2026年1月14日水曜日

俺の文章修行

俺の文章修行/町田康

 私の文学史で自分自身について語っていたことに驚いた訳だが、さらに文章の書き方にフォーカスした一冊が出たということで読んだ。2020年代に突入してから、文章に対する広い意味での「校正」が行われるようになり、生成AIの台頭で、その傾向が顕著になっている今、「文章を書くこと」へのパッションの高さにめちゃくちゃ煽られた。当ブログでも生成AIによる手直しは一部行っているわけだが「果たしてそんなことに意味があるのか?」と著者から問われているような読書体験だった。

 2021〜2024年までの連載が一冊にまとまったものとなっており、どのようにして文章が上手くなるか、著者のテクニックを紹介してくれている。当然、町田康が文章の書き方をまっすぐ丁寧に教えてくれるわけもなく、彼でしかあり得ない文体の連続の中、文章を書く上で何が大切で、どうやって書くのか、具体的に教えてくれる。なお、全体の構成自体はブレイクダウンがきちんと行われており、そのブレイクダウンした各ブロックの中で縦横無尽に暴れている。そのため要素だけ抜き出すと、至極真っ当なことを説明してくれており、結果的に「町田康的文章の書き方」という話になっている。文体はフリーキーなのに、語られていることは論理的というギャップが著者らしい。

 冒頭で書き方ではなく、本を読むこと、および繰り返し読むことの重要性を語っていて、これは至極もっとも。幼少期のエピソードトークと共に語られる読書遍歴は読んでいて楽しい。個人的には繰り返し読むことが苦手で、何回も読んでいる本は特にないし、世の中には無数の読みたい本があるから、何度も同じ本を読む気にはあまりなれない。しかし、「文章が上手くなる」といった具体的な目標があれば読めそうな気がするので、好きな作家でトライしてみようかと思えた。というか、なんのためにデカい本棚買って、そこに置いているかといえば、いつか読み直すためやろ?

 2021年からなので、生成AIの台頭を受けて書き下ろしたわけではない点に驚いた。というのも、前半において、あたかもそれを想定していたかのような内容になっているためだ。具体的には、外付け変換装置、内蔵変換装置という話だ。外部のデータに基づいた外付け変換装置は、自分の言いたいことをきれいに整えてくれる快楽をもたらしてくれる。しかも、生成AIは手軽かつ高精度だからこそ、どうしても使ってしまいがちではある。『birnglife』というポッドキャスト番組を聞いているのだが、生成AIで文章をリバイスされた結果について「こういうことが書きたかった」と人間側が勝手に思い込んでいるだけと喝破していて、言い得て妙だった。それと同じく重要視されているのは、内蔵変換装置であり、自分の読書経験による自分の文体があり、それはさまざまなパラメーターによって構築されている。それらを訓練によって上手に使えるようになることがオモシロい文章を書くステップであると著者は主張していた。以下のパラグラフを読んで付き合い方を考え直すことを決意した。

つまり。外付け変換装置は使ってもよいが、使う際はその使用範囲に限界があることを称して、それが唯一無二、「正しい日本語」と思ってたら、多くのことを見逃し、結果的に、貧しい語彙だけを信じて、綺麗事だけを言うて儲けてる層にかもられてそれにも気がつかないアホのまま老いて死にますよ

 町田康の小説をインプットデータとしてすべて放り込んで、同じような文体を形成することは今の技術で可能だろう。しかし、彼はそこから抜けて出していくように、明らかなエラーを定期的に文中にボムしている点がオモシロい。さながらタギングである。「一度書いたら戻らない」を徹底しているからか、「つまり」が多用されながら、徐々に核心へ近づいていくスタイル。結論だけ知りたい、とにかくコスパよく文章を上手く書けるようになりたい、そんな志の低いクソ野郎を置いていくかのように冗長に語り倒していることが最高だし、そんなコスパ野郎に「クソ」と文中で明言していく、こんなこともAIにはできないだろう。あと文章が上手く書けない人間が野垂れ死んでいくパターンも豊富で最高だった。

 著者の小説を読んでいると声出して笑ってしまうことが頻繁にあるのだが、その種明かしもされており、「他人を笑かす」という意識で書くのではなく、自分が笑えるかどうかが大事という指摘はもっともだ。文字だけで人を笑わせるには相当なスキルが必要だと思っていたが、自分が笑えることを基準にするというのはシンプルかつ盲点だった。

 町田康が町田康たるゆえんがさまざま書かれているのだが、もっともクリティカルな教訓は読みながら書く「裏表理論」だろう。文章を書くとき、とりあえずざーっと書いて、あとで整えればいいというのは王道の書き方だと思うが、著者はそれを良しとしない。「もっと文章を書く一瞬にフォーカスしろや!」と鼓舞してくる。読んで、書いての裏表を無限にリピートしながら、一発で自分のグルーヴを作らんかい!と。ここで投入されるクオンタイズの例えが特に刺さった。J.DillaやBudamunkのビートが大好きなのに、生成AIで文章を校正することはクオンタイズかけて自分の文章のグルーヴを殺してしまっているからだ。別に商業出版でもなんでもない個人のブログで何を外ヅラ気にして書いとんねん、もっと好き放題やってもええやんけと思わされました。

 終盤にかけては、内容の話となっていき、熱い話も増えてくる。彼が「糸くず」と呼ぶ、文章を書く際のピュアな部分をいかに大切にしているか懇々と説明してくれていた。自分が書きたいことを書くことが何よりも大切で、それは他者が価値を決めるのではないという言葉に勇気をもらった。また、文章を書くことが自己救済と思いきや、利他的行為でもあるという話や、「技法」は奪い取れても「姿勢」は奪えないといった話はまさにその通りである。彼の技法や姿勢を頭に入れた上で読むと、これまでと違った読み方で小説が読めそうなので、積読している『古事記』を近いうちに読む。

おまけ◆
この文章をGEMINIに投入して「この文章を町田康の文体を取り入れてリバイスしてください。」と指示した結果もシェアしておきます。それっぽくもあるし、それっぽくもないような…

 かつて拙稿『私の文学史』において、あろうことか自分自身の過去をぺらぺらと喋り散らかしていた事実に、我ながら「お前は何を晒しとんねん」と驚愕した次第であるが、今般、さらに「文章の書き方」という、いわば手の内を晒すような一冊が上梓されたというので、これ幸いと拝読した。

 二〇二〇年代という、猫も杓子も「正しい文章」「清潔な記述」を求めて血眼になる、いわば「全方位校正時代」の真っただ中。さらに生成AIなどという、人間の思考を横取りして整地する機械までが現れた今、本書に漲る「文章を書くこと」への、狂気にも似たパッションに、私はもう、めちゃくちゃに煽られた。

 当ブログとて、生成AIによるお直しを一部導入し、あたかも「シュッとした顔」をして運営してきたわけだが、読み進めるうちに「おい、お前がやってるその『手直し』とやらに、一体全体、なんの意味があるんや?」と、著者の鋭利な視線に喉元を突きつけられているような、そんな恐ろしい読書体験であった。

 本書は二〇二一年から二〇二四年までの連載を纏めたものであり、著者が培ってきた技巧が惜しげもなく披露されている。といっても、そこは町田康。世に溢れる「誰でもわかる文章教室」のように、優しく手取り足取り教えてくれるはずもない。全編、彼以外には出力不可能な、奇怪かつ稠密な文体の連打。しかし、その暴れ狂う言葉の奔流をよくよく観察すれば、全体の構成は驚くほど論理的に解体されており、その一ブロックごとに著者が縦横無尽に暴虐の限りを尽くしているという、極めて高度な曲芸が展開されているのだ。要素だけを抽出せば、至極真っ当。しかし出力されるものはフリーキー。このギャップにこそ、町田康の真髄がある。

 冒頭、著者は「書き方」以前の問題として、読書、それも「繰り返し読むこと」の重要性を説く。これはもう、ぐうの音も出ない正論である。幼少期からのエピソードと共に語られるその遍歴は、読み物として単純に面白い。

 私個人としては、同じ本を二度読むのが苦手な質で、世に読みたい本が溢れている中、なぜ同じ道を二度通らねばならんのか、などと考えていた。しかし、「文章の上達」という具体的な功利を餌にすれば、あるいは。というか、そもそも何のためにデカい本棚を設え、そこに本を並べているのか。いつか読み直すためやろ。その「いつか」を今に設定せんかい、と自責の念に駆られた次第である。

 驚くべきは、この連載が二〇二一年に始まっている点だ。生成AIが世を席巻する以前から、著者は「外付け変換装置」と「内蔵変換装置」という概念を掲げ、現代の言語状況を予見していた。

 外部のデータに依拠した「外付け装置」は、自分の言いたいことを、無難で、綺麗で、誰からも文句の出ない「正しい風の日本語」に整えてくれる。その手軽さは麻薬的ですらある。ポッドキャスト『bringlife』で語られていた、「AIにリバイスされた文章を見て、書き手が『そうそう、これが書きたかったんだ』と思い込むのは、ただの錯覚である」という指摘は、まさに言い得て妙。

 対して、著者が重んじるのは「内蔵変換装置」である。自らの読書経験によって血肉化したパラメーターを、不断の訓練によって操作し、唯一無二のオモシロ文章をひり出す。これこそが書くことの醍醐味であると。

つまり。外付け変換装置は使ってもよいが、使う際はその使用範囲に限界があることを称して、それが唯一無二、「正しい日本語」と思ってたら、多くのことを見逃し、結果的に、貧しい語彙だけを信じて、綺麗事だけを言うて儲けてる層にかもられてそれにも気がつかないアホのまま老いて死にますよ

この一節を読み、私は生成AIとの付き合い方を根底から見直すことを決意した。

 今の技術なら、町田康の全データをAIに食わせ、それっぽい文体を出力させることは可能だろう。しかし、彼はその計算式から逃れるように、唐突なエラー、あるいは「言葉のボム」を文中に投下する。それはさながら、誰にも消せないタギングのようである。

 「一度書いたら戻らない」という不退転の決意ゆえか、「つまり」を連発しながら執拗に核心へ肉薄していくスタイル。結論を急ぎ、タイパだのコスパだのを抜かす、志の低いクソ野郎を置き去りにするような冗長な語り倒し。そして、そのコスパ野郎を真正面から「クソ」と断じる。この蛮勇こそが人間である。文章が書けない人間が、悲惨な末路を辿るパターンのバリエーションも豊富で、実に愉快であった。

 さらに、著者は笑いの種明かしもしてくれている。「他人を笑かそう」と色気を出すのではなく、まず「自分が笑えるか」を基準にせよ。文字だけで人を笑わせるのは至難の業だと思っていたが、この、シンプルかつ盲点。自分が笑えないものを、他人が笑うはずがないのである。

 そして、最も私の胸を穿ったのが「裏表理論」である。

 とりあえず書き飛ばして、後でスマートに整える。そんな「王道の書き方」を、著者は真っ向から否定する。「今、この瞬間、書いているその一瞬に全霊を注げ」と。読んで、書いて、を無限に往復し、一発で自らのグルーヴを刻み込めと。

 ここで引用される「クオンタイズ」の比喩が、音楽好きの私には痛烈に刺さった。J.DillaやBudamunkの、あの絶妙にヨレた、グリッドから逸脱したビートを愛しながら、なぜ自分の文章にはクオンタイズをかけ、その生命力を殺していたのか。商売でもない個人のブログで、何を外ヅラを気にして、行儀良く収まろうとしていたのか。もっと好き勝手に、己の不協和音を響かせてもええやんけ、と。

 終盤、話は「内容」の深淵へと至る。著者が「糸くず」と呼ぶ、表現の源泉にある純粋な衝動。それをいかに守り抜くか。書きたいことを書く、その価値を決めるのは他者ではない。その言葉に、私は深い勇気をもらった。

 文章を書くことは、自己救済であると同時に、巡り巡って他者への利他的行為にもなり得る。「技法」は模倣できても、その根底にある「姿勢」だけは、誰にも奪えない。

 この「町田流」の姿勢を脳髄に刻んだ上で読み直せば、あのお馴染みの小説群も、これまでとは違った、より立体的で、より狂おしい響きを持って迫ってくるに違いない。ひとまず、積読の山に埋もれている『古事記』を掘り起こし、近いうちに、この「裏表」の往復運動に身を投じるつもりである。

2026年1月6日火曜日

置き配的

置き配的/福尾匠

 『シットとシッポ』というポッドキャストを最近聞いており、そのパーソナリティを務める著者の新刊ということで読んだ。一度、本屋で立ち読みした際、その哲学的な語り口に気後れしてしまったのだが、最近知り合った友人と飲んだ帰りに立ち寄ったジュンク堂で、背中を押してもらったのだった。実際、理解が追いつかない部分もあったものの、ものの捉え方の一つ一つが新鮮で興味深く読んだ。

 もともと文芸誌『群像』での連載をまとめた一冊ということもあり、各章はエッセイ的な導入から始まり、そこから哲学的思考が折展開していく。構成面で特に印象的なのは、A面/B面という二部構成を採用している点だ。一つのキーワードやテーマについて、A面では「言葉」、B面では「物」という異なる観点から考察がなされ、議論は並行して進んでいく。

 多くの書籍が章をリレーのようにつなぎ、一冊を通して一つのメッセージへと収束させる構造を取るのに対し、著者は本著を「ハンマー投げ」に喩える。つまり、各章は互いに直接接続されることなく、独立した投擲として存在する。しかし、それらは完全に孤立しているわけではなく、フィードバックとして相互に影響し合っている。さらに、その独立性と関係性を、将棋や囲碁のアナロジーを用いて説明するくだりは見事だし、タイトルにある「置き」とも結びつく。あまりにも鮮やかな見立てに読み終わったあとに唸った。

 タイトルにもなっている「置き配的」とは、著者が提唱する新たな概念である。今となっては当たり前となった宅配便における「置き配」の特徴を拝借しながら、そのラディカルさ、奇妙さを抽出して論理を構築している。置き配では、従来のように宅配業者が荷受人に直接手渡すわけではなく、「置いた」という事実(=玄関前に置かれた荷物の写真、もしくはメール通知)を持って配達完了となる。つまり、実質的なやり取りは発生しないが、「置いた」という事実が完結性を担保する。こういった「置き配的」な観点で現在の言論空間、特にネット上でのコミュニケーションについて分析していく。

 連載ということもあり、論述パートに入る前には導入をきちんと用意してくれているので、最初に想像していたよりは議論に振り落とされるケースは少なかったとはいえ、哲学的な基礎知識や思考能力の不足を正直感じた。それでも、この手の議論に関する本を読むための「大リーグボール養成ギプス」として捉えれば、本著はかなり機能的である。それは単純に自分の見識や論理を開陳するだけではなく、興味関心を哲学のフィルターを通じて見たときにどう見えるのか。思考を深めていく様を横目で見てOJT的に学べるからである。

 「置き配的」という概念がもっともわかりやすく機能するのは、ネット上のコミュニケーション、とりわけX(旧ツイッター)をめぐる議論である。本書はツイッター論として読める側面を強く持っている。

アマゾンが置いたという事実を持ち帰るために荷物を運ぶように、人々は言ってやった・言われたという事実を持ち帰り自陣にアピールするために、ハッシュタグ、引用リツイート、スクリーンショットといった諸々の引用の技術を駆使する。その意味で「置き配的」とは、コミュニケーションを偽装した内向きのパフォーマンスである。

アテンションも欲しい、ポジションも欲しい。しかしアテンションやポジションを取りに行く身振り自体が私の表現から内実を骨抜きにしてしまうので、誰かの表現を示成的なパフォーマンスとして見なすことにおいて、私は私の表現が実のあるものであると、感じることができる。これが「注意の時代」の心性であるだろう。

数十字のチャット、ツイート、コメントから、一日数百字の日記へ。それはたんなる量的な変化ではなく、テキストボックスという閉じられた箱からテキストエディタあるいは日記帳という平面への移行である。そしてこの移行によって言葉は、言うべきことが<疎>である空間のなかで分散し、出来事はあらかじめこしらえられたパッケージから解放され、自伝には書かれようのない<私>の生(life)が、人生(life)にはカウントされない生活(life)として切り出される。

 ツイッター論として、これだけ鋭いことを言える書き手はどれほどいるだろうか。こういった思考の背景にあるドゥールズを筆頭とした哲学者たちの金言も現代を象徴しているように感じることが多かった。そこに時代を超越した、抽象性の高い「哲学」という学問の価値と可能性を垣間見たのだった。つまり、具体的な内容ではなく、論旨の骨組みを抜き出した抽象的なものだからこそ、さまざまなものに転用することが可能だからだ。それはまさに著者が「置き配」という具体的な事象から概念を抽出し、別の領域に適用していく実践そのものであり、これが哲学の醍醐味なのだなと納得した。

 その最たる例が「犬をバギーに乗せて歩くことは犬にとって散歩と言えるのか?」という命題である。日常の些細なことでも哲学的な眼鏡を通じて眺め直してみると、そこには膨大な思考の糸口が転がっている。「蛙化現象」に関する考察も同じく著者ならではの視点が輝いていた。特に村上春樹の小説と接続した瞬間に自分の中でイマイチ像を結ばなかった「蛙化現象」について霧が晴れていくように理解が進んでいった。

 こういった文章を読むと「SNSにおいて自分がどう思われるか?」「他人が何を考えているか?」よりも、もっと愉快で楽しい思考のきっかけが目の前に転がっていることに気付かされるし、注意の払い方については、過去に読んだ「何もしない」で学んだはずなのに喉元過ぎればなんとやらである。やはり思考するためには、フローする情報よりもスタティックな情報に目を通したいものである。自戒の念をこめて。。。

 個人的に特に興味深かったのは、批評圏に関する議論、なかでも批評が抱える二重の「ジャンルレスネス」という指摘である。批評の限界は嘆かれて久しいが、批評がどうして厳しいのか?これだけロジカルに語られたものを読むのが初めてで、目から鱗だった。そして、批評空間よりも感想空間の再構築が必要という主張には納得した。

 というのも、私は日本語ラップのアルバムについて昨年からレビューしているのだが、そこで意識しているのは「批評」というより「感想」だからだ。それゆえ最初に始める際、「日本語ラップ日記」と題して「批評」と受け取られる可能性を回避したことは、著者が日記を重要視している点と少なからず響き合う部分があった。また、批評が内政問題に終始してしまうという指摘も、ヒップホップの現状を見れば頷ける。ゴシップや英語警察、即時的なリアクションばかりが目につく状況に辟易し、私はnoteで書いている。わかりやすい反応がなくても、同じ密度のコミュニケーションを求める誰かに届けばいいなと思いながら、毎週文章を書いている。

 現在のヒップホップの書き手の多くは商業ライターであり、アーティスト本人へのインタビューが主な仕事となっている。その意味では一次情報にアクセスできるが、それは著者の言葉を借りれば「密」な言説空間でもある。そこでは「置き配的」なポジショントークが蔓延しやすい。しかし、「密」ではなく「疎」なものに批評の可能性を見出す。つまり、物や作品と遭遇したときに起こってくる言説が批評たりうるのだと。さらに、作品が作品たりうるのは、それが誕生した瞬間ではなく「あとからやってきたものがそこに表現を見出したとき」という主張は、自分が感想を書いている意味を代弁してくれていた。ネットで何かを書くことは誰でもできる今、どこで何をどうやって書くか。その指針となる一冊だった。

2025年12月28日日曜日

調査する人生

調査する人生/岸政彦


 社会学者である著者と、同じく社会学を専門とする研究者たちとの対談集ということで読んだ。データから傾向を見出し、圧縮、抽出することが価値とされがちな現代において、著者が「再現不能な、一回性の科学」と呼ぶ社会学の一側面の奥深さを知るには、まさにうってつけの一冊だった。

 本著は著者と六人の社会学者との対談集。著者が聞き手となり、各人のこれまでの調査や活動をたどりながら、その中で社会学のあり方そのものが語られている。社会学がここまで広く認知されるようになった背景には、間違いなく著者の功績がある。そのフロントランナーが、他の社会学者たちと向き合い、彼らの調査対象やスタンスを当人の言葉で引き出していくため、議論は自然と頭に入ってくる。すでに読んだことのある研究者については理解が深まり、未読の著作については今すぐ手に取りたくなる。特に石岡氏の『ローカルボクサーと貧困世界』は格闘技好きとして絶対に読みたい一冊だ。

 議論の中心となるのは、社会学における質的調査である。量的調査がデータから確からしさを抽出するアプローチだとすれば、それはデータ社会である現代の価値観と親和性が高い。一方で、数を稼げない質的調査をどのように行い、その結果をどう解釈するのか。本書では、沖縄の若者、部落差別、女性ホームレス、フィリピンのボクサー、在日韓国人など、対象は千差万別でありながら、それぞれが自分なりのスタイルで対象との距離を模索している様子が浮かび上がる。

 質的調査と一口にいっても、著者のようにワンショットサーベイで強い関係性を結ばないスタイルに対して、参与観察で特定の対象と距離を縮めながら、話を聞いていくスタイルでは考え方が異なる。その差分が繰り返し言語化されることで理解が深まっていく。なかでも、著者が沖縄で出会ったおじいさんのエピソードを通じて語られる「他者の合理性」は、人の一側面だけを見て安易に判断してしまいがちな現代において、強く考えさせられるテーマだった。

 タイトルにもある「人生」というのは、本著を貫く重要なテーマである。インタビューにおいて、研究に必要な情報だけを切り取るのではなく、より広い領域で話を聞くことで、想定外の枝葉から多層的で豊かな語りが立ち上がる。この感覚は、自分で『IN OUR LIFE』と名づけたポッドキャスト番組を運営していることもあり、実感を伴って理解できた。7年前にポッドキャストを始めたのは、SNSの窮屈さが最大の理由だったが、大事にしていたのは特定のテーマになるべく収束させず、話者同士の関心に委ねて会話を広げていくことだった。非圧縮でだらだらと話す中で話題は発散していくが、それこそが「人生」なのだと思っている。本著の言葉を借りれば、我々は「重層的な生」を営んでいるのだ。

 事実関係とディテールの違いについての議論も印象的だった。事実偏重の態度では、その場のやり取りだけがすべてだと誤解されがちだが、語りを文字に起こし、理論を重ねることで、出来事はより立体的に、伝わる形になる。理論だけでは手詰まりになり、現場だけでは一過性の話にとどまる。そのバランスを取ることで真理に近づこうとする営みこそが学問だ。

 打越氏、上間氏、朴氏の著作は読んでいたため、その前提を踏まえて読むことで各人の社会学に対するスタンスや対象との距離感を知ることができた。とくに沖縄を調査対象とする著者、打越氏、上間氏の議論では、沖縄特有の空気や風習が深く掘り下げられ、それぞれの著作の「ビハインド・ザ・ストーリー」を覗くような感覚があった。単なる読み物ではなく、学問なのだという当たり前の事実にここでも気付かされた。

 一方で朴氏とは他のメンバーとくらべて議論が平行線を辿る場面があり、興味深かった。「わかる」ということへの認識の違い、エモーショナルになることへの慎重な姿勢。感情に流されてしまいがちな自分にとって、ここまで整然とした態度は簡単に真似できるものではないと感じた。本著を読むと『ヘルシンキ 生活の練習』シリーズで著者が淡々とした描写に徹している理由もよくわかった。

 普遍的にいえば「人に話を聞くこと」が本著のテーマであり、その行為について対話するという構成はメタ的と言える。相手の話を受けて、自分の見解を足して返していくスタイルで、これだけ議論をスイングさせられるのは著者の力量に他ならない。十年ほど前、サイン会でほんの一瞬言葉を交わしたことがある。短い時間にもかかわらず、緊張するこちらの話を引き出し、そこから会話を膨らませてくれた。そんな記憶が、本書を読みながら蘇ったのであった。

2025年12月26日金曜日

ブロッコリー・レボリューション

ブロッコリー・レボリューション/岡田利規

 Palmbooksの作品で著者のことを知り、他の小説も読んでみようと文庫で手に入りやすい本著を読んだ。既存の小説の形式を脱構築していくようなスタイルが印象的だった。

 著者はもともと劇作家であり、小説も書いている。本著はタイトル作を含む短編、中編を交えた作品集となっている。どの作品もテーマ自体は他愛のないことであり、物語的な大きな起伏は用意されていないものの、語り口のユニークさにぐいぐい引き込まれた。

 オープニングを飾る「楽観的な方のケース」は最初こそ女性の一人称で進んでいくのだが、急にカメラが彼女から離れる瞬間が訪れる。しかし、語り口は女性のままで、彼女の視点から見たパン屋の様子、彼氏の視点が語られていく。ぼーっと読んでいると見落としそうなほどシームレスに話が進んでいくのだが、ここで明らかになるのは、著者が「小説の語り手」についてかなり自覚的であるということだ。カップルが同棲を始める話にも関わらず、一般的な会話体が一切なく、それぞれの視点から見た彼、彼女に対する内面の感情が細かく描かれている。それは小説だからこそ書けることであり「演劇」という会話の塊のようなフォーマットでは描けない領域を小説で模索している様が伝わってきた。

 ヒップホップ好きとしては「ショッピングモールで過ごせなかった日」を興味深く読んだ。一つのモチーフとしてラップを取り上げているのだが、「ストリート」と「ショッピングモール」を対比させつつ、どちらも同じくらいにお飾りなものでしかなく、存在自体に必然性がないことを描いている。Tohjiが提示したMall boyzの世界観を小説にしたら、こうなるかもしれないと思わされた。ただそれにしては「ストリート」に対する視点が冷めすぎており、それに呼応させるようにストリート側をダサすぎるラップ描写でラベリングしている点には抵抗があった。

 「黄金期」は終わらない都市開発を舞台にした、頭のいかれた人間の話で読んでいてワクワクした。作中では横浜だが、最近渋谷に行くたびに感じる「一体何がしたいのか?」という気持ちが端的に表現されていて膝を打った。

利便性を高めたい一心でアイデアが労力が資金が、よかれと思って投入された結果が裏目に出たということなのか、無視できない副作用が出てしまったということなのか、ずいぶんとやさぐれた場所、剝き出しになる寸前の殺気がしれっと色濃く漂う場所へと、ここをすっかり変貌させた。

そして、渋谷駅を通るたびに感じるのは、殺気だったのかと気づいた。

各々の目的の優先を妨害してくる他の人間どもの意志を斥け合う。その意志の存在を互いにそもそも認知しないという仕方による、意志の排斥合戦によって、絶えずそこかしこで小さな火花が生じ、こうしてこの場は常時一定以上の濃度の殺気を保つ。

 三島由紀夫賞を受賞した表題作は、ここまで紹介した語り口のユニークさと暴力性が「文学」という形で結晶化した作品となっていた。話の筋としては、妻が家を出ていってしまい、タイでバカンスを一人過ごしているというもの。このとき、妻の一人称でバカンスの様子が語られるのではなく、残された夫が、妻のバカンスでの様子を二人称で語っている。残された側が「こんなバカンスを過ごしているに違いない」という妄想の羅列ともいえるのだが、小説の本質、つまり、小説とは誰かの頭の中で行われる想像の一種なのだということを、人称によって改めて明示している。それは冒頭を飾り、文中で執拗に繰り返される「ぼくはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれども」というセリフに象徴されているのだった。

 巻末に多和田葉子との対談が収録されており、そこでも人称の話題になっていた。著者がタイで印象に残った風景や出来事を小説に落とし込むにあたり、一人称だと自分との距離が近すぎるから、このスタイルになったと語っており納得した。二人とも王道というより革新派ゆえのメタ視点の数々が興味深い。特に二人称の「あなた」から「彼方」に派生させて、近しさと距離の話に変換していく多和田葉子はラッパーだなと改めて感じた。

 タイでのバカンス描写は村上春樹を彷彿とさせる洒落たものが多い。それは食事、音楽、プールというテーマに引っ張られているからそう見えるのだろう。なかでも文中で紹介されるタイのインディーポップバンドが甘酸っぱいサウンドでピッタリだった。一方で、このバカンスの妄想を繰り広げてる語り手の男が暴力的というのが新鮮だ。この結果、バカンスシーンが冗長になりすぎず、物語がキュッと締まっていた。

『わたしたちに許された特別な時間の終わり』も読みたいが絶版してるようで、Kindleでリリースして欲しい。

2025年12月25日木曜日

水曜生まれの子

水曜生まれの子/イーユン・リー

 近年、イーユン・リーの翻訳版がコンスタントにリリースされている。小説を手にする機会が減った今も、彼女だけは例外として追い続けている。久しぶりの短編集は、短いからこその切れ味が冴え渡り、一編読み終えるたびに思わず遠い目をしてしまう、そんな余韻の深い一冊であった。

 本著は2009〜2023年の14年のあいだに発表された短編をまとめた作品である。その歳月を感じさせないほど、まとまりのある短編集という印象だ。それは壮年もしくは中年の女性が主人公であり、子どもの不在を中心に思い悩む姿が繰り返し描かれるからだ。最近の長編においては、自身の出自と距離のある登場人物の小説に挑戦しているが、今回は「中国からの移民女性」という主人公が多く、著者の気配が色濃く漂っていた。

 訳者あとがきにもある通り、著者の人物描写は最小限に抑えられているゆえに切れ味鋭いフレーズが際立つ。長編でも同様なのだが、短編で話の密度が大きくなることに比例するかのようにフレーズの威力も増しており、これほど付箋だらけになる小説もそうそうない。エンパワメントされる言葉もあれば、心の隙間に入り込んでくる言葉もある。

科学では妥当と考えた仮説だけを追究する。人生は、それではすまない。

人生は、死への控えの間だ。

家というのはどれほど照明がついていても、どれも同じであることを思い出させる。すべての家が、無関心な暗闇の中にある。

あたしが人間のどこが嫌いか知ってる?"これはあなたの学びになる"ってすぐ言いたがるところ。だって、学んで何の意味があるの。人生で何かに失敗しても追試は受けられないんだよ

 『理由のない場所』から続く、自死によって子を失った母親の物語がやはり重く響く。先日読んだ『Θの散歩』でも書かれていたが、私自身、親となって以来、我が子か否かに関わらず、幼い命や若い命が失われることへの恐怖は増すばかりだ。そんな中で取り残された親側の心情の繊細な描写の数々は、著者の実体験と筆力がかけ合わさった結果、唯一無二のなんともいえない味わいがある。書くことでしか消化も昇華もできない感情の澱があるのだろう。子育てめぐる以下のアナロジーは、彼女の重たい心境を端的に表している。

子育てとは裁きだ。運のいい者は慎重な、あるいはやみくもな楽観主義のまま、自らの正しさを主張し続けている。

子育てはギャンブルなので、はったりをきかすしか手がないのだ。

 なかでも「幸せだった頃、私たちには別の名前があった」は子どもを失って直後の短編ということもあり、感情の生々しさが他の作品よりも強烈だ。主人公はエクセルシートに記憶にある限り、自身周辺の死者を書き出して、それぞれの死を回想しながら、我が子の死を相対化しようと試みる。アプローチ自体はドライなんだけども、奥にあるウェットな感情が夫との会話のラリーで表現されていて胸が詰まった。積読していた本著をこのタイミングで読んだのはエッセイがリリースされていることを本屋で知ったから。早々にそちらも読みたい。

2025年12月23日火曜日

NAGASAKI BOOKSHELF SNAP 1&2

NAGASAKI BOOKSHELF SNAP

NAGASAKI BOOKSHELF SNAP 2

  ZINEの営業を行う中で、全国にさまざまな独立系書店がある現状を知った。そんな中で知った長崎の出島(!)にあるBOOKSライデンさんが、お店の周年で発行している「本棚のZINE」が面白そうだったので読んだ。くしくもブルータスで本棚特集が組まれており「本棚」とは何かについて考えるタイミングで読めてよかった。

 お店のお客さんの自宅の本棚の写真(カラー)がコメント付きが掲載されているというシンプルな構成のZINE。見ず知らずの人の本棚の写真が、なぜこんなに雄弁なのか。改めて本棚の持つマジックに魅了された。本がランダムに並ぶことで生まれるコンテキストとしか言いようがない何か。きれいに整理されている気持ちよさもあるのだが、整理されていないからこそ、物体として存在しているからこその魅力が本にはあることを改めて実感した。

 本棚を他人に見せることに抵抗のある人がいることは承知しているが、本好きにとって他人の本棚ほど見ることが楽しいものはないかもしれない。流し見していて、ふと目に入ってくる本を読みたくなる。コメントでレコメンドされている本も千差万別で興味深い。また、読書スタイルも紹介されており、本好きとしては皆がどんなシチュエーションで読んでいるか気になるので、本好きにとってはとにかく嬉しい内容ばかりだ。

 なによりもお店に通っているお客さんであることが本棚から伝わってくる点に感動する。『庭の話』『ガザとは何か』など本屋さんがお店を通じて本を提案し、それをお客さんが受け取っている。このZINEに写真を提供する時点でそれなりに関係値があるとは思いつつ、お店とお客さんの本を通じた関係性が本棚から伝わることの尊さよ。だからこそ、これは本屋さんにしか作れないZINEであり、信頼関係が本によって可視化されている稀有な例だと言える。

 写真は世代別に並べられており、若い人が本を読んでいる/読んでないといった議論を横目に「読んでいる人は読んでいる」という事実が冒頭で宣言されているようで痛快だった。事件は会議室ではなく本棚で起こっている。そして、ページをめくるたびに世代が上がっていくのだが、本棚のムードも年月を感じさせるビンテージ性を帯びていくことに驚くのだった。それは写真の画質や撮り方の影響もあるだろうが、本の装丁が影響してるように映った。個人が購入している本だからこそ、古本屋とは別のビンテージ性、特定の年代が個人の本棚から漂ってくるのだ。多くの本が背表紙しか見えていないのに、そこさえも時代性を帯びていることに装丁の奥深さを感じた。有名な人の本棚を見ることもその人の思考の一端を感じられて興味深いが、それと同じくらい、どこかの誰かの本棚も面白いことを教えてくれるZINEだった。