2025年9月29日月曜日

ブラック・カルチャー 大西洋を旅する声と音

ブラック・カルチャー 大西洋を旅する声と音/中村隆之

 このタイトルで岩波新書となれば、読まざるを得ないと思って手に取った。ヒップホップをはじめ、アメリカ、イギリスのブラック・ミュージックが好きな人間であればあるほど、「ブラック」という呼称について考えをめぐらせることになる。本著では、大西洋を軸に据えることで、宗主国の視点だけでなく、オリジンであるアフリカに焦点を当てている点が新鮮だった。

 タイトルどおり、ブラック、つまりアフリカの人々が奴隷として北米や南米(著者はアメリカスと呼んでいる)へ連行された結果、誕生したカルチャーの変遷を追った一冊となっている。ドラマ『ザ・ルーツ』、映画『それでも世は明ける』、小説『地下鉄道』など、アメリカにおける奴隷制度を題材にした作品は色々と見たり、読んだりしてきたが、それでも抜け落ちている視点がまだまだあることを痛感させられる。近視眼的ではなく、もっと俯瞰した形で、北米に閉じないアメリカスとアフリカの関係性を捉えることで、文化の豊かさをさらに噛み締められるのだ。

 ここ日本でもヒップホップが爆発的人気を獲得している今、ヒップホップのルーツとどう向き合うべきか?という問いは、しばしば問われがちだ。つまり、それが借り物の文化であることに自覚的かどうか。しかし「貸し借り」という窮屈な図式に陥るよりも、本著を読むと、アフリカの人々が連綿と伝承してきた音楽スタイルの延長線上に、日本のヒップホップが存在していることに気づかされ、歴史の壮大さに対して自然と敬意が芽生える。それを可能にしているのは、著者が「環大西洋」という広い領域を対象に、現行のブラック・ミュージックを位置付けているからだ。また、ブラック・カルチャーはアフリカ系アメリカンが占有するものではないことを丁寧に示しており、後ろめたい気持ちがいくばくか和らげられる人もいるだろう。(決して盗用の肯定ではないことは補足しておく。)

「自分は〜である」とその反対の「他者は〜である」というアイデンティティ画定の呪縛を解除し、絶えず混交状態を生きている私たちの生の実態をむしろ見つめましょう。そのことを教えてくれるのもブラック・カルチャーです。ブラック・カルチャーが植民者の文化を受容し、何世代もの創意と工夫によって自文化をつくりあげてきたように、私たち一人ひとりもまた、日本語をはじめとする文化を共有しながらも、世界のさまざまな文化にかかわり、ときに他者の文化を自己の属性に変えながら、生きています。

 「ブラック・カルチャー」とはなっているが、音楽が一番フォーカスされているテーマである。奴隷制によりアフリカの各民族が分断され、奴隷としてアメリカスで過酷な労働に従事する中で、なんとか伝承されてきたのは、口頭伝承だからこそ。文字に残されなかったがゆえのニュアンスがメロディやリズムに息づき、その揺らぎがブラック・ミュージックのグルーヴを生んでいる。今ではポップミュージックにも大きく浸透し、多くの人々を惹きつけてやまない。文字の記録こそ進んだ文明の証とされがちだが、必ずしもそうではないことを示している点も興味深い。

西洋音楽が楽譜に書いた理論を再現するという抽象的世界から出発するのに対し、アメリカスの奴隷制社会から生まれた音楽は、奏でられる音を聴き、真似て覚えるという個別・具体的世界から生まれてきた現実と無関係ではないはずです。

 世の中では「新しさ」が重視され、斬新であることが称揚されがちだが、本当にそうだろうか。著者はブラック・ミュージックの性質を思想家のアミリ・バラカンの概念を用いつつ「変わりゆく同じもの」だと主張している。単純に「新しい」というだけではなく、その未来は過去から生み出されている。ヒップホップのサンプリングはまさに最たるものだろう。偶然なのか、この「変わりゆく同じもの」をテーマにした日本語ラップの曲を思い出して久しぶりに聞いた。懐かしい…!

 新書とは思えないほど広範な議論が展開、紹介されており、ここで紹介したのはほんの一部だ。「ブラック・ミュージック」好きの方は、ぜひ読んでほしい一冊。

2025年9月24日水曜日

THE VIBES OF RIP SLYME vol.1

THE VIBES OF RIP SLYME vol.1/ゴウロクケンジロウ

 一年間の期間限定とはいえ、久々に五人で再始動したRIP SLYME。そんな復帰の話題で盛り上がるなか登場したのが、このRIP SLYMEのZINEだ。RIP SLYMEは、日本語ラップを好きになるきっかけとなったアーティストであり、多くのアラサー、アラフォーにとって特別な存在だろう。この復帰タイミングで、単純なファンジンの領域を大きく飛び越えた決定版ともいえるアーティスト本がリリースされたことに読み終えて感謝した。

 本著はvol.1と銘打たれており、1994年〜2004年までのキャリアを総括する内容になっている。自分は「雑念エンターテイメント」のシングルから聞き始めたので、インディー時代の活動はほとんど知らなかったが、本著ではその点も徹底的に掘り下げられている。インターネットで容易に情報が拾えない時代の雑誌やラジオといった一次資料を丁寧に参照しており、著者の足で稼いだ情報から熱意が伝わってきた。

 ジャーナリストよろしく、カジュアルな ファンにとっての空白の時間を埋めてくれている。メンバー各自のバックグラウンドや、加入するタイミングがこんなにバラバラだったなんて知らなかったし、当時のシーンにおける評価を知ることができる点が興味深い。90年代の日本語ラップが語られる際、彼らはほぼ抜け落ちる対象なので貴重である。特に宇多丸、Zeebra、Dev Largeらによる言及から、彼らのポジションが伝わってきた。Dev LargeがRIP SLYME を評価していた件として、ナイトフライトのコメントが参照されていたが、後年コンピレーションCDの『Mellow Madness』に「白日」が選曲されていたことも個人的には印象的な出来事であった。

 本著の魅力は、前述したような「日本語ラップ」の切り口と「ラップ歌謡」の切り口の両面から紐解いている点が挙げられる。ラップ歌謡の切り口でいえば、当時のオリコンチャートの数字がとても興味深い。子どものころに理解できていなかった数字の意味がわかるので、いかに RIP SLYME がラップ歌謡でJポップフィールドをサバイブしていたか、よく理解できた。今では武道館公演を行う日本語ラップのアーティストはたくさんいるが、彼らは全盛期、一年に五回も武道館でライブをやっていたことがあったり、さらには五万人スケールのライブまでも行っており、今の日本語ラップバブルのスケールと比較しても、稀有なアーティストであることが数字から明らかにされていた。

 楽曲分析もかなり丁寧に行われており、サウンドとリリック双方から分析されている。現在の日本語ラップに関する批評および語りは、どちらか片方に偏っているケースが多いわけだが、本著ではシングルCDが売れていた背景もあり、一曲一曲の重みが大きかった時代ゆえの情報が整理されていた。なんならCDジャケットのデザインまで深掘りしていて驚いた。近年、プレイヤーサイドからの情報開示が進んでいる点も大きく、特にRYO-Z、FUMIYAを中心に昔語りが進んだことで本著の情報量は肉厚になっている。元の動画を見ればいいのだろうが、こうやって体系的に整理してもらうことで全体像が理解しやすくなっており、素晴らしい仕事だ。

 逆説的で申し訳ないのだが、こうした分析から自分がRIP SLYMEを当時そこまで好きになれなかった理由も見えてきた。それはビートのBPMとジャンル性である。RIP SLYME はとにかく速いBPMと、非ヒップホップ的な音色の数々が特徴的だった。日本のマーケットはBPM が早くなければ人気がでない兆候は現在も続いているが、それに応じた采配だったのだろう。(Creepy Nutsもその呪いの下にいると言える。)また、『MASTERPIECE』におけるビートルズオマージュもヒップホップとは別のベクトルであり、マス受けを目指していたことがよくわかる分析で大変興味深かった。今、各アルバムを聞き返してみると、自分が好きなテイストの曲はたくさんあるわけだが、当時の私は、キングギドラ「公開処刑」の影響もあり、よりドープなもの、BPMが遅いものを追い求めていたがゆえに好きになれなかったのだなと改めて納得した。

 全体的にはジャーナリスティックな筆致だが、たまに垣間見える著者のRIP SLYMEに対する思いや当時の思い出が、本著をスペシャルなものにしている。これこそファンジンの魅力であり、出版社やアーティスト自身によるムック本とは異なる点だ。なかでも『TOKYO CLASSIC』を聞くシーンは全く同じ経験があったかと錯覚してしまうほど具体的な描写に相当グッときた。

 インターネット以後は追体験しやすい環境が整い、当時の状況を知らない世代が、主観的視点で書いたり、語っている場面を見かけることがある。しかし、著者は自身とRIP SLYMEの距離をしっかりと設定していて、主観と客観を明確にしてくれているので、その点もヒップホップ的に「リアル」だと感じた。

 RIP SLYMEとポリコレの関係も、当人たちは触れにくいことなので、ファンジンならではといえる。SMAPとの対比で描いていく展開が見事だった。具体的なことでいえば、t.A.T.uのMステ事件にRIP SLYMEが間接的に関与していたなんて知らなかった。ただ、その延長線で考えると、直近のMAGAオマージュ騒動が腑に落ちた。90年代サブカルに代表される露悪的ユーモアは軒並みキャンセルされている現代において、彼らのイタズラ心はそのポピュラリティに反比例するように理解されにくい。ラッパーである以上、もっとリリカルな形で表現として昇華すれば、それはアートとして受け止められるのではないかと感じた。

 今回の復帰前のRIP SLYMEに対するイメージは、地に落ちていたと言っても過言ではない。著者はその汚名を返上するべく、彼らが成し遂げた仕事の偉大さを体系的にアーカイブする気持ちで書き始めたそうだ。そして、このタイミングでRIP SLYMEが奇跡の復活を成し遂げたのは、著者の他の追随を許さないハードワークに対する神の恵みのようだ。Vol.2も首を長くして待ちたい。

2025年9月20日土曜日

5lack「そのさきのはなし」


 5lackが彼の地元である板橋でワンマンライブを行うと知り行ってきた。チケット代が7500円で、ホールとはいえ少し割高…と購入時は思っていたのだが、実際の公演は余裕でお釣りがくる、安すぎるとすら思わされる充実したショーケースだった。日本語ラップにおける「孤高の天才」というイメージがあるが、この日は「天才には天才が引き寄せられる」言い換えるなら、羊(G.O.A.T.)が群れるように集まった豪華な布陣に魅了されたライブだった。

 「五つノ綴り」のイントロが流れてライブがスタート。ステージ横から5lackと思しきマスクマンが登場して歌い始める。その後、暗転し、今度はステージ上に聖歌隊が円陣を組み、同じく「五つノ綴り」をゴスペルとして歌い上げる。それが終わると、バックDJを務めるWatter、ラッパーのGapperたちが板橋を徘徊するコント映像がスクリーンに流れて「集合場所は高架下!」の合図で本編が始まった。5lackは、サングラスをかけ、シャツインのネクタイ姿で登場し、最新EP『Turnover』から「高架下」を披露。さらにステージ脇にはドラマーのmabanuaが控え、半生バンドの演奏と5lackのラップが融合、その相性はバッチリだった。このように冒頭からギミックが山盛りでワンマンライブならではの味わいがあった。

 「563」を含め数曲、半生バンドで披露したのち、続く「Change up」では、盟友ISSUGIが早々に登場。二人のコンビネーションの特別さを再確認した。そして「Change up」の2000年代バイブスを引き継ぎながら「近未来200X」へ。往年のファレルのスタイルを思いっきりオマージュしたビートで大好きな曲だ。ここではGAPPERが登場、さらに曲終盤の5lackが歌い上げるパートでは、風を使った演出があり、そのくだらなさにいい意味で肩の力が抜けているように感じられた。ギターつながりでSILENT POETSとの「東京」も披露。もともと東京五輪のキャンペーン向けの曲だったが、地元をレペゼンするライブの定番曲となっていて時の流れを感じた。

 そこから「俺の長いキャリアはBudamunkなしには語れない」というMCと共にBudamunkプロデュース曲のパートがスタート。「Betterfly」「Life a」など、Budamunkの独特のグルーヴのビートが、ホールに鳴り響く様は圧巻だった。最後には本人も登場し、5lackと共にステージを一旦退場。

 インターバルはGAPPERが担当。「HOTEL@GAPARINA」を披露したのち、お笑い芸人の営業さながら場を繋ぎ始めて場内はざわついていた。Good old daysな話として、彼らが若手の頃、近くのリハスタで練習していたこと、このホールの前でたむろしてたことなど、地元ならではの空気を精一杯伝えてくれていた。最後に披露した「Assquake」では、客演のDaichi Yamamotoがまさかの登場で、さらに場内騒然。Daichi Yamamotoのラップを初めて見たのだが、ラップのうまさから身のこなし、何から何まで演者としてかっこよすぎたのでワンマンライブに行きたくなった。

 後半は、トレードマークの読売ジャイアンツのベースボールキャップをかぶったB-BOYスタイルで再登場。後半冒頭で、いろんな曲のメドレーがかかったのだけど、そこで『情』に収録されていた「朝の4時帰宅」がかかってビビった。そんな前振りののち、ステージ上にLEDによる星、天の川のようなものまで浮かび上がり披露されたのは「Gaia」そして小袋成彬が登場。彼の声が会場の空気を一変させ、視覚的にも聴覚的にも楽曲の壮大さが表現されていた。これを二人揃って聞ける機会なんてそうないだろうから、この辺で入場料金が高いと一度でも思ったことを本当に反省した。

 この日のハイライトは「But Love」「HPN」の流れだった。「But Love」では、オリジナルのビートではなく、ピアノソロの上で5lackがスピットしていく。このアルバムを一番聞いていたのは東大日本大震災直後の頃で、あの頃のなんともいえない閉塞感、自分の人生のうまくいかなさなどを思い起こさせる、彼のラップの生々しさに思わず涙してしまった。その後、暗転された中、ステージにスタンドマイクがセットされて、JJJとの「HPN」が流れ始め、暗転したままJJJのバースが流れ続ける。ここで浮かび上がるのは、JJJの圧倒的な不在である。POP YOURS、the light tourなど、JJJがまるでいるかのように振る舞うことで、彼のこれまでのキャリアに敬意を表したわけだが、5lackはそれらとは全く別のアプローチを取り、彼なりに喪に服したのだった。そもそも「HPN」は人生で起こる想定外の事態を歌った曲であり、リリース時はFebbの急逝を憂いたものだった。実際、2018年のリキッドルームの5lackのワンマンライブではJJJ、そしてKid fresinoも登場して、ライブ中にFebbに思いを寄せていた。それから7年後の現在、JJJの不在を可視化され、死の現実を目の前に提示されたようで涙が止まらなくなってしまった。その後、用意されたスタンドマイクを使って歌い上げるのは「進針」この流れで聞くと、意味合いが深まって聞こえる曲で素晴らしかった。

 往年の名曲「NEXT」「Girl if you」「Hot cake」「適当」も披露されていた。この辺りは無条件でブチ上がらざるを得ない青春の名曲の数々であり、本人も言っていたが、リリースから十数年経つのに古びていないし、若い子たちにも聞かれていることが会場の合唱からも伝わってきた。やはりサンプリングビートだからこそのエバーグリーンな魅力があるのだろう。

 「キャリアが長くなってきたけど、まだまだ欲望はあるよ、その大きさは5XLくらいかな?」のMCとともに「5XL」が始まり、まさかのLEX降臨!先ほどのDaichi Yamamoto然り、初めてライブで見たのだが、カリスマがステージからビシバシ発せられており、日本語ラップのライブにおいて、この手のカリスマを感じることがあるのかと心底驚いた。そして、肝心のラップも独特のボーカリゼーションが「マジでスター!」としかいいようがないい、いい意味での自由さに溢れていて、若者たちが熱狂する理由がよく理解できた。LEXがパフォーマンスのあいだ、ずっと手をポケットに入れていて、何なのかなと思ったら、5LACKのバースに ”考えてるふりしてるだけ 手を入れるポケット” オマージュだったことに気づく。いいやつすぎる。そして、この曲の会場での合唱率が異様に高く、お客さんが若返りしていることにも気付かされた。

 続く、Kojoeとの「Feelin29」では、ベテランならではのスタイルウォーズを見せつけていた。Kojoeのマイクが最初入ってなくて、一瞬ざわっとしたのだが、歌っている本人が全く動じてなくて、ミスをミスに見せないプロの業を見た。

 この日はアフターパーティーとして「Weeken’」が予定されており、ラインアップの紹介を経たのちに「Weekend」をmabanuaを再度召喚して半生バンドで。この曲のアートワークのとおりビートの持つお祭り的なノリが生のドラムでさらに加速していて、会場がぐわんぐわん揺れていた。最後に白い円盤シリーズ「39 hour」で一旦締め。

 そのあと、アンコールでは冒頭に登場したマスク姿で5LACKが登場…と思いきや、それはPUNPEEだったというまさかの展開から兄弟ソング「Wonder Wall」へ。この日はいろんな客演があったわけだが、他のアーティストとは異なる二人の信頼感がステージングから伝わってきた。そして、ここにGAPPERが加わって、まさかのPSG!「M.O.S.I」「神様」はメドレーで、PUNPEEのアルバム収録「Stray Bullets」名曲「愛してます」がフルバージョンで披露。三人でラップする姿を見ていて、PSGがそのまま活動していたら、どうなっていたのだろう?と一瞬考えたのだが、PUNPEEと5lackという天才兄弟が別ベクトルで活動した結果、日本語ラップの未来の裾野が大きくなった世界線に我々は生きていることに一周回って感謝した。大ラスは再度白い円盤シリーズより「こうして夜空を眺めて」で大団円。

 直近のEPでは、キャリア初期の「適当」「ミュージックのみ」といったアプローチよりも、サッカーMCものが意外に多い。それは『5XL』リリース時のインタビューからも明らかなとおり、日本のヒップホップ市場が大きくなっていく中で、ラップ、歌、ビートといった「スキル」のコンペティションだったはずのヒップホップが歪められていることに苦い思いをしてるからだろう。そんな状況で、この日のライブはスキルフルで、ちゃんとライブ用にボーカルなしのビートの上で自らのラップスキルを誇示し、彼がいかにかっこいいラッパーなのかを明確に示すものであったし、ショウケースとしても素晴らしかった。(非常に細かい話だが、ライブ中にほとんど水を飲まないことにも日々の鍛錬を垣間見た。)

 1987年生まれとはいえ早咲きの天才は、すでにベテランの領域に差し掛かっており、今後どんな音楽を紡ぎ出すのか、これからも見守っていきたい。とか書いていたら、日付変わって、ニューアルバム『花里舞』がリリース!ライブを新譜のプロモーションのチャンスとしない天邪鬼っぷりこそが、5lackというラッパーの魅力を最も表しているかもしれない。

 そして、何気なくアルバムのプロデューサー陣を見ていたら、見慣れないKid Hazelという名前がありググってみると、21 savageも手がけるUSトッププロデューサーだった。こんなサプライズを含め、ライブのタイトルどおり「そのさき」の景色を見せてくれそうなアルバムなので、ライブの余韻に浸りながら楽しみたい。

2025年9月18日木曜日

ディック・ブルーナ ぼくのこと、ミッフィーのこと

ディック・ブルーナ ぼくのこと、ミッフィーのこと

 子どもがいつからかミッフィーのことを好きになった。二歳ごろから好きな気持ちが顕著になり、絵本を読んだり、アニメを見たり、フィギュアでごっこ遊びをしている。図書館に絵本をよく借りにいくのだが、最近は自分で探してきてしばらく眺めていることも多く、こちらが手持ち無沙汰になる。そんなとき、子ども本のフロアにある「絵本・児童書研究」といった大人向けの棚を見ることが習慣になり、そこで本著を見つけてオモシロそうと思い読んだ。ちょうどZINEの仕上げを進める中で、クリエティビティに煮詰まっていたのだが、光明が差すようなクリエイティブ論に救われた。また、ミッフィーに関する知らなかった情報がたくさん載っていて、そちらも興味深かった。

 日本に来日したブルーナ氏にインタビューした内容がまとまった一冊となっている。一問一答形式で、彼自身の人生を振り返りつつ、ミッフィー制作の裏話が数多く明かされている。

冒頭で家族との関係性について問われ、パートナーに真っ先に作品を見せると話していた。その理由は「作品がひとりよがりになっていないだろうか?」という不安からだという。終盤にも同じようなクリエイティブ論があり、特に次の言葉に心を打たれた。

どれだけ描いても、慣れた仕事であっても、その出来ばえに謙虚になることは、創作活動に必要です。

作品のスタイルは自然に生まれてくるものではなく、探し求めるものです。(中略)スタイルの探求というのは、絶えず発展していくプロセスなのです。今もそのプロセスの途中にいると思っています。

自分は自分を客観的に見ることはできません。だから、ぼくには作品を正直に評価してくれる、信頼できる批評家が必要なのです。

 第二次大戦の戦火はオランダにも及んでおり、その経験から「やりたいことで生きていく」と決意した話は、平和な時代を生きる私たちには想像もつかない。彼のキャリアも順風満帆とは言い難く、はじめはアーティストとして生きていくことを親に反対され、父親の会社である出版社でデザイナーとしてキャリアをスタート。膨大な仕事量をこなしながら、絵本をサイドビジネスとしてコツコツ続けていた。このあたりは、自分が会社員しながらZINEを制作していることにも重なった。結局、父親の会社を退職して自立したのは48歳らしく、相当遅咲きであるが、会社員として鍛えられた結果、自分のスタイルを見つけることができたらしい。

 ミッフィのビハインド・ザ・ストーリーについて、本人の口から聞けた点では貴重なインタビューである。普段読んでいる絵本の裏側を知る機会はなかなかなく、特に日本で出版された本書に収録されているエピソードとして、『ボリスとあおいかさ』が東京のホテル滞在中に、傘をさして風に煽られている人々を見て思いついた話は印象的だ。他にも『うさこちゃんのにゅういん』『うさこちゃん ひこうきにのる』の誕生エピソードが具体的に語られており興味深かった。

 また、茶色のうさぎであるメラニーの誕生秘話も興味深かった。読み聞かせのために小学校に訪れると、肌の色が異なるさまざまな子どもがいることがきっかけだったらしく、そのアクチュアルな感性に驚きつつ、私自身は子どもが色で区別してしまう難しさに直面している。子どもに色で区別するこの是非について逐次説明しているのだが、果たしてどこまで伝わっているのか。

 デザインの観点でいえば、シンプル・イズ・ベストだと信じてやまないスタンス。いかに削ぎ落として本質だけ抽出できるかに尽力していたか、インタビューから伝わってきた。他にもデザイン論についてはたくさん話していて、たとえば、ミッフィーの絵本が正方形なのは、子どもが持ちやすいようにしているとのこと。実際にうちにある絵本で、子どもが手に持って自ら読んでいるのはミッフィーの本が多いので、まさしくデザインの勝利だ。

 使う色についてもブルーナ氏が厳密に決めていたことがよくわかる。しかし、日本で展開されるミッフィー関連商品の中には、その色味を無視したものも多く見受けられる。「権利を購入したのだから自由でいい」という発想は、ブルーナ氏、ひいてはミッフィーそのものへのリスペクトに欠けるのではないかと思ってしまった。

 ミッフィーたちは体が横を向いていても、顔は正面を向いている。これは、子どもたちのまっすぐな目に応えようとブルーナ氏が思ったからとのことで、とにかく絵本を読む子どものことを何よりも大切に考えていることがわかるエピソードだ。絵本の世界の奥深さを堪能できる一冊だった。

子どもにとって絵本は世界を広げてくれるもの。絵を見たり読んだりして心に響くものがあるから、自由にイマジネーションをふくらませることができるし、その先にある何かに気づいたり、自分もやってみたい気分になったりするのです。子どものための絵本は、そういうことが大事なんです。

2025年9月17日水曜日

砂漠の教室: イスラエル通信

砂漠の教室: イスラエル通信/藤本和子

 先日読んだ『音盤の来歴』で、著者の別作品に関する言及があり、積んであった本著を読んだ。これまで何作か著者の本を読んできたが、その中でも骨太な一冊だった。紀行エッセイとしてオモシロいのはさることながら、イスラエル、ユダヤ人に対する価値観が克明に書かれていて興味深かった。

 タイトルの「砂漠の教室」とは、ヘブライ語を学習するために訪れたイスラエルの語学学校のことであり、著者がイスラエルで過ごした期間に書かれたエッセイが中心となって構成されている。過去作同様に著者の観察眼は冴え渡り、教室にいる生徒や先生たちのユニークな雰囲気がふんだんに伝わってくる。時代は70年代であり、第二次世界大戦の余波がまだまだある中で、ユダヤ人たちの立場の脆さや、イスラエルという国をなんとか理解しようとストラグルしている。検索、さらにはAIに尋ねたりと、知らないことを学ぶ上で、現代ではたくさんのアプローチがある。しかし、当時、生きた情報を得ようと思えば、現場に直接訪ねることがもっとも確実だったのだろう。だからといって、夫婦二人でいきなりイスラエル行ってヘブライ語を学ぶなんて、相当トリッキーではある。

 特に心をつかまれたのは「イスラエル・スケッチ」と呼ばれる章だ。銀行員との会話、兵士のヒッチハイク(花と銃の対比!)、ベドウィン、イスラエルの料理など、イスラエルで暮らす人たちの生活がまさにスケッチされるかのように微に入り細に入り描かれていた。特に今回は料理にフォーカスしていて、なかでも「悪夢のシュニツェル」では、イメージする中東料理が裏切られていき、イスラエルと欧州の関係性のねじれを料理をアナロジーにしてズバッと表現していて見事だった。

 エッセイにとどまらない思索が載っている点も本著の特徴だろう。具体的には、最後にある「なぜヘブライ語だったのか」「おぼえがきのようなもの」という章だ。ここではイスラエル、ユダヤ人を著者がどのように捉えているか、言葉を尽くして書かれている。イスラエル、パレスチナの問題は日本から距離もあり、直接関係するわけでもないため、どうしても他人事に映ってしまうのが現状だろう。しかし、著者はユダヤ人と朝鮮人をディアスポラとしてオーバーラップさせ、イスラエル・パレスチナ問題について、私たちが他人事でいれるわけがないのだと喝破していた。

 当時のイスラエルと2025年の今のイスラエルでは状況が異なり、ユダヤ人の不遇に思いを寄せることは今は難しい状況ではある。ただ、そんな中でも突き刺さる言葉はいくつもあった。

わたしは人間が人間に対してこれまでに行ってきた残虐行為の詳細な内容を知ることでは、もはやわたしたちの思想を力強いものにすることはできないと感じた。(中略)残虐、血、殺戮、死は茶の間でも日常茶飯事となり、わたしたちの感覚はしびれきって、持続しない、もろい「一般的な怒りの気持」としてあるだけで、結晶しない。正義の言葉のように思える言葉の一つ一つは、歴史に汚され、いやしめられ、萎えている。言語の貧困は思想の貧困を丸出しにしている、と思った。

 今日もガザ侵攻のニュースが流れてきて、一体どうすればいいのか、もはやよくわからなくなってきているが、こうやって本を読んで理解を深めることは必要だと感じている。最近、イスラエル擁護の視点を日常生活の中で目撃して、そこで違和感を感じたのは、間違いなく自分で能動的に情報を取得しているからだ。自分の違和感を少しでも伝えていくしかないのかなと思う。

2025年9月11日木曜日

音盤の来歴: 針を落とす日々

音盤の来歴: 針を落とす日々/榎本空

 『それで君の声はどこにあるんだ?』の著者による音楽を主題としたエッセイ集。前作はかなり好きな一冊だったが、本著も自分にとって特別な一冊になった。レコードを買うこと、聞くこと、さらには音楽を聞くこと全体を通じて、これだけの話を書ける著者の筆力に改めて感服した。そして、月並みながら「やっぱりレコードっていいなぁ」という思いを新たにした。

 レコードさながらSide A、Side Bという形で構成されており、Side Aではレコードをめぐるエッセイ、Side Bではより広く音楽と人生に関するエッセイとなっている。著者はアメリカに移住してから本格的にレコード蒐集を趣味として始めたようで、買ったレコードに関するエピソードがSide Aでは展開されていた。レコードに関する読み物は色々あるが、一枚のレコードに付随して、これだけパーソナルな出来事が言語化されている文章に巡り合うことはなかなかない。さらに、レコードを買ったミュージシャンのライブレポも興味深く、栄枯盛衰な音楽の世界で、それぞれのアーティストがキャリアを重ねながら、自分なりの表現を貫いている様に「アメリカ」を感じたのであった。レコードとライブを通じて、アーティストの今昔を貫いていくような構成はまさに「音盤の来歴」というタイトルがふさわしい。

 著者が若い頃からレコード好きというわけではなく、比較的最近好きになったからこそ、レコードに対するみずみずしい感情が表現されていて、レコード愛を取り戻させてくれる。レコードで音楽を聞く行為は、日常においてスペシャルな瞬間なのである。また、レコード蒐集家であれば、皆が抱いたことのある、中古レコードがもっている強烈な磁場のようなものが、著者の言葉で見事に言語化されていた。誰かがレコードという塩化ビニルの円盤に音を記録して、誰かがそれを聞く。そして、様々な人のもとを経て、自分の家のレコード棚にある奇跡を本著は感じさせてくれる。

 ストリーミング時代においては、言及されている音楽をすぐに聞くことが可能であり、聞きながら読むと臨場感が増して、より一層楽しむことができる。本著で取り上げられる70年代のロック、ソウル、ジャズといった音楽の数々は、読まないと出会うことがなかっただろう作品ばか。特に最初のエピソードに登場するアラン・トゥーサンとの出会いは大きな収穫であった。

 Side Bにかけては「音楽と人生」とでもいうべきエッセイとなっている。自分の人生において重要な存在だったものの、今わざわざ連絡して会おうとは思わない。誰しもそんな人がいると思うが、そこに音楽というファクターが加わるだけで、どうしてこんなにスペシャルでノスタルジックなものになるのだろうか。タイムレスな魅力を持つ音楽が、記憶と結びつくことで輝きがさらに増す、つまり、その音楽がその人固有のものになるからなのか、と考えさせられた。

 著者のオリジナリティがもっとも発揮されているのは「レコードにまつわる抜き書きのアーカイヴ、あるいは百年目のボールドウィンへ」という章だろう。アフリカ系アメリカンの作家たちを縦横無尽に引用しながら、レコードを絡めつつ思考が広がっていく様は圧巻。特にボールドウィンの引用は前作にも増して行われており、いつか読みたいなと思っていた気持ちを強く後押しされた。ボールドウィンのレコード棚にあった音楽が、ストリーミングのプレイリストで聴けることの味気なさの話も興味深かった。何を聞いていたかも大事ではあるが、それよりもボールドウィンと音楽のあいだにあった「痕跡」こそを私たちは求めているのだという指摘は、データ至上主義の今、新鮮に映った。

 終盤にはイスラエルとパレスチナの戦争に対して胸を痛めている話があった。ちょうどこの戦争の受け止め方でモヤモヤしていたタイミングだったので、著者のまっすぐな懸念に溜飲を下げた。この言葉を胸に刻んでおきたい。藤本和子の『砂漠の教室』をちょうど家に積んでいたので、次はそれを読む。

遠くの地の虐殺を止めろと叫ぶことと、子どもたちが走り回る部屋でレコードを聴くこと(もちろんそれはレコードじゃなくたって、音楽じゃなくたっていいのだけど)、これらは二者択一ではなくて、どちらも生きるという営為の大切な一部であり、しかもきっとどこかで繋がっている。


2025年9月8日月曜日

ビルボードジャパンの挑戦 ヒットチャート解体新書

ビルボードジャパンの挑戦 ヒットチャート解体新書/磯崎誠二

 『本の惑星』というポッドキャストで著者がゲスト出演していたエピソードを聞いて、著作がオモシロそうだったので読んだ。番組内ではビルボードジャパンが「本のヒットチャート」を構想している話が出ていたが、本著では音楽チャートについて詳細に解説されている。これまで考えたこともない視点の連続で、普段あまりチャートアクションを見て音楽を聞くタイプではないものの、思わずチャートを眺めたくなった。

 アラフォーの私にとっては、音楽のチャートといえばオリコンだが、それはCDが売れに売れた時代の話だ。いまやCDはアイドルカルチャーを中心とした「複数枚購入機会生成装置」と化してしおり、その売上枚数は世間的流行の物差しにはなりにくい。その代わりに存在感を増しているのが、ストリーミングや動画、カラオケ、CDなど複数の指標を総合するビルボードチャートである。本著は、そのビルボードチャートの立ち上げから携わってきた著者が、設立までの過程、運用の状況から実際のデータ分析まで「チャートとは何か?」「チャートから何がわかるか?」を丁寧に解き明かしてくれている。

 今や当たり前に存在するビルボードチャートだが、その設立までの紆余曲折の過程が詳細に書かれていた。本家USビルボードのロジックをそのまま持ってきているだけかと思いきや、USサイドはあくまでアドバイザー的立場でしかなく、日本サイドでロジック構築、チューニングしていることに驚いた。ガラパゴス的とも言われる日本の音楽産業は、配信解禁の遅れなどステイクホルダーの思惑に左右されており、今となっては、ストリーミングがほぼ全面開放ではあるものの、それが数年遅れたことによるインパクトの大きさについて、チャートを作る立場から憂いていた。既得権益がその構造を維持したがる態度は、音楽業界に限らず、日本全体の風習とも言えるわけだが、それを一つずつ打破して今のビルボードチャートがある。合間合間にある著者の過去のエピソードを読む度に、同じサラリーマンとして胸が打たれるものがあった。

 後半は実際のアーティストのデータ分析に踏み込んでいる。アーティストファンダム、楽曲ファンダムという大きく二つのタイプで分けて、各アーティストの過去、現在をあぶり出していく様に、音楽に対しても想像以上にデータ分析の波が押し寄せている現実を改めて突きつけられた。最近、ツイッターでYOASOBIの地方巡業について話題になっていたが、なぜ彼らがそういったアプローチをしているのか、本著に答えが載っている。また、ストリーミングの台頭によってCD販売で見えなかった過去曲の聞かれ方も分析対象となっている点も興味深かった。手元の資産を有効活用して利益を最大化していくにはどうすればいいかデータが教えてくれる、というのはデータ分析の基本であり醍醐味だが、それをふんだんに味わうことができる。特に著者はビルボードの最大の特徴である複数指標を重視しており、単純な実数だけではない考察も含めて興味深かった。

 「音楽はアートだ」といってもやはりトップアーティストになれば、アーティストは商材であり、その商材で会社、ひいては多くの人を支えなければならない。素晴らしい音楽を作ることがアーティストの役目であれば、それを最大化するには、データを軸とした細かいマーケティングが必要であることがよく理解できた。

 著者が、音楽ジャーナリストの柴 那典と、BMSG社長のSKY-HIとそれぞれ対談した内容も載っており、それらもオモシロかった。前者では音楽業界全体の構造、後者ではアイドルカルチャーとチャートについて深堀りされている。特にSKY-HIは自身がアイドル産業の当事者だった時代を経て、今度は自分がオーナーになってアイドルを売り出す側になった唯一無二な存在である。2020年代になっても、アイドルカルチャーにおいては、特典商法を通じてCDを尋常じゃない数(数10万〜100万!)を売っている事実に驚いたし、それに対してレコード会社と自分たちの双方がウィンウィンになるような打開策を検討してるあたりにビジネスマンとしての手腕を垣間見た。

 ビルボードチャートだけではなく、Spotifyのバイラルヒットチャートなど、いつの時代もチャートの存在が、世のトレンドを作っていることは否定できない。そして、今の時代は以前よりもメジャー、インディペンデントの垣根なく、素晴らしいものを作れば、忖度抜きでダイレクトにチャートインされ、広がっていく素晴らしい時代である。チャートにあるからといって、その音楽を好んで聞くわけではないが、それでも、相対化された「いま」を映し出す指標としての存在意義は大きい。音楽とデータが好きな人には間違いなくおすすめできる一冊だった。

2025年9月4日木曜日

小名浜ピープルズ

小名浜ピープルズ/小松理虔

 坂内拓氏による美しい装画に惹かれて読んでみた。東日本大震災から14年が経過し、時の流れの早さを実感する一方で、福島県ではまだまだ「災後」という現実が存在している。そして、日本に住んでいるかぎりは常に「災前」とも言える状況にあり、その「災間」に生きる我々がどのように災害と向き合って生きていくのか、たくさんの視座に溢れていた。

 タイトルどおり、著者のふるさとであり、今も住んでいる福島県小名浜を中心に、さまざまな人のエピソードおよび著者の思索で構成されたエッセイ集。冒頭の「はじめに」でまず心を掴まれた。それは著者の造語であり、本著のメインテーマでもある「共事者」という言葉に出会ったからだ。

中途半端であることそれ自体に意味があるはずだし、当事者でも専門家でもないからこそ果たせる役割だってあるんじゃないか。そう考えられるようになって、ぼくは「わたしの震災」を語っていいんだ、そうやって自分の立場から語っていかないと震災や原発事故の影響だってわからないじゃないかと思うようになった。そのプロセスで「共事者」なんて言葉が自分のなかから生まれた。共事者とは中途半端な人たちのことだ。自分自身の中途半端さに意味を見出したくて、つまり自分をなんとか勇気づけたくて出てきた言葉だった。

 インターネット、SNSの台頭により、誰もが発信できるようになった時代、災害に限らずあらゆる場面で「当事者」性が求められる。外野のヤジは聞くに値しないこともあるが、「非当事者」だからこそ語れることがあるのではないか。それは自分がブログやポッドキャストで試みていることそのものだ。著者の「共事者」という言葉は、自分のアプローチに名前を与えてもらったように感じたのだった。

 各章ごとに著者にゆかりのある「ピープルズ」が紹介されながら、その人のバックグラウンドや会話のやりとりを紹介しつつ、著者の思索が丁寧に描かれている。著名な人というわけではなく、福島に暮らし、自分なりにストラグルしている方々のリアルな姿は、エスノグラフィーのような魅力に溢れていた。自分が勝手に抱いていた被災後の実情や被災者像といったものを、読んでいる間にことごとく塗り替えられた。これこそが最大の魅力だ。押し付けの「復興」がどうしてワークしないのか、本著はその答えにもなっていると言える。

 印象に残ったエピソードを挙げればキリがない。例えば、原発処理水の放出をめぐる漁業の話では、補償があれば安心なのかと思いきや、その補償が結果的に下駄を履かせてもらうような形になり、純粋な商売として競争ができない。商品の魅力そのものを伝えたいという思いが、補償によって逆に歪められてしまうもどかしさにハッとさせられた。

 また、旅館の一角に設けられた「考証館」の話も興味深かった。旅館の一角に設けられた考証館では、津波で亡くなった子どもの遺品が展示されており、触れることまで許されている。その場所と国が用意した伝承館を対比しつつ、原発事故を経験した人たちによる新たなまちづくりに関する議論は、現場ならではのものだ。そして、遺族の方の今なお続く捜索活動へと繋がっていく流れは、災後は終わらないことを痛感させられた。

 さらに、原発事故後、立ち入りが禁じられた双葉高校に当時の高校生と共に訪問するシーンは本著のハイライトと言えるだろう。被災したことの辛い現実よりも、母校を訪問したときに誰でもが抱くシンプルに懐かしい気持ちが上回る。若い人たちのそんな率直な感情の動きに驚いた。

 終盤、著者が子どもと原発伝承館を訪ねる場面がある。そこで重ねられる何気ないやりとりの中で、子どもが発する真理と思えてしまう言葉の数々。「怒り」ではなく「悲しい」という感情が、被害者と加害者の境界線が曖昧にさせ、安易な二項対立ではないと著者が気づいていく。そして原発の無責任性に対して、子どもが発する「伝承」することへの意思表示。いくらビッグバジェットで豪華な施設を用意しても、最終的には人間の意思が重要なのだという対比にグッときた。

 時間が経つほど、過去の災害に関する情報は届きにくくなる。だからこそ、風化しない媒体としての本に託される意味は大きい。本著は単なる当事者語りを超え、非当事者の心の持ち様にもフォーカスしている。読むことで、自分自身が「共事者」として何ができるのか考えさせられる一冊だった。

2025年9月2日火曜日

FANMADE ARCHIVE ICE BAHN

FANMADE ARCHIVE ICE BAHN

 日本語ラップの盛り上がりと共にファンベースが拡大し、それに呼応するようにファンZINEも増えている。手前味噌ながら自分でも作成したし、このブログで紹介したマルリナさんのライブレポZINEも素晴らしいものだったし、今はRIPSLYMEのZINEが話題となっている。そんな中でnoteで見つけたのが、ICE BAHNのZINEだった。コンビニ印刷できるとのことだったので、すぐに印刷して読んだのだが、想像以上に愛情のこもった一冊だった。

 著者の説明によると、本著はnoteでまとめていた内容を、改めて冊子の形に起こしたものとなっている。「資料集」と名付けられているとおり、ICE BAHNのこれまでの活動を確認することができる。ディスコグラフィーは、活動初期の楽曲や客演曲まで含めて網羅されている。また、ディスコグラフィーだけではなく、ライブ映像、MCバトルといった活動まで記録されており、なおかつその記録の粒度が高く、情報の質と量に圧倒された。

 特に印象的だったのは「ICE BAHNの現在地」から始まる構成だ。横浜ベイスターズへの楽曲提供、JA全農のラジオCM、ヒプノシスマイクへの楽曲参加といった近年の活動を丁寧に解説しており、単なる懐古ではなく、今のICE BAHNにフォーカスしているところに唸らされた。

 近年のフリースタイルブームの一翼を担ったFORKのMCバトルについてまとめられている点が、本著の白眉である。他のメンバーを含めてICE BAHNのMCバトルの戦績が網羅的にまとめられており、勝敗の結果まで丁寧に記録されていることに驚く。そして、稀代のフリースタイラーであるFORKのバトルにおけるバースが一部書き起こしされているのだが、相当読み応えがあった。即興のリリックよりも練られたリリックの方に魅力を感じるので、正直なところMCバトルはそんなに得意ではない。しかし、FORKのバトルでのバースを文字で読むと、そのライミングは即興のレベルを大きく凌駕して、時間をかけて熟成されたバースと同じ味わいがあるのだ。本著のようにまとまった形で読むと、改めてリスペクトが増した。

 2006年のUMBにおける名勝負、HIDA vs FORKについても多角的に深堀りされている。さまざまな資料をリファレンスしながら、当時のバトルがどういう位置付けにあったのかを浮き彫りにしていく様は、ジャーナリズム的アプローチで読み応えがあった。そして今の時代が素晴らしいのは、このテキストを読んだあとにすぐに映像が見れることだ。このパートを読んだあとに、実際のバトルを見ると、自分も歴史の証人になったような気持ちになった。

 巻末のリファレンス一覧に代表されるように、著者は紙媒体やウェブ記事、YouTube、ラジオ、さらには本人への直接取材まで駆使している。情報の裏づけが徹底されており、資料的価値は極めて高い。noteでも読むことができるようだが、やはりこういった読み物の形でまとまって読めるのは大変貴重なものだ。しかも、これは第一弾で続編があるらしいので、次もリリースされればぜひ読みたい。印刷できるのは9/8 AM8:00までらしいので急げ!