2025年4月9日水曜日

完本 1976年のアントニオ猪木

完本 1976年のアントニオ猪木/柳澤健

 本著をもって「〇〇年の〇〇」というフォーマットを生み出した著者によるアントニオ猪木の評伝。ずっと気になっていた作家で、先日読んだ水道橋博士の書評集『本業2024』で多数の著作が紹介されていたことをきっかけに読んだ。プロレス好きだった幼少期、父が録画していた『ワールドプロレスリング』を放課後に毎週のように見ていた身としては、自分のプロレス観を更新するような、極上の調査ドキュメンタリーだった。

 1976年に猪木は異種格闘技戦として三試合戦っており、そこにフォーカスしながら「アントニオ猪木」という存在を描いている。猪木に対して持つイメージは、プロレスや格闘技に対する見識の有無で大きく変わってくるだろう。何も知らない人からすれば「バラエティでよくモノマネされるプロレスラー」「ダーッといいながらビンタする人」くらいだろうか。しかし、2000年代までのプロレスおよび総合格闘技黎明期における猪木の存在は“神”と呼んでも過言ではないほど絶対的だった。子どもの頃は、VTRで見る昔の猪木、たまに現場に降臨するだけの猪木の凄さが理解できていなかったのだが、本著を読むと、猪木がいかに超規格外の人間であり、泥水をすすりながら這い上がってきた人であるかをようやく理解することができた。

 そもそも、なぜ猪木が「異種格闘技戦」に挑まなければならなかったのか、その背景も驚きの連続だった。そこに立ちはだかっていたのは、ライバル・ジャイアント馬場である。馬場は体格に恵まれていただけでなく、NWAというプロレス団体の権威を巧みに利用するビジネスマンでもあり、猪木をプロレス界から締め出そうとしていた。それに抗う唯一の手段が、本当の強さを証明する「リアルファイト」での勝利という展開は、極めてヒップホップ的だ。私が当時、ノアや全日ではなく、新日本プロレスが一番好きだった理由も「Keep it real」をどこまでも追い求める姿勢に共鳴していたからかもしれない。

 1976年に行われた異種格闘技戦のうち、最も有名な試合はモハメド・アリとの戦いだろう。ボクシングの現役チャンピオンとプロレスラーがショーではなく、ガチで試合をする。今の時代には到底実現できないだろう超弩級のビッグマッチの裏側を精緻に描いている。今でもストライカーちグラップラーの膠着状態は「猪木-アリ状態」と呼ばれており、この試合は現在の総合格闘技までに繋がる重要な試合である。映像で断片的に見たことがあったが、その解像度が十倍くらい高まって相当オモシロかった。特にアリ側の取材が充実しており、彼のトラッシュトークが実はプロレス由来であったこと、また来日してからブックのないリアルファイトだと知らされたが逃げなかったという逸話には胸を打たれた。やはりアリは偉大なファイターなのであった。

 残りの異種格闘技戦についても濃密に描かれている。猪木が韓国でリアルファイトをけしかける横暴な振る舞いをしていたなんて知らなかったし、さまざまな相手に対して、リアルファイトを仕掛けてきた猪木が、逆にパキスタンでハメられてリアルファイトをけしかけられる展開は、まさしく因果応報である。そして、そこで躊躇なく勝ってしまうのも猪木らしいのだが…

 本著を読むまでは猪木に対して一種の幻想を抱いていたのだが、読み進める中で瓦解していった。掴みどころのなさは意図的に作られたもので、合法と不法、リアルとフェイク(インチキ)の境界を極めて曖昧にしてしまう「天性のプロレス能力をもった男」といえば聞こえはいいが、ときとして、その振る舞いは自己中心的でセコくもある。特に後半にかけて新日本プロレスを私物化していく流れは、ちょうど自分が新日本プロレスを見ていた時期に重なるので、子どもの頃には理解できなかった数々の出来事(武藤の全日移籍とか)が色々と腑に落ちたのであった。とはいえ、その傍若無人な振る舞いの数々が、歴史を動かす原動力であることは間違いなく、日本が今なおプロレス、MMAの格闘技大国となっている現状は、猪木なしには考えられない。ゆえに多くの人が神格化するのだろう。

 終盤にはUWFから総合格闘技に繋がる流れまで描かれている。その流れを踏まえて猪木-アリ戦について「双方の技術不足であった」と分析する視点も新鮮だった。また、現在のRIZINまでに繋がる日本の総合格闘技の勃興については『2000年の桜庭和志』『1984年のUWF』でより詳細を知ることができると思うので今から読むのが楽しみだ。

 本著を特別な一冊たらしめているのは、著者の圧倒的な構成力と表現力である。豊富な情報をドラマとして語る構成の妙、そして何より言葉の力がすごい。一番打ち震えたラインを引用しておく。レスト・イン・ピース、アントニオ猪木。

ふたりの動きが止まった。表情は見えない。音も聞こえない。見えるのは猪木のブリッジが作り出す美しいフォルムだけだ。「建築とは凍れる音楽である」と言ったフリードリッヒ・シュレーゲルに倣えば、この時のジャーマン・スープレックス・ホールドは、正に凍れるプロレスであった。

2025年4月6日日曜日

消息

消息/小袋成彬

 今年初めにリリースされたアルバムの革新性に驚いたのも束の間、さいたま市長選への立候補と、著者には立て続けに驚かされている。そんな著者の初めての書籍ということで読んだ。これまでSNS上でたびたび物議をかもす言動が垣間見えていた中で、まとまったエッセイという形で彼の思考に触れたことで、今までと印象は変わった。

 2019〜2024年にQuick Japanで連載していたエッセイをまとめた一冊。コロナ禍前後、ロンドン移住後という背景もあり、内省的な視点と、対外的に見た日本、ワールドワイドな視点の両軸から物事を考えている様がうかがえる。とりわけ後者は「海外移住によるナショナリズムの再発見」というありがちな側面が強いわけだが、著者の場合、本業の音楽で見事に昇華している点が凡百の移住者と異なる。新作『ZATTO』は、近年世界的なトレンドになっている往年の日本のソウルやシティポップをリバースエンジニアリングするかのように、ロンドンのスタジオミュージシャンを起用し、2020年代のサウンドとして生音オンリーで作り上げたものだ。「日本を対外的な視点で捉えて音楽をつくる」という観点で、これだけかっこいいものは今後なかなか出てこないだろう。本著は、その背景にある思想や視点を知る上でも重要な一冊だと感じた。

 収録されたエッセイの中には、noteに掲載され話題を呼んだ「新時代」も含まれており、基本的にこのバイブスが本著を貫いている。この記事について、エイジズムで分断を煽るものとして批判的な気持ちを抱く人もいるかもしれない。しかし、個人的には納得する部分があり、今回のさいたま市長選出馬にあたってのマニフェストは、さいたま市民としては相当フィールする部分があった。現状の政治において、若年層に向けた施策を謳いながらも、シルバー民主主義が根深く、リソースの配分や施策の優先順位に絶望的な気持ちになることが少なくない。それはさいたま市に限らず、日本各地の自治体に共通する課題だろう。ゆえに、今回の市長選がひとつの試金石になることを期待している。

 文体は、まえがき、あとがき以外は「ですます体」で書かれているので、全体的に丁寧でややかしこまった印象を受ける。内容的にもリベラルな視点が貫かれており、過去のSNSでの印象とはギャップを感じる人も多いだろう。その「ですます体」で綺麗に均された文章の息抜きとして、イラスト、写真、本人の手書きのコメントが掲載されている。そのうち各年の主要な出来事について、手書きでコメントが書かれているのだが、その内容と本文のギャップに戸惑った。

 たとえば「イギリス政府のコロナ対応は日本政府に比べて迅速で的確だったと思う。人はたくさん亡くなったけど」と書かれているのだが、「人がたくさん亡くなったのに何が的確なのか?」と疑問を抱かざるを得ない。ウィル・スミスがグラミー賞で平手打ちした件について「俺はかっこいいと思った」と書かれると、繰り返し唱えている非暴力主義と整合性がないように映る。「ハラキリ」というエッセイでは、日本の死刑制度から謝罪カルチャーまでを語っているわけだが、その挿絵として首が飛んだ侍の絵が描かれている。こういった言語化しづらい倫理観の危うさと、ある種の「正しさ」を繰り返し主張する姿、一体どちらが「本当の著者」なのかは正直わからない。そもそもアーティストに対して「正しさ」を要求すること自体、お門違いであり、矛盾を内包しているからこそ惹かれるという側面もある。しかし、今の時代に政治家という公の立場を志すのであれば、言葉の整合性や説明責任は無視できない要素だ。口では博愛主義的なことをいくらでも言えるかもしれないが、少しのほころびにいつか足元をすくわれてしまう可能性があるからだ。

 ここまで批判めいたことを書いたが、あとがきにおける「日本と海外のギャップ」に関する考察は興味深かった。文化的な違いを乗り越え、日本がポジティブな方向にむかってほしい気持ちは同じなので、今回の選挙選を通じて、これまでにない景色を見せてくれることを期待したい。

2025年4月3日木曜日

これはわたしの物語 橙書店の本棚から

これはわたしの物語 橙書店の本棚から/田尻久子

 書評のZINEを自分で作ったわけだが、作るまで書評集をまともに読んだことがなかった。そんな中で、友人からおすすめしてもらったので読んだ。本屋を経営し、文芸誌を自身で発行する著者による書評集で、読みたくなる本にたくさん出会えて良かった。

 二部構成になっており、第一部は読書全般にまつわること、第二部は書評集となっている。第一部では本、読書にまつわる考えが書かれており興味深かった。斜陽産業であることが取り沙汰されてはや幾年という感じの本屋および出版ビジネスだが、インターネットの情報がフロー型かつその信頼性が大きく揺らぐ中で、本が果たす役割が大きくなる気もしている。著者のように本に対して、真摯に向き合っている姿勢を見ると「街の本屋」の存在の大きさを噛み締めるのであった。

 メインは第二部の書評である。小説、エッセイなどジャンルを問わず掲載されていた。前述のとおり、自分で作っておいてアレだが、書評集はあまり読んだことがない。わざわざ書評集で本を探しに行かずとも、読みたい本が常にスタックしている状況が続いているからだ。しかし、本著を読んで気付いたのは、本は世の中に膨大に存在し、自分の情報収集範囲からこぼれてしまう、オモシロそうな本が山ほどあるということだった。AIを含めてレコメンド精度はこれからも高まっていくだろうが、セレンディピティをもたらす書評集の可能性を改めて感じた。「0→1で、ものを生み出す人が一番エラい」という風潮は根強く存在するが、膨大に存在するものをキュレートする意味やオモシロさ、またその作品に対する解釈を深めることの豊かさを味わうことができた。

 紹介されている本の中には、読んだことのある本もあったのだが、自分で書いた感想と著者の書評を見比べることが楽しかった。当たり前だが、本はコンテンツとして長いものなので、その本の中で興味深い(あるいはつまらない)と感じる箇所は千差万別である。その違いを見ることで、本が多角的な存在として浮かび上がってくる。書評集を読むことは、今流行りの読書会を一人で行うような側面もあることに気づいた。次は『橙書店にて』を読みたい。

2025年4月1日火曜日

ボブ・グリーンの父親日記

ボブ・グリーンの父親日記/ボブ・グリーン、西野薫

 パパは神様じゃないのあとがきで本著が取り上げられていたので読んだ。1980年代のアメリカでにおける育児の様子が伝わってきて興味深かった。名コラムニストということもあり、着眼点と文章がいずれもピカイチで、男性による育児エッセイとしてはベスト of ベスト級だった。

 序文で本著を執筆するに至った理由を説明してくれており、以下の課題認識は、約三十年経った今でも変わらないと言えるだろう。育児本は世の中に溢れているが、育児する当事者の有り様や心境変化を描いたものは少ない。自分が探していたものが、1980年代のアメリカの本であるということは意外だった。

今まで二人で暮らしていた夫婦が急に三人家族になった時、何が起こるのかを、当事者の気持ちに焦点を合わせてとりあげた本は、どこにも見当たらなかった。

 著者は新聞のコラムニストとして名を馳せた書き手らしい。脂の乗ったキャリアの中で、子どもが誕生し、彼がいかに育児と向き合ってきたか、誕生から一歳の誕生日まで365日分の日記として描かれている。80年代の作品なので、アメリカでも妻が仕事を辞めて育児に専念している。日本であれば、女性が育児に全コミットすることが当然だったかもしれないが、当時のアメリカは過渡期のようだ。妻が自分一人で育児する辛さをぶちまけるシーンもあるし、著者自身が主体的に育児に関わろうとする意識が日記のそこかしこに表れている。仕事が忙しい中でも、どうにかして子どもと過ごす時間を作り、そこで目撃した子どもの挙動と自分の感情の機微を逃すまいとする姿勢にジャーナリスト魂を垣間見た。

 育児の主体は妻であり、著者は仕事のかたわらサポートする立場ゆえに状況がわかっていないことも多い。妻から幾多の注意を受けている様を、そのまま描いている点が真摯だ。日記というフォーマットゆえ、かっこつけることなく「記録」することに重きを置いているからだろう。男性らしさを感じた点は、これだけ献身的に子どもの生活を夫婦二人で支えているが、子どもが大人になった頃には、そのサポートについて一切覚えていないことを繰り返し心配している点だ。費用対効果的な思考であるが、こと育児においてはインプットに応じたアウトプットが出てこないケースが往々にしてあり、そこに育児の醍醐味と辛さの相反する要素が存在する。育児に携わる中で、著者が徐々にそのことに気づいていき、後半に出てくる以下のラインはグッときた。特に前者はトイトレ真っ最中の自分の心に深く刺さった。

赤ん坊は確実に自分のペースで進歩していく、ということだろう。それより速くもなく、遅くもない。僕たちはせかせるためにここにいるのではなく、耳を傾け、やっと言葉が出た時に認めてやるためにここにいるのだ。

今が始まりなのだ。他の人々に対する態度が形作られる始まりなのだ。白人の子と黒人の子の絵を見ても、アマンダは今は何とも思わないかもしれない。だがやがてこういう絵が意味をもってくるはずだ。そのうちいつか、何かがカチリと彼女の中に入りこむだろう。アマンダは他の人々に対し僕たちの世代が持っていないものを前提にして、人生をスタートするのだ。

 TV番組のジャーナリストとしても活動しており、いろんな場所へ出張するのだが、そこでも子どものことを考えてしまう話が繰り返し登場する。ステレオタイプとしての「娘を溺愛する父親」が苦手なのだが、著者の場合はその愛情表現がさっぱりしているからかヤダ味がない。それはおべんちゃらではなく、日々の生活における実践に基づいて、著者がその理由を紐解いているからなのかもしれない。

 私の子どもは三歳で、すでに乳幼児期を脱したところだが、本著を読んでいると、産まれてからの一年が走馬灯のように頭を駆け巡り、なんでもないシーンで急に涙が込み上げてきた。それはひとえに彼の筆力に他ならない。子どもの状況描写と著者の心情、思考のバランスが見事で、他人の子にも関わらず、子どもが赤ちゃんだった、かけがいのない時間を追体験することができるのだ。楽しいこと、悲しいことが渾然一体となった、生命力に満ち溢れているからこそのアップダウン。戻りたいような、戻りたくないような、そんなアンビバレントな気持ちになった。男性の育児参加が社会的に促されている今こそ復刊してほしい。

2025年3月22日土曜日

ニーニとネーネ/好きな人に会う/喜びも悲しみもある今日

 ZINEメンターの植本さんの新作各種がリリースされたので読んだ。いずれも印刷やホッチキス止めなどを自分の手で行う家内工業スタイルのZINEで、ウェブショップで購入可能となっている。

ニーニとネーネ vol.1&2

 飼猫であるニーニ、ネーネの写真集+エッセイ。最初にエッセイを読まずに写真を見たのだが、その存在感に目を奪われた。片目を失い、腫れている中でも懸命に生きようとする猫の生命力が植本さんのカメラで克明に切り取られていた。フィルムカメラの質感がもたらす刹那性もあいまってかなりグッときた。その後、エッセイを読むと写真に関する植本さんの考えが書かれており、文章でここまではっきりと写真に対する考えを読むことが初めてだったので新鮮だった。

 闘病中のニーニだけではなく、ネーネも謎の絶食状態に陥り入院したらしく、猫がいかにセンシティブな生き物なのか思い知らされる。動物と暮らした経験がないが、このように動物が闘病する様を見て、読むと、本当に人間さながらだ。公園に行くと、犬を過剰に人間のように扱っている場面に遭遇して、以前は面喰らっていたが、今となってはそれもわかるようになった。愛玩動物はただ一緒に生きているだけではない、本当の意味で家族なのだなと思う。

好きな人に会う


 阿佐ヶ谷のISB booksで開催された380円の作品販売会「38商店」で売られていたもの。特定の対象に関する植本さんの雑感が、伏せ字込みで綴られている。以前にZINE FESTで一緒に出店させていただいた際に、この話は一度聞いていたが、文章になると起承転結がはっきりしてオモシロかった。自分が信用できるものだけと関わる世界線と、そうは問屋が卸さない現実に逡巡する様は今の資本主義社会に生きる誰しもが抱えるモヤモヤだろう。そんなアンビバレントな気持ちが「避けているものの中で遭遇した好きなもの」という矛盾を通じて、最終的に何かを好きになる、ファンになることの意味に着地していた。憧れの対象に会ったときのリアクションというのは、非常に悩ましい。自意識が肥大している身なので、毎回立ち振る舞いに悩むが、最近は照れずにストレートに感情を伝えればいいかと思っている。

喜びも悲しみもある今日



 こちらは手書きの日記。二月のある日が描かれているのだが、これが今までと感触が異なる日記になっていて驚いた。一日だけ、ということもあってか、日常に対する解像度が相当高く、どこか小説を想起するような日記だった。

 前半のお子さんとの日常生活は、昔から日記を読んでいる身からすると、時間の経過を感じざるをえなかった。多くの「一子ウォッチャー」は、保育ママと同じような気持ちになるに違いない。

 後半では『好きな人にあう』に続いて、今の社会で生きる皆がなんとなく感じるモヤモヤについて書かれており、それが戦争との距離感だ。ロシア、ウクライナ間の戦争において、ドローンを用いた攻撃が行われており「人の命の重さとは?」と考える様が描かれている中で、「目の前の焼きりんごがいかに美味しいものなのか?」も同時に描かれている。これこそ人間だよなと心底思えた。言い方が難しいのだが、今の社会は「戦争が嫌だ」と「焼きりんごが美味しい」は両立しない、どちらか一方を選ばないといけない圧力を感じる場面が多い。自分がポッドキャストでだらだら話しているのは、すぐにまとめてわかりやすくパッケージしようとする空気から距離を置きたい気持ちが多分にある。だから、この非圧縮状態の日常描写の数々にとてもフィールしたのであった。

2025年3月19日水曜日

風景のほうが私を見ているのかもしれなかった

風景のほうが私を見ているのかもしれなかった/飴屋法水・岡田利規

 信頼のpalmbooks のサブレーベルとしてtiny palmbooksが立ち上がり、その第一弾として本著がリリースされたので読んだ。アーティストによる芸術論を久しぶりに読んだので、脳がスパークするかと思うほど、刺激的なやり取りに興奮した。それを支える「紙の本」としての造形も、palmbooks印であいかわらず素晴らしく、うっとりした。

 まず始めに造本について触れざるを得ないほど、今回は攻めた形の本となっている。縦開きかつ裏面に文字がないので、見た目はメモ帳そのもの。この造本の特徴が活きてきたのは、読み終えた後、改めて内容を見返すときだった。メモ帳のようにパラパラとめくる動作がとてもクセになる。断片的なメモのようなものではなく、書簡や対談といった文の連なりを、このような動作で探し、読むことのダイナミックさは唯一無二である。また、書簡が横書き、対談が縦書きとなっているのは、終盤にある飴屋氏による発言のインスパイアかと思われ、「読書は日々の営みである」というメッセージを受け取ったのであった。

 2010年に行われた往復書簡、2024年に行われたトークショー、その後に行われた追加の往復書簡の三部から構成されている。いずれのパートでも「演劇とは何か?」が主題となっており、抽象と具体を行き来するスリリングなやり取りが興味深い。役者と役はイコールではない、役者は役を投影するスクリーン、役者同士で生じたリアクションではなく、俳優から観客に向けてのリアクションのみがある、など演劇を見る上で楽しみが増えそうな複雑なレイヤーに関する議論が繰り広げられている。テーマは多岐に渡るのだが、往復書簡および対談というフォーマットゆえに語り口が平易なので二人の言葉がスルスル入ってきた。

 クリエイティビティのあり方について、言葉を尽くして話し合っているところにグッとくる。お互いを信頼し合っているからこそ、前提を色々すっ飛ばして、いきなり演劇や演技のプリミティブな要素について話されており、逆説的に門外漢でもとっつきやすいクリエイティビティ論となっている。

 タイトルにもなっている「風景」をめぐる議論が本作を貫くテーマだ。演出家と役者の関係が対等かどうか、飴屋氏は二者間の関係で捉えるのではなく、何か別の第三者との距離をもってして、演出家、役者の関係性が対等である、つまり、演出家、役者と第三者の距離は等しいと主張していた。そして、その第三者について岡田氏の劇中のセリフを参照して「風景」と呼んでいた。この考え方を踏まえると、以前に読んだ飴屋氏の小説『たんぱく質』に対する理解が進んだし、さらには岡田氏が対談で唱えていた『たんぱく質』における同心円のイメージにも納得した。また、岡田氏は「風景」を「神さま」という形でとらえており、無神論者だけども「神さま」を感じるのはどういうことなのか、一種の神学論のようなものが展開されており興味深かった。

 両者とも小説を書くので、小説と演劇の違いについても話されており、他者が必ず介在する演劇と、個人で完結する小説。その相似と相違についても話されていたので、二人が書いた小説を次は読みたい。(時間が許せば演劇も見たい…!)

2025年3月18日火曜日

戻れないけど、生きるのだ 男らしさのゆくえ

戻れないけど、生きるのだ 男らしさのゆくえ/清田隆之

 植本さんがおすすめしてくれていたので読んだ。古今東西のコンテンツをジェンダーの切り口で見つめ直していくエッセイ集で興味深かった。本、ドラマなどのガイドとしても参考になるし、既に見たり、読んだ作品は改めて著者の視点を意識してみたいと思わされた。

 本著はコンテンツを通じたジェンダー論がメインテーマにあるわけだが、なかでも文学、ドラマ批評が興味深く、特にそれがテーマとして前景化していない作品について、著者の見立てが発揮されていて読み応えがあった。自分では手に取らないだろうなと思う作品の数々も、ジェンダーという切り口によって見通すことのできる景色の広さに驚いた。

 古臭いジェンダー観を更新するようなコンテンツに感動する様を描きながら、その度に自戒している点が特徴的だ。それは日本社会で特権を持つ男性という属性を持ちながら、安易にフリーライドしてしまうことを避けるため。確かに、苦しみをもたらす社会構造の一端を担っている人間が横からやってきて「感動しました!」と無邪気に発言している危うさは著者が指摘する通りだろう。

 ただ「俺たち」という主語を用いて男性全体をいっしょくたに議論する点が、この手の本を読むときに毎回しっくりこない。「ジェンダー、フェミニズムに理解があるか/ないか」のゼロイチではなく、各人それぞれグラデーションがある中で、急に首根っこを掴まれて逐一確認されるような気持ちになるからだ。個人の体験や考えに終始しているだけでは社会が変わっていかないという認識はありつつ、個人から全体へ派生、言及していく難しさはジェンダー論においては常につきまとう。自分自身のジェンダー観は保守的ではないと思っているものの、他人から指摘されるとウッとなるし、逆に指摘する側も、保守的な場面が間違いなく存在する。このように誰もが完璧ではいられないことに著者は意識的であり、ヒット&アウェイで語っている姿勢が真摯に映った。

 後半にかけてはジェンダーから拡張していき、恥、生産性、家父長制、お悩み相談などより広いトピックが取り扱われており、著者の具体的な情報が詳らかにされていた。育児中の身としては、生産性と育児について言語化された内容に首がもげるほど頷いたのであった。常に最適化を追い求めて日々仕事を回しているわけだが、こと育児においてもついついその進め方を導入してしまう。結果的に目の前にいる生身の子どもと向き合っておらず、特定のタスクとして対処してしまっているケースはよくある。また、男性が「ケアの育児」ではなく「刺激の育児」に偏りがちという指摘も膝を打った。

 苦手ながらもジェンダー、フェミニズムの本を進んで読んでいる背景には、娘が誕生したことによって、どこか他人事だった性別格差が以前よりも自分の身に迫ってきたことも大きい。当然、自分と娘は別人格であるが、彼女のことを考えると、男性の特権性が少なからず見えてくる。なので、自分の子どもが少しでも生きやすい社会を目指したい気持ちがある。本著のタイトルに寄せれば「抽象的な今(自分)ではなく、具体的な未来(娘)に生きるのだ」とでも言えようか。先日見た映画『怪物』はそれの最たるもので、今ある問題を私たちの世代で対処し、次世代が生きやすい社会にする意味に気付かされた。そして、これほど腹落ちした経験はなく、やはり著者が繰り返し主張する、心が動かされることの必要性について実感を伴って理解できた。

 性格上「俺たち」という形で肩を組むブラザーフッドは得意ではないが、特定の誰かのためであれば具体的な行動へコミットできるから、各人が何らかの形で当事者性を持つ場面が増え、「永遠の微調整」を繰り返すことで社会が少しずつ変わっていけばいいなと感じた。

2025年3月17日月曜日

パパは神様じゃない

パパは神様じゃない/小林信彦

 タイトルに惹かれて古書店でサルベージした。2025年の視点で見ると、およそ育児エッセイとはいえない、粒度の荒い子育ての話だった。1970年代の雰囲気を知る上では格好の内容であり、オイルショックによるインフレ、物価高に苦しむ様は今の状況とシンクロする部分があり、経済で苦しむ点においては何も変わらないのかと暗澹たる気持ちになった。

 本著は、下の子が生まれてから一歳半になるまでの期間に書かれたエッセイである。著者の日常の話があり、そこに子どもたちの話が加わるという構成となっている。育児エッセイというよりも「赤ちゃんがいる物書きの日常」といった側面が強い。

 冒頭、赤ちゃんの出産前後の描写があるが、エッセイとして最高においしい部分を丸ごと書いていない。なぜなら、赤ちゃんの誕生を手放しで喜ぶことにてらいがあるから。この認識のギャップからして、男性の育児に対する当時のスタンスが伺える。しかも、その後に仕事とプライベートを兼ねて、家族を日本に残し、約50日間海外で過ごし、最後にはハワイで過ごす様子まで描かれており、さすがにビックリした。今の時代なら妻がSNSに爆ギレポストして大バズりしそう。そんなスタンスの著者にとって、松田道雄『育児の百科』『スポック博士の育児書』がバイブルであり、ネットがない頃はこういった書籍が、最初に接触する信頼できる情報源だった事実に改めて気付かされた。

 そんな著者は「男性が育児において参加できることは何もない」という前提なので、基本的に「私は何もできないのだ」という話に終始している。それがタイトルに通じており、私は神様ではないので、祈ることしかできない、というもの。しかし、そんなものは欺瞞であり、仕事や自分の時間を充実させたいだけなのだが、言い訳せずにそのまま書いている点は潔い。つまり、横やりしてくる存在として赤子を捉えていた。そんな中で、たまに現代でも通用するような視点もあり、以下のラインは著者に比べて育児に参加している身からしても、まさに!と思ったのであった。心配だけするくせに自分の手を動かしてないことがよくあるので自戒したい。

父親が感じる<心の痛み>などというのは、いいかげんなものであり、母親の事務的処理の方が、おおむね、正しいのである。

 文庫あとがきは、なんと当時赤ちゃんだった下の娘が担当している。文庫化は91年で大学生になったばかりの彼女が、著者との暮らしについて素朴に綴っている。「作家は気難しい」を地でいくエピソードに昭和を感じた。約半世紀経った今、これだけギャップを感じるということは2075年ごろの育児に対する男性の価値観は今と大きく変わっているかもと思えば、未来は暗くないのかもしれない。

2025年3月12日水曜日

二〇二一年フェイスブック生存記録

二〇二一年フェイスブック生存記録 /中原昌也

 中原昌也の新刊が出てることを知り、日記がKindle unlimited に入っていたので読んだ。(2ヶ月無料なので久しぶりに入ったけど、雑誌以外はゴミしかない) 基本、映画、音楽日記の様相を呈しているが、その中で垣間見える日常や論考が興味深かった。

 2021年といえば、まだまだコロナ禍真っ只中ということもあって、イベント以外のソーシャルな関係はほとんど見られない。その代わりに毎日のように見ている映画や音楽関する感想以上批評未満のような内容がひたすら続いていた。映画も音楽もメジャーなものはほとんどなく、彼の趣味嗜好が炸裂しているだけなのだが、その博覧強記っぷりは知らなくても読んでいるだけで楽しい。「ネットで調べればなんでもわかる」と知識をアウトソーシングすることは簡単だが、知識が肉体と精神に宿り、立板に水のように放たれる様がかっこいい、と世代的に感じたのであった。しかし、本人の言い分は以下の通り、かっけー!

何かに造詣が深い人、になんざまったくなりとうない!!  昼間から真っ当な仕事もしないで、映画だの音楽だの小説だの美術にうつつを抜かしているのは、ランダムに色々接して、訳がわかんなくなるためなんだよ!  何かに詳しくなるためじゃぜんぜんない。寧ろ、混乱したいだけ。

 前の晩に見た夢の描写が多く、夢日記の側面もある。人の夢ほど、つまらない話はないわけだが、それが中原昌也になると、まるで小説のスケッチのように見えるのだから不思議だ。本著を読むことを寝る前のルーティンにしていたのだが、格段に夢を見る確率が上がって怖かった。

 病気の予兆は本著からもところどころ感じられるが、いきなり半身不随になるなんて本当に信じられない。健康の重要性を痛感しつつ、新刊も早々に読みたい。

2025年3月7日金曜日

法治の獣

法治の獣/春暮康一

 国内SFは海外SFに比べると、取っ付きづらく、どれから読んでいいかわからない。そんな中でポッドキャスト番組『美玉書店』と出会い、今では国内のSFガイドとして個人的に一番好きなポッドキャスト番組だ。そこで本著の著者である春暮康一特集が組まれていたので、国内SF入門編として読んだのであった。(ポッドキャストは過去三回分しか公開されていないので、特集回はもう聞けなくなってしまっているのだが…)テクノロジーを駆使した思考実験が物語へと見事に昇華されていて興味深かった。

 三つの中篇で構成されており、それぞれ別の話ではあるものの、表題作以外の二作は繋がりがある。巻末の作品ノートによれば、三作とも「《系外進出》シリーズ」と作者が名付けたシリーズに含まれるもので、文字通り太陽系外に人類が飛び出していき、そこで遭遇する生命との関わりを描いている。ファーストコンタクトものは、SFの定番中の定番ではあるが、本著ではコンタクトすること自体の是非、そしてコンタクト後の倫理的課題についてフォーカスしている点がとてもユニークだった。三作に共通する人類の認識として、太陽系外の生物に対して不必要にコミットしないことが前提となっている。つまり、人類の都合で植民地にしたり、生態や文明に不必要に介入して改変してはならないということだ。その前提において、人類がはかない希望を抱きながら、なんとかコンタクトを試みる過程がとても興味深かった。

 印象的な表紙絵は国内SF作品を数多く手掛けてきた加藤直之という大御所らしく、この絵からはクラシカルなSFのムードを感じる。しかし、中身は想像以上にモダンであり、AI、功利主義など現在の世の中のテーマと関わりがあるので、そのギャップに驚いた。AI時代到来で世界が新たなフェーズに突入する中で読むSFは、その先の未来を想像させてくれるので、刺激的で読むのが楽しい。本著の各作品ではアシスタントとしてのAIはデフォルトであるが、そうなっていたとしても人間が尊厳を失わないように工夫している様子が伺えて、今後にAIとの付き合い方の参考になるかもしれない。

 とにかく「よくこんな設定を思いつくな〜」ということばかりで、これがハードSFと呼ばれるサブジャンルなのであれば、かなり好きかもしれない。なぜなら、科学の知識をフル動員した、著者による思考実験のようなものだから。一定の論理を貫きながら、なるべく破綻しない世界観を作り上げ、さらに物語的魅力を展開していく著者には畏敬の念を抱くしかない。表題作がその思考実験っぷりが最も発揮されている。法律、資本主義、研究など多彩なトピックが縦横無尽に入り乱れる様は、法治の獣こと、一角獣のシエジーが走り回る様とシンクロするかのようだった。

 コンピューターを中心として、人類が生み出すテクノロジーに対して無限の可能性を抱いていた時代が終焉しつつある中で、SFが少し先の未来を描くものとして、さらなる未知を追い求めた先にあるのは「生物」という視点も興味深い。0か1のバイナリ的思考が世界を席巻しているが、それよりもグラデーションを持つであろう生物の世界を詳しく解き明かした先に、別の未来が見えるのかもしれない。そんなことを考えさせられたのであった。

 いずれの話も人類が地球で飽和しているゆえ、別の居住可能な惑星を探すことが目的ではあるが、それを上回るのは人間の好奇心である。「一体何なのか?」「どういう仕組みなのか?」人間がここまで進歩してきた過程において、そういった好奇心が原動力であることは自明だが、極めて原始的な「遭遇」から炙り出される「業」にも近い好奇心の側面が丁寧に描き出されていた。次は本著よりもさらに未来を描いたらしい『オーラリメイカー』を読む。

2025年3月5日水曜日

Paloalto Live In Tokyo

 韓国のラッパーPaloaltoの単独公演があったので行ってきた。韓国ヒップホップにおいて最もアイコニックな存在はJay Parkであることは間違いないが、裏番長とでもいうべきか、屋台骨のような存在がPaloaltoと言ってもいいだろう。そんな彼のレガシーがたっぷり詰まった90分のショウケースは、圧倒的すぎるラップスキルとライブスキルで完全にノックアウトされた。最近見たヒップホップのライブの中でも群を抜いたクオリティだった。2020年のShow Me The Money(以下SMTM) 9から韓国ヒップホップを聞き始め、もう5年ほどシーンを追いかけ続けた、その魅力が存分に発揮されていたのであった。

 事前に本人からセットリストが公開されており、それを聞いてから、ライブに臨んだのでかなり楽しみやすかった。ライブ会場はミュージックバーに近いクラブのようなところで、ステージの横を人が通るような、お世辞にもライブ向けとは正直言いにくい場所。ライブ前は心配だったが、それは杞憂だった。「弘法筆を選ばず」をまさしく体現しており、1MCのラップだけでこれだけロックされるのは本当に久しぶりだった。タイトなラップがかっこいいのは当然ながら、声の安定感、ライブでの所作など、すべてがベテランゆえの技量で「これぞプロフェッショナル…!」と感嘆せずにはいられなかった。

 本人がDJすることも影響していると思うが、押し引きの構成が本当に見事で緩急を駆使し、とにかく飽きさせない。韓国ヒップホップの屋台骨がゆえに、自身の曲だけではなく、Featで参加したヒット曲がたくさんあるわけだが、それらも出し惜しみなく披露してくれるサービス精神旺盛っぷりも頼もしい。また、曲のバリエーションが豊富で、縦ノリ、横ノリを自在にコントロールしてるあたり、マスターオブセレモニーとしてのMC能力が高く、相当なライブ巧者であることが証明されていた。

 曲間のMCはすべて英語で、日本語はiPhoneにメモしたものをたまに披露していた。日本での単独公演かつ、これだけの長尺は初めてらしい。前半はDaytona移籍後の2枚『DIRT』『Lovers turn to Haters』が中心。自らがオーナーだったHi-Lite Recordsをクローズした際はかなり驚いたが、Daytona移籍後はCEO業をQuiettに任せ、ラップにフォーカスしたこともあってか、いずれの作品も個人的にかなりお気に入りなので、それらの楽曲を生で聞けただけで最高だった。この日買った『DIRT』のバイナルは一生大切にします…

 さらにそこからFeat曲、Hi-Lite Records、4 The Youth、SMTMというパートに分けながら、ライブが進むことで、彼のレガシーがスタックされていく構成は、Paloaltoがどういうラッパーなのか証明するようなものであり、ライブを見終えたあと、彼に対するリスペクトがこれまで以上に増した。Hi-Lite Records時代の曲を中心に往年の名曲でかなり盛り上がっていたので、この日を待ち望んだ古参ファン(a.k.a 同志)がたくさんいたのだろう。個人的には後半の4 The Youth、SMTMパートがかなりグッときた。『4 The Youth』は当初、JUSTHISのわかりやすいラップスキルで好きになったのだが、聞き返すたびにPaloaltoの魅力に気づくことになった韓国ヒップホップのマスターピースだ。「Wayne」「Swith」「Next One」といった楽曲群を生で聞けたのが嬉しかった。そしてSMTMパート。昨年見たBlaseのライブでもSMTMパートがあったが、PaloaltoのSMTMパートはコミットしてきた歴史の長さもあいまって、番組で生まれたクラシックとしての圧倒的な強度があった。なかでもSMTM9で生まれた「Want it」はSMTM9で韓国ヒップホップの衝撃を受けた身なので、5年のときを経て本人のラップを目の前で聞くことができて感慨深かった。

 この規模かつ90分のライブを見れたのは本当にラッキーで満足度が高かったことは間違いない。ただ、継続的に日本で韓国ヒップホップのライブを見る可能性を考えると、今回のような形はあまりサステイナブルではないと思うので、日本と韓国のラッパーの交流がもっと進んで、相互が盛り上がるフェスのようなものが開催される未来を期待してやまない。

2025年2月27日木曜日

結婚とわたし

結婚とわたし/山内マリコ

 ちくま文庫の棚を徘徊してたときに見かけて読んだ。共働き家庭における家事分担の経年変化という貴重な記録となっており、めちゃくちゃ興味深かった。

 著者が今のパートナーと同棲を始めた際にan・anで開始され、結婚後も続いていた連載が、完全版として再編集されたものである。元の単行本の名称が「皿洗いするの、どっち? 目指せ、家庭内男女平等!」であり、家事分担にまつわる、よもやま話&考察が数多く収録されている。「家事が大変」という散発的な感情の発露はネットを徘徊すれば、すぐにヒットする時代だが、結婚前後かつ一定期間にわたる経過観察という情報は貴重であり、本という媒体だからこそ得られる知見だ。さらに文庫化に伴い、2024年時点の著者の視点も加わることで、ここ十年近くで起きた価値観の変化にも気付かされた。

 日記として連載されていたこともあり、著者の生活の機微がひしひしと伝わってくる点がオモシロい。家庭内でのちょっとしたことも、性別に伴う価値観の違いから改めて考えてみると、思いもよらないことが多い。「フェミニズム」と聞くとアレルギー反応を示す人もいるかもしれないが、本著では生活現場において性差がもたらす不平等のあれこれが、これでもかと詰め込まれているので、自分の日常にフィードバックしやすい。私は男性なので、著者のパートナーの所業の数々に身に覚えがあり、それらに対する著者からの鋭い指摘にぐうの音も出ない。そしてパートナーに対する感謝の気持ちを深めるばかりだった。放置された靴下をめぐる以下の言葉は心に刻んでおきたい。

女性の心にはこの手の日常的な男性の負の習慣が、澱のように、澱のように(二回言った)溜まっているものなのですよ。

 また、本著内でも言及されているとおり、家事分担は男女問題というよりも、社会的な要素が大きく影響することもよくわかる。日本社会においては、これまで男性が外に出て金を稼ぎ、女性が家で家事を行ってきたため、男女問題として捉えられていた。その刷り込みは強烈であり「女性が家事をすべき」という男性側の認識はさることながら、女性側も「家事をしなければ」と自責の念に駆られてしまうほどだ。しかし、コロナ禍を経て男性も在宅勤務が可能なケースが増え、家にいることができるようになった。その結果、家事のバランスが変化しているように思う。本著でもパートナーがフリーランスとなり、食事作りを担い始めると、著者が「家庭内おじさん」と化していく話は笑った。我が家も完全在宅の私と、出社するパートナーという旧来の家族観とは真逆の現状があるので、私が多くの家事を担当している。(育児周りの細々した対応はパートナーが担ってくれており大変感謝しています…)

 こういった姿をいろんな家庭の子どもが見ることで将来的に価値観が少しつず変動していく気はしている。誰かにケアしてもらうことは楽なので、つい寄りかかってしまうが、人生百年時代において誰に何が起こるかはわからない。家族のこともケアできればよいが、最低限自分のことは自分でケアできるようにしておくべきだろう。男女問わず、家事分担に悩む人にとって格好の書籍であり、パートナーと二人で読めば効果てきめんのはず。

2025年2月26日水曜日

風と共にゆとりぬ

風と共にゆとりぬ/朝井リョウ

 先日読んだ時をかけるゆとりの続編エッセイということで読んだ。前作における大学時代の「オモシロエピソード」はおじさんにとって若干辛いものがあったが、本作では専業作家になってからのエピソードが多く、なおかつ著者のエッセイ力が格段に向上しており、思わず声を出して笑ってしまうシーンがいくつもあって相当オモシロかった。

 第一部は「日常」、第二部は日経での連載、第三部は「肛門記」という三部で構成されているエッセイ集となっている。一番笑ったのは第一部だった。著者曰く「小説に込めがちなメッセージや教訓を 「込めず、つくらず、もちこませず」を モットーに綴った」とのことだが、文章で人を笑わせるスキルの高さは業界屈指の腕前といっても過言ではない。お気に入りのエピソードは「対決!レンタル彼氏」と「ファッションセンス外注元年」。前者は、女性の担当編集者がレンタル彼氏のサービスを利用し、著者が編集者の弟として食事をするという奇怪すぎる話。「誰かになりきりたい」という著者の願望が、これ以上ないほど歪んで達成されている様がとにかくオモシロい。後者は、ファッションセンスのない著者がスタイリストに服を見繕ってもらう話。その前段におけるGQでの撮影エピソードがオモシロすぎて腹よじれるほど笑った。ネット上で実際に使われた写真を見ることができる点まで含めて最高の読書体験であった。

 第二部は日経に載っていたこともあり、真面目成分が多めとなっている。オーディション論、友達論、物語論など著者の視点の鋭さが光っていた。特にオーディション論は、十年前に書かれた文章だが、今のオーディション番組ブームの最中に読むとかなり味わい深い。

パッと現れサッと去る受験者たちの後ろ姿を見て、私は、彼らはこの十五分間の前後にも別のオーディションを受けているかもしれない、という当然の事実にやっと気が付いたのだ。私が見たのは、二十五人それぞれのたった十五分に過ぎない。それだけを見て、人の星とか運命とか都合のいい言葉で思考をこねくり回していた自分に辟易した。あの二十五人は、昨日も今日も明日も、手を替え品を替え場所を替え、自分のもとに巡ってくるかもしれない星を摑もうとしているのだ。勝手に創り上げた想像を押し付けて、気持ちよく言語化できた解釈をねじこむのはやめよう、と思った。そんなことばかりしていたら、そんな作品ばかり書いてしまいそうだ。

 そして、ラストは「肛門記」。痔瘻を患う著者が手術に至るまでの過程を描いている。タイトルを見たときに、これはまさかと思ったが、最新刊である生殖記の前段と言えるはずだ。というのも、肛門を擬人化したシーンがあるからである。そのくだらなさったらないのだが、著者が得意とする客観の視点を駆使しつつ、前作の「お腹が弱い」「痔主」というフリをタランティーノばりに回収してくるので、ここもかなり笑った。「つまらないから意味がない」という短絡的過ぎる考え方、読み方を反省し、意味偏重主義から抜け出して、もっと肩の力を抜いて生きたいと思わされた。そんな著者が尊敬するエッセイストは、さくらももこ氏らしく、たまたま家にあるので、少しずつ読んでいきたい。

2025年2月25日火曜日

事件記者、保育士になる

事件記者、保育士になる/ 緒方健二

 本屋で見かけてタイトルに惹かれて読んだ。子どもの送り迎えを担当しているので、必然的に保育園との関係が深くなる中で、保育士の方々の仕事がいかに大変か、肌身で感じる今日この頃。そんな保育士になる過程を知ることができて興味深かった。

 タイトルどおり事件記者が保育士になるために短大に入学、卒業するまでを描いたスクールエッセイ。60歳を超えて、新聞社を辞めて保育の資格を得るために短大に入るバイタリティに驚く。周囲は十代の女性ばかりの中で座学、実習に奮闘する姿は、新しいことに億劫になりがちな中年マインドが大いに刺激された。大学の先生と口論したり、クラスメイトと支え合う姿はまさに第二の青春そのもので眩しく映った。

 児童虐待などを中心に子どものいたたまれないニュースが目に入ることが増えているが、著者は記者なので、そういった情報を山ほど見てきている。そんな状況で、元事件記者から見た今の子どもが生きる環境に対する目線は新鮮だ。「実態を知らずしては何もできない」ということで、保育の世界にいきなり飛び込む姿勢は、記者ならではの現場主義を感じた。

 文体、口調がかなり特徴的で、表紙絵のように菅原文太をイメージしたような「昭和の男」が憑依しているよう。前職が新聞記者とのことなので、淡々と書かれた記録のようなものが正直読みたかったところではある。本人はそのつもりはないかもしれないが、一種のSNS構文とでも言えばいいのか「若い人たちに混じって勉強するおじさん」を演じているように映った。とはいえ、この文体だからこそ惹きつけることができる読者はたくさんいるにちがいない。また、クラスメイトに接する態度について、男女で応対を変えている点も気になった。女性に対して下手に出るのは理解できるが、男性に対してオラつく必要はあるのだろうか。「60歳過ぎの元事件記者」と「保育士を目指す十代学生」いう世代間ギャップでオモシロくしたい気持ちは理解できるが、そこで傾斜をつけなくても、さまざまなギャップが他にもたくさんあるのだから、ことさら強調する必要はないように思う。

 卒業後、現時点では著者は保育園で実際に勤務しているわけではないようだ。保育園で得た情報はプライバシー保護の観点であまり出せないのはわかるが、続編があるとすれば、現場のリアルな様子を、それこそ新聞さながらのレポートとして読んでみたい。

2025年2月20日木曜日

ペンと剣

ペンと剣/エドワード・W・サイード、デーヴィッド・バーサミアン、中野真紀子

 インスタのポストで知って読んだ。(全然別の話だが「モブ・ノリオ懐かしい!」と思ってググったら、このタイミングで芥川賞受賞時の時計をメルカリで出品していた…)ここ一年強のイスラエル、パレスチナ問題は見て見ぬふりをしてきたのが正直なところだ。ウクライナの件も含めて、この手の戦争ニュースやその背景を知るたびに「戦争」という巨大な憎悪の塊に対する自分の無力さに打ちのめされてしまうから。ただ、そうは言いながらも、現実から目を背け続けることに対して、心の中がチクチクすることには気づいており、本著のタイトルに惹かれて、重い腰をあげて読んだ。長過ぎる前置きはさておき、本著はパレスチナという国、パレスチナ人を理解する上での入門編として最適な書籍だと感じた。このタイミングで『文化と帝国主義』がみすず書房から復刊(9000円オーバー!)されるらしく、その際のインタビューがまさに表題作なので、本著も復刊して欲しい。

 デーヴィッド・バーサミアンというラジオプロデューサーが、既存のメディアのカウンターとして「オルタナティブ・ラジオ」という番組を立ち上げ、その番組におけるサイードのインタビューによって本著は構成されている。「ポッドキャストの文字起こし」といえるわけで、今の時代との親和性も高いわけだが、Q&A形式なので、サイードが何を考えているのか、とてもわかりやすかった。マスメディアから額面で受け取る情報がいかに偏ったものであるか、怒りを交えつつ理路整然と語り、彼自身の信念が、かっこいい言葉の数々で展開されていた。そのパッションはエンパワメント性が高く、前述したある種の厭世観も彼の言葉に触れることで霧散していった。

 訳者あとがきにもあるように、当時のパレスチナ情勢に応じた彼の考えの変遷を見れる点が興味深い。前半はイスラエル、パレスチナの関係性構築に対して希望的観測を持っており、80〜90年の段階で多様性を模索、それぞれの文化を尊重する必要性を訴えている点は今の時代にも通用する話だ。西洋諸国を介在させることなく、アラブの国々が主体的に自分たちで当該エリアの和平を達成できればいいという彼の志が、PLO、アラファトの台頭に応じて徐々に影をひそめていく。しかし、その中でも彼はあきらめることはなく、「Writing back(書くことによって反撃)」というスタイルに忠実であり、書いて、話すことで周りを鼓舞し、あきらめないことを必死に促しているように映った。「批評、批判なんて誰でもできる」というフレーズは、今の時代では通説となりつつあるが、批評するにも背景としての知識が必要であり、そして政治は批判という監視の視点がなければ腐っていく。それは時代、場所は関係なく、世の真理として存在することが本著を読むとよくわかる。

 著者の専門は文学研究であり、それが発揮されている場面も読みどころだ。文学という空想の世界に対して、時代背景を含めた現実を持ち込んで解釈を深めていく。たとえば、カミュに対する解釈は今まで考えたこともない視点だったので新鮮だった。彼自身の著書の延長線と思われるので、いつか読みたい。

 また、史実ベースのことでいえば、オスロ合意に対する彼の見立ては、知らないことだらけで勉強になった。特定の人物の欲望を満たすために締結されていたことが、まざまざと伝わってくる話で、結果的に合意が空っぽだったことは歴史が証明しており、彼が慧眼の持ち主であることの証左となっている。パレスチナ側の攻撃によって、今の戦争のトリガーは引かれたわけだが、その断片的な事実だけを取り上げ、パレスチナをテロ国家扱いして、イスラエルが圧倒的暴力で支配しようとすることが許容されるわけがない。点ではなく線、面で捉えないと、世界の実像を捉えることはできず、改めて歴史を知ることの意味を痛感した。彼の言葉は胸にグッとくるものが大変多いのだが、なかでも今の自分の気持ちに一番フィットしたものを最後に引用しておく。サイード氏自身が書いた著書も読みたいし、岡真理氏によるパレスチナ関連書籍も読んでいきたい。

「状況は悪い。だがくよくよしないで前進しよう」とは言えないということです。むしろ、「状況は悪い。ゆえにそれを知的に分析、その分析を踏まえた上で、状況を変えたいという願望や可能性を信じて前向きに新たな動きを構築していこう」と言うのでなければなりません。

2025年2月15日土曜日

0%に向かって

0%に向かって/ソ・イジェ

 宇多丸、大田ステファニー歓人の両名による帯コメントの韓国小説とくれば、読まない理由はないということで読んだ。各話でスタイルが異なり、テーマが音楽、映画ということもあり、一枚のアルバムあるいはオムニバスムービーのように楽しむことができた。そして、自分はもう若くなく、すっかりおじさんだという認識も持った。

 本著はデビュー作で、短編、中編で構成された作品集となっている。一つ目の「迷信」という短編のあまりの不安定っぷりに度肝を抜かれた。本著を最後まで読み終えると、このグラグラする感じは、著者の一つのスタイル、ポリシーであり「世界は動的な偶然で構成されているのだ」という認識に基づいていることがわかるのだが、このトーンで全編続くのか…?と最初は不安に思った。しかし、彼女のもう一つの魅力であるカルチャーを交えた形での若者の群像劇が用意されており、それらが特にオモシロかった。

 あとがきによると、著者自身もラッパーを夢見た時期があるからか、韓国ヒップホップのアーティストや曲名が具体的に登場する。韓国ヒップホップ好きとしては、それだけでテンションが上がるわけで、とくにLEGIT GOONS、 Bassagongという名前が出てきてたときは相当アガった。実際、物語内で登場する「My House」を聞くことで小説が現実世界と接続し、リアリティを増すことができる。こういった固有名詞は多過ぎると食傷気味になるが、本著では最低限に抑えつつ、そこで出すカードのセンスが個人的には抜群だった。

 さらに音楽好きという観点で続けるとすれば「Soundcloud」という中編が好きだった。ストリーミング時代における音楽のあり方について、これだけ鮮やかに切り出した小説は他に類をみないだろう。いつでも何でも聞ける今、何を聞くのか、そしてどんな媒体で聞くのか?60〜70年代のモータウンサウンドを中心に置きつつ、音楽を聞く媒体をオマージュしたフォーマットの中で、音楽と恋が展開していくストーリーはかなりオモシロかった。あと村上春樹のことを「金持ちスワッグをプンプンさせた日本の小説家」と揶揄してて笑った。

 エピソードを断片的に配置して映画のフィルムのように見せたり、前述のとおり音楽媒体をオマージュしたり、登場人物の名前をすべて「X」にして主従関係を不透明にするといった小説の構造としての斬新さがある。また、登場人物のインスタグラムのアカウントのQRが載ってたり、数独が突如登場したりとギミックも盛りだくさんだ。そんな複雑な見た目とは裏腹に、若者たちが語る率直な現状認識、正直な気持ちの数々はときに笑ってしまうし、ときに胸を締めつけられる。韓国の若者実情についてほとんど知らなかったのだが、本著のようにジリ貧の若者たちが懸命に生きていて、自己実現ひいては人生について悩む姿は日本でも同じようなことが起こっているのだろう。こういった若者の苦労を読んでいると、自分が歳をとったことを相対的に感じるのであった。

 ラストのタイトル作は、韓国の映画業界に関する考察のような小説となっており、「独立映画」と呼ばれる、資本及び権力から独立している映画界の境遇を知ることができる。日本でも映画の撮影現場のブラックな労働環境はときに話題に上がり、その対比で韓国の改善された労働環境が言及される場面は多い。しかし、それらはメジャー配給の映画に限ったことであり、独立映画ではまだまだ過酷な状況が続いていることがわかる。また、韓国映画はここ十年、二十年のあいだに世界で大きな人気を獲得しているが、その功罪についても言及されており、人気がすべて解決するわけでもないことが理解できた。ただ、そんなネガティブな側面にフォーカスする中でも、映画を撮りたい気持ち、映画を愛する気持ちを大事にしたくなる着地にホッとした。「壁と線を越えるフロウ」というヒップホップをテーマにした小説があるらしく翻訳版が出ることを切に願っている。

2025年2月12日水曜日

時をかけるゆとり

時をかけるゆとり/朝井リョウ

 小説は読んだことあるものの、エッセイを一度も読んだことがなく、友人の勧めで読んでみた。大学生作家から社会人作家へと移行していくフェーズで書かれた一冊で、ザ・大学生的なエピソードに気恥ずかしさを覚えつつ、文章におけるギャグセンスの高さはさすがだった。

 小説家としての日常ではなく、学生としての日常について書かれたエッセイが多く収録されている。大学生もしくは社会人の早い段階で読めば「あるある」として楽しめたのかもしれないが、三十後半のおじさんからすると、他人の大学生の頃の「オモシロエピソード」ほど聞いていてイタい気持ちになるものはない。そして、読んでいると自分の大学時代を当然のように想起、恥ずかしくなり死にたくなることも多かった。若くして作家になると、このような文章が公に残ることもキツいだろうなと察する。実際、その気恥ずかしさを少しでもマイルドにするために、過去のエッセイに脚注を入れて相対化していたので、著者も同じ気持ちを少なからず抱いているように思う。

 個人的に一番オモシロかったのは、著者の就職活動に関するエピソードだ。『何者』のBehind the scenes にも見えるし、著者の就活エピソードのどれもがユニークでオモシロい。学生が社会と接続していくことについて、これだけ瑞々しく書ける人はそうはいないはずだ。前述のイタさと引き換えにして、若くして解像度高く、ものを書けるようになった著者の魅力が最大限に発揮されているとも言える。また、終盤にある直木賞受賞時のエッセイは他のエッセイと別ベクトルで、著者の小説を彷彿とさせるエモーションに溢れるもので好きだった。本著の続編となる『風と共にゆとりぬ』も積んでいるので読む。

2025年2月8日土曜日

トーフビーツの(難聴)ダイアリー2022

トーフビーツ(難聴)ダイアリー2022/tofubeats

 ポッドキャスト番組のチャッターアイランドの最新回で、著者がゲスト出演していたので、積んであった本著を読んだ。日記というか、もはや業務日報の様相を呈しており一気に読み終えた。

 神戸の書店1003の特典として、前作リリース時に提供された『reprise』の延長戦であり、2022年の日記として再構成された一冊となっている。本作はZINEなので、いわゆる街の書店では取り扱いがないからか、前作以上にアクセル全開で音楽業界での仕事を中心に著者の思うことをズバズバと書いている。ここまで自分のスタンスが明確にあり、それを開陳できるアーティストがどれだけいるのかと前作に続いて感じた。

 それは著者が会社を経営する社長であることが大きいだろう。メジャーレーベルとディールしつつ、一企業の社長としての振る舞いの数々からは、自分で会社を持つことの苦労が垣間見える。とくに終盤に出てくる大トラブルは具体的な言及はないものの、契約周りのトラブルであることが推察され、自分も仕事で似たようなトラブルを今抱えているので、心構えが参考になった。オンオフの切り替えは比較的できるほうなのだけども、大きなトラブルになるとオフのときも喉に小骨が引っかかっているようで気持ちが悪い。だから、エビデンスを集め、色んなシミュレーションを重ねることで、自分の心の平穏を取り戻していく必要があることを再認識した。(しかし、著者が言うところの正常性バイアスにどうしても寄りかかってしまうところもあるのだが…)にしても、DJ QとのコラボEPがリリースに至るまでの艱難辛苦をみるにつけ、音楽という権利ビジネスはリリースするまでにリスナーには見えない苦労がたくさんあることに気付かされたのであった。

 アーティストの日記においては、どのようにクリエイティビティを発揮しているか、その過程を追うことができる点に魅力がある。本著でもそれはいかんなく発揮されており、C.O.S.Aにビート提供を頼まれたけど、しっくりいかなかった話とか、一ヶ月で30曲もサントラとして書き下ろすことができるとか、tofubeatsの音楽家としての側面をたくさん知ることができる。そういった活動の様子と私生活がシームレスに読める点が日記のいいところで、先日のポッドキャストでも愛妻家っぷりを感じていたが、本著でもパートナーとのエピソードが多く収録されている。差し迫った仕事のあいだの閑話休題として紹介されるパートナーとのほっこりエピソードから、犬を含めてパートナーの存在は著者にとって大きいことが伺い知れた。2023もしくは2024もリリースされて欲しい。

2025年2月7日金曜日

パーティーが終わって、中年が始まる

パーティーが終わって、中年が始まる/pha

 2024年リリースの書籍でタイトル選手権をすれば、なぜ働いていると本が読めなくなるのかと並ぶ優勝候補になるであろう、そのタイトルに惹かれて読んだ。著者より一世代下ではあるが、中年の入口に立っている認識を最近持つようになったので、ある種の予習として興味深く読んだ。

 著者が自分の人生を振り返りながら、中年を迎えた現状について考察している。「インターネットの人」という荒い解像度で捉えていた著者の背景を知りつつ、それを踏まえた中年期に対する考察が興味深かった。長いあいだ、シェアハウスで常に他人がいる状況で暮らしてきた著者が「中年の一人暮らし」を営む中で、まるで世の真理を発見していくような、哲学的とも言える人生に対する視点の数々。ブログが出自ゆえの柔らかい文体から繰り出される、達観さえ感じる文章は、著者が歩んできたイレギュラーな人生とギャップがあり新鮮だった。また、時代の移り変わり、とくにテクノロジーによるイノベーションが実社会においてどのように落とし込まれていくか、生き証人として書かれている要素が強く、何十年後かに読まれる際には資料価値も高くなりそうだ。

 私が会社員として生活しながら、このブログを書いたり、ポッドキャストを運営したり、「それがなぜ続けられるのか?」と人に聞かれることがある。特別人気があるわけでもないから、自分自身もどうしてなのかわからないし、深くは考えてこなかったのだが、本著を読むと自分自身の自己実現、承認欲求に対する理解が深まった。つまり「たくさんの人に知ってもらいたい」「お金を稼ぎたい」という欲望がゼロというわけではないが、適量の承認、自分が好きな人やコミュニティに受け入れてもらいたいという欲望が強いということである。量よりも質といえばいいのか、一人の読者、聴者でも同じ志の人と一緒に楽しくやっていきたい、とでもいえばいいのか。会社員としてのパーティーの終わり方が少しずつ見えてくる中で、それとは別のパーティーを細々とでも続けることで人生に意味を見出している節は大いにある。そういう意味で、直接の知り合いでもない方がブログを読んでくれたり、ポッドキャストを聴いてくれたり、ZINEを買ってくれたりしてくれるのは、本当にありがたい話だなと読んで気づかされた。自己分析要素が強いので、このように自分の人生について改めて考えさせてくれるいい機会になった。

 鴨長明『方丈記』の「ゆく河のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず」が引かれているように、本著に通底するムードは諸行無常だ。著者が猫を飼っていることが明らかになるのだが、その愛猫生活から一転、現在は亡くなってしまっている事実があきらかになる。思わず「That’s life」と声に出してしまいそうな、その落差。過ぎた時間は戻ることなく、ただそこに人生があるだけという、これまた達観した視点に、自分の人生の舵をどのように取ればいいのか考えさせられるのであった。次は、蟹ブックスから出てる読書日記を読みたい。

2025年2月5日水曜日

now loading

now loading/阿部大樹

 以前読んだForget it Notの著者による育児日記ということで読んだ。あらゆる点でソフィスティケートされた育児に関する静謐な思考の足跡が興味深かった。

 子どもがはじめて言葉を話した日から、はじめて嘘をついた日まで、と限定された期間の育児日記となっている。日記ではあるものの、日付は限りなく小さく記載されており、日記として時間を区切る意図は少なく基本的にエッセイのように読めた。

 育児日記、育児エッセイといえば、どれだけ大変か、いかに子どものことで頭を悩ませるかといった苦労話がたくさん紹介され、それらが報われるような心温まるエピソードがたまにあり「だから育児って尊いよね」という起承転結の構成をよく見かける。しかし、本著はそんな既存の育児本の文法から外れたところにあり、淡々と起こったこと、考えたことを書いている。いい意味で著者の喜怒哀楽の感情がわかりやすく描かれておらず、例えるなら、化学調味料を使わず、自然の出汁の味を大切にしているような文章だ。

 言葉はさることながら、版組に至るまで、こだわりを感じる構成になっていた。特に改行、段落の分け方などは詩のようにさえ見える。言葉を尽くして自身の育児を説明するというよりも、行間を大切にしているといえるだろう。自分の感情や起こったことを伝えたいとき、どうしても足し算的な思考に陥りがちだが、本著を読むと要点を絞るとしれも、引き算を工夫することで、その人なりのムードが出来上がること、AI時代になっても失われない何かを文体から感じたのであった。完全に余談だが、一番ビビったのは総合格闘家の阿部大治選手の名前が登場したとき。名前もあいまって人生は数奇だなと思わされた。

 著者は精神科医であるからか、患者を見るような客観的な視点が多く、自分の子どもの言葉や言動について「こういうことかも」と冷静に考察している。私は育児の当事者として、主観的視点に陥ってしまい、自分の思う通りに子どもを動かそう、言うことを聞かせようとしてしまうときが多い。しかし、著者のような一歩引いた視点を持つことができれば、もう少し育児しやすくなるかもしれないと感じた。大人の時間や都合ではなく、子どもの時間で生きることの必要性を日々感じている中で、まさに同じようなことがここでも書かれており納得した。タイトルどおり、loadを待つかのように子どもを待ちたい。

そのうち取り囲まれる規範の一々に対して、不合理と思うなら距離をおけるような、そういう意味でliberalな人間になってほしいと思っているので、予行のつもりで、彼が意見をもつならなるべく尊重するようにはしているが、たとえば風呂上りに濡れた体を拭くのを拒否されたりすると、その間は私も冷たくなっていくし、いいから、もう風邪ひいちゃうからこっち来なさい、となってしまうこともあり、これを強者による抑圧(原型)と言われれば、否定はできない気もする。

2025年1月31日金曜日

ヤンキーと地元

ヤンキーと地元/打越正行

 著者が亡くなったことを知り、文庫で読んだ。沖縄の暴走族を中心とした若者たちの実態をエスノグラフィーを駆使して描き出しており、めちゃくちゃオモシロかった。あとがきで岸政彦氏が書いているとおり、上間陽子氏の裸足で逃げるとセットで読むと、沖縄の若者の生活の実態がくっきりと立ち上がってくるはずだ。

 本著は、社会学の「参与観察」と呼ばれる手法で沖縄の若い男性の生活に迫ったもので、著者の博士論文が商業出版の形でリリースされたそう。沖縄は観光地、リゾートという一般的な認知がある中で、米軍基地の存在を含めた産業構造の歪さについて、若者の就労状況から丁寧に明らかにしている点が本著の白眉である。それは単純な産業の売上から第三次産業中心であることがわかる、という数字の議論ではない。幾つものレイヤーが重なりあって社会が形成されており、人間が営む生活、社会が一筋縄や綺麗事では片付かない現状を具体的な生活史の積み上げで描いている。男性の若者たちのギリギリでヒリヒリする生活の数々が閉鎖性を浮き彫りにしていて、自己責任では片付けることができない地獄に近いものを感じる場面もあった。(特に暴力の連鎖)

 私はヒップホップが好きで、タイトルの「ヤンキーと地元」は日本のヒップホップど真ん中のテーマである。特に沖縄は近年ヒップホップのメッカといっても過言ではないほど、メジャーからアンダーグラウンドまでさまざまなラッパーを輩出している。「社会が荒んでいるときにヒップホップが輝く」とも言われるが、沖縄のラッパーの台頭は、本著で書かれている内容と無縁ではないはずだ。なかでも、以下の楽曲は本著と直接的な関連があるといえる楽曲だろう。2022年に起きた事件で、スクーターに乗った高校生に対して、警察官が警棒を差し向けて右目失明の重傷を負わせた。その事件の判決に対する抗議する曲となっている。沖縄の若者にとって警察との関係構築が死活問題であることは本著でも書かれているとおりだが、2020年代に突入し、新たなフェーズに入っているのかもしれない。

 貧しい暮らしから、ラップで成り上がり、地元をレペゼンしつつ結果的に地元に還元する、そんな「フッドの美学」をさまざまなラッパーの曲で耳にしてきた。しかし、そんなわかりやすい物語の背景には有象無象の屍があり、地元を大切にするといえば美談に聞こえるが、実態はそんなに甘いものではないことが本著では詳らかにされている。地元に残らざるを得ず、その硬直した縦社会はまるで監獄のように若者たちを捉えて離さない。その中で何とか自分の裁量を手にしようとサバイブするものもいれば、地元の空気に耐えきれず逃げ出すものもいる。そんな若者たちの育った背景や仕事、生活の様子をつぶさに観察、レポートしており、著者が書いていなければ「いなかった」ことにされてしまった人々の声を本著では読むことができる貴重なものだ。そして、これは沖縄に限らず日本の閉塞した地方ではどこでも起こっていることかもしれないと想起させられる。

 読者として客観的に見ると、ぎょっとする話もたくさん出てくるのだが、それらをひょうひょうと乗り越えて、十歳ほど離れた若者たちの懐に社会学者として入り込んでいくなんて、誰でもできることではない。著者だからこそできたフィールドワークであり、文庫版に矜持として書かれたあとがきは興味深かった。ネガティブな意味で捉えられる「パシリ」を参与観察の観点で捉えれば、別のベクトルで観察対象に迫ることができるという論考はかなり新鮮だった。「ポリコレ」の先にある想定外、そこに生きる人たちに迫ることがパシリの社会学だ、というステイトメントは今の時代に力強くみえる。しかし、そんな著者の新しい著作をもう読むことができないと思うと、読後はやり切れない悲しい気持ちでいっぱいになった。

社会調査は権力を有する調査者がいまだ明らかになっていない人びとの声を聴き、いないことにされている人びとの存在を明らかにし、そこから既存の社会や知のあり方を批判的に問うことを目的とする。だが、既存の社会や知のあり方から彼らを調べる限り、それは既存の知のあり方を再生産し強化することにしかならない。パシリとしての参与観察は、そのような状況を乗り越えうる調査方法なのである。

2025年1月30日木曜日

長電話

長電話/高橋悠治、坂本龍一

 坂本龍一氏が亡くなってから、その偉大さ、興味深いパーソナリティに気づき、著作を読んでいるのだが、その中でも昨年リリースされた本著はポッドキャストを運営している身からすると、かなり気になっていた。というのもポッドキャストは長電話を録音してウェブ上で配信したようなものだから。実際、私が収録するときはウェブカメラはオフで収録しているので、形式は電話そのものだ。本著は今のポッドキャスト時代を先駆けるように「会話」がいかにオモシロいかを具現化した一冊だった。

 本著は、1983年の12月15〜17日にわたり石垣島に滞在した二人によって、合計4回行われた長電話が文字起こしされたものとなっている。よくある対談本、ラジオ本と決定的に異なるのは文字起こしの粒度である。会話を文字化するのであれば、相槌や間を取るための言葉など、不要なものは排除し、文の構成なども徹底的に編集し読みやすくすることが常だろう。しかし、本著では不要であろう言葉まで余すことなく音を文字で残している。それは何かを咀嚼している音や、何かが落ちたような音まで、電話に乗ってきた音すべてを拾い上げる勢いだ。実際に音声を聞いたわけではないが、おそらくほとんど手直ししていないはずであり、そういった編集によって立ち上がる生々しい会話の数々には包み隠されていない本音が見え隠れする。

 生な会話であるがゆえに読みにくさはあり、本当にただの長電話なので、あっちこっちへ話は寄り道しまくる。ゆえに読み終わったあと「あれ、結局何の話だっけ?」という手応えのなさが残ることは否めない。本を読むことで、結論をすぐに求めるような考え方に気をつけているつもりだったが、それでも本著を読むと自分も時代の病に侵されていることに気づいた。80年代のゆるい空気がそのまま残っており、情報の量や速度が今と異なっているからとはいえ、自分が時代の中に生きていることを突きつけられたのであった。

 音楽に関する二人の考えがとにかく興味深く、先見性の高さに驚く場面も多い。また、バリバリ前に出て、フェイムを得たいという気持ちがあまりなく、音楽が好きで、それを表現したいというスタンスが伝わってきた。特に人の前で音楽を演奏することについて、ここまで考えているアーティストが今いるだろうか。デジタルとアナログの過渡期ということもあり、音楽をどのように作り、演奏し、聞くかなど、ポップスのフィールドでも活躍する坂本氏と、現代音楽サイドの高橋氏の見解のぶつけ合いは非常に興味深かった。

 SNS時代においては、ある意味では活字至上主義であり、その確実性、情報の圧縮率はときに有用ではあるものの、それゆえの息苦しさは付きまとう。ゆえに音声メディアの情報圧縮率の低さ、そして「会話」におけるいい意味での無駄や矛盾を私たちは欲しているがゆえに、ポッドキャストがここまで隆盛してきているのかもしれない。そんなことまで考えさせられる温故知新な読書体験だった。

だいたいそうなんだよね。首尾一貫していないところで、ゴリ押しをしてるってとこがあるからね。ウン。だからやっぱり、こうやって、なんてバカなやつだろうとかさ、いうような感じになることを半ば期待しつつ、電話をして本を作ろうと思ってるわけだよね。

2025年1月28日火曜日

ヘルシンキ 生活の練習

ヘルシンキ 生活の練習/朴沙羅

 2022年に読んだ本で一番オモシロかったと友人から聞いて、文庫化のタイミングで読んだ。いわゆる「北欧礼賛系」の本とは異なる切り口の「北欧リアルトーク」といった内容で興味深く読んだ。

 本書は、2020年にフィンランドへ移住して、子ども二人との生活を営んだ記録、エッセイだ。「生活」と銘打たれているが、育児の話が中心にあり、保育園に通う子どもを持つ身としては、日本の育児を相対的な視点で捉えた話の数々が目から鱗だった。

 前述のとおり、日本ではフィンランドやスウェーデンといった北欧圏のヨーロッパ各国を一種のユートピアのように捉える言説が多く見られる。高い税金に応じた福祉サービスの充実は、少子化対策といいながら、納税額からして納得できるサポートが追いついていない日本からすると眩しく見える。しかし、著者は実際に住んでみて「全部が全部、素晴らしいわけではない」ことをフィールドワークのレポートさながら、実体験をベースにした社会学者の視点で考察しており、エッセイと論文の狭間にある文章のスタイルが個人的に好きな塩梅だった。

 当然ながら、フィンランドのいいところはたくさん見える。最も印象的だったのは、子どもができないことに対して、本人の性格、気質といった属人的な感情サイドにフォーカスするのではなく、能力主義に基づき「スキルが足りてないので練習しましょう」とアプローチする点だ。育児する中で他人の子どもと比較することは避けがたいことであるが、能力、スキルに還元することにより「いつかできるようになる」前提なので、変に焦る必要がないことが腹落ちする。言われてみれば当たり前なのだが「どうしてできないんだろう?」と育児の中では考えがちなので、大いに参考にしていきたい。

 また、保育園が親の就労状況に関わらず、誰でも利用可能であり、保育を受けることは子どもの権利であるという建て付けに驚いた。ゆえに保育園に通う親同士の関係が希薄らしいが、だからといって親が孤独にならないように助けを求められるセーフネットが用意されている。「各人が何かをすり減らして頑張っているから成り立つ」という運要素を可能な限りなくし、当人が申し出れば、公がきちんとフォローしている安心感。わかりやすいサービスの充実度ではなく、こういった思想のベースからして、フィンランドが福祉国家と呼ばれる背景を理解することができた。それは「親が滅私奉公して育児に献身せよ」という無言の圧力がそこかしこに漂う日本とは違った光景である。以下は、そんな違いを端的に言語化していた。

おおまかな工夫をすることによって多様なニーズに応えられるのと、そのおおまかな工夫のなさを個々人がイライラしあったり責めあったりしてカバーするのと、どっちが好きかと言われたら、私は前者の方が好きだ。

 育児に限らず、属人的なものをなるべく排除するのはフィンランドの特徴なのかもしれない。大人の「ソーシャル」の概念も、最初に友人を作って、その友人と何らかのアクティビティをするのではなく、最初にどんなアクティビティをするのかにフォーカスし、そこに人間関係がついてくる。ゆうなれば、最初に友人を作る能力はいらず、何がしたいかだけ決めればいい。日本でも同じようなケースは当然あるだろうけど、フィンランドの方はよりシビアに人間とアクティビティを区別している印象を受けた。

 前述のとおり、社会のあり方を論考するような硬めの学術的内容と、日々の暮らしのエッセイが地続きで描かれている点が、本著を特別なものにしている。顕著なのは関西弁の多用だろう。子どもの話し言葉だけではなく、著者による関西弁が結構な頻度で登場、大阪出身の自分としては郷愁にかられた。標準語で同じ内容を書いた場合、真正面の議論過ぎて角が立ちそうなところも関西弁で柔らかくなっていた。(関西出身ではない方は若干くどく感じるかもしれないが。)

 「いい学校」というチャプターは個人的にフィールした。自分自身はお世辞にもガラがいいとは言えない場所で育った中、友人が私立中学へ行く姿を見ていた。そのとき、自分たちが行く予定の公立中学について、その友人から半笑いで言われたことを思い出した。そのとき「絶対こいつには負けない」と思ったのが、大学に至るまでの勉強に対するモチベーションの一つだったように思う。続編の『ヘルシンキ 生活の練習はつづく 』も早々に読みたい。

2025年1月25日土曜日

生まれつきの時間

inch magazine PocketStories 01 生まれつきの時間

 inch magazineという出版レーベルによるポケットシリーズ。それが「韓国SF」ということで前から気になっていたのだが、先日のZINE FESTで既刊二冊を駆け込みで購入して、一作目である本著を読んだ。話自体もオモシロかったのだが「短編一つだけ」という構成ゆえか、読み終わったあとの余韻が長く残るユニークな読書体験だった。

 現在の人類が滅亡したあとの第二人類の世界が舞台のSFであり、主人公はそんな世界に誕生した新生児である。しかし、赤ちゃんというわけではなく、すでに15歳まで育った状態で、そこから教育を受けて「成長」していく中で、世界の実像を知っていくという物語。15歳から何かと成長を要求されるのは、韓国の苛烈な競争社会のアナロジーであることがすぐにわかる。韓国に限らず、資本主義社会は常に「成長」していくことを前提としており、その資本主義に対する盲目的なある種の信仰をアイロニーを交えて描き出している。ただ、そのアイロニーはアンチ資本主義といった結論ありきではなく、成長することへのプレッシャーに対して「なんでそんなに成長が大事なんですかね?」と読者に問われている気がした。それは、主人公が「何も知らない子ども」という設定だからだろう。

 一種の教育論ひいてはケア論のようにも読める点も興味深い。後半、主人公は親の役割を担うようになり、新たに誕生する命を預かる立場となる。そこで子どもを成長させること、社会で受け入れることの壁にぶち当たる。人は一人では成長することができなくて、他者の犠牲を伴いながら、社会を構成する人間となっていく。保育園に通わせている身からすれば、保育士の方々の献身的なサポート、ケアのおかげで自分の子どもが社会性を身につけていくのを間近に見ており、後半の展開は身近に感じた。一方で、保育園に通っていることで相対的な視点がうまれ、他の子どもとの成長の差が気になることもある。しかし、成長する速度は誰かが決めるのではなく、それぞれの歩幅、つまりは「生まれつきの時間」でいいのだと改めて教えられたのだった。

 訳者あとがきや、著者を含めた対談で、韓国SFの概況について知ることができる点も本著ならではだ。著者の作品は他にも日本語で翻訳されている作品があるようなので、そちらも読みたい。

2025年1月23日木曜日

本業2024

本業2024/水道橋博士

 尾崎世界観の祐介を読んだ際、水道橋博士のメルマガを思い出し、そういえば博士は今どうなっているのだろうかと思って検索してみると、本著が新刊でリリースされていることを知って読んだ。私が本を読むようになったのは、いろんな要因がある中でも、博士の影響が大きいことに改めて気付かされた。

 もともと『本業』というタレント本の書評集があり、それをベースに他の書評原稿、対談などを新たに追加したものが本著である。600ページ超という、とんでもない分量になっているが、しばらくぶりに浴びる博士の軽妙ながら熱量のこもった文体に煽られまくって、三日で一気読みしたのであった。

 『本業』が2008年リリースであり、自分がちょうどテレビをたくさん見ていた子どもの頃のタレント本ばかりで懐かしい気持ちになった。そして、本のレビューを書いているからこそわかる著者のレビューの圧倒的に高いレベルを肌身で感じた。単純な本のレビューというわけではなく、本人が現場で直接見聞きした話を織り交ぜつつ、わかる人にはわかる大量のコードがこれでもかと詰め込まれており、読み応えは抜群だ。本の中身に触れつつ、核心は避けて読者に期待を抱かせるアウトボクシングかと思いきや、懐に入り込み激しいインファイトを繰り広げ、読者の心の深いところに入り込んでくる変幻自在のスタイルでレビューされる本の数々は門外漢でも思わず読みたくなるものばかりだった。最多引用であろう『ルポライター事始』は必ず読みたいし、純粋なレビューという観点でみれば、週刊誌二大巨星について、新たな星座を見出した本著屈指のレビュー『2016年の週刊文春』と『鬼才 伝説の編集人 齋藤十一』も読みたい。

 タレント本が出版されるのは、テレビやネットで切り取られることで、本意ではない自分のイメージが広がっていくことに対して、本という高密度な活字媒体で自らの思いを強くファンに向けて発信することが可能だからだ。SNSおよび付随するサブスクリプションが、今後その機能を代替していく可能性は高いが、物体として残る本はタレント、ファンにとってなくてはならないフォーマットだろう。そして、本人の思いが実直に吐露されていることで、時が経っても味わい深さが残る。本著においても、当時のレビューのあとに2024年時点の各タレントの現状に関する説明があり、あまりの諸行無常っぷりに遠い目になることもしばしばあった。特に今、過去のタレントの行いが大きな社会問題になっている最中に読んだこともあり、過去と現在を比較する意味について考えさせられること山の如しだった。他にも博士がビートたけしの楽屋を訪ねた際に映画を7倍速で見ている場面に遭遇、その後、雑誌でその映画をレビューしていたというエピソードも「倍速視聴」の意味が当時と2024年では全く異なるからこそ、ビートたけしの先見性を垣間見ることができる。

 他人の本に関する書評にも関わらず、読んでいると「博士像」が浮き上がってくる点が興味深い。人生に対するスタンス、本から引用される名言の数々(「出会いに照れるな」など)は、十年前にメルマガを読んでいた当時から時が流れ、自分が立派な中年となった今、さらに刺さるのであった。また、博士の言動について、外野から見れば理解できないケースが往々にあるかもしれないが、そこには博士なりの筋があると同時に、ビートたけしの弟子としての矜持を全うしていることがよくわかった。

世の良識ある「保険だらけの現実」が「命懸けの虚構」を回避し、「安全」な場所へ居続けようとする、その「退屈さ」に俺は耐えられないからであろう。

書評以外の書き仕事のまとめとして『文業2024』としてまとめられるそうなので、そちらも楽しみに待ちたい。

2025年1月22日水曜日

「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ

「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ/長島有里枝

 こんな大人になりましたというエッセイ集を読み、著者の視点がどれも興味深かったので、本業である写真に関する本を読んだ。フェミニズムに関する本は少なからず読んできているが、このスタイル、密度で書かれたものは読んだことがなく、めちゃくちゃオモシロかった。言うなれば「OK余裕、未来は「わたし等」の手の中。」

 90年代に写真史にその名を刻むほど隆盛した「女の子写真」という潮流について、改めて考察したものが本著である。大学院での修士論文として提出された内容を加筆修正したらしく、最大の特徴は、考察している著者がそのムーブメントど真ん中にいた当人であるということだ。つまり、90年代に男性の写真家、評論家に好き勝手に言われたことについて、当人自ら論文スタイルでアンサーしているのだ。今でこそ一億総批評家時代であり、さまざまなベクトルで作品が評価される時代になったが、ネットやSNSがない90年代は、一部の評論家の言説が決定的な評価になってしまい、それを覆すような機会も限られていた。そして約30年後に本や雑誌に書かれていることを丹念に拾い上げて、当事者がすべてに応答していく。こんな本は読んだことがない。しかも、拾い上げ方の粒度が相当細かく、当時の雑誌に掲載されていた発言やちょっとした言い回しまで、事実確認を行うのは当然のこと、その言説が誘導してしまう偏った考えや視点まで逐一指摘していく。批評と印象論は紙一重であり、90年代は論拠に基づかない印象論が今以上に大手を振って歩き、それが正史となってしまった状況がよく理解できる構成となっている。

 男性の写真家や評論家が、女性の写真家たちの作品を「女の子写真」という枠に押し込めて矮小化していた歴史が詳らかに解説されている。「女の子写真」が隆盛したのは、「機材がコンパクトになったり、扱いやすくなったから」という大前提からして間違っていることを丁寧に確認していく姿勢にシビれた。ムーブメントの当事者で好き勝手言われてきた著者の立場からすれば「てめーふざけんな!」とシンプルにブチキレてもおかしくない中で、自分自身さえも客体化し「長島」扱いするスタイルで丁寧にキレている。ゆえに読んでいて、ガンフィンガーを立てる場面がいくつもあった。男性と女性のあいだにある権力勾配、女性に対する特有の年齢の枠など、アンバランスな関係性への鋭い指摘を読み、無意識な発言がまるでバタフライエフェクトのように知らないうちに女性を抑圧することになる可能性に気付かされたのであった。

 作品を評価する際に「女性らしい柔らかい表現」などといった言葉は今でも平気で使われているが、性差を作品の評価へ反映することの妥当性について繰り返し疑問視している。自分が男性なので意識できていなかったが、男性の作品であれば「男性らしい荒々しい表現」とは言わず、単純に「荒々しい表現」と評価するケースが多いのはそのとおりだろう。「女性」という枕詞で別の枠組みを用意するのは、男性が女性を別物扱いしている証左であると著者は喝破していた。

 本著が好きな理由は「権威に奪い取られた自分の主体性を取り戻す」という、どこまでもヒップホップ的なマインドに溢れているからだ。前述のエッセイを読んだ際にも感じたが、著者の世代にとってのパンクは、私にとってヒップホップに代替可能だ。そして、批評に対して、音楽もしくは言葉で明確に応答することは今のヒップホップでも「ビーフ」を筆頭として盛んに行われている。日本では語るよりも、背中で見せる美学を重んじる風潮があるが、今の時代は間違っていることに対して、明確に意思表示していくことが重要であり、そこで歴史を残していく必要がある。なぜなら放置していると「女の子写真」のように誤った形で正史として固定化してしまうからである。本著のように過去を分析、考察し、語り直すことで間違った認識の再生産を防いでいく志の高さには頭が上がらない。

 また、著者の場合「「女の子写真」はすべて間違っている」と論破するわけではない点も重要である。90年代に自分が明確に応答できなかった悔恨を胸に抱きつつ、改めて当時の批評、言論の認識の違いを指摘、「女の子写真」を第三波フェミニズムの文脈で捉え直し、価値や意味をフリップする。これまたヒップホップ的であり「ガーリーフォト」として、女性の手の中に取り戻していく過程がとにかく興味深かった。特にヌードがムーブメントの要素に含まれていたことで、如実に性的搾取の側面があったわけだが、セルフポートレートだったことも踏まえた男女における性役割の転倒を狙っていたという主張は写真論としても興味深かった。

 当時に比べると現在は批評が勢いを失い、民意としてのSNSがその代わりを担っていると言えるだろう。SNSはフローする情報であり、スタックしにくいので、その時代のムードを振り返って分析することが困難である。本著では、書籍で残っているからこそ検証し直すことが可能になっており、ネット上の情報ではない別媒体で残る情報の重要性が明らかになっていたことも本論ではないが書き添えておく。他の本も早く読んでみたい。

2025年1月18日土曜日

遊びと利他

遊びと利他/北村匡平

 「公園と遊具から考える」という帯に惹かれて読んだ。3歳の子どもを連れて、ほぼ毎週公園に行く中で、自分が遊んでいた頃の公園と明らかにムードが違うことに違和感を抱いていたからだ。本著では、日本の今の公園、遊具がどういう背景で作られ、運用されているか、丁寧に解説されており興味深かった。さらに広げて「遊ぶ」という概念を分析しつつ、現在の社会における利他のあり方までリーチする一冊だった。

 前半は、利他と公園を広く考察、中盤では幼稚園、公園のフィールドワークの取材報告、後半は現代の利他論という構成となっている。効率や絶対的な安全、正しさを追い求める風潮が進む中で、それが公園に表出しているという見立てからして興味深い。実際、公園に行くと注意書きの量が本当に多い。「ボール遊び禁止」はわかるが、「マフラーを巻きながら遊ばない」と遊具に書いてあったり、対象年齢を制限する遊具や、遊び方が書いてあるケースもある。そんなルールでがんじがらめになってしまった公園では、環境要因で子どもの遊びが排他的、利己的になっている状況を著者は危惧していた。利他的行動について考える際に、対人関係が中心になりがちだが、著者はそれだけではなく空間や環境がもたらす影響も考慮している点が特徴的だ。たとえば、仕切りのあるベンチを筆頭に、モノによる管理空間がそこかしこに溢れていることを例に挙げつつ、日常に溶け込むルールによる排他性は子どもに規律を内面化させる可能性があるとのことだった。

 本著の白眉はフィールドワークに基づいた取材と、それを参照した「遊び」に対する科学的な眼差しである。子どもの遊びがこれだけ体系立てて、過去から連綿と科学的に研究されていることに心底驚いた。そして、各研究が示している内容は、自分が子どもと遊んだり、他の子どもが遊んでいる様を見ている際に何となく考えていたことが、ことごとく言語化されており、何度も頷いて読んでいた。紹介されている2つの幼稚園は正直現実味がなかったが、羽根木プレーパークは似たような施設が近所にあるため、その場所の解像度が本著を読んだおかげで格段に上がった。実際に、子どもをそこへ連れていくと、その不安定さに如実に魅了されており、普段抑制されている子どもの遊びに対する欲望を具体的に感じたのであった。

 紹介されている実際の幼稚園や公園は素晴らしい環境なので、自分が子どもに対して提供できている環境と比べてしまうかもしれない。しかし、紹介されていたような幼稚園や公園に行けないからといって諦める必要はなく、子どもの遊びに必要な要素を意識しながら、普段どおり遊ぶだけでもかなり変わるだろう。とにかく子どもの自由を制限しない必要性が繰り返し唱えられていて、今だと「危ないから、他人に迷惑をかけるから」という理由で子どもの遊びに親がブレーキをかけてしまうケースが多い。しかし、物事の限界を自分の肌で理解しない限り、いつまでも成長しないという話は至極まっとうだし、子ども同士が諍うことに対してアレルギー反応を持たずに、じっくりと大人側が待つ必要がある、それが子どもの民主主義を育てるという主張もまったくもってその通りだ。ただ、今は大人が大きくコミットするのが多数派なので、そこで放置していると「なんで注意しないの?」という懐疑的な視線にさらされるリスクもある。だからこそ、社会全体が余白を持つ必要があると感じた。それが利他的関係性に繋がっていくだろうと思いつつも、今の社会に蔓延る息苦しさが霧のように晴れる日は来るのだろうか…

 いろんな見立てが出てくるのだが、その中で一番個人的にしっくりきたのは人類学者であるティム・インゴルドによる「迷路」と「迷宮」の対比だ。

「迷路」はゴールへたどり着くという意図があり、なるべく最短ルートで目的地を目指す。ゴールへのルートから外れてしまったり、立ち止まったり、引き返したりすると、「失敗」になってしまう。それに対して「迷宮」は、途中で足を止め、脇道にそれ、道草をしたり寄り道をしたりしながら、周囲に注意を払い、感性を研ぎ澄ませて、驚きや発見のプロセスを楽しむ。

これが今の遊びの状況を端的に示している。つまり、迷宮ではなく迷路化している。(著者は「公園の遊園地化」とも言っていた。)公園で遊ぶにしても、迷路的な遊具をルールどおり遊ぶのではなく、一工夫して遊んだり、迷宮的な原っぱや木立で積極的に遊び、余白を楽しむことを意識していきたい。

2025年1月16日木曜日

にがにが日記

にがにが日記/岸政彦

 ウェブ連載時に読んでいて、いつのまにかフェードアウトしてしまったが、書籍化されたことを知って読んだ。社会学者ではなく、人間・岸政彦の脳内をひたすらのぞいているような日記でオモシロかった。

 2017〜2022年まで各年の特定の期間に書かれた日記と、飼い猫である「おはぎ」との最後の日々を綴った日記の二部構成となっている。日記はZINEを筆頭としてブームが続いているが、著者の日記のダダ漏れっぷりは他の追随を許さない。脳内で思いついたことをキーボードに叩きつけている様が容易に想像できる。普通なら、この叩きつけたネタ帳を推敲していくのだろうが、あえてそのままにすることで、思考のフローを読者にトレースさせるような構成がユニークだった。一筆書きであり、日々のこと、考えている断片が矢継ぎ早に飛び込んできた。読み進めるにつれて、その離散っぷりは加速していくのだが、反比例するようにそのグルーヴがクセになって魅了された。

 「適当に」書いているので、打ち間違いを含め校閲で問題になりそうな部分を、あえて日記の中で校閲の人に語りかけて、間違いをそのまま残させる、そのメタ的な日記スタイルは日記本というフォーマットの「読み手がいないように書くが実際はいる」という不在の中の存在を明らかにしており興味深かった。そんな適当な中でも、50代に突入した著者による人生論よろしく、人生の真理に迫るような論考がふっと書かれているから油断ならない。子どもがいる分だけ可変的な要素があるものの、こと自分だけにフォーカスしてみると人生はルーティン化して硬直しがちだ。本著ではライフイベントと自身を対比しながら、にがくなりがちな人生をどのようにご機嫌に過ごしていくのか、考えている様子が参考になった。また幾多の書籍で既に自明ではあるが、生活と地続きの中で放たれる言葉にシビれた。

 後半の「おはぎ」という飼い猫の最後を看取る日記はハードだった。人間の介護と遜色ない、予断を許さない状況に息が詰まるし、著者およびパートナーのおさいさんの「おはぎ」に対する思いが溢れんばかりに伝わってきた。動物を飼ったことも看取ったこともないが、それでも胸に迫るものが相当あったので、同様の経験をしたことがある人は読むのに覚悟がいるように思う。もしくは来たるべき未来への予習と捉えるか。「喪失」に対する受け止め方の話であり、パートナーであるおさいさんの言葉が喪失に伴う寂しさを際立てるのであった。

おさいが、好き好きって言ったらむこうもごろごろ言いながら好き好きって言ってくれる、そんな相手がもうおらん、って言ってた。同感だ。好きな相手が世界から消えてしまっただけでなく、自分のことを好きだと言ってくれる、態度で示してくれる相手が世界から消えてしまった。

 2024年の今読むと、日記に何度も登場している立岩氏、打越氏の両名がこの世にいない切なさが胸に去来する。私たち読者は彼らの残した文を読み、語らうことで弔うしかないと改めて感じたのであった。ということで積読している『ヤンキーと地元』を読む。

2025年1月15日水曜日

2024/12 IN MY LIFE Mixtape


 もう誰も2024年の音楽の話をしていないと思うけど、無事に1年間完走したので記録として書いておく。ここ数ヶ月はもうSoulectionのおかげで、知らない新譜との遭遇率は上がるし、そのクオリティは死ぬほど高いので、聞く音楽に困らない状況だった。そして、12月も継続といった感じだった。やはりクリスマスムードに引っ張られて、バラードとか聞きたくなるのは音楽特有だと思う。(クリスマスにクリスマス題材の映画や本を見たり、読むより圧倒的にハードルが低いからだろうけど)

 ミクステスタイルをとったことで、ここ数年のひたすら新譜だけを追い続けるだけの主体性のない音楽リスニング体験から少しは逸脱できた気がする。毎月曲順考えて、ジャケ用意してという作業も好きだった。そして、一番大きかったのは車が運転できるようになったこと。車で自分のプレイリストを聞きながら街を流すのは、心がリラックスする効果が如実にあった。あと聴きたい音楽に悩んだときに、とりあえずプレイリスト選んでシャッフルできるのもいい。

 2024年のラップアップはこんな感じ。プリンスの本を読んだり、ISSUGIのライブ行ったり、そういった繰り返し聞くための動機があってこそ、何度も同じものを聞くことがデータからわかる。21 savage は1月リリースで一番好きだったから、結果的に一番聞いたのだろう。ストリーミングサービスの年末のラップアップは、ファクトフルネスなアプローチ、つまり客観的な再生データであり、そこに個人の思いは載っていないことは意識しておきたいところだ。SNSで「特定のアーティストの再生回数上位何%かに入っている」というアーティストに対するロイヤリティの示し方は未来が来ていると感じた。


 2025年は月単位でまとめるのは止めて、一つのプレイリストに貯めていくスタイルかな。ちなみに12月のジャケットは子の手作りアドベントカレンダー。これでも毎日シール貼ることを楽しみにしていた健気さに胸が洗われた。


2025年1月10日金曜日

エドウィン・マルハウス

エドウィン・マルハウス/スティーヴン・ミルハウザー

 「2025年は海外文学を積極的に読む」というなんとなくの目標のもと、印象的な表紙でずっと気になっていた本作を読んだ。年末年始にふさわしいボリュームとクレイジーな内容にぶっ飛ばされた。架空の伝記から浮かび上がってくる、子どもの頃のときに甘く、ときに薄暗い思い出が、走馬灯のように頭を駆け巡る特殊な読書体験だった。

 タイトルにあるエドウィン、そしてジェフリーという小さな男の子二人が主人公の物語で、ジェフリーが書いたエドウィンの伝記という設定。エドウィンは11歳にして亡くなってしまうのだが、そこに至るまでの過程を、伝記と称して事細かに描写している。物語を描く上で、どれだけの土台を用意して展開していくか、作家によってその塩梅は異なる中、本著はとんでもないレベルの描き込みの質と量を誇る。0歳〜11歳までと時間が短いとはいえ、一事が万事、冗長に語り倒している。したがって、物語が展開する速度は遅く、読んでも読んでも進まないページに何度か心が折れそうになった。しかし、過剰な愛情が注ぎ込まれた箱庭を愛でる、楽しむように読んでいると、自分の懐かしい気持ちが刺激されて、自分のパーソナルな記憶とオーバーラップして読めた。

 子ども時代特有の人間関係、そのリアリティの高さも特筆すべき点だ。特にエドウィンの初恋、不良との邂逅の二つは最大の読みどころだ。子どもが人間関係を通じて社会を知り、己の認識が拡張していく様をこれだけ瑞々しく描ける著者の想像力よ。小説は一人間の妄想といえば身も蓋も無いが、これだけ痛感させられる小説もなかなかない。伝記なので、エドウィンの感情そのものが直接描かれるわけではなく、他者から見たエドウィンの様子が、その内面に深く入り込むように、細かく描写されている点がユニークだった。しかも、わずか11年間を幼年期、壮年期、晩年期とチャプター分けしている。幼年期なんて、エドウィンが赤ちゃんの頃の話について、同じく赤ちゃんであるジェフリーが見ていて、成長した11歳のジェフリーが驚異的記憶力で当時を回想、描写しているという設定がクレイジー過ぎてオモシロい。

 訳者あとがきでも指摘されているとおり、ジェフリーの他人の人生に対する異常めいた眼差しが際立っている。特に終盤にかけて、伝記の著者として筆が乗ってくる様が、最悪で最高だった。前半は、記憶とクロノジーの違いに触れながら、彼自身が伝記作家としての矜持を述べる場面もあり、事実描写に徹している。しかし、後半にかけては表現したい自我が抑えられず、アクセルが加速していき、比喩表現などが大幅に増えて、冗長な語り口へと変化していく。最後、エドウィンが目の前で亡くなったにも関わらず、大きく振りかぶった語り口は、伝記作家というより小説家である。つまり、小説になりそうな題材が目の前にぶら下がっていて、それに飛びついたように映る。一億総ツッコミ社会の今、他人の人生で自己承認を満たす様は自分を含めて、そこかしこで散見されることである。それがいかにうす気味悪いか、本著を読み終えた頃に気付かされるのであった。ただ「アーティストはアートを生み出し、伝記作家はアーティストそのものを生み出す」というジェフリーの言葉はカウンターとしては機能していた。トートロジーではあるが、優れたものを「いかに優れているか?」アーティスト以外の誰かがそれを表現するからこそ後世に残っていくことは間違いない。

 エドウィンが残した傑作に対して、ジェフリーが必要以上に意味を見出そうとする姿勢も今の考察ブームを先取りしているかのようだ。作成者が何も意図していない物語に意味や解釈を与えていくのは批評であるが、作者の意図を直接当てたい考察の虚しさ、本人に意味を直接聞いて何も返ってこないから失望するというのは勝手が過ぎる話だ。

 伝記作家が主人公で、さらに伝記を描く対象も想像上の幼い小説家というメタ展開。これを思いついて、事細かに描き倒す著者の作家としての胆力は並大抵のものではない。読んでいるあいだ、何を読まされているのか、頭がクラクラしたが、読書だからこその味わい深さがあった。

2025年1月5日日曜日

子どものものさし

子どものものさし/松田道雄

  『育児の百科』という子育てバイブルの著者によるエッセイ集。底本が別にあり、平凡社が編み直したものらしい。1960年代に書かれたとは思えないリベラルな視点で2025年の今読んでも参考になる点が十分あった。

 ざっくり分けると、前半は育児と教育、後半は医療、それぞれに対する著者の所感が書かれている。戦前、戦後を経験した小児科医である著者の意見の数々は貴重なものだ。講義録はかなり読みやすいのだが、著者自身の文章は割と硬いので、「道徳論」のような抽象度の高い議論は若干読みにくさを感じた。ただ、主張それ自体がどれも興味深いので、硬い割に楽に読み進めることができた。

 育児をしている身からすると、やはり前半パートが特に興味深かった。保育園という世界をここ2年ほど見ている中で、これだけ大変かつ尊い仕事があるのか、と毎日通いながら感じている。その感触について、なかなか言語化できていなかったのだが、著者がことごとく代弁してくれていた。保育園は幼稚園や小学校のようにわかりやすい教育の機会はなく「預けているだけ」といった先入観を入園前は持っていた。しかし、実際に預けるようになると、「教育」が意味するところは、単なる「お勉強」ではないことを痛感した。以下のラインはまさにそれを象徴している。

保育は保管ではありません。 それは、保育は教育だからであります。教育は人間と人間とのつながりの中でしかありえないことが忘れられているのは現代の悲劇であります。 教育というのは、自分たちの時代の文化をつぎの時代にゆずりわたすことです。

 大人の都合で、その場にある子どもの思いを汲み取り切れないとき、怒りの感情に支配されてしまう。しかし、しばらくすると、なぜ少し譲歩できなかったのかと悔いる気持ちも湧いてくる。最近の育児では、この感情の起伏の繰り返しなのだが、タイトルにもなっている以下のラインは常に意識しておきたいことであった。

子どもにたいして、おとなのものさしではかったものだけをあてがって、子ども自身にものさしをつかう機会をあたえないのが、現在の教育だ。

 上記のとおり、著者は子供各人の個性を尊重する必要性を繰り返し主張していた。しかし、日本の教育は「右へ倣え」がどうしても前に出てくる。今よりも協調性が強制されていた時代に「書き順に意味なんてない」「左利きを矯正する意味なんてない」など、アグレッシブな意見が多い。このように、なんとなく従っている教育上の暗黙の了解に対して、積極的に自分の意見をぶつけていく点が興味深かった。

 全体にリベラルかつ理想を多く語っている点から著者の熱い思いを感じる。当時と今では未来に対する期待値が異なるとはいえ、教育、育児、医療についてあるべき姿を力強く唱える姿勢にエンパワメントされた。また、医者という職業柄ゆえの死生観について、ここまで丁寧に言語化できることに脱帽したのであった。論理と情緒が相反することなく、一体となっている文章の数々は本当にかっこよく、これぞ古びないクラシック。

自分は死ぬ。しかし、自分の分身であるものは、明日もまた今日のように生きつづけるだろう。自分のからだの一部は、この世にのこって、太陽の光をあびるのだ。その連続の幻想で、断絶の事実をおおうのだ。