同じ著者が漫才コンビを描いたおもろい以外いらんねんがオモシロかったので読んだ。R-1が芸歴制限を解除したことで再び注目が集まっているピン芸人。その鬱屈した感情や環境が丁寧に描写されており楽しく読んだ。
タイトルどおりピン芸人の高崎犬彦が主人公で彼が脱サラして芸人デビュー、そこから売れっ子になるまでを三人称視点で描写している。器用さを持ち合わせない彼が笑われる側から笑わす側へとなんとか移行しようと悪戦苦闘する姿は自己実現を果たそうとする人間として映るので仕事論とも言える。自分が好きなこと、やりたいことが評価される訳ではない。
脱サラという設定も示唆的だった。アウトサイダーとして憧れた芸人が社会におけるパブリックな存在になってしまったことで品行方正を要求される。またバラエティに出たとしても場の調和を大切にするサラリーマン的な振る舞いを要求されるのであれば一体なぜ芸人になったのか悩むのは当然だ。言われてみればその通りなのだが、この逆説的なアプローチが新鮮だった。
芸人は芸を肥やしに生きる仕事のはずが、その場の空気に合わせた道化のような振る舞いが評価される。ネタ原理主義と売れっ子になることのギャップをどう考えるか?というテーマは前作の『おもろい以外いらんねん』でも取り上げられていたが本作でも向き合っている。ピン芸人の場合はコンビやトリオと違って1人なので、さらに煮詰まっており各芸人の小宇宙同士のぶつかり合いが繰り返し起こる。そこでぶつけ合う主義主張には著者のお笑いに対する批評性を感じる。なかでも「お笑い芸人に象徴させすぎ/背負わせすぎ問題」に意識的だった。芸人はニュース、バラエティ、CMなど、今やエンタメ/非エンタメ問わずそこかしこに入り込んでいる。ポップカルチャーゆえの責任を背負うかどうかの過渡期の今、本著が一種のタイムスタンプとして機能することになるかもしれない。
小説では文字でネタを書いて表現しなければならないので主要人物のネタ形式は漫談となっていた。文字で読んでもオモシロくならないという可能性については、主人公がどちらかといえばスベり芸というポジションとすることで回避していた。あと「ネタは別の世界なんで…」というエクスキューズとして文字の大きさを変えるという見た目のギミックを使い、ネタと小説を区別するのは効果的だった。
以下のラインは日本のピン芸とUSのスタンダップの比較から今の状況を婉曲的に批評しており新たな視点だと感じた。考えないで笑うことに慣れきっているが頭のどこかに留めておきたい。
反射で笑わへんってことは、裏を返せば反射で中傷せえへんってことやろ?きちんとした境い目があったら、演者を守ることになると思うねん。芸人って図太いし、お客さんと一体になって生まれる笑いがめちゃくちゃ気持ちいいのはわかってるけど、それだけじゃない仕組みが必要なんちゃうかな。
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