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世界99/村田沙耶香 |
夏の読書2025、第二弾。ぶってえ本を読みたいと思ってたら、Kindleのセールで合本版がポイント還元で実質半額になっていたので読んだ。村田沙耶香作品はいくつか読んできているが、集大成と思わず言いたくなるような強烈な小説だった。女性が日本で生きる困難さについて、アイロニーをこれでもかとねじ込んで煮詰めた末に出来上がった怪作とでも言えばいいのか。さらに、ジェントリフィケーションが物理的な場所だけではなく、私たちの心のうちにまで入りこんできている現状を描きだしていた。そんなことができるのは、なんでもありの最後の聖域である「小説」というフォーマットだからこそかもしれない。
主人公である空子の一生涯を軸に近未来を描く物語で、女性が経験するイベントや心情を丁寧に追いながら、男性社会の地獄と人間の差別心を徹底的に浮かび上がらせていく。前者については男性社会の最悪な部分を余すことなく列挙し、順番に詰め込んでるレベルで網羅的に取り上げられており、自分の振る舞いを改めて指摘されている気がした。感情移入しやすく、追体験ができるフィクションだからこそ描く意味がある。特に前半で空子が学生の頃に経験する性にまつわる描写の数々がきつい。中学生、高校生の女の子と付き合う大学生、社会人男性の気持ち悪さがここまで言語化されている小説はない 。「純愛」というか、そこに愛があれば成立するかのような言説があるが、権力勾配を利用した性搾取であることを突きつけていた。
後者については、特定の遺伝子を有した人間が差別される社会となっており、見た目でわからない「遺伝子」というファクターで差別が行われる怖さが存分に描かれている。外国人に対するヘイト感情が可視化された今読むと、人間の差別心が増長すると、なんでもやれてしまう怖さを感じた。また検査結果がすべてであり「根拠があれば何をやってもいい」という一種のファクト主義へのカウンターにもなっていた。
近未来要素としてはピョコルンという生き物が挙げられる。はじめは一種の愛玩動物として登場するのだが、物語が進むにつれて、その中心を担う存在となる。具体的には性別役割分担として、女性がこれまで担ってきた家事、出産、子どもの世話などを代行する都合のいい動物へと変化していくのだ。これまで担う側だった女性たちが解放されるわけだが、担う側から頼む側になったことで、自分たちの置かれていた非人道的とも言える立場を自覚すると同時に、辛さがわかるゆえに押し付けることの苦悩に苛まれる。ピョコルンは動物ということもあり、家畜に近い扱いだからこそ、人間サイドの残酷性が思いっきりぶつけられており辛い。この設定によって、日本社会において女性がいかに抑圧されているかを逆説的に強調することに成功していた。物語が進むにつれてピョコルンに女性の「負債」が移行していくことで、著者がリミッターを徐々に解除して、ドス黒い感情を広げていく様が圧巻だった。上巻の終わりのあまりに凄惨すぎるエンディングは言葉を失った。そのエンディングを受けても、人間は自分たちの都合を優先して生きていく、業が深い生き物なのだと言わんばりに厳しい仕打ちが待っており何も救いがない。
物語の軸としてペルソナに焦点を当てている。人は人間関係ごとにペルソナを使い分けている中で、本当の自分なんてどこにもいなくて、己の意志もない。誰かがいて、初めてそこで自分のペルソナが立ち上がるという描写が繰り返される。主人公は各ペルソナを「世界」と呼び、各ペルソナに番号を振っている。その一番後方にいる99番、つまり複数のペルソナを司る空っぽな人間だと自己認識しているペルソナを「世界99」と呼んでいるのだった。これは考察ブームを筆頭としたメタ視点に対するカウンターであり、いろんなものを客観視できたとしても、そこには己の残滓は何も残っていないという指摘に映る。さらに、いくらメタ視点をとっても、その外側には真の意味で客観視できる他人がいるのだから、という無限マトリョーシカ的な構造まで示唆されていた。『コンビニ人間』から一貫してアイデンティティの揺らぎに着目しているが、今回のペルソナの使い分けは、SNSでアカウントをクリック一つでスイッチする様を想起させるもので、より時代にフィットする形にアップデートしたものとなっていた。
専業主婦である自分の母親を「道具」と呼び、自分も便利な道具の連鎖の中にいることを自覚している。つまり、都合のいいように使われるだけの存在であり、そこから彼女は自由でありたいと思っているが、生きていくうえではそうも言ってられない。夫である明人との関係を評した以下ラインが象徴的だった。これらだけではなく、見た目を整えて、男に選ばれることを目指す気持ち悪さを手を替え品を替え表現していた。
明人の便利な生活と人生のための家電になること。その上で性欲処理もし、ゆくゆくは子宮を使って明人の子供を発生させること。私が捨てようと努力している未来は、母が生きてきた地獄でもあった。
自分を養うためだけに自分の奴隷になるか、家畜を飼うことで真の家畜になることはぎりぎりで免れながら、明人の人生と生活のための便利な家電になるか。私は家電を選んだ。
当たり障りがない、摩擦をなるべく起こさない人間を「クリーンな人」と呼び、自分の意見を主張することは暴言と同列で「汚い感情」として取り扱われる。クリーンな人は何も考えずに調和を乱さないように生き、面倒なことは遺伝子の異なるラロロリン人 a.k.a「恵まれた人」がやってくれる。意志がない人間がクリーンな世界を構築し、表向きは何も問題がないように取り繕っているが、その内実は面倒なことを他人に押し付けているだけという社会論が後半では展開されていた。小説だからこそできるラディカルなものだと思いつつ、投票率が50%程度なので、現実のアナロジーとも言えるだろう。
「死ねよ!」という言葉に代表されるように言葉遣いの乱暴さが目についた。しかし、これは単純に乱暴なだけではなく、その手の言葉が「己を守る一つの武器なのだ」という指摘がなされておりハッとした。自分自身もよく言っていたし、ダウンタウンの浜田が昔よく言っていた「死ねばいいのに」にも笑っていた。暴力性が社会で徐々に剥ぎ取られていく中で、その言葉自体を誰もが公に発することが難しい状況となった。しかし、世の中には「死ねよ!」という言葉でしか抗えないほど気分が悪くなることがあり、その暴力性を弱者からも取り上げて、感情の発露を封じてしまうのはどうなんですか?と問うていた。これは小説家という言葉を仕事にしている人だからこその視点だし、暴力的な言葉が世の中に蔓延ることは必ずしも賞賛すべきことではないとわかりつつも、声なきものの声まで奪っていないか?という指摘はもっともだ。
各論についてだーっと書いてしまったが、日本社会の嫌な部分をこれだけ集めてきて濃縮しながら物語として構築するスキルは圧巻である。この小説を読み終えて思い出したのは百田尚樹のクソ発言だ。発言の中身が最悪であることは当然だが、あの発言はSFひいては小説全体に対する侮辱でもあったのだと本著を読むと気付かされる。百田尚樹から仕掛けられたビーフに対するアンサーとして、これ以上のものはないだろう。そして、ラッパーのように現役の小説家でGOATをあげろといわれれば、村田沙耶香の他にいない。それくらいの超大作だった。
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