2024年7月27日土曜日

我が友、スミス

我が友、スミス/石井夏穂

 黄金比の縁がかなり好きだったので過去作を読んでみた。『黄金比の縁』と同じく一つのテーマを通じてアナロジーを駆使しながら批評しつつエンタメとしてのオモシロさも抜け目なくてんこ盛り。このスタイルは今の時代にぴったりな気がするのでどんどん人気を獲得しそう。もう人気か。

 運動の一環として筋トレしていた女性がある日突然筋トレガチ勢に勧誘されてボディビルの大会に出場するまでを描いた物語。自分自身が微塵も運動していないのでジムで筋トレすることがどういった意味を持つのか、またボディビルの大会とは?など分からないことだらけなのだが、女性×ボディビルという世界を丁寧に描くことで読者を置いていかない。主人公がボディビル初心者という設定も功を奏していた。

 知らない世界について理解が深まる中で独特の風習やムードに悪戦苦闘する姿が読んでいて興味深かった。ボディビルといえばマスキュリンな世界で男性による支配が女性にとって苦しいのかと思いきや実態は真逆で多くの場面で「女性らしさ」が要求されている点に驚いた。主人公は「女性らしさ」と距離をおいた人生だったが、ボディビル大会で結果を出したいという素直な欲望から「女性磨き」へと邁進するのが逆説的でユニークだ。ここで大事なのは筋肉を増やしたいという性別を問わないはずの欲望が結果的に性別の枠へと回収されてしまうこと。これは様々な場面に転用され得る事象と言える。女性が「らしさ」を不必要に要求されてしまう辛さ、それが「らしさ」を獲得するにつれジワジワ伝わってくる。ただトーンとしてはネガティブ一辺倒ではなく美しくなることの喜びもコメディタッチを交えつつ表現されている。それによって抜けの良さが生まれ重くなりすぎないバランスの配慮が伺えた。(たとえば義理の妹含めた家族のシーンなど)

 主人公の女性がボディビルを手取り足取り教えてもらうのだが、そのトレーナーや指導者がすべて女性というのも示唆的だ。男→女の権力勾配を筋肉の世界ではことごとく排除しているにも関わらず性別の枠組みが追いかけてくるかのように場面場面で顔を覗かせてくる。「女性は大変」というその同情めいた態度に中指を立てるかのようなエンディングは痛快だった。

 SNS上での発信内容で自身のキャラクターを脚色していくことと筋トレで部位ごとに鍛えることのアナロジーは言い得て妙でかなりオモシロかった。かかる労力には雲泥の差があるが、いずれも自分をどう見せたいかという点では共通しているという見立てはありそうでなかった気がする。これだけ読者の考え方に影響を与えてくる批評的な眼差しは小説では最近珍しい。なんでもかんでも言われたとおりに見聞き、理解するだけではなく自分で思考を巡らせていくことの大切さを教えてもらった。

2024年7月24日水曜日

しらふで生きる

しらふで生きる/町田康

 新刊でリリースされたときから読みたい思っていたら、いつのまにか文庫化されてて読んだ。町田康の断酒エッセイとなれば一筋縄でいくわけないことは百も承知なわけだが想像の百倍上いく回りくどさが最高だった。正直今の生活で酒を一切断つ未来は一ミリも見えない中でロジックが積み重ねて酒を止めてる未来を想像させてくれる、その屁理屈ぷりにマジでビガ!

 断酒エッセイを読むにあたりまず一番最初に知りたいこと、それは止めた理由に他ならない。そこを起点に禁酒方法や感情の起伏といったあれこれを語るのが常套かと思うが一筋縄でいかない。様々な禁酒の方法やその実現不可能性などを冗長に語りひたすら核心に迫らない。タイパ至上主義者なら途中で読むの止めること請け合いなのだが、とっ散らかるように見える内容を追いかけている間に禁酒するとはどういうことなのか徐々に焦点を結んでいく。そのベースにあるのは酒を飲むことが正気で、飲まないことが狂気であるというマインドセットだ。狂気を乗り越える自己認識改造が彼の断酒方法であった。

 彼にとって飲酒は人生の中で一大事であるからこそ単純に酒を止めるという話に収まらず人生論になっている。自己認識を改めて必要以上に自分の力や境遇を過大評価しない、つまり人生に期待しない姿勢を彼は説いている。また幸福と不幸は等量であるとか、そもそも人生は楽しくないとか、自分が幸福になるべき人間だと過大評価しないとか。セルフラブで自己肯定感を高めていこうという時代の今、それとは逆の価値観を提示しているように思う。ただ著者のその塩梅は絶妙かつ軽妙。ともすれば説教臭くなるところをギリギリのところで回避しつつ興味深い示唆をもたらしてくれている。刺さったラインを引用。

高めの目標を掲げ、ときに屈辱感や挫折感に苛まれ、「くっそう、埒あかねぇな」と呟きつつも、それに向かって無駄な努力を重ね、少しずつでもなにかを習得していくことが生きるということではないか、と自分なんかは愚考する。

そうやって不安を宥めるために酒を飲む姿は自分の人生の経営者ではない、まるで利子を払うために借金を重ねる多重債務者だ。

 毎日飲酒しているもののナイトキャップレベルの量しか基本的には飲んでいない。でもたまに飲まない日があり、そのときの生産性の高さは捨てがたいものがあるなと歳を重ねるごとに感じている。だからこそ脳みその中が酒浸しになっているという本著内での表現に首がもげるほど頷いた。止めようと思ったときに再読したい。

2024年7月19日金曜日

私は本屋が好きでした

私は本屋が好きでした あふれるヘイト本、つくって売るまでの舞台裏/永江朗

 古本屋でサルベージした。いわゆるヘイト本がどうして店頭に並び続けるのか、その背景を出版の実態に即して解説してくれており興味深かった。2010年代に最盛期を迎えていた特定の国に対するヘイト本は自分の行動範囲ではほとんど見かけなくなった。一方でネットでは差別的な言説や態度はまだまだ見かけるので、いつまた息を吹き返すかはわからない。

 ヘイト本のサプライチェーンを川下から川上まで網羅的に取材した第一部、その取材結果に応じた著者の見解中心の第二部という二部構成になっている。第一部の取材の充実度が素晴らしい。書店、取次、出版社、編集者、ライターと各人の立場からみたヘイト本の実態を引き出し、どういった受け止め方をされているかの実情を立体的に浮かび上がらせている。(ヘイト本の実際の著者インタビューがないことが悔やまれるが、この内容で取材に応じるわけはないのでしょうがない)ヘイト本が無理やり本屋にねじ込まれて置かれているというより、「選択しない」という選択の連続であり、悪い意味での無関心が生んだ結果として本屋に並んでいることがよくわかった。システマチックな対応になっている現状を変えるにはコストが必要であるが、出版不況や人手不足もあいまってなかなか難しい。そんな間隙を縫うかのようにヘイト本が配本制度によって本屋に陳列されてしまう構造的問題はヘイト本に限らず本屋の今後の行方にも大きな影響を与えていて、セレクト系個人書店が最近の大きなトレンドとなっていることにも影響しているだろう。

 言論のアリーナとしての本屋という論点も興味深かった。両論併記ではないが、特定の事象に対して相反する主張を持つ本を一緒に並べて議論させる。そんな本屋はほとんど見たことないけど、セレクト系個人書店が増えている中では良いアプローチな気がする。ただヘイト本に対してはカウンター本を並べてもヘイトは消えないは留意しておく必要がある。また「ヘイト」という言葉が安売りされているという話は溜飲が下がった。カタカナ日本語になることで単純に「悪口」くらいの意味でインスタントに使われることでヘイト行為自体が軽く見られてしまう現状は間違いなくある。正直ヒップホップ、ゲームでの頻出用語ということもあり容易く使っているので自戒していきたい…

 著者はヘイト本に対して嫌悪の気持ちを抱き本屋に並べないようにするためにどうすればいいか全体を通じて真剣に考えている。規制したほうがいいのか、でも表現の自由はどうなる?といった形で逡巡している姿勢に真摯さを感じた。「ヘイトに対して逡巡してどうするんだ!」と毅然とした態度でNoといえればいいが、良い意味でも悪い意味でも大人になるとそれができなくなる。結論を急がずにさまざまな角度から考察できるからこそ本を読む。そんな初心を思い出させてくれた。

2024年7月16日火曜日

きょうのできごと、十年後

きょうのできごと、十年後/柴崎友香


 続編が出てると知れば読むしかなく前作の記憶があるうちに読んだ。現在の年齢が登場人物達に近いこともありかなりスルスル読んだ。本著単体での魅力と言われると難しいけど、あいつらが元気で生きている、それだけで嬉しいのであった。

 大学生だった登場人物たちが社会人となった十年後。それぞれ労働者としての立場が異なり各人の悩みが描かれているのがオモシロかった。物語の展開に奉仕しないディテールの細かさは健在で一体どうやってここまで社会人の仕事における悩みを思いついたり言葉にできたりするんだろうか。言語化しづらいのだけども、そっくりそのまま境遇の人が街に歩いているのではないか。そういうリアリティのレベルだ。

 十年となるとちょうどキャリアについて考える最初のフェーズということもあり各人のシビアな人生の機微が伺い知れる。自分自身も同じようなタイミングで人生の舵取りを変えたこともあり当時のことを思い出した。特にかわちくんが上司と顧客訪問するシーンは既視感しかない。同僚、上司と昼食で話すのって意外に難しい。夜の飲み会とは異なりその場のムードで何となく流れていくことが少ないから。それっぽい言葉で時間を埋める展開がリアル過ぎた。またポスドクで忙しい日々を過ごす正道くんの姿もあり得た自分の未来に見えたし修論間際に深夜まで実験したことも思い出した。

 アンチ・アンチ物語、つまり逆張りを繰り返した結果、笑ってしまうほど派手な展開が終盤に用意されており虚を突かれてオモシロかった。「起こるときは起こるんやで」というメッセージなのか。いつか20、30年後とかも出て欲しい。

2024年7月12日金曜日

JJJ JULY TOUR


 JJJのワンマンライブに行ってきた。昨年リリースのアルバムは個人的に2023年のベストだったし、リリース後に初めてライブを見るのでとても楽しみにしていた。その期待をはるかに上回る圧巻の完成度の素晴らしいライブだった。約2時間MCなしでスピットし倒すラップ力、ライブのうまさは健在。今回はヒップホップのラウドさを活かしつつ音楽的な挑戦と拡張を掲げた野心的な編成が特に目を引いた。それは生楽器の導入だ。コントラバスとしてSTUTSバンドでおなじみの岩見氏を招聘するところまでは予期できる範囲だが、尺八、琴の奏者を召喚するのは想像の上の上だった。尺八、琴も海外のラッパーたちがオリエンタリズムの要素の一つとしてビートで使っているケースがあるが、日本のラッパーがそういった象徴的なものではなくモダンな音として採用している点が本当にかっこいい。JJJで琴といえば当然「wakamatsu 」を想起するわけだが、それだけではなく元のビートにその手の音が入っていない曲も含めアレンジが施されており各曲をネクストレベルに押し上げていた。

 なかでも最高だったのは「Friends kill」への入り方。尺八奏者がサックスさながらのソロプレイを始めて徐々に当該曲のフレーズを混ぜていき徐々に寄せていく構成が憎い。ツアータイトルにもなっている「July」が琴使いとしてはハイライト。琴に対してなんとなく正月のイメージを持っているけど、音色としては完全に夏であり清涼感の演出に大きく貢献していた。コントラバスは尺八、琴に比べて、かなり多くの曲で参加していたが際立っていたのはイントロ。特に「Strand」前のソロ演奏、「心」前のSTUTSとのセッションが白眉だった。

 ここまでアレンジがどうのこう書いてきたが、それらはすべて後付けでありベースとなるビートの圧倒的な鳴りがあってこそである。彼がキャリア初期からこだわってきたその鳴りがZEPPのような大きな会場で爆音で響き渡っていた。”そんなビートじゃ たたねえよ Right?”は彼だからこそ言えるラインであることの証左となっていた。

 フィーチャリングの充実度も想像以上で盟友Campanellaの八面六臂の活躍しかりISSUGIのOGとしての立ち振る舞い、Kid fresino のフリーキーさ、Daichi Yamamotoのクールネス、盛り上げ番長C.O.S.AとOMSBのSummit組、フックだけでクラウドを掴み切るKEIJU、ミューズのMFSなど。フィーチャリングだけで十分お釣りがくる豪華さであった。

 キャリアを総括するように1st、2ndの曲もふんだんに披露してくれたのも長い尺が可能なワンマンライブならでは。特に「Place to go」や「Room」は個人的なフェイバリットだったし比較的キャリア初期からライブを見ている身からすると感慨深いものがあった。

 そして今回のライブで際立っていたのはFEBBの存在だ。亡くなってしまってからもう六年経つわけだが、そんな中でも彼は忘れられることがなく観客の心の中で生きていることがライブで証明されていた。楽曲で生き続けていることを示すかの如くFla$hBackS時代の曲を含めて多く披露していた。そして観客もFEBBに対するJJJの思いを汲むかのようにフックやバースをシンガロングする様子が印象的だった。そういった観客たちの想いが一番昇華されたのは「Beautiful mind」だろう。この曲を若い子たちがみんな全力で歌っている様を見ると、こういった形で一種のペインを共有しながら盛り上がることのできるヒップホップの素晴らしさを改めて感じてこみ上げるものがあった。(オープニングDJで16FLIPがFEBBの曲をかけたときの盛り上がりも記しておきたい。)そして最後は“Changes”で大団円。

 寡作なアーティストではあるので次のリリースまでもしかすると時間がかかるかもしれない。しかし、それは彼に音楽に対する真摯な姿勢があるからこそ。そんなJJJが生み出す次の音楽はいつまでだって待ちたい。


両方になる

両方になる/アリ・スミス

 いろんなところで賞賛されているのを見て読んだ。ギミックに目を奪われながらも強い物語性を感じる話でオモシロかった。過去と現在をクロスさせながら今の社会における課題を相対化させて小説として表現する語り口の新鮮さがあった。

 15世紀のイタリアに住む画家、21世紀のイギリスに住む女の子を主人公として二部から構成されえている。時代も場所も年齢もすべて異なるものの、その二つの物語によってこの小説が完結するようになっていて相互に支え合うようなイメージ。両方ともに魅力があるのだが、個人的には過去パートが好きだった。15世紀の絵描きの生活が中心としつつ幽霊と化して現代へ浮遊する描写があって現在の私たちの生活の奇妙さをアイロニーを交えて描いている点がオモシロかった。たとえばスマホについてはこんな感じ。

人々がそんな石盤(タブレット)や聖像(アイコン)を覗いたり、そこに語り掛けたり、頭の横に当てて祈ったり、指でなでたり、ただじっと見詰めたりしているのはきっと、彼らの絶望の深さを示しているに違いない だからこそ、彼らは自分たちの世界から常に目を逸らし、熱心に聖像を眺めているのだ

 役割に応じた賃金が支払われない、性別によって差別される。そういった今でも問題になっていることを当時の社会状況に応じて描き出しているのが興味深い。公爵に「私の絵の対価はこんなものではない」と手紙を書く、本当は女性だけど男性でなければ絵描きの仕事がもらえないから男装しているなど。「やっぱ五、六百年前だから前時代的だよね〜」と笑ってられなくて2024年の今でも眼前に同じ問題がある。そうやって時間をスケールにして相対化させて人類の進歩のなさについて、未来への希望とアイロニーで語っているところが好きだった。また句点がないのも特徴的で訳者あとがきで指摘された構造のギミックに対する解釈で納得した。

 現在パートも意味深な内容が多く、まずジョージという名前で女の子という時点で察するものがある。この性別に関するギミックが最たる例だがタイトルのとおり両方になる、つまり安易な二項対立に対して懐疑的な視点をいくつも提供している。それは物語のあるべき姿に対しても同様だ。絵画を通じて過去と繋がっていくわけだが、「物語的」な展開に対して鮮やかにカウンターを打っていく姿勢がかっこいい。エンディングは際たる例でメタ性を活かして予定調和に収まらないことによって、新しい物語になるあたりに文学が前進していく気配を感じた。同じく新潮クレストからリリースされている四季シリーズを次は読む。

※本著に関するもっとも大きなギミックはここに書いてあります。読む前には絶対知らない方がいいので読んだ人だけ→リンク(36ページあたり)すごすぎる…!

2024年7月9日火曜日

缶チューハイとベビーカー

缶チューハイとベビーカー/パリッコ

 男性の育児エッセイはいつだって欲しているのだけれども、男性向けの育児ハウツー本や露骨に「育児をする父!」みたいな打ち出し方だと途端に冷めてしまう。本著はその距離感が個人的にちょうど良さそうな雰囲気を感じて読んだらオモシロかった。育児と飲酒、相反するように見えるが、大人が自身の主体性を失うことなく育児と向き合うことを考える上では格好の命題設定かもしれない。

 酒場ライターという特殊な仕事をこなしながら日々育児にコミットする様を描いたエッセイ集となっている。子どもは保育園児で卒業前で 4〜5歳頃のエピソードが多い。とにかくいかに飲酒できるか、そのチャンスを探しているのがオモシロい。育児は不確定要素の連発、そんな中で機転を効かせて飲酒する。「けしからん!」と怒る人もいるかもしれないが、前述のとおり子どもに対して滅私奉公し続けていると大人の身がもたない。本著を読むと、そのバランスのチューニングのちょうどよさが随所にみられてほっこりした気持ちになった。

 また関東圏で子ども連れのおでかけスポットに関するリアルな意見は見つけるのが意外に難しい中、本著で取り上げられている場所の多くはエピソード付きであり、どういった場所か想像しやすいし実際に調べてみると、どれも良さげでかなり参考になった。

 コロナ禍がなくてフル出勤が続く世界線だったら本著を読んでもどこまでも他人事だったかもしれない。しかし現状フルリモートなので著者と似たような生活状況ということもあいまって、育児のコミット量とそれに付随して考えることについて納得する場面が多かった。自分の子どもはまだ2歳ながらも赤ちゃんの頃に比べると相当コミニュケーションが取れるようになり楽しくなってきたところ。言い間違いや懸命にいろんなことにトライする姿勢の数々が眩しい。愛玩的な赤ちゃんのかわいさは当時そこまで理解できなかったものの、今写真で振り返るとかけがいのない時間だったのだなと身に沁みて思う。子育ては「喜び」「大変さ」と「切なさ」でできているという筆者の主張は言い得て妙で、ここ最近「切なさ」を加速度的に感じる。それは子どもの成長ももちろん大きいのだけれど、それよりも子どもが暮らすコミュニティの変化のダイナミックさに感じるケースが多い。30後半のサラリーマンの生活は多くの部分が予定調和で構成されていくが、子どもたちは毎日が新しいことの連続であり、それは嬉しいことも悲しいことも同レベルで起こる。それに対するリアクションがさまざまで切ない気持ちになるのであった…なんていう自分語りもしたくなってしまうほどナイスな育児エッセイ。

2024年7月6日土曜日

2024/06 IN MY LIFE Mixtape

 もう上半期が終わってしまったことが未だに信じられない。そんな加齢を感じまくる6月だった。最近は負荷強めの仕事が多くそんなときは音楽が心の支えになる。

 今月もAOTY候補になるようなアルバムがたくさんリリースされており、Tems, Kaytranada, JasonMartin & DJ Quick, Bilalは繰り返し聞いた。なかでもTemsの”Burning”は火葬するときにかけて欲しいくらいの人生レベルで好きな曲の一つになった。ビートも歌詞も特別なことは何もない、なのにこんなに感動してしまうことに音楽のマジックを改めて感じた。

 韓国のヒップホップはベテラン勢のリリースが目立ちLos, The Quiett, Epik highなど。特にQ御大がついにアルバムをリリースしたのが大きなトピック。ここ数年Daytonaを立ち上げて数々の若手、ベテランのリリースを支えてきたなかでその活動の結果を交えたウェルメイドな内容であった。Daytonaはレーベルでの動きは見せないのがポリシーらしいが、コンピ聞きたいっす…とアルバムを聞いてなおさら思った。またLee young jiがついにまとまった音源をリリース、その内容に驚いた。すでにマス受けしている状況でこんなにネオソウル的なアプローチを取るなんて正直想像もつかなかった。韓国におけるメロウを受け止めるリスナーサイドの懐の深さを改めて感じる。またSMTM11でJay Park & slomチームに加入したのもJay Parkではなくslomのビートに惹かれていたのかも?と思うと今まで彼女のことを大きく誤解していたのかもしれない。

 日本のヒップホップだとKaneee, SANTAWORLDVIEW, Le Makeupあたりが好きだった。Kaneeeのアルバムはいわゆるアルバムとしての完成度が異常に高く、ポップミュージックとしてのヒップホップ、コンペティションとしてのヒップホップ、この両方を満たす圧倒的なクオリティ。一方でSANTAのアルバムはどストレートな「日本語ラップ」で久しぶりにこのテイストを味わえるのが嬉しかった。ただ一番再生していたのはLe Makeup。ヒップホップというかR&Bの方が近い?のかもしれないが、歌詞、歌、ビートのすべてが調和して最高のアルバムとなっている。ギター中心でインディロックテイストだけどもビートはヒップホップやR&Bのそれというのはここ数年の一大トレンドで日本からその最高傑作が出たといっても過言では無い。そして日本語詞にこだわり叙情性に妥協がない点もめっちゃ好きだった。もっと聞かれてほしい。

 今月はツラツラと個別に雑感を書いてみたが、梅雨を飛び越していきなり夏ムードがきたことも影響して去年あたりからハマっているレゲエ、なかでもダブをよく聞いていた。プレイリスト後半はそんなバイブスになっている。プレイリストのジャケットは公園でみたLove & Peace.

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