2025年4月18日金曜日

ハンチバック

ハンチバック/ 市川 沙央

 Kindle Unlimitedの無料期間が終わる直前、偶然見つけて読んだ。芥川賞受賞のタイミングから気になっていたが、想像をはるかに超えて、読者の小説観を大きく更新してくるような内容だった。

 若い頃から背骨が曲がってしまう障害をもった中年女性が主人公。冒頭、村上龍よろしくハプニングバーでの性交の様子が描かれて面食らうのも束の間、それが「コタツ記事」であり、その筆者が主人公自身であることが明かされる。障害と露骨な欲望という、世間では結びつかないとされているものを冒頭から接続することで、ただならぬ小説であることが一発で伝わってきた。

 そこから繰り広げられる主人公の障害者としての生活描写が非常に細やかで印象的だ。著者が障害を持つ当事者だからこそ書けるディテールであることは間違いない。たとえば、落ちたぶどうを拾うシーンといった何気ない描写にこそ、健常者には想像の及ばない現実が浮かび上がる。

 後半は冒頭のコタツ記事を彷彿とさせるような、性的な展開が再び登場するのだが、その描写も衝撃的だった。呼吸器系に問題を抱える主人公が誤飲性肺炎に陥るくだりは、あまりにも生々しく辛い。健常者の「当たり前」を実現するために、妊娠し、中絶するというロジックは荒唐無稽だが、それゆえに胸に迫るものがあった。

 障害者からみた健常者の特権性として、紙の本が取り上げられていることは目から鱗だった。本著は紙の本で読むか、電子書籍で読むかで、読み手のインパクトが大きく異なるだろう。健常者にとっては当たり前の紙の本が、障害者にとってはいかにアクセス困難で、ひいては「特権」であるか。その憎しみを露にされることで、ここでも私たちが無意識に享受している権利について、改めて考えさせられた。

 「多様性」がデフォルトとされる現在において、本著は鉤括弧付きの多様性が包摂しきれない存在を描くことに意欲的である。朝井リョウ『正欲』にも通ずるテーマだが、著者が描こうとしているのは社会の「ハーモニー」である。会話の空気を音楽のコードに喩えたり、常に「場の調和」を意識せざるを得ない主人公の視点が、日本社会の同調圧力を暗示しているように感じた。

 本著を読んで気づかされたことは、自分自身に強く刷り込まれている障害者像である。子どもの頃に観た某テレビ局の24時間チャリティ番組の影響か、障害者=品行方正で努力する存在、というイメージが強く残っていた。それゆえ、本著に描かれる強烈な厭世観や、生死に対する距離感に揺さぶられた。以下のラインに象徴されるように、本著は「生きる」ことの意味を問うてくる。障害とともに生きること、社会と折り合いをつけていくこと、そのすべてに痛みが同居していた。生きるとはどういうことか。死ぬとはどういうことか。そんな問いに真正面から向き合わせられる強烈な一冊だった。

生きれば生きるほど私の身体はいびつに壊れていく。死に向かって壊れるのではない。生きるために壊れる、生き抜いた時間の証として破壊されていく。そこが健常者のかかる重い死病とは決定的に違うし、多少の時間差があるだけで皆で一様に同じ壊れ方をしていく健常者の老化とも違う。

2025年4月17日木曜日

なぜ人は自分を責めてしまうのか

なぜ人は自分を責めてしまうのか/信田さよ子

 植本さんのおすすめで読んだ。心理学の視点から語られる親子関係、なかでも母と娘の関係に関する考察は新鮮だった。

 本著はオンラインセミナーの講義を書き起こしたものとなっている。難しい内容も含まれているが、講義の語り口そのままで書かれているため、非常に読みやすい。一方で、話が展開していくうちに少しずつ焦点がぼやけてしまい「あれ、今何の話だったっけ?」と感じる瞬間もあった。しかし、話の流れを簡潔にラップアップする一言が各ページに挿入されていて、読者がついていきやすいように配慮されていたので助かった。

 多くのページを割いて語られていたトピックが、「アダルトチルドレン(AC)」や「共依存」に関する内容だ。ACという言葉に対しては聞き馴染みがなく、漠然としたイメージしか持っていなかったが、本著では「自分の生きづらさが親との関係にあると認めた人」と定義していた。生きづらさを感じる場面はたくさんあるが、それが親との関係に起因すると考えたことはなかった。親の干渉が強烈だった記憶はないし、自分と親はまったく別の個体だという認識を持っているので、その可能性に気づかなかったのだと思う。ただ、ACの観点で改めて自分の言動を考えると、親との関係の影響も少なからずあるようにも感じた。

私たちはいくら自立した独立した人間だ、私は自分で考えているといったところで、私たちを生み育て、日々膨大な影響を与えつづけた親の影響を点検せずには、本当は生きられないんじゃないか。

 また、ACや共依存という言葉が「当事者が生み出した言葉」であるという点も重要な視点だった。学術的な専門用語ではなく、当事者が自らの経験を表現するために編み出した言葉であるということ。それを尊重する姿勢が著者の語りには貫かれており、専門家が前に出て「正しい答え」を提示するのではなく、当事者との対話を著者は重視している。

 近年頻出する「自己肯定感」に対して、著者は慎重な姿勢をとっていた点も興味深い。自己完結的なセルフケアは危うさをはらんでいると指摘し「他者を介在させ、社会に受け入れられている実感を得ることが大切」と説いていた。他人を頼るのが得意ではなく、自己完結しがちな自分にとって耳が痛かった。このブログはその象徴とも言える。一方で、定期的に友人たちとポッドキャストで話すことが、想像以上に自分の精神の安定に寄与しているのかもしれないと気づかされた。

 「自責が反転することで、他人に正義を無闇に振りかざしてしまう」という見立ても納得感があった。自己責任論が蔓延する現代社会において、自分を責め、その反動で他者に厳しくなるというネガティブなスパイラルが生まれている。なんとも言えない生き苦しさの構造を垣間見たようだった。

 親との関係はさることながら、自分自身が親となった今、子どもとの関係性について思いを巡らせる場面が多かった。まだ三歳とはいえ、自我の萌芽を感じる日々の中、四章にある育児論の数々が、個人的には本著のハイライトであった。育児に正解があるわけではないことは百も承知だが、ズバズバと言い切る語り口が心に刺さった。

親が自分の思うどおりにならない子どもを「反抗」と決めつけるのは、へんですよ。

子どもと親は対等ではないですよ。人権という意味では対等ですけどね。

子どもが何かしたとき、わがことのようにつらいということを裏返すと、子どもには何をしてもいいというのが張り付いている。この二面性をやっぱり知っておかないといけない。

「こんなに一生懸命やってんのに」と言われると、子どもは申し訳ないと思いますよね。こうやって、家族の中で無敵な存在になっていく。こういう支配のことを共依存というふうに言います。

 自分の行動が子どもに与える影響の大きさ、その「思い」が知らず知らずにプレッシャーや支配に転じる可能性を突きつけられ、ドキッとする。だからこそ「自分のことは自分でする」と子どもに伝えつつも、自責が過剰にならないように、適度なバランスを探りながら接していく必要があると感じた。

2025年4月15日火曜日

1964年のジャイアント馬場

1964年のジャイアント馬場/柳澤健

 1976年のアントニオ猪木(以下、猪木本)がオモシロ過ぎたので、その勢いで読んだ。猪木本では、猪木の天才性が存分に描かれる一方で、ジャイアント馬場に対してはどこか冷酷で、権力に頼って猪木を押さえ込もうとする“いけすかない男”という印象すら抱いていた。しかし、本書を読み進めるうちに、その見方は大きく変わっていった。むしろ、馬場のプロレス観や人柄の良さ、アメリカ修行時代の大活躍ぶりを知ることで、BI砲のもう一人の主役の輪郭が立体的に浮かび上がってきた。

 馬場がアメリカにプロレス留学をしていた1960年代を中心に、ジャイアント馬場というプロレスラーに迫っている。1999年に亡くなっているので、リアルタイムで見たことはなく、晩年の映像やモノマネによる、図体が大きくて動きの鈍いレスラーとしての姿しか知らない。しかし、本著では、アメリカ修行時代のジャイアント馬場の全盛期に大きくフォーカスしており、元プロ野球選手としてのキャリアに裏打ちされた抜群の運動神経と身体能力を武器に、アメリカのマット界で一線級のレスラーとして活躍していた。そんな彼のプロレスラーとしてのキャリアについて、当時のアメリカのマット界の状況を含めて丁寧に取材している。大谷翔平は言い過ぎかもしれないが、アメリカのプロスポーツでこれだけのレベルで活躍した日本人が他にどれだけいるだろう。有象無象がうごめくアメリカのマット界の中で存在感を示した馬場は、紛れもなく“本場を経験した一流”だった。

 馬場と猪木のプロレス観の違いも読みどころのひとつだ。猪木が「闘い」としてのプロレスを追求したのに対し、馬場は一貫して「エンタメ」としてのプロレスを志向していた。アメリカにおける“ロマン派”バディ・ロジャースと、“ガチ派”カール・ゴッチの対立構造がそのまま日本に持ち込まれ、猪木はガチ路線を、馬場はロマン路線を引き継いだともいえる。馬場が多くの外国人レスラーを招聘し続けたのは、プロレスを夢とスケールで観客に届けるという彼なりの信念に基づいたものだった。

「プロレスとはケンカである」という力道山の思想は、極東の島国だけで通用する二流の思想だ。プロレスラーに必要な能力とは、ケンカに強いことではなく、客を呼ぶ能力なのだ。

 馬場のスタイルは往年のアメリカンプロレスだ。強さは二の次であり、とにかくお客さんを楽しませ、興奮させるかを主題に置いていることがよく理解できた。1960年代にプロレスの本場アメリカでメインイベンターを務めるところまで上り詰めた男だからこその視座がある。「プロレスはエンタメである」という強固な思想のもとで、「本場モンの翻訳」に終始する姿勢は、アメリカの属国として数々のカルチャーを輸入して、土着化させてきた戦後日本の姿と重なるとも言える。

 「テレビとプロレス」も大きなテーマだ。力道山の死後、日本プロレスが新日、全日に分派していく中で、テレビ中継もテレ朝(新日)と日テレ(全日)に分かれた構図は、プロレスとメディアの結びつきの始まりだった。猪木はテレビとの親和性を発揮したが、全日はなかなかうまくいかない。そんな状況でも日テレが放映対価として毎年数億単位のお金を全日に供与していたらしく、日本にも豊かな時代があったのだなと遠い目になった。その資金を馬場は惜しみなく、外国人レスラーとの“古き良きプロレス”に投資していく。理想を追い続ける姿勢は美しく見えるが、時代に取り残される頑固な昭和のおじさんの姿とも重なり、切なさを感じさせた。

 そんな馬場が時代に取り残される中で、天龍、長州、ジャンボ鶴田、三沢たちがなんとか全日を盛り上げようとする姿は、会社の若手サラリーマンさながらだ。特に個人的な記憶としては、三沢、川田、小橋、田上による「四天王プロレス」に、子どもながらにめちゃくちゃ興奮した記憶がある。あの死闘とも言える戦いは、旧世代のスタイルを壊し、新たなプロレス像を模索していた証だったと知り、彼らの志にグッときたのであった。

 猪木本は間違いなくクラシックであるが、本著を読むと猪木本にはない景色が広がっていた。馬場と猪木、両方を知って初めて、日本のプロレスの全体像がくっきりと浮かび上がってくるのだ。プロレスというカルチャーの奥行きと幅広さを味わいたいなら、両方読んでこそ、その魅力が何倍にも膨らむ。なので併読マスト!

2025年4月9日水曜日

完本 1976年のアントニオ猪木

完本 1976年のアントニオ猪木/柳澤健

 本著をもって「〇〇年の〇〇」というフォーマットを生み出した著者によるアントニオ猪木の評伝。ずっと気になっていた作家で、先日読んだ水道橋博士の書評集『本業2024』で多数の著作が紹介されていたことをきっかけに読んだ。プロレス好きだった幼少期、父が録画していた『ワールドプロレスリング』を放課後に毎週のように見ていた身としては、自分のプロレス観を更新するような、極上の調査ドキュメンタリーだった。

 1976年に猪木は異種格闘技戦として三試合戦っており、そこにフォーカスしながら「アントニオ猪木」という存在を描いている。猪木に対して持つイメージは、プロレスや格闘技に対する見識の有無で大きく変わってくるだろう。何も知らない人からすれば「バラエティでよくモノマネされるプロレスラー」「ダーッといいながらビンタする人」くらいだろうか。しかし、2000年代までのプロレスおよび総合格闘技黎明期における猪木の存在は“神”と呼んでも過言ではないほど絶対的だった。子どもの頃は、VTRで見る昔の猪木、たまに現場に降臨するだけの猪木の凄さが理解できていなかったのだが、本著を読むと、猪木がいかに超規格外の人間であり、泥水をすすりながら這い上がってきた人であるかをようやく理解することができた。

 そもそも、なぜ猪木が「異種格闘技戦」に挑まなければならなかったのか、その背景も驚きの連続だった。そこに立ちはだかっていたのは、ライバル・ジャイアント馬場である。馬場は体格に恵まれていただけでなく、NWAというプロレス団体の権威を巧みに利用するビジネスマンでもあり、猪木をプロレス界から締め出そうとしていた。それに抗う唯一の手段が、本当の強さを証明する「リアルファイト」での勝利という展開は、極めてヒップホップ的だ。私が当時、ノアや全日ではなく、新日本プロレスが一番好きだった理由も「Keep it real」をどこまでも追い求める姿勢に共鳴していたからかもしれない。

 1976年に行われた異種格闘技戦のうち、最も有名な試合はモハメド・アリとの戦いだろう。ボクシングの現役チャンピオンとプロレスラーがショーではなく、ガチで試合をする。今の時代には到底実現できないだろう超弩級のビッグマッチの裏側を精緻に描いている。今でもストライカーちグラップラーの膠着状態は「猪木-アリ状態」と呼ばれており、この試合は現在の総合格闘技までに繋がる重要な試合である。映像で断片的に見たことがあったが、その解像度が十倍くらい高まって相当オモシロかった。特にアリ側の取材が充実しており、彼のトラッシュトークが実はプロレス由来であったこと、また来日してからブックのないリアルファイトだと知らされたが逃げなかったという逸話には胸を打たれた。やはりアリは偉大なファイターなのであった。

 残りの異種格闘技戦についても濃密に描かれている。猪木が韓国でリアルファイトをけしかける横暴な振る舞いをしていたなんて知らなかったし、さまざまな相手に対して、リアルファイトを仕掛けてきた猪木が、逆にパキスタンでハメられてリアルファイトをけしかけられる展開は、まさしく因果応報である。そして、そこで躊躇なく勝ってしまうのも猪木らしいのだが…

 本著を読むまでは猪木に対して一種の幻想を抱いていたのだが、読み進める中で瓦解していった。掴みどころのなさは意図的に作られたもので、合法と不法、リアルとフェイク(インチキ)の境界を極めて曖昧にしてしまう「天性のプロレス能力をもった男」といえば聞こえはいいが、ときとして、その振る舞いは自己中心的でセコくもある。特に後半にかけて新日本プロレスを私物化していく流れは、ちょうど自分が新日本プロレスを見ていた時期に重なるので、子どもの頃には理解できなかった数々の出来事(武藤の全日移籍とか)が色々と腑に落ちたのであった。とはいえ、その傍若無人な振る舞いの数々が、歴史を動かす原動力であることは間違いなく、日本が今なおプロレス、MMAの格闘技大国となっている現状は、猪木なしには考えられない。ゆえに多くの人が神格化するのだろう。

 終盤にはUWFから総合格闘技に繋がる流れまで描かれている。その流れを踏まえて猪木-アリ戦について「双方の技術不足であった」と分析する視点も新鮮だった。また、現在のRIZINまでに繋がる日本の総合格闘技の勃興については『2000年の桜庭和志』『1984年のUWF』でより詳細を知ることができると思うので今から読むのが楽しみだ。

 本著を特別な一冊たらしめているのは、著者の圧倒的な構成力と表現力である。豊富な情報をドラマとして語る構成の妙、そして何より言葉の力がすごい。一番打ち震えたラインを引用しておく。レスト・イン・ピース、アントニオ猪木。

ふたりの動きが止まった。表情は見えない。音も聞こえない。見えるのは猪木のブリッジが作り出す美しいフォルムだけだ。「建築とは凍れる音楽である」と言ったフリードリッヒ・シュレーゲルに倣えば、この時のジャーマン・スープレックス・ホールドは、正に凍れるプロレスであった。

2025年4月6日日曜日

消息

消息/小袋成彬

 今年初めにリリースされたアルバムの革新性に驚いたのも束の間、さいたま市長選への立候補と、著者には立て続けに驚かされている。そんな著者の初めての書籍ということで読んだ。これまでSNS上でたびたび物議をかもす言動が垣間見えていた中で、まとまったエッセイという形で彼の思考に触れたことで、今までと印象は変わった。

 2019〜2024年にQuick Japanで連載していたエッセイをまとめた一冊。コロナ禍前後、ロンドン移住後という背景もあり、内省的な視点と、対外的に見た日本、ワールドワイドな視点の両軸から物事を考えている様がうかがえる。とりわけ後者は「海外移住によるナショナリズムの再発見」というありがちな側面が強いわけだが、著者の場合、本業の音楽で見事に昇華している点が凡百の移住者と異なる。新作『ZATTO』は、近年世界的なトレンドになっている往年の日本のソウルやシティポップをリバースエンジニアリングするかのように、ロンドンのスタジオミュージシャンを起用し、2020年代のサウンドとして生音オンリーで作り上げたものだ。「日本を対外的な視点で捉えて音楽をつくる」という観点で、これだけかっこいいものは今後なかなか出てこないだろう。本著は、その背景にある思想や視点を知る上でも重要な一冊だと感じた。

 収録されたエッセイの中には、noteに掲載され話題を呼んだ「新時代」も含まれており、基本的にこのバイブスが本著を貫いている。この記事について、エイジズムで分断を煽るものとして批判的な気持ちを抱く人もいるかもしれない。しかし、個人的には納得する部分があり、今回のさいたま市長選出馬にあたってのマニフェストは、さいたま市民としては相当フィールする部分があった。現状の政治において、若年層に向けた施策を謳いながらも、シルバー民主主義が根深く、リソースの配分や施策の優先順位に絶望的な気持ちになることが少なくない。それはさいたま市に限らず、日本各地の自治体に共通する課題だろう。ゆえに、今回の市長選がひとつの試金石になることを期待している。

 文体は、まえがき、あとがき以外は「ですます体」で書かれているので、全体的に丁寧でややかしこまった印象を受ける。内容的にもリベラルな視点が貫かれており、過去のSNSでの印象とはギャップを感じる人も多いだろう。その「ですます体」で綺麗に均された文章の息抜きとして、イラスト、写真、本人の手書きのコメントが掲載されている。そのうち各年の主要な出来事について、手書きでコメントが書かれているのだが、その内容と本文のギャップに戸惑った。

 たとえば「イギリス政府のコロナ対応は日本政府に比べて迅速で的確だったと思う。人はたくさん亡くなったけど」と書かれているのだが、「人がたくさん亡くなったのに何が的確なのか?」と疑問を抱かざるを得ない。ウィル・スミスがグラミー賞で平手打ちした件について「俺はかっこいいと思った」と書かれると、繰り返し唱えている非暴力主義と整合性がないように映る。「ハラキリ」というエッセイでは、日本の死刑制度から謝罪カルチャーまでを語っているわけだが、その挿絵として首が飛んだ侍の絵が描かれている。こういった言語化しづらい倫理観の危うさと、ある種の「正しさ」を繰り返し主張する姿、一体どちらが「本当の著者」なのかは正直わからない。そもそもアーティストに対して「正しさ」を要求すること自体、お門違いであり、矛盾を内包しているからこそ惹かれるという側面もある。しかし、今の時代に政治家という公の立場を志すのであれば、言葉の整合性や説明責任は無視できない要素だ。口では博愛主義的なことをいくらでも言えるかもしれないが、少しのほころびにいつか足元をすくわれてしまう可能性があるからだ。

 ここまで批判めいたことを書いたが、あとがきにおける「日本と海外のギャップ」に関する考察は興味深かった。文化的な違いを乗り越え、日本がポジティブな方向にむかってほしい気持ちは同じなので、今回の選挙選を通じて、これまでにない景色を見せてくれることを期待したい。

2025年4月3日木曜日

これはわたしの物語 橙書店の本棚から

これはわたしの物語 橙書店の本棚から/田尻久子

 書評のZINEを自分で作ったわけだが、作るまで書評集をまともに読んだことがなかった。そんな中で、友人からおすすめしてもらったので読んだ。本屋を経営し、文芸誌を自身で発行する著者による書評集で、読みたくなる本にたくさん出会えて良かった。

 二部構成になっており、第一部は読書全般にまつわること、第二部は書評集となっている。第一部では本、読書にまつわる考えが書かれており興味深かった。斜陽産業であることが取り沙汰されてはや幾年という感じの本屋および出版ビジネスだが、インターネットの情報がフロー型かつその信頼性が大きく揺らぐ中で、本が果たす役割が大きくなる気もしている。著者のように本に対して、真摯に向き合っている姿勢を見ると「街の本屋」の存在の大きさを噛み締めるのであった。

 メインは第二部の書評である。小説、エッセイなどジャンルを問わず掲載されていた。前述のとおり、自分で作っておいてアレだが、書評集はあまり読んだことがない。わざわざ書評集で本を探しに行かずとも、読みたい本が常にスタックしている状況が続いているからだ。しかし、本著を読んで気付いたのは、本は世の中に膨大に存在し、自分の情報収集範囲からこぼれてしまう、オモシロそうな本が山ほどあるということだった。AIを含めてレコメンド精度はこれからも高まっていくだろうが、セレンディピティをもたらす書評集の可能性を改めて感じた。「0→1で、ものを生み出す人が一番エラい」という風潮は根強く存在するが、膨大に存在するものをキュレートする意味やオモシロさ、またその作品に対する解釈を深めることの豊かさを味わうことができた。

 紹介されている本の中には、読んだことのある本もあったのだが、自分で書いた感想と著者の書評を見比べることが楽しかった。当たり前だが、本はコンテンツとして長いものなので、その本の中で興味深い(あるいはつまらない)と感じる箇所は千差万別である。その違いを見ることで、本が多角的な存在として浮かび上がってくる。書評集を読むことは、今流行りの読書会を一人で行うような側面もあることに気づいた。次は『橙書店にて』を読みたい。

2025年4月1日火曜日

ボブ・グリーンの父親日記

ボブ・グリーンの父親日記/ボブ・グリーン、西野薫

 パパは神様じゃないのあとがきで本著が取り上げられていたので読んだ。1980年代のアメリカでにおける育児の様子が伝わってきて興味深かった。名コラムニストということもあり、着眼点と文章がいずれもピカイチで、男性による育児エッセイとしてはベスト of ベスト級だった。

 序文で本著を執筆するに至った理由を説明してくれており、以下の課題認識は、約三十年経った今でも変わらないと言えるだろう。育児本は世の中に溢れているが、育児する当事者の有り様や心境変化を描いたものは少ない。自分が探していたものが、1980年代のアメリカの本であるということは意外だった。

今まで二人で暮らしていた夫婦が急に三人家族になった時、何が起こるのかを、当事者の気持ちに焦点を合わせてとりあげた本は、どこにも見当たらなかった。

 著者は新聞のコラムニストとして名を馳せた書き手らしい。脂の乗ったキャリアの中で、子どもが誕生し、彼がいかに育児と向き合ってきたか、誕生から一歳の誕生日まで365日分の日記として描かれている。80年代の作品なので、アメリカでも妻が仕事を辞めて育児に専念している。日本であれば、女性が育児に全コミットすることが当然だったかもしれないが、当時のアメリカは過渡期のようだ。妻が自分一人で育児する辛さをぶちまけるシーンもあるし、著者自身が主体的に育児に関わろうとする意識が日記のそこかしこに表れている。仕事が忙しい中でも、どうにかして子どもと過ごす時間を作り、そこで目撃した子どもの挙動と自分の感情の機微を逃すまいとする姿勢にジャーナリスト魂を垣間見た。

 育児の主体は妻であり、著者は仕事のかたわらサポートする立場ゆえに状況がわかっていないことも多い。妻から幾多の注意を受けている様を、そのまま描いている点が真摯だ。日記というフォーマットゆえ、かっこつけることなく「記録」することに重きを置いているからだろう。男性らしさを感じた点は、これだけ献身的に子どもの生活を夫婦二人で支えているが、子どもが大人になった頃には、そのサポートについて一切覚えていないことを繰り返し心配している点だ。費用対効果的な思考であるが、こと育児においてはインプットに応じたアウトプットが出てこないケースが往々にしてあり、そこに育児の醍醐味と辛さの相反する要素が存在する。育児に携わる中で、著者が徐々にそのことに気づいていき、後半に出てくる以下のラインはグッときた。特に前者はトイトレ真っ最中の自分の心に深く刺さった。

赤ん坊は確実に自分のペースで進歩していく、ということだろう。それより速くもなく、遅くもない。僕たちはせかせるためにここにいるのではなく、耳を傾け、やっと言葉が出た時に認めてやるためにここにいるのだ。

今が始まりなのだ。他の人々に対する態度が形作られる始まりなのだ。白人の子と黒人の子の絵を見ても、アマンダは今は何とも思わないかもしれない。だがやがてこういう絵が意味をもってくるはずだ。そのうちいつか、何かがカチリと彼女の中に入りこむだろう。アマンダは他の人々に対し僕たちの世代が持っていないものを前提にして、人生をスタートするのだ。

 TV番組のジャーナリストとしても活動しており、いろんな場所へ出張するのだが、そこでも子どものことを考えてしまう話が繰り返し登場する。ステレオタイプとしての「娘を溺愛する父親」が苦手なのだが、著者の場合はその愛情表現がさっぱりしているからかヤダ味がない。それはおべんちゃらではなく、日々の生活における実践に基づいて、著者がその理由を紐解いているからなのかもしれない。

 私の子どもは三歳で、すでに乳幼児期を脱したところだが、本著を読んでいると、産まれてからの一年が走馬灯のように頭を駆け巡り、なんでもないシーンで急に涙が込み上げてきた。それはひとえに彼の筆力に他ならない。子どもの状況描写と著者の心情、思考のバランスが見事で、他人の子にも関わらず、子どもが赤ちゃんだった、かけがいのない時間を追体験することができるのだ。楽しいこと、悲しいことが渾然一体となった、生命力に満ち溢れているからこそのアップダウン。戻りたいような、戻りたくないような、そんなアンビバレントな気持ちになった。男性の育児参加が社会的に促されている今こそ復刊してほしい。