビバレント」な気持ちそのものである。本著では先んじて、その相剋を乗り越えたであろうアメリカの状況を解説してくれている。特定のアーティストに焦点を当てつつ、通史的な視点も持ち合わせた解説は、ヒップホップ初心者から批評を求める読者まで幅広く楽しめる内容となっている。

 本著の大きな魅力のひとつは、その眼差しのフレッシュさにある。たとえば、ヤン冨田とDJ KRUSHを並べて、ヒップホップにおけるオーセンティシティを論じたり、いとうせいこう、SEEDA、KOHHという異なる世代のラッパーを通じてラップ表現の変遷を定量的に分析するなど、枚挙にいとまがない。なかでも、KOHHに対する考察は白眉だった。彼がトラップをいち早く取り入れ、三連フローなど、トラップと日本語の可能性を拡張したことは周知の事実であるが、これだけ定量的なアプローチで解析した例はおそらくないだろう。意味を壊し、音を優先する中で、ボキャブラリーの貧しさが逆に功を奏したというのは、価値を反転させるヒップホップそのもので、KOHH(および千葉雄喜)がいかにヒップホップを愛し、ヒップホップに愛されるラッパーなのか、そんな証にも映った。

 著者の語り口が理論的であることも特徴的だ。ヒップホップはアートであり、抽象的な議論が多くなりがちだが、引用する文献を明確にして議論を積み上げて行く姿勢は批評としての強度を支えている。さらに、著者がビートメイカーであることを活かした独自のグリッド表記を使った各種解説がエポックメイキングだった。言葉と音の両方を可能な範囲で分解して、読者と共に眺めていく作業を行うことで、説得力を増すことに成功している。ヒップホップに限らず、音楽評論としても新しい境地が切り開かれていると言えるだろう。

 ビートの章でいえば、現在のヒップホップにおけるサウンドの基準であるTR-808に対する考察に驚いた。実機の音が、ウェブ上でまるで融解していく様をめぐる周辺環境の解説は、著者自身がビートメイカーだからこその深度があった。また、トラップ以外の多くのヒップホップの楽曲において808サウンドが使われていること、その使用とラップにおけるメッセージの相関性の考察は目から鱗だった。

 アメリカ発祥のカルチャーであるヒップホップを日本で実践するという営みには、アンビバレンスがつきまとう。もともとヒップホップは、アフリカ系アメリカンを中心とした「サヴァイヴァル・ツール」としての側面を持ち、それを背景を参照せずに形式のみをなぞることは、文化盗用(カルチャー・アプロプリエーション)の危険をはらむ。かといって、アメリカのスタイルを絶対視し、それを基準に日本のヒップホップを評価するような態度も、どこか屈折した文化的劣等感の表れに映る。アメリカ、日本のヒップホップの両方とも好きであればあるほど、この「アンビバレンス」に苦しめられる。それはアーティストもリスナーも同様のことだろう。しかし、著者はその苦しみこそが「日本語ラップ」なのではないか?と提示しており興味深かった。白黒はっきりつけてしまう快楽に抗い、宙ぶらりん=アンビバレントな状態に置いておくことで、日本のヒップホップがアメリカを参照しつつも、独自のスタイルを構築していくのではないか。そんな見立てにおおいに首を振った。

 終盤は、2020年代に入り豊穣さを増す日本語ラップの現状が具体的に取り上げられている。Tohjiや舐達麻といった代表的アーティストも、単に紹介されるだけでなく、音楽理論やサウンドとの関係性を通じて分析されている点がユニークだった。たとえば『KUUGA』は多くの批評にさらされた作品であるが、本著ではTohjiの「内なるJ」を音楽理論から示している点が新しいし、舐達麻についても、ビートのエモさとラップの温度の対比からエモラップの日本スタイルともいうべき在り方について分析されており興味深かった。その中でも印象に残ったのは、KRUSHとJinmenusagiの「破魔矢」に対する考察だ。それは「ダサい」とされていた「お経スタイル」の価値が反転し、かっこいいものになるという最もヒップホップ的な価値観が反映されているからだ。しかも、これは本著前半の議論と呼応しており、このような形で伏線回収するような展開がいくつか用意されている。こういった仕掛けは批評にありがちな単調さを避け、読者を飽きさせないスパイスとして機能していた。長々と色々書いてきたが、本当にたくさんの気づきがある一冊だったので、全ヒップホップ好きに読んでほしい。

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