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たのしい保育園/滝口悠生 |
滝口さんが保育園を題材にした小説。文芸誌で連載されていことは知っていたが、単行本になる日を待とうと思い、情報をシャットアウトして待った結果、ついにその日がやってきた。以前にポッドキャストで育児、保育に関する話を伺っており、その時点で相当オモシロかったわけだが、それが今回小説という語り口になることで新たな魅力がふんだんに詰まった最高の小説だった。
主人公は、ももちゃんという子どもと、そのお父さん。各話が短編として独立しているものの、登場人物は同じなので、連作としても読めるようになっている。植本一子さんとの往復書簡『さびしさについて』でその片鱗を見せていた子どもに対する解像度の高さが本著では存分に発揮されている。テクノロジーの進歩で、簡単に写真や動画で子どもの姿を記録することは可能になったが、改めて文字で目の前で起こっている子どもの様子を言語化されると、そのダイナミックさ、ひいては生命の尊さまでリーチするような厳かな気持ちが湧いてくる。
子育てをする身からすれば「子どもあるある」がふんだんに詰め込まれているとも言えるわけだが、その「あるある」の解像度は、よくある子育てエッセイとレベルが一段違っている。それは子どもを日々育てる中でなんとなく考えているが、言語化できていなかった思考の残滓を滝口さんが拾い集めて、言葉にしてくれている、そんな印象だ。特に「保育園」を題材として取り上げていることはその象徴のようだ。
保育園は預けている立場からすると、育児においてかなりの割合を占有するわけだが、自分が育児主体ではないので、保育園での育児について深く考える機会が少ない。そもそも成長速度を含めて日々が怒涛すぎることもある。そこを丁寧にすくいとり、保育園と共に育児を行う様子とその意味をここまで深く描いたものはないだろう。そして、保育園に子どもを預けたことのある人がもれなく感じたことのある、保育園という場所、保育士という職業に対する圧倒的な尊敬と感謝の気持ち、全面的肯定が小説に落とし込まれているのだから、たまらないものがあった。
〇〇ちゃんのお父さん/お母さんという呼び方に対して、アイデンティティを尊重する観点でネガティブに捉えられるケースもあるが、本著では子どもを持つ登場人物は皆、(子どもの名前+お父さん、お母さん)という形で表現されている。それは保守的ということではなく、あくまでここは子どもの社会なのだ、という宣言のように感じた。そして、それは物語上、区別するための便宜上のものでしかない。本著内で言及されているとおり、保育園に通っていると、子どもが誰に帰属するかは本質的には関係なく「保育園」という共同体に集まった大人たち全員で子どもを育てているのだという認識があるからだ。核家族化、人間関係の希薄化などにより地域ぐるみの子育ては減少していると嘆かれて久しいが、本当にそうだろうか。家族の在り方も20世紀から変化している中で「保育園」が、一種の育児の共同体を担保している可能性について改めて認識することができた。
最後にある「連絡」という話は、これまでの滝口さんのスタイルが最も色濃く映る。そこへ子どもに対する高い解像度の視点が入り込んでくることで、これまでの作品とは違った印象を持った。たとえば、ガザ虐殺について言及されているが、それが子どもたちが公園で遊んでいる最中に挟まれることでまったく他人事ではなくなる。また、ギスギスした現代社会において、誰が何をしてもいても気にしない一種のユートピア的存在としての公園という空間の多様性が、滝口さんの得意とする視点遷移と共に描かれており、その相性が素晴らしかった。保育園や公園といった場所の存在を言祝ぐような小説だった。
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