2026年1月14日水曜日

俺の文章修行

俺の文章修行/町田康

 私の文学史で自分自身について語っていたことに驚いた訳だが、さらに文章の書き方にフォーカスした一冊が出たということで読んだ。2020年代に突入してから、文章に対する広い意味での「校正」が行われるようになり、生成AIの台頭で、その傾向が顕著になっている今、「文章を書くこと」へのパッションの高さにめちゃくちゃ煽られた。当ブログでも生成AIによる手直しは一部行っているわけだが「果たしてそんなことに意味があるのか?」と著者から問われているような読書体験だった。

 2021〜2024年までの連載が一冊にまとまったものとなっており、どのようにして文章が上手くなるか、著者のテクニックを紹介してくれている。当然、町田康が文章の書き方をまっすぐ丁寧に教えてくれるわけもなく、彼でしかあり得ない文体の連続の中、文章を書く上で何が大切で、どうやって書くのか、具体的に教えてくれる。なお、全体の構成自体はブレイクダウンがきちんと行われており、そのブレイクダウンした各ブロックの中で縦横無尽に暴れている。そのため要素だけ抜き出すと、至極真っ当なことを説明してくれており、結果的に「町田康的文章の書き方」という話になっている。文体はフリーキーなのに、語られていることは論理的というギャップが著者らしい。

 冒頭で書き方ではなく、本を読むこと、および繰り返し読むことの重要性を語っていて、これは至極もっとも。幼少期のエピソードトークと共に語られる読書遍歴は読んでいて楽しい。個人的には繰り返し読むことが苦手で、何回も読んでいる本は特にないし、世の中には無数の読みたい本があるから、何度も同じ本を読む気にはあまりなれない。しかし、「文章が上手くなる」といった具体的な目標があれば読めそうな気がするので、好きな作家でトライしてみようかと思えた。というか、なんのためにデカい本棚買って、そこに置いているかといえば、いつか読み直すためやろ?

 2021年からなので、生成AIの台頭を受けて書き下ろしたわけではない点に驚いた。というのも、前半において、あたかもそれを想定していたかのような内容になっているためだ。具体的には、外付け変換装置、内蔵変換装置という話だ。外部のデータに基づいた外付け変換装置は、自分の言いたいことをきれいに整えてくれる快楽をもたらしてくれる。しかも、生成AIは手軽かつ高精度だからこそ、どうしても使ってしまいがちではある。『birnglife』というポッドキャスト番組を聞いているのだが、生成AIで文章をリバイスされた結果について「こういうことが書きたかった」と人間側が勝手に思い込んでいるだけと喝破していて、言い得て妙だった。それと同じく重要視されているのは、内蔵変換装置であり、自分の読書経験による自分の文体があり、それはさまざまなパラメーターによって構築されている。それらを訓練によって上手に使えるようになることがオモシロい文章を書くステップであると著者は主張していた。以下のパラグラフを読んで付き合い方を考え直すことを決意した。

つまり。外付け変換装置は使ってもよいが、使う際はその使用範囲に限界があることを称して、それが唯一無二、「正しい日本語」と思ってたら、多くのことを見逃し、結果的に、貧しい語彙だけを信じて、綺麗事だけを言うて儲けてる層にかもられてそれにも気がつかないアホのまま老いて死にますよ

 町田康の小説をインプットデータとしてすべて放り込んで、同じような文体を形成することは今の技術で可能だろう。しかし、彼はそこから抜けて出していくように、明らかなエラーを定期的に文中にボムしている点がオモシロい。さながらタギングである。「一度書いたら戻らない」を徹底しているからか、「つまり」が多用されながら、徐々に核心へ近づいていくスタイル。結論だけ知りたい、とにかくコスパよく文章を上手く書けるようになりたい、そんな志の低いクソ野郎を置いていくかのように冗長に語り倒していることが最高だし、そんなコスパ野郎に「クソ」と文中で明言していく、こんなこともAIにはできないだろう。あと文章が上手く書けない人間が野垂れ死んでいくパターンも豊富で最高だった。

 著者の小説を読んでいると声出して笑ってしまうことが頻繁にあるのだが、その種明かしもされており、「他人を笑かす」という意識で書くのではなく、自分が笑えるかどうかが大事という指摘はもっともだ。文字だけで人を笑わせるには相当なスキルが必要だと思っていたが、自分が笑えることを基準にするというのはシンプルかつ盲点だった。

 町田康が町田康たるゆえんがさまざま書かれているのだが、もっともクリティカルな教訓は読みながら書く「裏表理論」だろう。文章を書くとき、とりあえずざーっと書いて、あとで整えればいいというのは王道の書き方だと思うが、著者はそれを良しとしない。「もっと文章を書く一瞬にフォーカスしろや!」と鼓舞してくる。読んで、書いての裏表を無限にリピートしながら、一発で自分のグルーヴを作らんかい!と。ここで投入されるクオンタイズの例えが特に刺さった。J.DillaやBudamunkのビートが大好きなのに、生成AIで文章を校正することはクオンタイズかけて自分の文章のグルーヴを殺してしまっているからだ。別に商業出版でもなんでもない個人のブログで何を外ヅラ気にして書いとんねん、もっと好き放題やってもええやんけと思わされました。

 終盤にかけては、内容の話となっていき、熱い話も増えてくる。彼が「糸くず」と呼ぶ、文章を書く際のピュアな部分をいかに大切にしているか懇々と説明してくれていた。自分が書きたいことを書くことが何よりも大切で、それは他者が価値を決めるのではないという言葉に勇気をもらった。また、文章を書くことが自己救済と思いきや、利他的行為でもあるという話や、「技法」は奪い取れても「姿勢」は奪えないといった話はまさにその通りである。彼の技法や姿勢を頭に入れた上で読むと、これまでと違った読み方で小説が読めそうなので、積読している『古事記』を近いうちに読む。

おまけ◆
この文章をGEMINIに投入して「この文章を町田康の文体を取り入れてリバイスしてください。」と指示した結果もシェアしておきます。それっぽくもあるし、それっぽくもないような…

 かつて拙稿『私の文学史』において、あろうことか自分自身の過去をぺらぺらと喋り散らかしていた事実に、我ながら「お前は何を晒しとんねん」と驚愕した次第であるが、今般、さらに「文章の書き方」という、いわば手の内を晒すような一冊が上梓されたというので、これ幸いと拝読した。

 二〇二〇年代という、猫も杓子も「正しい文章」「清潔な記述」を求めて血眼になる、いわば「全方位校正時代」の真っただ中。さらに生成AIなどという、人間の思考を横取りして整地する機械までが現れた今、本書に漲る「文章を書くこと」への、狂気にも似たパッションに、私はもう、めちゃくちゃに煽られた。

 当ブログとて、生成AIによるお直しを一部導入し、あたかも「シュッとした顔」をして運営してきたわけだが、読み進めるうちに「おい、お前がやってるその『手直し』とやらに、一体全体、なんの意味があるんや?」と、著者の鋭利な視線に喉元を突きつけられているような、そんな恐ろしい読書体験であった。

 本書は二〇二一年から二〇二四年までの連載を纏めたものであり、著者が培ってきた技巧が惜しげもなく披露されている。といっても、そこは町田康。世に溢れる「誰でもわかる文章教室」のように、優しく手取り足取り教えてくれるはずもない。全編、彼以外には出力不可能な、奇怪かつ稠密な文体の連打。しかし、その暴れ狂う言葉の奔流をよくよく観察すれば、全体の構成は驚くほど論理的に解体されており、その一ブロックごとに著者が縦横無尽に暴虐の限りを尽くしているという、極めて高度な曲芸が展開されているのだ。要素だけを抽出せば、至極真っ当。しかし出力されるものはフリーキー。このギャップにこそ、町田康の真髄がある。

 冒頭、著者は「書き方」以前の問題として、読書、それも「繰り返し読むこと」の重要性を説く。これはもう、ぐうの音も出ない正論である。幼少期からのエピソードと共に語られるその遍歴は、読み物として単純に面白い。

 私個人としては、同じ本を二度読むのが苦手な質で、世に読みたい本が溢れている中、なぜ同じ道を二度通らねばならんのか、などと考えていた。しかし、「文章の上達」という具体的な功利を餌にすれば、あるいは。というか、そもそも何のためにデカい本棚を設え、そこに本を並べているのか。いつか読み直すためやろ。その「いつか」を今に設定せんかい、と自責の念に駆られた次第である。

 驚くべきは、この連載が二〇二一年に始まっている点だ。生成AIが世を席巻する以前から、著者は「外付け変換装置」と「内蔵変換装置」という概念を掲げ、現代の言語状況を予見していた。

 外部のデータに依拠した「外付け装置」は、自分の言いたいことを、無難で、綺麗で、誰からも文句の出ない「正しい風の日本語」に整えてくれる。その手軽さは麻薬的ですらある。ポッドキャスト『bringlife』で語られていた、「AIにリバイスされた文章を見て、書き手が『そうそう、これが書きたかったんだ』と思い込むのは、ただの錯覚である」という指摘は、まさに言い得て妙。

 対して、著者が重んじるのは「内蔵変換装置」である。自らの読書経験によって血肉化したパラメーターを、不断の訓練によって操作し、唯一無二のオモシロ文章をひり出す。これこそが書くことの醍醐味であると。

つまり。外付け変換装置は使ってもよいが、使う際はその使用範囲に限界があることを称して、それが唯一無二、「正しい日本語」と思ってたら、多くのことを見逃し、結果的に、貧しい語彙だけを信じて、綺麗事だけを言うて儲けてる層にかもられてそれにも気がつかないアホのまま老いて死にますよ

この一節を読み、私は生成AIとの付き合い方を根底から見直すことを決意した。

 今の技術なら、町田康の全データをAIに食わせ、それっぽい文体を出力させることは可能だろう。しかし、彼はその計算式から逃れるように、唐突なエラー、あるいは「言葉のボム」を文中に投下する。それはさながら、誰にも消せないタギングのようである。

 「一度書いたら戻らない」という不退転の決意ゆえか、「つまり」を連発しながら執拗に核心へ肉薄していくスタイル。結論を急ぎ、タイパだのコスパだのを抜かす、志の低いクソ野郎を置き去りにするような冗長な語り倒し。そして、そのコスパ野郎を真正面から「クソ」と断じる。この蛮勇こそが人間である。文章が書けない人間が、悲惨な末路を辿るパターンのバリエーションも豊富で、実に愉快であった。

 さらに、著者は笑いの種明かしもしてくれている。「他人を笑かそう」と色気を出すのではなく、まず「自分が笑えるか」を基準にせよ。文字だけで人を笑わせるのは至難の業だと思っていたが、この、シンプルかつ盲点。自分が笑えないものを、他人が笑うはずがないのである。

 そして、最も私の胸を穿ったのが「裏表理論」である。

 とりあえず書き飛ばして、後でスマートに整える。そんな「王道の書き方」を、著者は真っ向から否定する。「今、この瞬間、書いているその一瞬に全霊を注げ」と。読んで、書いて、を無限に往復し、一発で自らのグルーヴを刻み込めと。

 ここで引用される「クオンタイズ」の比喩が、音楽好きの私には痛烈に刺さった。J.DillaやBudamunkの、あの絶妙にヨレた、グリッドから逸脱したビートを愛しながら、なぜ自分の文章にはクオンタイズをかけ、その生命力を殺していたのか。商売でもない個人のブログで、何を外ヅラを気にして、行儀良く収まろうとしていたのか。もっと好き勝手に、己の不協和音を響かせてもええやんけ、と。

 終盤、話は「内容」の深淵へと至る。著者が「糸くず」と呼ぶ、表現の源泉にある純粋な衝動。それをいかに守り抜くか。書きたいことを書く、その価値を決めるのは他者ではない。その言葉に、私は深い勇気をもらった。

 文章を書くことは、自己救済であると同時に、巡り巡って他者への利他的行為にもなり得る。「技法」は模倣できても、その根底にある「姿勢」だけは、誰にも奪えない。

 この「町田流」の姿勢を脳髄に刻んだ上で読み直せば、あのお馴染みの小説群も、これまでとは違った、より立体的で、より狂おしい響きを持って迫ってくるに違いない。ひとまず、積読の山に埋もれている『古事記』を掘り起こし、近いうちに、この「裏表」の往復運動に身を投じるつもりである。

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