2025年3月19日水曜日

風景のほうが私を見ているのかもしれなかった

風景のほうが私を見ているのかもしれなかった/飴屋法水・岡田利規

 信頼のpalmbooks のサブレーベルとしてtiny palmbooksが立ち上がり、その第一弾として本著がリリースされたので読んだ。アーティストによる芸術論を久しぶりに読んだので、脳がスパークするかと思うほど、刺激的なやり取りに興奮した。それを支える「紙の本」としての造形も、palmbooks印であいかわらず素晴らしく、うっとりした。

 まず始めに造本について触れざるを得ないほど、今回は攻めた形の本となっている。縦開きかつ裏面に文字がないので、見た目はメモ帳そのもの。この造本の特徴が活きてきたのは、読み終えた後、改めて内容を見返すときだった。メモ帳のようにパラパラとめくる動作がとてもクセになる。断片的なメモのようなものではなく、書簡や対談といった文の連なりを、このような動作で探し、読むことのダイナミックさは唯一無二である。また、書簡が横書き、対談が縦書きとなっているのは、終盤にある飴屋氏による発言のインスパイアかと思われ、「読書は日々の営みである」というメッセージを受け取ったのであった。

 2010年に行われた往復書簡、2024年に行われたトークショー、その後に行われた追加の往復書簡の三部から構成されている。いずれのパートでも「演劇とは何か?」が主題となっており、抽象と具体を行き来するスリリングなやり取りが興味深い。役者と役はイコールではない、役者は役を投影するスクリーン、役者同士で生じたリアクションではなく、俳優から観客に向けてのリアクションのみがある、など演劇を見る上で楽しみが増えそうな複雑なレイヤーに関する議論が繰り広げられている。テーマは多岐に渡るのだが、往復書簡および対談というフォーマットゆえに語り口が平易なので二人の言葉がスルスル入ってきた。

 クリエイティビティのあり方について、言葉を尽くして話し合っているところにグッとくる。お互いを信頼し合っているからこそ、前提を色々すっ飛ばして、いきなり演劇や演技のプリミティブな要素について話されており、逆説的に門外漢でもとっつきやすいクリエイティビティ論となっている。

 タイトルにもなっている「風景」をめぐる議論が本作を貫くテーマだ。演出家と役者の関係が対等かどうか、飴屋氏は二者間の関係で捉えるのではなく、何か別の第三者との距離をもってして、演出家、役者の関係性が対等である、つまり、演出家、役者と第三者の距離は等しいと主張していた。そして、その第三者について岡田氏の劇中のセリフを参照して「風景」と呼んでいた。この考え方を踏まえると、以前に読んだ飴屋氏の小説『たんぱく質』に対する理解が進んだし、さらには岡田氏が対談で唱えていた『たんぱく質』における同心円のイメージにも納得した。また、岡田氏は「風景」を「神さま」という形でとらえており、無神論者だけども「神さま」を感じるのはどういうことなのか、一種の神学論のようなものが展開されており興味深かった。

 両者とも小説を書くので、小説と演劇の違いについても話されており、他者が必ず介在する演劇と、個人で完結する小説。その相似と相違についても話されていたので、二人が書いた小説を次は読みたい。(時間が許せば演劇も見たい…!)

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