2024年8月30日金曜日

社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学

社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学/ジョナサン・ハイト

 紀伊国屋書店のノンフィクション特集として平積みされていて興味があったので読んだ。選挙のたびに自分の肌感覚と結果の違いに驚くことが多く、たとえば先日の都知事選での石丸候補の躍進などは想像していないことであった。もはや分断が当たり前の世界において、右派、左派の原点を科学的な視点で見つめ直す一冊で非常に有用であった。正直、本著の内容をすべて信用していいのかという点はなんとも言えないが、どうして左派が今窮地にあるのかは理解できた。

 タイトルにもなっている議題に至るまでの前提となる知識の解説に十二章あるうち十章を割いている。主には「道徳とは何か?」というテーマについて、哲学、心理学、生物学、社会学といった様々な学問からアプローチを行い、「正しい」と各人が感じるプロセスやどのように思想が形成されていくか、膨大な引用とともに説明がなされている。本文中の注釈だけで60ページもあるし、トータル500ページオーバー。著者自身もToo muchだという認識はあるようで、章末に毎回まとめが用意されており論点を整理してくれているのはありがたかった。ただそれでも自分の脳のキャパでは、全部の議論をフォローできていない気がする。

 メインの主張がいくつかある中で興味深かったのは、直感と理性に対する、象と乗り手のアナロジーであった。我々は理性的で考えた結果、判断や結論を下していると考えがちだが、実態は逆で本能的に結論を決めつけ、その後に理性で判断理由を補強しているという主張であった。つまり象が先に動き出していて、乗り手はあくまで微調整でしかないということ。また道徳的な問題に関して考えを変える可能性のある手段は人との対話のみ、という主張はそれこそ直感と一致した。同じようにシニカルな視点として、グラウコンの「私たちは、真に正しくあるよりも正しく見えることに配慮する傾向を持つ」という話もSNSで個人が意見を発信しやすくなった今こそ重要な主張だと感じた。哲学は本当に古びることのない偉大な学問よ…

 本の命題に答えている内容としては、六つの道徳基盤による右派、左派に対する分析が挙げられる。ケア/危害、自由/抑圧、公正/欺瞞、忠誠/背信、権威/転覆、神聖/堕落といった六軸の中で右派、左派が重要視しているものは何か?左派はこのうちケア/危害、自由/抑圧を大事にしているが、残りの項目をおざなりにしている。それに対して右派はそれぞれをバランスよく大事にしているので、票を集める観点で見れば広く抑えることが可能だろうのことだった。具体的にオバマが大統領に当選した際のムーヴを例に挙げながら解説してくれており分かりやすかった。社会の構成員の思想として右派、左派ともに両極に振り切れた人よりもグラデーションがある中で広く感情を捉えるアプローチが必要であることがよくわかった。合理的な政策の議論ももちろん大切だが、情動の部分が大きく作用していることは否定し難い事実としてある。最終章になって、やっと具体的に右派、左派について深く考察していて、ここはかなり読み応えがあった。結論としては「根本的に悪い人はいない。両方言い分があり、それぞれの良いところを活かして社会を前進させるしかない」というある種、玉虫色にも見える結論ではある。しかし、本来政治とはそれぞれの主張をぶつけ合い、妥協点を見出していく作業のことであり、今は一歩も譲らないことが是とされてしまうことに問題がある。本著がたくさんの人に読まれて、右派、左派が歩み寄れる時代が来て欲しい。いや来ないのか…

2024年8月21日水曜日

この世界からは出ていくけれど

この世界からは出ていくけれど/キム・チョヨプ

 Kindleセールで積んでおいたのを読んだ。邦訳された過去二作の小説は当然のことながら、障害をテクノロジーの視点で考察したサイボーグになるも相当オモシロく、日本で読める韓国Sci-fi筆頭格という印象を著者に対して持っている。本作も間違いないクオリティで失われていく感覚を埋め合わせることの意味を考えさせられた。

 7つの小説で構成される短編集であり、横の繋がりは特になく各作品は独立している。どの短編も他のSci-fiであまり見ない設定が多い上に主人公が女性ということもあって新鮮だった。本作では前述の『サイボーグになる』の影響もあるのか、障害を持っている人が登場し、周りとどうやって折り合いをつけていくのかを描いている。著者あとがきにもあったが「分かり合えないこと」は全体を通底するテーマと言える。ただネガティヴに「分断」を語るというよりも、そもそも分かり合えないのが人間の性であり、それを前提として我々は何ができるのだろうか?と読んでいるあいだ、問われている気がした。群像劇ではなく、メインの登場人物は障害の有無といったように立場が大きく異なる二人に絞り、彼らが関係性を探っていくがゆえにクローズドな親密さが小説に漂う。それはSci-fiらしからぬ柔らかい印象だった。

 個人的に好きだったのは「認知空間」という話。さまざまな知識が一つの空間に集約されていく、それはつまりインターネットのアナロジーなんだろうが、集約されずに取りこぼされてしまうパーソナルな記憶の意味や、皆が同じものに巻かれるのではなく各自が思考する価値を改めて考えさせられる。そんなことを巨大な認知空間が物理的に存在し空に浮遊しているという突飛な状況から描いていくのだからたまらない。また「ローラ」は幻肢の感覚を打ち消すために三本目の腕を物理的に追加する話であるが、それだけ聞くと痛々しさがあるものの最後には愛とは何か?という議論に帰結していく。著者の小説はSci-fiにも関わらずレトロスペクティヴなバイブスも感じるのは、あくまで設定がSci-fi仕様なだけで描いていることは人間、機械の儚さだからなのかもしれない。次は長編を期待したい。

2024年8月12日月曜日

行儀は悪いが天気は良い

行儀は悪いが天気は良い/加納愛子

 1作目のエッセイが好きだったので2作目も読んだ。今回は追憶編とでもいうべきか学生時代の話を中心に過去に思いを馳せるエピソードが多い。同郷、同世代ということもあり個人的な記憶とオーバーラップする部分も多く懐かしい気持ちになった。

 ウェブ連載のエッセイをまとめた一冊となっており冒頭からネタ切れとの戦いについて言及されているが、それゆえ過去の引き出しをあけざるを得なかったのかもしれない。ノスタルジーとニヒリズムがちょうどいいバランスだった。前述のとおり同郷、同世代の共感がこれでもかと襲いかかってきた。とくに市バスで囲碁教室に通っていた話はほぼ全く同じ感覚を味わったことがある。今でこそスマホで検索してどのバスに乗ればいいかはすぐに分かるので間違うことは少ないかもしれない。しかし当時の大阪市のバスのどこに行くのか分からないムードは半端ではなかった。私は雨の日、塾に通うときに乗っていたが毎回ドキドキしていたし財布を落としたこともある。(返ってきたことが未だに信じられない)そんなことを数十年ぶりに思い出しつつ、大阪のおっちゃん、おばちゃんがいるどストレートな「ザ・大阪の家族」の様子は大阪を出て十数年経った今では一種のフィクションのようにも思えるのであった。

 著者が並の芸人と異なるのは言葉への感度の高さ、言い回しの上手さ。特に後者は小説を書くようになったことも影響しているのか、かっこいい。一部引用。

私だけが芸人になった。きっと少しだけ、自分自身に対する期待値がまわりの友達より大きかったのだ。そして何より、日常の中で交わされる意味をもたないやり取りに固執していた。誰の心にも一瞬しか咲かなかった言葉たちが私の中でだけ沈殿していき、取り出して遊びたいと思ったときには誰もいなくなっていた。

ねこだけじゃない。赤ちゃんも洋服も誰かの言い間違いも、「かわいい」という感情を抱かないと生きていけないことが怖い。でも「ねこがかわいい」が特別に怖い。いや、本当は怖くない。本当は、猫もかわいかった。はなとさくらがかわいくて幸せだった。そんな過去が積み重なって今が形作られた。

 読んだタイミングは完全に偶然なのだが、今話題のふわちゃんとの友人関係についても一章丸ごと使って言及している。彼女の今回の言動は世間的に許容できない人がたくさんいることは理解できるが、そもそもまともなキャラではないことを本著を読んで思い出した。忖度しない単刀直入な物言いや言動を皆でオモシロがるだけオモシロがって、その対象がピュアなものに世間の想定以上のエグい角度で向かった結果とはいえ、ここまで残酷に切り捨てられるのは少しかわいそうな気もする。

 近年のお笑い賞レースの巨大化(著者の言い方を借りればオリンピック化)に関する話も興味深かった。皆がM-1、KOCなどの賞レースに向けて劇場でネタを「かけていく」そこでは目の前のお客さんを審査員扱いして、その日の出番自体をないがしろにしているのでは?とお笑い純度が高い著者ならではの指摘がなされていた。行儀は良くないかもしれないが、本当に思っていることを言える芸人が好きなのでこれからも応援したい。

私はそれがめちゃくちゃ気持ち悪かった。「オリンピックやないねんから」と思った。みんなオリンピック思考が好きなのが嫌だった。じゃあ、来年から大会がなくなったらどうするのか。この大会自体も、かつては一人の芸人が提案したアイデアだったことは気にならないのか。

2024年8月8日木曜日

2024/07 IN MY LIFE MIXTAPE


 今月もリリース多過ぎかつ質が高いアルバムが多くて新譜を聞いているだけで日々が過ぎていくのであった。やっぱり夏なので全体に夏っぽい曲を選びがちだった気がする。この「夏っぽい」というのは何となくの感覚であり、冬の曲でも夏のムードを感じることもある。特定の楽器の音色やテンポとかで決まっていくのだろうけど定義は曖昧だといつも思う。ただこのムードというのは奥深くバカにできない。Spotifyには「ムード」というカテゴリまで用意されているし、実際特定のアーティストを再生するよりも何となく音楽を聞きたいときに優先されるのはムードもしくはシチュエーションだろう。というボヤ〜としたプレイリスト論を展開するほどに毎日が暑すぎる。

 7月はJJJのライブをZEPPで見たり、帰省タイミングのアマチュアナイトでJambo Lacquer, anddy toy store、Kay-onのライブを見たり。いずれも今の若い世代におけるヒップホップの人気っぷりを体感するには十分であり加齢を感じるのであった…いつか家でしか聞かない音楽になってしまうのだろうか。

 選んだ各曲、色々話したいことがてんこ盛りではあるが、今月はSUMIN,slomのアルバムが本当に素晴らしかったので皆に聞いてほしい。大人の金稼ぎに使われる年端もいかないK-popアイドルをしたり顔で音楽的に語る言論が本当に苦手なのだけども、そういう解釈好きな輩にこそ聞いてほしい。シティポップ含めたJ-Pop経由のK-R&Bが洗練されまくった結果、ノスタルジーと新しさが同居している。今月はアルバム単位で好きな作品が多かったけど傑出していた。

 今月のジャケは保育園に放置された オールドiMac…以前から保育園、幼稚園レベルではないオーディオ機器の充実具合を不思議に思っていたのだが経営者はガジェオタなのかもしれない。

 🍎Apple music🍎

🥝Spotify🥝

2024年8月6日火曜日

圏外編集者

圏外編集者/都築響一

 古本屋でサルベージした。今ZINEを作っている最中なのだけども、そのタイミングで読めて良かった。紙の雑誌全盛期から編集者として活動してきた著者が語る編集、企画に対する今の考えはどれも興味深かった。また既存の価値観との付き合い方という広い意味で捉えれば何かの作り手でなくとも仕事論として楽しめるはず。

 書籍作りの観点から八つの章立てされたインタビューの書き起こしでかなり読みやすい。著者が自身の経歴や担当作品を作るまでに至った経緯を含め丁寧に説明してくれている。どこかに所属していないからこそ歯に衣着せぬ物言いが可能で「おかしい」と思ったことを単刀直入に物申しているところが信頼できる。日本のヒップホップウォッチャーとしては『ヒップホップの詩人たち』の製作時に遭遇した日本のヒップホップのジャーナリズムに対する苦言が村の外側の視点としてオモシロかった。こんだけオモシロくて若者に局地的に人気があるカルチャーなのに内輪ノリが過ぎて外から見て何が起こっているのか分からず苦労したらしい。完全に内輪ノリでウヒヒ言っている側なので何も言えない。日本のヒップホップに限らず常に皆が興味を持っていないけれども熱がある対象を模索し既存の状況に対して怒りながら創作のエネルギーに変換してかっこいい本を生み出していくのだから有言実行とはまさにこのこと。実際、『ヒップホップの詩人たち』は数あるヒップホップ書籍の中でも資料価値は相当高い。

 ネットを中心とした発信者側のハードル低下について、過去を知っている著者だからこその説得力がおおいにあった。今となっては当たり前のサービスに対するありがたみをひしひしと感じた。知の高速道路よろしく表現の民主化が進んで誰しもが表現者になれる時代となって久しいが、それがどれだけ画期的でありがたいのか改めて噛み締めさせられる。また本著を読むと何かを生み出すときの初期衝動に他人は関係ないということを思い出した。自分がやりたいからやる。シンプルだったはずのことが可視化されるアクセス数、インプレッションが目的になってしまう。そうではなく自分がオモシロいと思っていることを信じきれるかどうかが大事なのだった。道に迷ったとき読むと指針になりそうなバイブルめいた良書。

2024年8月3日土曜日

スピード・バイブス・パンチライン

スピード・バイブス・パンチライン/つやちゃん

 わたしはラップをやることに決めた フィメールラッパー批評原論に続く著者による日本のヒップホップ批評本が出たので読んだ。今回の取り組みはトリッキーでヒップホップと漫才、ヒップホップとファッション、それらのかけ算から導き出す新たな視座がフレッシュだった。日本のヒップホップは若者を中心にかつてない人気を獲得しながら規模が拡大している中で何が興味深いのか、最も丁寧に言語化している一冊だ。

 漫才とヒップホップ。両者の共通点は人の心を動かす「しゃべり」だとしてタイトルにもある三項目にフォーカスしてそれぞれを批評的に論じていく。点と点を結び線を紡いでいくスタイルであり、そんな見方をするのかという驚きの連続だった。漫才師とラッパーの共通点として個人的に感じているのは批評に対して本人やそのファンからカウンターされるケースがあること。「おもろい/おもろない」「かっこいい/ダサい」の二項対立といった安易な議論へと回収されがちだ。そこに抗うようにラップ、漫才からどれだけ意味を見出せるか、このゲームのオモシロさに気づいたとき、それぞれのカルチャーをさらに楽しめるようになるのは間違いない。

 漫才とラップの両方ともある程度知識があるので著者のアナロジーについてすべて納得する訳では正直なかったけれど、めちゃくちゃ刺さるものもあった。特にパンチラインのチャプターが白眉だ。ZORNとタイムマシーン3号を交えた押韻論はこれこそ漫才、ラップの比較によって単なるラップの押韻論以上の飛距離が生まれていて感動した。また霜降り明星、Watsonを比較しつつボケとパンチラインがモジュールのように配置されているという指摘は今の漫才、ラップを理解する上で大事な要素であろう。たとえば最近リリースされたMIKADO『REBORN TAPE』はそのモジュール配置のアプローチからWatson以上に切実なコンテキストが立ち上がっておりラップのスタイルが日夜進化していく、その最前線を楽しむことができる。

 インタビューパートではヨネダ2000の漫才がどうやって作られたかに迫っており興味深かった。批評パートでも書かれていたが愛がトラックで誠がラップであるという見立てはまさしくその通りであり本著の命題を裏付けるかのようなテンポとウケに対する回答もあった。(全然関係ないけど「リズム芸能人」と言えるセンスに脱帽)そしてラッパーサイドはDos MonosのTaitanを召喚。日本のヒップホップ村の外にいるラッパーかつポッドキャスターとして強烈な批評的眼差しを携えた彼と著者による対話は「現代におけるしゃべり」という広範な議論になっていた。これはこれで十分オモシロかったのだけど、やはり村サイドのラッパーのインタビューも欲しかった。たとえばTohjiのインタビューであれば、著者のバックグラウンドにある音楽に対する多彩な知識とのシナジー効果が大いに期待できるし、いわゆるヒップホップライターでは拾いきれない部分がたくさん引き出せたはず。リリックの意味論とかめっちゃ聞いてみたい。

 マーケティングの観点で考えれば前半パートの漫才とラップの対比がわかりやすく売りやすいかもしれない。しかし著者の本領が発揮されていて、なおかつうるさ型の村人たちにとっても価値が高いのは後半パートのヒップホップとファッションを交えた批評だろう。冬の時代に比べて格段にラップでお金を稼げるようになり、リリックにおけるファッションのフレックスが飽和している最近、この視点で考察することは今まで以上に意味を持つ。前作でも片鱗を見せていたものの、本著ではさらに先鋭化されておりファッションを起点に年代を問わず日本のヒップホップの曲を横断しまくりながらクリティカルにもほどがある新鮮な見立てが連発されていた。著者の脳内でどんな風にラッパーの歌詞がアーカイブされているのか、頭の中を覗きたくなるほどであえう。ヴェルサーチェ、グッチ、ルイ・ヴィトンなど各メゾンの発音からのアプローチも大変興味深いのだけども個人的に刺さったのはラストのスニーカーとジーンズのくだり。色の対比が素晴らしく、これは著者にしか書けないし批評のオモシロさが一番詰まっているチャプターだと言い切れる。

 ラッパー、漫才師など作った本人が情報発信しやすくなったインターネット以降の世界では本人が意図していない情報や見立ては「間違い」だと処理することに慣れ過ぎた結果、批評を過小評価、無効化する流れは今も加速している。しかし本著ではその流れに抗うかのごとく星を見つけては星座を編み続けている。この営みの尊さを多くの人が理解、共有することでヒップホップのカルチャーはさらに大きくなるに違いない。



2024年8月1日木曜日

ニーナ・シモンのガム

ニーナ・シモンのガム/ウォーレン・エリス

 先週帰省したタイミングで子どもが好きなミッフィーのカフェが神戸にあり、そこへ寄った帰りに1003という本屋で見かけて惹かれるように購入して読んだ。所有の概念をパーソナルなエピソードと共に語ってくれているフォトエッセイで最高に素晴らしかった…モノに対する個人の思いや記憶が他人に伝播していく、そのフローの尊さをこれだけ感じることもなかなかない。(一番近い感覚はミランダ・ジュライの『あなたを選んでくれるもの』)もっとたくさんの人に読まれて、このガムにまつわるストーリーが広まってほしい。

 著者のウォーレン・エリスはミュージシャン。彼が1999年のニーナ・シモンのコンサートを見た際、彼女がピアノにくっつけたガムをそのまま持って帰ったことから話が転がり始める。日本ではやくみつるが同じように有名人の接触物を集めていたが、そのクリーピーさとは全く別ベクトルでどんどんと崇高なものへと昇華していく過程が興味深かった。ニーナ・シモンがどれだけ偉大なミュージシャンかわからなければ、それは単に妙齢の女性が吐いたガムでしかない。しかし、1999年の彼女のライブで圧倒的音楽体験を得た彼にとっては、その記憶が圧縮された、しかも本人のDNAが刻み込まれている代物なんだからたまらない。一番オモシロいのは当人が大事にしている気持ちが伝播していき最終的に美術館での展示という社会でも一二を争うほど大切に扱われる環境にまでリーチしてしまうところ。本著内ではキリスト教における十字架が例に挙げられていたが、個人もしくは特定の集団の気持ちが共有され社会に認知されて広まっていく、モノに対する信仰をこんなにわかりやすく表現している例を知らない。

 実際の美術館サイドとのやりとりや展示までの過程が細かく描かれており課題を一つ一つクリアしていく点もオモシロかった。特にガムの存在の不確かさに怯えるかのように美術館サイドがビクビク管理している様が愉快だった。確かに噛んだガムなんて、いくら厳重に保管していてもあっさりと無くなりそう。

 オリジナルのガムをどんどん複製していく過程も興味深かった。1999年から2013年までタオルに包まれてタワレコの黄色のビニール袋(懐かしすぎる!!)に入っていたガムをそのタオルから取り外して型を取っていくのだが、そのスリリングさがひしひしと伝わってきた。一方で一度鋳型が取られたあとはガムの形状がさまざまな材質で複製されていく。このギャップもモノのあり方について考えさせるもので複製できて誰でも手にいれるようになったときに、その価値はどうなるのか。本著を読むとガムの形状の指輪やペンダントが欲しくなるのは間違いないのだが、著者は不必要なまでの複製は行わないことを自戒していた。個人的には複製物だとしても、いつ、どこで手に入れたかというモノへの記憶は大切にしたいと思っている。冒頭に本著をどのような状況で入手したか書いたのはそういった意図がある。本やレコードは一つ一つにそういった記憶が染み付くことが多い。

 誰でも、どこでも、いつでも。今のさまざまなモノやサービスのキーワードになりつつあるけれど、だからこそアーカイブされないパーソナルでスペシャルな体験を大切にしたいと思わされる一冊だった。