2024年12月30日月曜日

急に具合が悪くなる

急に具合が悪くなる / 宮野真生子、磯野真穂

 方々で話題になっている一冊をようやく読んだ。ショッキングなエンディングはさることながら、それに至るまでの対話の積み重ねがどれもかっこよく本当に眩しすぎる。1ページ、1ページめくるたびに祈るような気持ちになりつつ、同時に自分の人生を見つめ直す。そんな稀有な読書体験だった。

 哲学者の宮野氏と文化人類学者の磯野氏による五回にわたる往復書簡が収録されている一冊。宮野氏がガンを患っており、その闘病の最中での対話となっている。まさにタイトルどおりに「急に具合が悪くなる」中でも絶えず思索を続ける宮野氏の姿勢に驚く。それは非ガン患者が想像するような一方的な患者ではない。自分の病気や人生、生と死を限りなく客体化して文字にしている様はまさしく学者そのもの。専門が哲学ということもあり、概念的な話が非常に興味深かった。また書簡という形式もあいまって、相手に語りかける口調の文体なので、哲学の難しい部分を丁寧に噛み砕いてくれている点は門外漢にはありがたかった。

 特に興味深かったのは偶然や必然に対する解釈。現代社会では合理的に考えながら未来に備えてリスクを管理しながら生きていくことが正しい、素晴らしいというムードが蔓延しているが、果たしてそうだろうか?と問い直している。宮野氏による野球のアナロジーを駆使した偶然と必然の必要性を語る場面は鳥肌が立つほどにかっこいい。

自分の力ではどうしもないものがあるとわかっていながら、彼らはバットを振り、グラブを出す。必然性をお求め、この先の展開を予測し、自分をコントロールしようしている選手たちは、最後の最後で世界で生じることに身を委ねるしかない。それはどうなるかわからない世界を信じ、手を離してみる強さです。そんな強さをもつ選手たちに私は憧れ、「いま」が産み落とされる瞬間に立ち会って時々泣きそうになります。

 多様性を筆頭にした関係構築のあり方についての議論も、たまに感じる違和感が言語化されていた。今の社会で喧伝されているのは、点と点を繋ぐ静止画的な関係性の構築だが、実際に多様性を支える関係性は動的で知覚の伴った運動であろうという指摘に納得した。

 磯野氏も本著内で述べているが、そこまで深い付き合いではない二人が書簡で語りあっている点もポイントだ。あまりに近い存在であれば、ガンを患っていることに対して、ある意味過剰な心配(またの名をおせっかい)を善意で押し付けてしまうことも多い中で、二人は学者であることもあいまって言葉で今を解きほぐそうとする。安易な感情論に流れない。つまり、ガン患者と非ガン患者という硬直した関係性に陥らないということだ。当然、この書簡だけではなくLINEや対面でさまざまなやりとりがあったとは思うものの書簡内では基本的に崩さない。自分がガン患者だったら…と想像して、文章上とはいえ、最後の最後までここまで毅然に振る舞えるのだろうかと考え込んでしまった。ただ「死の話=ネガティヴ」という単純なムードでは決してなく、二人で向き合った結果の「信用」が言語化されているからこそ胸を打たれたのかもしれない。人生において大事な1冊となった。

あなたがいるからこそ、いつ死ぬかわからない私は、約束という賭けをおこない、そのわからない実現に向けて冒険をしてゆく。あなたがいるからこそ決めたのだという。「今」の決断こそ「約束」の要点なのだろうと。だとしたら、信頼とは未来に向けてのものである以上に、今の目の前のあなたへの信であると言えそうです。

2024年12月28日土曜日

研究者、生活を語る

研究者、生活を語る/岩波書店編集部

 岩波書店のコーナーがある書店に寄ったときに見かけて気になって読んだ。「これはまさに読みたかった本…!」と読みながら、何度も深く頷いたのであった。育児、介護をしながら研究者として働く生活のケーススタディがふんだんに載っており、どのようにケアしながら、キャリアを構築していくのか、千差万別なスタイルが興味深かった。育児や介護に伴うケアの数々は、変数が多く定型化できない。だからこそ本著のように実例を並べてくれることで、自分に近いパターンを見出して普段の生活にフィードバックもできるし、全く違う背景を持つ育児環境の実情を知れた。結果として、良い意味で「頑張りすぎない」必要性を理解することができた。

 本著は、大学で研究、授業などをしている方々に育児、介護の状況をインタビューもしくは当人が書いたものを、岩波書店編集部がまとめた一冊である。おおまかな流れとして、自身の研究者としてのキャリアについて説明があり、自身の家族構成と日々どうやって家の生活を回しているか紹介されたのち、キャリアと生活について大局的な所感を述べるといった流れとなっている。「育児に答えはない」とよく言われるし、当事者としても自分の対応が、どの程度正しくて間違っているのか、わからないことはよくある。そんな中で、各人の家庭事情を知ると、みんなそれぞれ苦労しているのがわかり、育児に伴うある種の孤独感が解消される感覚があった。

 男性による育児状況の事例がたくさん載っている点も本著の大きな特徴である。それは研究、特に理系のフィールドが男社会だからという背景があるのだが、市井の男性が育児にどのようにコミットしているかを知る機会は思った以上にない。当然、保育園で話したり、友人同士で話したりすることはあるにせよ、ここまで体系立った情報が俯瞰できるのは、本というフォーマットだからこそ。また、いわゆる「イクメンです!」みたいな強い語りがなく、淡々と現状と課題、その対処について話してくれているから安心して読めた。

 研究者独自の悩みとしては、大きくわけて二つあり、居住地と任期である。夫婦とも研究者である場合、研究内容やポストの少なさから、それぞれ別の大学で研究するケースが多い。そうなると、どちらかが単身赴任の状況になってしまう。また、任期ありの職だと、任期が切れたあと、仕事を探したとて、それが現在の居住エリア付近にあるとも限らず、条件を含め、不安定な状況が続く。正社員で働く身としては、勤務期間のリミットが決まってる不安は想像もつかない。企業であれば、都心部に集積していることが多く、また、今の時代、会社の制度として家庭とキャリアをなんとか維持できる仕組みも整い始めている。一方で、大学は全国各地に存在する上にポストの数も少ない。さらに、制度も企業に比べると硬直しており、難しい現状を初めて知った。

 女性のケアの比重が重くなってしまうのは、研究者も世間全体と同じ傾向にある。さらに、研究は投下時間が如実に「論文」という実績に結びつきやすいがゆえ、女性が男性と同じようにキャリアを築くことが難しい。そんな中で、研究と家庭の両立を試みている方々の話は、研究者ではなくとも共感する点は多いはずだ。また、「論文」という目に見えやすい成果主義の世界ゆえに、研究、育児を両立している先人がいると、自身の能力のなさに悩むかもしれないが、本著で繰り返し主張されている家庭環境は千差万別である。両立できた人が、誰に何をどこまでアウトソーシングしていたかが可視化されていない以上、特別視する必要はない。育児は比較的平等に思われがちだが、各自のシチュエーションは想像以上に異なるからだ。本著はまさしくその証左となっている。

 終盤の介護にまつわる話は、来たるべき未来を予習することになり、勉強になった。幸い、今のところ介護が必要な状況には至っていないが、自分自身を含め、いつ、誰が要介護になるのかはわからない。育児に対する社会的理解の進み具合に対して、介護への理解が進んでいないのは間違いない。高齢化社会が進む中で、支える側の人間が絶対数として少ないのは明らかであり、今後は皆に降りかかってくる問題だからこそ、本著にあるような先駆者の経験談は重要と言えるだろう。

 ワンオペしている人の悲痛な叫びが、SNSで瞬間的にバズり「保育園落ちた日本死ね!!!」と同じように、自分の思いが代弁されてる気がして、スカっとするかもしれない。ただ、個人的には、そういった刹那的なものより、本著のように実例を積み重ねて、その上で見えてくる課題について腰を据えて考えたい。

2024年12月26日木曜日

無人島のふたり: 120日以上生きなくちゃ日記

無人島のふたり: 120日以上生きなくちゃ日記/山本文緒

 尾崎ニシダラジオで紹介されていたので読んだ。番組で紹介するため、収録までに読んでこないといけない場面で、尾崎氏が読んできておらず「本がアートになっちゃう」というエクスキューズで番組を沸かしていた。肝心の本自体はがん患者の闘病記なので、重たいものであった。がんの末期中の末期に綴られた文章であり、その研ぎ澄まされているムードに何度も心の奥がキュッとなったし、自分が死ぬまでの時間がある程度わかっている状況で、人は何を考え、行動するのか。周りはどうなるのか。作家の言葉による、一つ一つの朴訥な描写に自分にいつか訪れる死の間際を見るかのような気持ちになった。

 本著は、2021年4月に膵臓がんと診断されて、そこから半年弱のあいだに書かれた日記となっている。著者は2021年10月に亡くなってしまっているので、病魔の進行の早さたるや。がんの恐ろしさを改めて思い知らされる。近年は有名人が罹患しても、がんから回復するケースを見かけるし、闘病しながら仕事するケースなども見聞きするので、人類の進歩でがんをある程度ハンドリングできるようになったのかと思っていたが、それはがんの種類にもよるのだろう。

 人生が終わりに向かっていく、そんな想像の及ばない生活の中で感じたことを、著者は淡々と綴っている。体調の浮き沈みがあり、病状が進行するにつれて「しんどい」と感じることの種類が変わっていく様など、タイムラインが明確な日記だからこそ、ドキュメンタリー性がとても高い。闘病する中で、著者にとっての「死」が何なのか、その距離が物理的に近づくにつれ、徐々に「死」について気づいていくような書き方がリアルだった。たとえば、「自分は90歳まで生きて母、夫、友人などを看取って最後に死んでいく」とイメージしていたけれど、最初に介護される立場になるなんて想像もしていなかった、といったように。「死ぬ前に最後食べたいものは何?」というくだらない「たらればトーク」があるが、著者の意見は一つの真理のように思えた。単なる清貧ではなく、死の間際の言葉だからこそ響くのであった。

自分の残り時間のことを思い、何かやりたいこと、食べたいもの、会いたい人はいないかを考えてみたが、もうあまり思い当たらない。たとえば、毎日家で飲む、スーパーで売っているティーバッグのお茶が普通においしければそれで良いような気がする。

 病院、緩和ケアのとやり取り、各種事務手続きなどが、病状の進行と共に変化していく様子も、目には見えない死へのカウントダウンが可視化されているようで辛かった。特に医師から「あと数週間」と告げられたとき、いくら調子がいい日があったとしても、現状からの逆転は一切期待できない。この不可逆性は読んでいるだけでも苦しいのだから、当人は相当辛かったと思う。タイトルのとおり、夫との二人暮らしなのだが、彼の病気に対するリアクションおよび献身的なサポートも描かれており、闘病生活のリアルを映し出していた。

 そんな死の間際でも、本や出版に対する思いが消えない炎として燃え続けている点もシビれた。この日記を書いていることはもちろんのこと、がんが発覚してからも新作をリリースしたり、『自転しながら公転している』が中央公論文芸賞を受賞したり。自身ががんに罹患している現状と、作家としての自分の間にギャップが生じている。特に受賞を知ってからの感情の揺らぎは、本著の中で生への渇望を最も感じる瞬間で、まさに作家の人生だと感じた。(薬が原因だろうと書かれていたが、複合的なものではないかと思ってしまう。)

 著者の小説を一つも読んだことがないので、モールの想像力でも紹介されていた『自転しながら公転している』を読む。

2024年12月25日水曜日

すべての月、すべての年

すべての月、すべての年/ルシア・ベルリン, 岸本佐知子 

 ここ数年、注目を集めているルシア・ベルリン。最新刊が出ると、前作が文庫化される流れのようで、文庫化のタイミングで毎回読んでいる。今回も一作目に続いてオモシロかった。海外文学で、これだけ登場人物が生き生きしている作品には、なかなか出会えない。岸本佐知子氏による翻訳が抜群でリーダビリティも高い。今回読んで改めて、リリースされる限りは追いかけたい作家だと感じた。

 原著『掃除婦のための手引き』は元々一冊で、日本では二作に分けてリリース、本著はその二作目にあたるとのこと。自身の経験を活かした私小説的なアプローチによる短編集となっている。短編集は、良い意味でも悪い意味でも玉石混交になりがちで、全然ノレない話が入っていることもあるが、著者の場合、全部が全部オモシロい。しかも、オモシロさのベクトルが一方向ではない。落語のように明確なオチがある話もあれば、急なエンディングを迎えたり、独特の余韻を感じさせる話まで。バラエティに富んでいるにも関わらず、どれもオモシロいのだから、人気が出るのも頷ける。

 本著では、死との距離感が近い作品が多く、その点に一番魅了された。本人が病院勤務していた経験もあるためか、病院が舞台となる短編が多い中、登場人物が死に対して比較的ドライなのだ。たとえば、表題作であれば、皆で漁をしている最中に一人亡くなってしまうものの、同僚は何も言わないし、死を特別扱いせず、他の事象と対等なものとして描いていた。小説において、人の死は最大のドラマになり得るにも関わらず、そこを裏切られると、逆に物語に前のめりにさせられる。個人的には「カルメン」「ミヒート」の赤子の生死が題材になっている短編二連発がハイライト。それは自分が親だから、というのはもちろんあるのだが、ウェットに描いていないからこそ、似たような事例が、現実社会でも頻繁に起こっているだろうと想起させられたからだった。

 このように死やそれに伴う孤独がテーマなので、ネガティヴなムードが漂いそうなものの、そのムードを気にしない登場人物たちのあっけらかんとした一種の楽観主義の姿勢が心を軽くしてくれる。読んでいると、自分の悩みや考え事も瑣末なことなのではないか、逆説的に感じさせてくれるのであった。「笑ってみせてよ」が最たるもので、大人たちが好き勝手に生きるモラトリアム性もあいまって好きだった。

 「視点」という短編では、小説の書き方についてメタ的に語っており、いかにディテールが大切か力説していた。短編にも関わらず、読者に人物像を明確に脳内に描いていく、その初速の速さは著者の筆力としか言いようがない。あと特徴的な文体でいえば、名詞の連打および体言止めによるリズムが心地よかった。訳者あとがきによれば、すべての短編が翻訳されるようなので、次の作品も楽しみ。

2024年12月23日月曜日

化学の授業を始めます。

化学の授業を始めます。/ボニー・ガルマス (著), 鈴木 美朋 (翻訳) 

 全米で大ヒットした小説が化学を題材にしてると聞きつけ、なんちゃって化学専攻として読んだ。化学はあくまで物語の要素の一つでしかなく、女性に対する差別を軸とした勧善懲悪エンタメ小説でオモシロかった。社会問題について、たとえばその具体例を調べたり、制度について勉強したり、当然必要だと思うが、実際に生きていて、どこで、何が足を引っ張ってくるのか。それらに気づくことで、問題全体の理解が深まることは往々にしてあるので、こういう小説がたくさん売れているということは、社会が変わる機運が高まっているのだろう。

 1950年代のアメリカが舞台で、女性の化学者エリザベスが主人公。女性が社会で働くことに対して懐疑的な眼差しが注がれる時代であり、働くことができたとしても、男性と同じような扱いを受けることはなく、常に男性の後塵を拝する立場にあった。エリザベスはそんな状況でも物怖じせず、自分の意見を主張する女性であり、それゆえにさまざまなトラブルに巻き込まれてしまう。また、職場で知り合った天才化学者キャルヴィンと恋に落ちるものの、キャルヴィンは不慮の事故で亡くなってしまい、未婚のまま彼の子を産む。このような幾多の逆境に晒されながらも、自分の信念を曲げずに社会でストラグルするエリザベスの姿は見ていてまぶしい。

 そんな彼女を追い込んでいくのは、家父長制、性被害、ミソジニー、家族制度、夫婦同性、育児と仕事など、枚挙にいとまがない。女性が社会的に不利な立場に追い込まれる、さまざまなファクターを用意して、それらに物語を肉付けしているかのような構成になっていた。『82年生まれ、キム・ジヨン』も同じようなスタイルだったが、本著は問題を指摘するだけにとどまらず、主人公が屈することなく、自分が正しいと信じる道を切り開いていく。欧米のエンパワメントするマインドをひしひしと感じ取ったし、エリザベスの姿勢に読者は感化されるはずだ。

 社会的な問題を取り込みながら、エンタメ小説としてのオモシロさを損なっていない点が、本著の白眉であろう。エリザベス、キャルヴィンを筆頭に、悪役を含めて登場人物たちの魅力が本当に素晴らしく、各人のキャラたちがあってこその物語となっていた。エリザベスが出産、育児を経ながら、自分の波乱万丈のキャリアと対峙していく中で、出てくる怒涛のパンチラインの数々が痛烈だった。舞台は1950年代のアメリカにも関わらず、今の日本では当時のアメリカと同様に女性差別は厳しい状況と言えるので、余計に刺さりやすいこともあるだろう。(人類史として半世紀前から進歩できていないことに遠い目になってしまう…)

 化学の取り込み方も興味深く「料理=化学」の解釈から、エリザベスが料理番組の司会となり、料理を化学の理論と専門用語で解説していく。テレビ局側は「これでは視聴率が上がらない」と頭を抱えるが、爆発的な人気を獲得していく様は痛快だった。何でもわかりやすければいいというものではなく、わかりにくいものを自分でわかろうとする姿勢、そこに人生の本質が宿っているのではないか?と日々感じるからだ。そして、わかりやすくする姿勢は、女性を幼稚な存在として見下すことに繋がる可能性さえある、そんなことに気付かされた。

人は複雑な問題に単純な解決法を求める。目に見えないもの、手でさわれないもの、説明のつかないもの、変えられないものを信じるほうが、その逆よりずっと楽なのよ

 化学を「変化の象徴」として捉えるアナロジーも新鮮である。化学反応は、常に特定の物質同士の反応で構成される。つまり、現状に甘んじるのではなく、常に変化を押し進め、さらには引き受ける必要もあるということだ。また、エリザベスの研究対象が「生命起源」である点も示唆的だ。彼女の研究者としての道を阻害する多くの要因は、社会制度の問題であり、人間が生み出したものである。つまり、「生命起源」のレベルでは、男女の能力に差はないことを証明することになるかもしれないからだ。

 本著は、わかりやすい勧善懲悪の物語である。「現実はこんな風にうまくいかない」というシニシズムが立ちはだかるかもしれないが、理想は社会を変化させる上で必要だと気づかせてくれる、フィクションの大事な役目を果たしている一冊だった。

2024年12月18日水曜日

こんな大人になりました

こんな大人になりました/長島有里枝

 以前から何度か名前を見かけて気になっていた著者の作品をサルベージしたので読んだ。10年分のエッセイが1冊にまとまっているという、あまり見たことがないスタイル。10年というタイムスケールから見えてくる家族との関係性、世間の空気など、変化していく様を共に振り返るような読書体験だった。

 写真家が本業である著者の連載エッセイを10年分まとめたものになっている。1年ごとに十数個のエッセイが書かれており、見開き1ページでちょうど1チャプターとなっている。そのため隙間時間でパッと1章だけ読むといったことができたので、育児しながらの読書としては最適だった。ただ短いとはいえ、各エピソードはソリッドな文体でストレートに感情が発露しているので、かなり読み応えがある。テーマは家族、仕事、フェミニズムなど本当に多岐にわたっていて、それらが時間の経過と共に移り変わっていく経時変化の記録が本著の最大の魅力だ。

 その点で一番わかりやすいのはフェミニズムに関する内容だろう。本著は2012年から始まるが、その時点で育児を含めた女性に対する社会構造としての負荷の大きさについて、フェミニズムの観点から異議を申し立てしている。時が経つと共に、社会のムードとしてフェミニズムが重要視されていく中、著者も読書などを通じて、新たな視座が発生していく過程が興味深い。一番ギクっとしたのは「男だけのフェミニズム語りにイライラする」という話。「そもそも主体性を取り戻す話なのに、なぜ語るのが搾取している側なんだ?」というのはもっともだ。自分自身、パートナーとはそういった話をたまにする程度、職場の同僚、友人の女性とこの手の話をすることはない。フェミニズムに関する本は「男性」という自分の属性が攻め立てられる気持ちになるので、得意だとは正直言い難い。しかし、著者の主張は、比較的胸にスッと入ってきた。理由を考えてみると、本著では「パンク」という言葉が何度も登場するのだが、それは自分にとって「ヒップホップ」と置き換え可能な言葉であり、社会に対する反抗という切り口でフェミニズムが発揮されているからなのかもしれない。

 また、良い意味で「感情的」な物言いというのも影響しているだろう。著者が指摘しているとおり、現代社会において「感情的」はネガティブな捉えられ方され、「理性的」であることをさまざまな場面で求められる。しかし「本当にそれでいいのか?」と問い直している。下記に限らず、全体にわたってパンチラインだらけで、いつのまにか付箋をたくさん貼っていた。

感情を「マネジメント」すべき、という無言の圧力は、生活のあらゆる場面でますます感じるようになった。むやみに感情的に振る舞えば、SNSなどで社会的に「処刑」されることだってある。その背景には、感情が個人の内側から発露するものである以上、そのコントロールは発動者の自己責任のもとで行われるべきだ、という新自由主義的な考え方がある気がする。

 家族の在り方も多くの章で語られるメインテーマである。シングルマザーだった彼女が一人で育児を奮闘しているところから、未婚のままパートナーとの同棲が始まり、両親との関係性、息子の成長といった多くのファクターにより家族の在り方が変化していく。大人の十年と、子どもの十年が異なることは自明だが、選挙権を持ち、政治について語るまで成長している、という具体的な描写を伴って、子どもが大人になる様を読むと時間の重みを感じた。そして家族の悩みは誰にとっても他人事ではないのだなと両親との関係性に関する考察を通じて勉強になった。自分ごとになると、なかなかここまでの客観性をもって家族を捉えることが難しい。他の著作は、本著に登場した各テーマをそれぞれ深掘りしているようなので、追って読んでいきたい。

2024年12月13日金曜日

いのちの車窓から2

いのちの車窓から2/星野源

 ちゃんと一作目を読んでから、二作目を読んだ。前作は国民的スターになる前夜だったが、本作は国民的スターとなったコロナ禍前後で書かれたエッセイ集でオモシロかった。これだけパブリックな存在になりながら、自分の内なる感情を文字でここまで丁寧に書くことができる文筆家としての力量たるや。喜びも苦悩もないまぜになった人間・星野源がそこにいた。

 2017〜2023年までの連載+書き下ろしで構成された一冊。前半は一作目の延長線上で自身の仕事の話が中心となっている。ドームツアーの成功、海外でのライブなど、順風満帆に見えるキャリアにおける本人の感情がストレートに表現されていて興味深かった。当たり前だが、スケールが大きくなればなるほど、本人に対する負荷も大きくなるわけで、そこでめげそうになりながらも何とか前に進めていく喜びや苦悩はファン垂涎のものだろう。前作同様、やはり音楽周りの話が好きで、特に「Family song」が「シンバルなし進行」にトライした結果であることを知った上で聞くと、表面上はJ-POP然とした曲の奥にあるソウルやR&Bの要素が浮かび上がってくる。このスタイルは今や彼の代名詞だが、リリースされた当時、「またJ-POPか〜」となっていた自分の耳の浅さを知った。最近アップロードされたティファニーのパーティーで彼がDJした際のプレイリストは、音楽愛がはち切れんばかりに伝わってくる内容だったことからして、彼が今でも日本のポップスにおいて最も重要なキーマンであることに納得する音楽ファンは多いはずだ。

 海外アーティストとのコラボ含めてワールドワイドな展開が始まりそうな矢先にコロナ禍となってしまう。ウイルスは平等に襲いかかるわけで、彼がコロナ禍で考えたこと、特に死生観に近い感情の数々は、自分の人生の意味を改めて問い直すきっかけになった。くも膜下出血で生死を彷徨った経験があるからこそ説得力があるし、他人の死に対する感情の吐露も彼ならではの言葉が並んでいた。また、コロナ禍をきっかけに鍵盤ベースのDTMによる作曲に変化した話も興味深かった。当時、友人から「不思議」をおすすめされて聞いたものの全くピンとこなかったのだが、今聞くとその作風の変化を顕著に感じる曲であり好きな曲になった。こうして人間が変わっていく生き物であると、本著が持つ7年という月日の蓄積は教えてくれる。

 コロナ禍といえば「うちでおどろう」の話は避けて通れない。安倍晋三が「うちでおどろう」の動画をアップロードして燃えていたことを思い出す。当時、それに対して何のリアクションも返していないこと、つまり「なんか意思表明しろや」という圧力が多分にあっただろうし、彼がヒップホップ愛を語る場面も散見していたので、何かカウンターしてくれないか期待していた。しかし、彼からすると余計なお世話でしかないことが本著を読むとよくわかる。ただでさえ有名税という名のもとで、大勢からネガティブな感情をぶつけられる中で、このときの心情や察するに余りあるし、ネガティブな要素をとことん排除するライフハックを繰り返し主張する姿勢も納得できた。そして「雄弁は銀、沈黙は金」という言葉があるように、何も言わないことも十分な意思表示だよなと、本著を読み、彼の感情の機微に触れて初めて気付かされた。

 妻こと新垣結衣とのエピソードが描かれている点も本著の読みどころの一つだろう。妻との生活の様子がときにありありと、ときに淑やかに描かれている。正直、シャレたエピソードの連発なので「ケッ」と嫉妬する感情を持つ方もいるかもしれない。しかし、この夫婦の身に起こった根も葉もないゴシップ騒動をみていると、このくらいの愛を表現していかねばならないのだという著者の気概を感じた。来年アルバムが出るらしいので、それが今から楽しみになった。

2024年12月12日木曜日

2024/11 IN MY LIFE Mixtape

 11月も新譜チェックで手一杯というかヒップホップのリリースが多過ぎて堪能してたらキリないぜって感じだった。先月に引き続きSoulection Radioには大変お世話になり、なかでもアフロビーツの新譜の量の多さと質の高さに驚いた。ある程度、ジャンルとしての型が決まってきた中で、クリシェから逸脱を試みるメロディーやリズムの変化があり、その中で個人的に好みなものがたくさんあった。

 ライブはISSUGIのワンマン、韓国ヒップホップのイベントであるRAPHOUSEに遊びに行った。両方とも雑感踏まえて書いたので読んでみてください。

ISSUGI & GRADIS NICE 『Day’N’Nite 2』 Release Party

RAPHOUSE Japan

 季節的にWrap up系の投稿をよく見るけど、今年はまだ終わっていない!といつも思うので、また12月が終わったらベストを考えたい。ジャケットはライブ帰りに1億年ぶりに食べたやしま。インバウンド客に囲まれて食べるうどんは異国情緒もあり美味しかった。

2024年12月11日水曜日

ZINE FEST TOKYO

 まだまだ売っていかなあかんねんということで、来年1月11日に開催されるZINE FEST TOKYOに参加することにしました。会場は浅草で浅草寺の横らへん。500組以上の方が参加するっぽい。

詳細→https://note.com/bookcultureclub/n/nba43c5c49ea1

 もともと植本さんに文学フリマに誘っていただいた際、「Yamadaさんが出るならこれも一緒に出るよ」という寛大な申し出をいただいており、そのご厚意におんぶに抱っこで出ることにしたのでした…感謝。

 なんかおまけみたいなの用意できないかな〜と考え中です。ZINEに興味ある方はぜひお越しくださいませ。植本さんも何か作るかもとのことです。詳しくは日記をご参照ください。日記に名前出るのビビる。

9日前に新刊が出た植本一子(2024/12/10)

10日前に新刊が出た植本一子(2024/12/11)

ZINE友作ろう!

詳細

日時:2025/01/11(土) 12:00-17:00

場所:東京都立産業貿易センター台東館

ブースの場所:6階 I-5



2024年12月10日火曜日

祐介

祐介/尾崎世界観

 先日の文学フリマでただならぬムードを漂わせていたブースがあり、それが著者とラランドニシダ氏によるポッドキャストのブースだった。ポッドキャストがオモシロかった(フェスドンマイ女と巨人亀井のセレモニーの話が最高に好き)ので、妻が持っていた本著を読んだ。水道橋博士のメルマガで連載していた日記に支えられていた、上京して数年のあの頃を思い出して何とも言えない気持ちになりつつ、小説だからこその展開がオモシロかった。

 タイトルは著者の本名であり、売れないバンドマンの生活を描いているので、限りなく私小説に近いものといえる。前半はその要素が強く、包み隠さない欲望がこれでもかと炸裂していた。その欲望の量に対して、自分の力が及ばないことの辛さと、それを認識してしまう自意識の辛さ。特に見る/見られるの自意識については、冒頭のエピソードからも意識的なことが伺える。SNS時代では見る/見られるの関係が交錯する。見ていると思ったら、見られている、その状況を動物園を使って表現していることに全部読み終えてから気づいた。

 バンドマンといえば「チャラい存在」と軽くみられることに対して、機先を制すかのように、どれだけ泥水をすすりまくらないといけないのか、じっとりとした文体で呪詛のように綴られていて胸が苦しくなった。今でこそストリーミングサービスの普及により、本著で書かれているようなライブハウス苦行を味わっているバンドは少ないかもしれない。そういう意味では昔のバンドマンの実態の記録としても貴重といえるだろう。

 その中で一番読んでてキツかったのは、京都でのライブシーン。まるでその場に自分が存在しないかのように扱われてしまう経験は誰しもあると思うが、音楽という自己表現の場で繰り広げられる小さなマウントの取り合いは目も当てられない。参加したくなくても、勝手に巻き込まれて、いつのまにか上に乗られてポジションキープされて、パウンドを落とされたり、バックを取られて絞め落とされたりする。そんな状況に肝を冷やしていたら、フィジカル的にも痛めつけられてしまうあたり容赦がない。

 バンドで歌詞を書いていることもあり、瞬間最大風速は本当にハンパない。私たちのイメージの逆をついて、ハッとさせてくる。

残念ながら今現在、バンドをやっていて最も手応えを感じるのは、ギターの弦が切れた瞬間だ。不意に加わった力が、張り詰めたものを断ち切って確かな感触を手の中に残す。

ライブハウスでもスタジオでも、どうしたって得られなかった達成感が、アルバイト先のスーパーではタイムカードを差し込むだけで簡単に得られた。ジッ、というあの小さな音に、まるで自分が認められているような気がした。

 全体に性や暴力の描写の分量が相当多い。描いているのはバンドマンだが、「クリープハイプ」のパブリックイメージからはかけ離れたものに映る。ゆえに音楽では表現できない、小説だからこそできる何かを追い求めていることが伝わってきた。特に終盤にかけての展開における、みっともなさやグロテスクさは、いい意味での下世話さに惹きつけられてページをめくる手が止まらなかった。このむちゃくちゃっぷりは小説家としての出自を含め、又吉氏の『火花』を彷彿するのだが、いずれの作品とも芸人、バンドマンが書くだろうと、大衆が想像する日常系っぽい予定調和な展開で絶対に終わらない。そんな文学に対する気概を感じ取ったのであった。

2024年12月8日日曜日

モールの想像力: ショッピングモールはユートピアか

モールの想像力: ショッピングモールはユートピアか/大山顕

 ジュンク堂の書店員が選ぶノンフィクション大賞2024ノミネート作品は、何かノンフィクションを読みたいときに参考になる。その中でタイトルを見て一番惹かれたので読んだ。ここ1、2年で最も訪れている場所がショッピングモールなのだが、本著のモールに対する解像度の高さは想像もしない視点の連続で知的好奇心を大いに刺激された。均一化の文脈で語られがちなモールは、そのフェーズを終えて新たな存在へと変貌している、そんな貴重な瞬間を見ていることに気付かされる一冊だった。

日本橋の高島屋で開催された「モールの想像力」という展示会を書籍化したものになっており、著者の文章だけではなく、漫画や対談なども含まれており、まさしく展示会を擬似体験できるような構成が興味深い。冒頭にある論考が掴みとして抜群で、モールの歴史をおさらいしながら、古今東西のモールを舞台にしたカルチャーを膨大に引用し、モールの存在を立体的に描き出しており、その視点の新鮮さに何度も唸った。個人店で構成されていた商店街を駆逐した悪役、資本主義の象徴としてモールが語られる場面が多いが、車社会の到来による社会構造の変化に伴った人間同士のコミュニケーションを活発化させるための施策、つまりは都市論としてモールを捉える視座が必要なことに気付かされた。ただ、ここでいうコミニュケーションはやりとりを含むウェットなものというより、人がたくさんいる環境、すれ違うレベルの薄いコミニュケーション、つまりは公共であり、ストリート(商店街)を再現するものである、という一連の論考が見事すぎた。

ヒップホップ好きとしてMall Boyzのことはやはり外せない。本著内でももちろん言及されている。ヒップホップにおいて、フッドをレペゼンすることは重要な価値観、美学であるわけだが、Tohjiは特定の街ではなく、モールという建造物、概念をレペゼンすることで世界各地にいるモールっ子たちを夢中にさせている。今の10〜30代前半くらいまでの人たちにとっては、モールはノスタルジーの対象であり、それより上の世代が商店街に対する抱く気持ちと同じ感情を抱いているという指摘は驚いた。そして以下ラインに象徴されるように、均一化しているからこそ、場所を問わずに連帯できる、コードカルチャーとしてのヒップホップ的価値観に改め気付かされた。

同じだけど、違う、違うけど、同じっていうすごさ。その機微は彼らにしかわからない。他人はあとからしか発見できない。

後半には漫画や対談が載っており、対談が特に興味深かった。既存のモール論がいかに古びたもので、時代が進んできているのかよくわかる。著者と東浩紀の対談は鋭い視点の連発で唸りまくり。東氏は「幻想」と呼んでいたが、「理想」をみんなで共有することの公共性が失われて、「現実」という名のバックヤードばかりが跋扈する世の中が豊かになるわけがないという論点は、ここ数年感じていたことだった。また、郊外の象徴であるモールが、近年は都心部にも侵入してきており、特に渋谷の再開発をめぐる議論は、渋谷へ行くたびに感じていた違和感が見事に言語化されていた。2016年にリリースされた著者と東浩紀による新書があるらしいので、そちらを次は読みたい。

2024年12月7日土曜日

RAPHOUSE Japan


 韓国のヒップホップシーンの一種の登竜門的な役割を果たしているRAPHOUSEの日本版が開催されるということで渋谷のO-westまで見に行ってきた。韓国のラッパーによるショーケースは近年日本で増えつつあるものの、深夜帯だったりして見に行けないこともある中、デイタイムで一種のフェス的にいろんなラッパーが見れるRAPHOUSEのようなフォーマットは大変助かる。なので、継続して開催してほしい。

 今回は日本開催ということで日本サイドのラッパーも合わせて参加、計6組のライブで構成されていた。先に日本サイドの話をすれば、Rude-α、チプルソ、LIBROが出演しており、こんな独特の並びで見れることはなかなかない。三人ともそれぞれのベクトルでライブ巧者であり、さらに共通点を挙げるとすれば、ラップのグルーヴが挙げられるだろう。音楽的な成分が高いほうが、言語の壁を超える可能性が高いと考えれば、この人選に納得感はある気もする。

 なかでもチプルソのライブは今年見たショーケースのレベルとしては最高クラスだった。この日の客層からして自分のことを知っている人が少ないことを利用し、冒頭いきなり客席からラップを始めたり。”このグルーヴを捕まえて それがすべてさ”という七尾旅人、やけのはらによる「Rollin’ Rollin’」を引用したり。バブルソやThe Clap Brothersとしてのリリースはチェックしていたが、それらがライブで表現されるときのフィジカル性が異様に高くて魅了された。ヒット曲がなくても客をロックできるラッパーの底力をみた。むかし、NOONでMPC1000とアコギでライブしていた頃から見ているので隔世の感があった。

 前置きが長くなったが、この日の目当ては韓国サイドのラッパーである。出演者はSkinny Brown, Changmo, The Quiett。Qが運営するAmbition musik, Daytona Entertainmentから、それぞれメインどころを持ってきており、日本市場を真面目に狙っていることが伺える。

 Skinny Brownはまさに今どきのラッパーという感じ。正直そこまで熱心には聞いていなかったものの、素晴らしいメロディメーカーなので、曲を聞いて「おーこれもか!」と思うことが多かった。Changmoはアルバムタイトルにもあるとおり、完全にロックスターモード。前回出演していたGo Aheadzの方がパフォーマンスは安定していたように感じたが、今回は会場がコンパクトなこともあり、とにかくバイブス、熱量の高さが印象的だった。そして、この日一番楽しみにしていたThe Quiett は安定感抜群のこれぞベテラン…!というライブで一番ブチ上がった。Illionare Records時代の曲から最新アルバムの曲までバラエティに富んだ選曲でさすがとしかいいようがない仕上がり。音源通りの声がラップとして生で聞ける喜びを久しぶりに味わった。こんだけ現役感たっぷりでライブもやりつつレーベル運営、ライブ企画までやって、後進の育成に励んでいる姿を見ると、ヒップホップアクティビストという言葉は彼のような存在を言うのだろう。

 今回はがっつり身内編成でのライブだったが、次回開催されるメンツのようなローカル度の高いメンバーで来日してほしい。すでにSkinny Brown、Rude-αで曲を作っていたが、RAPHOUSE起点で日韓のラッパー同士のコミュニケーションが進んでいったりすれば、アジアのヒップホップの新たな震源地になるかもしれない。

2024年12月6日金曜日

ぼくにはこれしかなかった。

ぼくにはこれしかなかった。/ 早坂大輔

 先日サルベージして積んでいたのだが、お店の話を読むなら今だと思って読んだ。脱サラして本屋を開業し、どのように経営しているか、情感たっぷりに書かれておりオモシロかった。BOOKNERDは地方独立系の本屋では名の知られた存在で、先日の文学フリマも大盛況だった模様。そこに到達するまでの苦難の道のりと、率直な心情の吐露に胸を打たれた。たまに友人や家族と「カフェとか本屋でもやろかな〜」とサラリーマン生活からの逃避として冗談混じりに話したりするが、そんな甘い気持ちを律せられるものであった。

 著者の人生をなぞるように振り返りながら、本屋を岩手県盛岡市で開業、経営する過程が描かれている。成果至上主義の営業マン生活に疲弊し、人生に意味を見出せなくなり、未経験で本屋を開業する。どこにでもありそうなストーリーではある。しかし、巻末の選書リストからもわかるように、本に対する並々ならぬ愛情がどの章からも漂っている点がその辺の本屋と違う点だ。特に街に本屋があることがいかに豊かなことなのか、言葉を尽くして説明されており、現在住んでいる街に本屋がないことを寂しく感じた。

 理想と現実のギャップに苦しみながら、斜陽産業である地方書店を生業にする方法を必死にもがきながら追い求める、その様はプロジェクトXさながらのドキュメンタリーである。本屋の前に別の事業を一度起業したエピソードが載っているのだが、世知辛い世の中を具現化したような展開で胸が苦しくなった。その経験があったからこそ、魂を売り渡さないビジネスをやり抜く覚悟が伴ったというのは、他山の石として大いに参考になる話だ。また、街の商圏だけではやっていけない現状を踏まえて、マーチ、イベント、出版など、本屋としての矜持を譲らないまま、お店を継続するためのエコシステムを実践している。ネットに普及により小売業における商圏の概念は薄れつつあるが、どちらも無下にしないスタイルは持続可能性を感じさせるものだった。とはいえ同じようにやろうとしても、くどうれいんのような才能を発掘できる可能性は限りなく低いような気もするが。

 全体にエンパワメント性に溢れており、好きなことを仕事にすることのオモシロさが十分伝わってくる。自分の好きなことに人生の大半の時間を投入できる喜び、それで何かをなし得たときの達成感、誰にも指示されない自由な生き方。これらを会得できるまでの苦労も当然あるが、その先に待っている有意義な人生というのはサラリーマンには眩しく見える。「若い頃に読んでいれば、自分の好きなことを仕事にしたかもな〜」と、この手の本を読むといつも考えるのだが、著者が本屋を始めた年齢は今の自分よりも上だと知ってぐうの音も出ない。結局は「やるか、やらないか」の二択で、そこを選びきれないのは自分の覚悟の問題なのだと思い知るのであった。

ぼくという個人の誠実さや正直さを売る仕事。そんな仕事をするためにはまずこころから自分が売るものを愛さなければならない。少しでもその売り物を愛せないのならば、ぼくはまたそこから去ることになるだろう。

あるかないかわからないものをむりやり目の前に生み出そうとするのではなく、自分の本分をわきまえ、突き詰めることだ。

側から見栄え良く、きれいに楽ちんそうに見えることはすべてまぼろしで、みな水面下で必死に水をかき、なんとか浮かんでいたというわけだ。

2024年12月5日木曜日

夏の感じ、角の店

夏の感じ、角の店/高橋 翼

 文学フリマで植本さんの隣のブースで出展されていた高橋さんのエッセイ。代田橋で土日だけオープンしている予感というお店の営業日誌という形の日記でオモシロかった。文学フリマの隙間時間や帰り道でお話しさせてもらったことも影響しているだろうが、高橋さんの人生観やポリシーが伝わってきた。

 以前から植本さんの日記に登場していて、その存在を知っている方もいるかもしれない。特に今回リリースされたそれはただの偶然において、現在の植本さんにとって大きな存在であることは推し量られたわけだが、そんな彼がどんなことを考え、日常を営んでいるのか、土日だけのお店の日誌とはいえひしひし伝わってくる。生活描写の粒度が細かく、都市で生活する男性の姿がくっきりと浮かび上がっていた。なかでも食事のシーンが好きで、サンドウィッチをこんなにカジュアルに家で食べることがないので新鮮だった。

 当たり前だが、お店を開いていると、さまざまな人がやってくる。そこでの悲喜交々が忌憚なく綴られている点にグッときた。悲しいことがあったあとに、喜ばしいことがあると自分ごとのように嬉しくなる。これは日記という時間軸があるフォーマットならではの心の動きと言える。また、書くことへの逡巡もまっすぐ書かれており、特に「書くことで明らかになる不在」という論点は哲学のようで興味深かった。個人的には「行けたら行く」で心が摩耗したというエピソードは、出不精でそのフレーズを連発する人生を歩んできた身としては本当に耳が痛かった…

 日常の様子だけではなく、お店や自身のブランドを運営していくにあたっての矜持のようなものがたくさん書かれており、そのどれもが心に刺さった。それは私自身がZINEを作ったことが大きく影響している。何かを作り、売ること、そこには自意識がそこかしこに飛び交う。少しでも他人が介在すれば、自分の責任が分散していく部分もあるが、基本的にどこまで何をやるかのライン引きをすべて自分でやらなければならない。「自分の好きなことだから、他人の関心は気にしない」とかっこつけるのは簡単だが、実際に自分のコンテンツを持てば、そんな強がりばかりも言ってられず、誰かに関心を持って欲しくなるのは自明の理だ。そんなとき「誰でも、わかりやすく、キャッチーに」と割り切ったり、かっこつけてみたり、そこで何の自意識も抵抗もなければよいが、自分の初期衝動や思いが乖離してしまう可能性を孕んでいる。お店を経営しながら、どちらかに振り切れるのではなく、その狭間で揺れ動く心の機微がお店の様子と共に丁寧に描かれており、思考と実践がシームレスに繋がっているからこその説得力があった。

 日記の合間にある旅行記もオモシロかった。青春18きっぷで場当たり的に移動、宿泊を繰り返す旅行の記録となっている。ここで発揮されるのは、歳を重ねた大人だからこそ持っている街に対する高い解像度だ。どこか小説らしさを感じる文体で、何気なくそこにあるものに愛を持ったり、感動したりすることの尊さがたくさん描かれている。旅する中で効率とは無縁の偶然を大切にする姿は、本著を読み終えて感じる高橋さんそのものだった。「行けたら行く」ではなく、お店に行ってみたい。

2024年12月4日水曜日

乱読のセレンディピティ

 

乱読のセレンディピティ/外山滋比古

 『乱読の地層』というタイトルを思いついたときに、類似の書名がないかとGoogleで検索してヒットしたので読んだ。『思考の整理学』というクラシックを残した著者による読書スタイルのススメといった内容で興味深かった。

 全体に説教じみた文体だなと読み始めてすぐに感じたのだが、本著を刊行した段階で91歳ということで納得。90歳超えて本を書いているあたりに著者の並々ならぬバイタリティを感じざるを得ない。読書は高尚なものというイメージが先行しているが、そんな大したものではない。もっと気軽に適当に読めばいいという主張がメインとなっていた。冒頭で「書評なんて意味ない!」と喝破しており、書評ばかりしている立場からすると面食らった。後半で忘却が大切と主張しているのだが、私はレビューすることで忘却を促している側面があり、その点では著者と同意見であった。

 乱読を推奨しつつ「読んでばかりでは知識バカになる。もっと思考すべき」という逆説的な主張もあった。著者はその点を本著で実践しており、自分の人生経験に基づいて思考した見立てを藪から棒よろしく突き出してくる。知識や事実が偏重されている最近の社会では、この手の世迷言を聞かなくなっているので逆に新鮮だった。

 そして肝心のタイトルについては、まさに自分が考えていたことがそのまま書かれていた。特定のジャンルばかり読んだり、一冊を精読するのではなく、本がこれだけたくさんある状況では、とにかくたくさん読めと。そこから生まれるセレンディピティこそが読書の財産であろうという話は至極納得した。ジャンルを色々読むことは意識しているものの、今の時代は「ハズレ」を回避する術がいくらでもあり、正直自分自身もノリで読むことはほとんどない。しかし著者は「失敗を恐れるな!」とこれまた喝破してくる。みんなのお墨付きを精読するのではなく、パーソナルな読書体験を作っていく意味でも、これからも乱読道を突き進みたい。

2024年12月3日火曜日

文学フリマに出てみて


 文学フリマに植本さんの横で売らせてもらう、おんぶに抱っこ形式で出てきました。前回、お客さんとして行ってなんとなく雰囲気をわかったつもりでいましたが、出る側と買う側は雲泥の差がありました。植本さんの本が文字通り飛ぶように売れていく様を間近で見させてもらったのはとても良い経験でした。

 単純な本の売り買いを超えた、感情のやりとりみたいなものが発生していて、書き手と読み手がダイレクトに繋がることができる、それはネットにはないダイナミクスでした。それゆえに自分のZINEが見ず知らずの方に購入いただけるのは本当に嬉しかったです。ご購入いただいた方、改めてありがとうございます。そして、こんな機会をいただいた植本さんにも改めて大感謝。

 サラリーマンとして普段働く中で、自分の時間を切り売りしてお金を稼ぐ身からすると、成果物単位でお金を稼ぐことの大変さを死ぬほど実感した次第です。クリエイター然り小売りの方も含め、自分がいかに世間知らずなのかを知るいいきっかけになりました。自分のおごりを戒めつつ、粛々と今後も売っていきたいと思います。ということで引き続きよろしくお願いします。

乱読の地層 エッセイ/ノンフィクション書評集

2024年12月2日月曜日

ぼくらの「アメリカ論」

ぼくらの「アメリカ論」/青木真兵、光嶋裕介、白岩英樹 

 先日のアメリカ大統領選でトランプが当選して、アメリカに対する興味が増す中で、日本人視点のものが読みたくて読んだ。思想家、建築家、文学者という、それぞれ異なる立場からのアメリカに対するパースペクティブがクロスしていく様が興味深かった。

 もともとはnoteで連載されていたものが書籍化された一冊。「アメリカ」という巨大なテーマ設定であるが、それゆえに色んな角度からの語りが可能となっていた。近視眼的な視点ではなく、歴史を踏まえた大局からの論考が多いのも特徴的だ。最近の状況を踏まえると、ついついトランプ以降のアメリカにフォーカスしてしまいがちだけども、現在に至るまでの背景をタイトルどおり各人の視点で紐解いている点が興味深かった。

 専門性がリレーエッセイという形でクロスしていく点が興味深い。フォーマット自体には馴染みがなかったが、ヒップホップのサンプリングを彷彿とさせるスタイルでオモシロかった。建築、文学、歴史といった各自の専門性の中で、各自が自身にない要素を踏まえて自分の語りを構築しているので、当人たちのゾーンが拡張され、新たな視点を生み出すきっかけになっていた。

 わかりやすいのは、文学者である白岩氏の文章におけるアナロジーの数々だろう。文学者ということもあり素敵な表現がたくさんあった。文学の懐の深さを感じたし、論考、エッセイ、文学のトリプルハイブリッドは読んだことがないスタイルだった。

 光嶋氏のチャプターが個人的に一番興味深かった。建築に関する論考や思想めいたものに触れる機会がない中で、本人を含めたさまざまな建築家たちのアプローチを知り、知的好奇心が大いに刺激された。たとえば、今では当たり前になったオフィスビルが街を覆い尽くす様について、資本主義だけではなく建築の歴史、技術から摩天楼を見つめ直す視点はかなり新鮮だった。建築関連の書籍ガイド本としても抜群で読みたい本がたくさんできた。

 青木氏は歴史を踏まえつつ「アメリカ的なもの」が社会や人々の生活の中でどこまで侵食しているかについて多く論考されている。日本が親米だからという背景もさることながら、21世紀になって加速したグローバリズムは米国化といっても過言ではないことから、「アメリカ的なもの」が想像以上に社会全体を覆っていることに気付かされる。日本でいえば沖縄が最たるもので、青木氏の語る沖縄観は自分が初めて沖縄を訪れたときの感情と似ておりシンパシーを抱いた。また、西欧諸国と比べた際のアメリカの歴史の短さを指摘しつつ、第二次大戦後の急速かつ膨大、すべてにおいて過剰である「アメリカ」の乱暴さを解きほぐしてくれており興味深かった。

 アメリカは二大政党制ということもあり、大きく見れば二極による押し合い引き合いが続いていた中、トランプの登場以降は、せめぎ合いが起こる接点そのものが失われた印象を持つ。そんな分断がデフォルトになった社会における、他者をリスペクトした上での対話の重要性に至極納得した。先日読んだ『社会はなぜ左と右にわかれるのか』で、人が意見を変える場面は対話する他ない、という指摘を想起した。今回の大統領選のタイミングで、タナハシ・コーツによるオバマ本が出ていることを知ったので、次はそれを読みたい。

2024年11月27日水曜日

秋/アリ・スミス

 タイトルがタイトルなだけに、毎年秋になるたびに読もうと思って早数年、やっと読んだ。正直、秋という季節は大きなファクターではないので、季節にこだわって読む必要はなかった…それはともかく、イギリスのEU離脱という実際の出来事を小説に落とし込みつつ、そこに縛られることなく、時代や場所を軽やかに行き来する著者のスタイルに魅了された。『両方になる』は大きなギミックに気を取られてしまうが、本著では著者のスタイルがより浮き彫りになっている作品だった。

 イギリスに住む三十代の女性と100歳オーバーの昏睡状態のおじいさんを軸として、過去現在と縦横無尽に物語が展開する。冒頭、おじいさんが死後の世界を漂うような抽象的な描写から、女性がパスポートの発行に伴う書類手続きを郵便局で行う場面へと展開していくのだが、このギャップに驚く。たゆたうような世界にいたかと思えば、お役所仕事バリバリの官僚主義丸出しの現実へと放り込まれてしまう。物語全体を通じて時間や虚実にギャップのある展開が多く、その差分で物語を駆動させているから、わかりやすいストーリーラインがなくても良いというのは一種の発明な気がする。また、起承転結が明快ではないので、読後に「こういう話だった」という明確な像を結ぶことが難しい。こういった読みにくくなりそうな構成にも関わらず、ページをめくる手は止まらないのは、ひとえに著者の筆致がなせる業といえるだろう。

 実在のアートが物語の中心にあるのは『両方になる』から続く著者の特徴だ。主人公の女性が大学のアートに関する非常勤講師という設定なので、物語に無理なく溶け込んでいた。アーティストに対する考察を深めつつ、空想である物語と絡めていくことで、実在感が増していた。その物語自体も、著者が得意なメタ的展開を繰り広げており、二人で物語論を語る場面や物語内物語が頻出する。なかでも「銃を持った男と樹木の衣装を着た人物」をテーマにおじいさんがフリースタイルで語られる話が信じられないくらいオモシロかった。物語の力、ここにあり!と言わんばかり。物語が「嘘の話」という立て付けにされることがあるが、嘘と物語を明確に区別にしている点に作家の矜持を感じた。

私たちはみんな、一つの嘘によって値打ちが下がる。(中略)それとも、私は残念な真実を話した方がいい?

嘘の力はね、とダニエルが言った。いつだって、力を持たない人間にとっては魅力的に見える。

 素敵な比喩の数々や多用されるワードプレイに唸りまくった。原著を読めば、もっと発見がありそうだなと思いつつ、翻訳者の方が英語でルビを打ってくれたり、情報を補足してくれているおかげで味わうことができた。たとえばこれとかラッパーっぽい。

あの人が誰なのか、たぶんもはや誰も知らない。当時、歴史だと思っていたものは、今では脚注(フットノート)にすぎない。その注(ノート)にある彼女が今、裸足(ベアフット)であることに彼は気付く。

 イギリスのEU離脱が背景にあることから「分断」をめぐる話が多い。もともと本著がリリースされた2016年から「分断」という言葉は、2024年の今に至るまであまりにも多用された結果、形骸化している節もある。もはや「分断」はデフォルトであり、その状況でどう生きていくのか考えなければならない社会となったともいえる。そんな現在、本著を読むとコミュニティの大切さを感じた。つまり、大規模な連帯というより、小規模でも話をすることで互いの疑心暗鬼を解消できるのではないかということだ。大きな派閥同士の「分断」よりも、各人が孤立している「分断」のほうが深刻だと思うから。歳も性別も全く異なる二人が話す様やそれぞれのシチュエーションを知ることで、読み手は融和の可能性を見出すことができるはずだ。とはいえ「そんなに甘くない」と言わんばかりの描写が挟まれることで、現実に引き戻されるのだが…

 辛い現実の中でも、移民をめぐる議論は本著でもメインテーマとなっており、わかりやすいストーリーの部分を担っている。特に公共用地が二重に鉄線で囲まれ、その鉄線には電流が流れ、警備員までいる。公共のエリアなのに誰も入れなくなった「分断」の象徴に対して、女性の母親が骨董品、つまり歴史そのもの!をぶつけて打破しようとする、比喩でもなんでもないダイレクトな展開が最高だった。冬、春、夏が残っているので各季節をマラソンしていきたい。

2024年11月25日月曜日

乱読の地層


 ブログで本について4〜5年ほどレビューを続けている中、著者の方から直接リアクションをもらう機会も増え、自分にどれだけの腕があるか試したい。自分で本を作るとはどういうことなのか、体験してみたい思いもあいまってZINEを作ってみました。

 自分がキーボードで打ち込んだ文字が紙に印刷された「本」という形態で戻ってきたとき、脳がスパークするような感動がありました。実際に作るまでに色々葛藤はあったものの、本を作ってみて良かったなと思います。

 初めて自分の手元に在庫を抱えて何かを売る、つまり商いを始めて分かったことは、売るのは作る以上に難しいということでした。広告がビジネスになることを実感し、書き手にとって誰かが自分の著作について感想を書いてくれることのありがたみを逆説的に知りました。

 山は険しいのですが、一生懸命売っていきたいと思います。すでにご購入いただいた方には本当に感謝しかないです…ありがとうございます。ショップにいただいたコメントを読んで、ポッドキャストや本を作ることのおもしろさを改めて実感しました。ご購入いただける方は以下リンクからお願いします。

乱読の地層 エッセイ/ノンフィクション書評集

 そんな中でZINE作りの巨匠&メンターでもある植本一子さんから寛大なお誘いをいただいて、12月の文学フリマで一緒にZINEを売らせてもらうことになりました。ただのファンボーイだったのに、こんなことになるなんて!これもZINEを作らないと起こらなかったことであり、感無量です。東京近郊の方はぜひお立ち寄り&ご購入いただけますと大変嬉しいです。植本さんが最近書いている日記、ニュースレターでも紹介いただいており、こちらも読んでみてください。まさか自分が日記に登場する日がくるなんて。しかも丁寧に紹介いただいており感無量です。(二回目)

13日後に新刊を出す植本一子(2024/11/18)|植本一子

植本一子の短縮営業中(2024/11/25)

では当日お会いしましょう!現場でSee Ya!

--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

文学フリマ東京39


Q-35/植本一子

2024/12/01 12:00〜

https://c.bunfree.net/c/tokyo39/w/Q/35




2024年11月22日金曜日

2024/10 IN MY LIFE Mixtape


 10月も怒涛の新譜リリースがあり、毎日それを聞いていた。秋だからか、ベースが際立った曲をたくさん選んだ気がする。

 大きな変化としては久しぶりにSoulectionの番組を聞くようになったことだ。Soulectionは自分の音楽の嗜好性に大きく影響を与えたレーベル、コレクティブだ。彼らの番組は新譜のディグの深さと、そのトーンに合わせた旧譜のセレクトが抜群で聞いていて本当に楽しい。最近、ネプチューンズ特集があって、そこで気になった曲を最後にプレイリストの最後にまとめておいた。エディット、REMIXがたくさんかかってたけど、オリジナル曲でも古びないヤバすぎるスキルを感じたネプチューンズでした。写真はシルバニアファミリーの車。


2024年11月19日火曜日

こうしてお前は彼女にフラれる

こうしてお前は彼女にフラれる/ジュノ・ディアス

 オスカー・ワオの短く凄まじい人生のジュノ・ディアスによる短編集ということで読んだ。訳者あとがきで気づいたが、オスカーの友人であるモテ男ユニオールをめぐるスピンオフなので、ニコイチで、かつ連続で読んだほうが楽しいのは間違いない。

 どうしようもない浮気男であるユニオールのさまざまな人生のフェーズでの色恋沙汰と、アメリカ移民二世として生きることなどが描かれている。各短編は独立しているものの、ユニオールの人生という一つの軸があり、そこを起点に家族や恋人が登場して、すったもんだが起こっていく。居酒屋で聞く友人の恋愛話に近いものがあり、かなりフランクなノリで描かれている点が特徴的だ。それは女性器の翻訳が、大胆にも放送禁止用語の言葉で行われている点からも顕著だ。あと先を考えず心の赴くままに行動して、あとで後悔することの繰り返しなわけだが、それが一子相伝よろしく父→兄→ユニオールと継承されている様に業の深さを感じた。特に兄であるラファの存在は大きい。ラファはイケメンで女の子を取っ替え引っ替えしているのだが、ガンで若くして亡くなってしまう。兄に憧憬を抱き、その姿を追いかけて大人になったユニオールが兄の不在を埋めるように女性を追い求めてしまうのではないか?このあたりは訳者の方が、あとがきで突っ込んで考察しており興味深かった。

 トランプが再度大統領に当選した今、不法移民に対する規制が今より厳しくなることが想定されている中、着の身着のままでアメリカにやってきて何とか生きている人たちの話は、たとえフィクションだとしても胸が苦しくなる。もっとも顕著なのは、本著で一番硬派と言ってもいい「もう一つの人生を、もう一度」だろう。ドミニカからやってきた女性たちが、各自家族の事情を抱えながら、なんとかサバイブしているその姿に勇気をもらいつつも、同僚、恋人に過度な期待はしない、なぜなら裏切られると辛いから、という気持ちが伝わってきて切なかった。完全に偏見だが、ドミニカ人が楽天的というイメージを華麗に裏切る静謐さがあった。これが一番好きな短編。

 人生のターニングポイントとなった瞬間が密度高く真空パックされ、まるで走馬灯のように短編として配置されたのちに表題作が最後に用意されている。自身の浮気が原因で彼女と別れることになり、それを忘れるために様々なことに挑戦するのだが、何をやっても身体を痛めて八方塞がりとなってしまう。そんな状況で全体に厭世感が漂いながらも、NYで暮らすドミニカ系アメリカ人の日常が細かく描写されているので、どこか楽しげな空気を感じられた。正論でいえば浮気する奴はクソ野郎でしかないが、こと恋愛においては正論なんてまるで通じないし、それでも人生は続いていくことを教えてくれる一冊だった。

2024年11月18日月曜日

それはただの偶然

それはただの偶然/植本一子

 植本さんの新作は「わたしの現在地」として銘打たれたシリーズ第一弾のエッセイ集。最近の日記ブームの火付け役かつ牽引者であるわけだが、これまで読んできた身からすれば、日記を経た先にあるエッセイという印象をもった。

 一人でいることに耐えられず、常に誰かを求めてしまう。そんな自分の内面と向き合っている様子は近作の『愛は時間がかかる』や『こころはひとりぼっち』で書かれてきたが、本作は植本さんの周辺の人たちへの思いが率直に書かれており、対照的な一冊と言えるだろう。

 具体的な描写は避けられているものの、植本さん自身が事件に巻き込まれたことが幾度となく言及されている。事故、事件、病気といった自分のコントロールできない事態に突如巻き込まれる辛さは、本や実体験で分かっているつもりだが、本人にとってどれだけダメージがあるかは他者からはわからない。しかし、そんな中でも表現から伝わるものがあり、「春」という詩で描かれる絶望、虚無感は心の深い部分を刺激された。

 精神的に参った状態の植本さんの元に、まるでマーベルのアベンジャーズよろしく皆が集結し、彼女を支える互助の関係性を、内向的な自分としては羨ましく感じた。ご本人は誰かに頼ることを気にされているようだが、そんな風に助けてくれる人がたくさんいる状況は、人間関係が希薄な今の時代において正直想像がつかない。それはひとえにご本人の人望なのだろう。大人になればなるほど、新しい友達を作ることは難しくなるが、植本さんはそのハードルを軽やかに越えて、どんどん関係性を結んでいく。その様子が本作では手に取るようにわかるし、植本さんが植本さんたる所以でもあるのだと思う。それは一人のファンにしか過ぎない私に対する寛大さからも明らかだ。

 日記の生活感、それに伴う刹那性が多くの読者を魅了してきた中で、今回のエッセイにおいては視点が落ち着いている。言うなれば、日記はスナップショットの連続で、怒涛のように生活を追いかける、ドキュメンタリー性が極端に高いものだったのに対して、エッセイは日付がなく時間軸が曖昧になることで、構図が決まったポートレートのようで、一種のフィクション性さえまとっている。そこでは植本さんがカメラマンとして培ってきた、他者に対する眼差しの鋭さ、ショットの強さが存分に発揮されている。

 冒頭で述べたとおり、その眼差しを駆使した人物評が多いのが本作の特徴だ。自分のことが誰かに文字で書かれ、残っていく。書く/書かれる関係性について改めて考えさせられる。書くことで救われていた時代から、書かなくても残ることもあるという考え方の変化は、写実主義の傑作『かなわない』で知った身からすると隔世の感があった。また、書かれた側からの率直なアンサーが載っている点もスリリングで、ハイライトの一つだろう。

本書で紹介される人たちは、植本さんの魅力ある文章だからこそ、誰も会ったことがないにも関わらず、生きている様がまじまじと伝わってくる。特に終盤の元パートナーとの関係性の変化とある種の終結まで、思考と現実がシームレスに描かれており、これまでのことも思い出されて、壮大な恋愛ドラマのエンディングを見ているようだった。このエッセイから次はどんな風景を見せてくれるのか、毎度読み終わる度に期待と不安が入り混じる植本さんの著作からはいつも目が離せない。

※植本さんが出店される文学フリマのブースに『乱読の地層』を置いてもらうことになりました。当日、私も参加させていただきますので、東京近郊の方は是非お立ち寄りくださいませ。

文学フリマ東京39

Q-35/植本一子

2024/12/01 12:00〜

https://c.bunfree.net/c/tokyo39/w/Q/35

2024年11月12日火曜日

積ん読の本

積ん読の本/石井千湖

 本屋で見かけてパラっとめくって、オモシロいことを確信して読んだ。他人の読書スタイルや本棚に関するエピソードは誰の話でも興味深い、それを証左するような内容だった。

 著名人の自宅や仕事場を訪問して、本棚を見ながら、どのように積ん読しているか、また積ん読に対する考え方、ひいては読書全般に関することをインタビューしている。作家、学者、翻訳者など登場人物はさまざまだ。本棚のスタイルも雑然と山積みにしている人もいれば、きっちり本棚に収納して管理している人もいたり、本という物理媒体と向き合い方のグラデーションを知ることができて、本好きとしては脳汁が出た。写真が素晴らしく、カラーということもあり、かっこいい本棚の数々が美しく輝いて見える。やはり本がたくさん積まれたり並んでいる様は、収集癖がある身としては心を昂らされる何かがある。そして本棚は一種のレコメンドとして機能しており、インタビュー含めて読みたい本が増えた。

 本棚に本を置いておくことの意味は「いつか読むかもしれないから」とか「好きな本だから」以上の意味があることを本著は教えてくれる。本屋や図書館の本棚でもなく、電子書籍でもなく、自分の本棚を持つ意味を考えさせられた。特に山本氏の「本棚は知識のインデックス」という観点での主張は目から鱗だった。読む、読まないは関係なく積むことで意味が立ち上がる。それは自分の知識のアウトソースとして本棚が機能しているということだ。まだまだそんな境地ではないので、本棚道を精進したいところである。

 また、小川公代氏が主張していた「本棚はビオトープのようなものだ」という主張にはおおいに納得した。大きな本棚を最近購入して、そこに収まるだけにすると自分ルールを定めたことにより、本棚で好循環が起きており、まさに生きている感がある。手元に置いておきたい本と、パッと読んでしまいたい本のラインが長年の読書生活で定まってきたことも大きい気がする。本棚をエディットする感覚を本著を参考にしながら本棚を養っていきたい。

2024年11月9日土曜日

ISSUGI & GRADIS NICE 『Day’N’Nite 2』 Release Party



 ISSUGIの新しいアルバム『Day’N’Nite 2』のリリースライブへ行ってきた。2016年以来、二度目のGRADIS NICEとのタッグアルバムだ。GRADIS NICEはさまざまなラッパーにビートを提供しているが、やはりISSUGIとのあいだには特別なケミストリーがあり、今回のアルバムの素晴らしい曲の数々をライブで聞けることを楽しみにしていた。

 基本的にアルバムの流れで順番にパフォーマンスを披露していくスタイル。GRADIS NICEがバックDJを務め、アルバム冒頭を飾る「BK Suede」を流したところでISSUGIが登場。Navy NubackからBlack suede という変化と、下げたジーンズという変わらないスタイルの対比から放たれる”東京のアクセント”は誰もが簡単に真似できない彼のB-BOYスタンスだ。

 矢継ぎ早にfeatを呼んだ2曲へ流れ込む。「YingYang」「Step into the game」のいずれもEpic, Eujun, Sadajyo といったフロー巧者を召喚した曲だが、これらの曲におけるISSUGIのリリックに注目したい。”貧しさから握ったマイクじゃない”、”Japanese rap 悲劇の悪趣味をオレが喜劇でOver”というラインは明らかにRAPSTAR誕生以降を踏まえているように映る。それはSadajyoをフックアップしていることからも明確で、Sadajyoにはリアリティショーとして分かりやすい一種の「不幸自慢」がなかった。それだけが彼が敗退した理由ではないとはいえ、スキル、アティチュード至上主義のISSUGIが彼を大きくフックアップすることにシーンに対する一種の宣言が透けて見える。MONJU以外でSadajyo、JJJだけが2曲客演したこと、この日のセットリストにもあった「Lyrics, Gemz, Peeps & Treez」のリリックからも明らかだろう。

 GRADIS NICEとの1作目である『DAY AND NITE』からどの曲が披露されるのか楽しみにしていたが、仙人掌、Mr.PugというMONJUの盟友二人がそれぞれFeatで参加した曲だった。一作目は本当によく聞いたので、久しぶりにライブで聞くことができて嬉しかった。当時のリリパは代官山の「晴れたら空に豆まいて」だったことも踏まえると、この日の観衆の多さは隔世の感があった。

 上述したメンバー以外の客演はJJJ、BESといった安定感抜群な馴染みのメンツ。前回のライブでもバイブス番長としてのBESは際立っていたが、今回もそれは健在だった。アルバムの中では隙間の多いビートだが、ラップ魔神二人にかかれば極上の仕上がりになる。ここ5〜6年でBESのライブパフォーマンスを何度も見てきているが、確実に息を吹き返しており「あの頃のBESが!」という気持ちで本当に嬉しかった。JJJは言わずもがなの仕上がりであった。

 惜しむらくは今回のライブで5lackがいなかったことだろう。というのもアルバムにおける5lackの役割はアルバム全体のクオリティを支える大きな屋台骨だからだ。「Janomichi」で素晴らしいメロディでフックを歌ったかと思えば、「Wizards」で放たれるラップは独特の間の使い方で完全にネクストレベル。そんな彼の不在は痛手だったものの、そこは見せ方を工夫していた。特に「Wizards」では、5lackのバースをアカペラで聞かせてから、GRADIS NICEのエグいビートがドーン!と鳴ってぶち上げるという百戦錬磨のラッパーゆえの魅せ方が素晴らしかった。

 この日のハイライトはなんと言っても「XL」である。ヒップホップに対するアティチュードの表明は前作から特に顕著になっているが、今回のアルバムでは「XL」がそれを担っている。今のISSUGIのライブへ来ている観衆の多くは礼拝するかのように、そのアティチュード、つまり「俺たちの好きなヒップホップとは何なのか?」を確認しに来ているはずだ。だからこそ盛り上がりは他の曲と段違いだった。そして、この曲から「One on One」 へ流れていくことで「XL」の意味がより輝く。彼の数あるパンチラインの一つ、”XLのシャツに意味なんて求めるな”をリリースから11年も経った曲で回収していくのは本当にかっこよかった。本人も「一番ライブでやりたかった」と言っていたので、「366247」のような新たな定番になるかもしれない。

 また、ISSUGIのDJに対する独特の熱い想いも光った。スクラッチ要員としてDJ SHOEを呼びこんだり、一通り今回のアルバムの曲をやり終えると、バックDJとしてわざわざScratch Niceを呼び込んでいた。ヒップホップのライブでは、バックDJが単なるポン出しになることも多い中で、彼がDJに見出している意味がステージングから伝わってくる。ラップがうまいラッパーはいくらでもいるかもしれないが、こういう細かく、そしてかっこいいアティチュードの積み重ねが、ISSUGIというラッパーを形成していることが如実に現れた場面だった。

 今やヒップホップは日本でもポップカルチャーの一部となりつつあるが、それに伴った歪みを感じる場面はリスナーレベルでもたくさん遭遇する。プレイヤーサイドはそれ以上にどういう表現をするのか、アティチュードが問われる場面が今後ますます増えていくだろう。そんなとき、ヒップホップを文字通り体現するようなラッパーたちが最後の砦となり、私たちが愛するカルチャーを死守してくれるはずだ。そんな最後の砦のラッパーの一人、ラストB-BOYは間違いなくISSUGIだという思いを新たにするライブだった。


いのちの車窓から

いのちの車窓から/星野源

 パートナーに誕生日プレゼントで『いのちの車窓から 2』をもらったのだが、一冊目を読んでいなかったので読んだ。音楽家としての星野源を一番聞いていた時期のエッセイなので楽しめた。

 文章が書けないので、その練習として連載を始めたらしいのだが、信じられないくらい読みやすい。うどんをツルツルとすするように読めた。正直なところ、2024年時点の星野源については背負っているものが大きくなりすぎた結果、存在のパブリック性が必要以上に高まってしまっており、個人的にはそこまで興味を抱けていない。本著が書かれた2014〜2017年ごろは国民的スターとなる一歩手前のちょうどいい塩梅があり、人間味を感じるエピソードが多くオモシロかった。なかでも小学生の頃のエピソードで、嫌がらせしてきた相手に対して脳内報復する描写の唐突なバイオレンスはグッときた。

 彼は役者、音楽、文筆とマルチな才能を発揮しているなかでも、音楽に関するエッセイがやはり一番惹かれた。どういう気持ちで音楽の制作に向き合っているか、どのように制作しているのか、また楽曲やアルバムの背景など、知らなかったことがたくさん書かれていて興味深かった。ブラックミュージックとJ-POPの今までにないバランスでの融合を模索している過程が特にオモシロく、「SUN」はリリース当時「あーそっちいくかー」と虚しく感じた記憶があるが、その意図を知って溜飲が下がった。また細野晴臣とのエピソードは、細野晴臣をレコメンドする文章として一級品で色々聞いてみたくなった。

 2024年の今読むと伏線回収される話がいくつか収録されている点も趣深い。一つはパートナーである新垣結衣とのエピソード。てらいなく彼女を褒めており、芸能界ど真ん中の二人がパートナーになる前に、男性サイドがこんな形で思いを文章で残しているケースはないのではないか。そんな意味でも貴重なものと言える。

 もう一つはライブでのノリ方について。今年出演したフェスで「みんなで手をあげるのをやめましょう」と観客を促したところ、ツイッターを中心に燃えていた。しかし、2016年時点で彼は同様の意見を本著で述べている。そもそも「自由に踊ってほしい」というメッセージなのだが、2024年の今ではこんなことでも燃えてしまう。自分に対するネガティブなムードを当時からすでに察知していたかのように、批判、批評に対して過度なアレルギー反応を示していたのも印象的だった。「常に前向きに、ポジティヴに」という生き方を否定したいわけではないが、「嫌いなものを口に留め」という彼のマインドセットは悪い意味でいえば、我慢や服従を促していないか?と感じてしまった。「人それぞれの生き方がある」とディスクレーマー入れていたものの、今や彼の言葉は多くの人の言動を左右する可能性があるからこそ、余計なお世話だとは重々承知の上で、自己主張をエンパワメントする存在になってほしいと勝手に期待してしまう。このあと、どのような心境の変化があるのか、ないのか、二作目を読むのが楽しみになった。

2024年11月8日金曜日

まとまらない言葉を生きる

まとまらない言葉を生きる/荒井裕樹

 以前から印象的な表紙を何度も見かけて気になっていた中、友人がおすすめしてくれたので読んだ。タイトルどおり、言葉をめぐるエッセイで、著者がコミットしてきた障害者運動を軸に現在の日本語を考察している一冊で興味深かった。

 日々暮らす中で気になった言葉を巡るムードに関する考察がなされ、そこに障害者運動から見えた景色が付加される構成となっている。著者の言葉に対する着眼点は鋭く、普段使っている言葉の中に感じる違和感を余すことなく言語化しようと試みていた。著者の特徴として言語の両義性に注目している点が挙げられる。一点ポジティブに見えるような言葉でも、ひっくり返すとネガティブに捉えられる。それは自分の都合だけを考えるのではなく、他者の眼差しを考える、とりわけ社会のマイノリティである障害者の活動に従事してきたからこそ養われた言語に対する感性なのだろう。

 介護施設で提供されるおでんが刻まれていた話が一番興味深かった。施設サイドとしては、事故を防ぐこと、また個別対応による労力を避けるため、効率を目的として、おでんを刻んで提供したが、著者の知り合いは「刻まれたおでんは、おでんじゃないよな」といって不満を述べる。日本の社会は「仕方ない」と諦め、和を乱さないことが美徳になる場面が多いが、このように小さいと思われることもあきらめてしまえば、その諦めてしまう心は際限なくどこまでも追いかけてくる。自分の考えを主張する必要性と妥協点のバランスについて「おでんを刻む」という想像もしないシーンから引き出されるだなんて斜め上の発想すぎる。

 また、繰り返し登場する「降り積もる」という動詞は、今の言論空間のアナロジーとしてこれほど納得感があるものはない。それはSNSのUIの影響が大きいと考えられる。次から次へと上から言葉が降ってきて、下へと流れていく。フォローしている人の言葉に絞ることもできるが、今や「おすすめ」というランダムな言葉の集積がデフォルトになり、それはまるで雨や雪のように質と量をコントロールできない。そうして降り積もった言葉は時代の価値観の形成に寄与する大きな存在として眼前に立ちはだかるのであった。

 言葉を軽く見る現状は、社会を軽く見ることと同義だという主張は本著の核心部分である。生産性、生きる意味、権利といった言葉を絡めて、我々の人生が軽視される可能性について思いを巡らせており、ここ数年は同じようなことを感じていた。他人の権利が侵害される様を指くわえて見ていると、いつのまにか自分の大切なものも奪われてしまうかもしれない。そんな想像力を強く喚起する一冊だった。

2024年11月7日木曜日

黒人音楽史 奇想の宇宙

黒人音楽史 奇想の宇宙/後藤護

 最後の音楽でゲストに登場していたり、菊地成孔との対談がウェブに出ていたりで自分の興味の琴線に触れること間違いなし!と思って読んだ。タイトルどおり黒人=アフリカ系アメリカンの音楽について、体系立てて説明されている一冊なのだが、その角度があまりにもイル過ぎる。黒人音楽に関する既存認識との乖離が凄まじいが、それゆえの圧倒的なオリジナリティ、そして文献をベースにした足腰の強さと説得力は圧巻だった。

「黒人音楽史」と銘打ち、ブルース、ジャズ、ファンク、ヒップホップといった各時代を代表するジャンルをアーティストベースで包括的に議論している。この手の本の場合、史実をざーっとまとめてフォーカスポイントを一部用意するスタイルが基本だが、そこに哲学や人文学の見地を踏まえた見立てを当てこんでいくことで、結果的に全く見たことないパースペクティブが提示される摩訶不思議な本だった。

 何より恐ろしいのは膨大な脚注である。批評においては、そのパースペクティブの斬新さを追い求めるあまり、無根拠な「思い込み」に類するものも少なくない。しかし著者は「そんなハンパ野郎は蹴散らすのみ!」と言わんばかりに愚直なまでに論理と根拠を詳らかにしている。本著は黒人音楽が好きであればあるほど、納得しづらいある種の逆説性を孕んでいるが、この膨大な引用の背景にある知識と読書量に唸らざるを得なかった。

 ヒップホップ好きとしては、このジャンルにおいて最も重要視される「リアル」について『ムーンライト』を透かしながら、その危うさについて繰り返し疑問を呈している点が印象的だった。さらに合わせ技で「クール」について、ジョージ・クリントンのファンク観を通じて相対化する考察も、日本のヒップホップにおける最近のクール偏重主義に対する新たな視点を得ることができて勉強になった。やはり道化がいないと息がつまるのだ。

 内容としてはイルだが、手法自体は真っ当な批評であり、そのギャップが興味深い。ただ批評において、対象と一定の距離を取る必要があるので仕方ないとはいえ、ここまで音楽自体に対する主観的な要素(思い出や曲に対する感情など)が排除されていると、一端の黒人音楽好きとしては複雑な気持ちになった。あくまで見立てを楽しめる素材としての黒人音楽の話に終始しているからだ。(だからメロディという音楽成分を多分に含む「ソウル」というジャンルはスキップせざるを得なかったのでは?という邪推)本著内で繰り返し登場するフランケンシュタインのアナロジーを拝借すれば、著者の主張のために、いじくり回されてツギハギにされてしまったように感じる。しかし、それはヒップホップのサンプリング手法であるチョップ&フリップとも言える。つまり、私自身が信仰するヒップホップ原理主義でもあるからこそなんとも言えない気持ちになった。本著の補助輪として『最後の音楽』の著者がゲストの回を改めて読むと理解が深まったので併読するのが吉。

2024年11月4日月曜日

アマニタ・パンセリナ

アマニタ・パンセリナ/中島らも

 ブクログ徘徊で知って読んだ。著者の作品は『今夜、すベてのバーで』を随分前に読んだのが最初で最後。小説という体を取った実体験を含むアル中小説だったわけだが、本著はその頃の話も含めた各種ドラッグに関するエッセイとなっていた。こんなに書籍であっぴろげにドラッグ遍歴を語ることができる牧歌的な時代もあったのだな〜という隔世の感がある。パーソナルなドラッグ体験と客観的な効果や史実がいいバランスで興味深かった。

 ドラッグの種類ごとにチャプター分けされており、各ドラッグとの思い出を柔らかいトーンで語っている。語り口は日常系のエッセイと変わりないのだが、起こっている事態は嘘みたいな本当の話の連続で興味を惹きつける。冒頭の猫に睡眠薬を飲ませたエピソードなんてエグすぎて寒気がした。

 本著では数あるドラッグについて、効果に関するグラデーションが事細かに説明されているので、その点の理解が大いに深まった。特にシャブがいかに危ないドラッグなのか。さまざまなドラッグが紹介されている中、怒りめいた告発のような文体で唯一描かれているのがシャブだった。日本では大きな枠組みで「ドラッグは絶対悪!」とされてしまっている現状があるが、そこにあるグラデーションを伝えていってほしいものだ。特に大麻周りは誤謬が多過ぎて特段推進したい派でもないが、ここ数年の国のムーブは見ていてしんどいものがある。

 ドラッグからの離脱に関する話もあり、著者の場合、ブロン(コデイン)中毒からの離脱だった。当時、咳止めシロップを飲めば摂取できる合法トリップとして知られていたブロン。やめるにあたっての著者の相当な苦労を知ると、始めるのは簡単でも危ないことがよくわかった。「ルールなんて無し あるのはマナー」といったところだろうか。

 単なるジャンキーというより先走る好奇心が、著者を作家たらしめている点だと言える。これだけたくさんのドラッグをキメながらも、各ドラッグについて書籍や文献にあたり、歴史や効能について真面目に調べているからだ。それが顕著なのは幻覚サボテンに対するアプローチである。サボテンに含まれるメスカリンでトリップを試みようと試行錯誤する様は小学生の自由研究を見ているようで読んでいて思わずクスリとしてしまった。今、中島らもを読むのは新鮮な体験だったのでエッセイ、小説問わず読んでいきたい。

2024年10月27日日曜日

生殖記

生殖記/朝井リョウ

 ネタバレを避けたくて、すぐに読んだ。前作の『正欲』の続編というのは過言ではなく、タイトルどおり生と性をテーマにした小説だった。中村文則『教団X』を読んだときと感覚としては近い。社会に接続し、批評性を物語に含ませながら、エンタメの枠から決してはみ出すことなくオモシロく読ませる。そして、このねちっこい文体。朝井リョウだからこそ書ける圧倒的な小説だった。

ここから思いっきりネタバレ

 本著には特大ギミックがあり、それは人称である。二人称で語られているのだが、その語り手は生殖器=男根となっている。その男根の持ち主である主人公の名前は尚成(しょうせい)。さらに作品内で言及されているとおり、へりくだった一人称である「小生」と同じ発音であるがゆえ、読んでいると一人称で語っているようにも見えてくる。

 そんな男根が何を語るかといえば、同性愛者がどのように世間と相対しているかである。日本は同性婚も認められておらず、先進国の中では同性愛者への風当たりは強い。尚成自身が同性愛者であり、彼が社会で差し障りなく生きるため、いかにバランスを取るか。彼の人生観とその背景にある社会情勢を、男根が俯瞰した視点で解説してくれる。まるで男根と一緒に尚成をモニタリングしているかのようだった。

 今の社会にはびこる空気と同性愛を絡めた社会批評が男根から繰り広げられるのがとにかく痛快で無類にオモシロいし興味深い。エデュテインメントの様相さえ呈している。語り手がヒトではないからこそ、ヒトが定義した社会的正義から一歩距離を取ることが可能となっていた。神の視点である三人称で距離を取る方法もあるが、それだと客観性が強過ぎて、読み手にとって同性愛が他人事になってしまうから避けたのかもしれない。

 男根は輪廻転生を繰り返しており、さまざまな生物の生殖器を経験している設定もあいまって、場所と時間のスケールを地球基準として、ヒトの論理的破綻をチクチクとついていく。柔らかい話し口調と皮肉の塩梅がちょうど良くい。「いやーほんとヒトって意味わかんないですよね」というトーンがずっと続くので、途中若干疲れてくる点は否めないのだが、それを凌駕する論考の新鮮さとギミックでひたすら引っ張られた。

 なかでも資本主義のもとで生きることに対する冷めた姿勢が、個人的には一番痛烈に感じた。右肩上がりの成長が前提とされる社会で、人生に意味を見出そうとするとき、そこには「判断、決断、選択、先導」が発生し、自分に変化をもたらさなければならない。ライフイベントも資本主義に巻き取られていることを「新商品化」という言葉でラッピングしてしまう、このドライさよ…

”今よりもっと”を追求し続けながら、自分を絶えず新商品化させていくことで共同体に寄与し他個体に貢献し幸福度を保ち続ける数十億秒。

 並の作家が同性愛を描くとすれば、当然同性間の恋愛関係を多少なりとも入れてくるだろう。しかし、著者はそんな生温いことはしない。「恋愛しない、できない」状況になった尚成を考察することに終始している。特に現在の日本社会においては同性愛者に非がある、もしくは異性愛者側が「受け入れます」という形になっている状況を疑問視している。また近年,大手を振って歩く「生産性」という言葉の危うさについても資本主義の限界、共同体幻想といった概念から解きほぐしており興味深かった。一番納得したのは、モラハラ大黒柱夫と異性愛共同体の類似性だ。つまり、同性愛者がどれだけ社会に貢献したとしても、異性愛者から「生産性がない」と言われることは、いくら家事をしたところで「生活費を稼いでいるのはおまえじゃない」と言われること似ている。家父長制維持と同性愛批判の点と点をつなぐ視座として新鮮だった。

 尚成がひたすら己を押し殺し、世間との摩擦を限りなくゼロにして人生を文字通り暇つぶしにしか捉えていない。その無気力さが外部環境によるものであることが分かってきた頃に、真逆の考えを持った同性愛者が登場、そこから一気に物語としての魅力が加速していた。陰と陽の駆け引き描写が本当に見事だった。さらにダイエットに新たな意味を見出した尚成の奇行も、人生をゼロサムゲームと捉え危うさを象徴しているし、そのクリーピーさがたまらなかった。二作書いたということは、生と性に関する三作目があるに違いないので本当に楽しみだ。

2024年10月24日木曜日

地獄への潜入 白人至上主義者たちのダーク・ウェブカルチャー

地獄への潜入 白人至上主義者たちのダーク・ウェブカルチャー/タリア ラヴィン 

 トランプが大統領選に再度立候補しており、彼の背後で蠢くものが知れるかと思い読んだ。トランプのろくでもなさは当然として、白人至上主義者の中に巣食っている底知れない闇の深さが理解できる一冊だった。レイシストの現状は遠巻きに聞いているだけでもヒドいのに、潜入捜査を含めて自分の身を削りながら真相を暴こうとしている著者の姿勢にはリスペクト。

 ユダヤ人のジャーナリストである著者は、白人至上主義者にカウンターすべくアクティビストとして積極的に動いてきた経緯があえう。そんな彼女がこれまで経験したことや背景にある差別思想について丁寧に解説してくれている一冊となっている。白人至上主義と言われても日本だとピンと来ないかもしれないが、同じような人種差別は日本にもある。安田氏の「寄稿」にも書かれていたが、日本における在日朝鮮人差別は、米国におけるユダヤ人差別と類似している。またキリストではない1000年以上前の北欧の神を持ち出し、自分たちの存在を権威づけていくムーブは、日本の右曲がりのダンディたちにおいて、ヤマトタケルを持ち出している場面を見たことがある。このように、国が変わっても差別主義者は同じような思考回路やムーブで自分たちのポジションを確保していることに驚いた。(日本が海外の潮流をなぞっているだけの可能性も多いにあるが)自らの存在の矮小さを忘れさせてくれる大きな物語に乗っかりたい人が多いのかもしれない。

 白人至上主義は人種差別、ミソジニー、同性愛差別など、あらゆる差別の根っこにあるものと本著では位置付けられていた。人は性別、国、人種といったように、さまざまなグループに属しているわけだが、特定のグループでマイノリティでも、別のグループではマジョリティとなる。アメリカはその坩堝なわけで、何を切り口にして差別するのかと考えてしまうが、「白人、異性愛者、男性」という従来のアメリカ社会で多数派を占めていた人たちによる暴力的な姿勢が目に余った。

 タイトルに「ダーク・ウェブ」とあるとおり、インターネットやSNSがもたらした負の側面に大きくフォーカスしていた。情報通信速度が高速化したことによる利便性の一方で、それと同じ速度で悪意も高速で伝播していくことを痛感させられる。自分の考えを強化する都合のよい「事実」を大量に摂取、タコツボ化し、悪い方向へどんどん振れていき、凄惨な事件が暴発してしまう。各国にいる白人主義者たちが連帯し、負のエネルギーがマグマのようにたまっていき最終的に噴火するかのような差別プロセスの描写が見事。

 アクティビストとしての側面を大いに生かして著者が潜入調査するシーンがハイライトだろう。差別を解説するだけにとどまらず、自らの身を差別のフロンティアに投じていく。ネット上でなりすます分には、直接的な被害はそこまでないものの、カジノで開催された極右の集会に潜入してツイッターでポストしていくシーンはかなりスリリングだった。大半の集会参加者はネット弁慶だろうことが想像つくものの、一人でも過激な人間がいた場合、銃による暴力が行使される可能性があるアメリカは日本とは段違いの怖さがあった。この手の本は読み進めることにエネルギーが必要だし目を背けたいことしか書いていないが、ヘッドラインを読んでいるだけではわからない実情を知るために定期的に読んでいきたい。

2024年10月17日木曜日

ガチョウの本

ガチョウの本/イーユン・リー

 イーユン・リーの最新作。新刊が出れば必ず読んでいる数少ない作家の一人だが、今回も期待どおりの内容でオモシロかった。もともとストーリーテラーとして比類なき才能の持ち主であることは間違いないが、前作を含めて新たなチャプターに突入しており、その新鮮さを大いに楽しんだ。

 フランス人でアメリカに移住した女性アニエスが、ある日、同級生のファビエンヌが出産で亡くなった知らせを受ける。そこから回想する形で物語は進んでいく。当時十代の二人が共作した小説が人気を博し、アニエスだけがフランスからイギリスへ移住、フィニッシングスクールで学び始めるものの…というのが話の大筋。著者は中国からアメリカへの移民であり、中国を背景にした物語が多かった中で、前作から自身のバックグラウンドとは全く関係ない物語を紡いでスタイルチェンジを図っている。そのことで逆説的に彼女の小説の表層の部分ではない奥行に気付かされた。経験していないことを想像して描き出せることが小説の醍醐味であるが、リアリティ偏重な今こそ、想像の世界で好き勝手に書くことができるダイナミックさを存分に味わえた。

 本作の魅力はなんと言っても、主人公二人の関係性だろう。十代前半ならではの時間だけが無限にある退屈な日々の中で、何をもって人生に彩りを与えていくのか。それが彼女たちにとっては空想の物語を描いていくことであり、想像しない形でスケールし、見たことのない景色をアニエスにもたらすことになる。十代前半の頃の友人関係は往々にして希薄になりがちだが、主人公たちにとってもそれは例外ではない。読んでいると自分にとってのファビエンヌ、つまり親友であり、憧憬していた存在について想いを巡らせざるを得ない。あの頃の自分が誰と一緒にいたのか、何を大切にしていたのか。

 基本的にはアニエスがファビエンヌを追いかけるような関係性なのだが、最後まで読むとある種の共依存であることがわかり、その終焉まで見届けることになるがゆえに切ない。オレンジ、ナイフなどを使ったアナロジーも巧みで、その耽美さにため息が出た。

 著者の小説で人生を巡るパンチラインがはそこかしこに仕込まれている点がストロングポイントであり、本著でもいかんなく発揮されていた。こんなに付箋だらけになる小説もそうそうない。

人々はだいたい忌まわしかったり退屈だったりする。両方であることもある。世の中もそうだ。もし世の中が忌まわしくも退屈でもなかったら、伝説などいらないだろう。

幸せっていうのはね、首を伸ばして明日や翌月や翌年を楽しみに待つことなく、一日一日が昨日になるのを押しとどめようと手を出すこともせずに、毎日を過ごすこと。

 物語が俄然オモシロくなるのは後半のフィニッシングスクールに入学してからだ。「花嫁修行」的な作法の数々を学びながら、小説を書く生活をアニエスが強いられるのだが、この前時代的な状況から飛び出すところが最大の見どころ。しきたりを学び、守ることで個性を失い、自分のために生きている実感が失われていく。それは小説も同様でアニエスの書いた内容が、大人によって加筆、修正されてしまう。このように自分がどんどん剥ぎ取られて、世間に迎合していくことに対して、物語全体を通じて疑問を呈している。「右にならえ」が苦痛で生きてきた人生なので、この主張は至極納得しつつ、結果的に苦しむアニエスの姿は辛かった。学校は、世間、社会に出ていくにあたって「成形」する場所であり、一定必要なのは理解している。ただ、それが過剰になってイエスマンの金太郎飴がたくさんできたところで一体誰が幸せになるのだろうか?とたびたび考えるので、アニエスが抱える苦労や不満がよく理解できた。特に大人の恩着せがましい「親切」という化けの皮を被った命令のリアリティが迫ってくるシーンでは手に汗を握った。自分にとって特別な作家であることに変わりはなく、次の短編小説の邦訳を楽しみに待ちたい。

2024年10月10日木曜日

25歳からの国会: 武器としての議会政治入門

25歳からの国会: 武器としての議会政治入門/平河エリ 

 衆議院が解散され、選挙が月末にあるということで長らく積読していた本著を読んだ。国会、選挙などの仕組みについて、わかっているようで、わかっていないことがたくさんある現実に気づかされた。なお「25歳」とタイトルにあるが、これは被選挙権を得る年齢のことで他意はないようだ。Age ain’t nothing but a numberってことで、今から政治の勉強をしても何も遅いことはない。

 日本の国会や選挙の仕組みについて、教科書のように淡々と説明されても、なかなか頭に入ってこない。しかし、本著では「こんな疑問に答えます」という形で、近年話題によく上がる質問に対して諸外国の制度と比較しながら解説してくれており理解しやすかった。また、過去の国会答弁を引用している点もユニークだ。それら各章でを読むたびに、今の政治家の答弁がいかに誠実ではないか、時代を逆行しているようで辛い気持ちになった。

 会期制を中心として日本の時代遅れっぷりが目につく。著者も言及しているとおり、民意が100%反映されるような仕組みは実現不可なのだが、納得度が高いものを求めることが必要だろう。社会がこれだけ変化しているにも関わらず、選挙や国会の仕組みがほとんど変化していない。その歪さに最適化している自民党が勝ち馬に乗っているままだと変わる可能性は低い。選挙が権力の附託であることを改めて認識させられた。

 日本は小選挙区が中心で議員個人に投票するものの、議員が一個人でできることには限界があり、政党によるガバナンスが基本となっている。であれば、すべて比例枠でもいいのでは?と考えてしまうが、そうなると今の小選挙区の死票が効力を持つから自民党は困るのだろう。自民党が長期政権化し、それに対抗する野党の不在により、野党の言動が問題視される場面をよく見かける。それは野党が国会の制度上で対抗するために取れる言動だと初めて知った。たとえば自明に思える質疑も、それによって政府側の問題点を浮き彫りにするという意味がある。その意図を知らない人からすると時間潰しにしか見えないのかもしれない。(時間潰しも一つの目的なので、両方の意味があるのかもしれないが。)ただ、制度に沿ったものとはいえ、民衆の理解を得られなければ本末転倒なので、やり方は考えてほしいところだ。

 本書の最大の特徴は「ジェンダーと国会」という章だ。女性議員が諸外国に比べて極端に少ない背景について考察されている。実は国会や選挙自体が、家制度を未だに色濃く残しているものであり、それと女性議員が少ないことを繋げており興味深かった。なかでも選挙における名字の重要性を読むと、選択的夫婦別姓を嫌がる理由も透けて見える。つまり、選挙において名字は一つの看板であり、それを一種形骸化させることへの警戒心が働いているのではないかと。未だに世襲が多く占める状況を抜け出し、議員個人の資質に対してジャッジできるような有権者がいなければ、状況は変わっていかない。また、同性婚の憲法解釈については知らないことばかりだった。「「両性の同意に基づいて」の文言があるから同性は不可」という安直な理解ではないことが丁寧に説明されており勉強になった。月末選挙!民意!示そう!

2024年10月8日火曜日

ブルックリンの八月

ブルックリンの八月/スティーブン・キング

 最近毎月楽しみにしているポッドキャスト番組『美玉ラジオ』で紹介されていたので読んだ。スティーブン・キングという大作家を前にすると、一体何から読めばいいのかと足踏みしてしまうが、今回のように構えることなく、自分の興味のまま読めばいいなと思った。ただ、スティーブン・キングの初手としては絶対これじゃないなと思いつつ、メタ構造をふんだんに含んだ小説と巨匠の筆致を感じられるエッセイ、いずれもオモシロかった。

 本著は短編小説が四つ、エッセイ一つ、詩が一つで構成された特殊な一冊である。後半に載っている野球に関するエッセイを目的に読んだが、短編小説もオモシロかった。なかでも、ホームズやチャンドラーに対するオマージュ作品に驚いた。これだけビッグネームの作家が、同様のビッグネーム作品に対して模倣作(パスティーシュ)を試みているだなんて。ホームズの方は、相棒のワトスンが推理能力を発揮する、いつもと立場が逆転した推理小説。久しぶりにストレートな推理小説を読むと、謎解きの過程がシンプルに楽しい。チャンドラーの方は、オマージュというより、小説の作者と主人公の邂逅というメタ的展開を駆使して、いい意味でダラダラと作家稼業について語っており興味深かった。

 野球エッセイは、著者の息子が参加したリトルリーグの大会に関するものだった。リトルリーグならではの視点で、子どもたちのメンタル面からくるプレーの質の変化について鋭く考察していた。チームメイトのキャラクター描写はさすが巨匠!という塩梅で、それを駆使した野球の試合の白熱っぷりと、息子のチームがいかに奇跡的だったか、熱を持って伝わってきた。日本の高校野球の刹那性に近いが、もっと不安定でどう転ぶか分からないムードがリトルリーグにはあることを知った。また、同じ地域に暮らすという共通点しかない中で育まれる友情の尊さもそこにあった。歳を取れば取るほど、関係性はたこつぼ化していく中、子どもの頃に世の中の雑多性を知っておくことは必要だと読んでいて改めて感じた。

 スティーブン・キングは映画化されまくっているので、わざわざ小説で読む必要があるのかと躊躇する作家だったけど、これをきっかけに色々読んでみたい。