2024年12月18日水曜日

こんな大人になりました

こんな大人になりました/長島有里枝

 以前から何度か名前を見かけて気になっていた著者の作品をサルベージしたので読んだ。10年分のエッセイが1冊にまとまっているという、あまり見たことがないスタイル。10年というタイムスケールから見えてくる家族との関係性、世間の空気など、変化していく様を共に振り返るような読書体験だった。

 写真家が本業である著者の連載エッセイを10年分まとめたものになっている。1年ごとに十数個のエッセイが書かれており、見開き1ページでちょうど1チャプターとなっている。そのため隙間時間でパッと1章だけ読むといったことができたので、育児しながらの読書としては最適だった。ただ短いとはいえ、各エピソードはソリッドな文体でストレートに感情が発露しているので、かなり読み応えがある。テーマは家族、仕事、フェミニズムなど本当に多岐にわたっていて、それらが時間の経過と共に移り変わっていく経時変化の記録が本著の最大の魅力だ。

 その点で一番わかりやすいのはフェミニズムに関する内容だろう。本著は2012年から始まるが、その時点で育児を含めた女性に対する社会構造としての負荷の大きさについて、フェミニズムの観点から異議を申し立てしている。時が経つと共に、社会のムードとしてフェミニズムが重要視されていく中、著者も読書などを通じて、新たな視座が発生していく過程が興味深い。一番ギクっとしたのは「男だけのフェミニズム語りにイライラする」という話。「そもそも主体性を取り戻す話なのに、なぜ語るのが搾取している側なんだ?」というのはもっともだ。自分自身、パートナーとはそういった話をたまにする程度、職場の同僚、友人の女性とこの手の話をすることはない。フェミニズムに関する本は「男性」という自分の属性が攻め立てられる気持ちになるので、得意だとは正直言い難い。しかし、著者の主張は、比較的胸にスッと入ってきた。理由を考えてみると、本著では「パンク」という言葉が何度も登場するのだが、それは自分にとって「ヒップホップ」と置き換え可能な言葉であり、社会に対する反抗という切り口でフェミニズムが発揮されているからなのかもしれない。

 また、良い意味で「感情的」な物言いというのも影響しているだろう。著者が指摘しているとおり、現代社会において「感情的」はネガティブな捉えられ方され、「理性的」であることをさまざまな場面で求められる。しかし「本当にそれでいいのか?」と問い直している。下記に限らず、全体にわたってパンチラインだらけで、いつのまにか付箋をたくさん貼っていた。

感情を「マネジメント」すべき、という無言の圧力は、生活のあらゆる場面でますます感じるようになった。むやみに感情的に振る舞えば、SNSなどで社会的に「処刑」されることだってある。その背景には、感情が個人の内側から発露するものである以上、そのコントロールは発動者の自己責任のもとで行われるべきだ、という新自由主義的な考え方がある気がする。

 家族の在り方も多くの章で語られるメインテーマである。シングルマザーだった彼女が一人で育児を奮闘しているところから、未婚のままパートナーとの同棲が始まり、両親との関係性、息子の成長といった多くのファクターにより家族の在り方が変化していく。大人の十年と、子どもの十年が異なることは自明だが、選挙権を持ち、政治について語るまで成長している、という具体的な描写を伴って、子どもが大人になる様を読むと時間の重みを感じた。そして家族の悩みは誰にとっても他人事ではないのだなと両親との関係性に関する考察を通じて勉強になった。自分ごとになると、なかなかここまでの客観性をもって家族を捉えることが難しい。他の著作は、本著に登場した各テーマをそれぞれ深掘りしているようなので、追って読んでいきたい。

2024年12月13日金曜日

いのちの車窓から2

いのちの車窓から2/星野源

 ちゃんと一作目を読んでから、二作目を読んだ。前作は国民的スターになる前夜だったが、本作は国民的スターとなったコロナ禍前後で書かれたエッセイ集でオモシロかった。これだけパブリックな存在になりながら、自分の内なる感情を文字でここまで丁寧に書くことができる文筆家としての力量たるや。喜びも苦悩もないまぜになった人間・星野源がそこにいた。

 2017〜2023年までの連載+書き下ろしで構成された一冊。前半は一作目の延長線上で自身の仕事の話が中心となっている。ドームツアーの成功、海外でのライブなど、順風満帆に見えるキャリアにおける本人の感情がストレートに表現されていて興味深かった。当たり前だが、スケールが大きくなればなるほど、本人に対する負荷も大きくなるわけで、そこでめげそうになりながらも何とか前に進めていく喜びや苦悩はファン垂涎のものだろう。前作同様、やはり音楽周りの話が好きで、特に「Family song」が「シンバルなし進行」にトライした結果であることを知った上で聞くと、表面上はJ-POP然とした曲の奥にあるソウルやR&Bの要素が浮かび上がってくる。このスタイルは今や彼の代名詞だが、リリースされた当時、「またJ-POPか〜」となっていた自分の耳の浅さを知った。最近アップロードされたティファニーのパーティーで彼がDJした際のプレイリストは、音楽愛がはち切れんばかりに伝わってくる内容だったことからして、彼が今でも日本のポップスにおいて最も重要なキーマンであることに納得する音楽ファンは多いはずだ。

 海外アーティストとのコラボ含めてワールドワイドな展開が始まりそうな矢先にコロナ禍となってしまう。ウイルスは平等に襲いかかるわけで、彼がコロナ禍で考えたこと、特に死生観に近い感情の数々は、自分の人生の意味を改めて問い直すきっかけになった。くも膜下出血で生死を彷徨った経験があるからこそ説得力があるし、他人の死に対する感情の吐露も彼ならではの言葉が並んでいた。また、コロナ禍をきっかけに鍵盤ベースのDTMによる作曲に変化した話も興味深かった。当時、友人から「不思議」をおすすめされて聞いたものの全くピンとこなかったのだが、今聞くとその作風の変化を顕著に感じる曲であり好きな曲になった。こうして人間が変わっていく生き物であると、本著が持つ7年という月日の蓄積は教えてくれる。

 コロナ禍といえば「うちでおどろう」の話は避けて通れない。安倍晋三が「うちでおどろう」の動画をアップロードして燃えていたことを思い出す。当時、それに対して何のリアクションも返していないこと、つまり「なんか意思表明しろや」という圧力が多分にあっただろうし、彼がヒップホップ愛を語る場面も散見していたので、何かカウンターしてくれないか期待していた。しかし、彼からすると余計なお世話でしかないことが本著を読むとよくわかる。ただでさえ有名税という名のもとで、大勢からネガティブな感情をぶつけられる中で、このときの心情や察するに余りあるし、ネガティブな要素をとことん排除するライフハックを繰り返し主張する姿勢も納得できた。そして「雄弁は銀、沈黙は金」という言葉があるように、何も言わないことも十分な意思表示だよなと、本著を読み、彼の感情の機微に触れて初めて気付かされた。

 妻こと新垣結衣とのエピソードが描かれている点も本著の読みどころの一つだろう。妻との生活の様子がときにありありと、ときに淑やかに描かれている。正直、シャレたエピソードの連発なので「ケッ」と嫉妬する感情を持つ方もいるかもしれない。しかし、この夫婦の身に起こった根も葉もないゴシップ騒動をみていると、このくらいの愛を表現していかねばならないのだという著者の気概を感じた。来年アルバムが出るらしいので、それが今から楽しみになった。

2024年12月12日木曜日

2024/11 IN MY LIFE Mixtape

 11月も新譜チェックで手一杯というかヒップホップのリリースが多過ぎて堪能してたらキリないぜって感じだった。先月に引き続きSoulection Radioには大変お世話になり、なかでもアフロビーツの新譜の量の多さと質の高さに驚いた。ある程度、ジャンルとしての型が決まってきた中で、クリシェから逸脱を試みるメロディーやリズムの変化があり、その中で個人的に好みなものがたくさんあった。

 ライブはISSUGIのワンマン、韓国ヒップホップのイベントであるRAPHOUSEに遊びに行った。両方とも雑感踏まえて書いたので読んでみてください。

ISSUGI & GRADIS NICE 『Day’N’Nite 2』 Release Party

RAPHOUSE Japan

 季節的にWrap up系の投稿をよく見るけど、今年はまだ終わっていない!といつも思うので、また12月が終わったらベストを考えたい。ジャケットはライブ帰りに1億年ぶりに食べたやしま。インバウンド客に囲まれて食べるうどんは異国情緒もあり美味しかった。

2024年12月11日水曜日

ZINE FEST TOKYO

 まだまだ売っていかなあかんねんということで、来年1月11日に開催されるZINE FEST TOKYOに参加することにしました。会場は浅草で浅草寺の横らへん。500組以上の方が参加するっぽい。

詳細→https://note.com/bookcultureclub/n/nba43c5c49ea1

 もともと植本さんに文学フリマに誘っていただいた際、「Yamadaさんが出るならこれも一緒に出るよ」という寛大な申し出をいただいており、そのご厚意におんぶに抱っこで出ることにしたのでした…感謝。

 なんかおまけみたいなの用意できないかな〜と考え中です。ZINEに興味ある方はぜひお越しくださいませ。植本さんも何か作るかもとのことです。詳しくは日記をご参照ください。日記に名前出るのビビる。

9日前に新刊が出た植本一子(2024/12/10)

10日前に新刊が出た植本一子(2024/12/11)

ZINE友作ろう!

2024年12月10日火曜日

祐介

祐介/尾崎世界観

 先日の文学フリマでただならぬムードを漂わせていたブースがあり、それが著者とラランドニシダ氏によるポッドキャストのブースだった。ポッドキャストがオモシロかった(フェスドンマイ女と巨人亀井のセレモニーの話が最高に好き)ので、妻が持っていた本著を読んだ。水道橋博士のメルマガで連載していた日記に支えられていた、上京して数年のあの頃を思い出して何とも言えない気持ちになりつつ、小説だからこその展開がオモシロかった。

 タイトルは著者の本名であり、売れないバンドマンの生活を描いているので、限りなく私小説に近いものといえる。前半はその要素が強く、包み隠さない欲望がこれでもかと炸裂していた。その欲望の量に対して、自分の力が及ばないことの辛さと、それを認識してしまう自意識の辛さ。特に見る/見られるの自意識については、冒頭のエピソードからも意識的なことが伺える。SNS時代では見る/見られるの関係が交錯する。見ていると思ったら、見られている、その状況を動物園を使って表現していることに全部読み終えてから気づいた。

 バンドマンといえば「チャラい存在」と軽くみられることに対して、機先を制すかのように、どれだけ泥水をすすりまくらないといけないのか、じっとりとした文体で呪詛のように綴られていて胸が苦しくなった。今でこそストリーミングサービスの普及により、本著で書かれているようなライブハウス苦行を味わっているバンドは少ないかもしれない。そういう意味では昔のバンドマンの実態の記録としても貴重といえるだろう。

 その中で一番読んでてキツかったのは、京都でのライブシーン。まるでその場に自分が存在しないかのように扱われてしまう経験は誰しもあると思うが、音楽という自己表現の場で繰り広げられる小さなマウントの取り合いは目も当てられない。参加したくなくても、勝手に巻き込まれて、いつのまにか上に乗られてポジションキープされて、パウンドを落とされたり、バックを取られて絞め落とされたりする。そんな状況に肝を冷やしていたら、フィジカル的にも痛めつけられてしまうあたり容赦がない。

 バンドで歌詞を書いていることもあり、瞬間最大風速は本当にハンパない。私たちのイメージの逆をついて、ハッとさせてくる。

残念ながら今現在、バンドをやっていて最も手応えを感じるのは、ギターの弦が切れた瞬間だ。不意に加わった力が、張り詰めたものを断ち切って確かな感触を手の中に残す。

ライブハウスでもスタジオでも、どうしたって得られなかった達成感が、アルバイト先のスーパーではタイムカードを差し込むだけで簡単に得られた。ジッ、というあの小さな音に、まるで自分が認められているような気がした。

 全体に性や暴力の描写の分量が相当多い。描いているのはバンドマンだが、「クリープハイプ」のパブリックイメージからはかけ離れたものに映る。ゆえに音楽では表現できない、小説だからこそできる何かを追い求めていることが伝わってきた。特に終盤にかけての展開における、みっともなさやグロテスクさは、いい意味での下世話さに惹きつけられてページをめくる手が止まらなかった。このむちゃくちゃっぷりは小説家としての出自を含め、又吉氏の『火花』を彷彿するのだが、いずれの作品とも芸人、バンドマンが書くだろうと、大衆が想像する日常系っぽい予定調和な展開で絶対に終わらない。そんな文学に対する気概を感じ取ったのであった。

2024年12月8日日曜日

モールの想像力: ショッピングモールはユートピアか

モールの想像力: ショッピングモールはユートピアか/大山顕

 ジュンク堂の書店員が選ぶノンフィクション大賞2024ノミネート作品は、何かノンフィクションを読みたいときに参考になる。その中でタイトルを見て一番惹かれたので読んだ。ここ1、2年で最も訪れている場所がショッピングモールなのだが、本著のモールに対する解像度の高さは想像もしない視点の連続で知的好奇心を大いに刺激された。均一化の文脈で語られがちなモールは、そのフェーズを終えて新たな存在へと変貌している、そんな貴重な瞬間を見ていることに気付かされる一冊だった。

日本橋の高島屋で開催された「モールの想像力」という展示会を書籍化したものになっており、著者の文章だけではなく、漫画や対談なども含まれており、まさしく展示会を擬似体験できるような構成が興味深い。冒頭にある論考が掴みとして抜群で、モールの歴史をおさらいしながら、古今東西のモールを舞台にしたカルチャーを膨大に引用し、モールの存在を立体的に描き出しており、その視点の新鮮さに何度も唸った。個人店で構成されていた商店街を駆逐した悪役、資本主義の象徴としてモールが語られる場面が多いが、車社会の到来による社会構造の変化に伴った人間同士のコミュニケーションを活発化させるための施策、つまりは都市論としてモールを捉える視座が必要なことに気付かされた。ただ、ここでいうコミニュケーションはやりとりを含むウェットなものというより、人がたくさんいる環境、すれ違うレベルの薄いコミニュケーション、つまりは公共であり、ストリート(商店街)を再現するものである、という一連の論考が見事すぎた。

ヒップホップ好きとしてMall Boyzのことはやはり外せない。本著内でももちろん言及されている。ヒップホップにおいて、フッドをレペゼンすることは重要な価値観、美学であるわけだが、Tohjiは特定の街ではなく、モールという建造物、概念をレペゼンすることで世界各地にいるモールっ子たちを夢中にさせている。今の10〜30代前半くらいまでの人たちにとっては、モールはノスタルジーの対象であり、それより上の世代が商店街に対する抱く気持ちと同じ感情を抱いているという指摘は驚いた。そして以下ラインに象徴されるように、均一化しているからこそ、場所を問わずに連帯できる、コードカルチャーとしてのヒップホップ的価値観に改め気付かされた。

同じだけど、違う、違うけど、同じっていうすごさ。その機微は彼らにしかわからない。他人はあとからしか発見できない。

後半には漫画や対談が載っており、対談が特に興味深かった。既存のモール論がいかに古びたもので、時代が進んできているのかよくわかる。著者と東浩紀の対談は鋭い視点の連発で唸りまくり。東氏は「幻想」と呼んでいたが、「理想」をみんなで共有することの公共性が失われて、「現実」という名のバックヤードばかりが跋扈する世の中が豊かになるわけがないという論点は、ここ数年感じていたことだった。また、郊外の象徴であるモールが、近年は都心部にも侵入してきており、特に渋谷の再開発をめぐる議論は、渋谷へ行くたびに感じていた違和感が見事に言語化されていた。2016年にリリースされた著者と東浩紀による新書があるらしいので、そちらを次は読みたい。

2024年12月7日土曜日

RAPHOUSE Japan


 韓国のヒップホップシーンの一種の登竜門的な役割を果たしているRAPHOUSEの日本版が開催されるということで渋谷のO-westまで見に行ってきた。韓国のラッパーによるショーケースは近年日本で増えつつあるものの、深夜帯だったりして見に行けないこともある中、デイタイムで一種のフェス的にいろんなラッパーが見れるRAPHOUSEのようなフォーマットは大変助かる。なので、継続して開催してほしい。

 今回は日本開催ということで日本サイドのラッパーも合わせて参加、計6組のライブで構成されていた。先に日本サイドの話をすれば、Rude-α、チプルソ、LIBROが出演しており、こんな独特の並びで見れることはなかなかない。三人ともそれぞれのベクトルでライブ巧者であり、さらに共通点を挙げるとすれば、ラップのグルーヴが挙げられるだろう。音楽的な成分が高いほうが、言語の壁を超える可能性が高いと考えれば、この人選に納得感はある気もする。

 なかでもチプルソのライブは今年見たショーケースのレベルとしては最高クラスだった。この日の客層からして自分のことを知っている人が少ないことを利用し、冒頭いきなり客席からラップを始めたり。”このグルーヴを捕まえて それがすべてさ”という七尾旅人、やけのはらによる「Rollin’ Rollin’」を引用したり。バブルソやThe Clap Brothersとしてのリリースはチェックしていたが、それらがライブで表現されるときのフィジカル性が異様に高くて魅了された。ヒット曲がなくても客をロックできるラッパーの底力をみた。むかし、NOONでMPC1000とアコギでライブしていた頃から見ているので隔世の感があった。

 前置きが長くなったが、この日の目当ては韓国サイドのラッパーである。出演者はSkinny Brown, Changmo, The Quiett。Qが運営するAmbition musik, Daytona Entertainmentから、それぞれメインどころを持ってきており、日本市場を真面目に狙っていることが伺える。

 Skinny Brownはまさに今どきのラッパーという感じ。正直そこまで熱心には聞いていなかったものの、素晴らしいメロディメーカーなので、曲を聞いて「おーこれもか!」と思うことが多かった。Changmoはアルバムタイトルにもあるとおり、完全にロックスターモード。前回出演していたGo Aheadzの方がパフォーマンスは安定していたように感じたが、今回は会場がコンパクトなこともあり、とにかくバイブス、熱量の高さが印象的だった。そして、この日一番楽しみにしていたThe Quiett は安定感抜群のこれぞベテラン…!というライブで一番ブチ上がった。Illionare Records時代の曲から最新アルバムの曲までバラエティに富んだ選曲でさすがとしかいいようがない仕上がり。音源通りの声がラップとして生で聞ける喜びを久しぶりに味わった。こんだけ現役感たっぷりでライブもやりつつレーベル運営、ライブ企画までやって、後進の育成に励んでいる姿を見ると、ヒップホップアクティビストという言葉は彼のような存在を言うのだろう。

 今回はがっつり身内編成でのライブだったが、次回開催されるメンツのようなローカル度の高いメンバーで来日してほしい。すでにSkinny Brown、Rude-αで曲を作っていたが、RAPHOUSE起点で日韓のラッパー同士のコミュニケーションが進んでいったりすれば、アジアのヒップホップの新たな震源地になるかもしれない。

2024年12月6日金曜日

ぼくにはこれしかなかった。

ぼくにはこれしかなかった。/ 早坂大輔

 先日サルベージして積んでいたのだが、お店の話を読むなら今だと思って読んだ。脱サラして本屋を開業し、どのように経営しているか、情感たっぷりに書かれておりオモシロかった。BOOKNERDは地方独立系の本屋では名の知られた存在で、先日の文学フリマも大盛況だった模様。そこに到達するまでの苦難の道のりと、率直な心情の吐露に胸を打たれた。たまに友人や家族と「カフェとか本屋でもやろかな〜」とサラリーマン生活からの逃避として冗談混じりに話したりするが、そんな甘い気持ちを律せられるものであった。

 著者の人生をなぞるように振り返りながら、本屋を岩手県盛岡市で開業、経営する過程が描かれている。成果至上主義の営業マン生活に疲弊し、人生に意味を見出せなくなり、未経験で本屋を開業する。どこにでもありそうなストーリーではある。しかし、巻末の選書リストからもわかるように、本に対する並々ならぬ愛情がどの章からも漂っている点がその辺の本屋と違う点だ。特に街に本屋があることがいかに豊かなことなのか、言葉を尽くして説明されており、現在住んでいる街に本屋がないことを寂しく感じた。

 理想と現実のギャップに苦しみながら、斜陽産業である地方書店を生業にする方法を必死にもがきながら追い求める、その様はプロジェクトXさながらのドキュメンタリーである。本屋の前に別の事業を一度起業したエピソードが載っているのだが、世知辛い世の中を具現化したような展開で胸が苦しくなった。その経験があったからこそ、魂を売り渡さないビジネスをやり抜く覚悟が伴ったというのは、他山の石として大いに参考になる話だ。また、街の商圏だけではやっていけない現状を踏まえて、マーチ、イベント、出版など、本屋としての矜持を譲らないまま、お店を継続するためのエコシステムを実践している。ネットに普及により小売業における商圏の概念は薄れつつあるが、どちらも無下にしないスタイルは持続可能性を感じさせるものだった。とはいえ同じようにやろうとしても、くどうれいんのような才能を発掘できる可能性は限りなく低いような気もするが。

 全体にエンパワメント性に溢れており、好きなことを仕事にすることのオモシロさが十分伝わってくる。自分の好きなことに人生の大半の時間を投入できる喜び、それで何かをなし得たときの達成感、誰にも指示されない自由な生き方。これらを会得できるまでの苦労も当然あるが、その先に待っている有意義な人生というのはサラリーマンには眩しく見える。「若い頃に読んでいれば、自分の好きなことを仕事にしたかもな〜」と、この手の本を読むといつも考えるのだが、著者が本屋を始めた年齢は今の自分よりも上だと知ってぐうの音も出ない。結局は「やるか、やらないか」の二択で、そこを選びきれないのは自分の覚悟の問題なのだと思い知るのであった。

ぼくという個人の誠実さや正直さを売る仕事。そんな仕事をするためにはまずこころから自分が売るものを愛さなければならない。少しでもその売り物を愛せないのならば、ぼくはまたそこから去ることになるだろう。

あるかないかわからないものをむりやり目の前に生み出そうとするのではなく、自分の本分をわきまえ、突き詰めることだ。

側から見栄え良く、きれいに楽ちんそうに見えることはすべてまぼろしで、みな水面下で必死に水をかき、なんとか浮かんでいたというわけだ。

2024年12月5日木曜日

夏の感じ、角の店

夏の感じ、角の店/高橋 翼

 文学フリマで植本さんの隣のブースで出展されていた高橋さんのエッセイ。代田橋で土日だけオープンしている予感というお店の営業日誌という形の日記でオモシロかった。文学フリマの隙間時間や帰り道でお話しさせてもらったことも影響しているだろうが、高橋さんの人生観やポリシーが伝わってきた。

 以前から植本さんの日記に登場していて、その存在を知っている方もいるかもしれない。特に今回リリースされたそれはただの偶然において、現在の植本さんにとって大きな存在であることは推し量られたわけだが、そんな彼がどんなことを考え、日常を営んでいるのか、土日だけのお店の日誌とはいえひしひし伝わってくる。生活描写の粒度が細かく、都市で生活する男性の姿がくっきりと浮かび上がっていた。なかでも食事のシーンが好きで、サンドウィッチをこんなにカジュアルに家で食べることがないので新鮮だった。

 当たり前だが、お店を開いていると、さまざまな人がやってくる。そこでの悲喜交々が忌憚なく綴られている点にグッときた。悲しいことがあったあとに、喜ばしいことがあると自分ごとのように嬉しくなる。これは日記という時間軸があるフォーマットならではの心の動きと言える。また、書くことへの逡巡もまっすぐ書かれており、特に「書くことで明らかになる不在」という論点は哲学のようで興味深かった。個人的には「行けたら行く」で心が摩耗したというエピソードは、出不精でそのフレーズを連発する人生を歩んできた身としては本当に耳が痛かった…

 日常の様子だけではなく、お店や自身のブランドを運営していくにあたっての矜持のようなものがたくさん書かれており、そのどれもが心に刺さった。それは私自身がZINEを作ったことが大きく影響している。何かを作り、売ること、そこには自意識がそこかしこに飛び交う。少しでも他人が介在すれば、自分の責任が分散していく部分もあるが、基本的にどこまで何をやるかのライン引きをすべて自分でやらなければならない。「自分の好きなことだから、他人の関心は気にしない」とかっこつけるのは簡単だが、実際に自分のコンテンツを持てば、そんな強がりばかりも言ってられず、誰かに関心を持って欲しくなるのは自明の理だ。そんなとき「誰でも、わかりやすく、キャッチーに」と割り切ったり、かっこつけてみたり、そこで何の自意識も抵抗もなければよいが、自分の初期衝動や思いが乖離してしまう可能性を孕んでいる。お店を経営しながら、どちらかに振り切れるのではなく、その狭間で揺れ動く心の機微がお店の様子と共に丁寧に描かれており、思考と実践がシームレスに繋がっているからこその説得力があった。

 日記の合間にある旅行記もオモシロかった。青春18きっぷで場当たり的に移動、宿泊を繰り返す旅行の記録となっている。ここで発揮されるのは、歳を重ねた大人だからこそ持っている街に対する高い解像度だ。どこか小説らしさを感じる文体で、何気なくそこにあるものに愛を持ったり、感動したりすることの尊さがたくさん描かれている。旅する中で効率とは無縁の偶然を大切にする姿は、本著を読み終えて感じる高橋さんそのものだった。「行けたら行く」ではなく、お店に行ってみたい。

2024年12月4日水曜日

乱読のセレンディピティ

 

乱読のセレンディピティ/外山滋比古

 『乱読の地層』というタイトルを思いついたときに、類似の書名がないかとGoogleで検索してヒットしたので読んだ。『思考の整理学』というクラシックを残した著者による読書スタイルのススメといった内容で興味深かった。

 全体に説教じみた文体だなと読み始めてすぐに感じたのだが、本著を刊行した段階で91歳ということで納得。90歳超えて本を書いているあたりに著者の並々ならぬバイタリティを感じざるを得ない。読書は高尚なものというイメージが先行しているが、そんな大したものではない。もっと気軽に適当に読めばいいという主張がメインとなっていた。冒頭で「書評なんて意味ない!」と喝破しており、書評ばかりしている立場からすると面食らった。後半で忘却が大切と主張しているのだが、私はレビューすることで忘却を促している側面があり、その点では著者と同意見であった。

 乱読を推奨しつつ「読んでばかりでは知識バカになる。もっと思考すべき」という逆説的な主張もあった。著者はその点を本著で実践しており、自分の人生経験に基づいて思考した見立てを藪から棒よろしく突き出してくる。知識や事実が偏重されている最近の社会では、この手の世迷言を聞かなくなっているので逆に新鮮だった。

 そして肝心のタイトルについては、まさに自分が考えていたことがそのまま書かれていた。特定のジャンルばかり読んだり、一冊を精読するのではなく、本がこれだけたくさんある状況では、とにかくたくさん読めと。そこから生まれるセレンディピティこそが読書の財産であろうという話は至極納得した。ジャンルを色々読むことは意識しているものの、今の時代は「ハズレ」を回避する術がいくらでもあり、正直自分自身もノリで読むことはほとんどない。しかし著者は「失敗を恐れるな!」とこれまた喝破してくる。みんなのお墨付きを精読するのではなく、パーソナルな読書体験を作っていく意味でも、これからも乱読道を突き進みたい。

2024年12月3日火曜日

文学フリマに出てみて


 文学フリマに植本さんの横で売らせてもらう、おんぶに抱っこ形式で出てきました。前回、お客さんとして行ってなんとなく雰囲気をわかったつもりでいましたが、出る側と買う側は雲泥の差がありました。植本さんの本が文字通り飛ぶように売れていく様を間近で見させてもらったのはとても良い経験でした。

 単純な本の売り買いを超えた、感情のやりとりみたいなものが発生していて、書き手と読み手がダイレクトに繋がることができる、それはネットにはないダイナミクスでした。それゆえに自分のZINEが見ず知らずの方に購入いただけるのは本当に嬉しかったです。ご購入いただいた方、改めてありがとうございます。そして、こんな機会をいただいた植本さんにも改めて大感謝。

 サラリーマンとして普段働く中で、自分の時間を切り売りしてお金を稼ぐ身からすると、成果物単位でお金を稼ぐことの大変さを死ぬほど実感した次第です。クリエイター然り小売りの方も含め、自分がいかに世間知らずなのかを知るいいきっかけになりました。自分のおごりを戒めつつ、粛々と今後も売っていきたいと思います。ということで引き続きよろしくお願いします。

乱読の地層 エッセイ/ノンフィクション書評集

2024年12月2日月曜日

ぼくらの「アメリカ論」

ぼくらの「アメリカ論」/青木真兵、光嶋裕介、白岩英樹 

 先日のアメリカ大統領選でトランプが当選して、アメリカに対する興味が増す中で、日本人視点のものが読みたくて読んだ。思想家、建築家、文学者という、それぞれ異なる立場からのアメリカに対するパースペクティブがクロスしていく様が興味深かった。

 もともとはnoteで連載されていたものが書籍化された一冊。「アメリカ」という巨大なテーマ設定であるが、それゆえに色んな角度からの語りが可能となっていた。近視眼的な視点ではなく、歴史を踏まえた大局からの論考が多いのも特徴的だ。最近の状況を踏まえると、ついついトランプ以降のアメリカにフォーカスしてしまいがちだけども、現在に至るまでの背景をタイトルどおり各人の視点で紐解いている点が興味深かった。

 専門性がリレーエッセイという形でクロスしていく点が興味深い。フォーマット自体には馴染みがなかったが、ヒップホップのサンプリングを彷彿とさせるスタイルでオモシロかった。建築、文学、歴史といった各自の専門性の中で、各自が自身にない要素を踏まえて自分の語りを構築しているので、当人たちのゾーンが拡張され、新たな視点を生み出すきっかけになっていた。

 わかりやすいのは、文学者である白岩氏の文章におけるアナロジーの数々だろう。文学者ということもあり素敵な表現がたくさんあった。文学の懐の深さを感じたし、論考、エッセイ、文学のトリプルハイブリッドは読んだことがないスタイルだった。

 光嶋氏のチャプターが個人的に一番興味深かった。建築に関する論考や思想めいたものに触れる機会がない中で、本人を含めたさまざまな建築家たちのアプローチを知り、知的好奇心が大いに刺激された。たとえば、今では当たり前になったオフィスビルが街を覆い尽くす様について、資本主義だけではなく建築の歴史、技術から摩天楼を見つめ直す視点はかなり新鮮だった。建築関連の書籍ガイド本としても抜群で読みたい本がたくさんできた。

 青木氏は歴史を踏まえつつ「アメリカ的なもの」が社会や人々の生活の中でどこまで侵食しているかについて多く論考されている。日本が親米だからという背景もさることながら、21世紀になって加速したグローバリズムは米国化といっても過言ではないことから、「アメリカ的なもの」が想像以上に社会全体を覆っていることに気付かされる。日本でいえば沖縄が最たるもので、青木氏の語る沖縄観は自分が初めて沖縄を訪れたときの感情と似ておりシンパシーを抱いた。また、西欧諸国と比べた際のアメリカの歴史の短さを指摘しつつ、第二次大戦後の急速かつ膨大、すべてにおいて過剰である「アメリカ」の乱暴さを解きほぐしてくれており興味深かった。

 アメリカは二大政党制ということもあり、大きく見れば二極による押し合い引き合いが続いていた中、トランプの登場以降は、せめぎ合いが起こる接点そのものが失われた印象を持つ。そんな分断がデフォルトになった社会における、他者をリスペクトした上での対話の重要性に至極納得した。先日読んだ『社会はなぜ左と右にわかれるのか』で、人が意見を変える場面は対話する他ない、という指摘を想起した。今回の大統領選のタイミングで、タナハシ・コーツによるオバマ本が出ていることを知ったので、次はそれを読みたい。