2025年12月28日日曜日

調査する人生

調査する人生/岸政彦


 社会学者である著者と、同じく社会学を専門とする研究者たちとの対談集ということで読んだ。データから傾向を見出し、圧縮、抽出することが価値とされがちな現代において、著者が「再現不能な、一回性の科学」と呼ぶ社会学の一側面の奥深さを知るには、まさにうってつけの一冊だった。

 本著は著者と六人の社会学者との対談集。著者が聞き手となり、各人のこれまでの調査や活動をたどりながら、その中で社会学のあり方そのものが語られている。社会学がここまで広く認知されるようになった背景には、間違いなく著者の功績がある。そのフロントランナーが、他の社会学者たちと向き合い、彼らの調査対象やスタンスを当人の言葉で引き出していくため、議論は自然と頭に入ってくる。すでに読んだことのある研究者については理解が深まり、未読の著作については今すぐ手に取りたくなる。特に石岡氏の『ローカルボクサーと貧困世界』は格闘技好きとして絶対に読みたい一冊だ。

 議論の中心となるのは、社会学における質的調査である。量的調査がデータから確からしさを抽出するアプローチだとすれば、それはデータ社会である現代の価値観と親和性が高い。一方で、数を稼げない質的調査をどのように行い、その結果をどう解釈するのか。本書では、沖縄の若者、部落差別、女性ホームレス、フィリピンのボクサー、在日韓国人など、対象は千差万別でありながら、それぞれが自分なりのスタイルで対象との距離を模索している様子が浮かび上がる。

 質的調査と一口にいっても、著者のようにワンショットサーベイで強い関係性を結ばないスタイルに対して、参与観察で特定の対象と距離を縮めながら、話を聞いていくスタイルでは考え方が異なる。その差分が繰り返し言語化されることで理解が深まっていく。なかでも、著者が沖縄で出会ったおじいさんのエピソードを通じて語られる「他者の合理性」は、人の一側面だけを見て安易に判断してしまいがちな現代において、強く考えさせられるテーマだった。

 タイトルにもある「人生」というのは、本著を貫く重要なテーマである。インタビューにおいて、研究に必要な情報だけを切り取るのではなく、より広い領域で話を聞くことで、想定外の枝葉から多層的で豊かな語りが立ち上がる。この感覚は、自分で『IN OUR LIFE』と名づけたポッドキャスト番組を運営していることもあり、実感を伴って理解できた。7年前にポッドキャストを始めたのは、SNSの窮屈さが最大の理由だったが、大事にしていたのは特定のテーマになるべく収束させず、話者同士の関心に委ねて会話を広げていくことだった。非圧縮でだらだらと話す中で話題は発散していくが、それこそが「人生」なのだと思っている。本著の言葉を借りれば、我々は「重層的な生」を営んでいるのだ。

 事実関係とディテールの違いについての議論も印象的だった。事実偏重の態度では、その場のやり取りだけがすべてだと誤解されがちだが、語りを文字に起こし、理論を重ねることで、出来事はより立体的に、伝わる形になる。理論だけでは手詰まりになり、現場だけでは一過性の話にとどまる。そのバランスを取ることで真理に近づこうとする営みこそが学問だ。

 打越氏、上間氏、朴氏の著作は読んでいたため、その前提を踏まえて読むことで各人の社会学に対するスタンスや対象との距離感を知ることができた。とくに沖縄を調査対象とする著者、打越氏、上間氏の議論では、沖縄特有の空気や風習が深く掘り下げられ、それぞれの著作の「ビハインド・ザ・ストーリー」を覗くような感覚があった。単なる読み物ではなく、学問なのだという当たり前の事実にここでも気付かされた。

 一方で朴氏とは他のメンバーとくらべて議論が平行線を辿る場面があり、興味深かった。「わかる」ということへの認識の違い、エモーショナルになることへの慎重な姿勢。感情に流されてしまいがちな自分にとって、ここまで整然とした態度は簡単に真似できるものではないと感じた。本著を読むと『ヘルシンキ 生活の練習』シリーズで著者が淡々とした描写に徹している理由もよくわかった。

 普遍的にいえば「人に話を聞くこと」が本著のテーマであり、その行為について対話するという構成はメタ的と言える。相手の話を受けて、自分の見解を足して返していくスタイルで、これだけ議論をスイングさせられるのは著者の力量に他ならない。十年ほど前、サイン会でほんの一瞬言葉を交わしたことがある。短い時間にもかかわらず、緊張するこちらの話を引き出し、そこから会話を膨らませてくれた。そんな記憶が、本書を読みながら蘇ったのであった。

2025年12月26日金曜日

ブロッコリー・レボリューション

ブロッコリー・レボリューション/岡田利規

 Palmbooksの作品で著者のことを知り、他の小説も読んでみようと文庫で手に入りやすい本著を読んだ。既存の小説の形式を脱構築していくようなスタイルが印象的だった。

 著者はもともと劇作家であり、小説も書いている。本著はタイトル作を含む短編、中編を交えた作品集となっている。どの作品もテーマ自体は他愛のないことであり、物語的な大きな起伏は用意されていないものの、語り口のユニークさにぐいぐい引き込まれた。

 オープニングを飾る「楽観的な方のケース」は最初こそ女性の一人称で進んでいくのだが、急にカメラが彼女から離れる瞬間が訪れる。しかし、語り口は女性のままで、彼女の視点から見たパン屋の様子、彼氏の視点が語られていく。ぼーっと読んでいると見落としそうなほどシームレスに話が進んでいくのだが、ここで明らかになるのは、著者が「小説の語り手」についてかなり自覚的であるということだ。カップルが同棲を始める話にも関わらず、一般的な会話体が一切なく、それぞれの視点から見た彼、彼女に対する内面の感情が細かく描かれている。それは小説だからこそ書けることであり「演劇」という会話の塊のようなフォーマットでは描けない領域を小説で模索している様が伝わってきた。

 ヒップホップ好きとしては「ショッピングモールで過ごせなかった日」を興味深く読んだ。一つのモチーフとしてラップを取り上げているのだが、「ストリート」と「ショッピングモール」を対比させつつ、どちらも同じくらいにお飾りなものでしかなく、存在自体に必然性がないことを描いている。Tohjiが提示したMall boyzの世界観を小説にしたら、こうなるかもしれないと思わされた。ただそれにしては「ストリート」に対する視点が冷めすぎており、それに呼応させるようにストリート側をダサすぎるラップ描写でラベリングしている点には抵抗があった。

 「黄金期」は終わらない都市開発を舞台にした、頭のいかれた人間の話で読んでいてワクワクした。作中では横浜だが、最近渋谷に行くたびに感じる「一体何がしたいのか?」という気持ちが端的に表現されていて膝を打った。

利便性を高めたい一心でアイデアが労力が資金が、よかれと思って投入された結果が裏目に出たということなのか、無視できない副作用が出てしまったということなのか、ずいぶんとやさぐれた場所、剝き出しになる寸前の殺気がしれっと色濃く漂う場所へと、ここをすっかり変貌させた。

そして、渋谷駅を通るたびに感じるのは、殺気だったのかと気づいた。

各々の目的の優先を妨害してくる他の人間どもの意志を斥け合う。その意志の存在を互いにそもそも認知しないという仕方による、意志の排斥合戦によって、絶えずそこかしこで小さな火花が生じ、こうしてこの場は常時一定以上の濃度の殺気を保つ。

 三島由紀夫賞を受賞した表題作は、ここまで紹介した語り口のユニークさと暴力性が「文学」という形で結晶化した作品となっていた。話の筋としては、妻が家を出ていってしまい、タイでバカンスを一人過ごしているというもの。このとき、妻の一人称でバカンスの様子が語られるのではなく、残された夫が、妻のバカンスでの様子を二人称で語っている。残された側が「こんなバカンスを過ごしているに違いない」という妄想の羅列ともいえるのだが、小説の本質、つまり、小説とは誰かの頭の中で行われる想像の一種なのだということを、人称によって改めて明示している。それは冒頭を飾り、文中で執拗に繰り返される「ぼくはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれども」というセリフに象徴されているのだった。

 巻末に多和田葉子との対談が収録されており、そこでも人称の話題になっていた。著者がタイで印象に残った風景や出来事を小説に落とし込むにあたり、一人称だと自分との距離が近すぎるから、このスタイルになったと語っており納得した。二人とも王道というより革新派ゆえのメタ視点の数々が興味深い。特に二人称の「あなた」から「彼方」に派生させて、近しさと距離の話に変換していく多和田葉子はラッパーだなと改めて感じた。

 タイでのバカンス描写は村上春樹を彷彿とさせる洒落たものが多い。それは食事、音楽、プールというテーマに引っ張られているからそう見えるのだろう。なかでも文中で紹介されるタイのインディーポップバンドが甘酸っぱいサウンドでピッタリだった。一方で、このバカンスの妄想を繰り広げてる語り手の男が暴力的というのが新鮮だ。この結果、バカンスシーンが冗長になりすぎず、物語がキュッと締まっていた。

『わたしたちに許された特別な時間の終わり』も読みたいが絶版してるようで、Kindleでリリースして欲しい。

2025年12月25日木曜日

水曜生まれの子

水曜生まれの子/イーユン・リー

 近年、イーユン・リーの翻訳版がコンスタントにリリースされている。小説を手にする機会が減った今も、彼女だけは例外として追い続けている。久しぶりの短編集は、短いからこその切れ味が冴え渡り、一編読み終えるたびに思わず遠い目をしてしまう、そんな余韻の深い一冊であった。

 本著は2009〜2023年の14年のあいだに発表された短編をまとめた作品である。その歳月を感じさせないほど、まとまりのある短編集という印象だ。それは壮年もしくは中年の女性が主人公であり、子どもの不在を中心に思い悩む姿が繰り返し描かれるからだ。最近の長編においては、自身の出自と距離のある登場人物の小説に挑戦しているが、今回は「中国からの移民女性」という主人公が多く、著者の気配が色濃く漂っていた。

 訳者あとがきにもある通り、著者の人物描写は最小限に抑えられているゆえに切れ味鋭いフレーズが際立つ。長編でも同様なのだが、短編で話の密度が大きくなることに比例するかのようにフレーズの威力も増しており、これほど付箋だらけになる小説もそうそうない。エンパワメントされる言葉もあれば、心の隙間に入り込んでくる言葉もある。

科学では妥当と考えた仮説だけを追究する。人生は、それではすまない。

人生は、死への控えの間だ。

家というのはどれほど照明がついていても、どれも同じであることを思い出させる。すべての家が、無関心な暗闇の中にある。

あたしが人間のどこが嫌いか知ってる?"これはあなたの学びになる"ってすぐ言いたがるところ。だって、学んで何の意味があるの。人生で何かに失敗しても追試は受けられないんだよ

 『理由のない場所』から続く、自死によって子を失った母親の物語がやはり重く響く。先日読んだ『Θの散歩』でも書かれていたが、私自身、親となって以来、我が子か否かに関わらず、幼い命や若い命が失われることへの恐怖は増すばかりだ。そんな中で取り残された親側の心情の繊細な描写の数々は、著者の実体験と筆力がかけ合わさった結果、唯一無二のなんともいえない味わいがある。書くことでしか消化も昇華もできない感情の澱があるのだろう。子育てめぐる以下のアナロジーは、彼女の重たい心境を端的に表している。

子育てとは裁きだ。運のいい者は慎重な、あるいはやみくもな楽観主義のまま、自らの正しさを主張し続けている。

子育てはギャンブルなので、はったりをきかすしか手がないのだ。

 なかでも「幸せだった頃、私たちには別の名前があった」は子どもを失って直後の短編ということもあり、感情の生々しさが他の作品よりも強烈だ。主人公はエクセルシートに記憶にある限り、自身周辺の死者を書き出して、それぞれの死を回想しながら、我が子の死を相対化しようと試みる。アプローチ自体はドライなんだけども、奥にあるウェットな感情が夫との会話のラリーで表現されていて胸が詰まった。積読していた本著をこのタイミングで読んだのはエッセイがリリースされていることを本屋で知ったから。早々にそちらも読みたい。

2025年12月23日火曜日

NAGASAKI BOOKSHELF SNAP 1&2

NAGASAKI BOOKSHELF SNAP

NAGASAKI BOOKSHELF SNAP 2

  ZINEの営業を行う中で、全国にさまざまな独立系書店がある現状を知った。そんな中で知った長崎の出島(!)にあるBOOKSライデンさんが、お店の周年で発行している「本棚のZINE」が面白そうだったので読んだ。くしくもブルータスで本棚特集が組まれており「本棚」とは何かについて考えるタイミングで読めてよかった。

 お店のお客さんの自宅の本棚の写真(カラー)がコメント付きが掲載されているというシンプルな構成のZINE。見ず知らずの人の本棚の写真が、なぜこんなに雄弁なのか。改めて本棚の持つマジックに魅了された。本がランダムに並ぶことで生まれるコンテキストとしか言いようがない何か。きれいに整理されている気持ちよさもあるのだが、整理されていないからこそ、物体として存在しているからこその魅力が本にはあることを改めて実感した。

 本棚を他人に見せることに抵抗のある人がいることは承知しているが、本好きにとって他人の本棚ほど見ることが楽しいものはないかもしれない。流し見していて、ふと目に入ってくる本を読みたくなる。コメントでレコメンドされている本も千差万別で興味深い。また、読書スタイルも紹介されており、本好きとしては皆がどんなシチュエーションで読んでいるか気になるので、本好きにとってはとにかく嬉しい内容ばかりだ。

 なによりもお店に通っているお客さんであることが本棚から伝わってくる点に感動する。『庭の話』『ガザとは何か』など本屋さんがお店を通じて本を提案し、それをお客さんが受け取っている。このZINEに写真を提供する時点でそれなりに関係値があるとは思いつつ、お店とお客さんの本を通じた関係性が本棚から伝わることの尊さよ。だからこそ、これは本屋さんにしか作れないZINEであり、信頼関係が本によって可視化されている稀有な例だと言える。

 写真は世代別に並べられており、若い人が本を読んでいる/読んでないといった議論を横目に「読んでいる人は読んでいる」という事実が冒頭で宣言されているようで痛快だった。事件は会議室ではなく本棚で起こっている。そして、ページをめくるたびに世代が上がっていくのだが、本棚のムードも年月を感じさせるビンテージ性を帯びていくことに驚くのだった。それは写真の画質や撮り方の影響もあるだろうが、本の装丁が影響してるように映った。個人が購入している本だからこそ、古本屋とは別のビンテージ性、特定の年代が個人の本棚から漂ってくるのだ。多くの本が背表紙しか見えていないのに、そこさえも時代性を帯びていることに装丁の奥深さを感じた。有名な人の本棚を見ることもその人の思考の一端を感じられて興味深いが、それと同じくらい、どこかの誰かの本棚も面白いことを教えてくれるZINEだった。

2025年12月22日月曜日

Unofficial Fan Book of FKGB

 Unofficial Fan Book of FKGB

 前作がかなり興味深かったので、コンビニでプリントアウトして読んだ。すでに印刷可能な期間は終了してしまったが、今回もファンならではの視点がユニークで興味深かった。

 今回は、ICE BAHNの歴史と各メンバーの細かい略歴について紹介されている。特に2000年代あたりは、彼らがシーンに登場したタイミングなのだが、ネットで情報が取りづらい。それをキャッチアップするには最適の資料だった。前作から引き続き、著者の引用に関する意識の高さには頭が上がらない。インターネット普及以降、誰もがいつでも簡単に追体験できる環境において、まるで自分が見た、聞いたかのように語る人間が山ほどいる中で、どこから情報をもってきたか、きっちりクレジットされており、さながら論文のようである。特に2003年のUMBのくだりの真摯さには自戒の念をこめて胸に刻みたい。

 このZINEのハイライトは「姓はICE BAHN 名はFORK」に関する考察である。FORKのフリースタイルダンジョン登場時に一躍話題になったフレーズであり、最近ではWorldwide Skippa「メタナイト」でサンプリングされたこともあり、再度脚光を浴びている。ラッパーの一つのリリックにフォーカスして、ここまで論旨を展開している文章はそうそうお目にかかれない。特に最近は楽曲のリリースが大量にあり、一ラッパーの、一リリックに注目しづらい環境において、ファンが長年考えてきたことは、自分も含めた在野の似非日本語ラップ評論家の上の上をいく愛情に溢れているのであった。フレーズの歴史と成り立ち、それが持つ本質的な意味にまでリーチしているので、こういうリリックの掘り下げ方は勉強になった。

 著者が実際に足を運んだライブのセットリストも興味深い。今のICE BAHNがどんな曲をライブで披露しているのか、それは現場にいた人しか基本的には知り得ない情報であり貴重だ。しかも、その日のシチュエーションによって色んなことが起こっている(METERSやDa-Dee-Mixとのセッション、HIKIGANE SOUNDとの邂逅など)そんなライブレポを読むと「現役でライブをやっているのだなー」と、ICE BAHNのヒップホップ愛を感じるのだった。

 最後にはChat GPTで作成したFORKファン向けのネイルや部屋のデコレーション案が掲載されており、ギャグなのか、マジなのかわからないものの、熱い思いは伝わってきた。紹介が遅れてしまって、著者のnoteは無料で読めるので、興味ある方はそちらも要チェック。

2025年12月18日木曜日

へべれけ人生③

へべれけ人生③

 文学フリマはほぼ目的買いだった中、数少ないセレンディピティ的に購入したZINE。実は著者の方とブースが隣で、こういう機会も文学フリマの出ることの面白さの一つだ。現在、①〜④までシリーズで刊行されているうちの3作目。郊外への転居&子どもの誕生により、外で飲む機会はかなり減っている中で、お酒を嗜むシチュエーションはもっぱら家なのでピッタリな一冊だった。

 雑誌のような作りで巻頭に特集が用意されており、他にもエッセイ、短歌、日記とすべてお酒と食事にまつわる内容となっている。前述のとおり、特集は家飲み。「家で何をつまみに飲むか?」飲みの場で友人と話したとしても、ざっくりした内容にしかならないし、覚えてもない。しかし、本著では詳しく書かれていて、それが興味深い。ゆで卵、焼きなすといったミニマリスト的つまみアプローチや、文章から垣間見える著者の背景も含めてグイグイ読めるし、グイグイ飲める。なかでも「セブンで豪遊」は著者がセブンイレブンで愛好するおつまみが書かれており参考になった。(ジェネリックあみじゃが、酔っ払った帰り道によく買う。)

 私は最近、ジャスミン焼酎『茉莉花』にハマっている。缶で飲んだときに美味しかった記憶がある中で近所のドラッグストアでボトルを発見。なんとなく買ってみたら、かなり調子がいい。ソーダ水で割ってもいいし、ジャスミン茶で割っても美味しい。歳を重ねる中で、重たいお酒でべろべろになるほど飲みたい気持ちもないので、自分で濃度調整できて、いい感じの着地を探すことができる万能選手である。

 缶チューハイは群雄割拠だが、最近はサントリーの「-196℃シリーズ」をよく飲む。パッケージが新しくなった水色のやつ。フルーツの味がかなり濃厚で、ジュース的感覚でサクッと飲めるのがよい。あとは『本搾り』のライム味。これは中原昌也の日記を読んだときに知って飲んで、あまりのおいしさに毎日飲んでいるときがあった。モヒート方向のライムのお酒として抜群の出来。近所のドラッグストアに常置されていることもあり、安定したスタメンだ。こんな自己開示を誘発するほど、家飲みの話って実は語りしろがあるのだな〜と読んで気付かされた。

 個人的には酒場の話はエッセイのテーマとしてピッタリだと思う。本著でも忘れられないシリーズとして二つのお店が取り上げられていて、どちらの話もおいしそうだった。タコスが美味しい焼き鳥屋、黒田はいつか必ず行きたいし、吉本ばなな「キッチン」から導き出されるカツ丼エッセイは、同じ本でも切り口次第で色んな読み方があることを教えてくれた。他のシリーズも含めてお酒好きな方にはおすすめのZINE。

2025年12月13日土曜日

とある都市生活者のいちにち

とある都市生活者のいちにち/植本一子

 日記ブームが続く中、そのフロントランナーである植本さんの久しぶりの日記。近作はエッセイ集が続いていたこともあり、原点回帰を感じさせる内容で興味深かった。

 もともとnoteに掲載されていた日記がベースであり、読むだけなら無料で読める。それでも一冊の本としてまとめられたことで、416ページ、約13万字という特大ボリュームとなっておりファンとしては嬉しい仕様だ。そんな重さを感じさせない軽やかで読みやすい文体は健在だ。出版用に書いた日記ではなく、ウェブで不特定多数に向けて書かれたことによる「コミュニケーションとしての文章」という性質が、この軽やかさの理由なのだろう。

 ウェブでは味わえない本が持つモノとしての魅力が素晴らしい。基本、車で移動しない都市生活者は荷物が少なければ少ないほどいいわけで、ポケットや鞄に入れてさっと読める文庫サイズは理にかなっている。今回最も驚いたのはフォントだ。日付、数字、引用、アルファベットなどなど多様なフォントが入り乱れており、これだけ派手な紙面は新鮮だった。表紙のタイトルはその象徴であり、特にクネクネした文字が最高。自費出版ゆえの自由さが存分に発揮されている。装丁については、植本さんの作品に頻出している高橋さんの解説に詳しい。(上記商品リンクの中で読めます。)

 そして、肝心の内容だが、正直に言えば、今回の最大のトピックは自分が登場していることだ。一介のファンボーイに過ぎない自分が、日記に名前が載る日が来るとは夢にも思わなかった。文学フリマに誘っていただいたこと、図々しくも「ZINEFESTに出ましょう」と自分から提案したこと、さらに自分のZINEのタイトルまで印字されているなんて…これは一生の宝物になった。

 日記ブームと比例するように、「書くことの暴力性」が語られる機会も増えた。実際、他者を書く際に求められる配慮は十年前とは比べ物にならないほど高まっている。だが、その暴力性は書かれる喜びと表裏一体でもある。書いた側が忘れていたような瞬間が丁寧に掬われ、記録される。その尊さを、自分自身が書かれたことであらためて実感した。

 この日記には約160人以上もの人物が登場し、都市で生き生きと暮らす人々の日常が植本さんの視点を通じて記録されている。前述した文体の軽やかさは、フットワークの軽さ、どんな人でも受けとめる懐の深さを体現していると言えるだろう。象徴的なのは自転車による移動である。縦横無尽に街を駆け、次々と人に会い、その都度日常が更新されていく姿はイメージする都市生活者そのものだった。

 また、印象的だったのは、植本さんがこれまでの著作で訴えていた「さびしさ」に自分を重ね合わせる読者たちの存在だ。しかし植本さんは安易には寄り添わない。その距離感にこそ、ほんとうの優しさが宿っているように思えた。

さびしく思う読者の人もいるのだろうか?確かにいるかもしれないけれど、どうだろう。だからといって変わらないわけにはいかない。変わったようで変わっていないところもある。そうじゃない?

 個人的に一番グッときたのは、ナルゲンのボトルの巡り合わせだった。ECD氏が使っていたボトルがなくなり、なんとなく覗いたガレージセールで再び同じようなボトルと遭遇する。日々の生活で、こういった運命的な瞬間はいくらでもあり、正直それは特段意味のない偶然でもあるわけだが、それが日記として記録されることで、夜空に輝く星から星座を紡ぎ出すように意味を見出すことができる。(日付がジャスト1ヶ月後…!)ここに日記の醍醐味が詰まっていた。

 自費出版の流れが2作品分、掲載されており、どのように制作、営業、販売しているかを知ることができる点もこれまでの日記にない特徴である。自ら本を作る人が増えた今、多くの作り手にとって貴重なリファレンスになるだろう。その手つきは極めて丁寧かつ自分を追い込むプロフェッショナルでもある。作家は締切に追われて書く人が多いイメージを抱きがちだが、植本さんの場合、締切を意識しつつも、それ以前に「書くこと」が大事で好きなんだろうなと伝わってくる。だからこそ、ここ二作のエッセイの完成度に納得できたし、それが実現している背景は、書かされているのではなく、書いている「発注なき書き手」だからなのかもしれない。さらに日記内でも言及されている通り、場当たり的にどんどんコネクトしていって、いつのまにか何かができあがり、そこに人が集まり、ものを売っていく。そんな巻き込み力にも圧倒された。

 私が作ったZINEについて、ありがたいことに植本さんからたくさんご意見をいただいた。そこでプロの洗礼を味わったことも書いておきたい。苦くもいい経験だったから。自分は内容さえ良ければ読んでもらえると思い込んでおり「どうすれば確実に読まれ、届くのか」という視点をまったく持っていなかったのだ。確かに売上だけ見れば、一度買ってもらえれば数字上はそれで終わりである。しかし、実際に読まれ、人の心を動かすことがさまざまな可能性を生み出す。本が連れて行ってくれる未来は、読まれて初めて開けるからだ。

 今回の日記を読むと、植本さんは、そうして多くの人に読まれた結果、そこから生まれる人間関係に支えられながら都市で暮らしている姿が克明に刻まれている。家族という閉じた枠組みではなくとも、互助のネットワークを自ら築くことで、家族観を拡張していく実践の記録でもある。限定特典のエッセイも、まさに既存の家族観を越境していく内容で、この日記集にふさわしいものと言えるだろう。今後は日記というよりエッセイにシフトしていくようなので、日記をまとまった形で読める機会は少なくなるかもしれない。それでも植本さんの日記だからこそ味わえる日記の面白さは間違いなくあるので、またいつか出して欲しい。