2025年11月20日木曜日

平凡な生活 DJ PATSATの日記

平凡な生活  DJ PATSATの日記/DJ PATSAT

 ずいぶん前に、Riverside Reading Clubの投稿で『DJ PATSATの日記』の存在を知り、買いたいと思ったときには既に入手できなくなっていたvol.1 & vol.2が文庫サイズで一冊にまとまり、書き下ろしも加わってリイシューということで読んだ。『PATSATSHIT』『ほんまのきもち』も楽しく読んだので期待していたが、本著はまさに原点にして頂点と言える。日記ブームの中、さまざまなスタイルの日記があるものの、この唯一無二性は他の追随を許さない。本著の言葉を借りるならば、「読む前と読んだ後では確実に見える景色が違う」、そういう類の本だった。

 本著は、2020年の vol.1、2022年の vol.2、そして日付のない日記の三部構成。まず、装丁のかっこよさに目を奪われる。モノクロの版画のような写真(?)が外カバーとして巻かれた角ばった文庫。外で本を読むときは大抵ブックカバーしているが、装丁がかっこいいし、持ち歩きには最高のサイズなので、かばんにそのままポンと入れて、移動の合間に読むことが多かった。それは著者が一貫して伝え、実践し、語っている「街で生きる」というテーゼと響き合う行為であり、装丁によって行動が駆動される。そんな本という物体の魅力を改めて感じた。

 vol.1 はコロナ禍真っ只中の日記。当時、人々がどう過ごしているのか知りたくて多くの日記を読んだが、今読むとまるでSFの世界であり、改めてあの頃の特異さを再認識した。著者は大阪・淡路で自転車屋を経営し、人と接して初めて成り立つ仕事をしている。そんな状況の中で、家族、同僚、街の人たちとどのように日々生きていたのかが描かれている。お店をやっていることで、いろんな人が訪ねてくるシーンが特に興味深い。自転車という誰もが使う交通手段、さらには土地柄もあいまって、個性豊かな人たちが続々とお店にやってくる。『PATSATSHIT』を読んだときも感じたが、鋭い観察眼と描写力に基づいた独特の文体は、まるで小説を読んでいるかのようだ。また、変わった客や悪意のある客のことを単に「わるい人」として一面的に描くのではなく、多面的に描いていることから、著者の優しさが伝わってきた。

 本著は店舗日誌、読書日記、さまざまな日記的側面を持ち合わせているのだが、なかでも一番心に残ったのは、育児日記としての側面だった。著者には二人の子どもがおり、小学校・保育園で起こる悲喜交々に何度も感情を揺さぶられた。子どもたちが成長し、自分たちのコミュニティ、関係性を作っていく様をこんなに豊かに書けるのかと何度も唸らされた。特に長男のエピソードは、何気ない話なのだが、著者の筆力もあいまって忘れられないものばかりだ。友人とのけん玉バトルの顛末や、学校に行きたがらない場面で友人たちが登場する場面は涙してしまった。また、長男が周囲と協調しない姿を目にして、自身の「空気を読んできた」過去と照らし合わせ、自分を超えたと認識する場面は、なかなかできない思考の展開だ。

 次男をめぐっては、保育園との関係性の構築が印象的だった。私自身も毎日の送り迎えの中で、保育園、幼稚園という場所の尊さを痛感する日々なわけだが、著者は自分とは別ベクトルで保育園をとらえている点が興味深かった。やはりここでも、お店に来るお客さんに対する眼差しと同様に圧倒的な鋭さと優しさが発揮されていた。先日読んだ『それがやさしさじゃ困る』にも通ずるが、大人は子どもを甘く見るのではなく、しっかり観察した結果に基づいてフィードバックする必要があると思うし、著者は自分の子どもだけではなく、子どもたち全体を本当の意味で「見ている」のだなと読んでいて何度も感じた。その眼差しを前に、自分が一体どれだけ見れているのだろうかと考えさせられた。

 日々の出来事を記録するだけでも日記は面白いが、本著では、各出来事を起点に思想が展開していく点が、並の日記と一線を画している。読んでいるあいだ、インディペンデントであることの意義について何度も考えさせられた。本の引用も含め、これだけ自分の考えを言語化できて、さらには実践できる人間がどれだけいるだろうか。「ストリートナレッジ」とは本著のような作品のために用意された言葉だろう。このラインにハッとした人は全員読むべきクラシックだ。

誰であれ、どのような行為であれ、人が人に手を差し伸べるということには、ある確実な物質的基盤があり、秩序があり、意味がある。その懸命な営みには、素直に美しいと思わせるものがある。瞬間的に芽生えた愛にはそれ自体としての目的はない。しかし思いやりの気持ちを積み重ねることによって、社会という本当に捉えどころのないものに対する観察と考えが深まってゆく。

2025年11月13日木曜日

田我流 ONE MAN LIVE TOUR『流 ~ながれ』東京公演


  田我流のワンマンライブが東京で開催されると知り行ってきた。田我流のライブは2012年『B級映画のように2』のリリパ@WWW、2018年に開催されたCINRAのイベント以来。音楽的に大きな方向転換を果たした『RIDE ON TIME』以降のライブは初めてだった。彼がその間に探求してきた「ヒップホップ道」をしかと感じる本当に素晴らしいライブだった。

 18時45分くらいに会場に着いたのだが、幕前BGMがラジオ形式でNORIKIYOがゲスト出演しているタイミングだった。二人のフランクなトークと共にエクスクルーシブなNORIKIYOのビートジャックが流れてバイブスは満タン。幕前BGMでラジオというのは理にかなっていて、立って待つときの退屈しのぎにベスト。単純なDJではなく、そこで流れる曲に対する田我流の思いも聞けてよかった。ライブ前の待ち時間は持て余すことが多いので、他のラッパーも真似して欲しい。

 また、他にも田我流のエポックメイキングなスタイルとしては、ライブのセットリストを事前に開示しているところだ。当然、一部の曲はマスクされているが、これによって観客たちは事前に盛り上がるための予習ができる。観客たちもライブを構成するバンドメンバーという認識があることが、こういった振る舞いから伝わってくるし、実際、観客の盛り上がりはやべ〜勢いだった。

 息子であろうBIG5LOWによるラップが流れてライブがスタート、まさかの1曲目はビートジャック。Camp Lo 「Luchini」のビートの上で縦横無尽にラップする田我流。今回はパーカッション、トランペット、テナーサックス、バリトンサックス、MAHBIEのターンテーブルという半生バンド編成。「Luchini」はそんなホーン中心の編成が最も映えるクラシックなヒップホップビートである。ここに田我流の温故知新スタイルが端的に表現されており、原曲は1997年リリースだが、2025年仕様の現行のフロウでラップしているあたり、田我流が田我流たる所以と言える。

 当然オケオンリー、マイク一本で魅せていく。ラップが上手いのは当然として、MCを含めてライブの構成が素晴らしかった。チルなムードを演出するのもうまいし、アッパーモードで盛り上げるのもお手のもので、ライブ内での緩急が本当に見事だった。ゆえに本人が繰り返して唱えていたとおり、ライブが「光陰矢の如し」であっという間に終わった印象だった。

 前半はトランペッター黒田卓也が大きくフィーチャーされたEP『Old Rookie』の曲を中心に、前述のホーン部隊が活きる曲を立て続けに披露。なかでも「TARAREBA」のライブでの爆発力がとんでもないことになっていて、ホーンアレンジによってBrasstracksを彷彿とさせるもので原曲にない勢いが加わり爆発していた。

 アレンジの観点でのハイライトは「サウダージ」だろう。ツアータイトル「流」の元ネタとも言える曲で、原曲ではギターが担っていたメロディを同じくホーンでアレンジ。トランペット、テナー、バリトンの三発の重奏的なホーンサウンドは楽曲の新たな魅力を引き出していた。他の楽曲ではサブの役割が強かったパーカッションも、この曲ではここぞとばかりにコンガを叩きまくり。原曲がもつラテンのノリがより強調されていた。この曲に限らず、さまざまなアレンジがライブで施されているのだが、それは田我流が自身でビートメイクを手がけるようになったことが大きく影響しているだろう。ラッパーというより、一音楽家という側面が強くなっており、シェイカー、口笛、フィンガースナップを本人がこなすという、ラッパーとは思えない楽器的な引き出しをこれでもかと披露していた。

 一番とんでもないことになっていたのは「やべ〜勢いですげ〜盛り上がる(REMIX)」→「Ride On Time」小学生の頃、プールでやった「洗濯機」よろしく、フロアにいる人間が反時計回りに動いていくという新たな形のモッシュ。後方で見ていたものの「自分も渦に飲み込まれるの?!」という興奮と恐怖が錯綜する気持ちになった。(実際にはギリ手前で巻き込まれなかった。)REMIXという名のとおり、ハードコアバンド調のアレンジが挟まれ、そこにFlat Line ClassicsのBIG FAFが肩車要員として登場、田我流と合わせて3m超級の熊を彷彿とさせる大きさになり、観客をアジテートしていた。そして「Ride On Time」この規模のライブハウスでトラップの楽曲が最大限に盛り上がると、こんなに床が揺れるのか!と心底驚いた。そして、曲のブリッジで旧レーベルメイトであるLEX「力をくれ」を引用していたことにも驚いた。こういう粋な仕掛けがたくさんあるのも田我流のヒップホップIQの高さを感じた。

 その点でいえば「JUST」は Madvillain「Acordion」のビートジャックでを披露。終演後に飲みに行った友人の話で納得したのは、田我流は昔の曲を大事にしているという指摘であった。「JUST」は1stアルバムの曲であり、別にやらなくてもおかしくない。しかし、ロイヤリティの高い昔からのファンに向けて、単に昔の曲をやるだけではなく、きちんとヒップホップ的アレンジでフレッシュなものにして聞かせてくれる。こういった細かい気配りがあるからこそ、田我流を長い間好きでいられるのかもしれない。そして「JUST」は歳を重ねた今聞くとグッとくるものがあった。

 この日は客演なしの文字通りのワンマンライブであった。客入れBGMのラジオでNORIKIYOが出演していた時点で「今日は出ないのかも…」と思っていたが、「風を切って」の前に本人からのコメントが流れ、出演しないことが告げられた。二週間後にあるELIONEのワンマンライブに出演するが、こちらには来ないのかと思うと悲しい気持ちにはなった。ただMCでもあった通り今日は一人でやり切ることを目標にしていたのだろうし、統一感という点でみると満足度は高かった。客演ではないが、今回は「EVISBEATS DAY」と言わんばかりのセトリで、EVISBEATS×田我流ワークスがコンプリートで聞くことができた。「ゆれる」から始まったコンビネーションだが、まとまって聞くとこの二人の黄金コンビっぷりが伝わってきた。

 ゴリゴリのB-BOYはもちろんたくさんいたのだが、コインロッカーでは学校帰りの女子高生、フロアではスーツをまとったサラリーマン、ノリで入ってきたであろう海外からの旅行客、クラブ常連のギャルなど、私の周辺には本当に多種多様な人がいた。これは田我流が音楽を通じて伝えてきたメッセージが立場を超越し、どんな観客をもロックし続けてきたことの証左だろう。年に一回は東京でライブしたいとのことだったので、まとまった作品が出れば、またライブに遊びに行きたい。

※セトリは全く自信ないです。。。間違いなどありましたら、ご指摘いただけると大変嬉しいです。

2025年11月7日金曜日

ディアンジェロ《ヴードゥー》がかけたグルーヴの呪文

ディアンジェロ《ヴードゥー》がかけたグルーヴの呪文/フェイス・A・ペニック,押野素子 

 ディアンジェロの訃報はかなり応えた。彼自身の音楽が好きだったのはもちろんだが、彼のサウンドに影響を受けた音楽が、自分の嗜好の幹を形づくっているからだ。天才が早逝するのは宿命といえど、彼もその枠に入ってしまったことが本当に悲しい。亡くなってから色んな言説を目にし、耳にしたが、自分が好きだったアーティストに対して、安い言葉や見識でRIPされることが、こんなに辛いのかと初めて知った。そんな汚れた気持ちの中、救いを求めて読んだのが本著だった。繰り返し聞いてきた『Voodoo』がさらに輝き、深みを増す、そのリスニング体験を豊かにしてくれる最高の読書体験だった。

 『Voodoo』を中心にディアンジェロの来歴、音楽を紐解いており、著者が女性であることが本著を特別なものにしている。あとがきで木津氏が書いているとおり、収録曲の「Untitled」をジェンダー視点で読み解いている点が新鮮だ。日本において『Voodoo』について語るとき「Untitled」のMVのセクシュアリティについて話すことは皆無だろう。著者自身の個人的な当時のエピソードを交えながら、新たな切り口で『Voodoo』を捉えている本著の象徴的なパートである。そして、このビデオが生み出したパブリックイメージと自身の本来の姿とのギャップに苦しみ、自暴自棄な行動を繰り返すようになってしまったディアンジェロの姿は、ポピュラリティとアートの狭間でもがいていた彼の人間味が最も現れているとも言える。

 ジェンダーの観点でいえば、アンジー・ストーンとの関係も印象的だった。彼女も今年亡くなってしまっているわけだが、私生活および音楽制作を縁の下でディアンジェロを支えていた話は、著者が指摘する通り、もっと知られるべきだろう。マーケティングの観点で、アンジーの見た目が「ディアンジェロにふさわしくない」とされ、イベントの同伴が断られた話は2025年の今読むと信じられない。一方で、彼女との間に子どもが産まれたことが『Voodoo』の制作において大きな影響を与えていたこと、「Send It On」「Africa」は、子どもありきの曲だと知っると、また聞こえ方が変わってくる。

 制作秘話については枚挙にいとまがない。『Chiken greece』はもともと『Like Water For Chocolate』でコモンが使う予定だったとか、「Devil’s Pie」はプレミアがキャニバス向けに作ったビートだったとか。「Booty」のドラムはギターアンプ、プロセッサーを通した音だったことなど。(「コモンはあのビートで何したらいいか、わかっていない」という言い草に笑った。)そして、『Voodoo』でのディアンジェロの多重ボーカルは、彼のボーカリストとしての力量が並ではないことを示すものだという指摘は、初めて気づかされた魅力だった。

 なかでも、エレクトリック・レイディ・スタジオに集結したソウルエクリアンズ周りのアーティストたちは私が最も影響を受けた存在であり、ドラマーを務めたクエストラブを中心とした各メンバーとディアンジェロの当時のエピソードはどれも至極。皆がスタジオに入り浸り、革新的なことを志した結果、そこでケミストリーが起こっていたことがわかるし、本著を読んでから当時のアルバム群を聞くと、より一層豊かな音楽体験をもたらすこと請け合いだ。以下のラインはそのことを端的に表現している。

一部の人々には散漫で規律がないと考えられていた作品は、今という瞬間を大切にし、ディアンジェロと仲間たちをインスパイアしたR&B、ジャズ、ヒップホップのパイオニアのスピリットを受け入れるという、意図的な試みだった。

 また、エンジニアがこれだけフォーカスされる作品もなかなかないだろう。ボブ・パワーが下地を作り、エレヴァド・ラッセルが『Voodoo』で花開いたアナログに対する徹底したこだわり。2025年の今でも、すべてアナログで制作することは驚異的だと感じるが、当時もちょうどアナログからデジタルへの過渡期。そのタイミングでも、「DとE」はアナログを貫き、唯一無二のサウンドプロダクションを実現したことは奇跡としか言いようがない。終盤で言及されているとおり、DAWの普及で、誰もが音楽を作ることができるようになったことは歓迎すべきことだ。しかし、熟練の演奏者がスタジオで何年もジャムし続けてアルバムを作るという予算をかけた制作法は、ハイパー資本主義の社会において選択肢にも上がらないだろう。テクノロジーの発展が音楽の発展に寄与していることは間違いないのだが、それと同時に切り捨ててしまっているものがある。『Voodoo』はそんな文明論まで感じさせてくれるアルバムなのだ。

 95年の来日同行記を加筆修正した訳者あとがきも貴重だ。「ディアンジェロと日本」という観点であり、翻訳版ならではの内容となっている。来日時の日本での彼の立ち振る舞いで印象的だったのは、自分が出演したコンベンションで遭遇するミュージシャンに対して、知り合いかどうか問わず見かけるたびに挨拶していたというエピソード。しかも、それは日本人のミュージシャンに対しても同様に挨拶していたというのは驚きつつも、彼の音楽に対する真摯な姿勢からすれば納得できる話だ。

 今まで幾度となく聞いてきたアルバムが、背景を知ることでさらに豊かに響く。ビハインド・ザ・ストーリーの重要性は、ストリーミングサービス普及の結果、光速で新譜が消費されていく今こそ顧みられるべきだ。私も新譜チェックは大好きだが、ときには立ち止まって、この音楽が何を意味し、自分にどんな感情を抱かせるのか考えたい。そんなときに、こういった書籍の存在はなにものにも変え難い。ネットでいくらでも情報は取れるが、体系的に整理されていることの価値を改めて痛感した。

 やりきれない気持ちの中でも、最終的に救ってくれたのはやはりディアンジェロの音楽、そして彼にインスパイアされた音楽だった。Soulectionのトリビュートミックスはディアンジェロのレガシーを多角的に表現した、本当にリスペクトに溢れた内容だったので、ぜひ聞いてみてほしい。また、長い間沈黙を貫いていたクエストラブによる追悼文も日本語版で出ているので、そちらもマストチェック。改めてディアンジェロの冥福を祈ります。合掌。

2025年11月1日土曜日

それがやさしさじゃ困る

それがやさしさじゃ困る/鳥羽和久、植本一子

 植本さんが写真を担当されていると知って読んだ。子どもがあくびをしている表紙からは、朴訥で柔らかい内容を想像していたが、実際にはどこでも読んだことのない刺激的な教育論が詰まっており、そのギャップに驚いた。子どもと接することについて、これだけ言語化された書籍は、後にも先にも登場しないかもしれないと思わされるほどの傑作だった。

 まず印象的だったことは、本著を手に取ったときの感触である。普段読む本ではおよそ感じない独特のツルツルとした質感からして、ただものではない気配が漂っている。内容は、鳥羽氏の各種媒体での連載と書き下ろしをテーマ別にまとめたもので、その合間に植本さんの写真が挟まれている。さらにページ下部には鳥羽氏による日記が添えられており、圧倒的な情報量だ。論考も日記もそれぞれ一冊の本にできるほどの分量があり、読後の満足感を考えると、この値段は破格に感じる。

 メインでは、子どもとの関わりや教育に関する論考が中心に展開される。ときに重たく感じる箇所もあるが、実際の子どもとの触れ合いに裏打ちされた思索であることが、写真や日記によって可視化されており、構成として興味深い。特に写真の扱いが印象的だった。よくあるモノクロの挿絵的な扱いではなく、カラーで大胆に差し込まれ、裏面にはフィルム写真のような仕様が施されている芸の細かさ。写真を一つの独立した芸術として取り扱う意図が伝わってきて、その心意気に胸を打たれた。そして、植本さんの写真はもちろんバッチリな仕上がり。つい考え込んでしまいそうな瞬間に、子どもたちのなんでもない日常の姿、表情が、現実へ引き戻してくれる。

 モノとしての完成度は当然ながら、中身も圧巻だった。鳥羽氏は塾、単位制高校、オルタナティブスクールを運営しており、日々子どもと向き合う中での思索があますことなく書かれている。タイトルのとおり、品行方正であることが当然の社会で、「やさしさ」があらゆる場面で子どもに対して発揮される現在、本当にそれは子どものためになっているのか?大人が思考を停止し、責任を放棄するための仮初の「やさしさ」ではないか?ということが一冊を通じて問われている。

 現役の中高生と接する機会のない者にとって、若者たちの価値観や、そこに呼応する親の状況をこれほど丁寧に描いてくれることは貴重だ。その背景にあるのは子どもに対する愛である。ページ下部の日記は、SNSのつぶやきほどの短さながら、そこで垣間見える子どもたちに対する実直な視線が、本著の説得力を強固なものにしている。評論家が、机上で構築した教育論ではなく、日々の実践と観察から導き出された言葉であることが、本書が唯一無二の存在たらしめている。

 私自身は三歳の子どもを育てており、本著の主な対象である小・中・高校生とは距離がある。それでも広い意味での教育論として、心にグサグサ刺さることが山ほどあった。たとえば、教育水準の高い学区に引っ越し、そこに安住する大人の心理を鋭く突いた箇所では、自分の考えを見透かされたようでぐうの音も出なかった。

 一方で、「子どもの自由な選択」にも鋭いメスをいれていく。自由という言葉の裏に、子どもに責任を丸ごと押しつける残酷さが潜んでいることを指摘しており、これも耳が痛かった。言われてみれば、子どもは深く考えずに選ぶことも多いのに、その結果の責任だけ大人並みに負わせるのは酷な話である。とはいえ、実際には「やらせてみないと分からない」という因果応報的な態度は、大なり、小なりやってしまいがちな自分がおり、強く考えさせられた。

 父親の育児参加が必ずしもプラスに働くわけではない懸念についても納得した。子どもにとって、親は小言ばかりのウザったい存在であるのに、それが二人になってしまえば、子どもは逃げ場がなくなるという指摘にハッとした。なんとなく妻が怒っているときに自分は怒る側にならないようにしているし、逆も然りなのだが、内容によっては二人で怒ってしまう可能性がゼロではないので胸に留めておきたい。

 一貫して、鳥羽氏は大人が「こんなもんだろう」と思い込んでいる前提条件に対して懐疑的な視線を投げ続ける。そこには大人が子どもを未熟な存在と見くびっていること、またn=1という極めて少ない母数である「自分」と子どもを比較して、子どものことを安直に捉えてしまう危うさへの問題意識がある。

 なかでも考えさせられたのは「学校に行きたくない」と言われた場合の対処である。右に倣え的な日本の教育制度自体に懐疑的ではあるものの、どうしても横一線から脱落するというイメージが自分を苛んでくる。自分自身がどうしても行きたくないほど、学校に嫌気が差した経験もないので、もし自分の子どもがそう言ったとき、どう対処できるのだろうか?と繰り返し自問自答していた。

 日記パートでは、自分が中高生の親ではないこともあり、自分の過去を振り返ることが多かった。特に受験期のことは、能動的に選択したというよりも、育った環境に流されるように進んできたこともあり、どうすれば自分が主体的な学びができたのだろうかと考えさせられた。短く、遠慮のない、芯をくっている言葉に何度もハッとさせられた。

他人の期待に応えるような人生は自分の人生ではないから。自分に何かを期待してくる人を遠ざけて生きていくということは、大人にとっても大事な知恵。

 巻末で「反省する必要はない」と書かれていたものの、本著を読んだ多くの人が、自分の子どもに対する解像度の甘さにどうしても疑いの目を持たざるを得ないのは事実だろう。しかし、鳥羽氏は自分の「正しさ」を主張しているわけではなく、あくまで自分の視点から見た子どもの話と、それに基づいた自分の考えに終始している。日記にあった以下のラインが端的に本著のポリシーを表しているように感じられた。

賛否両論白熱しているときにどちらが正しいというより、両論あることが波打ち際の防波堤になって現実や倫理を支えていることが度々ある。だから、必ずしも二者のどちらかを選ばなければならないわけではないし、明確な解決法や結論が必要とは限らない。

 日々、心も体も変化していく子どもという動的な存在と向き合うにあたり、大人は硬直した「正しさ」に頼るのではなく、臨機応変に、懐深く寄り添うことの重要性を思い知った一冊だった。

2025年10月30日木曜日

ikuzine

 ポッドキャストでは進捗を話しておりましたが、ついに三冊目のZINEが完成しました。その名も『ikuzine』です。私のポッドキャスト番組『IN OUR LIFE』で話した育児に関するパートを書き起こし、編集した一冊となっています。育児本は世に数多ありますが、他の本とは一線を画す仕上がりになっています。子育てしている、していないに関わらず、ぜひ読んでもらえたら嬉しいです。

 本の中心となっているのは、私、友人のタクボ、小説家である滝口悠生さんとのエピソードです。これまで滝口さんにご出演いただいたエピソードをすべて含んでいます。2016年ごろに初めて滝口さんの小説を読み、その唯一無二なスタイルにぶっ飛ばされて早十年、こんな日がくるとは想像もしませんでした。何事も継続だし、やることに意味があるのだなと思います。そして、滝口さんの協力なしには完成しなかった一冊なので、この場を借りて感謝申し上げます。ありがとうございました。

 そして、ZINEの中でも説明しているとおり、このZINEが実現したのは植本一子さんのおかげです。これまでにもZINEメンターとして、色々と教えていただいたのですが、今回はさらに具体的なアドバイスを懇切丁寧にいただきまして、最後の追い込みでクオリティーが二段、三段あがりました。いつも本当にありがとうございます。

 また、今回は初の試みとして装画を作家の方にお願いしました。はしもとなおこさんという方で、以前に絵を買わせていただいて、家に飾っているくらい、はしもとさんの絵が好きなので、装画を今回お受けいただいたことはとても嬉しかったです。自分の発想になかったペンギンの絵を見たとき、他者と何かを作ることの楽しさや意味を再認識しました。改めてありがとうございます。

 お取り扱いにつきましては、私のウェブショップと各書店で販売させていただきます。ウェブショップの方では、私の育児日記付きのDX版も用意させていただいておりますので、サポートいただける方は、そちらもチェックしてもらえますと幸いです。取扱店舗については随時こちらに追記させていただきます。

※お取り扱いを検討されているお店の方がいらっしゃいましたら、
以下までご連絡くださいませ。サンプルをお送りいたします。

inourlifefm(あっと)gmail.com

 なお、誤植が発覚しました。ご迷惑をおかけしてしまい、まことに申し訳ございません。内容としては以下のとおりです。正誤表を差し込みさせていただいておりますが、ご了承いただけますと幸いです。

143ページ 
(誤)2021年 (正)2011年

2025/11/18 
追加で誤植が発覚しました。大変申し訳ございません。

100ページ
(誤)Tを踏み台にして
(正)YouTubeを踏み台にして

こちらについては正誤表には記載しておりません。
ご了承いただけますと幸いです。

反響


 なお、文学フリマ41に出店しますので、もしご来場予定の方は、そちらでご購入いただく方が送料分安くなりますのでお得です!関東近郊の方は、ぜひお越しくださいませ。

文学フリマ41東京

会場:東京ビッグサイト 南1-4ホール
日時:2025年11月23日(日)12:00〜17:00

私のブースは南3・4ホール「て-28」です

詳細→https://c.bunfree.net/c/tokyo41/4F/%E3%81%A6/28



2025年10月22日水曜日

中川ひろたかグラフィティ: 歌・子ども・絵本の25年

中川ひろたかグラフィティ: 歌・子ども・絵本の25年

 例によって、子どもが図書館で本を探したり読んだりしているあいだ、大人向けの絵本関連書を眺めていたら、本著が目に留まり読んでみた。なぜなら、村上康成&中川ひろたかのタッグ作品は、子どものお気に入りの絵本だからだ。そして、保育園の卒園式で歌った「みんなともだち」の作者でもある。そんな著者がどういった経緯で子ども向けの歌や絵本を生業にすることになったのか。その経緯を知ることができて、興味深かった。

 本著はタイトルどおり自叙伝であり、著者のキャリアを振り返る一冊となっている。文中には、ささめやゆきという版画家の絵も随所に登場、改行も多く、ページ下部に余白を多く取った独特のレイアウトが軽やかさを感じさせる。読む前は絵本作家がメインの仕事かと思っていたが、もともと作曲、歌手活動が本業で、絵本は後年手がけるようになったらしい。「世界中の子どもたちが」を手がけたのも著者らしく、自分の知っている歌の中に彼がいることに驚いた。

 大学を中退して、保育園で働き始めるところから社会人としてのキャリアがスタート。1970年代前半までは「保育できるのは女性のみ」と児童福祉法で決まっていたなんて信じられなかった。そのため、実際には保育に携わっているものの、書面上は「用務員」として雇われていたというエピソードは時代を感じる。

 朴訥な文体もあいまって、行き当たりばったりで人生を進めているように見えるが、その自由さこそが魅力である。ネットのない時代においては人の繋がりが大事で、人脈が彼に新しい仕事を次々ともたらしていく。とはいえ、人脈だけでなんとかなるわけではなく、著者が驚異的なペースで音楽を作り続けていることが最大の要因だ。とにかくいろんな人を巻き込んで、録音、ライブに奔走する姿はバイタリティの塊である。そこに打算はなく、自分の表現で子どもを楽しませたいという純粋な気持ちが伝わってきた。

 登場人物もさまざまで、一番驚いたのはケロポンズのメンバーと著者が同じバンドのメンバーだったということである。問答無用のクラシック「エビカニクス」(YouTubeの再生回数、1.7億回…!)の生みの親であるわけだが、そんな彼女たちのバックグラウンドを知れたことは思わぬ収穫であった。そもそも大人と子どもが一緒に見にいけるバンドがあったこと自体、驚きである。自分の知る限り、コンサートといえば、「おかあさんといっしょ」や「しなプシュ」くらいで、それらはあくまでショーであり、音楽ライブという雰囲気でもない。バンドサウンドを子どもと一緒に楽しめる機会があるのであれば行きたい。

 一番読みたかった村上康成との出会いと関係についても書かれていた。村上が絵本作家としては先輩であり、著者が教えを乞うような形で関係が始まり「さつまのおいも」の大ヒットによって、この黄金コンビが確立していったようだ。村上の柔らかいタッチの絵と、著者のリズム感のある文体、このコンビネーションが子どもの心を掴んで離さないのだろう。その背景には、著者の保育現場での経験が生きている。抽象的に「子ども向け」を考えるのではなく、具体的に当時の子どもたちを思い浮かべ、彼らに語りかけるように物語を作る。そんな創作姿勢を知ることができたのは大きな発見だった。

 また、今年亡くなってしまった谷川俊太郎とのエピソードも印象的だった。著者が、彼の言葉に心酔し、「同じ空の下に住みたい」と思って阿佐ヶ谷に住んでいたことを後年伝えると、谷川が「それは同じ空じゃなく、同じ雲の下だよ」と返したという話は、あまりに谷川俊太郎すぎる。

 子どもの絵本をきっかけに、自分の知らなかった世界が広がっていくのは楽しい。これからどんな本を好きになっていくのか、引き続きその様子を見守っていきたい。

2025年10月20日月曜日

ライムスター宇多丸の「ラップ史」入門

ライムスター宇多丸の「ラップ史」入門

 宇多丸史観の日本語ラップについて読んだので、当人が自ら語るヒップホップ史の本を読んだ。初版は2018年、私がブックオフでサルベージしたのは2024年の5刷。ヒップホップブームの中で、多くの人がまず最初にこれを手に取り、理解を深めようとしていることがうかがえる。読みやすさ、まとまり具合でいえば、入門書としてこれ以上のものはない。ヒップホップに興味を持ち始めた人にはおすすめだし、私のように長年聞いてきたヘッズでも新たな発見がたくさんあり興味深かった。

 本著は2018年にNHK-FMで放送された10時間にわたるヒップホップ特番の書き起こしである。司会はRHYMSTER 宇多丸、サポートに音楽ライターの高橋芳朗&渡辺志保、音出しなどでDJ YANATAKEというメンバー編成。構成としては、アメリカのヒップホップの歴史を年代順に辿りながら、その時代の日本語ラップシーンゲストを交えつつ、歴史を振り返っていく。つまり、「アメリカで何が起きていたか」と「日本ではどう受け止め、どう応答していたか」をパラレルに描いている点が本書の大きな特徴である。

 こういった構成になっているのは、日本語ラップが常にアメリカのヒップホップをリファレンスし、自分たちのスタイルを模索してきたからに他ならない。その第一人者のプレイヤーである宇多丸、BOSE、Zeebraが語っている内容は、「どうすれば日本語がラップとしてかっこよく聞こえるか」というラップの聞こえ方の話が中心で、そこに至るまでの試行錯誤が伝わってきた。番組の締めには、当時1stアルバムを出したばかりのBAD HOPが登場し、スタジオライブで幕を閉じる。アメリカの文脈を踏まえつつ日本語で表現する、その継承と更新を象徴する構成だ。日本語ラップの現状の盛り上がりは、国内アーティストを中心としたドメスティックなものにとどまっているように最近感じる。その中で、YZERRが自らメディアを立ち上げ、あの超弩級のアメリカのラッパーたちと日本のラッパーというラインナップでヒップホップ特化のフェスを開催したことは、本著の意図の延長線にあると言えるだろう。本著でも語られているように、ヒップホップは時代ごとにアップデートされる共通ルールのもとで、世界規模の競争が行われるゲーム的な音楽なのだ。だからこそ、アメリカを中心としたグローバルなトレンドを常に参照し、その文脈の中で日本語ラップを位置づける視点は欠かせない。

 日本語ラップのパートでスリリングだったのは、MC漢が登場する場面だ。この二人がNHK-FMで当時のことを振り返るなんて企画を立案、実行した担当者の方々にリスペクト。前述の二者は同世代かつ交流もあるわけだが、世代も信条も異なる中で、宇多丸がMC漢のオリジナリティの高いスタイルの起源を紐解いていくあたりは知らないことだらけで驚いた。今でこそYouTubeで共演するレベルの関係性だが、2018年段階では貴重な邂逅であり、文字だけども緊張感がちゃんと伝わってきた。

 アメリカサイドは、基本的なヒップホップ史を改めて俯瞰できる構成になっており、自分の中のタイムラインが整理できた。特に東海岸、西海岸以外のヒップホップに理解が浅い自分にとっては、南部の歴史を流れで知ることができて勉強になった。合間に各人が持っているヒップホップ小ネタが挟まれるのがオモシロく、宇多丸はライター時代のインタビューエピソード、高橋氏はヒップホップ以外の音楽とヒップホップの関係性、渡辺氏はスラング、ゴシップなど鮮度の高い情報、DJ YANATAKEはレコ屋店員時代の経験といった形で、それぞれの得意分野が相補的に機能し、情報に厚みが増していた。

 歴史の授業あるあるだが、黎明期〜2000年代までの説明が丁寧になった結果、近年の動向が相対的に弱くなってはいる。特にヒップホップは50年の歴史の中で目まぐるしくスタイルが変遷してきており、最近のトレンドについて知りたいと思って読んだ人は肩透かしをくらうかもしれない。しかし、ヒップホップのオモシロいところは、過去をサンプリングという形で何度でも再評価、再構築するところだ。ゆえにクラシックを知っていることで、新しい曲のコンテキストを深く味わうことができる。だからこそ、こういった形で体系的に歴史を網羅した一冊は定番として読み継がれていくだろう。