2025年10月12日日曜日

ヘルシンキ 生活の練習は続く

ヘルシンキ 生活の練習は続く/朴沙羅

 一作目がオモシロかったので、続編である本著も読んだ。毎年、友人とポッドキャストでその年読んだ本について話しているが、2024年の友人の4位だった。前作でも、よく見かける「フィンランド万歳本」とは異なるシャープな視点が印象的だったが、本著はさらに先鋭化、フィンランドの考え方、歴史的背景により迫った内容になっていた。

 著者は子どもを二人を育てながら、ヘルシンキ大学で働いている。日本とフィンランドを往復する生活を送っている。仕事と家事をこなす中で著者が感じたことがエッセイ以上、論文未満くらいの温度感で書かれており、読みやすさと読みごたえのバランスが絶妙である。

 第一章は前作の延長線上とも言える内容だったが、第二章、第三章の「戦争と平和」で一気にギアが変わる。戦争は突然起こる、そのリアリティを体現するかのように唐突に始まるので、面食らった。ここでは、ウクライナとロシアの戦争がフィンランドでどのように受け止められ、何が起こったのか、さらに「フィンランドと戦争」というテーマのもとで、歴史的背景を含めて掘り下げられていた。

 「フィンランドって徴兵制があったような…」という程度の知識しかなかった私にとって、2023年のフィンランドのNATOへの加入についてリアルタイムで追いかける描写は刺激的だった。地政学的なバランスの上で、ロシアと西洋諸国のあいだに立つ「中立国家」としての立場から、ウクライナ侵攻によりバランスが変化、フィンランドはNATOへ加入した。地政学としての戦争、実際に生活の中でみる戦争。マクロとミクロの視点を使い分けながら、大陸として地続きの近隣で戦争が起こるとどうなるのか?日本では体験し得ない現実の数々が興味深かった。

 本著を通底するテーマとしては「権利」が挙げられる。近年では、排外主義とセットで語られることも多い「特権」や、「人権」とは何か?など、フィンランドで移民の立場になったからこそ見えてくる、権利のあり方に関する論考は読み応えがある。前作が制度をベースにした話だったとすれば、本著ではその背景にあるフィンランドの根本的な思想にまで踏み込んでいる。その議論にあたっては、著者が在日韓国人として日本で生きてきた経験がオーバーラップしていく。客観的にフィンランドの事情を知るだけではない、主観のレイヤーが入ってくることで唯一無二な一冊となっていた。

 また、成長した二人の子どもの視点が多く取り入れられているのも特徴的だ。その率直な発言が、しばしば硬くなりがちな議論をほどよくほぐしている。前作から引き続きバリバリの関西弁なのだが、そこも先鋭化して明確に京都弁になっているところもオモシロい。子どもの芯をくった発言は、SNSでは格好のバズ案件であり、本著でもある種の混ぜ返し役として繰り返し登場するわけだが、それでも著者はこれを良しとはしない。なぜなら「子どもの無垢な発言は社会規範、知識不足を子どもの理屈で補っているから」と書かれており、その精緻な分析に膝を打った。

 「普通」に関する議論も目から鱗だった。もう長いあいだ、「多様性」「みんなちがってみんないい」といった言葉が使われてきた一方で、今やそれらが形骸化していることは否めない。それは発信している側のインクルージョン的なアプローチ、特定の規範(つまり普通)からはみ出した人間を受け入れる、この権力勾配に皆がうっすら気づいているからだろう。フィンランドでは、普通は存在せず、それぞれは異なっており、全員が特殊なのだという。これは「右に倣え」の日本に住んでいると感じづらい。当然、その精神が役立つ場面があることは理解しつつも、今の政治や社会状況を鑑みると、その「倣え」があまりに押し付けがましい場面を散見し辟易とするのだった。SIMI LABよろしく「普通って何?常識って何?んなもんガソリンぶっかけ火つけちまえ」というラインを信条として生きてきたが、ガソリンぶっかけて火をつけなくても「その普通も特殊である」という一歩引いた大人の視野を本著のおかげで手に入れることができた。

 政治との距離感に関しても考えさせらることが多く、自分の意見を伝えること、またその伝え方を、子どもたちは大人の振る舞いから学ぶことを痛感した。つまり、大人たちが自分の意見や不平不満をきちんと伝える姿を見せることは大切なのだ。そして、フィンランドでは、声をあげることは自分のためではなく、みんなのためだという認識があるという話は驚くしかなかった。また、意見と人間をしっかり分離する必要性も著者は唱えていた。正直、今の時代、「レッテル貼り」という言葉のとおり、その態度は難しい場面も多いが、対話しなければ、社会は前進していかないことは間違いないので、肝に命じたい。(私はとても不得意…)

 終盤、一人で完結せず、他社と集団をつくって実現していくことの重要性が語られていた。現代社会では個人主義が進み、何でも自己完結しがちだが、だからこそ「集団で何かを成す」練習が必要だという。フィンランドと日本を単純に比較できるわけではないが、フィンランドという鏡を通して日本の価値観の歪みを照らし出す本著は、読み終えたあとも長く考えさせられる一冊だった。

2025年10月9日木曜日

本が生まれるいちばん側で

本が生まれるいちばん側で/藤原印刷

 空前のZINEブームの中、私もその流れに乗るようにこれまで二冊を制作してきた。本にそこまで関心がない人にとっては、なぜZINEがこれほどまでに盛り上がっているのか不思議に思うかもしれない。本著は、そんな「本を作ることの醍醐味」を印刷業の視点から解きほぐしてくれており、自分の欲求が言語化されているようだった。

 長野県松本市にある藤原印刷で働く藤原兄弟。二人とも東京出身で、東京で印刷とは異なる職に就いたのち、祖母が創業し母が継いだ藤原印刷で働き始める。出版業界の斜陽化が叫ばれて久しいが、印刷業もまた同様に厳しい。既存の堅実な仕事だけでは先行きが見えない中、彼らは個人出版の印刷を新たに受注し始めた。そんな挑戦の歩みと、実際に手がけた作品の背景が丁寧に綴られている。

 現在、ZINEの印刷において主流となっているのは、ネットプリントであろう。私自身も小ロットかつ安価に制作できるその利便性から活用している。本著ではその利便性を認めつつも、「本が生まれる」過程そのものをもっと楽しんで欲しいと語られており、装丁を考え、制作することの面白さが、具体例と共に説かれていてワクワクした。

 これまで私は「本は中身がすべて」と思っていたが、実際に作ってみて気づかされたのは、「モノとしての佇まい」が手に取られるかどうかを大きく左右するということだった。本著には、そんな「見た目」をいかに工夫できるか、その知恵と情熱がこれでもかと詰まっている。兄弟がともにベンチャー企業で働いていた経験も影響してか、本作りに対する前のめりなエネルギーを感じる。営利企業である以上、利益は当然大切であるものの、クライアントに最適な答えを導き出そうとする社内全体の活気が伝わってきた。

 装丁がユニークな本の事例がたくさん紹介されている、その本自体の作りがユニークというメタ構成も見事である。一番わかりやすい例として、本文に五種類もの紙が使われている点が挙げられる。さらに、文字をあえて薄く印刷する技術なども実物で提示されており、説得力がある。

 情報の中心は今やインターネットにあることは間違いない。しかし、その情報は流動的であり、いつまで残っているかもわからない不安定なものだ。そんな状況で、ZINEがブームになっているのは、本著でいうところの「閉じる」行為によって、情報や感情を固定したい欲望が背景にあるのだろう。私自身もブログで書いていた書評やポッドキャストの書き起こしをもとにZINEを制作した。ネット上で読んだり聞いたりできるにもかかわらず、多くの人に手に取っていただいたのれは、発散していた情報を「閉じる」という行為によって文脈を与えられたからだと感じる。本著にある「自分が編み上げた世界」という表現は、まさにその感覚を言い当てている。

紙の本は印刷された瞬間に情報が「固定」される。つくり手にとっては「伝えたいことをノイズなく齟齬なく伝えられる」ということだ。自分が編みあげた世界に読み手をぐるぐる巻き込むことができる。

 終盤の「出版と権威」に関する話も示唆的だ。藤原印刷やネットプリントのように個人の印刷を請け負うサービスや、電子書籍が登場する以前、本を作る行為は特権的なものであった。つまり、本を発行するには、誰かに認められる必要があったわけだ。しかし、今は誰もが自分の意思で本を作ることができる。その自由を謳歌するように、多様な立場の人が本を作ることで、世界が少しずつ前進していく。本著の高らかな宣言には多くの作り手が勇気づけられるだろう。

 奥付のクレジットも通常よりも詳しくなっており、本づくりの工程に、どれだけたくさんの人が携わっていることが明示されていた。「クラフトプレス」ならではの心意気と言える。自分の今のスケールだと藤原印刷で依頼するほどではないのかと正直思ってしまうが、いつかお願いできる日が来ればと思わずにはいられない。

2025年10月6日月曜日

脱獄のススメ 壱

脱獄のススメ 壱/NORIKIYO

 俺たちのNORIKIYOが帰ってきた…!ということで、クラウドファンディングの返礼品が到着したので、速攻で読んだ。(現在もマーチの一つとして購入可能)インスタで公開されていたファンに向けた手紙や、出所後のblock.fm『INSIDE OUT』出演時のエピソードなどから、過酷な獄中生活をなんとなくわかったつもりでいたが、まったくわかっていなかった。ここまで事細かな取材報告を届けてくれたことは、ファンにとって最高の贈り物と言えるだろう。

 本著は、収監されたDay Oneから一日も欠かさず綴られた獄中記だ。二段組で、とんでもない分量となっており、読了後の満足感はお値段以上である。(壱)と題されているとおり、本著に収録されている日記は八ヶ月分。NORIKIYOは実刑三年のうち二年で仮釈放されているため、単純計算でまだあと二冊は発行される可能性がある。この一冊だけで圧倒的な満足度にも関わらず、まだ読めるのか…と思うとワクワクが止まらない。これまでのリリックやインタビューからして、文才は明らかだったわけだが、それがここでは存分に発揮されている。

 日記で書かれていることは、刑務所での生活を中心にしつつ、彼の思想や過去の出来事などである。「潜入取材」と称して、2020年代の刑務所がどういった場所となっているのか、丁寧に書いてくれている。D.Oの獄中記『JUST PRISON NOW』を読んだときにも感じたが、刑務所は同じ日本とは思えないほど過酷な環境である。「罪を犯した人間だから、どんなに過酷でも耐えろ」という考えが根強いのかもしれないが、それは実態を知らないから言えることだ。居室に冷暖房が一切なく、入れ墨を入れた人の写真は開示されないなど、時代錯誤な制度がまかり通っている。NORIKIYOの指摘しているとおり、誰がいつ当事者になるかはわからないし、再犯率を下げるための更生施設とはうまく機能していない現状がある。たとえ受刑者だとしても、その人権が考慮されるべきではないかと、日本の刑務所制度について考えさせられるのだった。

 今回の獄中記の大きな特徴は、NORIKIYOが国の指定難病を抱えながら服役していた点にある。重い病気を抱えた人間が刑務所でどんな扱いを受けるのか。その管理体制の実態は杜撰なものだった。構造的な問題が多い中でも、属人的な運用が多分にあり、親切な刑務官もいれば、最悪な刑務官もいる。その人情味、陰湿な感じは日本社会を象徴しているようだ。NORIKIYOはウィットを混ぜ合わせながら、それらなるべく面白おかしく描いていた。本当はムカついていることが山ほどあるはずだが、日記として言語化することで自分の気持ちを落ち着けているようだ。最近は日記ブームだが、これほど「書くこと」がセラピーとして機能している例はないだろう。

 そして、なかでも興味深いパートは、周りの受刑者たちの描写 a.k.a 取材報告である。彼の収監先はいくつかあるのだが、それぞれ環境やムードが異なっている。はじめの方は、病を抱える受刑者の多くいるエリアに収監されていたため、高齢者が多く、刑務所が介護施設と化している実態が見えてくる。やがて工場勤務へと移ると、今度は十年以上の刑期を抱える人たちが増え、普段何気なく接している人が、過去に人を殺めてたりする。(れんこんのよっちゃん…!)きつかったのは、レイプを声高に自慢話のように語っている受刑者の存在だ。このように悪自慢する人たちを華麗にスルーし続けないと、いつかトラブルに巻き込まれ、懲罰で出所が遅れる可能性がある。そんなヒヤヒヤした環境のなかで過ごすNORIKIYOの心中は察するにあまりある。

 思想面では、大麻政策を筆頭に彼の国家観や世相批評がふんだんに書かれている。曲中では語り切れないことが、日記というフォーマットゆえに自由に綴られていた。こういった自己開示はアーティストにとって諸刃の剣だが、NORIKIYOの思想と感性を知ることができることはファン冥利に尽きる。最近、彼と同世代のラッパーやDJによる同姓愛蔑視の姿勢にうんざりしていたが、NORIKIYOが明確に同性愛蔑視を否定していたことに、勝手に胸を撫で下ろしたのであった。彼の他者の痛みに対する感受性の高さこそ、今の時代に必要なことだし、自分がなぜ彼のラップを聞き続けてきたのか、読み進める中でその理由がよく理解できた。

 今のNORIKIYOといえば、大麻の話は避けて通れない。難病の治療薬を長期服用する中で耐性がつき、より強いステロイドを使わざるを得なくなり、その服用によって胃がんリスクが上昇してしまう。それを避けるために大麻を食して独自に緩和治療していたという経緯がある。日本ではどんどん大麻は厳罰化方向に進んでいる中で、彼がこれまで学んできた知識が本著内でフル動員されており、日本の大麻を取り巻く環境に関して解説本を書けそうな勢いである。生産者としての知識、法体系への理解、国内外の研究まで、彼の言葉を全て鵜呑みにしていいとは思わないが、自分の生死がかかった情報について、国内外含めていろんなアプローチを取ってきたことが、書きっぷりから十二分に伝わってきた。「お上のいうことをそのまま信用していていいのか?」という問いは、大麻に限らない普遍的なテーマといえる。安易な「Fuckバビロン」ではなく、自分の生死をかけた実践の上で語られる「リアル」には説得力があった。

 さらに、ファンにとって嬉しいのは、過去の出来事やヒップホップに関する記述である。楽曲のビハインド・ザ・ストーリーや彼のヒップホップ観があますことなく書かれていることはありがたい。中でも驚いたのは、彼の足の怪我がいかにセンシティブなものかということだ。ライブを何度か見ているが、気になったことは一度もなく、今まで一体どうやって乗り切ってきたのだろう?と思ってしまうほどだった。他にも、詩集『路傍に添える』を巡るミラクルはヒップホップの神様がいるとしか思えないエピソードだった。さらには「2 Face」を聞いて検事辞めた人、「証言」のジブさんバースの引用、ZORN「REP」のハグライフの真相とか…本当にキリがない。こういった具体的なエピソードだけではなく、ヒップホップがいかに救済の音楽であるか?が日記全体から痛いほど伝わってくる。本著を読んでいると、自分がヒップホップが好きで良かったと何度も思わされた。

 本著の発送スケジュールについて連絡があった際、ライブは2026年6月以降とのことだった。ストリーミングで音楽を聞くこともあるが、グッズを買うことも一つのサポートであり、本著はNORIKIYOの音楽に一度でも心が動いたことがある人はマストバイだし、2020年代の獄中記として読めるもので本著を超える物は出てこないだろう。まごうことなきクラシックだ。

2025年10月2日木曜日

日本語ラップ 繰り返し首を縦に振ること

日本語ラップ 繰り返し首を縦に振ること/中村拓哉

 日本語ラップに関する批評の本ということで読んだ。日本語ラップを批評的に扱う作品は、先日読んだ『アンビバレント・ヒップホップ』などがあるが、依然として数は少ない。そうした状況において、本書は批評という切り口から本格派の登場を告げる一冊であり、日本語ラップを聴く楽しさを論理的に理解できる醍醐味がふんだんに詰まっていた。

 三部から構成されており、第一部が日本語ラップ概論、第二部が批評論、第三部が具体的な作品批評としてSEEDAのアルバム『花と雨』を取り上げている。第一部は著者の日本語ラップ観を提示する宣言のような章で、テーマは「一人称」である。ヒップホップが他の音楽と決定的に異なるのは、極端にパーソナル性を要求する点だと説かれる。

 その「一人称」を起点に展開される「宇多丸史観」は本著の白眉である。現在では映画批評などを通じ、日本カルチャーにおける批評的眼差しの第一人者といえる宇多丸だが、彼が日本語ラップにおいて打ち立てた「一人称」こそが重要であり、すべての始まりだったという見立ては興味深い。当初は空洞だった「一人称」に、さまざまな出自のラッパーが登場することで、日本語ラップが本来のヒップホップのあり方に近づいていく流れに、まさしく首を縦に振った。宇多丸の批評的立場を真正面から評価する言説がほとんどなかった中で、本著は歴史的な一冊といえる。長年ヒップホップを聴き続けてきたリスナーだからこそ得られる視座ともいえるだろう。

 また、いとうせいこうが「日本語ラップの創始者」とされることへの違和感が見事に言語化されていた点も印象深い。ヒップホップを「盗み、差異化する概念」として捉えるか、それともオーセンティックな音楽として「ヒップホップ」に忠実であるか。この二つをわけて論じることで、日本語ラップにおけるアティチュードの重要性が浮かび上がる。これは現行シーンのラッパーにも当てはまる課題だろう。海外で流行するスタイルをそのまま日本語で行うのか、それとも異化させて日本語の表現としてのヒップホップを模索するのか。そのアティチュードはいつの時代も問われるからこそ、本著で改めて整理されたことの意味は大きい。

 第二部は批評そのものについて議論が展開される。正直にいえば難解で、日本語ラップが好きで読み始めた人はここで挫折してしまうかもしれない。私自身も、著者の主張の半分も理解できているか、怪しいところである。議論が抽象的かつ、さまざまな言説が引用され、それこそサンプリングミュージックよろしく、チョップ&フリップしているようだからだ。元ネタにあたる哲学的な議論の難解さに加えて、さまざまな論点を接続していくので、この手の言説に明るくないと厳しいものがある。しかし、この手法こそが日本語ラップ的な批評の実践であり、以下のラインはそれが端的に表現されていた。

言葉を名で呼び、連関から破壊的に抜き取り、それを新たなテクストのうえで韻を踏ませて。根源へ引き戻す過程を経て、引用された言葉に新たな「死語の生」を生きさせること。

 わかりやすいのはタイトルにある「繰り返し首を縦に振ること」と批評の関係性である。この動作は、BPMが85〜100ほどのヒップホップの曲に対してリアクションする動作である。ここから「反復」「肯定」という要素を抽出して、本人の宣言どおり日本語ラップ的に「反復」「肯定」を論じていく。「なるほど」という言葉を多用し、「反復」「肯定」をリテラルに表現することで、離脱しそうな読者を置いていかないような工夫がなされていた。

 第二部は第三部で楽曲批評を進めるための準備段階と位置づけられるが、著者がここまで徹底的に理論武装している背景には、日本語ラップ批評に向けられる、ラッパーやリスナーからの否定的な眼差しを意識してのことだろう。「お前が頑張れ 似非評論家」というSALUのパンチラインに象徴されるように「一人称」の音楽であるからこそ、本人の意向が他の音楽よりも重視される。その中で第三者が日本語ラップを批評する意義をどう担保するのか?著者はその問いに向き合うため、これだけ理論武装しているとも言える。冒頭で宣言しているとおり、批評は中立であったり、対象の意向に沿っている必要はない。著者の言い方を借りれば「より偏向した、より差異的」な視座だからこそ、日本語ラップの本質に迫っていくことができる。

 難解な議論の中でも、具体的に日本語ラップが参照されることで理解が進む場面もあった。PUNPEEのサンプリングセンスとベンヤミンの自然史概念を接続した議論や、RUMI「あさがえり」に対するアナロジー的批評には強く心を動かされた。必ずしも有名でない曲でも、批評によって光が当たり再び輝き出す。このマジックこそ批評の醍醐味だろう。

 第三部ではいよいよ『花と雨』の研究・批評が展開される。日本語ラップを代表するクラシックであり、特に30代〜40代のヘッズにとって特別な一枚だが、ここでは「日本語ラップを語る」という行為そのものを一段引き上げる試みがなされていた。押韻を軸とした批評の眼差しを日本語ラップに向けることで、思いもよらない解釈へと導かれていく。

 画期的だと感じたのは、バースを意訳している点である。意訳してしまうとラップの行間に宿るポエジーを削ぎ落とすため、野暮ったい印象は否めない。しかし、この作業を通じて浮かび上がる解釈の豊かさは他にない体験だった。理論を背景に押韻を軸とした批評が深度を増し「一人称」の音楽としてのSEEDAの圧倒的な描写力が浮かび上がる。そこにBESやNORIKIYOといった仲間が関連し、複数の「一人称」が連帯を生む様が痛快に描かれる。「花と雨」と「水と油」の対比、SEEDAと雨のモチーフの関係性など、聴き込んできた曲に新鮮な視点が与えられる。さらに「Sai-Bai-Man」のホモフォビア的リリックを大麻というメイントピックと接続し反転させる批評も見事であった。ラストで提示される「遠く韻を踏んでいる」という押韻の新たな視座は、『花と雨』の最深部に到達したかのような感覚さえあった。

 現在の日本語ラップは人気拡大に伴い、爆発的なプレイヤー数が増加し、リリース量が過去に比べて膨大になっている。したがって、一曲ごと、もしくはアルバム単位で、これだけ真剣に向き合うことは難しい。しかし、本著を読むと、向き合えば向き合うほど、音楽の体験が豊かになることがわかる。実際、読んでから『花と雨』を聞くと、今まで幾度となく聞いているにも関わらず、リスニング体験に「新たな生」が付与されたようだった。

 本著で論じられている日本語ラップは、現在のメインストリームとはやや距離がある。今の日本語ラップにおいて、首を縦に振ってリアクションする曲は多数派とは言えないからだ。トラップ登場以降の日本語ラップのリアクションは、首というより全身を揺らす、より身体性の高い音楽となっている。さらに本書で批判的に扱われたJ性も、Jポップ的なメロディーを特徴としたハイパーポップを筆頭に若い世代では人気を博している。ストリーミング時代のグローバルな音楽市場では「内なるJ」が自身の個性、オリジナリティとして考える新世代のラッパーも登場しているからだ。もし次作があるのであれば、より現行シーンの日本語ラップについて、第三章のような形で研究されたものが読みたい。