2025年9月17日水曜日

砂漠の教室: イスラエル通信

砂漠の教室: イスラエル通信/藤本和子

 先日読んだ『音盤の来歴』で、著者の別作品に関する言及があり、積んであった本著を読んだ。これまで何作か著者の本を読んできたが、その中でも骨太な一冊だった。紀行エッセイとしてオモシロいのはさることながら、イスラエル、ユダヤ人に対する価値観が克明に書かれていて興味深かった。

 タイトルの「砂漠の教室」とは、ヘブライ語を学習するために訪れたイスラエルの語学学校のことであり、著者がイスラエルで過ごした期間に書かれたエッセイが中心となって構成されている。過去作同様に著者の観察眼は冴え渡り、教室にいる生徒や先生たちのユニークな雰囲気がふんだんに伝わってくる。時代は70年代であり、第二次世界大戦の余波がまだまだある中で、ユダヤ人たちの立場の脆さや、イスラエルという国をなんとか理解しようとストラグルしている。検索、さらにはAIに尋ねたりと、知らないことを学ぶ上で、現代ではたくさんのアプローチがある。しかし、当時、生きた情報を得ようと思えば、現場に直接訪ねることがもっとも確実だったのだろう。だからといって、夫婦二人でいきなりイスラエル行ってヘブライ語を学ぶなんて、相当トリッキーではある。

 特に心をつかまれたのは「イスラエル・スケッチ」と呼ばれる章だ。銀行員との会話、兵士のヒッチハイク(花と銃の対比!)、ベドウィン、イスラエルの料理など、イスラエルで暮らす人たちの生活がまさにスケッチされるかのように微に入り細に入り描かれていた。特に今回は料理にフォーカスしていて、なかでも「悪夢のシュニツェル」では、イメージする中東料理が裏切られていき、イスラエルと欧州の関係性のねじれを料理をアナロジーにしてズバッと表現していて見事だった。

 エッセイにとどまらない思索が載っている点も本著の特徴だろう。具体的には、最後にある「なぜヘブライ語だったのか」「おぼえがきのようなもの」という章だ。ここではイスラエル、ユダヤ人を著者がどのように捉えているか、言葉を尽くして書かれている。イスラエル、パレスチナの問題は日本から距離もあり、直接関係するわけでもないため、どうしても他人事に映ってしまうのが現状だろう。しかし、著者はユダヤ人と朝鮮人をディアスポラとしてオーバーラップさせ、イスラエル・パレスチナ問題について、私たちが他人事でいれるわけがないのだと喝破していた。

 当時のイスラエルと2025年の今のイスラエルでは状況が異なり、ユダヤ人の不遇に思いを寄せることは今は難しい状況ではある。ただ、そんな中でも突き刺さる言葉はいくつもあった。

わたしは人間が人間に対してこれまでに行ってきた残虐行為の詳細な内容を知ることでは、もはやわたしたちの思想を力強いものにすることはできないと感じた。(中略)残虐、血、殺戮、死は茶の間でも日常茶飯事となり、わたしたちの感覚はしびれきって、持続しない、もろい「一般的な怒りの気持」としてあるだけで、結晶しない。正義の言葉のように思える言葉の一つ一つは、歴史に汚され、いやしめられ、萎えている。言語の貧困は思想の貧困を丸出しにしている、と思った。

 今日もガザ侵攻のニュースが流れてきて、一体どうすればいいのか、もはやよくわからなくなってきているが、こうやって本を読んで理解を深めることは必要だと感じている。最近、イスラエル擁護の視点を日常生活の中で目撃して、そこで違和感を感じたのは、間違いなく自分で能動的に情報を取得しているからだ。自分の違和感を少しでも伝えていくしかないのかなと思う。

2025年9月11日木曜日

音盤の来歴: 針を落とす日々

音盤の来歴: 針を落とす日々/榎本空

 『それで君の声はどこにあるんだ?』の著者による音楽を主題としたエッセイ集。前作はかなり好きな一冊だったが、本著も自分にとって特別な一冊になった。レコードを買うこと、聞くこと、さらには音楽を聞くこと全体を通じて、これだけの話を書ける著者の筆力に改めて感服した。そして、月並みながら「やっぱりレコードっていいなぁ」という思いを新たにした。

 レコードさながらSide A、Side Bという形で構成されており、Side Aではレコードをめぐるエッセイ、Side Bではより広く音楽と人生に関するエッセイとなっている。著者はアメリカに移住してから本格的にレコード蒐集を趣味として始めたようで、買ったレコードに関するエピソードがSide Aでは展開されていた。レコードに関する読み物は色々あるが、一枚のレコードに付随して、これだけパーソナルな出来事が言語化されている文章に巡り合うことはなかなかない。さらに、レコードを買ったミュージシャンのライブレポも興味深く、栄枯盛衰な音楽の世界で、それぞれのアーティストがキャリアを重ねながら、自分なりの表現を貫いている様に「アメリカ」を感じたのであった。レコードとライブを通じて、アーティストの今昔を貫いていくような構成はまさに「音盤の来歴」というタイトルがふさわしい。

 著者が若い頃からレコード好きというわけではなく、比較的最近好きになったからこそ、レコードに対するみずみずしい感情が表現されていて、レコード愛を取り戻させてくれる。レコードで音楽を聞く行為は、日常においてスペシャルな瞬間なのである。また、レコード蒐集家であれば、皆が抱いたことのある、中古レコードがもっている強烈な磁場のようなものが、著者の言葉で見事に言語化されていた。誰かがレコードという塩化ビニルの円盤に音を記録して、誰かがそれを聞く。そして、様々な人のもとを経て、自分の家のレコード棚にある奇跡を本著は感じさせてくれる。

 ストリーミング時代においては、言及されている音楽をすぐに聞くことが可能であり、聞きながら読むと臨場感が増して、より一層楽しむことができる。本著で取り上げられる70年代のロック、ソウル、ジャズといった音楽の数々は、読まないと出会うことがなかっただろう作品ばか。特に最初のエピソードに登場するアラン・トゥーサンとの出会いは大きな収穫であった。

 Side Bにかけては「音楽と人生」とでもいうべきエッセイとなっている。自分の人生において重要な存在だったものの、今わざわざ連絡して会おうとは思わない。誰しもそんな人がいると思うが、そこに音楽というファクターが加わるだけで、どうしてこんなにスペシャルでノスタルジックなものになるのだろうか。タイムレスな魅力を持つ音楽が、記憶と結びつくことで輝きがさらに増す、つまり、その音楽がその人固有のものになるからなのか、と考えさせられた。

 著者のオリジナリティがもっとも発揮されているのは「レコードにまつわる抜き書きのアーカイヴ、あるいは百年目のボールドウィンへ」という章だろう。アフリカ系アメリカンの作家たちを縦横無尽に引用しながら、レコードを絡めつつ思考が広がっていく様は圧巻。特にボールドウィンの引用は前作にも増して行われており、いつか読みたいなと思っていた気持ちを強く後押しされた。ボールドウィンのレコード棚にあった音楽が、ストリーミングのプレイリストで聴けることの味気なさの話も興味深かった。何を聞いていたかも大事ではあるが、それよりもボールドウィンと音楽のあいだにあった「痕跡」こそを私たちは求めているのだという指摘は、データ至上主義の今、新鮮に映った。

 終盤にはイスラエルとパレスチナの戦争に対して胸を痛めている話があった。ちょうどこの戦争の受け止め方でモヤモヤしていたタイミングだったので、著者のまっすぐな懸念に溜飲を下げた。この言葉を胸に刻んでおきたい。藤本和子の『砂漠の教室』をちょうど家に積んでいたので、次はそれを読む。

遠くの地の虐殺を止めろと叫ぶことと、子どもたちが走り回る部屋でレコードを聴くこと(もちろんそれはレコードじゃなくたって、音楽じゃなくたっていいのだけど)、これらは二者択一ではなくて、どちらも生きるという営為の大切な一部であり、しかもきっとどこかで繋がっている。


2025年9月8日月曜日

ビルボードジャパンの挑戦 ヒットチャート解体新書

ビルボードジャパンの挑戦 ヒットチャート解体新書/磯崎誠二

 『本の惑星』というポッドキャストで著者がゲスト出演していたエピソードを聞いて、著作がオモシロそうだったので読んだ。番組内ではビルボードジャパンが「本のヒットチャート」を構想している話が出ていたが、本著では音楽チャートについて詳細に解説されている。これまで考えたこともない視点の連続で、普段あまりチャートアクションを見て音楽を聞くタイプではないものの、思わずチャートを眺めたくなった。

 アラフォーの私にとっては、音楽のチャートといえばオリコンだが、それはCDが売れに売れた時代の話だ。いまやCDはアイドルカルチャーを中心とした「複数枚購入機会生成装置」と化してしおり、その売上枚数は世間的流行の物差しにはなりにくい。その代わりに存在感を増しているのが、ストリーミングや動画、カラオケ、CDなど複数の指標を総合するビルボードチャートである。本著は、そのビルボードチャートの立ち上げから携わってきた著者が、設立までの過程、運用の状況から実際のデータ分析まで「チャートとは何か?」「チャートから何がわかるか?」を丁寧に解き明かしてくれている。

 今や当たり前に存在するビルボードチャートだが、その設立までの紆余曲折の過程が詳細に書かれていた。本家USビルボードのロジックをそのまま持ってきているだけかと思いきや、USサイドはあくまでアドバイザー的立場でしかなく、日本サイドでロジック構築、チューニングしていることに驚いた。ガラパゴス的とも言われる日本の音楽産業は、配信解禁の遅れなどステイクホルダーの思惑に左右されており、今となっては、ストリーミングがほぼ全面開放ではあるものの、それが数年遅れたことによるインパクトの大きさについて、チャートを作る立場から憂いていた。既得権益がその構造を維持したがる態度は、音楽業界に限らず、日本全体の風習とも言えるわけだが、それを一つずつ打破して今のビルボードチャートがある。合間合間にある著者の過去のエピソードを読む度に、同じサラリーマンとして胸が打たれるものがあった。

 後半は実際のアーティストのデータ分析に踏み込んでいる。アーティストファンダム、楽曲ファンダムという大きく二つのタイプで分けて、各アーティストの過去、現在をあぶり出していく様に、音楽に対しても想像以上にデータ分析の波が押し寄せている現実を改めて突きつけられた。最近、ツイッターでYOASOBIの地方巡業について話題になっていたが、なぜ彼らがそういったアプローチをしているのか、本著に答えが載っている。また、ストリーミングの台頭によってCD販売で見えなかった過去曲の聞かれ方も分析対象となっている点も興味深かった。手元の資産を有効活用して利益を最大化していくにはどうすればいいかデータが教えてくれる、というのはデータ分析の基本であり醍醐味だが、それをふんだんに味わうことができる。特に著者はビルボードの最大の特徴である複数指標を重視しており、単純な実数だけではない考察も含めて興味深かった。

 「音楽はアートだ」といってもやはりトップアーティストになれば、アーティストは商材であり、その商材で会社、ひいては多くの人を支えなければならない。素晴らしい音楽を作ることがアーティストの役目であれば、それを最大化するには、データを軸とした細かいマーケティングが必要であることがよく理解できた。

 著者が、音楽ジャーナリストの柴 那典と、BMSG社長のSKY-HIとそれぞれ対談した内容も載っており、それらもオモシロかった。前者では音楽業界全体の構造、後者ではアイドルカルチャーとチャートについて深堀りされている。特にSKY-HIは自身がアイドル産業の当事者だった時代を経て、今度は自分がオーナーになってアイドルを売り出す側になった唯一無二な存在である。2020年代になっても、アイドルカルチャーにおいては、特典商法を通じてCDを尋常じゃない数(数10万〜100万!)を売っている事実に驚いたし、それに対してレコード会社と自分たちの双方がウィンウィンになるような打開策を検討してるあたりにビジネスマンとしての手腕を垣間見た。

 ビルボードチャートだけではなく、Spotifyのバイラルヒットチャートなど、いつの時代もチャートの存在が、世のトレンドを作っていることは否定できない。そして、今の時代は以前よりもメジャー、インディペンデントの垣根なく、素晴らしいものを作れば、忖度抜きでダイレクトにチャートインされ、広がっていく素晴らしい時代である。チャートにあるからといって、その音楽を好んで聞くわけではないが、それでも、相対化された「いま」を映し出す指標としての存在意義は大きい。音楽とデータが好きな人には間違いなくおすすめできる一冊だった。

2025年9月4日木曜日

小名浜ピープルズ

小名浜ピープルズ/小松理虔

 坂内拓氏による美しい装画に惹かれて読んでみた。東日本大震災から14年が経過し、時の流れの早さを実感する一方で、福島県ではまだまだ「災後」という現実が存在している。そして、日本に住んでいるかぎりは常に「災前」とも言える状況にあり、その「災間」に生きる我々がどのように災害と向き合って生きていくのか、たくさんの視座に溢れていた。

 タイトルどおり、著者のふるさとであり、今も住んでいる福島県小名浜を中心に、さまざまな人のエピソードおよび著者の思索で構成されたエッセイ集。冒頭の「はじめに」でまず心を掴まれた。それは著者の造語であり、本著のメインテーマでもある「共事者」という言葉に出会ったからだ。

中途半端であることそれ自体に意味があるはずだし、当事者でも専門家でもないからこそ果たせる役割だってあるんじゃないか。そう考えられるようになって、ぼくは「わたしの震災」を語っていいんだ、そうやって自分の立場から語っていかないと震災や原発事故の影響だってわからないじゃないかと思うようになった。そのプロセスで「共事者」なんて言葉が自分のなかから生まれた。共事者とは中途半端な人たちのことだ。自分自身の中途半端さに意味を見出したくて、つまり自分をなんとか勇気づけたくて出てきた言葉だった。

 インターネット、SNSの台頭により、誰もが発信できるようになった時代、災害に限らずあらゆる場面で「当事者」性が求められる。外野のヤジは聞くに値しないこともあるが、「非当事者」だからこそ語れることがあるのではないか。それは自分がブログやポッドキャストで試みていることそのものだ。著者の「共事者」という言葉は、自分のアプローチに名前を与えてもらったように感じたのだった。

 各章ごとに著者にゆかりのある「ピープルズ」が紹介されながら、その人のバックグラウンドや会話のやりとりを紹介しつつ、著者の思索が丁寧に描かれている。著名な人というわけではなく、福島に暮らし、自分なりにストラグルしている方々のリアルな姿は、エスノグラフィーのような魅力に溢れていた。自分が勝手に抱いていた被災後の実情や被災者像といったものを、読んでいる間にことごとく塗り替えられた。これこそが最大の魅力だ。押し付けの「復興」がどうしてワークしないのか、本著はその答えにもなっていると言える。

 印象に残ったエピソードを挙げればキリがない。例えば、原発処理水の放出をめぐる漁業の話では、補償があれば安心なのかと思いきや、その補償が結果的に下駄を履かせてもらうような形になり、純粋な商売として競争ができない。商品の魅力そのものを伝えたいという思いが、補償によって逆に歪められてしまうもどかしさにハッとさせられた。

 また、旅館の一角に設けられた「考証館」の話も興味深かった。旅館の一角に設けられた考証館では、津波で亡くなった子どもの遺品が展示されており、触れることまで許されている。その場所と国が用意した伝承館を対比しつつ、原発事故を経験した人たちによる新たなまちづくりに関する議論は、現場ならではのものだ。そして、遺族の方の今なお続く捜索活動へと繋がっていく流れは、災後は終わらないことを痛感させられた。

 さらに、原発事故後、立ち入りが禁じられた双葉高校に当時の高校生と共に訪問するシーンは本著のハイライトと言えるだろう。被災したことの辛い現実よりも、母校を訪問したときに誰でもが抱くシンプルに懐かしい気持ちが上回る。若い人たちのそんな率直な感情の動きに驚いた。

 終盤、著者が子どもと原発伝承館を訪ねる場面がある。そこで重ねられる何気ないやりとりの中で、子どもが発する真理と思えてしまう言葉の数々。「怒り」ではなく「悲しい」という感情が、被害者と加害者の境界線が曖昧にさせ、安易な二項対立ではないと著者が気づいていく。そして原発の無責任性に対して、子どもが発する「伝承」することへの意思表示。いくらビッグバジェットで豪華な施設を用意しても、最終的には人間の意思が重要なのだという対比にグッときた。

 時間が経つほど、過去の災害に関する情報は届きにくくなる。だからこそ、風化しない媒体としての本に託される意味は大きい。本著は単なる当事者語りを超え、非当事者の心の持ち様にもフォーカスしている。読むことで、自分自身が「共事者」として何ができるのか考えさせられる一冊だった。

2025年9月2日火曜日

FANMADE ARCHIVE ICE BAHN

FANMADE ARCHIVE ICE BAHN

 日本語ラップの盛り上がりと共にファンベースが拡大し、それに呼応するようにファンZINEも増えている。手前味噌ながら自分でも作成したし、このブログで紹介したマルリナさんのライブレポZINEも素晴らしいものだったし、今はRIPSLYMEのZINEが話題となっている。そんな中でnoteで見つけたのが、ICE BAHNのZINEだった。コンビニ印刷できるとのことだったので、すぐに印刷して読んだのだが、想像以上に愛情のこもった一冊だった。

 著者の説明によると、本著はnoteでまとめていた内容を、改めて冊子の形に起こしたものとなっている。「資料集」と名付けられているとおり、ICE BAHNのこれまでの活動を確認することができる。ディスコグラフィーは、活動初期の楽曲や客演曲まで含めて網羅されている。また、ディスコグラフィーだけではなく、ライブ映像、MCバトルといった活動まで記録されており、なおかつその記録の粒度が高く、情報の質と量に圧倒された。

 特に印象的だったのは「ICE BAHNの現在地」から始まる構成だ。横浜ベイスターズへの楽曲提供、JA全農のラジオCM、ヒプノシスマイクへの楽曲参加といった近年の活動を丁寧に解説しており、単なる懐古ではなく、今のICE BAHNにフォーカスしているところに唸らされた。

 近年のフリースタイルブームの一翼を担ったFORKのMCバトルについてまとめられている点が、本著の白眉である。他のメンバーを含めてICE BAHNのMCバトルの戦績が網羅的にまとめられており、勝敗の結果まで丁寧に記録されていることに驚く。そして、稀代のフリースタイラーであるFORKのバトルにおけるバースが一部書き起こしされているのだが、相当読み応えがあった。即興のリリックよりも練られたリリックの方に魅力を感じるので、正直なところMCバトルはそんなに得意ではない。しかし、FORKのバトルでのバースを文字で読むと、そのライミングは即興のレベルを大きく凌駕して、時間をかけて熟成されたバースと同じ味わいがあるのだ。本著のようにまとまった形で読むと、改めてリスペクトが増した。

 2006年のUMBにおける名勝負、HIDA vs FORKについても多角的に深堀りされている。さまざまな資料をリファレンスしながら、当時のバトルがどういう位置付けにあったのかを浮き彫りにしていく様は、ジャーナリズム的アプローチで読み応えがあった。そして今の時代が素晴らしいのは、このテキストを読んだあとにすぐに映像が見れることだ。このパートを読んだあとに、実際のバトルを見ると、自分も歴史の証人になったような気持ちになった。

 巻末のリファレンス一覧に代表されるように、著者は紙媒体やウェブ記事、YouTube、ラジオ、さらには本人への直接取材まで駆使している。情報の裏づけが徹底されており、資料的価値は極めて高い。noteでも読むことができるようだが、やはりこういった読み物の形でまとまって読めるのは大変貴重なものだ。しかも、これは第一弾で続編があるらしいので、次もリリースされればぜひ読みたい。印刷できるのは9/8 AM8:00までらしいので急げ!

2025年8月30日土曜日

介護入門

介護入門/モブ・ノリオ

 エドワード・サイードの『ペンと剣』を読んだきっかけが著者の紹介だった。その記事を知ったタイミングで芥川賞受賞の記念品をメルカリに出品するというオモシロ過ぎることをやっていたので受賞作品を読んだのであった。久しぶりに小説で頭にガツンとくる内容でめちゃくちゃクラった。大麻、介護、文学が魔合体し、気づけば「介護の入門書」と読めてしまう奇妙な読書体験だった。

 物語はシンプルで、30代の男性が実家で母と共に祖母を介護している。それだけで大きな展開はない。延々と描かれるのは、主人公が介護している情景および心情描写、介護にあたっての心構えだ。閉ざされた家庭内介護の空間からトリップしていくかのような主人公の思考の展開は、著者がまるで吸引しながら書いているように映る。

 ラップのリリックを彷彿とさせる文体が特徴的で、その大きな要因の一つは繰り返し登場する「朋輩」という言葉だ。同志と同様の意味をもち、本来の読み方は「ホウバイ」なのだが、作中ではルビが「ニガー」と振られている。2025年の現在、このNワードはアフリカ系アメリカ人固有の言葉として、部外者が使うことは差別に加担する行為とみなされる。しかし、2004年時点では、芥川賞を受賞するほど世間的に認知された小説でもこれが問題にならなかったのかと時代を感じた。当然Nワード自体には問題があるのだが、「朋輩」という呼びかけが、読み手を物語に引き止め、発散する視点をひとつに収束させる効果を生んでいるのもまた事実である。

 表紙に麻の葉模様が描かれているとおり、主人公は大麻を吸引しているのだが、あくまで日常のルーティンの一つでしかなく、描写としては控えめなものだ。大麻で酩酊状態のまま祖母を介護する主人公には、様々な思考の濁流が押し寄せ、延々とそれが吐露されていく。特に自らの親であるにも関わらず介護にコミットしない親戚や「介護地獄」と称してコタツ記事を書くマスコミ、ろくに介護したことない開発者が生み出す介護ロボットへの呪詛のような言葉の数々がハイライト。ロジック、文体どれをとっても一級品であり、こんなにネチネチと「なめんなよ?」と表現することができる作家の筆力と独特の文体。芥川賞受賞も納得の仕上がりである。

 一方で、作中には真っ当な介護の心得も折り込まれる。だからこそ前述の呪詛のような文章とのギャップが興味深かった。取材して描く作家には書くことができない、介護当事者の気持ちを余すことなく書いているからこそ、本書はスペシャルなのだ。介護は被介護者が亡くなったときに終わることになるが、その終わりが訪れるのは明日かもしれないし、五年後かもしれない。そんな終わりが明らかではない介護生活でのマインドセットについて、著者が言葉を尽くして書いてくれており、文字どおり「介護入門」として役に立つだろう。

 「血」と「記憶」を相対的な視点で捉えて、血縁至上主義に対して「記憶」でカウンターを放っている点が印象的だった。それは祖母の実子でありながら介護に関わらない親族に対する激しい罵倒と裏表の関係にある。「祖母の記憶の物語が、血の物語を乗り越えるのだ!」という宣言は、閉塞的な介護生活を突破する力強い思想にもなっていた。

 終盤にかけて、祖母に対する愛、生きてほしい気持ちを主人公が吐露している。石畳に頭を打ってしまい、ICUで生死をさまよう祖母に主人公が語りかけ、触れ続ける姿はエモーショナルそのもの。その一方で、介護が人を追い込んでいく現実も描かれ、日々ギリギリで命をなんとか繋ぎ止めることのリアルが浮かび上がっていた。

 2004年刊行当時に比べ、大麻も介護もいっそう身近なものとなった今だからこそ、両者が交錯することで見えてくる感情の機微は、今こそ多くの人に読まれるべきだと思う。

2025年8月25日月曜日

馬と今ここ

馬と今ここ

 植本さんの『ここは安心安全な場所』を読んで誰もが驚いたのは、あとがきの「とくさん」こと徳吉英一郎氏の文章だろう。馬との関係から派生して記名論を展開する、その筆致に只者ではない気配を感じ、石田商店で本著が売っていたので買って読んだ。本著は、ですます調なのでトーンに丸みがあるのだが、心の芯に迫ってくる内容で短いながら読み応えがあった。

 本著は遠野で馬と生活する徳吉さんの馬との付き合い方ガイドだ。前半は馬と触れ合うときの具体的なアドバイスが中心で、馬という生き物の実態が丁寧に説明されている。「人間が乗ることができる哺乳類」という存在はやはり特別であり、読み進めるうちに牛や豚とは一線を画す動物だと感じた。それは、筆者が優しさと冷静さの同居する視線を馬に投げかけているからだろう。

 後半は馬との関係性について深堀りしてメンタル的な点について色々と書かれているのだが、個人的にはここがハイライトだった。というのも、馬との関係について書かれているものの、もっと普遍的な人間関係や子育てといった話に置き換え可能だからだ。以下のパートは自分の育児のスタンスとして胸に刻んでおきたい。

大事なのは、馬が健やかに生きていけるように環境を整えつづけること。それから馬みずからが育っていくようなケアをしつづけること。そして、馬と人のあいだで育っていくコミュニケーションの、豊かさや多様さや深さを楽しみつづけること。そんなふうに思います。