2025年1月5日日曜日

子どものものさし

子どものものさし/松田道雄

  『育児の百科』という子育てバイブルの著者によるエッセイ集。底本が別にあり、平凡社が編み直したものらしい。1960年代に書かれたとは思えないリベラルな視点で2025年の今読んでも参考になる点が十分あった。

 ざっくり分けると、前半は育児と教育、後半は医療、それぞれに対する著者の所感が書かれている。戦前、戦後を経験した小児科医である著者の意見の数々は貴重なものだ。講義録はかなり読みやすいのだが、著者自身の文章は割と硬いので、「道徳論」のような抽象度の高い議論は若干読みにくさを感じた。ただ、主張それ自体がどれも興味深いので、硬い割に楽に読み進めることができた。

 育児をしている身からすると、やはり前半パートが特に興味深かった。保育園という世界をここ2年ほど見ている中で、これだけ大変かつ尊い仕事があるのか、と毎日通いながら感じている。その感触について、なかなか言語化できていなかったのだが、著者がことごとく代弁してくれていた。保育園は幼稚園や小学校のようにわかりやすい教育の機会はなく「預けているだけ」といった先入観を入園前は持っていた。しかし、実際に預けるようになると、「教育」が意味するところは、単なる「お勉強」ではないことを痛感した。以下のラインはまさにそれを象徴している。

保育は保管ではありません。 それは、保育は教育だからであります。教育は人間と人間とのつながりの中でしかありえないことが忘れられているのは現代の悲劇であります。 教育というのは、自分たちの時代の文化をつぎの時代にゆずりわたすことです。

 大人の都合で、その場にある子どもの思いを汲み取り切れないとき、怒りの感情に支配されてしまう。しかし、しばらくすると、なぜ少し譲歩できなかったのかと悔いる気持ちも湧いてくる。最近の育児では、この感情の起伏の繰り返しなのだが、タイトルにもなっている以下のラインは常に意識しておきたいことであった。

子どもにたいして、おとなのものさしではかったものだけをあてがって、子ども自身にものさしをつかう機会をあたえないのが、現在の教育だ。

 上記のとおり、著者は子供各人の個性を尊重する必要性を繰り返し主張していた。しかし、日本の教育は「右へ倣え」がどうしても前に出てくる。今よりも協調性が強制されていた時代に「書き順に意味なんてない」「左利きを矯正する意味なんてない」など、アグレッシブな意見が多い。このように、なんとなく従っている教育上の暗黙の了解に対して、積極的に自分の意見をぶつけていく点が興味深かった。

 全体にリベラルかつ理想を多く語っている点から著者の熱い思いを感じる。当時と今では未来に対する期待値が異なるとはいえ、教育、育児、医療についてあるべき姿を力強く唱える姿勢にエンパワメントされた。また、医者という職業柄ゆえの死生観について、ここまで丁寧に言語化できることに脱帽したのであった。論理と情緒が相反することなく、一体となっている文章の数々は本当にかっこよく、これぞ古びないクラシック。

自分は死ぬ。しかし、自分の分身であるものは、明日もまた今日のように生きつづけるだろう。自分のからだの一部は、この世にのこって、太陽の光をあびるのだ。その連続の幻想で、断絶の事実をおおうのだ。