2026年1月23日金曜日

ものごころ

ものごころ/小山田浩子

 毎年友人とやってる本に関する年間BESTエピソードの中で、友人が著者の作品を1位にしていて、入門編として勧められたので読んだ。いわゆるステレオタイプの小説の形式から逸脱し、話というよりも構造の妙を追求している作家に惹かれがちなので、著者がその道を極めしものであることをこの一冊で十分理解した。

 本著は、各文芸誌に掲載されていた短編をまとめたもので、さまざまな設定の話があるのだが、中心にあるのは子どもとコロナ禍である。子どもは普遍的なテーマである一方で、コロナ禍は局所的なテーマ。この二つが掛け合わさることで、日常と非日常のコントラストが鮮やかに立ち上がる。特に子ども、学生たちの人生で1回しかない貴重な瞬間がコロナ禍で失われてしまったことに気付かされた。こうやって小説という時代を超えて残りやすいフォーマットで書かれているのは意義深い。

 著者の小説を読むのは初めてだったのだが、圧倒的な改行の少なさに驚かされる。紙面にパツパツに満ちている文字の密度は活字中毒者からすれば眼福である。そのスタイルを可能にしているのは、すべての出来事を並列に扱う態度である。場所、人称、時間、平文と会話など、それらのスイッチングを何の予告もなく行なわれる様は、まるで一筆書きで書いたようである。

 読んでいるあいだに勝手にスイッチする構造は、人によっては不親切に映るかもしれないが、予定調和の小説に飽きている人にとって、これほどスリリングな文体はないだろう。しかも、この変則的な文体だからこそ表現できる「心の機微」があることに読めば気付かされる。読む前までは著者のギミックだけが耳に入り、勝手に出オチのように扱ってしまっていたが、これほど内容と相関しているだなんて、やはり読まないと実のところは何もわからないものだ。

 ギミックの観点でいえば「おおしめり」がダントツにぶっ飛んでいた。句点なしで突っ走る水をめぐる物語。大学生の平凡な日常の話が、見せ方次第でこんなに非現実的に見えることに、表現の可能性を大いに感じた。中華料理屋に行くたびにこの話を思い出しそう。最後の主語のスイッチングの大胆さにも心底驚いた。あと同世代の方ならわかってくれると思うが、昔のはごろもフーズのCMインスパイアな水の王冠描写は、タイトルよろしく「ものごころ」がついた頃の記憶をフラッシュバックした。

 本著を象徴するのは、宏とエイジを主人公にした、冒頭の「心臓」と巻末の「ものごころごろ」だろう。二つは繋がっていて、少年が青年への階段を歩み始める話なのだが、躍動感と閉塞感の対比が素晴らしい。前者については、河原で犬を追いかけるという極めてプリミティブな昭和世代直撃な原風景なのだが、出来事が収束していく先に待つ大人という杓子定規な存在、つまりは閉塞感の元凶の書き方が見事。大人になれば、宏の母親の言葉はすべて「正論」で何も間違ってないのだが、そのおもんなさたるや。後者では中学受験が本格化し、そのおもんなさに拍車がかかるのだが、それを野犬が人間にとって「いい犬」に順化していくことと対比させている点が残酷に映った。

 一番心に突き刺さったのは「種」だった。子どもの身体に何かトラブルが起こった際の思考、行動のフローがシームレスな文体ゆえに巧みに表現されていて唸った。トラブルが起こるたびにググって玉石混合のネット情報の海を彷徨い、自分を納得させる落とし所を探る行為は現代に生きる親たちが皆やっていることだろう。それを小説でこんなふうに落とし込むアイデアが素晴らしい。今後はAIに聞くことがデフォルトになると思うので、このように逡巡する機会はなくなっていくだろうから時代の記録としても貴重と言える。しかも、終盤に「大便手掴み」という怒涛の展開が待っていてシビれた。さらに「大便掴み」が短編同士をゆるやかに繋ぐキーとなっているギミックにニヤニヤした。(子どもの排泄周りは色々と苦労しているところなので、余計に刺さったところもある。)

 「作家性」という言葉を安直に使うことは許されない、まごうことなきオリジナリティに久しぶりに打ち震えたので、著作を順々に読んでいきたい。

0 件のコメント: