2025年12月13日土曜日

とある都市生活者のいちにち

とある都市生活者のいちにち/植本一子

 日記ブームが続く中、そのフロントランナーである植本さんの久しぶりの日記。近作はエッセイ集が続いていたこともあり、原点回帰を感じさせる内容で興味深かった。

 もともとnoteに掲載されていた日記がベースであり、読むだけなら無料で読める。それでも一冊の本としてまとめられたことで、416ページ、約13万字という特大ボリュームとなっておりファンとしては嬉しい仕様だ。そんな重さを感じさせない軽やかで読みやすい文体は健在だ。出版用に書いた日記ではなく、ウェブで不特定多数に向けて書かれたことによる「コミュニケーションとしての文章」という性質が、この軽やかさの理由なのだろう。

 ウェブでは味わえない本が持つモノとしての魅力が素晴らしい。基本、車で移動しない都市生活者は荷物が少なければ少ないほどいいわけで、ポケットや鞄に入れてさっと読める文庫サイズは理にかなっている。今回最も驚いたのはフォントだ。日付、数字、引用、アルファベットなどなど多様なフォントが入り乱れており、これだけ派手な紙面は新鮮だった。表紙のタイトルはその象徴であり、特にクネクネした文字が最高。自費出版ゆえの自由さが存分に発揮されている。装丁については、植本さんの作品に頻出している高橋さんの解説に詳しい。(上記商品リンクの中で読めます。)

 そして、肝心の内容だが、正直に言えば、今回の最大のトピックは自分が登場していることだ。一介のファンボーイに過ぎない自分が、日記に名前が載る日が来るとは夢にも思わなかった。文学フリマに誘っていただいたこと、図々しくも「ZINEFESTに出ましょう」と自分から提案したこと、さらに自分のZINEのタイトルまで印字されているなんて…これは一生の宝物になった。

 日記ブームと比例するように、「書くことの暴力性」が語られる機会も増えた。実際、他者を書く際に求められる配慮は十年前とは比べ物にならないほど高まっている。だが、その暴力性は書かれる喜びと表裏一体でもある。書いた側が忘れていたような瞬間が丁寧に掬われ、記録される。その尊さを、自分自身が書かれたことであらためて実感した。

 この日記には約160人以上もの人物が登場し、都市で生き生きと暮らす人々の日常が植本さんの視点を通じて記録されている。前述した文体の軽やかさは、フットワークの軽さ、どんな人でも受けとめる懐の深さを体現していると言えるだろう。象徴的なのは自転車による移動である。縦横無尽に街を駆け、次々と人に会い、その都度日常が更新されていく姿はイメージする都市生活者そのものだった。

 また、印象的だったのは、植本さんがこれまでの著作で訴えていた「さびしさ」に自分を重ね合わせる読者たちの存在だ。しかし植本さんは安易には寄り添わない。その距離感にこそ、ほんとうの優しさが宿っているように思えた。

さびしく思う読者の人もいるのだろうか?確かにいるかもしれないけれど、どうだろう。だからといって変わらないわけにはいかない。変わったようで変わっていないところもある。そうじゃない?

 個人的に一番グッときたのは、ナルゲンのボトルの巡り合わせだった。ECD氏が使っていたボトルがなくなり、なんとなく覗いたガレージセールで再び同じようなボトルと遭遇する。日々の生活で、こういった運命的な瞬間はいくらでもあり、正直それは特段意味のない偶然でもあるわけだが、それが日記として記録されることで、夜空に輝く星から星座を紡ぎ出すように意味を見出すことができる。(日付がジャスト1ヶ月後…!)ここに日記の醍醐味が詰まっていた。

 自費出版の流れが2作品分、掲載されており、どのように制作、営業、販売しているかを知ることができる点もこれまでの日記にない特徴である。自ら本を作る人が増えた今、多くの作り手にとって貴重なリファレンスになるだろう。その手つきは極めて丁寧かつ自分を追い込むプロフェッショナルでもある。作家は締切に追われて書く人が多いイメージを抱きがちだが、植本さんの場合、締切を意識しつつも、それ以前に「書くこと」が大事で好きなんだろうなと伝わってくる。だからこそ、ここ二作のエッセイの完成度に納得できたし、それが実現している背景は、書かされているのではなく、書いている「発注なき書き手」だからなのかもしれない。さらに日記内でも言及されている通り、場当たり的にどんどんコネクトしていって、いつのまにか何かができあがり、そこに人が集まり、ものを売っていく。そんな巻き込み力にも圧倒された。

 私が作ったZINEについて、ありがたいことに植本さんからたくさんご意見をいただいた。そこでプロの洗礼を味わったことも書いておきたい。苦くもいい経験だったから。自分は内容さえ良ければ読んでもらえると思い込んでおり「どうすれば確実に読まれ、届くのか」という視点をまったく持っていなかったのだ。確かに売上だけ見れば、一度買ってもらえれば数字上はそれで終わりである。しかし、実際に読まれ、人の心を動かすことがさまざまな可能性を生み出す。本が連れて行ってくれる未来は、読まれて初めて開けるからだ。

 今回の日記を読むと、植本さんは、そうして多くの人に読まれた結果、そこから生まれる人間関係に支えられながら都市で暮らしている姿が克明に刻まれている。家族という閉じた枠組みではなくとも、互助のネットワークを自ら築くことで、家族観を拡張していく実践の記録でもある。限定特典のエッセイも、まさに既存の家族観を越境していく内容で、この日記集にふさわしいものと言えるだろう。今後は日記というよりエッセイにシフトしていくようなので、日記をまとまった形で読める機会は少なくなるかもしれない。それでも植本さんの日記だからこそ味わえる日記の面白さは間違いなくあるので、またいつか出して欲しい。

2025年12月11日木曜日

音信普通 ONSHIN-FUTSUU

音信普通 ONSHIN-FUTSUU/モトムラケンジ、早坂大輔

 文学フリマのBOOKNERDのブースで入手して読んだ。音楽が通底するテーマとしてありながら、さまざまなトピックを横断的に往復書簡で語っている点が興味深かった。

 モトムラ氏が京都のレコードショップ「RECORD SHOP GG」を経営されている方で、早坂氏は岩手のブックショップ「BOOKNERD」を経営している。本、レコードの販売を生業にする二人による往復書簡となっている。見開きページで、本文内で紹介されるアルバムのジャケットが左側に、文章が右側にあるという構成。このアルバムジャケットがそのままではなく、矢吹純によるスケッチとなっている。これが本当に至高…!行きつけのコーヒーショップのラベルも矢吹氏によるデザインで馴染み深いのだが、それも含め彼が得意とするのはブルースを感じる絵だ。しかし、今回は時代も国境も超えて、さまざまなアルバムのジャケットが描かれており、どれもこれも味わい深すぎて、ページをめくるのがとにかく楽しい。あんまりネタバレすると、読む楽しむが減るのでここでは詳細は書かないが、ONRA『Chinoiseries』は青春のアルバムであり、あのジャケが矢吹タッチで書かれていてブチ上がった。

 

 ベタからニッチなものまで、幅広く紹介されており、音楽ガイド本として最高。しかも、振りかぶって音楽を紹介するのではなく、何気ない会話の中の一つとして紹介されている点に、音楽は嗜好品でもなく生活の一部なのである、というメッセージを感じた。

 新譜チェッカーとしては、新譜は「新しい」というだけで聞くきっかけがあり、今年のリリースのアルバムだと一旦聞いてみる。しかし、旧譜は何かトリガーがないと、なかなか聞こうとするきっかけがない。そういった観点でいえば、本著はトリガーだらけで前述のONRAを含めて聞き返したいアルバムもあったし、新たに知ったアルバムもあった。一番強烈だったのは、ANDRÉ 3000のピアノスケッチ集。音楽になる前の芸術の塊みたいなアルバムだからぜひ聞いてほしい。

 二人のテーマは多岐にわたり、タイトル通り「普通」の話が展開される中でも、やはりクリエイティブ論や、モノを売ることに関する内容が興味深く映った。二人とも小売業だけではなく、レコードや本といった自身のプロダクトも手がけるからこそ、今の時代にモノを作って売ることに対する矜持がふんだんに語られており、私もZINEを細々と作って売っている身として刺激になった。特にこのラインにハッとした。

止むに止まれず、衝動としての音楽や文学をやっている人というより、みんなある程度オールマイティーに、経済のアルゴリズムに乗っかって音楽や文学をやっている。昔はただギターを鳴らしていればよかったのに、今ははじめからマネジメントとか、経理とか、オンラインストアに音源をアップするとか、そういうものを兼業することが当たり前になってしまったことが、結果的に自分たちのやっていることをつまらなくしているとしたら?

 今の状況は不要な中抜きがなくなったことで、歓迎すべき状況だと思っていたけれど、インディペンデントに誰でもなんでもできるようになった結果、そこでクリエティビティが削がれている可能性は思いもよらなかった。そして、アルゴリズムに動かされて何かを作っているだけ、という強烈な言葉は、これからの時代、うちなるパッションをどれだけ大切にできるかが鍵だと感じた。

そんなBOOKNERDさんにて弊ZINE、お取り扱いいただいております。合わせてチェックくださいませ。宣伝エンディングで大変恐縮ですが、どうぞよろしくお願いします。

ikuzine


2025年12月8日月曜日

Θの散歩

Θの散歩/ 富田ララフネ

 帯にある「本を読むことが子育てに与える影響について」という言葉にひかれて読んだ。まさに今の自分のすべてといっても過言ではないトピックなので、それはもう楽しく読み、このまま終わらないで欲しいと願うほどだった。本を読むことと、子どもを育てることが有機的に結びつき、それぞれが深い論考として展開される、唯一無二な小説だった。

 主人公は著者と同名で、妻Qと子どもΘの三人家族。主人公が一年間の育休を取得し、妻が働いているという状況の中で、主人公が0歳の子どもと東京を中心に街を徘徊しながら、子どもが寝る隙間の時間で本を読んでいる。それだけの小説なのだが、これが滅法オモシロい。

 古今東西の小説やエッセイをひたすら読み、その断片を思考の足場にしながら、自身の育児へとフィードバックしていく。エッセイは実体験に根ざしているからまだ理解できるとしても、小説の一節を切り取り、貼り付け、自らの解釈を上書きし、さらに自身の物語を構築していく様は、まさしくサンプリングであり、ヒップホップ的手法と言えるだろう。

 サンプリング元になる本のチョイスも2025年とは思えないラインナップで興味深い。大江健三郎、田中小実昌、カフカ、井戸川斜子など、主人公は縦横無尽に読みまくっている。なかでも中心を担うのは大江健三郎である。正直「大江と育児」なんて想像もしていなかったが、大江には知的障害をもつ息子がいて、その子どもをモチーフにした小説がある。そういった小説の視点を借りて、育児を考察していく点が新鮮だった。こうした引用スタイルそのものが大江の特徴でもあるらしく、引用するスタイルをさらに引用する、まるでマトリョーシカのようだ。

 さまざまな論考が展開される中でも興味深いのは、人が生まれてから「人間」になるまでの過程に関するものである。「人間になったなぁ」と思う瞬間が0〜2歳くらいまで毎日のように訪れる。それは身体、言語能力、心といった具体的な成長であるが、著者が考察しているのはもっと抽象的なものだ。

 赤ちゃんの段階では「考える」ことはない。それは、主人公親子が頻繁に訪れる上野動物園にいる盲目のポニーのようで、赤ちゃんには空洞があるだけ。しかし、成長していく中で、空洞が何かで満たされていくことを「人間化」と称し、その意味を主人公はずっと考えている。この抽象的な感覚およびその思考過程をこんなに言葉にできるなんて、著者の言語感覚がいかに鋭いか。そして、「育児は見ることなのではないか?」という主張は、今年読んだ一連の育児に関する本に通ずるものがあった。

Θの中身、つまり私たちが「考える」という行為を取得してしまったことにより「考える」にとって代わられてしまったもので、幼いΘの内面がまだそれで満ちているものというのは、実はΘの外身にこそ孕まれているのではないか?だったら私がすべきことは、Θが何を考えているんだろうと無理やり私たちの側に引きつけて想像するよりも、ただΘのことをじっと、よく見ていなければならないんじゃないか?

 また、男性である主人公が当たり前のように育児全般を担っている描写が画期的だ。実際に著者が育児に主体的に関わっていないと書けないだろう、ディテールの細かさに驚く。なかでも「ベビーカーだから重い本でも平気である」というのは、著者の明確な経験がそこには宿っていた。

 一日中、赤子を相手にすることは確かに大変ではある。しかし、そのわずかな間隙をありがたがるように、ひたすら読書を続けていく。実質、読書日記の様相を呈しているので、ここまで述べてきた育児の話は、本著の両輪のうちの一つでしかなく、本が好きな人にとっては至福の瞬間の連続である。つまり、本を読んでいるときに時代や立場を超越し、自分の思考に何か違う視座をもたらす、あの瞬間がたくさん描かれているのだ。今や多くの人の余暇がSNSやゲームを中心としたスマホを眺める時間に捧げられているのだろうが、本著はそういった人たちに本を再び手に取らせる可能性さえ含んだ「本の小説」である。

 育児に献身したことを子ども本人は覚えていない事実に主人公は戸惑いを覚えている。しかし、大江の小説を読み続けた先に待っていた「ご褒美」のような、そのことに関する解釈が飛び出す瞬間が描かれ、思わず膝を打った。自身の子どもの協調性について色々思うことが増える中で、その視座は大きな示唆となった。いい意味で諦念を抱きながら、子どもの姿を眺めることができるようになった。(大江の小説を読まずに獲得していることについて、この小説の主人公はいい気持ちはしないだろうが。)子どもの言動に思いをめぐらせて、もうすぐ4年。こうして自分の言葉で考えることこそが育児の喜びであり、苦悩でもあるということを改めて気づかせてくれる小説だった。

2025年12月2日火曜日

湖まで

湖まで/大崎清夏

 著者の名前をいろんな場面で拝見するものの、馴染みのない詩ということもあり実際の作品を読んだことがなかった中で、palm booksから小説がリリースされたということで読んだ。連作小説集で、つながりは緩やかにありつつ、それぞれ後味が異なっていて楽しく読んだ。

 最初の短編は少し不思議なトーンで、目の前で起こる具体的な出来事と心象風景の重なりが独特の世界として立ち上がる。その意外性に驚かされたが、続く短編は一転して地に足のついたリアリティがあり、詩人である著者の「つかみ」としての配置なのかもしれない。

 「別れと自立」が一つのテーマとして映った。誰かと生きていても、ふとしたきっかけで一人になる可能性はいつも身近にある。しかし、ただちに孤独が訪れるわけではなく、ゆるりとした連帯、それは既存の「家族」ではない、もっと広い概念で誰かと生きることについて書かれている。

 私が特に好きだった短編は「次の足を出すところ」。五月の自然を捉えた冒頭の描写に心を掴まれた。状況説明ではなく、余白に満ちた情景描写こそ小説の醍醐味であり、久々に小説を読むことも相まって癒やされた。悲劇的な出来事を扱いつつも、それ以上に「足を踏み出す」という動作のアナロジーが強く胸を打った。でこぼこの地面を歩くとき、転ばずに前へ進むための一歩。車を運転するときにアクセルを踏み出す行為。それらが物語の冒頭と終わりで響き合い、美しい円環構造となっていた。

 また、自立することは移動することを意味し、どの短編でも歩いている場面が多い。等高線が印象的なブックカバーは「移動」が本著の象徴であることを端的に表現した素晴らしいブックデザインだ。本著では詩歌、日記という著者の武器が小説の中へフィードバックされていて、著者の見本市のようでもあった。

 「眼鏡のバレリーナのために」を読んだとき、どこかで見覚えがあると感じたが、既刊『palmstories あなた』に収録されていた短編の再録だった。前回はアンソロジーの一編として縦の比較ができる読み方だったが、今回は同じ主人公の周辺に焦点を当てた横展開で、小説の自由さとタイムレス性を楽しめた。

 感触を大切にしている描写が印象的だった。陶器やギターといった曲線に人間がフィットする、何ともいえない運命的な瞬間が表現されている。確かに陶器やギターは見た目も大事だが、日々使うものだからこそ、手触りこそが大事で、「人生の手触り」がテーマの一つだとも感じられ、文字通りしっくりきた。AIなど実態のない価値がもてはやされる今、物体として存在することの意味を柔らかく表現してくれていた。次は日記を読んでみたい。

2025年12月1日月曜日

美玉通信 第2号 世界の終わりの美玉書店

 先日の文学フリマでゲットした美玉通信 第二号。『美玉ラジオ』というポッドキャスト番組によるZINEである。ポッドキャストではSFを中心に読んだ本が紹介されており、毎月欠かさず聞いている番組の一つだ。ウェブ上にあるのは、最新の三回分のみのアーカイブなので多くは聞き返せないものの、今回のZINEで過去回が文字で読めてありがたかったし、ZINEというフォーマットならではの切り口で「世界の終わり」が提示されていて興味深かった。

 今回は「世界の終わりの美玉書店」というテーマで、世界の終わり系SFについて、対話、エッセイ、小説といったさまざまなスタイルで「世界の終わり」に焦点を当てている。冒頭『PMSのためのガイドブック』から始まるわけだが、PMS=世界の終わり、という見立てが興味深い。私は男性で、どこまでいってもPMSそのものを体験することは叶わないわけだが「世界の終わりかと思うほどの辛さ」であることを男性が少しでも理解する端緒になりうる。どちらかといえば男性的世界観の強いSFにおいて、こういった女性特有の視点によって選書されている点が興味深かった。

 対話パートでは、ポッドキャストで「世界の終わり」について話された過去回が収録されている。私も同じく文字起こしでZINEを制作しているが、文字と音声の違いを改めて感じた。音声はいい意味でも悪い意味でも聞き流せるが、文字だと繰り返し読めるし、目で行ったり来たりできるので情報の粒度が一気に変わる。特にコンテンツの話だと、音声の中で登場してもフォローできていないことがよくあるが、文字はそこもきっちりトレースできる。今回だと『地上最後の刑事』シリーズがとてもオモシロそう。自分のアンテナには引っかかってこないSFの話を柔和な語り口で紹介してくれているので読んでみようという気になりやすい。これも番組の特徴と言える。

 「世界の終わり」というワードだけで、これだけいろんな小説が紹介されていて驚くし、読み終えたあと、ストーリー展開などをすぐに忘却してしまうタイプの人間なので、お二人が話の流れに沿って、それぞれの考えを語っていることに小説への愛を感じたのだった。

 読書系のポッドキャストは色々チェックしているのだが、密度の高いもの、つまり読んでいる前提で話が進んでいくものが多い。『美玉ラジオ』では二人とも読んでいるケースも当然あるが、本の嗜好はバラバラなので、片方が読んでいないことも往々にしてある。読んでいる前提で一定のゴールに向かうのではなく、あくまで会話の流れで本の話をしている点が番組の好きなポイント。終盤に過去回のアーカイブとして掲載されている『わからないを考える』は、まさにこのポッドキャスト番組の魅力そのものが結果として話されているエピソードであり、ZINEに収録されていることも納得だし、折に触れて読み返したい内容だった。

 個人的にもっとも聞き返したかった春暮康一を特集したエピソードが載っていてアガった。『法治の獣』を読んだあとは停滞しているのだが、二人の語る春暮康一の魅力を読むと、読みたい気持ちが再び高まってきたので、その気持ちを大切に次は『オーラリーメーカー』を読みたい。(今年、二回目の決意)

2025年11月27日木曜日

世の人

世の人/マリヲ

 DJ PATSAT『平凡な生活』を読んで、ずっと積んであった本著を読んだ。著者はDJ PATSATこと土井さんが経営するタマウマラで共に働いていた方で、日記に何度も登場する重要人物だ。自転車屋で二人とも文筆業を行っていること自体驚きだが、あまりにもブロークンな著者のスタイルが衝撃的な読書体験だった。

 本著は、著者が大阪で過ごしていた日々を中心に書かれたエッセイ集。冒頭「ダルク体験記」から始まり、あまりにカジュアルなドラッグ描写に度肝を抜かれる。その描写は単にドラッグを嗜んでいるというだけではなく、どういった人がダルクにきているのか、薬物遍歴からその人たちの日常まで、細かく描かれており、こんな人が世の中にいるのかと何度も驚いた。(猫フーさんのエスタック中毒…!)

 一方で友人や彼女といった周辺人物のバックグラウンドはほとんど紹介されないまま、過去と現在を行き来するような散文スタイルで自身の思いが朴訥なスタイルで綴られていく。文章に起承転結はなく、時間軸もバラバラで、何度も場面をスイッチしていく。著者はラッパーでもあるので、リリックのように書いているとも言えるが、正直読みにくかった。しかし、そんな中でも急に具体的なシーンが脳内に突如想起され、心にパーンと入ってくるラインがやってくる。そして、その何かを追い求めるように読み進めてしまう。まさにドラッグのような文章と言える。部分的に抜き出しても伝わらないかもしれないが、コンテキストの中に埋め込まれた瞬間に輝く、著者独自の筆力がなせる技だ。

仕事をして、お金がある程度あって、大事な人が笑っていて、これは当たり前というか、その暮らしの中でもほんの一瞬だけの、幸せなこと、気持ちのいいこと、目を見開くこと、息をのむこと、感動して涙が出ることなど、これらは本当に一瞬で、一瞬でなければ良いのにといつも思うけど絶対に一瞬だから、毎日を丁寧にそっと生きなくてはいけないと思う。

一緒なことは安心だった。暮らしの中で、そうやって定規を他に頼ってやっていると、時々どうしようもなく自分に立ち返ってしまう瞬間に、さてそれを引き剥がさないといけない。

自分の好きや嫌いが反射して、その返ってくる速度で自分というものを計って、その上で、その世界の中で、してもおかしくないことを決めていくような感じ。

 私は大阪出身で著者とほぼ同世代、なおかつ出入りしていた場所が似通っており、あの頃、身近なところでこんなに破天荒な出来事が起こっていただなんて信じられなかった。ラッパーゆえのヒップホップ的なエピソードがいくつかあって、そこにもアガった。ダルクにK-MOONことGradice Niceのビート集があった話、MOBB DEEPの音が流れる中、部屋の壁に頭をぶつける姉、釜ヶ崎の夏祭りでの出番の話など。SHINGO★西成がいうところの「ズルムケ」のヒップホップ的な人生がそこにあり、著者が世で生きていくためにヒップホップや文学があるように映った。

 表題作は宗教二世に関する話で、安倍晋三を殺害した山上被告の裁判が始まった今、タイムリーな話だ。統一教会ではないが、おなじく宗教にのめりこんだ親から子どもがどういった影響を受けるのか、なかなか知り得ない現実ばかりだった。自分たちと異なる信仰を持つ人を「世の人」と呼び、蔑んでいるエホバの思想と、著者が「世の人」に向ける眼差しのかけ算によってマジックが起こっていた。小説みたいな現実の話がたくさん読めたので、次は著者による小説を読んでみたい。

2025年11月26日水曜日

文学フリマ後記

 文学フリマ41東京に出店してきました。今回で3回目。売れ行きはボチボチでした。そもそも育児している人はなかなか来にくい催しだなぁと、開始一時間くらいで気づきました。とはいえ、文学フリマによってできた縁があり、前回来てくれた方が来てくれたりして本当に嬉しかったです。規模が巨大化し、色々言われていますが、自分で出店することで売ることの難しさを体験する意味ではいい場所だなと出るたびに思います。

 そして『乱読の地層』が今回の文学フリマで手元にあった分が売り切れました。(委託分が戻ってくるかもしれないのですが)書評ということもあり、なかなか売るのが難しいなと思っていましたが、最初に作ったZINEが一年かけて売り切れたことに嬉しく思います。買っていただいた皆様、本当にありがとうございます。某先輩から「古本屋に売っていた」という報告を受けて、自分の本が市場にあることを実感したのもいい思い出です。

 そして、『ikuzine』をご購入いただいた皆様もありがとうございます!「育児あるある」に閉じない、広い意味で「子どもがいること、育てること」について語った一冊です。まだまだ発売が始まったばかりでして、取り扱い店舗は順次増えております。詳細は以下の記事を参考くださいませ。

https://afro108.blogspot.com/2025/10/ikuzine.html

 私が文学フリマで買ったもの。出店者だと時間がないので、ファンボーイとしてあらかじめ目星をつけたものしか買えないな〜というのが悩みです。