何もしない/ジョニー・オデル
以前から気になっており早川の年末セールで半額になっていたので読んだ。タイトルからすると「何もしない」ためのハウツー本かと思われるかもしれない。しかし、そうではなく「何もしない」ことはどういうことか?注意経済との付き合い方、それに対する論考などをガッツリ議論している1冊で興味深かった。
本著における「何もしない」とは文字どおり「何もしない」わけではなく「生産性へ寄与するための何か」や「資本主義に巻き取られてしまう何か」を「しない」ということを大まかには言っている。著者が薔薇の咲く公園でバードウオッチングに勤しみながら思慮を深めていく導入はエッセイのようで読みやすかった。公共空間は企業から干渉されない貴重な空間であり公園を大切にしようという話は、最近公園によく行くようになってうっすら感じていたので、著書と公園の付き合い方は腑に落ちた。
注意経済からの離脱は当然として、その結論に到達するまでの大量の論考が載っている。色んな角度から考えることで付け焼き刃ではなく根本治癒を目指しているような感じ。著者が繰り返し主張していたのは注意の向け方の重要性だった。注意を何かに向けることは時間をどのように使うかに直結し、その注意を広告で金にしていくのがソーシャルメディアを運営する企業である。私たちは自分の意志で何を見て、何を聞くのか決定することが重要であり、それはコンテクストの存在しないただの情報の羅列ではなくもっと根源的なもの(著者の場合は自然だったが)に注意を払うべきであると主張している。我々はそのランダム性に中毒になりつつ恩恵として高速で種々雑多な情報共有の手段を得ているわけだけど、そういった事実に対して意識的にならないと食い物にされているだけなんだなぁと思う。育児、本を読む、音楽を聞くなど自分の人生にとって大切なことに注意を払いたい。注意が散漫になっていることへの痛烈な一文が刺さった。
集団的主体が「注意を向ける」個人の能力を反映し、それに依拠するのであれば、行動が求められるこの時代に注意散漫でいたらどうやら(集団レベルでは)死活問題になりそうだ。意識を集中できず、自らとコミュニケーションがとれない社会的身体は、考えたり行動したりできない人間のようなものだ。
ソーシャルメディアのコンテクストの失われ方や、時の経過と共に人間は変わるというのに変化が許容されないであるとか、従来の人間らしさが失われている現状を嘆いていた。なかでもSNS時代の到来を予見していたようなメロウィッツの思考実験が紹介されており、それが興味深かった。具体的には家族、友人のような特定のオーディエンスと個別にやり取りする際と、家族、友人などが一堂に介してオーディエンス全体でやり取りする際のコミュニケーションの差異に関する実験で、それが今のSNSにピッタリ当てはまっている。つまり全体を意識して当たりさわりないことを話すのか、特定のメンバーに向けて本音のようなことを話すのか。以前はSNSが囲われた世界だったのに対して今はパブリックな場所になった。それゆえの地獄は数多く見たのでかなり納得した。
成長、進展することがすべてであると単純化し、その前提条件にある維持やケアについて顧みられていないことへの言及がありそれには納得した。(訳者あとがきにもあるようにケアの倫理とエンパワメントとシンクロする部分が大いにあった。)そういった雰囲気下で「何もしない」こと、逆に言えば停滞しているように見えても自分にとって意味がある、楽しいことを追求するために「何かをする」ことが注意経済全盛期の今もっとも大切なことなのだと思うので惑わされないように訓練したい。
注意を向けるのをやめるという営みは、本来は何よりも先に心のなかでなされるものだ。その場合、必要となるのは、何かときっぱり決別することではなく、継続的なトレーニングだ。それは、注意を向けるのをやめるだけでなく、注意を別の場所に向けて、拡大増幅させ、その鋭さに磨きをかける能力を身につけるためのトレーニングだ。
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