公園へ行かないか、火曜日に/柴崎友香 |
最近小説読んでいないのでリハビリ的に読んだ。アイオワ大学のライティングプログラムに参加した話をつづった小説であり、虚実の境が曖昧で日記、エッセイ的な小説でオモシロかった。基本は世界中から集まった作家たちのある種のモラトリアム期間の記録というストレートなオモシロさが一番にくる。アメリカでの生活、参加者間のカルチャーギャップ、誰と何を話したかなど。著者は英語が話せないことを悔いている場面も多いが、それも含めてコミュニケーションの記録であり体験記として興味深かった。例えばこんな風。
目の前に確かにあるものと、人の意思や関係ややりとりで成り立っていることと、今自分と話している人が思っていること知っていること、私が理解していることが、常に少しずつずれていて、それがときどき重なったりつながったりして、いくつもの層のあいだを漂っているみたいに、暮らしていた。
以前に滝口悠生さんによるやがて忘れる過程の途中という同じくアイオワ大学のライティングプログラムを題材とした小説を読んでいたので大まかな全体の流れは理解していたが、やはり作家が違えばこれだけ書き口、パースペクティブが異なることが興味深かった。一人称で書かれているのだけども、会話描写が少ないからなのか全体に距離を感じた。観察日記的とでも言えばいいのか。起こっていることと自分の考えの擦り合わせについてたくさん書かれている。特にトランプが大統領選で当選したタイミングで当時の現地の空気を日本の小説家の視点で読むのが新鮮だった。もしかすると距離を感じたのはトランプが生んだ分断の空気の影響もあるかもしれない。実際旅行者とはいえその風に晒されているような描写がいくつかあり、あの頃から世界は少しはマシになったのだろうかと考えたりもした。
日本にいるだけでは、相対的な日本および日本語の価値や意味などが掴みにくい。アメリカで英語で周りの人たちとコミュニケーションを取る中で著者による日本語の論考は興味深かった。端的にはこういうこと。いつかいってみたいアイオワ大学。
ここから見るそこと、そこから見るここ。 ここにいるから見えるそこと、そこにいるから見えるここ。ここにいるから見えないそこ。ここにいるから見えないここ。
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