2024年5月31日金曜日

プレーンソング

プレーンソング/保坂和志

 古本屋で買って積んであったので読んだ。著者の名前をいろんな場面で見聞きしてきたが、著者に影響を受けている作家の作品をたくさん読んでいることに今さら気づいた。何も起こっていないように見える世界も実はかけがいのない瞬間の連続で構成されている。小説を展開させるための要素が不必要に添加されていないプレーンソングならぬプレーンヨーグルトのような小説だった。

 主人公は中村橋に住むサラリーマンで彼の生活と周辺の人物を中心に生活が描かれている。そして猫についての小説でもある。今の時代だと怒られるかもしれないが、野良猫に餌付けする様子が細かく描写されている。猫の一つ一つの挙動がとても生き生きしていて、猫をなんとなく眺めているときの感覚を味わえる。「なんとなく」というのが重要で注視しているわけではなく、いい意味でそこに猫はいるだけ。主人公の友人の以下のラインはそのことをずばり言い表している。

あなたの事情は猫には関係ないから。もともと猫は、猫の見えてない人相手に歩き回ってるわけじゃないから。あなたに猫が見え出してはじめて、猫にもあなたが存在するようになっただけだから。

 主人公のまわりの人物がとても魅力的なのも好きだった。主人公の一人称ではあるものの媒介のような立ち振る舞いをする場面が多く、その目で見た他人の様子をこんなにリアリティをもって描ける点に驚く。特に会社の同僚まわりは既視感があり懐かしい気持ちになった。連絡とったり会おうとは思わないけどたまに思い出す人たち、みたいなふわっとした感覚が呼び起こされた。

 カメラやビデオといった日常を切り取るツールにまつわる描写が多いのも特徴的で、特にビデオを撮るゴンタと主人公のやりとりは本著および著者のスタンスが明示されていた。小説もビデオもある瞬間を切り取ることになるわけだが、その対象は必ずしも分かりやすいものである必要はないということ。たとえば誰かと誰かが会話しているとき、その二人ではなく横で聞いている人にフォーカスするということ。「何気ない日常」と言えば陳腐であるが、しかし眼前に存在するのは日常そのものなのだという話だと思う。ここが好きだった。他の作品も読んでみたい。

生きてるっていうのも大げさだから、『いる』っていうのがわかってくれればいいって

2024年5月29日水曜日

しをかくうま

しをかくうま/九段理江

 芥川賞受賞したタイミングでリリースされたので読んだ。実際に書かれた順序としては芥川賞を受賞した東京都同情塔を執筆する前に本著は書かれている。かなりミニマルな設定で馬に関してこれだけスペクタルに書くことができるのがかっこいいし文学的に新しいことに挑戦する気概をたくさん感じた作品だった。

 時間軸が過去、現在、未来と用意されており、それぞれ馬をテーマに物語が駆動していく。最初に読んで想像するのは手塚治虫の『火の鳥』だ。『火の鳥』は仏教の輪廻転生をテーマとし時代を通じて類似した登場人物が現れる。本著は似たようで微妙に異なる、ニーチェが唱えた永遠回帰を踏襲して物語を構築している。同じことの繰り返しでしかないということは各時間軸における重複しかり、小説の構成として冒頭と終盤に同じ内容が出てくる点も含め複合的に反映されている。(馬の名前にもエターナルリターン!)

 馬の起源から始まり移動手段として人間が馬を使うに至るまでの壮大な過去パートと競馬の実況アナウンサーが競走馬の名前の文字数制限(9→10文字)の変更を起点とする現代パートのギャップがオモシロい。前者は抽象度が高く後者の物語を補完するように馬の概念を改めて語り直している。馬のことをここまで真剣に考えたことがないので、その歴史的な情報量の多さに圧倒された。言われてみれば、誰が最初にあの動物に乗ろうと言い出したのか。しかも移動手段としての馬は割と近過去なのかなど色々と気付かされた。そしてSFめいた展開も含む後者がメインディッシュである。競走馬における交配の最適化を人間と比較することで歪さを浮き彫りにするあたりからしてキレキレ。『東京都同情塔』でも描かれていたような、すべてが計算され偶然性が排除され最適化されていく社会に対する警鐘が多い。また言葉遊びもたくさんあって固有名詞がカタカナ太文字で書かれており「これは10文字?」と気になり出したら最後、前述のエターナルリターンのように意味がかかっているのかなと全部気になってくる。著者自身がヒップホップに造詣が深いことも影響しているのだろうか。タイトルのように死を欠く/詩を書くといったラップ的なダブルミーニングの多用が読んでいて楽しい。イースターエッグとして大量に忍ばせつつ物語の推進にも寄与している。単なる言葉遊びにとどまらないからこそ芥川賞を取ったことを本著でさらによく理解できた。次の作品もどんな仕掛けが用意されているかとても楽しみ。

2024年5月24日金曜日

一私小説書きの日乗 堅忍の章

一私小説書きの日乗 堅忍の章/西村賢太

 今年はずっと西村賢太の日記を読んでいるが、既刊の日記としてはラストの1冊をついに読み終えた。2022年に亡くなっているので、死が近づいていると思うとなんともやるせない気持ちになりつつ、この時点ではいつもと変わりない日乗がそこにあった。

 過去の日記作品と基本的には同じでひたすら原稿進捗、飲み食いの記録となっている。ただ本著から神経痛の影響で原稿を落とす量が増えており身体にガタがきている様子が伺える。病院自体はそこまで好きではないようだし無頼漢で健康に頓着していないイメージがとなんとなくあった。しかし舌の具合が悪くなったときにいろんな病院を巡っているので「太く短く生きればいい」というタイプではなさそう。ゆえに急死という結末は辛いものがある。

 コロナ禍の序盤の2020年の様子が収められているのも貴重で、スマホを持たずネットを積極的に使わない50代独身男性がどのようにコロナと向き合っていたのかが垣間見える。自身でも書いているが決して傍若無人ではなくエチケットを大切にする人であり、コロナを「ただの風邪」などと嘯くことなく恐れながら生活している様子がこれまた意外だった。またマスク入手が難しかったころ、友人がおらずマスクを誰にも譲ってもらうことができないと嘆いている描写が切なかった。日記を読んでいる限りは友人がいないわけではないが、困ったときに助けを求められる深い付き合いの存在がいないのかもしれない。とはいえ仕事周りの人達とは過去の作品と同様に非常に濃い関係を構築している。今の作家でこういったタイプの人はいるのだろうか。この世にいないと思うと寂しい気持ちになるが、亡くなるまでの残りの日記がリリースされて欲しい。

2024年5月22日水曜日

BLASÉ JAPAN LIVE SHOWCASE

 昨年のat area のレーベルライブ以来、二度目の来日公演があるということでBLASÉを見てきた。前回のライブでも本当にタイトなラップを披露していたが今回もバチバチにかましていた。前回と大きく異なるのは日本勢とのコラボレーションだ。オープニングアクトにTade Dustが抜擢されておりライブ尺を考えると実質ツーマンのような形となっていた。

 Tade Dust の1曲目はもちろん ”Chapter 1” この曲の冒頭「I fuck with UK accent」はBLASÉ と彼を繋ぐキーワードである。もともと彼が”We higher”で使った「I got UK accent」への意趣返しだろう。現行のUKのヒップホップをリファレンスにしている2人の相性が最高であることの証左とも言える。ドリル中心のセットリストで新曲が3曲披露された。なかでもD3adStockがproduceかつフックも歌っているガラージスタイルの曲がめちゃくちゃかっこよかった。

 そして肝心のBLASÉは“Peace out”のアカペラから登場。ラップうま!と何回も言いたくなるほどタイトに決めていくのがかっこいい。前回のat areaのライブ時に日本語でMCがなかったことを反省(?)して日本語でMCを繰り広げていて驚いた。「カンペをみてる」と本人は謙遜していたけれどサービス精神たっぷりな様子はタイトなライブとのギャップがあってオモシロい。”Pop it”ではステージから客席に降りてパフォーマンスし会場は一気に爆発。韓国のラッパーたちがこぞってライブが上手いのは踏んでいる場数の多さなのだろうなと改めて感じた。個人的に今回のライブで一番アガったのは新しいEPからの四つ打ちチューンの”Mean”。フックであんまり歌わない引き算のスタイルがめちゃくちゃカッコいいしグルーブがダンスミュージックのそれで最もフロア映えしていた。この曲はouidaehanによるプロダクションとのことで、ここでPop Yoursの件について点が線となった。(JJJのアルバム収録曲”July”はouidaehanのビート)

 またTade Dustを途中で呼び込み、新しいEPに収録されている”Track Suit”に加えて他に2曲も2人で作っているらしく合計3曲一緒にライブで披露していた。 盟友CODECの世界最先端のビートを乗りこなす”Track Suit”はもちろん超絶かっこいいのだけども、他2曲もドラムンベース(D3adStock×CODEC!)、王道ドリルといった感じでかっこよかったので早くリリースされて欲しい。またPop yoursが突如韓国とのコラボレーションを企画、そこに韓国サイドでBLASÉが参加した”YW”も披露されTade Dustと同じ夜猫族に所属するBonberoも登場して盛り上がっていた。ここから粋だったのは彼が「2人のかっこいい曲聞かせてよ」と言って2人の代表曲である“Life goes on”を呼び込んだところ。トップダウンのコラボではなくボトムアップだからこその信頼感がライブから伝わってきた。終盤はSMTM11メドレーで大団円。お約束が過ぎるとは思いつつもSMTMの曲は聴くだけで当時の番組に対する思いが走馬灯のように頭の中を駆け巡るので普通の曲の倍は盛り上がる。特にSMTM苦労人なので、そのこと含めて色々と思い出してしまうのであった。リアリティショーとヒップホップの相性の良さを改めて感じた。

 韓国のヒップホップと日本のヒップホップの近接は今年に入って急激に加速している中で、この2人が見せた相性の良さは本当に素晴らしかった。2人のライブを通しで見ると互いに高めあうようなシナジーが炸裂していた。誰かが用意した枠の中でコラボレーションするのも悪くないがアーティスト同士が互いにリスペクトしあってこそ表現できる景色があることを気づかせてくれるライブだった。Tade DustはInstagramのストーリーを見ている限り他の韓国のラッパーとも友好関係を築いていそうなので今後のリリースが楽しみである。そしてBLASÉのNew EPは死ぬほどかっこいいので繰り返し聞いていきたい。


2024年5月21日火曜日

PLMメソッド

PLMメソッド/タカサカモト

 パートナーの影響で野球は日常にあり幼少期はなんちゃって野球少年だったので野球に対する興味を人並み以上に持ち合わせている。現代の野球好きで見たことない人はいないはずと言っても過言ではないくらい人気であるパ・リーグTVのYoutubeチャンネル。それを運営する会社にまつわる本として本屋で見かけたので読んでみた。運営母体のPLMという会社の歴史や事業形態などについて詳しく解説されており興味深かった。ただ思ったよりもビジネス要素強めなので読む人は選ぶかもしれない。

 パ・リーグTVのYoutubeを運営するだけの会社だとすっかり思いこんでいたが、歴史は長くリーグ再編の激動の頃から存在している会社だということに驚いた。6球団のコンテンツを一括管理することでビジネス上のハードルを下げて全体利益を目指していく姿勢は普段セリーグ周りのサービス内容を見ている身からすると効率的に見える。特に放映権の問題は一括管理しているからこそDAZNで全試合を観戦可能となっていてビジネスとファンのニーズの綱渡りを見事に達成できている。(対象的にセ・リーグは見れない試合がポロポロある)著者と同年代でパ・リーグが絶望的に人気がなかった時代を知っているのでローカルに根付いて各地でファンベースを形成している今は本当にヘルシーだと思う。その背景にはリーグ一丸となってファンの楽しめることは何かを考えてきた結果なんだろうなと読み進めるうちに理解できた。

 パ・リーグTVの歴史、サービスのところは割と薄めで会社の解体新書といったベクトルである。特に社長を筆頭として各社員の紹介にかなりのページ数を割いている。なのでスポーツビジネスのあり方を知りたい読者にとっては格好の良書だと思う。特にスポーツビジネスに新卒で関わるのは難しいから、まずはビジネスマンとしてのストロングポイントを形成しアプローチする必要があるという主張は、スポーツに限らず転職を考える際には必要なマインドセットだろう。そして人の職歴が非常にオモシロいというのも本著で初めて知った。こういう新興企業において華麗な栄転を繰り返し、活躍している方々はキラキラして見えるが、そこにある泥臭い部分もあますことなく書かれているのでリアルに感じた。自力優勝が消滅したローカル球団を細々と応援していきたい。

2024年5月19日日曜日

ブルースだってただの唄

ブルースだってただの唄/藤本和子

 著者の作品がここ数年でたくさんリイシューされており、そのうちの1冊ということで読んだ。アフリカ系アメリカンのエスノグラフィーとして興味深かった。80年代の作品なので時代を感じる側面もあるが当時からまだまだ変わっていない現状も多い。それゆえに当時の記録の持つ意味を強く感じる読書体験だった。

第一章がウィスコンシン州にある刑務所で働く臨床心理医のジュリエットを中心にそこで働くメンバーのエスノグラフィー、メンバーによる討議で、第二章がブレンダという受刑者のストーリー、さらにプラスエピローグといった構成となっている。

 第一章ではアフリカ系アメリカンとしてUSで生きていくことのハードさがさまざまな立場から語られている。特に印象に残っている点は肌の色に関する議論だ。2024年のヒップホップにおける最大のトピックとなったであろうKendrick vs Drakeのビーフにおいてもカラーについてフォーカスされていたが、アフリカ系アメリカンにとって色の濃淡が人生に与える影響の大きさが語られている。それは色が濃い場合にも薄い場合にも両方それぞれにとって当事者にしかわかり得ないなやアジア系の自分には想像つかない感覚だが当事者たちの語りを読むうちに切実さが伝わってきた。当事者同士で濃淡を争うのではなく、肌の色で何かが決まってしまう社会システム自体に声をあげなければならないという話は至極もっともだった。(Kendrickは本来そういう立場だっただけにBeefとはいえカラーに関するラインは残念)また歴史の重要性も語られており、学校教育においてアフリカ系アメリカンの歴史がオミットされることで自分たちが立脚できる過去がない。そうなると今に希望を抱けなくなった瞬間あきらめてしまうという主張は無意識に過去、歴史に立脚できてしまっている自分の立場について振り返らせられた。その反動というか過去にすがれない分、今を大切にするためにコミュニティとしての結束が強いのだろう。

 第二章は夫の浮気相手を殺害して終身刑で服役、そこから恩赦を受けて減刑された女性の壮絶すぎるストーリーが語られている。彼女の生き様自体が1本の映画のように思えるが、こういった人が特別ではない過酷な環境が透けて見える。ドラッグアディクション、家族との関係などストラグルしなければならないことは山積みの中、刑を終えようと懸命に生きている姿はかっこいい。特にこのラインはしびれた。

牢獄を出てもね、それだけですぐに社会復帰がすぐにできるというわけにはいかないのよ。自分のうちなる牢獄を追い出すまでは、復帰が完了したことにならないのだものね。

 エピローグも含めて本著に登場する女性たちは自分たちの人生を勝ち取ろうと必死で生きているのが伝わってくる。タイトルはまさにそれを象徴していて、ブルースのように自分のみじめな立場を歌うだけではなく、ブルースとは「ちがう唄」を歌い上げる。James Brownの『Say It Loud』が引用されているように、それはファンクでありソウルであり今となってはヒップホップなのかもしれない。他の著作も早々に読みたい。

2024年5月15日水曜日

なぜ働いていると本が読めなくなるのか

なぜ働いていると本が読めなくなるのか/ 三宅香帆

 各方面で話題になっており内容が気になったので読んだ。超キャッチーなタイトルだけれども中身はかなりカッチリしていた。労働史と読書史をかけ合わせ、定性的かつ定量的なアプローチにより日本における読書の受け止められ方を分析、さらには読書ができる社会環境の提案にまで至る良書だった。

 労働、読書の歴史を交互に紹介しつつ著者の考察がその間を繋ぐように展開される構成。一番オモシロい点は映画『花束みたいな恋をした』のシーンが起点かつ通底するテーマとなっているところ。シーンの概要としては、主人公が「本は読めないしパズドラしかやる気がしない」と喝破するといったもの。映画を見た人にとって非常に印象的で語りしろのあるシーンである。タイトルのキャッチーさに比べると史実ベースなので結構重たく感じるものの、随所でこのテーマが差し込まれること、また著者の口語調の軽い文体もあいまって読みやすくなっていた。

 まず読んで驚いたのは自己啓発的な概念が最近生まれたものではなく明治の頃からあったということ。しかも自己啓発書を読む人を蔑む視点までセットで存在したなんて信じられない。短期的か長期的はさておき、何か自分にとって役立つ可能性にかけて読書する。そして読書している自分という自意識まで。このあたりの認識が昔から変わっていないことを修養、教養をめぐる一連の歴史や爆売れした円本の話を絡めて分かりやすく解説してくれている。印象論ではなく丁寧に文献にあたっている点に敬意を抱いた。

 社会環境に影響を受けて売れる本が変わってくること、特に本著では労働環境にフォーカスして考察しているわけだが、司馬遼太郎を読んでいた時代から自己啓発書の百花繚乱時代まで労働に対する価値観が与えている影響を強く感じた。「教養さえあれば」「行動の方法さえわかれば」といったように手軽に人生を変えたくて読書する層はいつの時代もマスとして存在することが理解できた。

 SNSを中心にネットを見ることはできるのにどうして本を読めないのか?という論点ではノイズの有無がキーワードになっていた。読書は未知かつ雑多なノイズを含むのに対して、ネットでは必要な情報が選別されておりノイズが含まれないことが多いから。また本を読むより手軽に情報を得られることも影響が大きいだろう。これらに加えて自分に必要な情報に対する偶然性を期待している点もあると思う。読書におけるセレンディピティをもちろん愛しているが、SNSのガチャ的な要素はギャンブルと同じでどうしても反応してしまう。直接関連するわけではないが、以下は今の社会を象徴するような内容だった。

〈インターネット的情報〉は「自己や社会の複雑さに目を向けることのない」ところが安直であると伊藤は指摘する。逆に言えば〈読書的人文知〉には、自己や社会の複雑さに目を向けつつ、歴史性や文脈性を重んじようとする知的な誠実さが存在している。  しかしむしろ、自己や社会の複雑さを考えず、歴史や文脈を重んじないところ――つまり人々の知りたい情報以外が出てこないところ、そのノイズのなさこそに、〈インターネット的情報〉ひいてはひろゆき的ポピュリズムの強さがある。  従来の人文知や教養の本と比較して、インターネットは、ノイズのない情報を私たちに与えてくれる。

読書を通じて積極的にノイズを摂取することで日常と異なる文脈を取り入れる重要性も説かれており、自分自身はまさにそのために読書しているところがあるのでよく理解できた。

 終盤に著者が提案する「半身」の考え方も今の時代にフィットするものだ。若干清貧に近い価値観なので新自由主義者などは納得しづらいだろうけど、社会全体でバッファーをもって生きていく必要性は子育てしているのでよく感じる。全員がパツパツまで追い込まれる必要はなく余裕のある社会になったとき人は本を読めるという主張に大いに納得した。近年では仕事を自らのアイデンティティと捉えてノイズを極力除去し自分のコントーロラブルな範囲でアクションにフォーカス、余暇はあくまで自分の外側にあるものとする価値観が跋扈している。そんな最適化の先に待つ未来において精神的な豊かさは残っているのだろうかとも考えさせられた。これからも読書できる環境を整えていきたい。

2024年5月10日金曜日

マザーズ

マザーズ/金原ひとみ

 エッセイ、小説を立て続けに最近読んだ中でSessionにゲスト出演している回を聞いた。育児について語る場面があり本著が紹介されていたので読んだ。文庫版の解説にもあるように本音は人を傷つけるから蓋をするケースが多い中、もっとも聖域となっている育児において、女性の悲しみや怒りといった真っ直ぐな気持ちがこれでもかと詰め込まれた小説で圧倒された。

 三人の女性を描いた群像劇となっていて、ユカは小説家、ユカの高校の同級生の涼子、ユカと同じ保育園に通う娘を持つモデルの五月が登場する。バラバラの背景を持つ彼女たちがそれぞれ育児する中で直面する現実を細かく描いている。小説ゆえの展開のエグさはあるものの「育児に対する無理解」という通底するテーマは極めて卑近なものだ。登場人物が三人いるからとはいえ文庫で600ページ強というのは特大ボリューム。読む人によってはかなりキツい描写が続くものの、怖いものみたさが勝ってひたすらページをめくっていた。

 子育てする中で当然我が子はかわいく思えるし唯一無二の存在ではある。ただ大人になると思い通りにならないことへの耐性が低くなっており、子どもの無邪気さをどうしても受け止めきれないときがある。この小説では、その無邪気さに対する親の持つダークサイドにフォーカスした育児小説となっている。これが分かりやすい。

私たちは自分の負の感情を子供たちに見せないように、ある種の感性を麻痺させて進化したのだろう。でもシンデレラ城の裏が張りぼてであるように、子どもたちが目にする優しい母親の裏には、ぞっとするようなマイナスの感情が渦巻いているはずだ。

 著者になぞらえやすい小説家の登場人物がいるし、その役目を使ってメタ的展開もふんだんにあるものの、残り二人にも著者の情念がこれでもかと捩じ込まれており筆が走っていることが読んでいて伝わってくる。育児する上でこの日本社会に横たわる女性の不条理を叫びたい、書きたい。たくさんの鬼気迫るシーンもあいまって、育児している当事者に対して悲痛な思いがグサグサと胸に刺さってくる。また小説家という設定を用意することで他の登場人物たちを一方的に追い込んでいくわけではなく自戒の要素が含まれハードな内容のバランスを取っているように感じた。

 読者と比較的立場の近い涼子がワンオペで追い込まれていく描写がとにかく辛く息がつまる。ワンオペは物理的に子どもと1対1で孤立している状況だが、仮にワンオペでなくとも孤立することを本著では手を替え品を替え伝えている。誰もが子どもに対して加害者になりたいわけではないが育児で追い込まれること=圧倒的正しさに責め立てられる辛さ、ミスの許されない辛さをこんなに言語化している小説はないだろう。このラインは育児などに関係なく刺さる。

私たちには弱者に向き合う時、常に暴力の衝動に震えている。私たちには常に、弱者に対する暴力への衝動がある。でも暴力の衝動に身を任せて弱者を叩きのめしても人は大概満たされない。

 本著を読んで最も印象に残ったのは登場人物たちが感情を激昂させる際の表現として読点なしの独白だ。いずれも夫に裏切られた登場人物によるものなのだが読点のない文章が持つ迫力に圧倒された。文字圧とでも言いたくなるような表現。特にユカがブチ切れるシーンはラッパーのファストフローを聞いたときのようにガンフィンガー立てるレベルだった。

 すべてのベースにあるのは男尊女卑がはびこる社会に対する怒り、女性に対する育児・家事の負荷の大きさに対する憤りである。男性の育児休業取得など、近年では目に見えて変わってきている部分もあるがまだまだ対等とはいえない。「母性」という言葉が生むプレッシャーに苦しみ育児をする母親ではなく一人の女性としての尊厳が欲しい、その切なる願いが悲劇を生んでしまうのが辛い。終盤にかけて救いのない展開が続くものの孤独にはならず夫がそばにいることは示唆的だ。二人を繋ぐのは子どもではなく愛なのではないか?そして逆説的にその愛があれば悲劇は起こらないのではないか?と考えさせられた。著者の筆力が最大限発揮されている快作かつ怪作。

シミュレーショニズム

シミュレーショニズム/椹木 野衣

 最後の音楽で話題に出ててオモシロそうだったで読んだ。正直ところどころかなり難しい内容で目が滑ることが多いながらも何となく読み終えることができた。それは音楽やアートがテーマになっているからだと思う。もとは1991年にリリースされたものだが今読んでも刺激的で新鮮な論点がたくさん載っており勉強になった。

 主題となるのはサンプリング/カットアップ/リミックス。前半はアート、後半はハウスミュージックに対して主題からアプローチしていく。アートのチャプターでは美術館の説明書きを読んでいるかのよう。知らない単語が頻出しつつ具体的な作品に対する論考が多い。なので読みにくいもののネットでググりながらだと比較的理解が進んだ。その中でサンプリングに関する記述で納得したのは以下のラインだった。巷ではサンプリングとパクリの違いが議論となるが下記のラインですべて説明される気がする。特に後半の「ブロウ・アップ」がキーワードだ。

サンプリングのアーティストたちは、ある対象に徴候的に潜在するものの、当の対象にあっては非本質的な少数性でしかないものを異化変形してブロウ・アップしてみせるということだ。

 ハウスミュージックのチャプターでは音楽における主題が果たす役割について論考が展開されている。ハウスが新しい音楽として紹介されていることに時代を感じつつ、相対的に権威主義としてのロックが失墜している話が興味深かった。元々ライブがバンドを教会のように崇めるようにみるのとは対照的にクラブでのハウスミュージックは崇める対象が不在である。(DJはいるけど)脱中心化についてつぶさに考察されていた。またブライアン・イーノをめぐるアンビエントに対する話も知らないことばかりで勉強になった。

 最後にまとめのチャプターが用意されており、そこでは上記2つに収まらない議論がそこかしこで転がっている。正直追いきれていない議論が多いものの、白人によるロックのアプロプリエーションからヒップホップの勃興という流れの議論は新鮮だった。またエコノミーからエコロジーへという話は最近のSDGsにも通ずるものであり、ファッションのようにこの手の話も数十年単位で繰り返すのだなと改めて認識した。ここまでのレビューを読んでいただいてわかるように正直全貌がまったく掴めていないのでタイミングで繰り返し読まないといけない本だった。

2024年5月9日木曜日

2024/04 IN MY LIFE Mixtape

 4月は光の速さで過ぎ去っていった気がする。3月よりは新譜のリリースは落ち着いていて比較的じっくり聞いたアルバムが多かった。改めてLEXの魅力に気づいたのも大きな収穫。あとは久しぶりにフェスに行って現場を体感すると色々見えてくるものもあった。その辺は別記事でざっくばらんに書いたので、そちらを読んでみてください。

https://afro108.blogspot.com/2024/04/go-aheadz-day-2.html

 一番のトピックでいえば坂本龍一のNHKのドキュメンタリー。音楽と死があれだけ濃厚に漂う映像作品はなかなか見れないと思う。それをきっかけに坂本龍一のアルバムをよく聞くようになった。ビートレスな曲って昔はアガれないからそんなに聞かなかったけど、家でスピーカーで聞くとイヤホンで聞くのと全然違って音を楽しめるので好きになった。膨大なアーカイブがあるのでじっくり楽しみたいところ。ちなみにジャケは車で通りかかったときに見かけた橋下のグラフィティ。

🍎Apple Music🍎


🥝Spotify🥝