2025年12月8日月曜日

Θの散歩

Θの散歩/ 富田ララフネ

 帯にある「本を読むことが子育てに与える影響について」という言葉にひかれて読んだ。まさに今の自分のすべてといっても過言ではないトピックなので、それはもう楽しく読み、このまま終わらないで欲しいと願うほどだった。本を読むことと、子どもを育てることが有機的に結びつき、それぞれが深い論考として展開される、唯一無二な小説だった。

 主人公は著者と同名で、妻Qと子どもΘの三人家族。主人公が一年間の育休を取得し、妻が働いているという状況の中で、主人公が0歳の子どもと東京を中心に街を徘徊しながら、子どもが寝る隙間の時間で本を読んでいる。それだけの小説なのだが、これが滅法オモシロい。

 古今東西の小説やエッセイをひたすら読み、その断片を思考の足場にしながら、自身の育児へとフィードバックしていく。エッセイは実体験に根ざしているからまだ理解できるとしても、小説の一節を切り取り、貼り付け、自らの解釈を上書きし、さらに自身の物語を構築していく様は、まさしくサンプリングであり、ヒップホップ的手法と言えるだろう。

 サンプリング元になる本のチョイスも2025年とは思えないラインナップで興味深い。大江健三郎、田中小実昌、カフカ、井戸川斜子など、主人公は縦横無尽に読みまくっている。なかでも中心を担うのは大江健三郎である。正直「大江と育児」なんて想像もしていなかったが、大江には知的障害をもつ息子がいて、その子どもをモチーフにした小説がある。そういった小説の視点を借りて、育児を考察していく点が新鮮だった。こうした引用スタイルそのものが大江の特徴でもあるらしく、引用するスタイルをさらに引用する、まるでマトリョーシカのようだ。

 さまざまな論考が展開される中でも興味深いのは、人が生まれてから「人間」になるまでの過程に関するものである。「人間になったなぁ」と思う瞬間が0〜2歳くらいまで毎日のように訪れる。それは身体、言語能力、心といった具体的な成長であるが、著者が考察しているのはもっと抽象的なものだ。

 赤ちゃんの段階では「考える」ことはない。それは、主人公親子が頻繁に訪れる上野動物園にいる盲目のポニーのようで、赤ちゃんには空洞があるだけ。しかし、成長していく中で、空洞が何かで満たされていくことを「人間化」と称し、その意味を主人公はずっと考えている。この抽象的な感覚およびその思考過程をこんなに言葉にできるなんて、著者の言語感覚がいかに鋭いか。そして、「育児は見ることなのではないか?」という主張は、今年読んだ一連の育児に関する本に通ずるものがあった。

Θの中身、つまり私たちが「考える」という行為を取得してしまったことにより「考える」にとって代わられてしまったもので、幼いΘの内面がまだそれで満ちているものというのは、実はΘの外身にこそ孕まれているのではないか?だったら私がすべきことは、Θが何を考えているんだろうと無理やり私たちの側に引きつけて想像するよりも、ただΘのことをじっと、よく見ていなければならないんじゃないか?

 また、男性である主人公が当たり前のように育児全般を担っている描写が画期的だ。実際に著者が育児に主体的に関わっていないと書けないだろう、ディテールの細かさに驚く。なかでも「ベビーカーだから重い本でも平気である」というのは、著者の明確な経験がそこには宿っていた。

 一日中、赤子を相手にすることは確かに大変ではある。しかし、そのわずかな間隙をありがたがるように、ひたすら読書を続けていく。実質、読書日記の様相を呈しているので、ここまで述べてきた育児の話は、本著の両輪のうちの一つでしかなく、本が好きな人にとっては至福の瞬間の連続である。つまり、本を読んでいるときに時代や立場を超越し、自分の思考に何か違う視座をもたらす、あの瞬間がたくさん描かれているのだ。今や多くの人の余暇がSNSやゲームを中心としたスマホを眺める時間に捧げられているのだろうが、本著はそういった人たちに本を再び手に取らせる可能性さえ含んだ「本の小説」である。

 育児に献身したことを子ども本人は覚えていない事実に主人公は戸惑いを覚えている。しかし、大江の小説を読み続けた先に待っていた「ご褒美」のような、そのことに関する解釈が飛び出す瞬間が描かれ、思わず膝を打った。自身の子どもの協調性について色々思うことが増える中で、その視座は大きな示唆となった。いい意味で諦念を抱きながら、子どもの姿を眺めることができるようになった。(大江の小説を読まずに獲得していることについて、この小説の主人公はいい気持ちはしないだろうが。)子どもの言動に思いをめぐらせて、もうすぐ4年。こうして自分の言葉で考えることこそが育児の喜びであり、苦悩でもあるということを改めて気づかせてくれる小説だった。

2025年12月2日火曜日

湖まで

湖まで/大崎清夏

 著者の名前をいろんな場面で拝見するものの、馴染みのない詩ということもあり実際の作品を読んだことがなかった中で、palm booksから小説がリリースされたということで読んだ。連作小説集で、つながりは緩やかにありつつ、それぞれ後味が異なっていて楽しく読んだ。

 最初の短編は少し不思議なトーンで、目の前で起こる具体的な出来事と心象風景の重なりが独特の世界として立ち上がる。その意外性に驚かされたが、続く短編は一転して地に足のついたリアリティがあり、詩人である著者の「つかみ」としての配置なのかもしれない。

 「別れと自立」が一つのテーマとして映った。誰かと生きていても、ふとしたきっかけで一人になる可能性はいつも身近にある。しかし、ただちに孤独が訪れるわけではなく、ゆるりとした連帯、それは既存の「家族」ではない、もっと広い概念で誰かと生きることについて書かれている。

 私が特に好きだった短編は「次の足を出すところ」。五月の自然を捉えた冒頭の描写に心を掴まれた。状況説明ではなく、余白に満ちた情景描写こそ小説の醍醐味であり、久々に小説を読むことも相まって癒やされた。悲劇的な出来事を扱いつつも、それ以上に「足を踏み出す」という動作のアナロジーが強く胸を打った。でこぼこの地面を歩くとき、転ばずに前へ進むための一歩。車を運転するときにアクセルを踏み出す行為。それらが物語の冒頭と終わりで響き合い、美しい円環構造となっていた。

 また、自立することは移動することを意味し、どの短編でも歩いている場面が多い。等高線が印象的なブックカバーは「移動」が本著の象徴であることを端的に表現した素晴らしいブックデザインだ。本著では詩歌、日記という著者の武器が小説の中へフィードバックされていて、著者の見本市のようでもあった。

 「眼鏡のバレリーナのために」を読んだとき、どこかで見覚えがあると感じたが、既刊『palmstories あなた』に収録されていた短編の再録だった。前回はアンソロジーの一編として縦の比較ができる読み方だったが、今回は同じ主人公の周辺に焦点を当てた横展開で、小説の自由さとタイムレス性を楽しめた。

 感触を大切にしている描写が印象的だった。陶器やギターといった曲線に人間がフィットする、何ともいえない運命的な瞬間が表現されている。確かに陶器やギターは見た目も大事だが、日々使うものだからこそ、手触りこそが大事で、「人生の手触り」がテーマの一つだとも感じられ、文字通りしっくりきた。AIなど実態のない価値がもてはやされる今、物体として存在することの意味を柔らかく表現してくれていた。次は日記を読んでみたい。

2025年12月1日月曜日

美玉通信 第2号 世界の終わりの美玉書店

 先日の文学フリマでゲットした美玉通信 第二号。『美玉ラジオ』というポッドキャスト番組によるZINEである。ポッドキャストではSFを中心に読んだ本が紹介されており、毎月欠かさず聞いている番組の一つだ。ウェブ上にあるのは、最新の三回分のみのアーカイブなので多くは聞き返せないものの、今回のZINEで過去回が文字で読めてありがたかったし、ZINEというフォーマットならではの切り口で「世界の終わり」が提示されていて興味深かった。

 今回は「世界の終わりの美玉書店」というテーマで、世界の終わり系SFについて、対話、エッセイ、小説といったさまざまなスタイルで「世界の終わり」に焦点を当てている。冒頭『PMSのためのガイドブック』から始まるわけだが、PMS=世界の終わり、という見立てが興味深い。私は男性で、どこまでいってもPMSそのものを体験することは叶わないわけだが「世界の終わりかと思うほどの辛さ」であることを男性が少しでも理解する端緒になりうる。どちらかといえば男性的世界観の強いSFにおいて、こういった女性特有の視点によって選書されている点が興味深かった。

 対話パートでは、ポッドキャストで「世界の終わり」について話された過去回が収録されている。私も同じく文字起こしでZINEを制作しているが、文字と音声の違いを改めて感じた。音声はいい意味でも悪い意味でも聞き流せるが、文字だと繰り返し読めるし、目で行ったり来たりできるので情報の粒度が一気に変わる。特にコンテンツの話だと、音声の中で登場してもフォローできていないことがよくあるが、文字はそこもきっちりトレースできる。今回だと『地上最後の刑事』シリーズがとてもオモシロそう。自分のアンテナには引っかかってこないSFの話を柔和な語り口で紹介してくれているので読んでみようという気になりやすい。これも番組の特徴と言える。

 「世界の終わり」というワードだけで、これだけいろんな小説が紹介されていて驚くし、読み終えたあと、ストーリー展開などをすぐに忘却してしまうタイプの人間なので、お二人が話の流れに沿って、それぞれの考えを語っていることに小説への愛を感じたのだった。

 読書系のポッドキャストは色々チェックしているのだが、密度の高いもの、つまり読んでいる前提で話が進んでいくものが多い。『美玉ラジオ』では二人とも読んでいるケースも当然あるが、本の嗜好はバラバラなので、片方が読んでいないことも往々にしてある。読んでいる前提で一定のゴールに向かうのではなく、あくまで会話の流れで本の話をしている点が番組の好きなポイント。終盤に過去回のアーカイブとして掲載されている『わからないを考える』は、まさにこのポッドキャスト番組の魅力そのものが結果として話されているエピソードであり、ZINEに収録されていることも納得だし、折に触れて読み返したい内容だった。

 個人的にもっとも聞き返したかった春暮康一を特集したエピソードが載っていてアガった。『法治の獣』を読んだあとは停滞しているのだが、二人の語る春暮康一の魅力を読むと、読みたい気持ちが再び高まってきたので、その気持ちを大切に次は『オーラリーメーカー』を読みたい。(今年、二回目の決意)

2025年11月27日木曜日

世の人

世の人/マリヲ

 DJ PATSAT『平凡な生活』を読んで、ずっと積んであった本著を読んだ。著者はDJ PATSATこと土井さんが経営するタマウマラで共に働いていた方で、日記に何度も登場する重要人物だ。自転車屋で二人とも文筆業を行っていること自体驚きだが、あまりにもブロークンな著者のスタイルが衝撃的な読書体験だった。

 本著は、著者が大阪で過ごしていた日々を中心に書かれたエッセイ集。冒頭「ダルク体験記」から始まり、あまりにカジュアルなドラッグ描写に度肝を抜かれる。その描写は単にドラッグを嗜んでいるというだけではなく、どういった人がダルクにきているのか、薬物遍歴からその人たちの日常まで、細かく描かれており、こんな人が世の中にいるのかと何度も驚いた。(猫フーさんのエスタック中毒…!)

 一方で友人や彼女といった周辺人物のバックグラウンドはほとんど紹介されないまま、過去と現在を行き来するような散文スタイルで自身の思いが朴訥なスタイルで綴られていく。文章に起承転結はなく、時間軸もバラバラで、何度も場面をスイッチしていく。著者はラッパーでもあるので、リリックのように書いているとも言えるが、正直読みにくかった。しかし、そんな中でも急に具体的なシーンが脳内に突如想起され、心にパーンと入ってくるラインがやってくる。そして、その何かを追い求めるように読み進めてしまう。まさにドラッグのような文章と言える。部分的に抜き出しても伝わらないかもしれないが、コンテキストの中に埋め込まれた瞬間に輝く、著者独自の筆力がなせる技だ。

仕事をして、お金がある程度あって、大事な人が笑っていて、これは当たり前というか、その暮らしの中でもほんの一瞬だけの、幸せなこと、気持ちのいいこと、目を見開くこと、息をのむこと、感動して涙が出ることなど、これらは本当に一瞬で、一瞬でなければ良いのにといつも思うけど絶対に一瞬だから、毎日を丁寧にそっと生きなくてはいけないと思う。

一緒なことは安心だった。暮らしの中で、そうやって定規を他に頼ってやっていると、時々どうしようもなく自分に立ち返ってしまう瞬間に、さてそれを引き剥がさないといけない。

自分の好きや嫌いが反射して、その返ってくる速度で自分というものを計って、その上で、その世界の中で、してもおかしくないことを決めていくような感じ。

 私は大阪出身で著者とほぼ同世代、なおかつ出入りしていた場所が似通っており、あの頃、身近なところでこんなに破天荒な出来事が起こっていただなんて信じられなかった。ラッパーゆえのヒップホップ的なエピソードがいくつかあって、そこにもアガった。ダルクにK-MOONことGradice Niceのビート集があった話、MOBB DEEPの音が流れる中、部屋の壁に頭をぶつける姉、釜ヶ崎の夏祭りでの出番の話など。SHINGO★西成がいうところの「ズルムケ」のヒップホップ的な人生がそこにあり、著者が世で生きていくためにヒップホップや文学があるように映った。

 表題作は宗教二世に関する話で、安倍晋三を殺害した山上被告の裁判が始まった今、タイムリーな話だ。統一教会ではないが、おなじく宗教にのめりこんだ親から子どもがどういった影響を受けるのか、なかなか知り得ない現実ばかりだった。自分たちと異なる信仰を持つ人を「世の人」と呼び、蔑んでいるエホバの思想と、著者が「世の人」に向ける眼差しのかけ算によってマジックが起こっていた。小説みたいな現実の話がたくさん読めたので、次は著者による小説を読んでみたい。

2025年11月26日水曜日

文学フリマ後記

 文学フリマ41東京に出店してきました。今回で3回目。売れ行きはボチボチでした。そもそも育児している人はなかなか来にくい催しだなぁと、開始一時間くらいで気づきました。とはいえ、文学フリマによってできた縁があり、前回来てくれた方が来てくれたりして本当に嬉しかったです。規模が巨大化し、色々言われていますが、自分で出店することで売ることの難しさを体験する意味ではいい場所だなと出るたびに思います。

 そして『乱読の地層』が今回の文学フリマで手元にあった分が売り切れました。(委託分が戻ってくるかもしれないのですが)書評ということもあり、なかなか売るのが難しいなと思っていましたが、最初に作ったZINEが一年かけて売り切れたことに嬉しく思います。買っていただいた皆様、本当にありがとうございます。某先輩から「古本屋に売っていた」という報告を受けて、自分の本が市場にあることを実感したのもいい思い出です。

 そして、『ikuzine』をご購入いただいた皆様もありがとうございます!「育児あるある」に閉じない、広い意味で「子どもがいること、育てること」について語った一冊です。まだまだ発売が始まったばかりでして、取り扱い店舗は順次増えております。詳細は以下の記事を参考くださいませ。

https://afro108.blogspot.com/2025/10/ikuzine.html

 私が文学フリマで買ったもの。出店者だと時間がないので、ファンボーイとしてあらかじめ目星をつけたものしか買えないな〜というのが悩みです。



2025年11月20日木曜日

平凡な生活 DJ PATSATの日記

平凡な生活  DJ PATSATの日記/DJ PATSAT

 ずいぶん前に、Riverside Reading Clubの投稿で『DJ PATSATの日記』の存在を知り、買いたいと思ったときには既に入手できなくなっていたvol.1 & vol.2が文庫サイズで一冊にまとまり、書き下ろしも加わってリイシューということで読んだ。『PATSATSHIT』『ほんまのきもち』も楽しく読んだので期待していたが、本著はまさに原点にして頂点と言える。日記ブームの中、さまざまなスタイルの日記があるものの、この唯一無二性は他の追随を許さない。本著の言葉を借りるならば、「読む前と読んだ後では確実に見える景色が違う」、そういう類の本だった。

 本著は、2020年の vol.1、2022年の vol.2、そして日付のない日記の三部構成。まず、装丁のかっこよさに目を奪われる。モノクロの版画のような写真(?)が外カバーとして巻かれた角ばった文庫。外で本を読むときは大抵ブックカバーしているが、装丁がかっこいいし、持ち歩きには最高のサイズなので、かばんにそのままポンと入れて、移動の合間に読むことが多かった。それは著者が一貫して伝え、実践し、語っている「街で生きる」というテーゼと響き合う行為であり、装丁によって行動が駆動される。そんな本という物体の魅力を改めて感じた。

 vol.1 はコロナ禍真っ只中の日記。当時、人々がどう過ごしているのか知りたくて多くの日記を読んだが、今読むとまるでSFの世界であり、改めてあの頃の特異さを再認識した。著者は大阪・淡路で自転車屋を経営し、人と接して初めて成り立つ仕事をしている。そんな状況の中で、家族、同僚、街の人たちとどのように日々生きていたのかが描かれている。お店をやっていることで、いろんな人が訪ねてくるシーンが特に興味深い。自転車という誰もが使う交通手段、さらには土地柄もあいまって、個性豊かな人たちが続々とお店にやってくる。『PATSATSHIT』を読んだときも感じたが、鋭い観察眼と描写力に基づいた独特の文体は、まるで小説を読んでいるかのようだ。また、変わった客や悪意のある客のことを単に「わるい人」として一面的に描くのではなく、多面的に描いていることから、著者の優しさが伝わってきた。

 本著は店舗日誌、読書日記、さまざまな日記的側面を持ち合わせているのだが、なかでも一番心に残ったのは、育児日記としての側面だった。著者には二人の子どもがおり、小学校・保育園で起こる悲喜交々に何度も感情を揺さぶられた。子どもたちが成長し、自分たちのコミュニティ、関係性を作っていく様をこんなに豊かに書けるのかと何度も唸らされた。特に長男のエピソードは、何気ない話なのだが、著者の筆力もあいまって忘れられないものばかりだ。友人とのけん玉バトルの顛末や、学校に行きたがらない場面で友人たちが登場する場面は涙してしまった。また、長男が周囲と協調しない姿を目にして、自身の「空気を読んできた」過去と照らし合わせ、自分を超えたと認識する場面は、なかなかできない思考の展開だ。

 次男をめぐっては、保育園との関係性の構築が印象的だった。私自身も毎日の送り迎えの中で、保育園、幼稚園という場所の尊さを痛感する日々なわけだが、著者は自分とは別ベクトルで保育園をとらえている点が興味深かった。やはりここでも、お店に来るお客さんに対する眼差しと同様に圧倒的な鋭さと優しさが発揮されていた。先日読んだ『それがやさしさじゃ困る』にも通ずるが、大人は子どもを甘く見るのではなく、しっかり観察した結果に基づいてフィードバックする必要があると思うし、著者は自分の子どもだけではなく、子どもたち全体を本当の意味で「見ている」のだなと読んでいて何度も感じた。その眼差しを前に、自分が一体どれだけ見れているのだろうかと考えさせられた。

 日々の出来事を記録するだけでも日記は面白いが、本著では、各出来事を起点に思想が展開していく点が、並の日記と一線を画している。読んでいるあいだ、インディペンデントであることの意義について何度も考えさせられた。本の引用も含め、これだけ自分の考えを言語化できて、さらには実践できる人間がどれだけいるだろうか。「ストリートナレッジ」とは本著のような作品のために用意された言葉だろう。このラインにハッとした人は全員読むべきクラシックだ。

誰であれ、どのような行為であれ、人が人に手を差し伸べるということには、ある確実な物質的基盤があり、秩序があり、意味がある。その懸命な営みには、素直に美しいと思わせるものがある。瞬間的に芽生えた愛にはそれ自体としての目的はない。しかし思いやりの気持ちを積み重ねることによって、社会という本当に捉えどころのないものに対する観察と考えが深まってゆく。

2025年11月13日木曜日

田我流 ONE MAN LIVE TOUR『流 ~ながれ』東京公演


  田我流のワンマンライブが東京で開催されると知り行ってきた。田我流のライブは2012年『B級映画のように2』のリリパ@WWW、2018年に開催されたCINRAのイベント以来。音楽的に大きな方向転換を果たした『RIDE ON TIME』以降のライブは初めてだった。彼がその間に探求してきた「ヒップホップ道」をしかと感じる本当に素晴らしいライブだった。

 18時45分くらいに会場に着いたのだが、幕前BGMがラジオ形式でNORIKIYOがゲスト出演しているタイミングだった。二人のフランクなトークと共にエクスクルーシブなNORIKIYOのビートジャックが流れてバイブスは満タン。幕前BGMでラジオというのは理にかなっていて、立って待つときの退屈しのぎにベスト。単純なDJではなく、そこで流れる曲に対する田我流の思いも聞けてよかった。ライブ前の待ち時間は持て余すことが多いので、他のラッパーも真似して欲しい。

 また、他にも田我流のエポックメイキングなスタイルとしては、ライブのセットリストを事前に開示しているところだ。当然、一部の曲はマスクされているが、これによって観客たちは事前に盛り上がるための予習ができる。観客たちもライブを構成するバンドメンバーという認識があることが、こういった振る舞いから伝わってくるし、実際、観客の盛り上がりはやべ〜勢いだった。

 息子であろうBIG5LOWによるラップが流れてライブがスタート、まさかの1曲目はビートジャック。Camp Lo 「Luchini」のビートの上で縦横無尽にラップする田我流。今回はパーカッション、トランペット、テナーサックス、バリトンサックス、MAHBIEのターンテーブルという半生バンド編成。「Luchini」はそんなホーン中心の編成が最も映えるクラシックなヒップホップビートである。ここに田我流の温故知新スタイルが端的に表現されており、原曲は1997年リリースだが、2025年仕様の現行のフロウでラップしているあたり、田我流が田我流たる所以と言える。

 当然オケオンリー、マイク一本で魅せていく。ラップが上手いのは当然として、MCを含めてライブの構成が素晴らしかった。チルなムードを演出するのもうまいし、アッパーモードで盛り上げるのもお手のもので、ライブ内での緩急が本当に見事だった。ゆえに本人が繰り返して唱えていたとおり、ライブが「光陰矢の如し」であっという間に終わった印象だった。

 前半はトランペッター黒田卓也が大きくフィーチャーされたEP『Old Rookie』の曲を中心に、前述のホーン部隊が活きる曲を立て続けに披露。なかでも「TARAREBA」のライブでの爆発力がとんでもないことになっていて、ホーンアレンジによってBrasstracksを彷彿とさせるもので原曲にない勢いが加わり爆発していた。

 アレンジの観点でのハイライトは「サウダージ」だろう。ツアータイトル「流」の元ネタとも言える曲で、原曲ではギターが担っていたメロディを同じくホーンでアレンジ。トランペット、テナー、バリトンの三発の重奏的なホーンサウンドは楽曲の新たな魅力を引き出していた。他の楽曲ではサブの役割が強かったパーカッションも、この曲ではここぞとばかりにコンガを叩きまくり。原曲がもつラテンのノリがより強調されていた。この曲に限らず、さまざまなアレンジがライブで施されているのだが、それは田我流が自身でビートメイクを手がけるようになったことが大きく影響しているだろう。ラッパーというより、一音楽家という側面が強くなっており、シェイカー、口笛、フィンガースナップを本人がこなすという、ラッパーとは思えない楽器的な引き出しをこれでもかと披露していた。

 一番とんでもないことになっていたのは「やべ〜勢いですげ〜盛り上がる(REMIX)」→「Ride On Time」小学生の頃、プールでやった「洗濯機」よろしく、フロアにいる人間が反時計回りに動いていくという新たな形のモッシュ。後方で見ていたものの「自分も渦に飲み込まれるの?!」という興奮と恐怖が錯綜する気持ちになった。(実際にはギリ手前で巻き込まれなかった。)REMIXという名のとおり、ハードコアバンド調のアレンジが挟まれ、そこにFlat Line ClassicsのBIG FAFが肩車要員として登場、田我流と合わせて3m超級の熊を彷彿とさせる大きさになり、観客をアジテートしていた。そして「Ride On Time」この規模のライブハウスでトラップの楽曲が最大限に盛り上がると、こんなに床が揺れるのか!と心底驚いた。そして、曲のブリッジで旧レーベルメイトであるLEX「力をくれ」を引用していたことにも驚いた。こういう粋な仕掛けがたくさんあるのも田我流のヒップホップIQの高さを感じた。

 その点でいえば「JUST」は Madvillain「Acordion」のビートジャックでを披露。終演後に飲みに行った友人の話で納得したのは、田我流は昔の曲を大事にしているという指摘であった。「JUST」は1stアルバムの曲であり、別にやらなくてもおかしくない。しかし、ロイヤリティの高い昔からのファンに向けて、単に昔の曲をやるだけではなく、きちんとヒップホップ的アレンジでフレッシュなものにして聞かせてくれる。こういった細かい気配りがあるからこそ、田我流を長い間好きでいられるのかもしれない。そして「JUST」は歳を重ねた今聞くとグッとくるものがあった。

 この日は客演なしの文字通りのワンマンライブであった。客入れBGMのラジオでNORIKIYOが出演していた時点で「今日は出ないのかも…」と思っていたが、「風を切って」の前に本人からのコメントが流れ、出演しないことが告げられた。二週間後にあるELIONEのワンマンライブに出演するが、こちらには来ないのかと思うと悲しい気持ちにはなった。ただMCでもあった通り今日は一人でやり切ることを目標にしていたのだろうし、統一感という点でみると満足度は高かった。客演ではないが、今回は「EVISBEATS DAY」と言わんばかりのセトリで、EVISBEATS×田我流ワークスがコンプリートで聞くことができた。「ゆれる」から始まったコンビネーションだが、まとまって聞くとこの二人の黄金コンビっぷりが伝わってきた。

 ゴリゴリのB-BOYはもちろんたくさんいたのだが、コインロッカーでは学校帰りの女子高生、フロアではスーツをまとったサラリーマン、ノリで入ってきたであろう海外からの旅行客、クラブ常連のギャルなど、私の周辺には本当に多種多様な人がいた。これは田我流が音楽を通じて伝えてきたメッセージが立場を超越し、どんな観客をもロックし続けてきたことの証左だろう。年に一回は東京でライブしたいとのことだったので、まとまった作品が出れば、またライブに遊びに行きたい。

※セトリは全く自信ないです。。。間違いなどありましたら、ご指摘いただけると大変嬉しいです。