2026年1月28日水曜日

『Skippin' on Step』 Worldwide Skippa Release Party

 Worldwide Skippaのリリースパーティーに行ってきた。彼の存在を知ったのは、ソングウォーズの第1回目で、当時まさかここまでシーンの中心的な存在になるとは、誰も想像していなかっただろう。1年弱という短期間で、ハードワークを武器にヒット曲を立て続けに生み出し、確固たるポジションをシーンに築いたことをあらためて証明するような、素晴らしいパーティーだった。

 仕事終わりに行ったので、19時過ぎにWWWに到着するとTakaryuというDJの時間だった。深夜帯のパーティーから足が遠のいて久しい身にとって、この時間に爆音でDJを浴びられるありがたさを噛み締める。現場でしか聞けない日本語ラップのマッシュアップもあって到着早々ブチ上がった。(プレイリストを本人が公開してくれていました→リンク)ストリーミングばかりで音楽を聞いていると、こういう瞬間には一生出会えないので、現場に行くことの大切さを実感した。

 続いて登場したのはBBBBBBB。Dos Monosのポッドキャストで名前を聞いて気になっていたのだが、こちらの想像の上の上の上くらいのライブで圧巻だった。Underworld「Born Slippy」が流れる中、長髪の男が一人、さらにもう一人と現れ、彼らがBBBBBBBだとわかる。BPMの早い四つ打ちビートの上でひたすらシャウトし続け、WWW独特の傾斜きつめの客席へ移動していく。もう一人の男は徐々に衣服を脱いでいく。そんな奇想天外で自由なステージングをみると、自分の凝り固まっていた音楽観が気持ちよく破壊されていった。パンクのようなアプローチであるものの、煽りが「3、2、1、Let's go!」という近年のヒップホップライブの定型であり、ヒップホップ好きとしては親近感を抱きやすかった。さらにビートが四つ打ちからグライムっぽいノリになると、彼らの表現したいことが一気に伝わってきて、結果的に「なんか好きかも?」と思わされているから、ライブこそが彼らの最大の魅力なんだろう。

 BBBBBBBの出番で客演した徳利がそのままライブへ。正直に言えば「インターネットのミーム的な存在」という雑な認識しかなかった。しかし、ガイドボーカルに頼らず、汗をかきながらストイックにラップし続ける姿は、予想を裏切られた。キャッチーな曲名やトピックは、ライブにおいて圧倒的な強度を持ち、ワンコールでフロア全体を巻き込む力がある。「ネタラップ」として一括りにされがちだが、観客をロックする力を目の前で見れたことは新たな発見だった。

 その後はグライムかけおことsoakubeatsによるDJ。ここにsoakubeatsを招聘することに、パーティー主催者の感性の豊かさ、コンテキストを大事にしていることが伝わってくる。グライムに留まらない広義のUKダンスミュージックが流れまくり。普段聞かないサウンドばかりでブチ上がった。ストリーミングでいつでも何でも聞けるからこそ、DJというフォーマットの価値が高まっているように感じた。つまり、何をどういう順番でかけるのか?ということ。

 そんなUKミュージックをサンドイッチするかのように、最初と最後の曲は自身がプロデュースした日本語ラップというのがニクい。冒頭は「The Bridge feat. A-THUG」この日初めて聞いたのだが、どんなビートでもA-THUGの曲にしてしまうオリジナリティには毎回驚かされる。ラストは「ラップごっこはこれでおしまい feat. ECD」このパーティーで流れること自体に意味がある一曲だ。素直に見れば、ECDが日本語ラップにもたらしたコンシャスの系譜がECD→MOMENT JOON→Worldwide Skippa と引き継がれる様が刻印されたと言える。しかし、事はそんな簡単な話ではない。後述するMOMENT JOONのライブでも示されたとおり、「コンシャス」な側面はそのラッパーの一側面でしかない。それはSkippaもインタビューで話していたとおりである。内容偏重ではなく、あくまで音楽としてかっこいいかどうか。そして、<将来の夢は犯罪者>と喝破するECDのラップは「コンシャス」というわかりやすいフレーミングに対するカウンターに聞こえてしまうのだからヒップホップは不思議な音楽である。

 そんなECDの曲を聞いたあとのMOMENT JOONのライブ。旧知の仲なので、もう何回も彼のライブを見ているが、ここまで諦念が漂うライブは初めて見たかもしれない。一番顕著だったのは「シャトレーゼやめた」のフロウを引用して披露したアカペラのラップである。「正しいことの代弁者」という他人に背負わされた十字架の重さについて、こんなふうにラップで表現できるのは彼しかいないだろう。「TENO HIRA」という代表曲も披露されたのだが、そこに至るまでの構成から、従来あったエンパワメントのムードがシニカルに反転し、顕在化した強烈な諦念に思わず泣いてしまった。今の彼を支配する気持ちが具体的にどういったものなのか。その辺りは連載中のエッセイなのか、はたまた次のアルバムなのか、是非とも知りたいところである。ただ、そんな諦念を払拭するように五本指の手のひらから中指だけを残し「We Don’t Trsut」に流れていくあたりは流石。彼のビーストモードが開放され、ラップをスピットしていて、ひたすらにかっこよかった。

 そして、大トリを飾るのはもちろんWorldwide Skippa。「まほろば」から始まったわけだが、実質ワンマンとはいえ圧倒的な合唱率で驚く。30分という短い尺の中で「メタナイト」「Tee Shyne Flow」などの人気曲を本人が「出し惜しみなし」と言う通り、立て続けに披露され、フロアの盛り上がりはとんでもないことになっていた。特に「俺が出るライブで痴漢したら殺す」の大合唱は本当に信じられなかった。こういった啓蒙ソングで、ここまで盛り上げることができるのは、先述したコンシャスの文脈でいえば、内容に即してしんみり聞く必要もなく、曲としてかっこよければ、それはそれで盛り上がるということを体現している。まさに彼が日本語ラップをネクストステージに導いた証左と言える場面だった。

 ゲストゾーンが豪華メンツでこちらも出し惜しみなし。同じく名古屋を拠点とするXameleonとは「King’s anthem」を披露。目下最注目のプロデューサーである808 Edi$onのビートを初めてデカい音で聞けたので、私にとって1月27日が<Edi$on記念日>。そして、サプライズゲストとしてShowyの二人。翌日リリースのShowyのシングルにSkippaが客演で参加しており、その曲がこの日歌い下ろし。その名も「Worldwide lit」Showyのステージングはキャリアを感じさせるもので、圧倒的に華があった。そして個人的に一番好きな曲である「Go Taxi」では、Sad Kid Yazを召喚。圧倒的なアンセムっぷりをライブで体感することができた。

 MOMENT JOONを再び呼び込んでの「We Don’t Trust REMIX」はまさかのフルメンバー!Skippaが、2021年に行われたMOMENT JOONのWWWXでのワンマンを見にきていたというエピソードも相まって、エモーショナルな展開だった。REMIXの他の客演参加者であるFisong、SiX FXXT UNDXRを見れたことも貴重な機会だった。二人ともラップのフィジカルが仕上がっており、間違いなく今後注目のラッパーである。今回でいえば、SiX FXXT UNDXRがこの場にいたことの意味は特に大きい。なぜなら彼は、Skippaの楽曲のミックス、マスタリングをほとんど手がけており、Skippaの活躍の陰の立役者だからだ。いわゆるアングララッパーの音源を聞いていると、ミックスやマスタリングの粗雑さが耳につくこともある中で、Skippaの音源はその点がしっかり整理された音像、鳴りになっているのは彼がいてこそだ。これもパーティー主催者のキュレーション力の賜物と言える。

 『Skipping tape vol.1』から「徳利とブラピ」「Trust me」なども聞くことができた。「徳利とブラピ」のアウトロに言及があって、彼自身もここまでのスピード感を想定していなかったのだろうと腑に落ちる。今後はなかなか聞けないかもしれない。終盤は「don’t stop freestyle」「Nagoya rich boy」「Fuck hater 裏」といった最近のリリース中心の構成。最後は「シャトレーゼやめた」で大団円。当日はSkippaの誕生日だったらしく、ステージにHABUSHとケーキが用意されてライブが終演した。

 30分とは思えないほど充実したショーケースでいかに彼がヒット曲を生み出してきたか、よくわかるステージだった。一方で、キャリアの短さゆえにラッパーとしてのフィジカル性はまだ足りていない印象を受けた。そもそも1年で50曲近くリリースして、さらにそれらをライブでしっかり歌えるように仕上げていく、というのは土台無理な話で期待しすぎではある。その不足をシンガロングで補う観客との関係性こそ、新世代のライブスタイルなのだろう。Skipping tapeシリーズではないアルバムを用意しているらしく、2025年の間に出したミクステで、これだけのリスナーを巻き込んだSkippaだからこそ期待は否が応でも高まるわけで楽しみに待ちたい。

2026年1月27日火曜日

鹽津城

鹽津城/飛浩隆

 SFの本を選ぶとき、国内SFが選択肢に入ることが少ない。私はヒップホップが好きなのだが、それに例えればUSのヒップホップばかり聞いて日本のヒップホップを聞いていないことになり「それはちゃうやろ」という気持ちで国内SFを少しずつ読むようになった。本著はマイフェイバリットポッドキャストであり、私にとって数少ない国内SFガイドである『美玉ラジオ』で知ったのだった。これぞ国産SF!というドメスティックな要素、展開の数々を楽しく読んだ。

 本著は基本的には短編集であり、タイトル作が中篇となっている。全体の特徴としてまず挙げたいのは、登場人物や作中内の現象の名称が、見たことない漢字だらけであることだ。これだけ「読んだことがない漢字」に遭遇するのも久しぶりで小説という表現の自由さを味わった。また、複数の時間軸を並行して描き、それらの関係性を構築することに注力していることが伺える。その構築においては、わかりやすさよりも、著者本人にとっての確からしさを重視しているように伝わってきた。さらに、物語に明確なカタルシスを用意していない点も特徴的だ。なにかが始まるかもしれない期待だけが差し出され、読者には想像できる余地が残されているので余韻がある。

 著者の作品を読むのは初めてだし、ポッドキャストでもタイトル作中心に話されていたので、冒頭の「羊の木」の得体の知れなさに面食らった。新海誠『君の名は。』のアダルティ版とも言える、時空を超えた交錯劇。続く「ジュブナイル」もサイエンスフィクションというよりも少し不思議な話であり、こういうトーンなのかと思いきや、「流下の日」でギアが変わって一気にSF色が濃くなっていく。

 「流下の日」は、近未来の功利主義や管理社会を描いた作品で、一番好きな話だ。日本が独自のテクノロジーで唯我独尊で発展を成し遂げてきたように描写しながら、後半にかけて、実態はビッグブラザーだったという裏切り方が巧みだった。また、同性愛を含めて「家族」の範囲を拡張しつつも、家という組織単位をより強固にしていくという設定も興味深い。一見、リベラルなのだが、実のところは保守という構図から、現実ではいまだに「家族」の範囲さえ広がらないディストピアというアイロニーにも映った。

 SFを読むときにもっとも楽しみにしているのは、どのような近未来テクノロジーが導入されているか、という点だ。「流下の日」では生物学的なアプローチで、身体に埋め込まれたバングルによって、あらゆる行動が制御され、また制御されてしまう。政府が個人の思想や活動に干渉する社会の中で、主人公たちはレジスタンスとして、バングルに支配されない世界を心の中に構築する。それを「中庭」と呼ぶネーミングがかっこいい。英語ではなく、漢字二文字でSF的概念を表現していくところに国産SFらしさがあるし、実在する中庭から展開していく仕掛けもオモシロかった。インターネットを通じて、私たちは心の「中庭」を他人にどんどん開放しているが、誰にも入らせない思考の「中庭」を持つことの重要さを教えてもらった気がした。

 もっとも壮大な話がタイトル作の「鹽津城」である。三つの時間軸が並行し、シンクロしながら物語が進行していく。ここでテーマになるのは海と塩である。海水中の塩化ナトリウムが突如結晶化して街を破壊していく現象と、身体の中に塩分濃度の異常に高い、細い線条が形成される病気、二つの謎を中心として物語が描かれる。原発を絡めていることから、東日本大震災をモチーフにしていることはあきらかだが、あの出来事かこれほど跳躍力のある物語を紡げるのは、日本のSF作家ならではの視点だと思う。そこに『ワンピース』的な漫画の要素が合わさってくることで、こういった物語こそが本当の意味での「クールジャパン」なのではないか、と感じた。

 塩化ナトリウムだけが海水から分離、凝固する科学的背景として「マックスウェルの悪魔」が引用されており、ネタ元を明示してくれる点も興味深い。さらに同じ分子挙動の不思議さについて、チューリングによる反応拡散方程式による生物の模様形成にも接続し、思考がどんどん広がっていく。それに呼応した表紙はさすがの川名潤ワークスだし、このように科学的想像力を足場にして物語が展開するSFならではの醍醐味があった。

 マックスウェル、どこかで聞いた覚えがあるなと思ったら、「マクスウェル分布」のことだった。久しぶりにWikipediaでそれを眺めていると大学院入試で勉強した記憶がよみがえった。当時は本当に嫌だったし、今数式を見てもぼんやりとしか思い出せないが、こうやってSFの題材として出てくると「どういう意味なんだろう?」と興味が湧くのだから、エデュテイメントとしてのSFは偉大さである。寡作な作家のようなので、他も読んでみる。

2026年1月23日金曜日

ものごころ

ものごころ/小山田浩子

 毎年友人とやってる本に関する年間BESTエピソードの中で、友人が著者の作品を1位にしていて、入門編として勧められたので読んだ。いわゆるステレオタイプの小説の形式から逸脱し、話というよりも構造の妙を追求している作家に惹かれがちなので、著者がその道を極めしものであることをこの一冊で十分理解した。

 本著は、各文芸誌に掲載されていた短編をまとめたもので、さまざまな設定の話があるのだが、中心にあるのは子どもとコロナ禍である。子どもは普遍的なテーマである一方で、コロナ禍は局所的なテーマ。この二つが掛け合わさることで、日常と非日常のコントラストが鮮やかに立ち上がる。特に子ども、学生たちの人生で1回しかない貴重な瞬間がコロナ禍で失われてしまったことに気付かされた。こうやって小説という時代を超えて残りやすいフォーマットで書かれているのは意義深い。

 著者の小説を読むのは初めてだったのだが、圧倒的な改行の少なさに驚かされる。紙面にパツパツに満ちている文字の密度は活字中毒者からすれば眼福である。そのスタイルを可能にしているのは、すべての出来事を並列に扱う態度である。場所、人称、時間、平文と会話など、それらのスイッチングを何の予告もなく行なわれる様は、まるで一筆書きで書いたようだ。

 読んでいるあいだに勝手にスイッチする構造は、人によっては不親切に映るかもしれないが、予定調和の小説に飽きている人にとって、これほどスリリングな文体はないだろう。しかも、この変則的な文体だからこそ表現できる「心の機微」があることに読めば気付かされる。読む前までは著者のギミックだけが耳に入り、勝手に出オチのように扱ってしまっていたが、これほど内容と相関しているだなんて、やはり読まないと実のところは何もわからないものだ。

 ギミックの観点でいえば「おおしめり」がダントツにぶっ飛んでいた。句点なしで突っ走る水をめぐる物語。大学生の平凡な日常の話が、見せ方次第でこんなに非現実的に見えることに、表現の可能性を大いに感じた。中華料理屋に行くたびにこの話を思い出しそう。最後の主語のスイッチングの大胆さにも心底驚いた。あと同世代の方ならわかってくれると思うが、昔のはごろもフーズのCMインスパイアな水の王冠描写は、タイトルよろしく「ものごころ」がついた頃の記憶をフラッシュバックした。

 本著を象徴するのは、宏とエイジを主人公にした、冒頭の「心臓」と巻末の「ものごころごろ」だろう。二つは繋がっていて、少年が青年への階段を歩み始める話なのだが、躍動感と閉塞感の対比が素晴らしい。前者については、河原で犬を追いかけるという極めてプリミティブな昭和世代直撃な原風景なのだが、出来事が収束していく先に待つ大人という杓子定規な存在、つまりは閉塞感の元凶の書き方が見事。大人になれば、宏の母親の言葉はすべて「正論」で何も間違ってないのだが、そのおもんなさたるや。後者では中学受験が本格化し、そのおもんなさに拍車がかかるのだが、それを野犬が人間にとって「いい犬」に順化していくことと対比させている点が残酷に映った。

 一番心に突き刺さったのは「種」だった。子どもの身体に何かトラブルが起こった際の思考、行動のフローがシームレスな文体ゆえに巧みに表現されていて唸った。トラブルが起こるたびにググって玉石混合のネット情報の海を彷徨い、自分を納得させる落とし所を探る行為は現代に生きる親たちが皆やっていることだろう。それを小説でこんなふうに落とし込むアイデアが素晴らしい。今後はAIに聞くことがデフォルトになると思うので、このように逡巡する機会はなくなっていくだろうから時代の記録としても貴重と言える。しかも、終盤に「大便手掴み」という怒涛の展開が待っていてシビれた。さらに「大便掴み」が短編同士をゆるやかに繋ぐキーとなっているギミックにニヤニヤした。(子どもの排泄周りは色々と苦労しているところなので、余計に刺さったところもある。)

 「作家性」という言葉を安直に使うことは許されない、まごうことなきオリジナリティに久しぶりに打ち震えたので、著作を順々に読んでいきたい。

2026年1月16日金曜日

自然のものはただ育つ

自然のものはただ育つ/イーユン・リー

 「イーユン・リーのエッセイ出たんや」と本屋で知り、積んでいた『水曜生まれの子』を読んでから本著を読んだ。前情報を何も知らなかったので、彼女の生活の機微を知れるのかなと軽い気持ちで読み始めたら、長男に続いて次男も自殺で亡くなったことをきっかけに書かれたエッセイと知り愕然…奈落の底にいる彼女が綴るドライな感情と思考の数々が心の奥底まで沁みてきた。

 本著は次男ジェームズを亡くしたあと、彼女がどう考え、どう行動しているか、22章から構成されるエッセイ集。長男ヴィンセントを亡くした際には、彼とのやりとりをオマージュした小説『理由のない場所』を書いた著者だが、今回はフィクションではなくノンフィクションを選んだ。それは子どもたちの特性に合わせた選択だったという。

 子ども二人を自死で失う。作家である彼女でさえ小説には使わないであろう、あまりに現実味のない出来事であり、その気持ちを想像することなんて到底できない。育児に正解はないと思いつつ子どもと向き合いながら、どうすればいいか試行錯誤しているわけだが、この日々の積み重ねが自死によって唐突に終わりを告げてしまうだなんて想像しただけで辛すぎる。

 読み進めるにつれ、ヴィンセント、ジェームズを中心としたリー家の関係性、家族の風景が断片的に浮かび上がってくる。家族は外から見れば、どこも特異に映るのは世の常だが、リー家の子どもたちが、それぞれ異なるベクトルで社会と距離を取っていたことが伝わってきた。なかでもヴィンセントが10歳の頃に著者に伝えた言葉は、彼女の小説をずっと読んでいる身からすると、あまりにも悲しすぎて涙がボロボロとでてきた。

苦しみをわかってて、苦しみについてそんなに上手に書くのに、どうしてぼくたちを生んだの

 神話や戯曲、小説を引き合いに出しながら、ジェームズの死について考えている様は作家らしい。古典ゆえだからこそ真理をついた言葉と、著者の論考が交じわり、さながら読書会の様相を呈している。また、物語が人生を救済する可能性について露骨には言及せず、引用を重ねることで、物語の存在意義そのものを示していく点に著者らしさを感じた。

 なかでも象徴的なのは『シーシュポスの神話』である。「真に哲学的な問題は一つしかない。それは自殺についてである」というラインから始まる一冊であり、ジェームズは亡くなる数週間前に読んでいたという。神話に登場する「シーシュポスの岩」は日本の賽の河原に近い話で、大きな岩を何度も山頂に押して運ぶものの、運び終えると岩は転がり落ちる。一般には終わりのない徒労の象徴とされるこの岩を、著者は時間のメタファーと捉え、「時間を運ぶことの辛さ」を語っていた。つまり、育児をしていると時間があっという間に過ぎることに比べて、亡くなった後は時間が全く過ぎていかないことを示しており、さらに亡くなった子どもを「別種の新生児」と呼ぶあたりに並々ならない言語感覚を感じた。

 さらに、「小石」という比喩も登場し、それはふい浮かんでくる思考のメタファーだ。この小石に逐一反応していると身が持たないから、小石を蹴飛ばしていながら生きていく。シーシュポスの岩との対比としても鮮やかだった。

 先日読んだ『水曜生まれの子』でもパンチラインのつるべ打ちに圧倒されたが、エッセイゆえに切れ味はさらに鋭く、なおかつテーマがテーマなだけに心に強く響く。

直感とは、将来の可能性や起こりうることや別の選択肢をめぐる物語だ。そういう意味では、直感はフィクションだ。そして人生に裏づけられると、事実になる。

やる価値があることとやれることには隔たりがあり、その隔たりこそ若者に野心が宿り、老人に衰えが待ち構えているところなのだ

 こんな鋭い言葉を連発する彼女にとって、言葉こそがすべてなのだと読み進めるうちにわかってくる。それを裏付けるように言葉に関してさまざまな思索が展開される。世界でここでしか読めない洞察の連発に息を呑んだ。息子たちの自死という悲劇から導き出される言葉の奥行きは、他の追随を許さないものがある。そして、それは安易な救済の物語ではなく、彼女が今後の人生で考え続けていくだろうことの序章とも言える。

 本著は一種の育児論としても読むことができて、子どもを失ったからこそ見えてくる、親が普段気づいていないことが言語化されている。特に育児における直感を信じるべきか、どの程度、楽観視するか、といった問いは奥深い。赤ちゃんのあいだは四六時中、見守る必要があるが、大きくなるにつれて、子どもの一挙手一投足を把握することはできない。そのとき親は、ある種の直感に従い、子どもを信じるしかなくなる。「どこまで信じるべきなのか?」と著者から問われると不安になった。目に見える行動や親にとって都合のいいことだけ信じるのではなく、子どもの内面についても思いを馳せていく必要性に気付かされた。そして、これはタイトルにも繋がり「ただ育つ」という楽観性と、一方で「自然に死んでしまう」という諦念。この相反する感情を、徹底的受容により引き受けている。

 他にも「子どもが健康でいてくれるだけでいい」とよく言われるが、「存在」が当たり前になってくると「行動」ばかりに目を取られる。「存在」そのもののありがたみを理解できている親がどれだけいるのかと言われてドキッとした。「子どもは死ぬ」という強烈な言葉と、著者のドライな視点の数々は彼女以外に書きえない。

 なんでこんなことが起こってしまったのか?と考えると、著者自身に自殺未遂の経験があることが、どうしても頭をよぎってしまう。そんな私の下世話な考えを見透かすように、終盤では彼女自身の自殺未遂についても言及されていた。そこまで言葉にする必要があるのかと思いつつ、彼女が公人であるがゆえとはいえ、あまりにも心ない報道や周辺の対応には言葉を失った。悪意がなくても、彼女の辛い状況に寄り添うために自分の経験を引き合いに出すことの不毛さを語っており、彼女の言葉で言われるとかなり重たかった。

私の悲哀に終わりはいらない。子どもの死は熱波でも吹雪でもなく、急いで駆け抜けて勝つべき障害物競走でも、治すべき急性や慢性の病気でもない。悲しみとは言葉であり省略化であり、その言葉よりはるかに大きなものの単純化にほかならない。

 何よりも心身を大切にしてほしいが、著者は悲しむ母親として振る舞うことに否定的であり、止まることはないようだ。訳者あとがきによれば、今は大河小説を執筆中らしく、それが今から待ち遠しい。

2026年1月14日水曜日

俺の文章修行

俺の文章修行/町田康

 私の文学史で自分自身について語っていたことに驚いた訳だが、さらに文章の書き方にフォーカスした一冊が出たということで読んだ。2020年代に突入してから、文章に対する広い意味での「校正」が行われるようになり、生成AIの台頭で、その傾向が顕著になっている今、「文章を書くこと」へのパッションの高さにめちゃくちゃ煽られた。当ブログでも生成AIによる手直しは一部行っているわけだが「果たしてそんなことに意味があるのか?」と著者から問われているような読書体験だった。

 2021〜2024年までの連載が一冊にまとまったものとなっており、どのようにして文章が上手くなるか、著者のテクニックを紹介してくれている。当然、町田康が文章の書き方をまっすぐ丁寧に教えてくれるわけもなく、彼でしかあり得ない文体の連続の中、文章を書く上で何が大切で、どうやって書くのか、具体的に教えてくれる。なお、全体の構成自体はブレイクダウンがきちんと行われており、そのブレイクダウンした各ブロックの中で縦横無尽に暴れている。そのため要素だけ抜き出すと、至極真っ当なことを説明してくれており、結果的に「町田康的文章の書き方」という話になっている。文体はフリーキーなのに、語られていることは論理的というギャップが著者らしい。

 冒頭で書き方ではなく、本を読むこと、および繰り返し読むことの重要性を語っていて、これは至極もっとも。幼少期のエピソードトークと共に語られる読書遍歴は読んでいて楽しい。個人的には繰り返し読むことが苦手で、何回も読んでいる本は特にないし、世の中には無数の読みたい本があるから、何度も同じ本を読む気にはあまりなれない。しかし、「文章が上手くなる」といった具体的な目標があれば読めそうな気がするので、好きな作家でトライしてみようかと思えた。というか、なんのためにデカい本棚買って、そこに置いているかといえば、いつか読み直すためやろ?

 2021年からなので、生成AIの台頭を受けて書き下ろしたわけではない点に驚いた。というのも、前半において、あたかもそれを想定していたかのような内容になっているためだ。具体的には、外付け変換装置、内蔵変換装置という話だ。外部のデータに基づいた外付け変換装置は、自分の言いたいことをきれいに整えてくれる快楽をもたらしてくれる。しかも、生成AIは手軽かつ高精度だからこそ、どうしても使ってしまいがちではある。『birnglife』というポッドキャスト番組を聞いているのだが、生成AIで文章をリバイスされた結果について「こういうことが書きたかった」と人間側が勝手に思い込んでいるだけと喝破していて、言い得て妙だった。それと同じく重要視されているのは、内蔵変換装置であり、自分の読書経験による自分の文体があり、それはさまざまなパラメーターによって構築されている。それらを訓練によって上手に使えるようになることがオモシロい文章を書くステップであると著者は主張していた。以下のパラグラフを読んで付き合い方を考え直すことを決意した。

つまり。外付け変換装置は使ってもよいが、使う際はその使用範囲に限界があることを称して、それが唯一無二、「正しい日本語」と思ってたら、多くのことを見逃し、結果的に、貧しい語彙だけを信じて、綺麗事だけを言うて儲けてる層にかもられてそれにも気がつかないアホのまま老いて死にますよ

 町田康の小説をインプットデータとしてすべて放り込んで、同じような文体を形成することは今の技術で可能だろう。しかし、彼はそこから抜けて出していくように、明らかなエラーを定期的に文中にボムしている点がオモシロい。さながらタギングである。「一度書いたら戻らない」を徹底しているからか、「つまり」が多用されながら、徐々に核心へ近づいていくスタイル。結論だけ知りたい、とにかくコスパよく文章を上手く書けるようになりたい、そんな志の低いクソ野郎を置いていくかのように冗長に語り倒していることが最高だし、そんなコスパ野郎に「クソ」と文中で明言していく、こんなこともAIにはできないだろう。あと文章が上手く書けない人間が野垂れ死んでいくパターンも豊富で最高だった。

 著者の小説を読んでいると声出して笑ってしまうことが頻繁にあるのだが、その種明かしもされており、「他人を笑かす」という意識で書くのではなく、自分が笑えるかどうかが大事という指摘はもっともだ。文字だけで人を笑わせるには相当なスキルが必要だと思っていたが、自分が笑えることを基準にするというのはシンプルかつ盲点だった。

 町田康が町田康たるゆえんがさまざま書かれているのだが、もっともクリティカルな教訓は読みながら書く「裏表理論」だろう。文章を書くとき、とりあえずざーっと書いて、あとで整えればいいというのは王道の書き方だと思うが、著者はそれを良しとしない。「もっと文章を書く一瞬にフォーカスしろや!」と鼓舞してくる。読んで、書いての裏表を無限にリピートしながら、一発で自分のグルーヴを作らんかい!と。ここで投入されるクオンタイズの例えが特に刺さった。J.DillaやBudamunkのビートが大好きなのに、生成AIで文章を校正することはクオンタイズかけて自分の文章のグルーヴを殺してしまっているからだ。別に商業出版でもなんでもない個人のブログで何を外ヅラ気にして書いとんねん、もっと好き放題やってもええやんけと思わされました。

 終盤にかけては、内容の話となっていき、熱い話も増えてくる。彼が「糸くず」と呼ぶ、文章を書く際のピュアな部分をいかに大切にしているか懇々と説明してくれていた。自分が書きたいことを書くことが何よりも大切で、それは他者が価値を決めるのではないという言葉に勇気をもらった。また、文章を書くことが自己救済と思いきや、利他的行為でもあるという話や、「技法」は奪い取れても「姿勢」は奪えないといった話はまさにその通りである。彼の技法や姿勢を頭に入れた上で読むと、これまでと違った読み方で小説が読めそうなので、積読している『古事記』を近いうちに読む。

おまけ◆
この文章をGEMINIに投入して「この文章を町田康の文体を取り入れてリバイスしてください。」と指示した結果もシェアしておきます。それっぽくもあるし、それっぽくもないような…

 かつて拙稿『私の文学史』において、あろうことか自分自身の過去をぺらぺらと喋り散らかしていた事実に、我ながら「お前は何を晒しとんねん」と驚愕した次第であるが、今般、さらに「文章の書き方」という、いわば手の内を晒すような一冊が上梓されたというので、これ幸いと拝読した。

 二〇二〇年代という、猫も杓子も「正しい文章」「清潔な記述」を求めて血眼になる、いわば「全方位校正時代」の真っただ中。さらに生成AIなどという、人間の思考を横取りして整地する機械までが現れた今、本書に漲る「文章を書くこと」への、狂気にも似たパッションに、私はもう、めちゃくちゃに煽られた。

 当ブログとて、生成AIによるお直しを一部導入し、あたかも「シュッとした顔」をして運営してきたわけだが、読み進めるうちに「おい、お前がやってるその『手直し』とやらに、一体全体、なんの意味があるんや?」と、著者の鋭利な視線に喉元を突きつけられているような、そんな恐ろしい読書体験であった。

 本書は二〇二一年から二〇二四年までの連載を纏めたものであり、著者が培ってきた技巧が惜しげもなく披露されている。といっても、そこは町田康。世に溢れる「誰でもわかる文章教室」のように、優しく手取り足取り教えてくれるはずもない。全編、彼以外には出力不可能な、奇怪かつ稠密な文体の連打。しかし、その暴れ狂う言葉の奔流をよくよく観察すれば、全体の構成は驚くほど論理的に解体されており、その一ブロックごとに著者が縦横無尽に暴虐の限りを尽くしているという、極めて高度な曲芸が展開されているのだ。要素だけを抽出せば、至極真っ当。しかし出力されるものはフリーキー。このギャップにこそ、町田康の真髄がある。

 冒頭、著者は「書き方」以前の問題として、読書、それも「繰り返し読むこと」の重要性を説く。これはもう、ぐうの音も出ない正論である。幼少期からのエピソードと共に語られるその遍歴は、読み物として単純に面白い。

 私個人としては、同じ本を二度読むのが苦手な質で、世に読みたい本が溢れている中、なぜ同じ道を二度通らねばならんのか、などと考えていた。しかし、「文章の上達」という具体的な功利を餌にすれば、あるいは。というか、そもそも何のためにデカい本棚を設え、そこに本を並べているのか。いつか読み直すためやろ。その「いつか」を今に設定せんかい、と自責の念に駆られた次第である。

 驚くべきは、この連載が二〇二一年に始まっている点だ。生成AIが世を席巻する以前から、著者は「外付け変換装置」と「内蔵変換装置」という概念を掲げ、現代の言語状況を予見していた。

 外部のデータに依拠した「外付け装置」は、自分の言いたいことを、無難で、綺麗で、誰からも文句の出ない「正しい風の日本語」に整えてくれる。その手軽さは麻薬的ですらある。ポッドキャスト『bringlife』で語られていた、「AIにリバイスされた文章を見て、書き手が『そうそう、これが書きたかったんだ』と思い込むのは、ただの錯覚である」という指摘は、まさに言い得て妙。

 対して、著者が重んじるのは「内蔵変換装置」である。自らの読書経験によって血肉化したパラメーターを、不断の訓練によって操作し、唯一無二のオモシロ文章をひり出す。これこそが書くことの醍醐味であると。

つまり。外付け変換装置は使ってもよいが、使う際はその使用範囲に限界があることを称して、それが唯一無二、「正しい日本語」と思ってたら、多くのことを見逃し、結果的に、貧しい語彙だけを信じて、綺麗事だけを言うて儲けてる層にかもられてそれにも気がつかないアホのまま老いて死にますよ

この一節を読み、私は生成AIとの付き合い方を根底から見直すことを決意した。

 今の技術なら、町田康の全データをAIに食わせ、それっぽい文体を出力させることは可能だろう。しかし、彼はその計算式から逃れるように、唐突なエラー、あるいは「言葉のボム」を文中に投下する。それはさながら、誰にも消せないタギングのようである。

 「一度書いたら戻らない」という不退転の決意ゆえか、「つまり」を連発しながら執拗に核心へ肉薄していくスタイル。結論を急ぎ、タイパだのコスパだのを抜かす、志の低いクソ野郎を置き去りにするような冗長な語り倒し。そして、そのコスパ野郎を真正面から「クソ」と断じる。この蛮勇こそが人間である。文章が書けない人間が、悲惨な末路を辿るパターンのバリエーションも豊富で、実に愉快であった。

 さらに、著者は笑いの種明かしもしてくれている。「他人を笑かそう」と色気を出すのではなく、まず「自分が笑えるか」を基準にせよ。文字だけで人を笑わせるのは至難の業だと思っていたが、この、シンプルかつ盲点。自分が笑えないものを、他人が笑うはずがないのである。

 そして、最も私の胸を穿ったのが「裏表理論」である。

 とりあえず書き飛ばして、後でスマートに整える。そんな「王道の書き方」を、著者は真っ向から否定する。「今、この瞬間、書いているその一瞬に全霊を注げ」と。読んで、書いて、を無限に往復し、一発で自らのグルーヴを刻み込めと。

 ここで引用される「クオンタイズ」の比喩が、音楽好きの私には痛烈に刺さった。J.DillaやBudamunkの、あの絶妙にヨレた、グリッドから逸脱したビートを愛しながら、なぜ自分の文章にはクオンタイズをかけ、その生命力を殺していたのか。商売でもない個人のブログで、何を外ヅラを気にして、行儀良く収まろうとしていたのか。もっと好き勝手に、己の不協和音を響かせてもええやんけ、と。

 終盤、話は「内容」の深淵へと至る。著者が「糸くず」と呼ぶ、表現の源泉にある純粋な衝動。それをいかに守り抜くか。書きたいことを書く、その価値を決めるのは他者ではない。その言葉に、私は深い勇気をもらった。

 文章を書くことは、自己救済であると同時に、巡り巡って他者への利他的行為にもなり得る。「技法」は模倣できても、その根底にある「姿勢」だけは、誰にも奪えない。

 この「町田流」の姿勢を脳髄に刻んだ上で読み直せば、あのお馴染みの小説群も、これまでとは違った、より立体的で、より狂おしい響きを持って迫ってくるに違いない。ひとまず、積読の山に埋もれている『古事記』を掘り起こし、近いうちに、この「裏表」の往復運動に身を投じるつもりである。

2026年1月6日火曜日

置き配的

置き配的/福尾匠

 『シットとシッポ』というポッドキャストを最近聞いており、そのパーソナリティを務める著者の新刊ということで読んだ。一度、本屋で立ち読みした際、その哲学的な語り口に気後れしてしまったのだが、最近知り合った友人と飲んだ帰りに立ち寄ったジュンク堂で、背中を押してもらったのだった。実際、理解が追いつかない部分もあったものの、ものの捉え方の一つ一つが新鮮で興味深く読んだ。

 もともと文芸誌『群像』での連載をまとめた一冊ということもあり、各章はエッセイ的な導入から始まり、そこから哲学的思考が折展開していく。構成面で特に印象的なのは、A面/B面という二部構成を採用している点だ。一つのキーワードやテーマについて、A面では「言葉」、B面では「物」という異なる観点から考察がなされ、議論は並行して進んでいく。

 多くの書籍が章をリレーのようにつなぎ、一冊を通して一つのメッセージへと収束させる構造を取るのに対し、著者は本著を「ハンマー投げ」に喩える。つまり、各章は互いに直接接続されることなく、独立した投擲として存在する。しかし、それらは完全に孤立しているわけではなく、フィードバックとして相互に影響し合っている。さらに、その独立性と関係性を、将棋や囲碁のアナロジーを用いて説明するくだりは見事だし、タイトルにある「置き」とも結びつく。あまりにも鮮やかな見立てに読み終わったあとに唸った。

 タイトルにもなっている「置き配的」とは、著者が提唱する新たな概念である。今となっては当たり前となった宅配便における「置き配」の特徴を拝借しながら、そのラディカルさ、奇妙さを抽出して論理を構築している。置き配では、従来のように宅配業者が荷受人に直接手渡すわけではなく、「置いた」という事実(=玄関前に置かれた荷物の写真、もしくはメール通知)を持って配達完了となる。つまり、実質的なやり取りは発生しないが、「置いた」という事実が完結性を担保する。こういった「置き配的」な観点で現在の言論空間、特にネット上でのコミュニケーションについて分析していく。

 連載ということもあり、論述パートに入る前には導入をきちんと用意してくれているので、最初に想像していたよりは議論に振り落とされるケースは少なかったとはいえ、哲学的な基礎知識や思考能力の不足を正直感じた。それでも、この手の議論に関する本を読むための「大リーグボール養成ギプス」として捉えれば、本著はかなり機能的である。それは単純に自分の見識や論理を開陳するだけではなく、興味関心を哲学のフィルターを通じて見たときにどう見えるのか。思考を深めていく様を横目で見てOJT的に学べるからである。

 「置き配的」という概念がもっともわかりやすく機能するのは、ネット上のコミュニケーション、とりわけX(旧ツイッター)をめぐる議論である。本書はツイッター論として読める側面を強く持っている。

アマゾンが置いたという事実を持ち帰るために荷物を運ぶように、人々は言ってやった・言われたという事実を持ち帰り自陣にアピールするために、ハッシュタグ、引用リツイート、スクリーンショットといった諸々の引用の技術を駆使する。その意味で「置き配的」とは、コミュニケーションを偽装した内向きのパフォーマンスである。

アテンションも欲しい、ポジションも欲しい。しかしアテンションやポジションを取りに行く身振り自体が私の表現から内実を骨抜きにしてしまうので、誰かの表現を示成的なパフォーマンスとして見なすことにおいて、私は私の表現が実のあるものであると、感じることができる。これが「注意の時代」の心性であるだろう。

数十字のチャット、ツイート、コメントから、一日数百字の日記へ。それはたんなる量的な変化ではなく、テキストボックスという閉じられた箱からテキストエディタあるいは日記帳という平面への移行である。そしてこの移行によって言葉は、言うべきことが<疎>である空間のなかで分散し、出来事はあらかじめこしらえられたパッケージから解放され、自伝には書かれようのない<私>の生(life)が、人生(life)にはカウントされない生活(life)として切り出される。

 ツイッター論として、これだけ鋭いことを言える書き手はどれほどいるだろうか。こういった思考の背景にあるドゥールズを筆頭とした哲学者たちの金言も現代を象徴しているように感じることが多かった。そこに時代を超越した、抽象性の高い「哲学」という学問の価値と可能性を垣間見たのだった。つまり、具体的な内容ではなく、論旨の骨組みを抜き出した抽象的なものだからこそ、さまざまなものに転用することが可能だからだ。それはまさに著者が「置き配」という具体的な事象から概念を抽出し、別の領域に適用していく実践そのものであり、これが哲学の醍醐味なのだなと納得した。

 その最たる例が「犬をバギーに乗せて歩くことは犬にとって散歩と言えるのか?」という命題である。日常の些細なことでも哲学的な眼鏡を通じて眺め直してみると、そこには膨大な思考の糸口が転がっている。「蛙化現象」に関する考察も同じく著者ならではの視点が輝いていた。特に村上春樹の小説と接続した瞬間に自分の中でイマイチ像を結ばなかった「蛙化現象」について霧が晴れていくように理解が進んでいった。

 こういった文章を読むと「SNSにおいて自分がどう思われるか?」「他人が何を考えているか?」よりも、もっと愉快で楽しい思考のきっかけが目の前に転がっていることに気付かされるし、注意の払い方については、過去に読んだ「何もしない」で学んだはずなのに喉元過ぎればなんとやらである。やはり思考するためには、フローする情報よりもスタティックな情報に目を通したいものである。自戒の念をこめて。。。

 個人的に特に興味深かったのは、批評圏に関する議論、なかでも批評が抱える二重の「ジャンルレスネス」という指摘である。批評の限界は嘆かれて久しいが、批評がどうして厳しいのか?これだけロジカルに語られたものを読むのが初めてで、目から鱗だった。そして、批評空間よりも感想空間の再構築が必要という主張には納得した。

 というのも、私は日本語ラップのアルバムについて昨年からレビューしているのだが、そこで意識しているのは「批評」というより「感想」だからだ。それゆえ最初に始める際、「日本語ラップ日記」と題して「批評」と受け取られる可能性を回避したことは、著者が日記を重要視している点と少なからず響き合う部分があった。また、批評が内政問題に終始してしまうという指摘も、ヒップホップの現状を見れば頷ける。ゴシップや英語警察、即時的なリアクションばかりが目につく状況に辟易し、私はnoteで書いている。わかりやすい反応がなくても、同じ密度のコミュニケーションを求める誰かに届けばいいなと思いながら、毎週文章を書いている。

 現在のヒップホップの書き手の多くは商業ライターであり、アーティスト本人へのインタビューが主な仕事となっている。その意味では一次情報にアクセスできるが、それは著者の言葉を借りれば「密」な言説空間でもある。そこでは「置き配的」なポジショントークが蔓延しやすい。しかし、「密」ではなく「疎」なものに批評の可能性を見出す。つまり、物や作品と遭遇したときに起こってくる言説が批評たりうるのだと。さらに、作品が作品たりうるのは、それが誕生した瞬間ではなく「あとからやってきたものがそこに表現を見出したとき」という主張は、自分が感想を書いている意味を代弁してくれていた。ネットで何かを書くことは誰でもできる今、どこで何をどうやって書くか。その指針となる一冊だった。