2024年12月10日火曜日

祐介

祐介/尾崎世界観

 先日の文学フリマでただならぬムードを漂わせていたブースがあり、それが著者とラランドニシダ氏によるポッドキャストのブースだった。ポッドキャストがオモシロかった(フェスドンマイ女と巨人亀井のセレモニーの話が最高に好き)ので、妻が持っていた本著を読んだ。水道橋博士のメルマガで連載していた日記に支えられていた、上京して数年のあの頃を思い出して何とも言えない気持ちになりつつ、小説だからこその展開がオモシロかった。

 タイトルは著者の本名であり、売れないバンドマンの生活を描いているので、限りなく私小説に近いものといえる。前半はその要素が強く、包み隠さない欲望がこれでもかと炸裂していた。その欲望の量に対して、自分の力が及ばないことの辛さと、それを認識してしまう自意識の辛さ。特に見る/見られるの自意識については、冒頭のエピソードからも意識的なことが伺える。SNS時代では見る/見られるの関係が交錯する。見ていると思ったら、見られている、その状況を動物園を使って表現していることに全部読み終えてから気づいた。

 バンドマンといえば「チャラい存在」と軽くみられることに対して、機先を制すかのように、どれだけ泥水をすすりまくらないといけないのか、じっとりとした文体で呪詛のように綴られていて胸が苦しくなった。今でこそストリーミングサービスの普及により、本著で書かれているようなライブハウス苦行を味わっているバンドは少ないかもしれない。そういう意味では昔のバンドマンの実態の記録としても貴重といえるだろう。

 その中で一番読んでてキツかったのは、京都でのライブシーン。まるでその場に自分が存在しないかのように扱われてしまう経験は誰しもあると思うが、音楽という自己表現の場で繰り広げられる小さなマウントの取り合いは目も当てられない。参加したくなくても、勝手に巻き込まれて、いつのまにか上に乗られてポジションキープされて、パウンドを落とされたり、バックを取られて絞め落とされたりする。そんな状況に肝を冷やしていたら、フィジカル的にも痛めつけられてしまうあたり容赦がない。

 バンドで歌詞を書いていることもあり、瞬間最大風速は本当にハンパない。私たちのイメージの逆をついて、ハッとさせてくる。

残念ながら今現在、バンドをやっていて最も手応えを感じるのは、ギターの弦が切れた瞬間だ。不意に加わった力が、張り詰めたものを断ち切って確かな感触を手の中に残す。

ライブハウスでもスタジオでも、どうしたって得られなかった達成感が、アルバイト先のスーパーではタイムカードを差し込むだけで簡単に得られた。ジッ、というあの小さな音に、まるで自分が認められているような気がした。

 全体に性や暴力の描写の分量が相当多い。描いているのはバンドマンだが、「クリープハイプ」のパブリックイメージからはかけ離れたものに映る。ゆえに音楽では表現できない、小説だからこそできる何かを追い求めていることが伝わってきた。特に終盤にかけての展開における、みっともなさやグロテスクさは、いい意味での下世話さに惹きつけられてページをめくる手が止まらなかった。このむちゃくちゃっぷりは小説家としての出自を含め、又吉氏の『火花』を彷彿するのだが、いずれの作品とも芸人、バンドマンが書くだろうと、大衆が想像する日常系っぽい予定調和な展開で絶対に終わらない。そんな文学に対する気概を感じ取ったのであった。

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