2024年4月30日火曜日

長い読書

長い読書/島田潤一郎

 夏葉社を経営する著者の最新作。出版元がみすず書房でこのタイトル、この装丁なら買わざるをえないということで読んだ。過去のエッセイと比べ今回はかなりパーソナルな話が多く集大成のような印象を受けた。

 タイトルからすると読書論を期待するかもしれないが半自伝といってもいい。著者の人生において本および読書がどういう存在であったかを柔らかい言葉で描いている。前半は学生時代の話が中心で何者でもない学生が小説家を目指そうとする過程はかなり赤裸々だ。読んでいると自分の承認欲求を大いにくすぐられる。ルサンチマンを発揮してもおかしくなさそうなシチュエーションの中で本、読書によってそのギリギリで踏みとどまれていたのかもしれない。今でこそ誰でも文章を数秒でネットで発信できる時代だが、誰かに何かを読んでもらう行為のハードルが高い頃の話は今読むと興味深かった。また自分が学生だった頃に通り過ぎていった先輩や友人のことをたくさんレミニスし皆元気でやっているだろうかという感傷的な気持ちにもなった。

 本や読書に対して真摯に向き合っている点が著者の魅力であり、本著ではそれがいかんなく発揮されている。一読者として、さらに編集という仕事を通じて多角的な読書論が展開され興味深い話がたくさん載っていた。前者の一読者という点では文体の話が興味深かった。特定の作家に惚れ込むことで手持ちのボキャブラリーが変化、さらにはその組み合わせも変化することで新しい文体を形成していく。そして、その文体変化に伴い思考も変遷していくというのはまるで脳科学のような話である。その言葉の組み合わせから生まれる文学の可能性として以下のラインにグッときた。

作家たちは難解な言葉をつかうのではなく、学生たちがつかうような言葉を駆使して、彼らにしか表現できない世界をつくった。それはスクリーン越しに眺めるような、遠くの美しい世界ではなかった。ぼくが読んでいる「文学」は言葉をとおして、読む者のこころの奥底に深く浸透していくような世界だった。

 後者の編集という観点ではリーダブル論が特に刺さった。読みやすさは意図して設計されており自然に起こるものではない。さらに時代性があるから今の本の方が読みやすい。そういったことを踏まえて古典を読むことの意味を説いており新鮮だった。そして序盤に展開される著者が初めて村上春樹を読んだときの印象的なエピソードもあいまって「読む」ことの難しさ、オモシロさが浮かび上がってくる。自分自身は世間一般の人より本をたくさん読んでいるが、どうしても新刊ばかり読んでしまい古典に手が伸びない。著者のような温故知新の観点で言語感覚を更新していく姿勢は見習いたい。読書離れが嘆かれて久しいが読んでいる人は読んでいる。そしてネット上で玉石混交の情報が加速度的に増していく今、本を読む行為の尊さは輝きを増す一方だからこそ今日も私は本を読む。

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