2025年5月29日木曜日

KISSA BY KISSA 路上と喫茶ー僕が日本を歩いて旅する理由

KISSA by KISSA/クレイグ・モド

 いつも聞いているRebuildにゲスト出演された回がオモシロくて読んだ。ポッドキャストを聞いている際にも感じた視点のユニークさが、本著ではさらに際立っていて、日本生まれ・日本育ちではなかなか気づけない「日本の奥深さ」に触れることができた。

 著者は、旧中山道(東京〜京都)を、交通機関や自転車を一切使わず、徒歩のみで踏破していく。その道中で出会った喫茶店と、そこにいた人々とのやりとりが、エッセイとして綴られている。日本の片田舎にある純喫茶に、突然「東京から徒歩で来た」という日本語の話せる白人男性が現れ、自分たちの話を熱心に聞いてくれたら話も弾むだろう。その結果として集まったエピソードの数々は、どれもとても貴重なものだ。

 ブルーボトルコーヒーが、日本の純喫茶インスパイアであることは周知の事実だが、著者が掘り下げているのはコーヒーカルチャーだけではない。ブルーボトルがすくいあげなかった、コーヒー以外の純喫茶の「周辺」に存在するカルチャーと人である。独特の内装、モーニングという制度、店主や常連のお客さんたち。その姿は街をフィールドにした社会学者のようでもあり、翻訳ゆえの大仰な語り口とあいまって、どこか歴史家のような風格さえ感じさせる。

 読み始める前は「旧中山道といっても、今では国道沿いにチェーン店が並ぶだけでは?」と思っていた。しかし、著者は「喫茶店のピザトースト」を足がかりに、個人経営の純喫茶を巡礼のように訪ね、発見していく。「金太郎飴」だと思っていた街の中を、まるで桃源郷のような純喫茶を独自の審美眼で見つけては、お店の人、お客さんと会話することで土地の理解を深めていく様が興味深かった。価値のないと思われているところに新たなレイヤーを見出していく態度はヒップホップ的ともいえる。

 シャッター商店街や地方の過疎化については、すでに多くの切り口で語られてきたが、そこに日本国外の視点が加わることで、改めて気づかされることが多かった。たとえば、他国であれば、人がいなくなった場所は荒廃してしまい、うかつに近づけなくなるが、日本ではそのまま静かに残っていて、つぶさに観察できる。これが日本の独自だという視点は日本人には浮かばないだろう。

 若者の人口減少とグローバリゼーションの加速度的進行が、シャッター商店街、田舎に顕著に表れていると指摘されているが、2025年現在、それはさらに加速を進め、都市部の個人店もどんどん駆逐されていき、どの街も「金太郎飴」的な均質な風景へと変わりつつある。(渋谷とか)だからこそ、著者のように、自らの足で歩き、自分の目で見て、耳で聞くという行為は、ますます重要になっていくだろう。AI全盛の時代において、それはまさに「人間にしかできない営み」だ。

 この版元であるBOOKNERDにて拙著『日本語ラップ長電話』をお取り扱いいただいております。ぜひKISSA by KISSAと合わせて、ご購入くださいませ。
「結局、宣伝かい!」と思われるかもしれませんが、たまたま読んだタイミングだったのです…!奇跡!

日本語ラップ長電話 on BOOKNERD

2025年5月26日月曜日

START IT AGAIN

START IT AGAIN/AK-69

 本屋をぶらぶらしていたら、たまたま見かけて買って読んだ。正直、AK-69の曲が好きになってきたのはここ数年のことだ。さらに直近 YouTubeでみた THA BLUE HERB の BOSS との対談で人となりに興味が沸いたのであった。ラッパーの自伝はそれなりに読んでいるほうだが、本著は少し毛色が違った。自伝的な要素は控えめで、それよりも彼が今の位置に至るまでにどう努力し、どう考え、どう動いてきたのか、その方法論が詰まった「自己啓発書」としての色が濃い一冊だった。ヒップホップと自己啓発のかけ合わせの相性の良さがほとばしるほどに炸裂しており、自己啓発書を普段読まない自分でもヒップホップが加わってくることで「なんか頑張ろうかな〜」と思わされるのであった。

 AK-69という名前を最初に意識した瞬間を、はっきりと覚えている。それは『Blast』という雑誌のインタビュー記事だった。AK-69とKalassy Nikoff、それぞれの名義で同時にアルバムを出すというタイミングの特集で、彼の過去の悪行に少し怯えつつ、ヒップホップのストリートカルチャーの一端を垣間見たようで興奮した記憶がある。

 それはさておき、本著では彼がどのようにして「ラッパー・AK-69」として大成したのか、これまで行ってきた具体的なアクションを通じて、自分のマインドセットを丁寧に説明している一冊である。なんとなくのキャリアしか知らなかったが、本著を読むことで彼のラッパーとしての成り上がり方やスタンスを深く知ることができた。歌詞へのアプローチ、ビーフに対するスタンス、セルフプロデュースの思想など、音源だけではうかがい知れない背景が明かされている。

 本の仕掛けとして印象的だった点は冒頭だ。まるでリリックのように、AK-69が読者に問いかけてくる。しかも、そのリリックは単なる縦書きではなく、ヴィジュアルライティングでかましていく。「これぞAK-69!」という派手さと美学が炸裂していて、めちゃくちゃカブいている。近年のヒップホップは自然体がクールとされる傾向にあるが、彼が活躍した 2000〜2010年代、ラッパーは「カブいてナンボ」の時代だった。今なおそのスタンスを貫く姿を見ると、本著で書かれている自己啓発的な内容に説得力を感じるのであった。

 個人的に一番驚いたのは、彼が配偶者のことを「パートナー」と本著内で一貫して呼んでいた点だ。AK-69の音楽のコアなファン層の中には、「嫁」という呼び方を好むような層も少なくないという偏見が自分の中にあった。しかし、彼は本著で一度も「嫁」とは書いていない。ここに彼がラッパーとして長いキャリアを築くことができた一端を垣間見たのであった。つまり、時代の空気を敏感に察知し、自分がそこにフィットしていないと気づけば、しっかりとチューニングしていく。自分自身を客観的に見つめ、今求められている姿に再構築していく柔軟さ。彼はラッパーである同時に、セルフマネジメントの達人とも言えるだろう。

 たとえば、新作『My G’s』では、客演を多数迎えたアルバムのDX版を制作し、横浜アリーナでフェスのようなショウを開催する予定になっている。キャリアが長くなればなるほど閉じていきがちな世界に、新旧さまざまなラッパーやビートメイカーとケミストリーを起こしていくその姿勢は、まさに風通しを良くするための意識的な選択だろう。同じく「自己啓発的」なスタイルを持つ KREVA が客演ゼロ、どちらかといえば閉じた世界観を提示したアルバムとは対照的で、それぞれの戦略と哲学の違いがよく表れている。ほぼ同世代のラッパーかつ互いに日本語ラップのシーンと距離を置きながら、自分の市場を開拓してきた二人が、まったく別のアプローチを取っている点に、とても象徴的なものを感じる。

 「自分の曲には他人への応援歌は一曲もない」と語る彼の言葉も印象的だった。彼の曲は多くのスポーツ選手に愛されているので、応援ソングとして機能しているものと考えていた。しかし、彼の曲を聞いている人たちは、AK-69の言葉として認識するというよりも、自分の中にリリックを取り込み、憑依させる形で聞いているのかもしれない。強烈な一人称を持つヒップホップの特徴が活きているといえる。そうやって聞けるリリックは意外に少ないのかもしれない。

 欲を言えば、彼が経験してきたであろうヒップホップの裏側の話をもっと聞きたかったところではある。名古屋という独自のシーンに根ざしたAK-69は、いわゆる日本語ラップの東京中心の文脈とは異なる場所から登場している。その背景にあるローカルな文化や美学について、本書でもいくつか触れられてはいたが、もっと深く掘り下げてほしかった。

 名古屋のヒップホップという観点でいえば、AK-69のキャリアの転換点として ¥ellow Bucks の台頭は欠かせないトピックであろう。もし彼が現れていなければ、AK-69の現在地はまた違った形になっていたかもしれない。実際、自分自身も「Bussin’」がなければ、彼の音楽にここまで触れることはなかっただろうと思う。だからこそ、AK-69からみた ¥Bという話は、他のラッパーも含めていつかじっくり語ってほしい。実際、本著のラストでは、表題にもなっている代表曲「START IT AGAIN」にYZERR がREMIXで参加した際のレコーディングのストーリーが語られている。「まさにこういう話を読みたい!」という内容だったので、続編に期待したい。このインタビューも合わせて読むと、日本語ラップに対する彼のスタンスがより深くわかって興味深かった。

AK-69と日本語ラップシーンの”縁”

2025年5月19日月曜日

たのしい保育園

たのしい保育園/滝口悠生

 滝口さんが保育園を題材にした小説。文芸誌で連載されていことは知っていたが、単行本になる日を待とうと思い、情報をシャットアウトして待った結果、ついにその日がやってきた。以前にポッドキャストで育児、保育に関する話を伺っており、その時点で相当オモシロかったわけだが、それが今回小説という語り口になることで新たな魅力がふんだんに詰まった最高の小説だった。

 主人公は、ももちゃんという子どもと、そのお父さん。各話が短編として独立しているものの、登場人物は同じなので、連作としても読めるようになっている。植本一子さんとの往復書簡『さびしさについて』でその片鱗を見せていた子どもに対する解像度の高さが本著では存分に発揮されている。テクノロジーの進歩で、簡単に写真や動画で子どもの姿を記録することは可能になったが、改めて文字で目の前で起こっている子どもの様子を言語化されると、そのダイナミックさ、ひいては生命の尊さまでリーチするような厳かな気持ちが湧いてくる。

 子育てをする身からすれば「子どもあるある」がふんだんに詰め込まれているとも言えるわけだが、その「あるある」の解像度は、よくある子育てエッセイとレベルが一段違っている。それは子どもを日々育てる中でなんとなく考えているが、言語化できていなかった思考の残滓を滝口さんが拾い集めて、言葉にしてくれている、そんな印象だ。特に「保育園」を題材として取り上げていることはその象徴のようだ。

 保育園は預けている立場からすると、育児においてかなりの割合を占有するわけだが、自分が育児主体ではないので、保育園での育児について深く考える機会が少ない。そもそも成長速度を含めて日々が怒涛すぎることもある。そこを丁寧にすくいとり、保育園と共に育児を行う様子とその意味をここまで深く描いたものはないだろう。そして、保育園に子どもを預けたことのある人がもれなく感じたことのある、保育園という場所、保育士という職業に対する圧倒的な尊敬と感謝の気持ち、全面的肯定が小説に落とし込まれているのだから、たまらないものがあった。

 〇〇ちゃんのお父さん/お母さんという呼び方に対して、アイデンティティを尊重する観点でネガティブに捉えられるケースもあるが、本著では子どもを持つ登場人物は皆、(子どもの名前+お父さん、お母さん)という形で表現されている。それは保守的ということではなく、あくまでここは子どもの社会なのだ、という宣言のように感じた。そして、それは物語上、区別するための便宜上のものでしかない。本著内で言及されているとおり、保育園に通っていると、子どもが誰に帰属するかは本質的には関係なく「保育園」という共同体に集まった大人たち全員で子どもを育てているのだという認識があるからだ。核家族化、人間関係の希薄化などにより地域ぐるみの子育ては減少していると嘆かれて久しいが、本当にそうだろうか。家族の在り方も20世紀から変化している中で「保育園」が、一種の育児の共同体を担保している可能性について改めて認識することができた。

 最後にある「連絡」という話は、これまでの滝口さんのスタイルが最も色濃く映る。そこへ子どもに対する高い解像度の視点が入り込んでくることで、これまでの作品とは違った印象を持った。たとえば、ガザ虐殺について言及されているが、それが子どもたちが公園で遊んでいる最中に挟まれることでまったく他人事ではなくなる。また、ギスギスした現代社会において、誰が何をしてもいても気にしない一種のユートピア的存在としての公園という空間の多様性が、滝口さんの得意とする視点遷移と共に描かれており、その相性が素晴らしかった。保育園や公園といった場所の存在を言祝ぐような小説だった。

2025年5月13日火曜日

BAD HOP解散!!…. その後のわたくしzine

BAD HOP解散!!…. その後のわたくしzine/マルリナ

 文学フリマで『日本語ラップ長電話』というZINEを売っていたのだが、購入してくれたお客さんから手渡しでもらった紙のZINE。タイトルからして絶対オモシロいだろうなと思って、何気なく読み始めたら、一気読み…!オモシロ過ぎた。しかも、noteでもブログでもなく、手書き&セルフ印刷というスタイルがかっこいい。ZINEブームの中で、ZINEを作って販売することで承認欲求を満たしている自分のことが恥ずかしくなった。資本主義が介在しないガチのZINEは、まさに「ヒップホップ」としか呼びようがない。古参ぶるつもりは毛頭ないのだが、もう十年以上聞いているので、どうしたってアーティストや曲に対して「あーこの感じね」と悟った態度を取ったり、御託をうだうだ並べてしまうわけだが、本著にはヒップホップに対する初期衝動とパッション、それに基づく実践が、これでもかと詰め込まれていた。

 表紙に書かれているとおり、BAD HOPのファンだった著者が、解散後どのようにヒップホップライフを過ごしているのか、ライブレポととして記録されたZINEである。ライブレポは時系列に並んでおり、日記に近い形でリアルな気持ちと現場の様子が丁寧に描かれている。今は昔のようにCDをたくさん買わなくても音楽を聞けるからからいいなぁと思っていたが、その分だけライブやマーチにお金が投下されている現実が記録されていた。とにかく小箱、大箱、都内、地方問わず、自分が好きなアーティストのライブに通い詰めているのだ。BAD HOPを入口として、LANA、KviBaba、Elle Teresaなど現状のトップどころのライブにこれだけ通い詰めていることに驚くし、それがSNSにあるような短絡的な感想ではなく、言語化されていることが貴重だ。媒体におけるライブレポには意味がなくなっているかもしれないが、一個人の記録としてのライブレポにはまだまだ価値があること、そしてBAD HOPがヒップホップの間口を広げる存在として機能していたことを思い知らされた。

 さらにウェブ媒体にあるようなライブレポと一線を画している点は、周辺の観客の様子まで記録されている点である。最も驚いたのは、ライブで周囲のお客さんから押されることが常態化していることだった。本著に登場するような若手のラッパーのライブには足を運べていないし、ライブに行っても自分の背が高いこともあり、後方で見ているので、まったく預かり知らない「ライブあるある」だった。そして、どうしてお客さん同士が押し合うかといえば「近くで撮影したいから」というのも、今の時代のヒップホップライブの現実を映し出していると言えるだろう。また、現場にいるギャルたちのパンチラインの数々にも完全にノックアウトされた。まさに ”この現場以外に本場なんてのは存在しない” のだ。

 ヒップホップカルチャーはおびただしいコンテキストがアーティストや楽曲の背景に存在し、他のジャンルの音楽に比べて、聞く上でのハードルが高くなっているのは間違いないだろう。それはポップな層を新規として受け入れられないハードルになるケースもあれば、一度好きになれば、どこまでものめり込める沼の深さがあるとも言える。その双方がファンの視点から余すことなく描かれている稀有な一冊だった。

2025年5月12日月曜日

文学フリマ完売御礼&通販開始

 前回はおんぶに抱っこスタイルで出店した文学フリマに初めて自分で出店しました。新刊である『日本語ラップ長電話』と前回作った『乱読の地層』を持っていったのですが、おかげさまで持っていった分について完売することができました。ご購入いただいたみなさま、本当にありがとうごうざいました。

 事前段階では「日本語ラップと文学フリマの相性いいのか?」と疑問に思っていましたが、ヘッズの方もちらほらいて、そういった方にはもれなく購入いただいたような感じがあり、大変嬉しかったです。さらには、日本語ラップ自体に深い興味はなくとも、ご購入いただける方が想像以上に多く、近年の日本のヒップホップシーン、ラップカルチャーの盛り上がりを肌で感じました。日本語ラップの冬の時代を見ていた身としては、感慨深いものがありました…改めてありがとうございます。

 そして、本日より通販での販売を開始しています。メルカリショップでご購入いただけますので、遠方の方は是非こちらよりご購入くださいませ。書影は文学フリマで大活躍してくれたCyderです。




『日本語ラップ長電話』
通販サイト

 自分の戦利品はこんな感じ。文学フリマは作り手の方と直接コンタクトできるのが楽しいところですが、熱烈応援している美玉書店やpalmbooksの方々と直接お話できて嬉しい限りでした。そして一番ヤバいブツはこの手書きのZINE…また紹介できればと思います。


2025年5月9日金曜日

アンビバレント・ヒップホップ

アンビバレント・ヒップホップ/吉田雅史

 荘子itとの対談本『最後の音楽:|| ヒップホップ対話篇』も興味深かったので読んだ。ゲンロンでの連載に加筆したものらしく、ヒップホップに馴染みのない読者にも配慮された構成ながら、読み進めるうちにその深度に驚かされる設計になっている。アメリカのヒップホップを主たる対象とする批評が多い中、国内のアーティストにフォーカスされており、なおかつ日本語ラップの立脚点がどこにあるのか、これからの日本語ラップの批評の方向性を示しているとも言えて、本著はその金字塔として今後読み継がれてほしい一冊だった。

 タイトルにある「アンビバレント」は本著における最大のキーワードであり、数々の議論がこのワードへと収束していく。代表的なアンビバレンスとしては、「資本主義とリアル」「アメリカと日本」の二つが挙げられるだろう。前者に含まれる「リアル」が第一章のタイトルという時点で、本著がいかにヒップホップを真摯に捉えようとしているか伝わってくる。日本では、ヒップホップの隆盛に伴い、資本主義の流入は日に日に加速しており、その状況と古参ヒップホップ好きが大切にしていた価値観である「リアル」は相剋する。その緊張関係は、まさに自分が抱えている「アンビバレント」な気持ちそのものである。本著では先んじて、その相剋を乗り越えたであろうアメリカの状況を解説してくれている。特定のアーティストに焦点を当てつつ、通史的な視点も持ち合わせた解説は、ヒップホップ初心者から批評を求める読者まで幅広く楽しめる内容となっている。

 本著の大きな魅力のひとつは、その眼差しのフレッシュさにある。たとえば、ヤン冨田とDJ KRUSHを並べて、ヒップホップにおけるオーセンティシティを論じたり、いとうせいこう、SEEDA、KOHHという異なる世代のラッパーを通じてラップ表現の変遷を定量的に分析するなど、枚挙にいとまがない。なかでも、KOHHに対する考察は白眉だった。彼がトラップをいち早く取り入れ、三連フローなど、トラップと日本語の可能性を拡張したことは周知の事実であるが、これだけ定量的なアプローチで解析した例はおそらくないだろう。意味を壊し、音を優先する中で、ボキャブラリーの貧しさが逆に功を奏したというのは、価値を反転させるヒップホップそのもので、KOHH(および千葉雄喜)がいかにヒップホップを愛し、ヒップホップに愛されるラッパーなのか、そんな証にも映った。

 著者の語り口が理論的であることも特徴的だ。ヒップホップはアートであり、抽象的な議論が多くなりがちだが、引用する文献を明確にして議論を積み上げて行く姿勢は批評としての強度を支えている。さらに、著者がビートメイカーであることを活かした独自のグリッド表記を使った各種解説がエポックメイキングだった。言葉と音の両方を可能な範囲で分解して、読者と共に眺めていく作業を行うことで、説得力を増すことに成功している。ヒップホップに限らず、音楽評論としても新しい境地が切り開かれていると言えるだろう。

 ビートの章でいえば、現在のヒップホップにおけるサウンドの基準であるTR-808に対する考察に驚いた。実機の音が、ウェブ上でまるで融解していく様をめぐる周辺環境の解説は、著者自身がビートメイカーだからこその深度があった。また、トラップ以外の多くのヒップホップの楽曲において808サウンドが使われていること、その使用とラップにおけるメッセージの相関性の考察は目から鱗だった。

 アメリカ発祥のカルチャーであるヒップホップを日本で実践するという営みには、アンビバレンスがつきまとう。もともとヒップホップは、アフリカ系アメリカンを中心とした「サヴァイヴァル・ツール」としての側面を持ち、それを背景を参照せずに形式のみをなぞることは、文化盗用(カルチャー・アプロプリエーション)の危険をはらむ。かといって、アメリカのスタイルを絶対視し、それを基準に日本のヒップホップを評価するような態度も、どこか屈折した文化的劣等感の表れに映る。アメリカ、日本のヒップホップの両方とも好きであればあるほど、この「アンビバレンス」に苦しめられる。それはアーティストもリスナーも同様のことだろう。しかし、著者はその苦しみこそが「日本語ラップ」なのではないか?と提示しており興味深かった。白黒はっきりつけてしまう快楽に抗い、宙ぶらりん=アンビバレントな状態に置いておくことで、日本のヒップホップがアメリカを参照しつつも、独自のスタイルを構築していくのではないか。そんな見立てにおおいに首を振った。

 終盤は、2020年代に入り豊穣さを増す日本語ラップの現状が具体的に取り上げられている。Tohjiや舐達麻といった代表的アーティストも、単に紹介されるだけでなく、音楽理論やサウンドとの関係性を通じて分析されている点がユニークだった。たとえば『KUUGA』は多くの批評にさらされた作品であるが、本著ではTohjiの「内なるJ」を音楽理論から示している点が新しいし、舐達麻についても、ビートのエモさとラップの温度の対比からエモラップの日本スタイルともいうべき在り方について分析されており興味深かった。その中でも印象に残ったのは、KRUSHとJinmenusagiの「破魔矢」に対する考察だ。それは「ダサい」とされていた「お経スタイル」の価値が反転し、かっこいいものになるという最もヒップホップ的な価値観が反映されているからだ。しかも、これは本著前半の議論と呼応しており、このような形で伏線回収するような展開がいくつか用意されている。こういった仕掛けは批評にありがちな単調さを避け、読者を飽きさせないスパイスとして機能していた。長々と色々書いてきたが、本当にたくさんの気づきがある一冊だったので、全ヒップホップ好きに読んでほしい。