2024年4月30日火曜日

黒い海 船は突然、深海へ消えた

黒い海 船は突然、深海へ消えた/伊澤理江

 ノンフィクションを読みたくなったときには大宅壮一ノンフィクション賞を参考にしており2023年受賞作品ということで読んだ。超一級の調査型ノンフィクションでめちゃくちゃオモシロかった。愛想のない無骨な表紙からしてシビれるのだが、ジャーナリズムとはこういうことよなと惚れ惚れするような内容だった。

 2008年に起こった海難事故を題材としており、具体的には第58寿和丸という漁船が突如沈没、行方不明含めて17名の方が亡くなった。この事故については原因が定かとなっておらず著者が丁寧な取材をベースに確信へと迫っていく構成となっている。まず冒頭で著者が取材をベースとして事故当時の様子を三人称視点でまるで映画を見ているかのような激しいタッチで描いている。それにより海難事故の恐ろしさが脳髄まで叩き込まれ「なんでこんなことが起こるわけ?!」という興味関心が読んでいる間ずっと持続していた。しかもこの事故は発生当時は秋葉原の通り魔の報道でかき消えてしまったらしく、さらに調査報告書が出たのは311直後の2011年4月。17人も亡くなっているにも関わらず人の目に触れてきていない。そういった日の目を見ていない事故に光を当て闇を紐解いていくのは一級のミステリーさながらだった。

 「コツコツ」という言葉がこれほどピッタリなノンフィクションが日本にどれだけあるだろうか?推論を立てて証拠に基づいた裏どりを進めていく。そして取材対象に対して真摯に向き合い証言を集める。一歩一歩は小さいかもしれないが、点と点を線にする作業はあらゆる仕事で必要な姿勢であり、著者の文章から仕事の足腰の強さがにじみ出ていた。これとか至言。

社会の出来事を掘り起こして記録に残すという営み、つまり、事実のかけらを拾い集めてつなぎ合わせるという作業には、おそらくタイミングというものがある。どんなに重要な出来事であっても、そのタイミングを逃せば真実には半永遠的にたどり着けない。

 近年起こった海難事故といえば知床の件を想起したのだが、あの事故をニュースで知ったときに得体の知れない恐怖を感じた。それが一体何なのか当時は深く考えなかったものの、この事故における生存者の以下のラインがその正体を非常にうまく言語化していた。

普通に明日も明後日も生きれるんだと思っているのに、『あと 30分後に死ぬんだよ』って急に突きつけられた。もう、あの人に会いたい、あれもしておきたいってことが一つもできない。そういう未練だ。何歳までも生きたいっちゅう未練じゃなくて。やりたいことが何もできないで死を迎えるくらい未練が残ることはないんだ。あの怖さは未練だ。命を奪われるかもしれない状況になって、その覚悟ができていなかった

 終盤は日本の情報開示に関する問題が顕在化する話へと展開していく。公文書改竄事件でも明らかになったとおり誰かが決めた結論ありきで猪突猛進し他者からの意見、批判を受け付けないし何も開示しないといったここ数年の問題が当事故でも発生している。「秘密にしておけばバレないし証拠もないから大丈夫っしょ」というムーブを国側がかましまくっていることに驚くしかない。こんな大きな事件でさえ起こっているんだったら、ゴキブリのように小さな嘘や偽りはごまんとあるかもしれない。法治国家にも関わらず国民がそんな疑いを持たざるを得ない時点で腐敗は進んでいることがよく分かる。さらに腐っているからといって白黒はっきりつけようと前に進むことができない点も日本社会の苦しいところ。清濁併せ吞みながら、それこそ黒い油を呑みながらでも真実に対して愚直にアプローチすれば道は開けていくはず。そういった祈りを託すかのようなエンディングもグッときた。これが著書としては1作目というのはまるで信じられない。また著者の作品が出れば必ず読みたい。

長い読書

長い読書/島田潤一郎

 夏葉社を経営する著者の最新作。出版元がみすず書房でこのタイトル、この装丁なら買わざるをえないということで読んだ。過去のエッセイと比べ今回はかなりパーソナルな話が多く集大成のような印象を受けた。

 タイトルからすると読書論を期待するかもしれないが半自伝といってもいい。著者の人生において本および読書がどういう存在であったかを柔らかい言葉で描いている。前半は学生時代の話が中心で何者でもない学生が小説家を目指そうとする過程はかなり赤裸々だ。読んでいると自分の承認欲求を大いにくすぐられる。ルサンチマンを発揮してもおかしくなさそうなシチュエーションの中で本、読書によってそのギリギリで踏みとどまれていたのかもしれない。今でこそ誰でも文章を数秒でネットで発信できる時代だが、誰かに何かを読んでもらう行為のハードルが高い頃の話は今読むと興味深かった。また自分が学生だった頃に通り過ぎていった先輩や友人のことをたくさんレミニスし皆元気でやっているだろうかという感傷的な気持ちにもなった。

 本や読書に対して真摯に向き合っている点が著者の魅力であり、本著ではそれがいかんなく発揮されている。一読者として、さらに編集という仕事を通じて多角的な読書論が展開され興味深い話がたくさん載っていた。前者の一読者という点では文体の話が興味深かった。特定の作家に惚れ込むことで手持ちのボキャブラリーが変化、さらにはその組み合わせも変化することで新しい文体を形成していく。そして、その文体変化に伴い思考も変遷していくというのはまるで脳科学のような話である。その言葉の組み合わせから生まれる文学の可能性として以下のラインにグッときた。

作家たちは難解な言葉をつかうのではなく、学生たちがつかうような言葉を駆使して、彼らにしか表現できない世界をつくった。それはスクリーン越しに眺めるような、遠くの美しい世界ではなかった。ぼくが読んでいる「文学」は言葉をとおして、読む者のこころの奥底に深く浸透していくような世界だった。

 後者の編集という観点ではリーダブル論が特に刺さった。読みやすさは意図して設計されており自然に起こるものではない。さらに時代性があるから今の本の方が読みやすい。そういったことを踏まえて古典を読むことの意味を説いており新鮮だった。そして序盤に展開される著者が初めて村上春樹を読んだときの印象的なエピソードもあいまって「読む」ことの難しさ、オモシロさが浮かび上がってくる。自分自身は世間一般の人より本をたくさん読んでいるが、どうしても新刊ばかり読んでしまい古典に手が伸びない。著者のような温故知新の観点で言語感覚を更新していく姿勢は見習いたい。読書離れが嘆かれて久しいが読んでいる人は読んでいる。そしてネット上で玉石混交の情報が加速度的に増していく今、本を読む行為の尊さは輝きを増す一方だからこそ今日も私は本を読む。

ニュー・サバービア

ニュー・サバービア/波木銅

 著者に前作である万事快調<オールグリーンズ>がかなり好きだったので読んだ。好みでいうと前作だったが、B級映画的なスラップスティックなアプローチはハマる、ハマらないが色々なので好きな人は好きな作品のはず。

 過去に小説家志望だった配達員の仕事をする馬車道という女性が主人公で、その幼馴染二人が脇を固める。女性が主人公なのだが言葉遣いはかなり乱暴で読んでいるあいだ女性ではなく男性だと勘違いしてしまうことが多々あった。小説は文字しか情報がないので、そこから性別を含め登場人物の情報を推し量るわけだが自分の言葉遣いに対する先入観に気付かされた。著者はこの点に意識的であり、作中では言葉遣いではなく骨格を使って同様に性別に対する先入観への違和感を今話題のトイレを使ってインサートしている。性別は誰かに決められるものではない、それは小説を読む際も同様だ!という力強い宣言に取れた。

 荒唐無稽な展開の連続で石が転がるようにプロットが展開していくので読んでいるあいだ飽きることはない。謎の生命体(ニュー・サバービア)が登場してからは完全にB級SFの様相を呈しておりページを捲る手は止まらなかった。小説家志望という設定もあいまってメタ的な展開もあったり、前作に続き固有名詞の積極的な引用も盛り沢山でカルチャーに対する愛はそういったギミックから感じた。そんな中でもハッとするラインがあり、そのギャップが魅力だった。例えばこの辺。

食い物を運んで行ったり来たりの繰り返しだ。地元よりもさらになにもない田舎に住んでいた祖母が、家畜にエサを与えて回っていたときの姿を思い出す。

「安くて質のいいもの」はおしなべて人権を侵害することによって生み出されている。そんなものを手にしたくない。でも、それを手にしなかったら飢える。死ぬ。

べつに恵まれていないのにその場から動こうとしないのも、なんだか郊外生活者的だ。

 原発事故による放射能汚染されたエリアを舞台にするのも新鮮に映った。「アンダーコントロール」と言い放ちながら問題は山積みにも関わらず皆が存在を忘れてしまっているから。国の中に放射能で汚染された立ち入りできないエリアが存在することの異様さをスラップスティックな表現で伝えようとする志の高さは若い作家だからこそかもしれない。それは簡単に長いものに巻かれてたまるかということだ。見た目は軽薄だけど実は骨太というのは一番かっこいい。次回作も楽しみ。

2024年4月26日金曜日

本物の読書家

本物の読書家/乗代雄介

 Kindleのセールで買って積んであったのを読んだ。これまで著者の作品を何冊か読んでいるが、その中でも最も読むことが難しい一冊だった。タイトルにあるように「本物の読書家なのか?」と試されているのかもしれない。キャリア2作目ということで、その後のスタイルの萌芽を目撃できるという点では読んでよかった。

 「本物の読書家」「未熟な同感者」の2つの中編が収録されている。タイトル作である前者は読み終わった今となっては後者に比べてかなり読みやすく、そしてエンタメ性があった。叔父に付き添って電車で老人ホームまで向かう電車の道中で起こる文学与太話。隣の席に座る見ず知らずの文学おじさん、叔父、主人公がお互いの腹を探り合う様は探偵ものを読んでいるような感覚だった。特に見ず知らずのおじさんが関西弁で真相を突き詰めようと迫ってくる様は名探偵コナンの服部を彷彿とさせ懐かしい気持ちになった。川端康成のゴーストライターが叔父だったのでは?というのが大きなテーマなのだが、そこに至るまでの良い意味でのまわりくどさは著者の特徴と言える。エンタメとして最適化するときに切り落とされる日常、生活の空気のようなものが拾い救われているのを読むと心がフッと軽くなる。合わせて文学論も語られているのだがナボコフの以下引用がグッときた。

文学は、狼がきた、狼がきたと叫びながら、少年がすぐうしろを一匹の大きな灰色の狼に追われて、ネアンデルタールの谷間から飛び出してきた日に生まれたのではない。文学は、狼がきた、狼がきたと叫びながら、少年が走ってきたが、そのうしろには狼なんかいなかったという、その日に生まれたのである。その哀れな少年が、あまりしばしば噓をつくので、とうとう本物の獣に喰われてしまったというのは、まったくの偶然にすぎない。しかし、ここに大切なことがあるのだ。途轍もなく丈高い草の蔭にいる狼と、途轍もないホラ話に出てくる狼とのあいだには、ちらちらと光ゆらめく仲介者がいるのだ。この仲介者、このプリズムこそ、文学芸術にほかならない。

 後者である「未熟な同感者」は大学の文学論のゼミの講義内容、サリンジャーの小説、そしてゼミに参加するメンバーの様子が入り乱れて描かれる複雑な小説で正直かなり読みにくかった。読み進めることはできるものの目が滑りまくって何を読んでいるのか分からなくなる瞬間が何度もあった。現実パートも著者のフェティッシュを感じさせる内容に今のスタイルと共通する点を見出しつつも荒削りのように感じた。こんな風に感じる私は未熟な同感者なのだろう。本物の読書家への道のりは険しいのであった…

2024年4月23日火曜日

音楽と生命

音楽と生命/坂本龍一、福岡伸一

 先日NHKで放送された坂本龍一のドキュメンタリーが信じられないほど心に刺さってしまい今更ながら著書を追いかけようということで読んだ。対談相手の福岡伸一の受け身のうまさもあいまって極上の対談となっていて興味深かった。

 2017年に放送された番組での対談内容に加えてコロナ禍真っ只中である2020年の対談が追加された構成となっている。対談の文字起こしなのでラジオを脳内再生しているように読めるのが特徴的で難しい話も入ってきやすい。まず驚いたのは坂本龍一が学者である福岡伸一とこれだけ会話をスイングできること。彼が単なる一音楽家にとどまらないことは晩年の社会にコミットする活動などから知ってはいたが、その背景に膨大な知識と思慮深さがあることが本著から伺い知れる。当然それを引き出しているのは福岡伸一だとも言えて2人の相性が本当に素晴らしく会話がずっとスイングしているので、いくらでも読みたかった。特に生物学と音楽の対比、アナロジーの展開が見事。ひたすら点と点が線で繋がっていくオモシロさが多分にあった。しかし続編はもう叶わぬ夢となってしまったことが悲しい。坂本龍一が死について直接言及しているラインはドキュメンタリーで壮絶な最後を見たばかりなので沁みた。生命は利他的であるべきであるが、利己的な生きることへの執着も捨てがたい。結局は諸行無常でしかないことを痛感させられた。

 対談の一番大枠を捉えればロゴス(論理)とピュシス(自然)になるだろう。シンセサイザーを使って音楽をロゴスで捉えた音楽家とDNA解析という論理で名を挙げた学者。この2人が自然回帰の重要性を説いている点が興味深い。ロゴスの山の頂に登ったからこそ見える景色があるというのは本当のプロだけが言える言葉であり、その辺のロハス風情が説く印象論レベルのSDGs与太話とは納得度が雲泥の差であった。AIの台頭もあいまってさらに世界はロゴスにより加速度的に支配されつつあり、そこから逸脱したものを忌避する傾向さえある。そんな状況下ではロゴスからはみ出すことに魅力があり、さらにピュシスと真摯に向き合えればなおよしだと受け取った。

 本著を読んで坂本龍一のカタログをよく聞くようになったのだけど、なかでも対談当時にリリースされた『async』の解像度がかなり上がった。このアルバムは坂本龍一の音に対するアプローチが表現されており音だけ聞くよりもその背景、思想を踏まえて聞くと全く違う風に聞こえる。音楽は奥深い。また坂本龍一がヒップホップに対してサンプリング許可を寛大に与えていたのはヒップホップの非論理性に惹かれていたからなのかと夢想した。次は最後の日々が綴られているという『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』を読む。

2024年4月18日木曜日

TRIP TRAP

TRIP TRAP/金原ひとみ

 最後の音楽:|| ヒップホップ対話篇という本で菊地成孔氏が紹介していて気になったので読んだ。著者の小説は昔は熱心に読んでいたが久しぶりに読むと自分が歳をとったこともあり理解できる感情が多く楽しめた。

 短編が6作収録されており主人公はいずれも女性かつ一人称。タイトルどおり国内外問わず旅行に行ったときの感情の機微が丁寧に描写されている。こないだエッセイを読んだ際にも感じたが日常における小さな違和感を見つける観察力とそれに対してぶわーっと感情が溢れだしていく文章の連なりがユニーク。引き算して行間で魅せるというより足し算でゴリ押しスタイルなので活字中毒者には心地よくグイグイ読んだ。

 菊地氏が紹介していた「沼津」や「女の過程」といった短編はヤンキーの生息する社会が文学という形で表現されている稀有な例であった。氏が言う通り濃厚なヒップホップの匂いがそこにある。著者自身の出自もあいまって「中卒の言葉にやられちまいな」というAnarchyのラインを引用したくなる。

 1つ目の短編から家出というトリッキーな旅行から始まるあたりに一筋縄ではいかない著者を垣間見た。短編はいずれも直接はつながっていないが、中学生、高校生から妻、母と読み進めるにつれて主人公のライフステージは変化していく。登場人物の名前も一部重複しているので、一つの世界線として読むこともできるだろう。その観点でみると若い頃はとにかく異性に依存していたい気持ちが悪びれることなく全面に表現されているが、子どもを持つ主人公になると破綻してくる。異性に依存する側から子どもから依存される側への移行に伴う心情描写がかなり正直だった。特に男性が育児に関わらないことで女性が育児に「トラップ」され自己犠牲を極端に強いられることに対して懐疑的であり「育児も当然大事だが自分の人生が押し潰されるなんておかしい」という主張が2009年時点で放たれている点がかっこいい。タバコを吸いながら泣いている子どもが乗ったベビーカーを押しているシーンがその際たる例で小説だからこそできる表現だろう。未読の作品がまだまだあるので時間見つけて他の作品も読みたい。

2024年4月17日水曜日

女たちが語る阪神・淡路大震災

女たちが語る阪神・淡路大震災

 1003 という書店で「Women's Reading March 2024」という特集が組まれており、その特典ペーパーを眺めていたときに知って読んだ。自分自身は当時モロに被災して大阪に引っ越したりしたのだが、小学1年生だったため記憶も曖昧、そんなに辛かった記憶もない。(子どもにとっては非日常が一種のエンタメになっていたのかもしれない)そんな断片的な記憶の中で本著を読むと色々と思い出すことがあった。ただそれよりも知らなかった事実に驚くことが多く当時からの課題が今でも解決されていないことに遠い目にもなった。我々はあまりにも忘れやすいのかもしれない。ゆえにこういった証言集がいかに貴重なものかを理解できた。

 ウィメンズネット・こうべという現在はNPO法人の団体が編集した本著は、震災から1年で発行された震災に関する市井の女性たちの体験エッセイ集となっている。ほとんどすべての証言が女性によるもので震災当時の生の声が克明に記録されており、その過酷さを肌で感じることができる。今でこそSNSがあり各人の体験がシェアされやすい環境ではあるが、当時はマスメディアしかなくこういった経験を共有できる機会は少なかったことが読んでいるとわかる。そんな環境においてウィメンズネット・こうべのような団体は連帯を生み出す装置として機能しており今よりもその存在は重要な意味を持っていただろう。そしてこういった数々の証言を書籍として後世に語り継ぐ志の高さに脱帽する。ネットの海に溺れない紙という媒体の強みを感じるし、200ページ強のボリュームで800円というのは利益どうのこうのではない宣言そのものだ。

 後年、家族と震災について話した際に辛かった経験として挙がっていたのは被害の大きさのギャップだった。直下型地震だったため神戸市や長田市の被害は甚大なものだったが、例えば大阪まで出れば、そこまで大きな被害はなく変哲のない日常がそこにはあった。本著でもそのギャップに苦しんでいた話が載っている。移動して忘れたい人もいれば、その場にステイして忘れられない人もいて、そのグラデーションを生の声で知ることができて興味深かった。

 震災時に女性がいかに大変であるか?さらに別のマイノリティ属性も加わることでさらに困窮してしまう事例がたくさん掲載されている。特に高齢の女性が古い文化住宅に住んでいるケースで死者がたくさん発生したという話は辛いものがあった。マイノリティが災害時に直面する課題は今でも未解決なままのものもあるだろう。災害大国にも関わらず知見が横展開されないまま放置されていることは虚しい。自然災害のインパクトの大きさからマイノリティに対する配慮が極端に少なくなってしまい、それを自助という形で家族に内包させて行政がタッチせず問題がないかのように振る舞うのは愚策としかいいようがない。こういったことが罷り通るのは家父長制を念頭にした家族観がベースにある。最近の共同親権の法律然り思想の問題を放置していると結局それは法律にも反映されてしまう。おかしいことにはおかしいと声をあげる勇気を本著からはもらえる。

 サラリーマンとして一番驚いたのは単身赴任している夫が被災地に帰って来ず妻が1人で家を切り盛りしていたケースがあったということ。今では正直想像つかない。猛烈サラリーマンとして会社に奉仕することが95年時点でも一般的だったのかと思うと約30年かけて少しは前には進んでいると言えるだろうか。性別による役割負担の風潮はまだまだ根強い状況ではあるので、こういった本を読むことで自分の認識を改めていきたい。